#朗読晶子曼陀羅#佐藤春夫#与謝野晶子
昭和29年(1954)「毎日新聞」に連載。
与謝野晶子に師事した佐藤春夫が描く「小説・与謝野晶子」
サムネイル
『蝶』 (1904年)
Fujishima Takeji (1867-1943)
00:00『晶子曼陀羅』
00:09第四章 鳳小舟
20:24第五章 明星かがやく
39:19第六章 東西南北の人
佐藤 春夫:
1892年(明治25年)4月9日
– 1964年(昭和39年)5月6日
佐藤 治夫明子 マダ第4 章法 招集 16戦争景気にかきいれは憲法発前後から スクスクめいながら戦争で一座していたの がかって良い刺激となったか戦後の一現象 として文運が一時に起こっ た国民の自尊心から今までは読むにも書く にも伝統的にじられていた漢文から解放さ れてあの敗戦国の文字を捨て自分の文学は 自分の日常の言葉で文学を始めようと 目覚めた気運が津裏に動き出したので ある大阪はさすが東京に継ぐ大都会とて 早く24年の春から朝日毎日の両新聞を 背景として文学運動にも遅れてはいなかっ たの で旭日の西村天主渡辺家を同人とする何方 の相関に対抗する毎日系の大阪文芸が宇川 文海によって始められ25年10月には 大阪文芸雑誌と開大されて公共なのになて 何型も何文学と解消し2つながら相まって 花著名の文学者も前期の他菊UF須藤南水 井上龍園木崎省などの先輩も多いが中央 分団に比べればまだ見栄えがし ない原天命の昔を今にするのだこの際先輩 の大道団結の参加にはすでに転換期だ先生 方は先生方我々はやはり我々だけの方が 良い帰依の若いものが集って中央分団に 対抗するに恥じない髪型文学を復興しよう じゃないか大阪は何も前々とソバとだけの 土地とは限るまいとその熱い唇から満々 たる野の炎を蛇の下のように吐き出したの はバイレと合した高津初がこれも春雨の 豪雨を持った同僚の中村吉蔵に図ったもの であっ た高津中村2年はとうと遊学の資金を 蓄えようと天神橋の優勢管理局の臨時雇に なっていたいわば当年のアルバイト学生で ある貧所生が退屈な仕事の暇に取り交わす 雑談の片端にもこういう大それた夢のあっ たのが明治のめでたさというものであった だろうどちらに才能が多いかは知らず両人 とも手につきして立てば天下の文献は我が 手にありの着替を胸に潜めていた分けても 野心に燃えた高は覇気に飛んでよく人を そそのかす弁説のさと実行化に必要な推し の強さを備えて見かきはガゴそのままの 温和な春をいつもリードしてい たバイレには今中すでに生産もた分際と 財力と合わせ持った小林政治など一中の 45人をすぐ解せおら2名をそれに加えた 発起でまず17人の何青年文学会を結成し たのが30年4月3日北海の関場で毎月 同人の集合を決議した上同年7月から観光 を始めた機関誌を吉谷草と名付け同人回避 も会合費もそれぞれ5000ずつであっ た翌年の夏8月16日何は青年文学会の 編集同人小林政治は良風を大手酒石に同地 のご服屋の若主人で文庫派の詩人水明とし て知られた川井又平を音た水明はすでに 半ば東京の人であるが家庭の事情からまだ 関西と東京と往来していたのの幸いに編集 の産業と境しに支部を設ける応援等依頼の ためであっ た 17明子は以前から夏が好きであっ た雨戸を開ける窓に桂や高間の山に浮かぶ 清々しい雲も良いし白い夏の衣類の薄物を まとう時我が身の姿の良さがよく現れるの も夏の喜びで ある今もこうして日には遠いが風通しの ない店の奥の薄暗い中にいて表の通りを 白く照りつける炎天の眩しい光を見ている と夏の世界は我がくよくよした物暗示など はそしらぬ顔に光をおしげなく撒き散らし 万物を焼きつくし無悲に人を人とも思わぬ のが小気味が良い根ば命溢れた夏の日の ように生きたい自分はなぜそう生きられ ないのだろうかいまいましい そんなことを考えながら明子は即発の瓶や 前髪の乱れかかるの無増さに書き上げてい た特に太く怖い毛髪に脂気を嫌うので髪は 乱れやすいので ある我が神のゆいを長内の人々はきじみた と言うとか言わぬとか余計なおせかまた それを気にして母に告げ口するお歌もお せか母がそんななりをしているから円TH も来ないなどはますます煩わしいお せかいつもこう何やら腹立たしく煩わしい がことは今期などには関わりもないもの をいずれも十二十歳で美しい贈り物のよう に嫁入りした姉たちにに比べれば遅いにし てもまだやっと二十歳を過ぎたばかりそれ に自分は結婚そのものをさほどの重大児と も思わないむしろ疑って いる健康奉仕も言う通り遠い祖先から代々 持ちたえた生き物に持ち前のこの欲は接神 の考えるより根差しの深い意味の多いもの らしいがトルストイの言ように人生の理想 は決にあって子孫などは残さぬのが本当か も それにしても直家にトルストイを読めない ことのもどかしさ腹立たしさ簡単な人の 