京都面白大学第115講 海野和三郎先生を偲ぶ会 「天文の道翔け往きて星となり この世を照らす宇宙の寅さん」2024年3月28日 学士会館

京都面白大学第115講 海野和三郎先生を偲ぶ会 「天文の道翔け往きて星となり この世を照らす宇宙の寅さん」2024年3月28日 学士会館



学士会館12:00 開会
進行係:柴橋博資(東京大学名誉教授・天文学者)
開会の挨拶 尾崎洋二(東京大学名誉教授・天文学者)
海野先生の思い出と献杯 加藤正二(京都大学名誉教授・天文学者)
海野先生の思い出 小平桂一(東京大学名誉教授・天文学者)
海野先生ご親族からのお話 山下泰子(海野和三郎先生の姪・文教女子大学名誉教授)
海野先生ご家族からのお話と写真スライド 織田真理子(海野和三郎先生の長女)
海野先生の思い出 安藤裕康(国立天文台名誉教授・天文学者)
海野先生の思い出 桜井隆(国立天文台名誉教授・天文学者)
海野先生の思い出と鎮魂供養の石笛と法螺貝を奉奏 鎌田東二(京都大学名誉教授)
海野先生の思い出と閉会の挨拶 米山忠興(東洋大学元教授・天文学者)

敬愛する海野和三郎先生が98歳で天寿を全うされたことに、心よりの敬意を哀悼の意を表します。

  海と野に 宇宙の知の花 咲かせ生き
      和みの愛の輪 三郎風で

  天文の 道翔け往きて 星となり
      この世を照らす 宇宙の寅さん

                      11月8日 鎌田東二拝

あ 竹内誠一さん知ってる竹誠さんなくなった でが数日前にあったあここで確ああそう ですかもういろんな方がね同世代の人でも 亡くなってきますもねその前は渡辺純一 さん渡辺純一さんのね葬に行けなかったん ですよの界で教のね教会で れ子供が ね男3人いるんだけどね3番目がもう渡 さんそっくりだ本当 に12さんそっくり 運野運野 先生ごい ます先生を失しましてえ一度今日は35名 もうちょうど35名えお集まりいただき ましたえあに桜の満会の頃かというのを 期待していたんですけども少し遅くなり ましたえそれからこの3年間はあのコロナ のことがありましてえ色々集まることは できなかったと思いますでロナの最中には 3という言葉でえ密っていう言葉はなんか 悪いようなイメージを持ったんですけれど も今日はあの親密にえなかなか密の濃いお 集まりにしたいと思いますえっと私自己 紹介を送りました今日の司会を司会って 言いますか進行を担当させていただきます 橋本と申し [音楽] ますに は 702年に学部に入りまして1974年に え学部を卒業大学に入りましたで以来運野 先生には色々本当にお世話になり続けて おりましたえ今日はせめてえ皆さんとご 一緒に宇野先生をしてみたいと思いますで 最初に開会に当たりまして え崎さんに開会のご挨拶とそれからあの 最初にお話 をいただきたいと思い ますえたご紹介にまし たあの運野郎先生のし会にあのこのように たくさんの方ご出席くださいまして ありがとうございました えっと世話役をしているあのものの代表と して御礼申し上げます あの今日の会はですねえ実はあの大きく 分けると3つのグループのあの人たちの 集まりでありましてまず最初にあの大野 先生のあの嬢様のあの さんとごの方このりそれからあの私たち 東大天文で運野郎先生にあの教えを受けた 直接間接にあの教えを受けた天文の仲間が えっとそれからあの3番目のグループとし てはですねあのえっと先生が退 にあの活躍されたあの東京自由大学の関係

者の方々それからあのえっと運野先生が やはり退職後にあの開かれてましたあの えっと中国の古典の師あの あのえっと書老師老師師ですね読会であり ます掃除の会のメンバーの方たがここらで まそういう あの集まりでありますでもちろん皆さん よくご存知のように運野先生はあの昨年の 11月7日にえっと98歳で永人されたさ れましたあの98歳と言いますと男性では もう本当にあのご長明であられたと思い ますそして宇野先生はあのまおくなりに なる本当に間際までお元気でえ過ごされて わけですから 本当にあの運野先生は展示を倒されたんで はないかと思っておりますであの えっとまあそれからえっと今日お配りし ましたこれですけどこの中にあの えっとツト運野朝先生というこれあの日本 天文学会にあの天文法という雑誌があるん ですけどもま会員に配ってる雑誌なんです けれどもそこにこ最信号ですね3月20日 に発行されて実はまだその雑誌私け ちょっとないんですけど別釣りの形で えっとまあの死後たちが何人かであのツト の文章を書いてありますのであのご覧 くださいで あのまそれでお持ち帰りくださいそれで あのえっとまそこまであのあと せっかくの機会なんで私もちょっとだけ あの宇野先生の思い出話をちょっとだけさ せていただきたいと思いますであの運野 先生のえっとま1番でっていうのはそこに いらっしゃる加藤昌司さんで多分私は2番 でしか3番でしかそこら辺のものであり ますで宇野先生には えっと大学院時代には指導共感をして いただきましてそしてあの手は職いたし まして運野先生が教授を務められた時に えっと女手とま女教授を務めましたであの えっとまその大学の女子と言いますと一般 にはですねえっと教授がいてその教授のま 色々えあのお手伝いさせられたまこき使わ れたりされるような印象を持たれるかも しれませんけども私はそのとこの女子に なりましたけれども全くそんなことはなく て本当にえっと自由に自分の好きな研究を あのすることあのすることができましたで あのちょっとだけ本当にプライベートのお 話しますと私とそこに実はいるかなとはま 今から57年前ですけどあの結婚いたし ましたけどもその時結婚式の時にあの運野 先生ご夫妻に をしていただきましたでまあのう実はその えっとう先生その後何人か天文の人のあの

ナドあの結婚式のド務められたみたいです けども私の場合が1番最初だったみたいで それでまあのえっと先生にそのお願いに 行った時にはすごく緊張されて あのまするのに緊張されていたとと思い ますそれであのま今日の回はですねあの えっと皆さんと共にお食事を取るとともに あの色々の思い出皆さんから色々の 思い出話をしていただく会であると思って ますそしてあのえっとスライドでまた 懐かしい写真などあの見せていただくこと になっておりますであのまそれから天文 我々天文の中はですね運野先生のま後で あるわけですけれども えっともうえっとお仕事言ってもみんな 高齢者になっておりまして皆さんほとんど あのお仕事から退職されていてほとんど こういう機会でもないと集まることがない わけで今日はそういう意味であのば運の スクールの えっと同窓会みたいな会であると思って おりますということであ皆さんとあのこの 会を 楽しく過ごすことができれば嬉しいと思っ てますそして運野先生もきっとそういう形 であの素部会を過ごされることを望んで いらっしゃったんでいらっしゃると思い ますでまあの一応私の挨拶の最後になり ますけども実はこの回あのえっと宇野先生 ぶ会を開くにあたってあのえっと一応背 番人として私と米山さんと柴さんと3人 なってるんですけど実質的にはほとんど柴 さんがえっと全ての えっと出席者生決血道の連泊とそれから えっと会場との交渉とか全てをまなさっ たなさいましたまたそれから天文月報に 書いたこの追と記事なんですけど何人かの 人でま執筆したですけどもそれのえっと まとめ役というか全部あもしさんがされた んでえっとちょうどこの機会を使ってま さんにまあの感謝を表したいと思いますと いうことでえっと一応これで私の開会の 挨拶をさせていただきますどうも ありがとうござい [拍手] ます後ろの方から失礼いたします続きまし てえ運野先生の1番弟子であられました 加藤昌司さんにえ思い出話とそれからそれ に続きまして配 の温度を取っていただきたいと思います 加藤さんどうぞよろしくお願いいたし ますえっと思い出話を先です かえっと私今紹介がありましたえ加藤加藤 さんやっぱり [音楽]

