皆さん飛行機が墜落する確率ってご存知 ですかアメリカの国家安全運輸委員会の 調査によると飛行機に乗って墜落する確率 は 0.00%だそうですこれはあくまで全 世界の航空会社の平均値ですがこれは 分かりやすく言うと80歳になるまで ずっと飛行機に乗っていたら 0.02%の確率で事故に遭遇するそう ですそして事故の原因で最も多いのは パイロットの操縦ミスで続い整備不良変更 となっていますそしてこれらの他に人類的 な激が原因の場合も少なからずあります 今回ご紹介する事故は本当の原因が語られ ていない可能性があるそんな事故 です全国の皆さんごきげんパン田紳士です 本日は事件性を匂わせる証言が多くあり ながら事故のままで処理されている日光 123便墜落事故についてお話ししていき たいと思います今回は様々な角度からこの 事故を見るために事故の概要を説明した後 に生存者の方の証言事故現場で看護に あたった看護師の方の証言事故現場にいた カメラマンの方の証言をご紹介しそれぞれ の視点から見た事故当日の様子を見た後に 事故の確信に迫っていきたいと思います それでは早速ゴーゴーゴー1985年8月 12日午後6時56分30秒東京羽田空港 発大阪伊空港行きの同車定期便だった JAL123便が群馬県田野郡上野村の 高原山の骨へ墜落しました事故原因は飛行 中に機体工部の圧力核壁が破損垂直美力と 補助動力装置が脱落し油圧操縦システムも 前走室操縦不能に陥り瞑想飛行の末墜落し たと発表されていますなおこの機体は 1978年に伊丹空港で起きた尻持ち事故 と言われる着陸トラブルを起こした機体で ありその後この機体の製造会社である米国 ボーイング車が実施した修理が不十分だっ たことが事故の原因とされていますこの 事故では乗客上員524名のうち520名 が死亡し日本航空の歴史上最悪そして単独 機で世界市場最悪の死者数を出す航空機 墜落事故となってしまいますここからは 奇跡の生還を遂げた4名のうちの1人川上 敬子さんの証言をお伝えしますけい子さん は家族4人で北海道旅行の帰りに大阪の 親戚宅によるため羽田に戻りキャンセル 待ちの後123便に登場し被害に遭われ ました敬子さんは事故当時12歳でした あの日けい子さんは一体何を見たのかその 証言をお聞きくださいそれではどうぞ突然 トイレの辺からビリッと音がしてその後 パーンという音と一緒に天井が吹っ飛んだ 斜め後ろの1m四方の穴が開き白いものが そこからと前に出てきた口の中が痛くなっ たけどしばらくしたらしびれもなくなった その後後ろの穴からプロペラみたいのが ゆっっくり回っているのが見えたそして 酸素マスクが落ちてきたのでけたお父さん が稽古頭を下げろと叫んで私と妹の咲子 それにお母さんの3人を両手で抱き抱えて 守ってくれたそして急行貸していきました 落ちる時お父さん苦しいと言うとお父さん はナイフを使ってベルトを切れと言った気 がつくと真っ暗で脂臭い匂いがした子供の 鳴き声などがざわざわ聞こえていた手や足 を動かしてみると足の下には空間があって ブラブラ動かせた自分の体中を触ってみて もみんなついており生きていると思った みんなはどうなったのかと思い叫ぶと父と 咲子が返事をした母はは答えなかった父に 手や足を動かしてみと言われて足を バタバタさせると靴が脱げそうになり左手 を左足の方に伸ばした足首がぬるぬるして いて血だなと思った父は私の右脇から下 半身に乗っていた手足は動いても体は動か ない助けてと父に言うとお父ちゃんも挟ま れて身動きできない助けてやりたいけど どうしようもないわなと言われた父が動く とお腹が死ぬほど苦しかったお父ちゃん お父ちゃん苦しい苦しいすごく痛いと言っ ているうち父はそのまま動かなくなった妹 の咲子に聞くとお母ちゃんは冷たい死ん でるわお父ちゃんも死んでると答えた左手 を伸ばして触ってみるとやはり冷たかった その後咲子と2人で喋った咲子は苦しい 苦しいと言った足で踏んでみたら楽になる かも知らんからやってみと言うと妹の足の 音がした妹はそれでも苦しい苦しいみんな 助けに来てくれるのかなというので大丈夫 大丈夫お父ちゃんもお母ちゃんも死んで