紹介や書き直しぐらいで何が分かるものか でもそれが人生の理想ならばそれを実現し て人類が絶滅するのもさしえないと トルストイの極端なまではっきりした言分 は こしい世間の人がただ隠しの内緒話に従 がるこれらの問題をもっと本気になって 考える人も今になくてはなる まい母がいつも苦にするように自分の容気 費や現地物語りの中の人々のように 生まれついてこなかったのは不運では あろうがでも幸いと傍でも白地でもない スクスクと獅子が伸びて健やかに白い我が を時に湯舟などで白ゆりのようなと割れ ながら見れるほどのものである髪も黒く 長いこの私をそっくりこのままこの吉地と いう神の言い様まで喜んでくれる人が出て 是非にと迎えに来ないほどなら経机の橋に 原地の高越本とやらを積んで地水火風空 でられ一生を暮らすばかりと思っている わがと知るや知らずやさすぎたと嘆き騒ぐ 母や歌の気が知れ ない物思いを乱す足音で店には客の 気配 18そんな時のお癖で無意識に髪を 撫で上げながら明子はそっと目をあげて みると店の中へ影になってスタスタと入っ てくるのは思いがけない樋口先生らしい 珍しく夏場などを召している が明子は我が目を疑いつつ慌てて結界を いり出て一礼する 先生はお菓子のご用明ではなく土上はお家 かなちょっとお目にかかって長々お世話の お礼を一言申し上げたいので作用にお 取り次ぎ よ店先では失礼じゃちょっとおあげ申して と自分で出て辞退する樋口先生を座敷に 生じ たあの鮮やかなお手前で四角12服の後大 を運び出す先に立とうとする口に向かって 室は先生西の方感をいずれば個人ならんで はありませんかと再び客を座らせ座敷では しばらく逆月の欧州が続いて帰りは店に日 がともり樋口先生は下駄を吐く時少しく よろめい た見送って出た父は傍の娘の問いに答えて 樋口先生はこのご時世にもう文を学ぶ右な 青少年もいないから教官を出て35年一生 の心出しも虚しく古山に芋でも作る気に なったとのお別れだから選別は差し上げて おいた明日は朝の登りでお立ちじゃという お前も停車場までお見送り なされ父は樋口先生が娘の学の異常を言っ て女子と侮らずにそれをに育てるよう特に これを言いたさに伺ったと言ったのを常の おりと聞いたか別に心あってかついに明子 にそれは告げなかっ たまた当分地神宿で投資でも読んでもらっ てうしにしようかと思っていた明子の宛も これで外れ た翌日の朝停車場に死を見送った明子は 同じ人の見送りに合わせた顔の川水から 大阪あ町心斎橋筋門の毛布ドヤの主人で 小林政治という文庫にも3分を当初したり する青年がこの間来訪のこと何は青年文学 会その機関視などの話の末にその会に境 司会というのを設けたいから世話をしろと いうのですがあなたも1つと入会を勧誘さ れた明子は顔をほてらしながら我が足元を 見て東毛にさあ父は見かけによらない旧 平人でしてこの間も若名州を見ていまし たらつい見つかってしまいうちには万葉 から八代州逃走の詩人の州までないものも ないのに読むにことを書いてどこの馬の骨 とも知れぬ若蔵の得体も知れぬ白物をどう いう気で見るかと当そも何もありゃしませ ん散々油を絞られましたところそこへ 新しい文学雑誌のお仲入りなど申せばと 二の足を踏む明子に推命はそんなことまで いちい父上にご相談なさらずに伏せて大き になって万が一何か具合の悪いことでも 持ち上がった際は私お詫びに出ましょう から今に何かしら楽しいことがありに思え て明子は心が進ん だ19 詩人推命が産業となってから何青年文学会 では何と青年とが五感として不合と気づい たかそれとも先輩たちが使い古したからと いうのか何の後はやめて関西成年文学会と 呼び改め たこの解消報告のあったのは発会から1年 ありの後32年2月発行の吉草第11号で あった その後にはまたさ司会新入会員16名の 発表の中に我らの文学少女法明子の名も 登録されてい たそればかりかその同じ号には前後32年 1月の第10号で課題し書籍を検証として 募集したし春月に明子の応募当選したもの が法商州の名で発表されて いる別れて長き君と我れこよい愛みし嬉し さを組み手も尽きぬ馬酒にうれないの染め いでし君が片方に瓶の毛のはかゆくそぐか な楽しからずやこの夕べ春は夕べの薄雲に 2人の恋も悟るかなおぼろに匂う月のも君 心なき微笑みに若き命や 明子の初めて活となった記念的の文では あるがあまり結構なものとも思え ない明子は例の結界の中で文学会の当国や 当村などに読みふけりことに出たばかりの 当村の処女集若名州は最も愛読していた ものだがこの春月というのはそっくり村の 幼い事にしかすぎ ないとはいえそれでいって読み方では 面白い節もないではないあき子は当時結婚 などは事実あまり望んでいなかったかも しれないけれども22歳の明子はこの頃恋 を恋する日曜日 ともあれこの少女はありもしない愛人との 