え今紹介になりました加藤ですえ私はあの 今紹介がありましたように運野先生の1番 で1番最初な弟子だということでまそれを 非常にあの誇りに思っておりますあの私 運野先生にまちょっと簡単に私と絡ませて 紹介いたしますと私は えま 学部に入ってあのあれですね東大の場合は あの2年生の後半から専門に分かるんです がまそこで天文を選んだわけですがなんで 天文を選んだかと言いますと私はとても人 まま恥ずかしい今はどうかしいませんが とても恥ずかしいの人間でもう人付き合い が大嫌いでまあの誰と人間に会うことなく やっていけるような分野としたら多分天文 だろうということでま天文を選んだんです がそしたら驚くことにあのスプートニクが その直後に上がりましてで天文というのは ものすごいブームになりましてこれは困っ たことだと思ったんですがでその後まの 後半か3年生の時にま軍の先生に初めて目 にかかるわけですがまあとてもあの人間身 のある先生であこれはとても天文に来て よかったというのを思ったのを覚えており ますでまそういう意味で70年ぐらいのお 付き合いがあるんですがもうちょっと余談 を言わせてもらいますとですね実は80年 ぐらい前からひょっとしたら会っていたか もしれないと というのはですねあの当時あの戦争中で あの天文があの東大の天文教室は あの長野県のえ上諏訪に教室ごと疎されて いてそれでその話はまあの本にもなって 有名なんですけれどもで東大が天文教室 そこでどこに移ったかというと高島小学校 というあの上諏訪にあります小学校です そこになんか部屋を借りたりなんかして あの研究を続けて萩原先生以下あの研究 続けて萩原先生藤田先生ま働先生とかま 運野先生もですねま若手としてあの参加し ておいたという話を聞いておりますでその 時実は私はエコ会で あのに疎いたしましてそれで小学校だった んですであの小学校で あの高島小学校に入るはずだったんです けれども高島小学校はもうそういう初会の 人たちでいっぱいでということでちょうど あの常南小学校っていう高島城の南に城の 南とかく常南小学校っていうのができまし てそこにはいてで高小学校はですね時々 ちょっと山手にあるんですがあの散歩がら まハイキングでちょこちょこ行ってまして でひょっとしたらそこであの運野先生にも 運野先生以下あの専門の先生方にひょっと したら会っていたかもしれないと

まもしそうだったらもう80年ぐらいに なってしまうかと思うんですがまそういう 関係があったんですがそのことはちょっと 運野先生を生前にお話したいと思ってたん ですけれども機会を得してしまいましてま こういう機会にまあのお話することにな なりましてま運野先生にもお伝えできたか なと思ってるんですがまもしそうだったら 運野先生も非常にあそうだったのかって 言って喜んでくれているんじゃないかと 思いますでまそういうことで私はあのえ 大学3年入ってですね運野先生に最初に 公式に会いましたのはあの村運野先生 女教授だったんですね当時はそれで天文学 演習というような科目だったと思うんです がそれを担当しておられてであの計算機を 使って日食の時国を計算するとかま日の出 の時国を計算するとかまそういういうよう なことをま理科燃資料として使うような ことしてやったように思うんですでその時 にあのタガー計算機っていう皆さんあの 理系の方だったらご存知かもしれません けどあのこうまマス計算機がありまして あれあれをですねあの使い方を教わると いうまそういうレベルのま計算機に関して はそんなレベルだったんですねでま先生に 色々いただいてまその後ま論文も書くよう なことがあってで文野先生1番最初に 教わったのはあの日本語 と理系の論文の書き方と違うんだという ようなことそれは本当かどうかあのここに はえ文系の先生もおられるかもしれません がま文系ののものの書き方というのはま こう若いところを色々あのま枝葉に当たる ようなところは最初書きながら最終的に あのミキになるようなところをこうまとめ ていくってような書き方が普通なのかも しれません私は全く知りませんけれどもで ところがま一般に日本語乗ってのはそう いう傾向が多いんでしょうか私はそういう もう書き方だと思ってたんですが運野先生 にはとこはとことんあの教えられてそう じゃないとまあ未にあたるところをを最初 に書いてそれで必要なら枝派のところを あの書いていくというそういうスタイル だってことでまあの英語の論文の書ま1番 最初非常に見違いあのシトのを書いたん ですけどまそういうことを教えていただく と同時にですねその後ま文野先生に進め られてあのあのこういう研究をやらないか ということでま一緒にあの 報を来いながらま研究をするということが ま何年も続きまして で運野先生とはあの同じ部屋に何年もいて あの朝から晩までお付き合いをするという

まそういう生活をま何年まあ45年はやっ てるんじゃないかと思うんですがまそこで ま結局まあの文野先生とても人間身のある 先生であの人間身がありしかも人の気持ち をよく分かるあのでそういう先生でですね あのそういう先生に私もし大学時代に会わ なかったらまあ人見のする偏屈な人間の まま終わっていたかもしれないんですがま そこで運野先生によってすっかり人間ま私 の人格も含めて研究面全ての面でお世話に なっておりますでとてもそれは私のま現在 にとってもあのあの非常に財産になって いると思うんですでそのま私はまあの京都 に移りましたけれどもそういう運野先生 から教わったですねあの陰性に対する指導 の仕方とか論文な書方研究の仕方それは あのあの私京都に移ってから まあできるだけその運野先生のそういう 教えをま引き継いでいけるようということ であのあのやってきたつまりですま私は 力不足でまあの大した答はできませんでし たけどもまそれを私のあのま柱としてやっ てきたつもりでまあの当時ちょっとまた話 が余になっちゃいますがあの京都にはです ね林スクールという非常に強力な研究 グループがありましてそれはあのあの湯川 秀先生のあのま後をついてる林先生それで 林先生の教育っていうのは全く運の先生と は逆逆のま方向の先生すごい厳しい先生で あのそういうところで非常に優れたあの人 たちはたくさん排出してるんですがまあの ま運野先生はそれと全くある意味では全く 逆の指導方法を持っておられてそれであの ま運の作るというま大きなグループを作ら れてあの分られたわけですでそのグループ はあ先ほどの話があったかもしれませんが まあ日本だけじゃなくあの中国韓国も人も 含めて大きなまグループま運スクールと 言われるようなものを作ってらいたわけ ですがまそういう中で私もま少しはあの 京都でそういう運の先生の精神をですねあ 広めていくことにあの役立ったとしたら ですねま運野先生も非常に喜んでくださっ ているんではないかとま思ってる次第です まちょっと話が長くなりましたがまそれ 以外たくさんあの文野先生の先ほど言い ましたように70年80年っていうお 付き合ですから色々あるんですがまこの くらいにしておきたいと思いますどうも ありがとございまし [拍手] た早速配するんです かえそれでは あのうえ運野先生をましんでですねあの配 をしたいと思いますでま皆さんご和をお

