伊都国の謎…!!!魏志倭人伝にも登場する謎の国!【ゆっくり解説 】

伊都国の謎...!!!魏志倭人伝にも登場する謎の国!【ゆっくり解説 】



「やばい古代史」では、古代史に焦点を当てて歴史を紐解いていく番組です。
我々はどこから来たのか。その鍵を古代史から読み解きます。

※この動画は、過去に起こった出来事をわかりやすく伝えることを目的としています。視聴者に衝撃を与えるような目的はございせん。
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22 comments
  1. 糸島には、神功皇后が仲哀天皇の棺を安置したといわれる古墳もあって、古代の日本の歴史にゆかりがある場所ですよね。

  2. オイオイいい加減にしてくれ、
    地図が違うだろうに!
    どこに印をつけているんだよ!👎

  3. 魏志倭人伝の文章をよく読んでみて欲しいです。他の部分には「行」とか「渡」と言う動詞が有るのに、伊都国から奴国の部分には動詞が無いでしょう?漢文をよく勉強した方が良いと思います。そうしないと伊都国1000戸が奴国2万戸に対して小さすぎると思いませんか?対馬や壱岐及び松浦に対しても小さいでしょう?

  4. 東南に500里と言いながら、東北東を指し示す。ハナから糸島=伊都国に
    比定している。方向音痴ですか?又、最初に踏み出した一歩は当に東南方向
    やったが、その道路はその後、糸島方面に湾曲してたから😛とか地軸が傾い
    てるからとか😛の、屁理屈重ねて糸島に持っていく。素直に東南500里行
    って、当時の有明海沿岸の集落=伊都国より、水行10日して女王国の境界が
    八代辺り。マツラまで1万里(クヤ韓国7000+対馬1000+壱岐1000+マツラ1000)
    。後、伊都国500里+八代1500里で計12000里。ここで云う1里=55m~67.5m。
    1里=55mとすると500里=27.5km(現松浦川河口~牛津)。1500里=82.5km
    (牛津~八代)で概略合致しますよ。1里=4kmと現在尺にした説を言われる人
    は、対馬~壱岐の1,000余里をどのように説明しますか?余談ですが、1里=55m
    の「55」です。100m÷55=1.818m=1間。1間×1間=1坪。300坪=1反と、
    尺貫法の尺の元にもなっていますよ。1尺=1間÷6ですよ。あくまでも1説です。

  5. YouTubeを拝見していて、「伊都國」や「邪馬壹国」について少し考えがまとまりましたので、コメントいたします。

    「邪馬壹国」が解明されない原因として「都」の解釈にあると思います。「都」の意味としては、①人の集まる大きな町や、国の中心を表すや、②取りまとめる、統率するという意味があります。例えば古い官名で「僧都(そうず)」というものがありますが、ここで使用される「都」は「ず(づ)」と発音され、僧侶を統括するものと解されています。このように「都」は古い時代には「つ」と発音され、取りまとめるや統率するを意味していたと考えられます。

     これらのことから、魏志倭人伝の中の「伊都國」や「南至邪馬壹國 女王之所都」の「都」は、②の意味で使用され、当時は古い発音の呉音である「つ」や「づ」で発音されていたと思われます。意味として「伊都國」は「いつこく」と発音され、「委(倭)津国」(いつこく)と考えられ、委(倭)国の港がある国と解釈されていたと推察されます。それは「郡使往來常所駐」の表記の「伊都國」に郡使が往来し常に駐在していたとあります。後の時代の博多湾岸にあった「鴻臚館」のような外交施設が設けられており、「伊都國」には「一大率」が置かれて諸国を検察しています。「傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯」と書かれているように、女王に届けられる文書や賜り物を厳重に管理保管していたことを伺い知ることができます。このように「伊都國」は人や情報や物が集まる所で、それらを統率する港があったため、名付けられた国名ではないでしょうか。

     「女王之所都」の「都」も、女王が首都とする所ではなく、女王が統率(連合)する所と解釈した方が適切だと思われます。「女王國」は博多湾を取り囲む「伊都國」「奴國」「不彌國」「斯馬國」で構成された連合国を示し、「東南至奴國百里」「東行至不彌國百里」は「女王國」内の位置関係も表していると考えられます。「邪馬壹国」は里程で示された7か国と「其餘旁國」21か国を含めた大連合国であったと推察されます。「邪馬壹国」を首都がある独立した国と考えて来たことに無理があったのではないでしょうか。