再会を楽しみ夢みてほかな酔い心地で ある亀の水が腐ったみたいなその日常生活 の中からそっと口を開けてあえぐ金魚のあ にも似て幼い文字のあに降りなされたのが この夢で明子の強肩な肉体と感じやすい 精神とからなった青春はやっとこんな夢で 窒息を招かれていた こう考えるとこの年もまざらではないが その発表に用いた法少GODの署名の方が もっと 面白い匿名代わりのこの画号はほんのその 当座仮そめのものながら何うそれを使った かは後年の3弱の棚なし小舟大に己れ不 チス人を預からずという一種が問わず語り にこれを解いて いるは運命への恐怖と人生の孤独感とよく 表現しているが22の明子の場合は動揺し てやまない青春の不安をもさらに小習の二 次に込めたこの署名と悪春月ともこう見れ ば22の明子の内面生活を語ってありが ある 20小林が立案の作とはいえをにするに ついて高津は最初から不世でかい杯の顔で 東京の三門文や母詩人のく元をもらって ありがたがるなどは不式というのも確かに 一切だがどうして集めたどんな現行で あろうとも単に情実や名前に左右されず 玉石を鑑別して編めば少しも不見識では ないというのが小林や中村の意見でせの 対立よりも高津は中村が小林につも同意 するのを小林の財力に媚びていると不快な のであるが小林も中村も高津のそういう 感情には無頓着にひたすら執筆と編集経営 とを楽しんでい た高津のいわゆる傭兵証拠的作家のク現行 のおかげで雑誌は月々発行部数を増してい たから高津は忌々しく敗北の形であった そればかりか役所でも中村は上役から交換 を持たれていたのに高津の積極的な性格が とかく喜ばれなかったくそ面白くもない 高津は役所などやめちまいたいと思い始め ていた織からカの仲間の山川遠方と恋成林 とが小学校教員の検定試験に応ずると聞い た高津もその気になって受験したが11月 7日発表の結果を見ると小石山川の大にも 関わらず運はいなもので準備が足りないと 言いつつも最も自信のあった高津だけが 落大してい た高津は発砲塞がりの運勢を打開しようと 風前大阪の地を捨てて状況の戸に登った時 に31年12月1 日高津がこの時1人決めに決めた行先は その出版物でよく覚えている神田2匹町に 新聞学の出版を立てて景気のいい秋田の 文学青年きかと合した佐藤義の神聖者今の 新長者の前身であっ た元々苦労人で世月の吉家は高津バレに 飛び込まれ元義足草の編集者と聞くと立町 に息統合し出版や雑誌申請の手伝いに公的 な人物と見込んで状況したばかりでまだ宿 なしのバレをその場ですぐ車内の2階に食 させた バイレが大阪の地を捨てた翌年の春はあか も東京専門学校が早稲田大学と解消したの を後期会にその英文化を志した春雨中村 吉蔵はしばらく稼ぎ蓄えておいた学習を懐 に吉草編集室の一同や役所の同僚23人に ドヤドヤと送られて大阪駅を青雲田東京へ 一公然と出発し た1人しょんぼりと人しれず大阪を逃れ 出したバイレは中村の角手に比べて惨めで あっ た常に熱い小林は駅頭でバイレの小前たる 光栄を思い描くを禁じえず持ち合わせた 10円ばかりのうち半分を開始に包み中村 に託して心ならずも木を得なかった高への 選別とし た高津が去り続いて中村の教で小林が自然 と編集主任となって今や須田金の編集する 金尾文遠道の双葉海大の商店地と関西分団 を両分する勢いとなった吉草海大の関西 文学を頼り高津バレの紹介場を持ってこの 時最下したのが明子にとって宿命の主人 良さの鉄管であっ た第5 章明城を輝く 21注意深い読者ならきっと前章でお 気づきかと思うがこの時代は個人の名と 言わず貝の名雑誌の名さては学校の名で 全て解消ばりであっ た実というものは必要に迫られてもそう あっさりと改めにくいせめてはだけでもと いうのでこういう解消の時代が来た 日本ではこういうお手軽なことがよく行わ れている国民性の船舶のせいばかりでは ない国が貧しくて不本意でもこんな 間に合わせよりできない場合が多いので あるこういう解消ばりの変革器に新主人が 多く現れ出たのも決して偶然のことでは ない新しい死を作り出すのも味方によって は1つの解消に似ている 言葉を新しくしよう新しいシカによって 新しい感情を想像しよう新しい感情の想像 こそやがて新しい生活そのもので ある民族の構成は新しいシカからとこう 飛躍的に直感した新主人たちもいわば民族 の生活を手軽にでもさすがは根本的に内面 から改めようと心ざしたのである こんな大それた望みを心の奥底に潜めてい た一軍の若者たちのうちで最も清て救心的 な行動に出たのが我らの良さの鉄管であっ たほとんど時を同じくして出た島崎藤村が 考え深くも新しいものが生まれさえすれば 古いものはおのずと滅ぶとひたすらに 新しいものの想像に熱中した老成の態度に 比べてせっかちで若々しい鉄は古い脳を 焼かないでは新しい目は生えないと破壊と 