の続きです。
江戸時代以来、石田三成評価の基調は「奸臣」でした。
豊臣秀吉の威光を笠に着て横暴にふるまった悪人、というイメージです。
これは当然のことでした。
江戸幕府の創設者は徳川家康であり、
三成は家康の天下取りを阻止しようとした人物ですから、
家康が正義で三成は悪という評価にならざるを得なかったのです。
こうしたイメージの転換に大きく寄与したのが、
司馬遼太郎の歴史小説『関ヶ原』です。
司馬は三成を豊臣の忠臣と位置付けましたが、
一方で潔癖すぎて清濁併せ吞む度量がなく、
生真面目すぎて臨機応変の才に乏しい人物として描いています。
しかし司馬の見方も、
三成が「敗者」になったという結果から逆算して、
三成を不当に貶めているように思えます。
三成は本当に愚将、凡将だったのか、
近年、急速に進んだ関ヶ原研究の最新成果を踏まえて、
3回にわたって再検証していく予定でしたが、
1回増やして全4回とします。
第4回(完結編)は、
関ヶ原合戦を扱います。
0:46 配信開始
20:12 メッケル伝説について白峰旬さんが論文を書かれていましたのでご紹介します⇒「メッケル少佐の関ヶ原視察とメッケル伝説」
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg05206.pdf?file_id=10353
39:34 毛利家を取り潰して(改易)吉川広家に一、二ヶ国を与えるという徳川家康の方針を聞いた吉川広家が福島正則・黒田長政を通じて、あくまでも毛利家の存続を求めた結果、毛利家が防長二ヶ国の大名として存続したという話は、長州藩(毛利家)支藩の岩国藩(吉川家)が編纂した『吉川家譜』や『吉川家什書』に収録されている三通の文書(①慶長五年十月二日吉川広家宛て黒田長政起請文、②慶長五年十月三日吉川広家宛て黒田長政書状、➂慶長五年十月三日福島正則・黒田長政宛て吉川広家起請文)に基づきますが、この三通の文書は原本が吉川家・黒田家に現存しておらず、毛利家本宗家が編纂した『毛利三代実録考証』にも収録されていません。光成準治氏は「このような史料の残存状況は、問題となる三通の文書が偽文書である可能性を示している。吉川家にとって、自らが大名となることを拒絶してまで毛利本宗家の危機を救ったとする内容を偽作する動機は十分にある」と指摘しています(『関ヶ原前夜』角川文庫)
47:25 『黒田家譜』には、黒田長政は「(秀秋は)事前に内応を堅く約束したので、必ず裏切るはずだ」と思い、使者を徳川家康のところに派遣してその旨を伝えさせたとあります。失礼しました。
57:58 一般的に小早川秀秋は慶長三年初頭の蔚山倭城救援において自ら前線で戦ったため、軽挙を豊臣秀吉に責められ、石田三成の讒言もあって越前に転封となったと言われています。ただし光成準治氏は、秀秋の失態・三成の讒言は軍記物など後世の創作と主張しています。
1:02:05 「信長の時代のように甘く考えれば処罰も辞さず。「龍野神社旧蔵文書」から見つかり、21日、たつの市立龍野歴史文化資料館(兵庫県)などが発表した羽柴(豊臣)秀吉による家臣脇坂安治(やすはる)宛ての33通の書状。天下取りを目指す精力的な進攻を記す一方で、家臣の動きの細部に目を配るなど、厳格な統治者としての一面がうかがえる。」
https://www.kobe-np.co.jp/news/backnumber/201601/0011512981.shtml
1:05:24 休憩
1:11:53 再開
1:49:39 「また、序盤における西軍の善戦は明記されていないものの、一進一退の攻防が続いた後、秀秋の寝返りによって形勢が動いたことを記した当事者の覚書も存在する。島津惟新は後年に次のように記している(『惟新公御自記』)。
[史料13] 慶長五年庚子九月十五日、美濃国関ヶ原において合戦あり。数時間、戦ったが未だ勝負を決せざるところ、筑前中納言(秀秋)が戦場で野心を起こしたため、味方は敗北し、伊吹山に逃げ登った。
当時十四歳で島津惟新に従っていた神戸久五郎が記した覚書も「東国衆は大谷刑部(吉継)殿の陣に攻め掛かり、六七度の合戦がおこなわれたところに、上の山から筑前中納言は白旗を挿させた軍勢を率いて参戦し、大谷殿の兵を一人も残らず討ち取った」と、部隊の衝突が六、七回あった後に秀秋の寝返りがあったとする。(水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』)
赤坂で宴会会議・・・まるで現代の政治家や官僚みたいな
赤坂の軍議、家康は三方ヶ原の信玄から学んだのかなと思っちゃうね。
中入りってあんまり成功率高くないイメージだけどここでは的中しているんだよな。
小早川秀秋って親族の木下家杉原家が浅野家と仲良し。
越前転封でほぼ毛利家とは切れてるし、元から東軍だったんだろうなあ。
サムネで使われている石田三成の肖像画、「岸勝」というおそらく岸派の絵師というのは分かったのですが、岸派にそんな絵師いたっけ?と思い、富山市佐藤記念美術館編集発行『特別展 岸駒と岸派の絵画 ―岸駒の後援者 木津家伝来の文物を中心に―』2021年収録の家系図見たら、岸竹堂の娘のようですね。竹堂の娘も絵師だったのは初めて知りました。
第2部って旗本では見れないのね😢
家康対三成なら19万石の三成が250万石の家康に勝てるわけがない。
豊臣対徳川のかたちになってないから負けたのである。