しまったみたいだけど似に帰ったらおばあ ちゃんとお兄ちゃんと4人で頑張って くらそうと答えた突然咲子がゲホゲホと 吐くような声を出し喋らなくなった1人に なってしまったと思いその後朝まで意識が 消えたり戻ったりした暗闇の中 ヘリコプターの音が聞こえてきて目が覚め た赤い明かりも見えて真上まで来て泊まっ てああこれで助かるわてみんなで言って たらヘリは引き返したこれで場所が分かっ たからまたみんなでたくさん来て助けて くれると話したけどそれきりでこんよに なったそのうちみんな話さなくなだった その後ヘリコプターのパタパタという音で 目が覚めた目の前を追う部品の間から2本 の木が見え太陽の光が差し込んできた生き ているんやなと思ったなんとか外に出て 見つけてもらおうと思い努力した父の シャツのタオル地が見え腹の上に乗って いる父を左手で押し下げたその時父のだと 思って触った手を上の方にたどると自分の 右手だと分かった顔の上の部品の一部を 掴んで横から生い出そうとしたが2度3度 するうち部品がずり落ち顔との隙間が狭く なったそこで今度は両足を当てい押し上げ ようと踏ん張った中学になってから稽古は 根気がなくなったと日頃から言われていた 言葉を思い出し頑張った人の気配がして 生きている人は手や足を動かしてと声がし た橋をバタバタとさせると人が近寄ってき たボサボサの頭ショートパンツで勘違いさ れたらしく男の子だと言われたいかがだっ たでしょうかこれは彼女がインタビューで 実際に話した内容ですでは次に現場で看護 にあたった看護師の証言をご紹介いたし ます事故発直後から関従事者群馬県支部の 看護師たちは活動を始めていました生存者 確認の第1方が上野村に置かれた前線本部 に入ったのは事故翌日の8月13日午前 11時のことでしたところが現場場空を 自衛隊やマス込みのヘリが飛んでいて救援 のヘリがなかなかそこへ入り込めない11 時に見つかった生存者のうち8歳の女の子 と12歳の女の子が上野村に到着したのは 発見から3時間近くも経ってからでした 本当に危ないなと思います そう語ったのは看護師として生存者を 受け入れた春山のり子さん女の子たちの体 は泥で汚れ水に濡れ冷え切っていたそう です前線本部では十分な処置ができないと 判断し別の町の総合病院へヘリで搬送する ことになったそうです特に8歳の女の子は 余談を許さないほど危険な状態だったそう で声をかけると反応するがまたすぐに力を 失ってしまうどうしても12歳の女の子の 方は後回しになりましたヘリで2人は藤岡 市内の病院に到着春山さんは時計どいて どいてと廊下に声を響き渡らせて治療室へ 運び込みましたその後2人は順調に回復し 12歳の女の子は19日に入院先の病院で 取材に応じるまでになりましたその少女が 先ほどご紹介した川上敬子さんですその 最後で彼女は色々励ましてくれたので くじけずに頑張りたいと思いますと語って いますが春山さんはその言葉にこのような 思いを語っています頷いてくれて協力して くれて本当に救われました私が救われまし この事故では彼女を始めたくさんの人が 救助に当たりそして絶望を当たりにしまし たそんな地獄のような現場に駆けつけ取材 した記者の方が見た事故の様子をご紹介 いたしますあの日一体どのような光景を目 にしたのかその証言をお聞きください東京 発大阪行きの日光123便がレーダーから 消えた8月12日の19時10分頃現場に 第一方となる事事通信の緊急ファックスが 届きました私は車にカメラ機材など 積み込みとりあえず旭日新聞本社から西に 向かって車を走らせました夜間の山奥と いうことでなかなか墜落現場が分から なかったしばらくして本社から連絡があり 横田地から半径70から80km以内と 謎解きみたいなことを言うんです一旦本社 に戻りそれから現場探しの大瞑想が始まり ました自衛隊は墜落当日の夜に現場を確認 していますところが自衛隊から上がってき た墜落現場の情報は3地点しかも位置に かなりばらつきがありました当時の防衛長 の公式発表は小倉山北斜面小倉さ南斜面 仰木平山の北側小倉さの東5kmと次々に 変わりました翌日朝自衛隊によって現場が 