願いしたいと思うんですが [音楽] そそれでは テパどうもありがとうございまし [拍手] た [音楽] 食事があの始まりますのでどうぞしばらく の間あのごご歓談しながらびをお楽しみ くさいましたはいはいえ答えでございます え先ほどご挨拶された加藤さんについでえ 運野先生のえ第2番目2年目のあの学生で ございましたであのお亡くなりになって ですね え降りたまり子様から電話をいいた時に うっかりうっかりという大大王なさいまし たねて言ってなんか あのねお祝いのような ことっていうのはあの運野先生は非常に 若々し常に未来を思考されてるようなとこ がわりでしたからま98まででしかも今日 こちらにおられる方々と活動を続けられて られてですね私はですからそれはまあ98 まで来たから生みの方はねいずれあれする としてもお心というか先生のお気持ちは 永遠に生きるっていうようなね気持ちでい たもんですからついそういうお祝いめいた ことを申し上げまして失礼しましたです から私は今日はですね運野スクールの方々 もこんなに来られてますからこの部屋に まだ運野先生がおられるような感じでえ ここで出席しておりますで私はあの運野 先生にえ大学院の収支2年えお世話になっ たんですがそのもあのドイツに行って しまいましてえその後はあのウ先生のご 専門とはちょっと離れたえ観測天文学って いうんですかお様を眺める方の天文学に 行ってえ国立天文台なんか東京天門大学が 行ったもんですからえ教室とはちょっと 離れてましたけどその後また10年ぐらい 教室で教える期間がございましたがあです から運野にはですねそういうま大学でのり というのもあったんですけどもむしろその 後私 あのその運野先生が輪行でお使いになられ ていた星の物理お星様のえ物理学の教科書 っていうのがドイツのウゼ先生っていうが 書かたま星の物理っていう本なんですけど その先生のところ行ってみたいと思ってま 収支2年が終わった後すぐそのの運勢先生 をえるドイツのキル大学にあの留学して しまいましたその時もま宇野先生お助け くださったんですけれど もま向こうでえ学位を取りましてえそれで 今日一緒に来てますドイツ人の歌と結婚し

まし てその1960年代の中頃ですからま ドイツ人の尿を連れて日本に東京に来ても ですねオリンピックが済んだけれどもえ うちの周りの道路は砂利道ですしえま生活 は結構大変だったんですけどま運野先生と ご一家が大変な理解を示されれて私とも サポートしてくださいましたでですから 先生にま天文学の始めをえをしていただい たご音はあるんですけれどその他その日本 にえ私どもが住について色々ご配慮 いただいたま先生とご一家に大変ご音が ございますで あの私どもそのドイツで学位を取って歌と 結婚しましてえ新興校で南ドイの方行き ました時にちょうどですね運野先生が マックスプランク研究所民にある研究所に 滞在されておられましてえにお招き いただいたんですねで色々その時にお話し ましたがあ宇野先生はかなりドイツに 詳しいドイの生活に慣れておられてですね いや日本では大変でしょうねっていうよう なお話もされててえまあしの心の支えって 言いますかあるの先生が私どものことを気 にかけてくださるっていうことはえ心の 支えに知ったんですけど日本に帰りまし たらばえドイツの学位は日本ではあ国立 大学では認めないていうねでもう一度東大 の学が 言うんで給料もそれなりに確なしのそでま 先生がね生活苦しいだろうからうちの娘 さんたちにドイの個人教師やって くれさんですねえお2人のお嬢さんに ドイツ語の家庭教師をして給料をはって くださってですねでその上えお母様が山梨 県の当時は北駒軍白州長今北都市ですけど そこのあの南アルスの駒ヶ岳のですね麓に 鳥原っていう村があるんですそこにま野 そのお母さん住まいで周りの土地がですね 同地改革で色々えあの方にお世話を いただいたんですけどその土地の一部を ですねえ東京ではとてもドイツから帰って きて住みにくいだろうって言ってそこの 一部を分乗してくださったんですねであの そこの鳥原村にはかつてカナダのですね 日本文化研究者カナダ人の研究者の方が数 年住まわれた歴史があって村として何か そういうま外国人がいるっていうことに 対するなんて言うんでしょうね付き合い 具合というかそういうものが村として 分かってる地域でであの実際そのえ土地を お分けいただいた後私どもはそこにあのえ 小さい小屋を2件立てましてえその前にも しばらくはそのお母様のに転がり込んで 子供たちと夏を過ごさせていただきました

が2件立てましてそこでえ近くがかな川と いう水の綺麗な川が流れてますでそこの 河原でですね水浴びをしたりえですから 当時は本当にま素晴らしい自然に恵まれた あ地方でえ川を取ったりです騒がにですね え取ったり魚釣りをしたりえそれからどう でしょうね近くの森屋野原も素晴らしい 自然に恵まれてましてえキノコ狩をやっ たりたけのがりをやったりえ腰がきを作っ たりですね冬は焚き火をしてバーベキュー やったりえ田んぼが凍るとその上で子供 たちが竹べらで作ったスケートでスケート 遊びをするそのそういうまあの自然も豊か ですし時代も良かったんでしょうがあの そういうところをお世話くださって自分と のいろんなことをま海野先生お母様あそれ からご一家の皆さんが色々と私どの世話を 焼いてくださいましたでですからま あのそこで結局はですねそれが1965年 のことですからそれ以降今までずっとです ね え外来少におなんてえ決まってえ歌私の妻 の歌と3人の娘たちにとりましてはこの 八を展望する駒山力の鳥浜村がま日本での 故郷ということにまなっていますし私は その間にやはり海野先生はめご家族の皆 さんにお世話になってですねえ運野先生の 人柄やあ天文閣以外の色々先生のお考え方 これはまこちらにいらっしゃる方々よくご 存知だと思いますけれどもま未来思考と 言いますかねそしてま地球や人類の将来を 色々感じておられてえあの太陽光発電を 推進されているとかそういうところもあの 身近にえ習わせていただきましたで ま あそれでですか私も今はですねえ野先生が お考えられたようにま私があの天文学者と して過ごしてきたこの70年の8年もあの あれですね え大きい望遠鏡ができて宇宙の果てを観測 するでこう膨張を続けている大宇宙のほの この時間空間の瞬間的な場所とタイミング で地球という惑星が生まれてですねそこに 芽生えた生き物生命というのがいかにま 愛しく大切なものかということをま痛感し ておりますでま運野先生には天文学という 狭いあれじゃなくてもっと広いえそういう ま宇宙感と言いますか世界観と言いますか 先生の あの気象というか人隣をついて学ばしてま いただいてえきましてですねですからあの 教官としての諸君を就かれる頃から先生は え戦事官っていうま江戸時代のですねあの お未来研究グループですけど戦事官の先住 千治官研究女とかそれから東京自由大学と

かあそれからその次にはえ今も皆さん いらっしゃい ます生命地球平和産業協会っていうなもの をまコミットされて起こされて え活動されたんですけどそれはまさにま 天文学を足場とはされてたんでしょう けれども先生のこの自由達でえ未来思考の ですねえお人柄がもに出ていた時代でです ねえ私個人としてはむしろ先生は大学での 教えよりもそちらの方が本当はもうやり たくていらしてやれてハッピーだったん じゃないかなという風にも思っております そんなことでまあの先生には色んなことを 学ばせていただきましてまたご家族には 大変お世話になっておりますのでえまた 今日はその先生がせ退職後活躍された グループの方々もおめということでえ今日 は楽しみにしてやってまいりましたあの 世人の大崎さんえ米さ橋さんどうもご配慮 ありがとうござい [拍手] ます [音楽] どうもありがとうございまし たえ天門関係の えお話が続きましたのでここでちょっとを 変えまして野先生のご親族でいらっしゃい ます山下泰子様 からご親族から見て のせ願えればと思っておりますどうぞ よろしくお願います 突然のご進でございまして全然心の順にが なかったんですけれどもあの私えうの叔父 の姉 のより子の娘メでございますであの いろんなところでおじちゃんに色々お世話 になったかなっていう風に思っています あの物心つかないうちにえあの祖父叔父の 父親はあの文部省の職任官であの地方の中 学校諸学校の校長をしてあの天人がとても あの激しかったように思いますでえ徳島県 のえ富岡場学校長をしておりますた時に あの私の母が私がま1歳でしたけれども あの夏に あの夏風から肺炎になってあの25歳で 亡くなっちゃったんですねでその頃叔父は 多分富岡の中学校 の学生だったと思いますからあの1歳の私 と中学生のおじと一緒に暮らしてたかなっ ていう風に思いますでその後祖祖父はです ねあのま山梨県の北駒軍にあの母親が1人 で家を守ってるということで願い出て徳島 から山梨に転勤させてもらって大月の鶴 工女の校長をいたしました戦争中のことで ございますでその頃叔父はあの鶴中学に