  6. 伊都国の三雲南小路王墓からは、日本で唯一、雷の紋章の鏡も2枚出土しています。

  7. 伊都国は糸島ではありません。邪馬台国時代の糸島は伊蘇国(いそ国)です。また、この時代の伊都国はいと国とは言われてなくて伊都国と書いていつ国と言われてます。また、宗像市の松浦潟がまつろ国で距離は対馬壱岐が76,5km(千里)で壱岐から76,5km(千里)は宗像市松浦潟です。そこから東南500里(38km)は直方でそこがいつ国(伊都国)になります。

  8. 「代々王有り」じゃなく「世の王有り」なんじゃないかな?倭国大乱もあって隣国でもなく、卑弥呼の前は女王でもなかったのに、代々従属してたってのはおかしくないかな?女王国連合に属する各国の王が伊都国に集まり政治をしていたと考える方が自然。総代表は邪馬台国でも政治の中心地は伊都国であったと考える方が色々しっくりくる。

  9. 魏志倭人伝には、「台」ではなく「一」の難しい漢字で、邪馬イチ国と記載されている。古代のスターを「大和」に持っていきたい心情が目を曇らせている

  10. 曽祖母の実家の敷地内に一貴山銚子塚古墳がありました。もしかしたらご先祖様のお墓?^_^

  11. 魏志倭人伝の伊都國の記述が、客観的事実の証明となってしまっている事に言及したく、
    以下にコメントいたします。

    邪馬台国時代の魏志倭人伝の記述は、
    日本の史書に邪馬台国関連の記述はない為、
    邪馬台国時代と日本の史書が登場する歴史時代との繋がりは不明だとされており、

    支那の歴史書の魏志倭人伝や魏略の記述は、
    日本の史書や歴史と参照し合えない
    孤立したテキストと考えられています。
    が、

    そうではない事、孤立していない事
    繋がりが有ることを確率的に証明したい。

    魏志倭人伝では、伊都國に官 爾支がおり、また、伊都國には女王国以北を監察する一大率という組織があり、諸國は恐れ敬っている。
    また、航海の際、持衰が随行し厳しく監視されており、航海が不首尾なら祭祀的・宗教的価値観から殺される事も有る掟がある。

    その、
    伊都國の爾支と一大率ならびに持衰の関係から、
    物部氏の祖先を記述している事が導かれます。

    なぜなら、
    爾支・一大率・持衰の関係、
    並びにその役割は、現代で言えば、
    警察権・検察権と、
    祭祀的・宗教的関わりのマージといえます。

    それは、大和朝廷での物部氏の役割そのものであり、

    そのため、邪馬台国時代に、既にそのプロトタイプがあった事が強く示唆されます。

    曹魏や西晋が、未来の大和朝廷の物部氏や、その役割を知る筈が無いし、

    大和朝廷の物部氏が祖先をニギハヤヒとしていることも、曹魏なり西晋は未来のことなので知る訳が無い。

    簡単なモデルで説明すると、
    抽象概念となるが
    極めて多い面を持つサイコロが2つあり、2個のサイコロ共に3回続けて任意の面(数)が出る確率と同じと言える。

    ①爾支 ↔ニギハヤヒ(名前の一致)
         AND
    ②一大率↔警察権・検察権(役割の一致 その1)
         AND
    ③持衰から↔祭祀的・宗教的関わり(役割の一致 その2)

    つまり、物事が一致する事象の発生確率として思考すると、
    確率の最大値/上限値(必然に起きる事)の数を1とするなら、

    AND(〜で且つ)で、物事が一致する事象が3重であり、3回続けて
    2つの超多面体(巨大数のサイコロ)の同じ任意の面(数)が出る事なので

    1÷(①の確率 ✕ ②の確率 ✕ ③の確率)

    で表せます。
    そして、その発生確率は極小となり

    偶然の一致の確率は、極めて有り得ないと言えます。

    つまり、それは逆説的に、
    当事者にしか知り得ない秘密の暴露となっており、
    それらの記述の客観的証明となってしまっています。

    言及しなかった他の例として、
    投馬國の官 彌彌も天忍穂耳尊と名前から同一人物の可能性が考えられますが、
    物事が一致する事象が、幾つか重なっていない事象は、確度が下がるので、個人的には決定的とまでは言いづらいと考え採用しなかったです。

    何故なら、
    物事が一致する事象が3重のモノと、物事が一致する事象が重ならない(一重)のモノでは、発生確率は3重の方が、
    このような案件では、控えめに見積もっても1/10000以下であり、逆に言えば1万倍以上そのような偶然の一致はあり得ないとも言えるからです。