確定されると私は埼玉県の入ま地から ヘリコプターに乗り現場に直行しました空 から墜落現場を見てまず驚いたのはあの 大きな飛行機が全く原型をとめていなかっ たことですつが1枚だけ見えましたが後は ただ残骸の山本当にここにジャンボ機が 落ちたのかと思いましたまるで東京の夢の 島のようでした現場ではどこにカメラを 向けても遺体が映ってしまうような状況 だったので最初は生存者がいるなんて思い ませんでしたところが単価に乗せられた 比較的綺麗な状態の女性に望遠レンズで 照準を合わせると指がぴくりと動いたの です驚いて消防団の団員に生きていますと 伝えました4人の生存者の1人吉崎博子 さんでしたファインダー越しに動いた指は 今もこの目に焼きついています救助された 4人はヘリコプターで上の村にあった対策 本部に運ばれてきました当初生存者は8人 という情報が流れてましたが実際に運ばれ てきたのは4人水玉のブラウスを着ていた おちさんは青い顔に結婚が付着し 痛々しかった現場に近づくと機械油の匂い や焦げ臭い匂いがしてくるんです現場に 着くと遺体の匂いがひどかったですね事故 から23日後山を降りたところにある取材 拠点で早やを見なくなったんです地元の人 に聞くと匂いを求めて山に上がったと私は 東京に戻っても讐を感じました実際は そんなに匂いはしないのですが尾行に こびりついていたのかもしれません気に ならなくなるまで1ヶ月かかりました遺体 は藤岡市の市民体育館に収容されました棺 に収められた遺体をご家族が確認し静かに 戻ってくる毎日その繰り返しでしたね体育 館の中は千光の匂いで充満していました 最初は完全遺体の方が多かったのですが だんだん部分遺体が増えていきました部分 遺体は山の上で何日も経っているので虫が たくさん湧いている見たこともない大きな うじ虫です関係者の方が体育館の裏で 洗い流していました私は2ヶ月間現場にい て雨の被害はほぼ毎日現場に通いました 事故の原因を調査するためです干渉に浸っ ていては仕事にならないのであえて感情を 押し殺して山に登り続けました事故報告書 では後部圧力核壁の修理部分に亀裂が生じ それが引き金になって核力に穴が開き機内 の余熱された空気が一気に流れる急原圧が 発生それにより垂直美力が破壊されて操縦 不能となり墜落したとされました調査初日 に胴体の中にしかない断熱剤が尾翼の中に たくさん入っているのを見つけました圧力 核壁が破れないと断熱剤は尾翼には入り ません核壁が破れたことが事故の引き金に なったということをその時点で確信しまし た機体の残骸は2週間かけて全て運び出し ました民間の業者に委託してヘリで山の麓 に下ろし仕分けしてトラックで東京に運ん だのですその総数は1330点K41t トラック20代分になりました残骸から 会社員の方が機内で家族へ変えた衣も 見つかりました219文字の衣装はよせぬ 死を前に家族への深い愛情に満ち溢れてい ます私はこの衣装を読んだ時現場の壮絶さ を真当にした時と同じようにショックを 受けました事故の存在すら知らない若者 たちにも伝えたいと思って今も大学のゼミ で毎年取り上げています1985年以降 日本のエアラインは職員も含めて1人も 犠牲者を出していませんゼロというのは 奇跡的ですこの事故の教訓が生かされて いると私は信じています以上が現場に行っ た記者たちの対談の一部です記者たちは この対談の中で白壁が破れたことが事故の 引き金になったということをその時点で 確信しましたと述べておりこの後お話し する日本政府やアメリカの陰謀などについ ては否定しています現場を直接見た彼らが 言うのであれば本当に整備ミスによるただ の事故だったのかもしれませんしかしそれ だけでは終われない様々なおかしな点が あるのもまた事実でありその判断はこの後 の事故にまつわる確信部分のお話を聞いて 皆様1人1人がご判断いただければと思い ますここまでの証言からいかに悲惨な事故 だったのかそして証言から見え隠れする解 な点を感じていただけたかと思いますここ からはいよいよこの事故の確信に迫って いきますなおここからは青山東子さんの 