建設と同時に焦って敵と味方と一度に作り ながらその活動を危なかっしかしそれだけ にまた華やかに新時代を幻惑してい た27年22歳の若さでカロン王国の音を 発表して艇に救う旧派の星的な家人をして 眼色ならしめたのは彼の的活動であり29 年にシカ州東西南北を続いて次の年さらに 天地現王を発表したのは彼の建設的活動で あっ た旧来の歌を王国の音とのした彼の歌は 自らマラぶりを気取ってことに韓国時代に は剣たち蒙古などの相互を好んだので人々 は彼をからかって古流だの虎の鉄とも読ん でい た33年2月彼はその頃申告学を唱えて 権威のあった恩師落ち合い直文に励まされ てまず新死者を創立し続いて4月には謝の 期間し明城を相関して新しいシカの気運に 発射をかけ人々の注目するところとなって い た相関当時の明は小さな新聞型で表紙はと とにの鉄管出の七文字を1面に対処し全て 20面のうち2面半は広告で埋め1面4 段組の1段22字詰めで41行支出の経歴 が物を行って分断諸方面の名前も賑やかに 身のある内容が手際よく盛られた値は 6000発行所は島区上6番長45番地に あり発行県編集人は 野という女で ある 22いずれは3号雑誌だろうと高をくって 見ていたのが4号5号と順調に出て編集に も油が乗りなかなか景気が良さそうに 見える見かけだけでなく事実予想外の高成 席で車の同人も非1日と増している先輩 友人ので現もいいのがよく 集まる校長に気をよくして出も死に分に今 が多いもう一踏ん張りというところで ある泣けなしの金とよりは無理散弾をして 出した雑誌であったが神聖もカパ校が日給 を積み立てたのをもに素下宿の女主人が 人柄を見込んで建て替えた何がしかの金で 今日の社運を開いたことを思えば決して そう心細がるには当たらないのだ がもはや八年も前出京早々の秋も一度イボ 系からせびった10円をもでに法数という のを出してみたことがあったがその時の 運試しは虚しく1号切りで後は続かなかっ た今度はそんな浮き目は見ないで済む らしいがここが瀬戸際のように思わ れるある日出かけてみた神聖者で目の ぎろっとした馬面で色黒のキカからバイレ に紹介された鉄管がバイレから編集も経営 もどうしてお手に行ったものじゃないか 詩人の商法とも見えないねとお世辞を言わ れて照れくそうに内場はなかなか苦しいよ でも死後を出せば後は楽だから今ひ辛抱だ 癒しも虎の鉄管ともあるものがいくら商法 でも弱は吹かないが良いと慰め励ました バイレも自身で吉草を始めた当時の話を 参考にもと 聞かしそういうわけだが僕らの関西文学会 は雑誌の方も先駆して曲を開いたのが現在 では金尾の親父さんの文遠会の双葉の名 かえて吸気に任したあの商店地と対抗して 関西分団の天下を両分している形でその他 にも何少年会というのができて美しなんて のもやってるようだ東京に負けないぐらい なこの気運を起こしたのもはかりながら 我々だとバレーがかっきづいて話すのを 聞いた鉄貫は心密かに1人頷いてそうだ この際エコの深い関西の土地に新シカの 運動を働きかけてみようなぜもっと早く ここに気がつかなかったろう商店地には 九金がいるのだから吉草の方へ渡りをつけ ておくのが良さそうだと 僕も勝利の方のそういう人たちに近づきに なっておきたいが今度ついでにそこの霊へ でも出られまかきっと喜ぶだろうよでは 今夜にも昔の仲間へそう言ってやって みようバイレがそうあっさり引き受けて 気場の原稿を揃え出すと壁の時計を見上げ た鉄貫はこれは思わぬ邪魔をしてしまった ではよろしく頼みますよと言いながら 立ち上がってしけと出て いく 23テカは18区の頃3年ばかりいた山口 県に行く帰りに父の墓に申出るつもりその ついでに大阪にもというきで関西青年文学 会例会の日取りをしろうと思ったのが先方 では公演会をと言って期日も8月5日と 決めてきた元超絶は持たないが10歳の頃 から慣れているから公園は別に驚きはし ない5日と言うなら中1日は休養するため にと2日の夜行で新橋を立ったこれなら3 日の午前あまり早くない時刻に着くという 列車で あるまだ特急などはどこにもない遅い急行 列車の山頭室の片隅それでも成果の旅客の 少ない季節だけに馬もゆったり1人で2人 分を閉めてそのままごろりとなれば肘を 曲げていつでも眠れる気楽な記者で ある鉄貫は1人ゆったりとくつろいで前年 前前年と今年と3年続いた夏の旅を 思い出している前年は佐賀の天竜寺に我山 市の前室に参じて何の悟るところもなく ただ竹林中の夜の瞑想で飢えてる家に存分 我がを吸わせてやっただのことであった 前時からはお前さんは歌を読むそうなが心 の座がなくて良い歌が読めるかえという レヴにも似た凶作を受けたものであったが その心のざとやらは未だについに ない昨年は山口県の徳山町の中継の寺で父 がやみついて看病に駆けつけたのがやはり 