    最後まで読んで下さりありがとうございました。
    長文となり失礼致しました。

  12. 私は何故、福岡に行くのにわざわざ佐賀県の松浦に上陸する必要があるのか全く理解出来ません。
    末廬国は松浦ではないと思います。
    そもそも魏志倭人伝に(女王国の東に海あり。その先に他の倭人の国あり。)と書かれています。
    つまり、西九州は該当しませんよね。
    北九州市から東の豊前、豊後、日向しか該当しません。
    陸路で行ったならば、北九州市の洞海湾に末廬国があったと考えるのが自然です。
    (若松ではないでしょうか?)
    そこから東南に行った先に北九州市小倉北区到津があります。
    伊都国はここだと思います。
    到津=いとうず
    いとの津です。
    邪馬台国はここから南の香春、田川、直方、飯塚〜豊前〜中津〜宇佐〜日田などです。
    豊前と筑豊ですね。

  13. イザナギの十束剣の別名の伊都之尾羽張(いつのおはばり)の中に尾張が入っているので、伊都国にいた方々が後に尾張氏になったのかな?と思ってます。🗡️

    熱田神宮の宝物館にはたくさん宝剣が飾ってありました。🗡️🗡️🗡️🗡️🗡️

    伊→伊予二名島、伊勢、伊豆など
    関係がありそうです。💡

  14. 伊都国の謎

    (音形読みからの独断解釈です)

    九州島内「倭国」内の国々(魏志倭人伝内の国数を引用しています)

    九州島内九州人国は、「島原湾、橘湾、大村湾、佐世保湾」面内の十四ヶ国です。

    中国渡来人国の「邪馬壱国」倭王国同盟は、「有明海」に面五ヶ国と「博多湾」内の「能古島、志賀島、玄界島」からなる「不弥国(大陸との交易の為の飛び地国)」を含めて六ヶ国です。

    「狗邪韓国渡来人国」が「博多湾」面を「奴国」が、「唐津湾」面を「伊都国、末盧国」が「伊万里湾、北九十九島」面領土を「斯馬国」が領土にしています。

    「邪馬壱国」の東面に並んだ「烏奴国、躬臣国」は、「奴国、伊都国、末盧国」の属国となった「狗邪韓国渡来人国」同盟国ですが、「邪馬壱国」内にも同盟体制となる国です。

    しがって、九州人国十四ヶ国 + 邪馬壱国同盟国六ヶ国 + 狗邪韓国渡来人国同盟国六ヶ国 = 26ヶ国 + 倭国に属さない「狗奴国」で27ヶ国。

    ここに、「壱岐国、対馬国、(韓半島内の)狗邪韓国」の三ヶ国を合計すると三十ヶ国になります。

    「狗邪韓国渡来人国」同盟の「伊都国」は、弥生時代に島であった「糸島」を国内にしていました。そして、「邪馬壱国」倭王国から倭王権を委譲された「卑弥呼、斯馬国・伊万里地区王」が「糸島」内に駐屯して、倭王権の執行をおこなっていました。

    ※「倭国」倭王権の初期誕生は、九州人国盟主王の「弥奴国王、好古都国王」と「狗邪韓国渡来人国」盟主王の「斯馬国・北九十九島地区王」の統一連合です。

    しかし、後年「倭国」を征服した「徐福船団」の「徐福、狗邪韓国王」は、独自の統一王権を作らずに「倭国」誕生時の三ヶ国盟主王連合が作った倭国倭王権を代行して「倭国」を治めました

    また、「徐福、狗邪韓国王」が代行した倭国倭王権は、「徐福が卑弥呼」に委譲し「狗邪韓国王」が「狗邪韓国渡来人国」の盟主王である「斯馬国・伊万里地区王」に委譲しました。

    そして、「卑弥呼と斯馬国・伊万里湾地区王」が「伊都国の糸島」内に駐屯して倭王権を執行しています。

    (糸島に入った斯馬国・伊万里地区王は、三官…爾支、泄謨觚、柄渠觚 の倭王権組織を組織して 卑弥呼 の倭王権執行も左右しました)

    下記は、『古事記・神世七代』です。

    (卑弥呼と伊都国王・末盧国、卑弥呼と烏奴国、躬臣国の倭王権交代が読み取れます。国名は、神名を音形読みした結果の国名です)