転校をし松本高校に進んだと思いますだ からその頃はあの私はがあの家に帰って くるといる人みたいなそういう関係でした はいで私にあの叔父が3人いるんです けれどもあのワブおじちゃんの上に玄太郎 おじちゃんというあのおじちゃんがいまし てでその私はま休みごとにあの鳥原のあの 田舎の家におまその3年間ぐらいおばあ ちゃんに育てられたので父がお約束でお 休みごとにそのいるとにあの行くよう にっていうまことだったんだと思いますで 夏休みに行きますとそのえ玄太郎じちゃん は京都大学の医学部の学生でしたであの 京都から帰ってくるであのバスブロちゃん もうんその頃松子だったんでしょうか東大 だったんでしょうかよく分かりませんが 東大だったかもしれませんねあの二十歳代 のあの初めの頃だったと思いますで帰って きますで私もそこにいるわけなんです けれども奥の座敷にあの布団をこう並べて 敷いてあの休むんですがとっても活発に よる私が動き回るもんですから足が あの叔父の上にこう乗ったりすると玄太郎 ちゃんは詰めるんですよですごいさっき あの京都は厳しいってお話あったんです けどあやっぱり京都大学の方が厳しかった か なちゃんあそこのところはとても優しかっ たように思いますでなんか結構ばけだった のかなっていうのの一はですねあの小学校 が岡谷で終わってたと思うのですが小学校 時代のお友達あのえっと自分が男の長で女 の長だったあの太子さんていう岡谷の染物 屋さんのお嬢さんだったんですがお兄の 健太郎さんにそのお嫁さんとして世話す るっていうのであのお見合いを企画した らしいんですでも厳しいちゃんはあの なんかカエルの解剖で忙しいから俺は行か ないよって いうそしたらわいちゃんがそのお見合いの 席に行って兄の代理 でそれで結婚したなんていうエピソードも ありましたうんから祖母はですね叔父が プリンストンに行ってる頃あの栄養不足 じゃないかってとっても心配していて ベーコンばっかりクジのベーコンばっかり 食べてるって言って体壊さないかって心配 してましたなんか細くて大丈夫かなって私 もちょっと思ったりしましたあの私はえ 法学をやりましてあの東京大学の長め前 ぐらい東大農学部の前にあります文教学院 大学っていうごめんなさいちょっとおいい ていいです かい た

ごめんで退職の最終講義の時に王子があの まり子ちゃんと来てくださいまして私は その何十年も前に亡くなった母の着物を して直して影っていうま2月のことだった のであれいいかなと思ってきたんですけど もそんな話をしたら叔父がですねあの私の 母の亡くなったところに行ったことが なかったのであの富岡に連れてってくれ ましたそんな優しい叔父でしたそしてあの えその富岡に行く前があの日っていう海が が来るあの浜がありますねあそこの中学校 長も叔父があえ祖父がいたしましたので 叔父は小学校はその日へ行ったらしいん ですでその時にあの大阪 から大阪朝鮮かなんかの船で行くんだ けれどもその日の浜は小さくて大きな船が 入れないのではけでその浜行ったとかです ねそれから日さで覚えたのは剣道とソバと 半夜神教だったってなんか叔父のその将来 を暗示する面白いだったなっていうに思い ますじさんていうあのうん四国令嬢札所の あるまとても所のある街でしたでそんな ところにおじに連れてってもらった思い出 もありますおじちゃんありがとうござい ましたね96歳まで頑張ってくださって心 の支えだった98歳ごめんなさい支えだっ たんですがやっぱりちょっとねあの いらっしゃらなくなって寂しい思いをして います皆様本当におじお世話になりまして ありがとうございまし [拍手] たどうもありがとうございまし た えちょっと時間が押しておりますのでこの ままえ写真とそれからえっとお嬢様の田子 さんのお話を伺いながらりを進めて いただきたいと思い [音楽] ますここにれば いいあ本は皆さんもお忙しい中をあの父の ためにあの来ていただきまして誠に ありがとうございましたまたあの今日の会 を企画していただきましたあの小崎先生 あの米山先生柴で そのの天文学教室の皆様本当にありがとう ございましたあのそれであの先生の方から のあの古い写真はないかないかなっていう ことでちょっとアルバムをあの見てそれで ちょっと何枚かピックアップしました すごく古い写真もあり ますあのちょっとあの今ゆうたですねて見 て楽しんでいただけちょっと待ってさい はいうんうんあそれで父は本当にあのもう ののおかげで本当にあ98年間の人生 すごく充実したあの素晴らしい人生だった

じゃないかなって娘の私も思っております 本当にあの東大でもあの皆さんいい学生 さんたちに恵まれましてとそれで私はその 東大の手学の学生さんたをどうして知っ てるかって言いますとあのクリスマスに あのいつも12月24日にクリスマス パーティーをうちの実家でやってたんです ねでそれでその時にあの私とか妹とかあ それで今ちょっとこれ写真出ましてこれは 両親の結婚式の写真うんそれで母はあの その当時三鷹の天文台に務めてましてそこ でなんか父と知り合って結婚したんです けど生殺はあの娘には2人とも話してくれ ませんなんからどういう風に知り合って どういう風に結婚したかっていうのは結局 最後まで分からなく てあれなんですけどはいあそれでその時 ですねあの母はなんかその時にあの若いは 女性が何かあの三鷹の展望台で働いてた みたいなんですけどなんか娘が言うのなん ですけどミスて問題だったといういうこと ですそうです ね父がねどうやってあの痛めたのか ちょっと分からないです思いやすごいな 運野先生この ねではそうねこれがあのうちの実家の家族 なんですけどで左側があの母の姉夫婦と従 で真ん中があの母の両親ですね左が母の父 おばあちゃんでおじいさんとおばさんで あのおじいさんはあの上野美術学校って今 の芸大に行ってましてあの学科だったん ですうんそれであの印象派の画家でモネと かルノワールが大好きでそれでよくあの絵 を書いてましたでもあのプロの画だったん ですけどあの本当にあのすごく地味なお じいさんで自分の絵を1枚も人に売った ことがなく てあげてたですねでうちにも何枚かあのお じいさんの絵はまだ残ってますでこのおば ちゃんに抱されてるのが私で 一切これはあのだからていうかうちは 吉祥寺なんですけれどもあの母の両親が あのだから祖父があの長野県から高藤から 出てきまして吉祥寺に土地を買ったんです ね武蔵野の野原の頃にそれで割合い土地が 広かったのでとそこでのあの漁師が結婚し ましたらその敷地内にもう1件家を立てて そこで住んでたんですねそれで叔父とおば 夫婦は叔父があの防衛省に務めてたもんで 東京勤務だからもうあの両親とあの自分の 女房の両親と一緒に容姿じゃないんです けど暮らしててもう大家族であの私も隣の おじいさんおばさんの家にはもう自分の家 のように出入りしててそういう暮らしでし たこれはですねあのドイツにあの私は小