8月の初めでその16日の朝病人は自分で 今日は死ぬのだと言い出して官病の息子3 人長景と中継と自分と枕元に呼び集めてお 互いに別れの歌を読もうと言い出し長景 大園に助け起こされて数種を誰よりも早く 読んだほどであったが17日の夜半見 まかり母に遅れること3年でついに父をも 失っ た親といえばなお人の世の別れなりまた相 がき仏とぞ思うと呼んだのを父は頷いて 静かによしと言ったものであったてかは その時の父の歌を2つ3つ口ずさんでい た御殿場では9年前これも夏8月に父の一 祥子村の家から抜け出して出京の途中で この駅に降りて月明かりにじて三坂峠を 超えてにボをのを思い起こし た杉日を思い今を思い歌を思い歌故の金を 思えばてかは眠気を催す暇も ない浜松あたりではさすがに水馬の遅を 感じたが夏の世は開けやすく金のシホに 朝日が まばゆい関ヶ原の夏草深く日 高い車窓の連れも大に入ってを渡るラ 冷やかにもう眠気も何も ない鉄貫は勘の強い人で一旦勘が立ったと なら2晩ぐらいは眠らないでも平気なの で3日の朝も日が高くなって大阪の地に 入り貝で準備しておいたという北浜の平井 正室旅館に投資し たその翌4日には入門を買うものカとの 連絡のために来たものなど数人の客の中に 足の模様のある片に白地の帯の明子は中年 のお歌をお供に連れていたこの時バカ女 学校の学生山川富子は鉄管の出した迎車で 出てき た明子は鉄貫とも富子ともこれが初対面で あっ た 2初め東京新者にてバイレからが近日下半 の説そちらの霊界に出席したいというが どうかという紹介が小林宛にあった時小は 一木にも及ぶまと思いながらも律儀に先端 を避けて間事連に図ってみると鉄貫は九金 との公有上当然商店地派のはずではないか 頼るなら商店地へ行ったらよかろうと妙に 対抗意識に囚われたのがいるかと思うと また率直に鉄はども虫がないのだがと あっさり毛嫌いするものもい た小林が困っていると医学生中山教案は 豪傑で派閥にこだわるのや食わず嫌いはケ の穴が狭い我が輩は来るものは拒まずだ とにかく1度会ってみて嫌なやだったら 議論を吹っかけてぶん殴っちまうばかり じゃないかと結論はこの恩家な暴論に 落ち着い たそれじゃあ霊界よりも一層海の主催で 公演会をすることにして規制をげてみよう や公園料は出さない代わりに滞在費を負担 しようよ僕が出してもよいという小林の 発案で会場は大阪書籍症組合事務所のいつ も霊界に使う部屋の他に会議室をも 借り受け会期は8月5日と決めてバイレに 講師へこの決議を連絡報告させ た2日前に大阪に来たは間も早めに会場へ 車で乗り付けたものでその容易の細かいの にまず関心した会の連中は出迎えてみて また意外の勘に打たれ た魔辺りに見い出したのは東西南北や天地 現王で想像した要望会にそやなそうしめい たいわゆる古険流や虎の鉄管ではなく流行 の台湾パナマにシナ建中のハからな洋服姿 竹のステッキを手にした心白石で細表の 気候自然たる高古の青年詩人であっ た霊界の部屋を控えの間に用意していたの に案内して虫がすかぬと言ったのが すぐさま窮地のように断捨して誰よりも虫 が空いたような様子に見受けられたのも 面白かっ た初めは心細がってこごも覗きに出てみた 会場も帝国が迫るに従っておいおいと人が 集まってくる様子であった 何しろこの炎天だからと主催者と一緒に なって気を揉んでいた鉄貫も帝国が近づい てから小林がもういい加減の入りでこれ 以上入れると窮屈で熱苦しいから逆止にさ せておきましたというのを聞いてやっと 安心したという様子で ある実は講師が神経室に入場者を気にする のを見てその場で思いつきの挨拶なので客 はやっぱり入るだけは入れおいているので あっ たそれでも開会してみると入場者は50人 あまり主催者たちを徴収に入れて満員で ある 25会場には白奥義の波の間に不女子の顔 もちらほらと混じり主催者たちと共に60 人ばかりこの会場には頃合いの人混み 当時のこの主の会合ことにこの町の中とし ては掛け値なしの大成功で一度甚満越した のも通りであっ た登壇の講師はまず場内を見渡して白い顔 にエミを滅ばせた富子はすぐ見つけたが そのそばに昨日の秋子を見出さないのが物 足りない堺からでは遅くなってきて入場を 制限されたのでもあろう か風に解きおこして我の言真下とは古来の 風流というものには望まないで新しい今日 の我々自身の生活から直家に組みだした 生きた心持ちを我々自身の言い方で 歌い上げたものでお手本なしの自己流の もののいいであるすなわち個人のいわゆる 己れよりイをなすという信念で作られる シカのことと思えば よい我らは個人は嫌い新人好きであるが 個人にも時々はこういう立派なことを言う のもいる一概には捨てられないシカその ものとて古来の本当の名作は我ら自身の目 で新しく寝みし直し味わい直して遠慮なく 