著書日光123便墜落シリーズより得た 情報を元にまとめていきたいと思います 青山さんは生存者の1人落合由さんの同僚 でした事故に不審感を覚えた青山さんは 2010年独自の調査で調べたことを まとめた著書天空の星たちへ日光期123 便あの日の記憶を出版しますこれを受けて 翌2011年7月運輸省安全委員会は数々 の疑問に答えるとして日本航空123便の オス高山墜落事故にかかる航空事故調査 報告書についての解説を発表しますしかし その内容は圧力核癖が自己原因ということ を強調するだけの内容で疑問に答える どころか反論に対する記述や目撃情報 聞き取り調査も生存者の証言もない必死な 言い訳にすぎない内容だったそうです前書 の出版後真事実や目撃情報が読者らから 多数提供されましたこれは公式発表の事故 の情報や状況に未だ疑問を持ち続けている 人たちが数多くいることの証明となりまし たそしてその後も事故について調べていく につれ様々な真事実が出てきており青山 さんはそれらをまとめその後2冊の書籍を 出版していますもちろん青山さんの主観で 書かれた内容でありその内容が真実という わけではありませんしかしそれが真実だと すれば最も土が合うといった内容ばかり です真実はどこにあるのか是非皆皆さんも 一緒に考えていただければと思います そもそもどのようにして事故は起きたのか 事故を起こしたJAL123便の操縦室を 任されていたのは市長の高浜正美市長 佐々木裕副総縦福田浩航空機関誌の3名で フライト時間が1番少ない佐々木服装重視 でも3963時間で1000時間で1人前 と言われることもある中この3人は日本 航空切っての精鋭だったと言われています 離陸した直後は順調に飛行を続けていた 同期でしたが離陸から12分後の18時 24分頃相模湾上空を上昇中突然の衝撃音 と共に操縦不能に陥りましたその後 コントロールを失った同期はオタ山のオに 墜落してしまいます通常飛行機事故が 起こった場合フライトレコーダーやボイス レコーダーを解析し事故の原因を調べます この事故の場合レコーダーの音声の一部が 公開されたのは事故から15年も経って からでしたしかもこのボイスレコーダーの 残された機長の言葉にオレンジエアという 言葉がありましたしかし後の調査委員会の 報告書ではオールエンジンという言葉に 変えられていましたその実際の音声が こちらお聞きいいた通りどう聞いても オレンジエアにしか聞こえませんこの オレンジエアというのがこちらです そもそもオレンジエアとは何なのか オレンジエアとは会場自衛隊内で使われる リモートコントロール式の無人標的機を 示すイゴだそうです実は高浜長は自衛隊 出身者のためこの陰語を知っていたと考え られますここから導き出される仮説それは 信じがいものでしたそれは訓練中の自衛隊 のミサイルが誤って123便にぶつかって しまったというものですとても信じがい ことですがいくつかの根拠があります政府 はこのオレンジエアを飛ばしたことは認め ているものの飛ばしたのは墜落後ですと 発表していますしかし休暇中の自衛官が 墜落前にオレンジエアの飛行を現場近くで 目撃しており自分も出勤すべきかと電話で 確認したとの報告もあることから政府が 発表した墜落後に飛ばしたというのは嘘の 発言である可能性がありますそして実は 事故の4日前に防衛庁より次のような発表 がありました簡単に言うと1陸上自衛隊の 手段改変をしミサイル部隊を新設する2 陸上自衛隊の飛行機を新型に変える3地帯 空ミサイル部隊のミサイルを新型に 切り替えるといったものでしたこれらを軸 として軍事力の強化を図り最終的には昭和 62年開発完了予定の新型ミサイルSAM 1を導入するというものでしたそして墜落 2日前このミサイルの誘導飛行に成功した との発表がありましたこのミサイルの飛行 テストは飛行機からミサイルのエンジンに 転化をしそれを落として飛ばすという形で 行われましたそしてこのミサイルの動きが とある女性の目撃証言とぴたりと一致し ますその女性は小林美穂さんという女性で 小林さんは当時実家から静岡県藤枝市に ある運輸関係の会社に務めており車で通勤 