学校4年生の時あのさっき小田先生からお 話し合ったんけどマックスプランク インスティチュートミヘにあるんですけど そこに1年間父が行きましした時にあの 家族で行きましてはいそれで私と妹はあの ドイツ語はま何にも分からないままあの 現地の小学校にポンって入れられまして うんでまあのいい経験でしたけどまこれは ドイツの帰りにあのちょっと旅行なんか 学会もあったみたいなんですけどいろんな とこ旅行してこれはギリシャの アクロポリスですね私が小学校4年生で妹 が3年 生うんということであこれはあのエジプト のですねはいだからまあのその当時 あんまり海外旅行してる人はいなかったん であのなんか日本人の子供っていうのが ほとんどあのヨーロッパでもいなくてミヘ なんかではあのどっか出かけるとなんかあ 動物園行っても動物よりも私たちの方 じろじろ見やれてすごく嫌だったあなんか 一周あの回られて見られたこと うんでこれはねちょっとわからどなたか 分かる方いらっしゃいますかこの外国人の ご祭 がな天門学のなんか方です分かりません けどあの多分日本に来られた時ですかね うんはいなんか外国人のおあこれはあの 小崎先生の結婚 式それでなんか最初にあのね父が仲したて 漁師が仲したってことで皆さんあの今 いらっしゃってる方も何人か映っ てらっしゃるんじゃないかと思います けど木さ加藤先生も映ってらっしゃいます いやはずです ねちょっといやこれ家族私の 家族あ家族のあそうですね関先生のみんな ではないんですねはいわかりましうん崎 さんのお隣が運野先生ですよねあそうです そう ですこれが母で父があっちですはい そう奥様も今日いらしてます からでこれはなんかあの食事会ですかね うんなんかよくわかりませんけどま若い頃 ですね うんこれはね鳥原じゃないか山梨のだと 思うんですけど はいあそれちょっと飛びますけどこれは あのうが高校2年にあのオーストラリアの シドニーにやっぱり父が行ってましてその 時家族で行ってはいでこんな勘がるとか あのオーストラリアでしてたか言いますと もう父は石堀が大好きで毎週土曜日にあの もうあのどこにも行かずに化石ばっかりの オーストラリアせっかくいたから私は

もっと色々旅行したかったんですけど化石 ホばっかり [笑い] 付き合わせまだ化石もね家に一部置いて ありますけどはいご自宅のあの が時の自宅のあの門のところにあの父が 取った化石をこうはめ込んであってそれで 家を壊すのがすごく嫌がったんですけど もうあの壊しね壊してしまいましたけど これも若い頃でお隣はどうなったか分かり ますちょっと分かりますわかりショレョ ションターレンですかねあションターレン さんは中国の方そうですああそうですね ションターレンさんってよくお名前聞き ましたションターレンさんが若い時のです ねえ父はこ30代あこのあごめんなさい このインドの方はルドライヤーさんって いう方で私はお会いしたことないんです けどあの父もちょっとインドに学会中で よく行っててインドからもあの天王学の 教授の方とかいらしててとうちの母と妹も いたんですかねちょっと何ヶ月かひどにて その時に大変にお世話になった ルッドライヤーさんていうご夫婦みたい ですでこれがケが教室ですかこれ近畿大学 じゃないですか近畿大学あ近畿大学ですか ね はいあのちょっとお名前わかんないんです けど近畿大学にも10年間いましたから はいあの運野先生のあの斜め後ろの方が湯 さんあ湯さんですね岩 さんあの今京都にねいらっしゃいます今日 はあのちょうどお見になれなかったんです そうですねあの葬儀の時はいらして いただいてました はいでこの外国人のご夫妻は分かりますか 私分からないんです真ん中に映ってるのが 出口さんてえ出口さんで今日はお見えに なってないんですけどもはいあのやっぱり 文のスクールのですあそうなんですねこの ご夫婦はねちょっと残念ながら分からない んですけど はいこれもね山山梨かなれはあそうですね 山梨の別荘ですねこれ はいあの千時間別荘に千時間っていう名前 をつけてあれして ますこのご夫婦はあアメリカ人ですかね ちょっと分からないですけどうんこれも 山梨ですそうです別荘ですね でこのお写真もちょっと分からないんです けど野か分かります かねはいあこれちょっとなんかこれは私の あの息子が2人映ってますはいあの母の 後ろに映ってるのが太郎でこちがしていう んですけどえっと健太郎は今あのインドの

日本確かで外交会をやってましてでこっち の直しの方はなんかねあの父に似てるって 今の向い頃の父にすごく似てるってよく 言われるんですけどはいあの東大の原子力 工学の方出ましてあの今あの柏の東大 キャンパスで研究をやっておりますで なんか天文学のともちょっと関係がある みたいでジャクサとも一緒になんか仕事し ててこないだ葬儀の時にあのね天文の先生 とお話しさせていただいたらなんあのさん かあ そうあで今後ともよろしくお願いいたし ますこんなところであれです はいあこれはねどこでしょうなんか ちょっと分からないんですけどなんか表情 がいいなと思って通りますでうちのね ジナーがねすごく似てるんです 父な覚醒遺伝で顔がすごくなんか嫌が地は 嫌がっ てるで私もなんかね父にてるって子供の頃 から言われてそれもね あんまりパパに似てる方が良かったなと 思 あはいじゃこれでさんいいた写真は ちょうどここまでなんですけどそう続けて どうぞお話いやいやいやもうこの写真でお 分かりいただけたと思いますけどね本当に 本日はねあのお忙しい中をがちょっとお体 の悪い方もねいらっしゃったみたいでも それをしてきていただきましてありがとう ございましたそれからねこの企画をして いただいたあの天文の方にも本当にあの 感謝しておりますもう父もあの姿は見え ませんけどきくとどっかに行ってあの喜ん で あの皆さんと一緒にいると思いますはい それで今もうあの山梨の方に生体寺ってお 寺があってそこのところにお墓がありまし てそれはあのうちの歯が割と早く80歳で 亡くなっちゃったんですけど亡くなる少し 前にあのお墓を新しく買いましてでそこで 母1人で入ってたんですけど父が自分のせ 生前解明をもう作ってそこに刻んであり ますほんで今はやっと仲良く2人で入って であのもうね母も寂しくなくて2人であの あちらの世界に行ったんじゃないかなって 思っておりますはいあの本当に今日は ありがとうございましたそれからあのこ皆 様ねあのご健康とごタをお祈りしまして それから今後もあの私たちまだいますで よろしくお願いいしますありがとうござい まし [拍手] たどうもありがとうございましたえっと ちょっと宇野先生の天文教室関係でのあの

古い写真が見当たりましたのでちょっと ご覧いただこうと思い ますこれは192年のえ天文学教室の集合 写真でえその頃天文学教室はえアザブに あったと伺っております小田先生はアブの 時ご存知いらっしゃいます かでこの1952年っていうのはあの年方 を拾ってみますと運野先生が え大学院の特別研究性からえ天文台の助教 時に移られる頃だと思うんですこれ多分3 月の頃の写真だと思うんでこの時にはまだ 特別研究員だったのかもしれませんえ運野 先生は えっとどお分かりになりますかねあ分かり ます1番後ろあの真ん中ここにおられます ああ分かりますねすぐ分かるでえっと天文 の関係で言いますとこれがあの運先生の 指導協会になりました萩原先生それから えっと 先生からあの色々なあの天文の あのもうすでに奇跡に入った方方も いらっしゃいますけどもあの色々な古い方 が映っておられます山 さんこれ1953年でこれがやっぱりアブ の天文教室でえこれの時には運野先生は もうすでに天文台の助教時でやられたん ですけども運野先生がえっとちょうどここ におられます 天文関係で言いますとえっと1番こちらが え大沢先生高瀬先生運野先生この辺は青木 先生でしょうかねから西先生ですとかあの もちろん藤田先生え萩原先生え神先生と いらっしゃいますで1953年ですとえ 今日はあの残念ながらお見になることでき なかったんですけども先生がまだ学生の頃 でこありますで平先生のお隣に いらっしゃるのが今年お亡くなりやっぱり 昨年お亡くなりになられちゃったんです けども堀井先生 ですまだ若い頃 ので天満教室はえっと昔あにあったんです けども浅のまとあのたぬきが出るような ところ書んですけどそこの朝にあったん ですけどもそれが1960年にえ文教区の やい本合キャンパスにま接してるわけです けれどもそこに移りましたでその時の最後 のあの写集合写真です後ろに見えており ますのは当然ながら東京タワーでえ東京昔 の東京オリンピックに合わせて一生懸命 作るてる最中でまだ完成していない時だと 思いますあのの夕日っていうのが漫画の 漫画って言いますかあの有名な映画になっ ておりますけれどもちょうどその頃の写真 になりますで運野先生 はどこにいらっしゃいますかね