我らのこやしとするのが誠に個人の恩に 報いる由縁というような趣旨のシカの確信 を郵便ではないが離れて親切によく分かる よみのない口調で2時間ほど胸元を奥義で 仰ぎ仰ぎあかず年頃に解いてから さて関西は古来のテトの土地美を味わう心 も言葉の選び方使いよもおのずと赤のけが しておりますからお手本なし自己流の 新しいシカの起こる見込みの多い土地も 関東よりはまず関西とこう我が田へ水を 引きますと申すのも我ら言葉こそどこの 土地のものとも知れず濁りはてたれ今日は 岡崎の生まれ諸君とご同様関西の人間なの ですからと結びを早口に一礼して額の汗を 拭いぬぐいしばらく続く活菜の中を段を 下って再び控えの間に入っ た控の間に入ると冷やしておいたビールを 井戸から取り出して進めるシカでは都なを じせぬこの詩人実は23倍もほんのお 付き合いでもういっぱいといたのは顔が なりますからと逃げ腰に立って一同には 再会の日を訳してから出口に待ち構えてい たとみ子と立ち話を交えて1人大股に表へ 出ていった飲む連中はせっかくの出しに 逃げられて残りおしげに木草しつつ詩人に は惜しい温厚な青年紳士じゃないか立派な 男ぶりでさすがに続けのない人品は嬉しい がありゃ君古流どころか並みの男猫の鉄板 じゃとこの豪wirはまた人が良くて口が ひどく 悪い言葉遣い態度熱のある面白い公園だっ た何しろ当の年から父に変わってお席をし て震動と言われたというの だ第6章東西南北の 人 26鉄貫は名浩司といい明治6年2月京都 市街岡崎村の西本願寺院岩城寺に生まれ た父は西本願寺の鈴原という学校で母は 京都市の米国省の娘父は50母35の時の 子その4男であっ た鈴原法師は国学を元乗りなの学頭を受け た山立ちに学びまた歌読みで生涯に3万酒 を読んだと言われ大田連月にと友として 良かったのでその女家人がひの名付け親で あったと いう例言は単子与佐軍厚村の商や細見市の 次男であったが13歳で分けして西本願寺 の学林に入り仏学国学受学若を学ん だ維新前は不況してさにあった 古来総は他国の患者師して意味警戒する こと華々しい殺班であったがこの層に限っ ては人望高く信頼も暑かったから爆発維新 には鹿児島と本山と往復の機会を利用して 常に両地の連絡の人に立って金王の校が ありまた明治初年公益の校をも合わせて 大正天皇から呪いを追され た明治のはめ自ら神聖を設け聖地の名を 関して良さの例言と称したが同7年戸籍法 の制定にあたっては良さのの3を届け出て 生徒し たレゲは西本が寺の何より許されて戦闘 後書を使用し全国に先んじて京都府博覧会 を開いた小学校教育の必要を提唱したり また富国の作は正家と要さにあるとその 省令を負荷及び近畿の書見に優勢するなど 総見に富み我が寺の一丁部ほどの土地も 率先して所々を桑畑や茶畑としてい たまた京都府の各州寺院を解いて共同出資 で淡山の商連院内に両病院を設立したのが 明治の病院の最初のものであるとかその 名称は奈良町のせいに習ったものという 国をうれ民を救う心出しととに新規なもの に対する愛光の多かった人でこの奉仕は精 未学後に言う科学に通じ薬物学鉱物学分析 術染色術などの他方面に渡っていた後に 京都府生局の出資となり不の名によって 不可の鉱山を視屈し分析のことにした 一の輸入や本水後のラムネの製造販売また 天眼薬新珠がを作り売り出すなどこの額の 実用化に試みることが多くまた武道士の像 をも夢みたものか西洋武道の栽培をも試み 好戦浴場を経営したり三難には英学ととも に西洋染術を学ばせたりもし た先立った士の企業は武の商法と同じく両 病院の他はことごとく失敗して本山から 与えられた十字その付属の土地財産もつな のため綺麗さっぱりと失われてなお夫妻を 残す有様に西本願寺の差物重役も食うに食 なく住むに奥なく一家は岡崎の村を去って しばらく地の家に身を寄せ たその春はわずか7つのわで弟のために 雪うさぎの目を難点の身でつけてやった 思い出の良き庭を離れ強固にルロの生涯に 入ったので ある 27夫妻の方は鈴原氏の尖閣の心出しを 哀れんだ京都全子の区長勇志などの計いで 駆を持って前時召喚の方法がぜられ た一本山でも原を不競争顧問に任じて 馴染みの多い鹿児島市の別院に赴かせ たまだ10歳にも足らぬ彼小鉄貫は都を 離れて国の片隅の身も知らぬ遠い土地に来 たが10歳の春には父の目によって大隅 調査軍新町の説教所を1人預かって平常は 今朝を取り捨てて村の子供との山に鳥や魚 を回っているガなさで父の出張のない日に はお説教の代理までしてい た彼はその後再び本山に呼ばれた父に伴わ れて再び京都に来て住んだが家庭は依然と して不にいのため家にあっては下女下男 代わりに追いつかはれまた近畿の23の寺 に養われたこともあった時には小僧として 住み込んだり時には容子に行ったり形は 様々であったとははいえ家庭のためには いつも俗に言う口べしであっ た明治16年彼が11歳の夏一度洋花から 家に帰ったのが再び大阪府住吉の織野村の 安陽寺に表紙となっていった鹿児島の別院 時代の例言の友人がひの幸地を見込んで これを愛して是非容姿にと言っていたのが 自分に子ができてもなおひを愛するあり この振動を近所に済ませたいというので 近くの友人安陽寺の住職に進めて容姿にさ せたのであった村人たちは安陽寺では振動 を容姿にしたと噂し合って市女の教育を 安陽寺に頼むものが多く彼は是非なく安 陽子の寺小屋を預かること2念ばかり村中 や金村から集まった自分よりも年上の子供 たちに読み書きを教えてい た彼自身は京都と鹿児島との小学校に学ん で卒業した他は5歳から不計に教えられた 読み方母に授かった集字だけより知らぬ から教えるどころかまだ学びたい側なので ある安陽寺では聞いた通りの異常な細分を 見て教えさせる一方では彼を堺氏に通わせ て石監視や英語初歩仏典などを学ばせ た感覚の死は元彦根班の受学であったが彼 の主催を愛し長見の号を与えて彼を励まし 後3年ほどは大阪府各地の諸学会などに 長見は送られていた明治178年の頃こう いう爆発異風の逆コス的流行の中で長剣は 使不死豪を振って文人北角の間に記載を 歌われ た響楽の人を驚きてすとも美商人ともいし こか なというひしの後年の一種はこれらの事実 を知ってみれば教授ではなくむしろ次長の 中に悲しい階層を込めたものと見るべきで あろう鉄貫の号は彼が13歳の時バカの愛 のためにその異名をとって長見を自ら改め 合したもので その時彼に習って鉄を合した地球も数人い たとか彼の影響力が見 られる寺小屋のイチ師匠文人北角に混じっ ての猿芝居はさすがに彼の喜ばぬところ 久しくこの境にとまるには絶えなかっ た 2814歳の春彼はついに陽花を脱出して で岡山市街にいる長男に頼った彼は新時代 の正規の教育を死亡してしばらくこの地に あって中学予備もに学んだが数学の不成績 のため岡山中学校へは入学できなかっ た20年の春15歳の彼は京都市街一祥子 村の父の元に帰って読書しまた英語の独習 を始めた辞書らしい英語の辞書はやっと この頃で始めたので あるレゲはこの頃はもはや西本願寺の事務 は全く離れて念仏と読書作家ざまの傍若い 者たちに国学と若を講じていたから小鉄館 は父の門人グアラに混じって長短家を作り 始めて数年前の新色を廃して熱中した監視 熱は完全に作家の方に移り同時に身体使の 施策をもボツボツ始めていた 具案は仕切りに状況を進めたがその見込み も立たないせめては同志者への入学をと 願ったが学史の出所がなくてこの望みも 叶わ ない17歳の時父の目を受けて是非なく西 本願寺で得度して例上の保合を受けた後4 月に山口県の徳山町に中継の経営する徳山 女学校の国語看聞教員を2年間務める傍前 会雑誌をも編集し た兄の読していたしがらみ造士で大外の 文章を読んだのも落合直文の文章を知った のもこの時で落合氏には2年後手紙で敬 difficultの意を書き送ったが 記名はしても返事を煩わさないために住所 は記さなかったと いう明治24年観光のために来中のロシア 交代使のニコ2が人力者で徐行の背後から 上警戒中の巡査津田三蔵が見して切りつけ て朝夜を侵害せしめたいわゆる大津事件の あった時ひは門の票を大使に停止露国の 皇室から感謝場を受けたこともあったまた 尾地方の大地震には山口県下物の軍内を 優勢して理助議を募集し たに19なっているこの人の純粋で感動し やすくまた親切なとはいえいさ ロマンティックに謙虚妄動の風のある子供 らしい一面をあかさに示すかに 見える25年3月教職をじして徳山から 京都の父の家に帰り国語学研究の心出しを 固め神宮工学館に大性となりたいと 申し込んだがその精度のないために許され ない 父はあくまで総令嬢として身を立て させようとするし母はこの子の最上の優れ たのを信じて東京へ出て苦学せよと こっそりとはけましたその母は元風華に出 たが今三月も米代を支払えない貧困に処し て少しも騒がず常に精神一等何事かなさ ざらんという意とよりむしろちとの言の甚 盛んな夫人であったという 前年白分館の浮上雑誌に大田連月歌話など の3分を気候して支出岸上失権の喜んで 採用するところとなったのを見て以来文を 売って口を乗り移る自信を得たものか8月 村の農家のつまり5円の金を借りて旅費に あて思い切って家を抜け出て東京に向かっ た29 あらかじめ計画して記者は御殿場までの 乗車券であったからそこで下車して降から の月曜徒歩で三坂峠を超えて甲府にいる イボ系の大月彩を音たこの兄は父が青年 時代学林を出て直後若狭の高浜の一時に 容姿となっていた頃にできた子で若狭に 置いてきたのが成人して初めは父を頼って 京都府に報して警察長や軍長などをしてい たのが今は山梨県警察部の保安課長となっ ていたので