    1,国之常立神(クニノトコタチノカミ=奴国王)。

    2,豊雲野神(トヨクモノノカミ=卑弥呼)。

    3,宇比地邇神(ウヒヂニノカミ=卑弥呼)、

    次に(副倭王)妹須比智邇神(イモスヒヂニノカミ=伊都国王、末盧国)二神。

    4,次に角杙神(ツノグヒノカミ=伊都国王、末盧国)、

    次に(副倭王)妹活杙神(イモイクグイノカミ=卑弥呼)二柱。

    5,次に意富斗能地神(オホトノジノカミ=卑弥呼)

    次に(副倭王)妹大斗乃辨神(イモオホトノベノカミ=烏奴国王、躬臣国王)二神。

    6,次に於母陀流神(オモダルノカミ=烏奴国王、躬臣国王)、

    次に(副倭王)妹阿夜訶志古泥神(イモアヤカシコネノカミ=卑弥呼)二神。

    7、次に伊邪那岐神(狗奴国王)、

    次に妹伊邪那美神(邪馬壱国を後継した台与を、従属連合して狗奴国王に連合した倭国倭王権者)。

    7番目に「伊耶那岐命、伊邪那美命」が書かれていますから6番目の於母陀流神(烏奴国、躬臣国)と(副倭王)妹阿夜訶志古泥神(卑弥呼)二神。

    の時代に「邪馬壱国」が「狗奴国王」体制との戦いに破れて消滅したことになります。

    上記は、西暦57年に「奴国王」が「後漢」に遣いしてから「邪馬壱国」と「卑弥呼」が滅んだ西暦248年の間の出来事と理解します。この間を「古事記」が

    “ ここに天神もろもろの命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命の、二柱の神に、この多陀用幣流國を修理固め成せと詔のり ”と表現しています

    「魏志倭人伝」時代の「伊都国」の状況

    〇筑紫平野の「邪馬壱国」と「狗奴国王」体制の戦いに、玄海灘面の「奴国、伊都国、末盧国、斯馬国・伊万里湾地区」は、直接参加せずに自己防衛に徹しています

    ※「魏志倭人伝」より … (筑紫平野の)「女王国より以北(玄海灘面)は、特に一大率を置き、検察す。諸国はこれを畏憚す。常に伊都国に治す。国中における刺史の如くあり。」

    ※(糸島内の卑弥呼に対し)男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す

    上記記載は、「卑弥呼」の自主行動ではなく、拘束されて「宮室、楼観の城柵(糸島内の建造物)」内にいるからです。

    「神世七代」の6,次に於母陀流神(オモダルノカミ=烏奴国、躬臣国)。

    次に(副倭王)妹阿夜訶志古泥神(イモアヤカシコネノカミ=卑弥呼)二神。

    と「卑弥呼」が(妹、副倭王)と表現されるのは、「卑弥呼」は力を発揮できない所に拘束隔離されているからです。

    〇「邪馬壱国」の倭王権を委譲された三官(爾支、泄謨觚、柄渠觚)が「卑弥呼」を「宮室、楼観の城柵」内に監禁して「卑弥呼」の倭王権を「烏奴国、躬臣国」に代行させて「倭国」を執行していたからです。

    「邪馬壱国」を征服した「狗奴国王」体制が新たな「倭国」統一権を誕生させた際に、どんな懲罰があるかの心配のため「狗邪韓国渡来人国」同盟国は保身になっていると思います。

    (上記は邪馬台国・倭国三十国の比定内 音形読み によります)

  15. 魏志倭人伝の伊都国は糸島半島にあった国です。
     紀元57年に漢の光武帝から金印を授与された方は第3代安寧天皇の皇子の常根津毘古命です。
     常根津毘古命は紀元20年に生まれ66年に47歳で崩御され糸島半島の一貴山銚子塚古墳に葬られました。
     授与された金印のには漢委奴国王印の刻印と常根津毘古命の名前が明瞭に刻印されています。

  16. 伊都国はおそらく蚕で糸を生産し絹織物を主な産業としたんだろうね。
    だから卑弥呼が魏に織物を献上した事が魏志倭人伝に出ているのだろう。

  17. 最近ですが、光武帝からもらった有名な「漢委奴国王」の金印の 「委奴国」🟰「伊都国」へと考えが変わってきました。
    後漢時代 委奴国
    倭人伝 伊都国
    現代 糸島

    特に 平原遺跡の 46cmの大鏡は まさに 御皇室の 三種の神器 八咫の鏡 に匹敵と考えます。

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