していました事故当時の8月12日18時 30分頃事が終わって会社を出た途端 キーンキーンと2階に渡り女性の金切り声 のような音を聞き空を見上げると目の前を 低く右斜めに傾きながら巨大なジャンボ ジェット機が低空で飛んでいたそうです窓 がはっきり見えるほどの低空だったそう ですが飛行そのものは安定しているように 見えたと証言していますこのジャンボ ジェット機は時間と場所から見てJAL 123便であることは間違いないと思われ ますその飛行機を見た小林さんは飛行機の 胴体にあるものを見たと証言しています 小林さんは次のように述べていますそれは ですね機体の左下のお腹です飛行機の後ろ の少し上がり気味の部分お尻の手前くらい でしょうか貨物室のドアがあるような場所 そこが真っ赤に抜けたように見えたんです 一瞬火事かなと思ったけど煙が出ている 様子もないちょうど垂直美力の辺りが グレー色でギザギザの尻尾みたいだったの でそれが煙に見えたけど煙なら長引くけど それは動かなかった今思うとちぎれた尻尾 のギザギザが煙のように見えたんですね そのお腹の部分つまり飛行機の左側のお腹 の部分15mくらいになるのかな貨物室度 は2枚分ぐらいの長さでしょうか遠投形で 真赤楕円っぽい形でした濃いオレンジ赤と いう色です夕日を浴びて赤いという感じで もない夕日は機体の背を照らしていたので 逆にお腹は薄暗く見えました変系の べったりとした赤色がお腹に貼り付いてる イメージ言葉で伝えるのは難しいけど絵に 書くとこんな感じか [音楽] ななお低いコードで飛ぶジャンボ機の目撃 情報は墜落現場近くの上野村の村民にも 目撃されており小さな目は見たという上野 村立上野小学校の子供たちが書いた文集で は真っ赤な飛行機を見たと記述されており その後もこの赤い飛行機の目撃情報は多数 ありましたそして8月11日事故の前日 国産ミサイル本格推進という見出しのも 当時の首相中園総理の積極的姿勢から国産 ミサイルを推進するよう指示されていると の内容が記載されてい ますそして事故当日の月12日相模湾自衛 隊護衛官松之の支運転を実施する運びと なるのですさてこれまでの証言などから 恐ろしい仮説が出来上がったわけですが実 はこの仮説を裏付ける根拠はまだあります まずはこちらの墜落までのルートをご覧 ください墜落前米軍基地の横田基地飛行場 に近づいていることが分かります実は墜落 前この飛行場への着陸を許可されていたと の証言がありますそれは事故から10年後 の1995年に当時横田地に配属されてい たマイケルアントヌーチ氏の証言で横田 基地関成は123便の着陸を許可していた 123便の乗員もそれを希望していたと いうものでしたこの証言は軍人向けの新聞 スターズアストライプスに掲載されたもの でしたしかし123便は横田基地に着陸し なかった実はこの時のボイスレコーダーの 音声についてなぜか無音状態が続いたり 会話がつなぎ合わせたように不自然だっ たりと専門家からもいくつものおかしな点 が指摘されるものでしたその音声が こちら数134.に切り替えられます かから 4コンタクト東京コントロールコンタクト 京 [拍手] コントロール お聞きいただいた通り横田地関成と コックピットのやり取りは明らかに会話が 成り立っていませんもしも日本側が何らか の形で着陸を阻んでその証拠がボイス レコーダーの音声にあったとしたら音声を 隠蔽しようとしたことが濃厚だと考えられ ますちなみにこのボイスレコーダーの音声 は日本航空に保管されており遺族はこの オリジナルの音声の公開を何十年も求め 続けていますが未だ実現されていません そしてこの事故が事件だと言われる最大の 疑惑が空白の時間です123便が飛び立っ て28分後の18時28分に千葉県赤子山 に配置されていた航空自衛隊中部航空警備 関成団は臓器の緊急事態を受信しています その事実は直に報告され中部航空方面隊や 東京航空局東京対策事務所が避難調整上を 設置し防衛庁警察署消防長会場保安庁に 通報の上で捜索開始が決定しますやがて 陸上からの捜索は群馬県警埼玉県警長野 県警の合同で始められましたしかし救助 活動が始まったのは事故翌日の午前8時 30分でしたこの救助活動の遅れが死者を 増やした原因とも指摘されていますという のも生存者の証言にもあったように自己 直後はまだ生存者もかなりいたのですこの 救助活動の遅れについて発表では事故現場 を見つけられなかったと言っていますが 当時たくさんの目撃者が通報しておりこの 発言は明らかにおかしいのですそれだけで はありません自己直後に在日米軍が墜落 現場を発見したにも関わらず救助活動の 中止を命じられたという証言もあるほど ですこれは先ほどのアントヌウさんが証言 していますアントヌ内さんは輸送期に乗り 横田地に向かう途中でしたその後123便 の墜落そして墜落場所を米軍側が把握して いたそうでそれが事故から20分後くらい だったそうですその後アントヌ内さん含め 幾人かの米軍機が救助体制を整え指示を 待っていたところ司令部から日本側が 向かっている直に帰還せよという驚きの 命令が下ったそうですそして到着から2 時間後の21時20分頃日本の救助機が 現れ安心して引き上げたそうですしかし彼 が翌日のニュースで見たものは墜落場所が 特定できず救助ができていないというもの でしたこれは生存者の証言にあった暗闇の 中ヘリコプターの音が聞こえてきたが 引き返してしまった太陽の光で目を覚まし 次に意識が戻ったら救助が来たといった 趣旨の発言から見ると暗闇の中初めに 聞こえたヘリコプターの音が米軍の救助隊 のものでこのヘリは引き返してしまった 翌日太陽の光が差し込む頃に救助隊が来た と考えると証言と一致しますアントヌウ さんの証言を裏付けるかのように自衛隊員 の目撃情報はいくつか寄せられています その中でも匿名ながら具体的な目撃情報と してMさんの証言が挙げられます早朝4時 事故を知り現場に向かったMさんは100 人ほどの自衛隊員を目撃したそうでその頃 Mさんが見た限りでも450人は生存者が いたそうですが義合わせた自衛隊員は救助 活動を一切せず何かの回収作業を必死で 行っていたそうですこれについて自衛隊員 の1人が下手に動かすと危険なので後から 来る部隊がが手当をすることになっている と言っていたとMさんは証言していますで は自衛隊員は救助活動をせず何をしていた のかそれが次の疑惑につながります当時 剣士にあたった医師たちが筋肉や骨まで 単価し2度焼きした形跡があるという資料 を残していますそれを裏付ける証言として 駆けつけた時にはあたり一面ガソリンと タールの匂いで充満していたと地元の消防 団が証言しています飛行機の燃料さらに 遺体の燃え跡や燃えたジェット機の残骸 からベゼという物質が多く検出されており これはガソリンに含まれる物質だそうで 本来ジェット機の燃料はケロシンという 物質が使われているそうでケロシンはイカ 点も高く極めて安全性が高いそうですなぜ 現場から弁graが検出されたのかこれは 自衛隊によって火炎放射機で遺体などを 焼きつくしたのではないかと本の著者青山 さんは述べていますそんなこと実際にある わけがない誰もがそう思うでしょうしかし いくつかの根拠があるのです山頂付近で 自衛隊がヘリコプターで何かを上げ下げし ていたという目撃証言沢から山を登って いった警察官や地元消防団が山頂から自衛 隊員が下ってきたという話もはや自己現場 が分からなかったという政府の証言は確実 に嘘だと言えますし自衛隊員は地球所活動 をせず何かを一晩中探していたという証言 の信憑性も高いと言えますそう考えると このあり得ないような話も一概にそんな はずはないとは言えないのではない でしょうかここまでの証言疑惑からある1 つの仮説が浮かび上がりますその仮説は こうです新型ミサイルの死運転中に何らか のトラブルが起き123便の飛行中伊豆 稲取置きで垂直尾翼周辺に異変を発生させ てしまう即座にファントム機2期が追尾し てその状況を確認するも体はそのまま墜落 その事実を隠すために嘘の発表で空白の 時間を作りミサイルの残骸の回収を行って いたもちろんこの仮説に決定的な証拠は なくあくまでも推測の息を出ませんがこの 仮説であれば全ての辻妻があってしまうの ですそもそも証拠となり得るものは政府の 