ある尋ねてみるとたまたま大月ももう管理 をやめて状況と決め23日後にはまず祭祀 だけを一足先に状況させるというところで あった彼はこのイボの祭祀と堂々で藤川を 下って東京に出て一月ばかりこの一家の 本郷菊坂の家に寄食し たその間に落合踏みを通て入門をこたが 許され ないでは国学院にでも入って勉強し ましょうかと通てみるとしばらく考えてい たが一層独学したが よかろう指示するにはどなたがいい でしょうか私はただ先生を1人をおしえし て状況したのでしたがと彼が言うと直文は そうさなあこ何がしは額はあるが血と徳が 足りぬし乙何がしは徳は十分だが額にかけ ているへい何がしは額も得も申し分はない が元命で青年を好まないからだめかさて人 はないなと半ば独りごとに呟いて から読むには小金第1の章生涯をこれに ぬかずく死と青は天下第1の人をと言って から直文は彼に森大外への紹介場を書いて 与えそれから大外とはうちに会うはずだ から君のことはその時直によく頼んで おこうとまで言っ たしかし彼はすぐは大外を大いもしなかっ た身に正規の額はなくことに洋学には全く 疎いのを帰り見て彼は無用な劣等感を抱い て大外を近づきがいものと思っ た大外が妙に煙たいそれに入門を許さ なかった直文ではあるがそれ以後彼が行く ごとに心よく引見してその自分にも評言を 与えるなど事実上の死がもうできていた からでもあっ た9月に甲府から状況したイボ系を捕まえ て10円借りたので雑誌法数を立てて落合 先生と北村東国とにこて各一分を得た他は 自作のシカでうめたが雑誌はそのまま後は 続かなかっ たイ月も困窮しきっているとても久しくは 寄食できないそのことで気を揉んでいた織 から晩週のある日徳山時代の友人の佐村 八郎と白山坂でばったりと巡り合った佐村 は哲学館に学んでいるのだというお互いに 近況を語り合ううち佐村は言い出した心配 したもなすぐ鹿を探して2人で自炊すると しよう 302人が有名なこまごめ吉祥寺を見物し ているうち古い学良の祝者らしいのが口 のったのを見つけて交渉すると一室月15 戦で貸すが一室2室のみでなく1全部に 限ると いう佐村は哲学館の学生を多く誘ってきた 下宿の所職に不平な連中がここの自炊で報 しようというのであるそこで彼はその連中 の水字婦となって部屋台の15線は一同 から支出する約束をした一常時村で芋掘り 巻黒滝までしたのを思えば水次不はわけも ない食費や小遣いの方は飛行構成大作など で稼ぎ出すのだから仕事の都合では1日の 一食を芋で済まし絶食もまれではない大作 というのは高等市販教授何がしの国民心 河和の類構成は楽王一書などこの頃になっ てやっと大外に近づく勇気ができ た早起きの直文がある朝雪景色を称してそ にほど近い吉上時代に迷い入りたまたま 破れ窓の中に洗米布団1枚の彼の姿を見て その日はそのままそっと帰って行っ た数日後直文は訪問した彼に向かって雪の 朝の話を打ち明け自分の家へ知遇のことを 進めるのを射程の歩合火炎もそばから口を 揃える彼は過分の行為に感激して黙ってい たさらに数日後死の家の女中に迎えられて ついに先生ら一文の朝者の1人となった やがて直文の推挙で相関の2六神法記者と なったカロ広告の音は記者となると早速に 執筆発表したものであっ た火炎あ野心が韓国政府学部省一日塾の 総長となって不妊した後彼が韓国から招か れて一日塾の一文庫剣道学童に主任となっ たのは28年であるがその10月王の木の 路の観測を憎んだ日本副良時堀口熊一詩人 大学の父が率先応急に入って販の商定に身 を潜めていた便秘を引きずり出したのを 暴君が切った事件が起こっ た彼は火炎と共に堀口副良時の人隣を愛し て信仰を結び兼ねて画策するところがあっ たことは彼とカエとが木歩に遊んでる間に よくに先立って突発したので ある1日遅れて形状に入った海炎らは応急 には入らなかったが杉本一等初期官や堀口 福良寺数十人に混じって広島に誤想された 上彼は取調べで題名を免れ た12月再び形状に赴いてみると一日技術 は生生られてい た雪を犯して高原環境の領土に遊び露国 勢力家の立体王を命令中から日本甲子官へ の奪いだしを経常の友人らと図るうち29 年3月情を察知した直文は彼に伝法して 東京に帰らしめ演者ミキの創設した明治 所員の編集部員垂らした彼の第1第2歯科 州と共にこの明治所員で発行され た東西南北とは彼が他東西南北の各地に 点々としたよべのない教外を自ら哀れんで 週に名付けたので彼がア土に1人のさと 思いおったのも解雇すれば陰線に生まれて 境遇作楽し移植のためにうを踏みきたりと その過小に自助したような閲歴の末になっ た第一周だからであっ たさて今明治33年彼が28歳の夏8月 上旬大阪の地に ある
聞きやすくて、テンポも良くて、とても面白いです。
続きがどんどん聞きたくなりますね。
鉄幹さまが出てこられて益々楽しみです