えっとあ左の方左のそうですはいこちらに らっしゃ のでえっと萩原先生がこちらであとはあの 俺ピレがいらっしゃいます ストだったで今はもうアブて言いますと あのとんでもないところですけども ちょうど後ろに見えているのがの天文室の 建物だと思いますでこのいうまだセクタ ストーブの突の時代だったんだと理解して おり ますで時間は飛びましてこれ1977 年室で磯田さんと磯田幸子さんというのが あのずっと長らくえお住めいただいたん ですけども私なんかも世になったんです けど伊田さんの退職記念の時にえちょうど 9月なんですがえその時にその日に たまたまおりましたえ天文ケスのえ大学 院生まで含めてスタッフ一同の集合写真 です田さんがちょうど真ん中真ん中ので えっと運野先生から崎先生から今日は いらしです安藤さんそれから小平先生 が で堀先生それから今日らしておりますえ 吉田春夫さんそれから谷川さんそれから 木村さん藤田先生がこちらですで小中さん が興味ですおさんこちらで私もこんな 髪あまし たでこれはあのもうやよいに譲っており まして理学部の参合官っていうまだまだ 建物の地震はありますけども天文ケスは 映っておりますで当時はえ天文ケースで 毎年1回秋にレクリエーションていうのが ございましてえその時にえこの1984年 ですとちょ高尾さんに行ったみたいでえ 先生これ吉田さん吉田さんさんがえに提供 していただいたんですけど吉田治夫さん から大崎さんそれから私はこちらに移って おり ますでこれはあの1986年3月に宇野正 先生が東大体感定年で体感ちょうど60歳 だったんですけどもその時はえ60歳の 定年体感のの記念パーティーの時のです まだ当時当然ながらあの若くいらっしゃっ てえその後近畿大学の方に10年間めに なってえまた東京に戻って来られましたま 簡単でございますがあの古い写真 を楽しまれていただけたらと思いますどう もありがとうござい ますの弟子ではありませんで崎先生の私は 弟子でで えあの指導いただいたわけですがえ私が 学生の頃ですね駒場から映ってきた時に 運野先生があの非常に難しい講義をされて え厚生の内部行動のえ運野先生はういうは あのちょっと欠点はあるのはですね

イントロダクションがなくていきなり確信 の話から始められるので初めてその 学入ってきた我々はメク さっぱりわからずその半年終わってしまい ましたでその途中で先生はオーストラリア に行ってしまわれて今あの写真にありまし たですねあの時にっであの課題としてです ねえ出された問題が非常に難しくてえそこ におられる藤本正さんも多分同じ講義を 受けたと思うんですけどその時ま上野学年 の方はあの分かってたんですよねさとって あの多分レポート出されたと思います我々 の学さっぱり何も分からないんでみんなで 集まってですねえ勉強をしてそれをまとめ てですね連盟であのレポート出したんで あのオーストラリア送り付けたんですねそ したら帰ってきた答えがですね連盟は消し からなるとあの関心いたしませんて書いて ありましたでただ私のその講が難しかった というのは解するまだから合格点を上げる けれども今後そういうことはないようにと それからもう1つね学者としてえ君たち やるんであればあ2年こいう分野をあの精 杯やりなさいとそうすれば専門家になれる とでそれを5年ある4年だったかな5年 だったか続けるとオーソリティになります よと書いてあってですねその通り慣れたか どうか別にしてですね先生の学問感が非常 によく現れてるという風に思いましたで 先生はえ学生に厳しいことはあんまり おっしゃらない方で自分の興味があると それはその講義の弟とは関係なく抗議さ れるんで我々学生非常に迷惑しましたけ あのまだけど非常に優しい先生でえそこに る谷川さんとか一緒にさそうだったかな あの御殿下で野球部のあの学内対抗があっ た時えその時に運野先生はねわざわざ自転 車で応援に来てくださったんですえそれは もう非常に痛く感動しておりましたで 終わった後あの全然思ってはくれません でした けどだけど非常に楽しい時間を過ごして ですね先生も多分学生の若い力をですね 吸収されたんだろうというふに思っており 私はその運野先生とはそれぐらいしか 付き合いがなくてえあとあの意とか将棋と かですねえそういうあの難しい戦時間とか そういったこととかあんまりあの付き合っ てなくて当初3回ぐらい私の部屋に来られ たんですがあのえスバルのプロジェクト 忙しくてお相手できなかったら先生は さっさと見切りをつけてもう以後来なく なりましたけれどあのえま非常にその いろんな方面に趣味をあの広げてその関心 を持っておられましたで私の友達にあ山形

君ていう海洋学者がいるんです彼はあの 待機循環とかそういったところが専門でえ 東大の名誉教授会がある時にですね出かけ ていくとあの海洋大循環論というのを仕り に山形君に解いたっていうんですねでそれ がさっぱり分からずにその王女したという 彼あのこの間この会に出るって言ったら彼 がそういうメールを汚してまして非常にウ の先生のその幅の広さですねそれから自分 なりに考えた理論を非常にせずですね専門 家にもぶつけるという非常にもう先生とし てはあの遺憾なくその能力と あのキったを必にされた例じゃないかと 思いますえ私のお話はそのぐらいさせて いただきますどうもありがとうございまし [拍手] た呼にどうもありがとうございました エネルギーを使うこと考え なしばらくご談ご歓談ください [音楽] ませえ日本に来まして えっと先祖は韓国からおじいさんの時韓国 から中国の東北にいてえそれから私が26 年前に日本にいらっしゃいましてえ運先生 とご縁でえ出会いましてはいえっと本日は 運先生をのご服をお祈りいたしましてえ様 で 青をご昭和のほどよろしくお願いし ます歌大丈夫ですか1番だけは大丈夫1番 1番だけじゃあ歌い [音楽] ましょう 我 の 押しの 庭に も 早く とせ えばと この [音楽] 年 今 こそ われ めざさありがとうござい ましあります [拍手] か失礼し [音楽] ますさどうも大変どうもありがとうござい まし たをする 前まし

て先生の思い出話をまた1つ桜井さんにお 願いしたいと思いますがなって 京都大学へ行かれても義の前 にです ね変わった変わっ たあ桜と申しますあの私の教員は内田先生 なのであのから言います分に当たるのかな と思いますけどもただあの今後に行った時 はあの運ゼに出ておりましたしされて私も あの伺ったことがございますでその東京 自由大学のえ創設に関わられましたって 言いますか創設者って言った方がいるのか もしれません蒲田徹二さんに今日来て いただいておりますので運野先生のそれに まつわるお話ですとかお聞かせなえればと 思っておりますどうぞよろしくお願い いたし ます 蒲治と願いし ます今日運野先生のツイート運野郎先生と いう冊を見ていて驚いたことがありました 皆様お手元にありましたら是非開いてご覧 になって欲しいんですけど276ページの 写真ですね 東京天文学教師での運先生これを見て私は ピーンと来るものがあったんです よ人気俳優なんですけどね誰に似てると 思いです かまり子さん誰 えんこれはねあのお母様を挑めた最大の 理由じゃないかと 思リ藤岡にそっくり あ似てませ んあの員藤岡を細身にしたらこんな感じに なります よそれでねやっぱりね ハンサムでこのハンサムな先生がま星の ことばっかり語っているとそれだけでね あの天門内に詰めていたお母様はベロベロ になったんじゃないかま運野先生はその こと を話はされなかったんだがうん それから私がですね是非皆さんに私は文系 ですのであのまその今カメラを撮ってくれ ている東京大学名誉教授の下園進む先生今 2代目のあの運野先生の後東京10大学の 学長をね務めてくれています東京大学は 大変9になってきて東京富由大学になって きたので定年後は自由に活動したい東京由 大学の2目の学長ついてくれます2台続い てですね東京自由大学は東京大学名誉教授 天文学者から宗教学者に入りますでも宗教 学のあの島先生は元々入ったのはりさです ので医学志望でご両親共にご両親とかあの おじいさんが東京大学の内科の教授でした

