皆の者、邪馬台国は奈良になかったかもしれない証拠があるということを知っておるか。
実は、魏志倭人伝に書かれておる墓の作りと実際の奈良の墓の作りが全く違うのじゃ…
ここで1つ疑問が起きぬか。邪馬台国は本当に奈良にあったのか…。
今宵は、邪馬台国は本当に奈良にあったのか、AIの手を借りて、そなたと、ひとつずつ確かめてゆく。
邪馬台国は奈良にあったと思うか?それとも、筑紫平野のあたりと思うか?
そなたの考えを、コメントで聞かせてくれぬか。
#邪馬台国 #卑弥呼 #魏志倭人伝 #日本史 #歴史ミステリー
■チャプター
00:00 オープニング
00:36 第1章 奈良の墓の外箱
04:07 第2章 魏の目が比べたもの
08:46 第3章 女王国より北
14:35 第4章 九州の土の下の棺
18:49 第5章 鏡と、奈良の強み
21:44 第6章 判定
■参考にした記録
①『三国志』巻30 烏丸鮮卑東夷伝(倭人・夫餘・韓・東沃沮の段と注)維基文庫
②『三国志』(四庫全書本)魏志巻30 維基文庫
③杜佑『通典』巻185・巻186 維基文庫
④『後漢書』巻85 東夷列伝 維基文庫
⑤奈良県立橿原考古学研究所附属博物館「ホケノ山古墳と箸墓古墳」
⑥文化遺産オンライン「奈良県ホケノ山古墳出土品」「福岡県平原方形周溝墓出土品」
⑦佐賀県 知事臨時記者会見(2023年5月29日)吉野ヶ里遺跡の石棺墓
⑧佐賀県 令和7年度吉野ヶ里遺跡発掘調査の特別公開
⑨国営吉野ヶ里歴史公園『吉野ヶ里遺跡ガイドブック』
⑩クロスロードふくおか「祇園山古墳」
⑪常松幹雄(2013)「北部九州を起点とした弥生時代の墓制」『環日本海文化交流史調査研究集会の記録』
⑫野島永「近畿地方の弥生時代の鉄器について」『京都府埋蔵文化財論集』第3集
⑬国立歴史民俗博物館「よくあるご質問」Q3
⑭国史大辞典「邪馬台国」(佐伯有清)ジャパンナレッジ
⑮改訂新版 世界大百科事典「粘土槨」コトバンク
⑯Wikipedia「祇園山古墳」「箸墓古墳」「ホケノ山古墳」「平原遺跡」「卑弥呼」「邪馬台国」
最後まで見てくれた者よ、礼を言うぞ。
次は、壇ノ浦で滅んだはずの平家の行方を裁く。海に沈んだ知盛の子は、十年あまりのち、どこに潜んでおったのか。
▶「壇ノ浦のその後」の回は、近日公開じゃ。
見逃したくなければ、今のうちにチャンネル登録をしておくがよい。
さて、そなたの考察も聞かせてくれぬか。
邪馬台国は「奈良にあった」か、それとも「筑紫平野のあたりにあった」か。
コメントに一言でよい、書き残してゆけ。
邪馬台国は福岡の山門にありました
徳島でござろう
筑紫平野だと思います。三角縁神獣鏡は、国産か中国製かわかってません。
箸墓近辺で遺跡が見つかってますが、軍事的な色彩が、無さすぎて、魏志倭人伝の記述から離れていると思います。
山門郡じゃないかな。
殉葬百余人が出てこないことには箸墓も九州も卑弥呼の墓を決めれない、どちらも魏志倭人伝の旅程の女王国ではない
そして本来の場所も九州も畿内もヤマト国であって遷都に過ぎない
百余歩を九州畿内に当てる場合短里を用いるので通常の1里435mではなく70mになる魏の物差しが140mであれば相応に小さくなるべきだ
1歩を30センチ100歩なら30mといったところか?100人葬るならそれなりの大きさは必要だがそのために大きくなったと考えるべき
戦争で負けているのだから、国乱れ台与が来て九州に遷都した、地理が変わったため台与は使いに地名を伝えさせた
邪馬台国は大月子国に対抗するために陳寿が妄想でつくりだした国なのでどこにもありません
ホケノ山にも外箱は無いよ。底板がないから。
奴卑104人を殉葬する・・・野蛮だな🥶
鏡で言うと日田から出た曹操の鏡と同系統のやつが強すぎるな。
100枚揃えるとして全て同じ物とするとどうしてもそこそこ手間暇かからない普及品になってしまう、高級品とその他のランク付けはあったはずです。
狗奴国で言うと熊本中部以南が状況証拠としては強すぎですね。
熊本北部の白川辺りで北部九州系の土器と熊本中部の免田式土器の境があり、紛争の跡が色濃くある。