手に渡っており発見されたボイス レコーダーは当初自己調査委員会以外には 公開されず内容を知ることができたのは後 に発表された自己報告書によるものでした さらに自己原因と言われる後部圧力癖に 至っては調査前に自衛隊員により電動 カッターで5分割にされておりその切断 部分が修理ミスと発表されており専門家が 切断してミスした箇所を探すならまだしも 自衛隊員が切断していることには非常に 疑問が残りますそして事故後政府や 航空会社はどこも墜落原因とされる修理 ミスを犯したボーイング者の製品を購入し ておりこれによりボーイング者は過去の 売上を叩き出していますこれだけの事故の 原因を作った会社の製品を大量に購入する のはどう考えても不自然だと言えますこの ような様々な不自然な点からも青山さんの 仮説をそんなバカなと一層してしまうのは あまりに早計だと言えますとは言っても この青山さんの仮説にそんなバカなという 方もいます青山さんの著書を見て自己当時 日本航空の労組役員を努めていた航空評論 家の方は私自身日光123便の事故の調査 報告書は正確ではないのではないかかと 疑念を抱いていますがそれにしてもこの本 は話が飛躍しすぎています自衛隊の ミサイルが期待に当たった根拠が全く示さ れていませんし遺体の焼け方が激しかった 例としては72年のニコニューデリー墜落 事故があげられ123便に限った話では ありません自己原因の真相解明を求める声 がこの本のような陰謀論と一食他にされて しまいかねず非常に困りますと語ってい ます確かに青山さんの話は信じがい部分も ありますしかし真実を隠していると思わ れる出来事が2015年に起こっているの です2015年7月25日123便の飛行 ルートの真下にあたる静岡県東出町の 沖合い約2.5km水深160mの海底で 機体の残骸の可能性があると思われる物体 が発見されていますこの発見に対し運用 安全委員会はコメントは差し控えさせて いただきますとしなぜか現在でも引き上げ は行われていませんもしこれが本当に期待 の残骸ならば事故の詳細が分かるかもしれ ないのになぜか沈黙を貫いているのです 真実は何なのかそれは事故から30年以上 経った現在でも明らかになっていません はいということでいかがだったでしょうか 今回参考にさせていただいた著書の著者で ある青山さんは著書の印税を使い現在も 様々な情報収集や真実の追求に放送されて いますこれまで出てきた様々な事実や証言 からもこの事故は事故で終わっていいもの だとは思えませんし何より520人もの 尊い命が奪われたという紛れもない事実は 決して忘れてはいけないことです断片的な 情報だけを信じるのではなく様々な角度 から事件を考えることで見えてくる真実も あるでしょうどのような真実であれ本当の ことが知りたいそれが残された遺族の願い でありまた亡くなった方々のといになる ことだと思います私たちもこの事件を 決して忘れないよう胸に刻み520名の方 が安らかに眠れる日が来ることを願って やみませんそれではまた次の動画でお会い しましょうバー パンダ X
9 comments
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この事件は胸が痛すぎる。
結局見殺しって感じが否めないです。
( *゚A゚)
事故原因が調査報告書通りとしても、生存者の発見が遅れたのは非常に残念ですね。早期に確定出来るようになると良いですね。
僕はこ事故の救助にあたっていた航空自衛隊基地近くの出身で、小学校の同級生には自衛官のお子さんで当時親御さんが救助に関わっていたという人もいたのですが、その同級生の話だと、彼の親御さんはこの事故の救助に出動した後、しばらく焼き肉の類を食べる気が起きなかったという話を聞きました。この事故にまつわるいろいろな裏話を聞くと、なるほどな、と思ってしまいました。訓練を受けているはずの自衛官でもそういう精神状態になるというのは、やはり「よほどのこと」がこの事故現場にあったのだなと思います。それが単なるミスの積み重ねなのか誰かが意図的に起こしたものなのかは、僕には判断できませんが。
寝下痢🙍!