のでそういう意味ではあの者さん一家なん ですねうんでその学問の東京柔大学のこう すごいこうメンバーシップっていうのは 運野先生のグループの方々が重大学にも 宇宙を知るコースで色々と登場して くださいましたで私の方はあの宗教学とか 哲学とかの方面ですのでそこで日本の文化 を中心に研究してきなんですけどねえ日本 の 悲悲を表す文学に3つ3大文学があるで1 番目が乞食乞は悲の文学の最古のもの2番 目が平物あたり3番目が区外土この3つが 日本の3大悲文学か悲しみの文学だと思っ てるんですけど2番目のですね平形物語り ですけど皆さんご存知の方どれぐらい いらっしゃるんでしょうかう先生の祖が 平物作者でやったということご存知の 方え子さんとそれから小先生ですかはい あの1番その後ろの方の先生 [音楽] は中田先生です先生谷川ですあれいたし ます谷川先生ですか先生から聞きました うの先生これあの連さんに書いてあるん ですよ吉田健のえっと最後の方のねえ ところの説にえ運の雪ながという人これが 先度にあたるの運の幸長が生物という目の 見えない小坊さんにま色々とそのシナリオ みたいなものを教えてそしてその生物が 唱え始めたのが平物ありの原型になってい てそれを天台出すのあの自とかまいろんな 人が後押ししてやがてあの長大な平形物語 ができていたということなんですねですの で運野正郎先生のご先祖の雲野幸はま私は 間違いなく平形物語りの原作者だと思って んですねですので運野先生の中には平物 ありの原作者の血がね入っていてま言て みれば宇宙オデッセイというのか宇宙平気 物語みたいなスターウォーズみたいです けどねあのそういうようなこう物語性って いうのがま宇宙を巡る物語性っていうのが あったんじゃないかなとそういうその物語 的なナラティブな精神性っていうのが自由 な学風をねえこう生み出していろんな物語 つまり学問的な物語研究的な物語を許容し たっていうのかあの 面白いどんどんやれというね寄付で私は あのえ一流の学者の条件っていうのを運野 先生から伝授されました伝授された方 いらっしゃいます一流の学者の 条件私 だけこれは秘密のことをここでですね公開 いたしますで一の学者の条件私は2人の あの有名な先生から伝授されました1人は 山折哲蔵という宗教学者現在 9うんじゃないか3歳ぐらいですかね山

哲夫先生うん山浦先生はこう言いました第 1番目に知世ま知世がなかったら学者には 一の学者にもちろんなれない2番目に座 星3番目に衆恥ずかしいいうね 恥ずかしで2番目の座星というのは山さん らしいなって思うんですよねつまり枠組を 離れたことをできるような人間でないとイ にはなれんぞということですよねでしかし それはあのこうえってるようなあのこう 人間じゃなくてやっぱりこうちょっと はじいをこううに含んでいるで運野先生は あの山折的なあの観点から見ても一流の 学者のをね満てると思うんですねでうの 先生ご自身がじゃ私に何を伝えたかという と1番知世これは山森先生と同じです2番 目が違います運野先生は2番目好奇心と おしますキュリオシティだとこの好奇心 なくし て新しい展開はできないんやだから好奇心 を持つということこれが一流の学者にある 条件オリジナリティですよねでそれを若い 学生が3番目がま今島の数学場に引き継が れた自由大学の自由っていう多様という ことですよねあのキリシティあの抗議心に もつがっていますから自由さということ ですその自由自在なこの展開っていう風な ものをどうやってできるのかそれを許容 するそれをこう認めてクリエイティブな方 にするこれはできればえ一流の学者やと いう風なま大阪弁では言いませんけれど あの東京府でえおっしゃいましたで私は そのお2人とも一流の学者だと思っね山 哲夫さんも運野麻という運野スクールのね え学童も一の学者だと思うんですけど一流 の学者から2つもあの伝一流の学者のね 伝授されていますけれど私は我が道を言っ てるのでえそういう意味ではそのお2人の 言一流の学者に会いたどうかは全く自信が ございませんその伝授していただいた運野 郎先生に最後にですねえチコ の3つの私にとっての3種の新規え岩縄文 時代から人が吹いておりました石の笛試に が空いている血の上でえ横笛竹の横笛で3 番目にえホを放送してえ先生にえ感謝の 思い東京重大学をですねまあ10年以上に わたって面白い大学にしていただいた五王 にこういう形で え感謝の思いを捧げたいと思います ちょっと電気を消して自然の光だけにして いただけるとありがたい 特に岩笛がですねこの自然光の中 ではいまこんな感じ [音楽] です [音楽]

これから平物あり始まりそう なはい次が横笛 です [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [笑い] [音楽] K [音楽] 最後に宇宙の虎さんを先生は実証されてい ますのの村さんに [音楽] を [音楽] ありがとうござい ます [音楽] 先生どうも本当にありがとうございまし たえ先生のお話になりましたあの野先生が ハンサムだていう話で思い出したんです けどもあの今日のあの集いのために古い 写真を色々あの漁っておりましたで私の 記憶ではあの え雑誌の文芸春っていうのがございますで その文芸春という雑誌にえシリーズで色々 な珍しい写真をえシリーズでえ掲載されて いたことがありましたでその1つでえ私の 指てえ先生とお弟さんという意味ですけど も私の指定というあのシリーズがござい ましたでその時 にえ運野先生が出ておられましてえ市は 当然萩原先生それからえ秦中先生が出て 一緒に運野先生があの形成されておりまし たもう年代は私はそのずっと後にそれを 拝見したもんですから雑誌が発行された 当時は私はまだ本当にあの小さい子供でし たので存じ上げておらないんですけれども え後々に天文教室に入ってから拝見する ことができましたでその時にあのびっくり しましたのはあの萩原先生とからは先生は あの名前だけ私は存じ上げておりましてま 昔の写真では存じ上げていたんですけども 運野先生はあの当然私あの学生でしたから あの存じ上げておりますでその運野先生と は あの失礼な言い方ですけどもちょっと似て も似つかぬて言います か本当にダンディなんですねでもう本当に 映画スターじゃなかろうかっていうバチっ と決めておられましてでそれをあの先絶対 にこの写真を見つけたいと思ったんですが 残念ながら今今日には間に合うことができ ませんでしたあのでも蒲先生のお話を聞い