狗古知卑呼も狗右知卑呼と書かれるパターンもあり、菊地ではなく免田式土器の中心である熊本南部の河内とすればスッキリする。
畿内説側だとまあ東海説が有名だけど、欠史八代の後半から崇神天皇まで歴代で東海から嫁取りしているのであり得ない。
倭人伝の記述を時系列に並べると、
張政の訪倭→卑弥呼の死→墓の造築→男王即位→倭国内乱→壹與即位→張政の帰国
となります。箸墓の場合、作るのに8~15年はかかったと見られますから、張政は次の男王が即位する前に帯方郡に帰っちゃってますね。
卑弥呼の墓を紹介します。
宮崎市の瓜生野に、魏の径100歩(145m)の前方後円墳型の弥生式の笠置山墳丘墓があります。径とは、墓域全体を含んだ径で円墳だけでなく墳丘墓も含みます。この横に100余基の殉葬墓があります。殯の跡もあります。しかしこれは道路工事で壊されましたが、日高祥さんという方が測量し、記録として残してくれていますので、その全貌が分ります。魏志倭人伝の記述通り殉葬墓があるのは、日本全国でここだけです。この殉葬墓には女性も埋められていたのでしょうか、全ての土壙墓にナイフ状の刀子も埋められ、女性が武装していた南九州の様子が分ります。出土する土器は、庄内式土器ですので卑弥呼の時代の墓と考えて良いでしょう。
この瓜生野は、卑弥呼が生れた所です。自分の故郷に埋葬されたかったのでしょう。
ここの卑弥呼と思われる墓は、恐らく石棺墓であったと思われます。後にそこだけが移送されたと思われます。
殉葬墓には武人もほうむられていました。一つの墓を紹介しますと、2.78m(l)*1.20m(w),*1.10m(h)swの大きさです。下に粘土かくが敷かれ、右手に鉄剣を持ち弓と矢を持った武人が南向きにして埋葬されていました。鉄鏃などがあり階級章と思われる鉄の飾りや祭器土器もありました。シラスや粘土・赤土で丁寧に埋葬されていました。
水行10日は抜きにして、女王国での陸行について述べます。決して誇大な数字ではなく、実数です。
出発は末羅国です。ここから奴国まで6百里ですので、6日とします。次に奴国から邪馬台国の横の斯馬国まで20日ですので、合計26日かかります。古代中国では往亡(おうもう)日があり、1月に1日凶の日とされていて旅行が禁止されていました。他に方位や星の位置などでも凶の日がありましたので、この26日は1月(30日)として良いでしょう。不弥国は行き止まりですのでに日数からは除きます。(糸島式祭祀用土器の分布から、狗邪韓国、対馬国、壱岐国(一大国)、末羅、伊都国、奴国、不弥国が大人国として、海洋族の国々でした。)
奴国からこの20ヶ国を列記すると、烏奴国(大野郷)、支惟国(基肄郷)、巴利国(上座郡の杷伎駅)、躬臣国(玖珠郡)、邪馬国(八女郡)、鬼奴国(玉名市の玉杵名)、為吾国(山鹿郡)、鬼国(菊池郡)、華奴蘇奴国(阿蘇町、金の蘇奴)、呼邑国(南郷谷)、蘇奴国(草部の郷)、対蘇国(対岸の馬見原)、姐奴国(知舗郷、椎屋)、不呼国(英多郷岡富)、好古都国(臼杵郡刈田郷)、弥奴国(美々津の美祢駅)、都支国(那珂郡田島郷)、伊邪国(宮崎市、橘の小戸)、巳百支国(野尻町の岩瀬)、斯馬国(都城市、嶋津駅)この横に邪馬台国がありました。
この地域をプロットすると分るのですが、アクセント的に崩壊アクセント地域となっており、女王国が君臨しこれらの地域での人に行き来が増えたため、何かのアクセント地帯であったものが、崩壊アクセントあるいは曖昧アクセント地域となっていたことが分ります。アクセントは弥生時代の勢力分布を知る上での、有力な手がかりです。
まだまだありますが、魏使倭人伝は非常に正確に描かれています。
箸墓古墳は土師墓と言われ、3世紀末築造の大和姫が被葬者です。248年没した卑弥呼(豊玉姫)の墓は筑紫平野です。ヤマトに足を踏み入れたことはありません。
三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏から貰った鏡、但馬守がヤマトで作らせた鏡、武内宿禰がヤマトで使節記念に作らせた鏡、ヤマト豪族たちが真似て作らせた大量の鏡がある。