事故調は圧力隔壁が破壊されることで尾翼等が吹き飛ばされたのが事故原因としているが、尾翼付近の区画の加圧が本当に垂直尾翼を破壊してしまうのかが疑問です。
ワタナベケンタロー動画80にあったコメントです↓ もしこれが事実で関係された方々が実名顔出しで証言すれば全ての謎が解けます。
元日航社員です。1985年当時は航務での勤務で、係る事態をよく記憶しています。
当日のあの時間帯は123便の出発後、次に出る札幌523便のRC(ランプコーディネーター)から急遽、可搬(トランシーバー)で少々ディレイとの連絡がありました。KT(旅客課)がG/Show(予約無しや後便からの変更客)を取るためチェックインをリオープンしましたが、747SRのバランス許容は13人のため、W&B(ウエイトバランス)が変わると考えて、ジャルダックス(コンピューター)のカラー画面を注意していました。この日はこれの調子が悪く、都合なら手書きもあるかと準備していました。
523出発後、突然の管制からの連絡で「123が帰って来る」とのこと。スピーカーに音を出して担当が123をC/R(カンパニーラジオ)で呼ぶと、暫くして繋がりました。交信レコーダーの状態を確認して、念のため個人で持っていた英会話用のパールコーダーもオンにしました。
123からは「ポジションレポート(現在位置通報)。今しがた何かとコリジョン(衝突)した。羽田に帰る。」旨の報告がありました。私達は最初に鳥と当たったと受け取りましたが、その後の管制と123の交信モニターやC/Rで交信するうちに、危険飛来物が直撃したと分かりました。123は駿河湾の上では3000FT(900m)ほどに降りていました。
JA8119にはその日伊丹から外変してサイパンまで先のフライトがあるので、シップ繰りのために直ぐに大阪やWFZ(スケジュール統制部)、運航本部など関係部署に123HNDリターンの連絡を入れました。インチャージやチーフがKKZ(空港支店長)等に連絡しましたが、通常は使用するTTY(SITA回線テレタイプ)使用は止められたようです。
その後123は自衛隊機と山梨上空でコンタクトし、横田に降りることになりましたが、傍まで行きそれを諦めて長野群馬方面に向かい、畑に不時着を試みていました。その間Fuel dump(燃料放出)を行った後、一回目の後の再進入中に危険飛来物がまた第4エンジンに当たりそれを落下させ、出力と水平のバランスを失ったことで、方向と上下が180度変わる急速右転回から背面状態に入った状態で(FDR:飛行記録計より)数秒後に完全に消息を絶ちました。
即ちこれが事実です。圧力隔壁は全く関係ありません。米軍も出てきません。これからして現在CVR(操縦席録音)とされて巷に出ている物は、断片化され殆ど削除された上にノイズでマスキングされ編集加工されたいい加減な物です。手元に残る各通信の録音媒体とは内容が異なります。
日航の現在の対応や、会長以下、秘書部や広報部が中心に行っているのであろう誤魔化しと隠蔽工作は人として間違いであり、一人で良い恰好をすると言われようが、多くの失うものがあろうが、新旧の日航社員は「過ちを改めるに何時も遅いことは無い」という覚悟を以って真実に対峙する決断をするべきと考えます。
事故機の胴体下の赤い物体は、無人標的機が命中し
突き刺さっている画像?ですかね。
事故機の下側(背面)は、影で暗い その中で
赤く明るく光っているので、
無人標的機は、電球のように 光る?のですかね。
山奥での墜落事故現場の近くで、休暇中での
自衛官が無人標的機を見た?
小さい目は見た での当時、小学生の者の
目撃証言
無人標的機の全長などのサイズで
肉眼で確認が可能な距離は?
墜落事故現場とその周辺は、山岳地
標高差も多々の山の多さ、その場所から
無人標的機を無線誘導が可能な距離は?
山の反対側にと飛んでいった事故機を
追跡、追尾での無人標的機?
事故機を追跡、追尾しながら無人
標的機を無線誘導をし続けるのかな?
無人標的機のサイズ、全長などから
飛行(飛翔)可能な飛行距離性能は?
無人標的機は、何処から発射したのか?
その場所から、事故機の飛行航跡に沿い
追尾追跡飛行をし続けていた?
無線誘導をし続ける事が出来るのか?
裏付け、照合 確認は 自由・・・
無人標的機が命中?衝突、接触を
すれば、ペンキ塗り立て みたいに
大量の色が付着しますかね?
まずは、ボイスレコーダーをすべて明らかにするのが一番早道なのに。😢
群馬県警がアメリカに行ってボーイング社に立ち入り調査したら門前払いされたらしいからね。
で、ボーイング社に泥を塗ったって言われてるそうだし。