て出すことができましたありがとうござい ました がで最後の最後になりますけども えっと え今日の北人の1人でます米山さんにえ昔 の思い出人挨たいと思い ます マイクマイクあ はい え米山です入ってます入って ない米山ですあの今年に入りまし て崎さん橋さんと話をしましてま運先生の 部会をやろうということにえ決めていい さんには特に色々お世話になりました ありがとうございますえその前に あの私と運野先生の関係で言いますとま あのいろんなことを教わりました特に僕は あのなんて言いますかねえ天文学としては あんまりどうもいい学生じゃなかったよう な今から思ってもそう思いますだけど運野 先生と運野先生いろんなことに興味を持っ てるんですね僕が知ってるだけでも 特に仏教関係が多かったですでそれ以外に は後で言います総子の話とかいろんなこと で雲先生との関わりが出てきてまはっきり 言います と学問は別として え遊びと言いますかその他の興味あること は多分僕が1番え関わってきたんじゃない かと思います簡単に言いますとあの最初に 天文学で あま大学院へ入ってその前もあの何回かお 会してるんですけど天文学で大学院でです ねえ何をやろうかと思った時にえ宇宙には 銀河っていうのがあってえ構成というだ 大きさの段階もあるでところがその間には 急場星団っていうのがま星が10万個から 100万個ぐらい集まってる天体があるん ですがそれがどうしてできたのかって昔 から疑問にもあってでそれをまずやりたい と思ってたんですがまあ運野先生はあの そこら辺 はその後あの崎さんとか安藤君とか柴君と かが色々やってきたノンラディアルって いう難しい話があってでそれでやってみ たらとかいう話になったんですで結局ギブ アップしましてそれ無理ですっ てで結局はあのガスが冷える時にね だんだん暑くなるわわけでで膨張してあ それが今度ですねあの熱を放出するまその バランスでなんとかやってできないかなと 思ってマスター論文もドクター論文も そんなことでいい加減な論文でなんとか あの通してもらったわけですでその後運野 先生とはですねあのまず5があり以後が

あります以後 は僕とかあとは そこにいおられる谷川君とか正木さんって いう方そのありがどうもなんとか同じレベ 大体同じレベルなんですねで一生懸命打て た覚えがありますでその後はですね あのえっとはそういうとかいう話をからと いうより20年なってからですね 急にあのコロナが拡大してきましてたん ですけど一袋に入ってないのがあるんです けどちょっと確認し てあ入ってまし たあそうなんです入ってないのはで私の とろ に自分 のは ない来ようと思ってたんです けどもしあの入ってませんでしたらあの 教えて くださいあ入ってまし たじゃあ本当に今日はあの楽しい一時を 過ごさせていただきましてなんかあの本当 に寂しいっていうよりなんか昔の思い出が いっぱいですごく心はまるいい会をして いただきまして本当に皆様あのねいろんな ところからあの大学関係とか自由大学とか あのその総子の会とかいろんな会の方に来 ていただきまして本当にありがとうござい ましたあの気をつけて [拍手] [音楽] おり わ 忘れよ として [笑い] も 思い 出せ [音楽] ない 忘れようとして も 思い出せない まこの感覚なんですよ [音楽] ね忘れようとしても忘れられないんじゃ なくて忘れようとしても思い出せない感じ であるだよねこの 忘れ忘れようともしてないんだけどなんか そういう辺の詰まったようなあのはっきり しないようなものこれ先ほど言った死も そうだけどもなんか知ってるわけですよね その辺のうん分かっちゃいだけ本当に死ん でないからうんまほ分かってはいない

リアルにはまはっきりとこうね真当をして ないだけど薄薄はもちろんよく分かってる うん魂は分かってると思ってる感覚はある うんまそれがあるためにま魂の感覚が強く あるためにかな死でも肉体が滅んでもあの あるというこの体ができると いう [音楽] うん実際対話してるように思ってんですよ ね自分でねうん死者となんか好きな時に 対話できるわけね感じ覚として はうんそういう風に思ってることは確か ですねで好きなように別にあの霊媒のよう に呼び出すわけじゃないそんな自然なこと はしませんけどうん自分が問いかけてい くっていうことに対してのうんその 問いかける存在としてねうんであという リアリティを持ってるそういう思いは強く ありますそれがあるためにうんま自分に とって寂しいわけじゃないんですよ対者 うんあの対者として存在してる からあの肉もあの久しい人 [音楽] もで大一郎というね時々 ねで寂しいなていう風にあの妻にいったり することあるんだけどねそれは何かと言と ねいつもなら彼から電話がかかってくんや けどなとこの辺の電話がかかってこんわて いうこういう感覚ねだけどそれは全体とし てうんあのそういうこう日常のツールを 失ったけどあのえ大一郎と対するという 感覚は 彼のををね自分の部屋に置いてあるんです けどね死んで2015年に死にましたので 9年今年で丸9年になるんです が骨は自分のあの骨のうちのそう1/5 ぐらいえ息子さんからもらって奥さんから もらって置いてあるんだ けどそれ一部かじったん です埋めたり一部山にねうん散骨したり うん海にも散骨したうん高島もうんま そんなようなことをしておりますがまそう いうことをしながらも彼の映画の上映会を やったりしてうん別に寂しいと思ってもい ないなという死を見とったんですよ息を きるうんところまでだから私が完璧に息を 1で火とる瞬間まであの見とったのは大 純郎ただ1人うん彼が69歳でうんえ肝臓 癌を17回かな手術して脳内出血で半神 付随でうんえ亡くなりましたえ下川デスト 映画三部作を完成させてうんまそんなよう なことがありましたけどね うんで彼が言ったのはあの世にニかがある んじゃなくて最後のメッセージですよ大 さんのくで席第3部風省の最後の彼もう

本当にあの死のとこでね自分の声でね自分 のあの思ってる感覚を一言乗せてくれと 映画に記録してうんえ地下水脈のようにね こう残ってるものが高島のイザ法という議 は失われてなくなってきしまったけどもで もあの地下睡役としてねずっとをこう流れ てるものがあるとそれを確認したと自分は そしてえあの世が向こう側に荷台変ないが あると思ってるとうんでもこの地上こそが この島こそがこの楽園ニかではないかと うん今ここがニかないだという風な メッセージで終わってんのよ うんその感覚は ね結構分かってきましたねうんからあの心 に響くものがありましたけどま自分があま 大さんのまガのまだ末期まではいってない のでステージ4の段階だけも天はうん確実 に広がりつつあってるのでまいずれ巻がに あるでしょうだけどもどういう風な状況に なってもうん このこの世にあることの 貴重さみたいなね命のそれはひしとだから こそ股がりしてもがくね万遊主人として 活動できるねあの日々を大切にしようねて 一緒にね言い聞かせて風呂でね命の声に耳 を傾け生きて生きて生きていけとうんだ から命ある限り生きていこうという風にし てい たらからねえ届いたというそれで今日 こんなようなうん対話になってこれがその もねありがとうございました白大学の第 115回目のいよ最後に一言5さんえはい いや最最後まこのこの事業の最後あなんと いういやいやそれは分かったんだけど なんか一になるよう なてなんだかわかんないんですよなんか そうやってあと突然やってきて突然こう なったらこう出会えるようになっても なんか本当はあの予定があってどうしよう かなと思ったんだけどやっぱこっちの方が 大事だと思って今今松さんに会わなきゃっ ていう思いだけでやってきたので なんかなんかわかんないけど開いたのは なんか良かったですねうんありがとう 僕はやっぱま鳥山マジックにでも僕はやか いなくなったらやっぱ寂しいなと思なんか かできるだけ地上にとまっていてください あありがとうございますそのお心はあの 受け止めました が私はどうなっても別に寂しくないので あのあのあのみんなが面白く楽しく言いて くればそれで十分でございますじゃあここ で終了いたしますどうもありがとうござい ましたありがとうございました寂しくな いってのも分かるんだけどなんかひょっと

した時にねやっぱ寂しさってその電話って いうんじゃないんだけどうんなんかえこう いうことでと思うだけどねなんかふっうん あれて思う時あんだよねなんか取りそう いう時は歌が出てくるかなああなるほどね そう歌そういう時に歌を歌うとねうん歌に なってるね はいは歌になりますわですごいね鳥山さん があの時に一言言ったことがここまで ずっとするなってそうそうそうなってる から

2 comments
  1. 鎌田先生、島薗先生、お疲れ様でした。石笛、横笛、法螺貝の響きは海野先生に届き、海野先生は、これからも姿を変えて共に生きてくださるのだと思いました。合掌

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