兼家の野望の前に立ちはだかった真面目な仕事人 左大臣 源雅信の生涯【光る君へ】

兼家の野望の前に立ちはだかった真面目な仕事人  左大臣 源雅信の生涯【光る君へ】



参考文献
山本信吉『摂関政治史論考』
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目崎徳衛『円融上皇と宇多源氏』
https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000039-I3013158
倉本一宏『公家源氏―王権を支えた名族 (中公新書 2573)』
https://amzn.to/3wwEQTe
今井源衛『花山院の生涯 (1976年) (国語国文学研究叢書〈8〉) 』
https://amzn.to/3Om4Ab2
服藤早苗『藤原道長を創った女たち』
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倉本一宏『紫式部と藤原道長 (講談社現代新書)』
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宇多天皇の孫である雅信は、野心を持たなかったこともあり円融天皇の厚い信頼を受け、天皇の孫 皇孫としては平安時代で初めて大臣になるなど非常に有能な人物でした。
温厚な性格ゆえ権力者とも上手くやることができ、やがて権力者となった兼家も完璧な雅信を追い落とすことができず、道長と倫子の結婚などを手がかりに友好関係を築くしかありませんでした。
完璧な仕事ぶりが評価を受けていたものの、自分の仕事に誇りを持つあまり、70代になってあちこちにガタが来ている身体で儀式中に醜態を晒すことも多くなり、そこを兼家に付け込まれついには兼家の躍進を許してしまいます。
今回は、野心を一切持たなかったがゆえに、兼家の圧力にも屈さず天皇中心の正しい政治のあり方を求め続けることができた実直な仕事人 源雅信の生涯について紹介します!
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#光る君へ #源雅信 #倫子 #大河ドラマ

こんにちは歴ショックです今回はとこの父 で15年の長きに渡って謝大臣を務めた源 の正信の生涯について紹介します宇田天皇 の孫という高い執事を持つ政信はあまり 野心を持たなかったこともあり遠天皇の 熱い信頼を受け天皇の孫高村としては平安 時代で初めて大臣になるなど非常に有能な 人物でした温厚な性格ゆえ歴代の権力者と もうまくやることができやがて権力者と なった金も完璧な政信を追い落とすことも 力で抑えつけることもできず道長ととこの 結婚などを手がかりに有効関係を気づく しかありませんでしたミスのない完璧な 仕事ぶりが評価を受けていたものの自分の 仕事に誇りを持つあまり70代になって あちこちにガが来ている体で儀式中に集を さらすことも多くなりそこを金家に つけ込まついには金の役を許してしまい ます今回は野心を一切持たなかったがゆえ に金の圧力にも屈さず天皇中心の正しい 政治のあり方を求め続けることができた 実直な仕事人源の政信の障害について紹介 し ます実直な仕事ぶりが評価され歴史に残る 出世を成し遂げる本の政信の 執事源の政信は920年宇田天皇の第8 王子で第5天皇の同歩帝である厚み新王の 三難として生まれ当初は鉱石にあったため 正野武王と名乗っていました後に大臣とし て並び立つ藤原の金家の9歳年上藤原の よりただの5歳年上に当たるなど執事に 加え年齢でも同時代の貴族たちより 抜きん出ています正信はレゼ永雄天皇の父 村上天皇とはいこの関係にあり母は藤原の 金の祖父田平の兄時平の娘で菅原の道を 追い落としたことでも知られる藤原の時平 は早にするまでは藤原市のトップにいた 人物であり正信は特に高い執事を持ってい ました16歳の時に皇族から親戚降下して 源を名乗り正信から始まった源子は後に宇 源二と呼ばれるようになります正信は元 皇族であるため藤原市など上流貴族ですら 守のからキャリアをスタートするところ樹 のにいきなり除されました当時は皇族出身 と言っても天皇の王子とその子の2世では 扱いに差があり一世では養殖につくものも 多くいましたが2世ともなると出世する ものも限られていましたそんな中真面目な 性格の政信は実直に仕事に取り組み948 年には村上天皇の苦労殿とさらには951 年には31歳の若さで参議に昇進し朝定 政治の中枢に関わるようになり 正信の順調な出世には第5天皇の同母で ある上に宇田天皇の王子たちの中で唯一 存命で皇族の筆頭角に位置していた厚み

神王の存在があり正信の出世はある種の親 の七光の側面もあったと見られます正信の 兄2人は出家していたため産難であり ながら正信が恩恵を受けることとなりまし たがギレや芸能に精通し原型音玉の外称え られた厚み神王から正信は義弟茂信は芸能 の義法を受け継いでおり正信は確かな実力 も有していました46歳になった正信が 有力貴族として躍進し始めていた966年 に生まれたのが後に藤原の道長の妻となる 友子です宇天皇の知性を理想とする永雄 天皇が969年に即位すると宇天皇の孫に あたるマサはますます徴用されるように なり970年に中ナゴ52歳になった 972年にはダイナゴンまで昇進しました マノが徴用された理由の1つに永雄天皇が 出家していた正信の兄館長に帰依していた からというのがあり永雄天皇は館長に感化 されて対位後に出家を果たすほどで政信も 政治的野心をあまり持たなかったからこそ 宇源二の一員として徴用されたと言えます この時代永雄天皇はレゼ天皇と火山天皇の 間の1台限りの中継身分からの脱を目指し ていました雄天皇は弟金家に先を越されて いた藤原の金道を内大臣内乱として政治の 中枢に据え金道中心に政治は回り始め やがて金道は関白打上大臣に登ります当時 の序列は打上大臣に金道政信のいに当たる 第5天皇第11王子源の金明を謝大臣藤原 の寄田をウ大臣としてそしてその下の大 ナゴンに正信がいました実験を握る金道は 序列が上の源の金明を差し置いて宇大臣の 寄りただ特永雄天皇の信頼も得ており 977年には1度は親戚降下した金明を 再び金明新王として功績に戻すことで金明 を大臣の坂追い払っていますその結果打上 大臣金道佐大臣よたにつう大人に正信が つくこととなりました正信は天皇の孫で ある2世としてはの大臣であり奈良時代 以前でも数霊しかないことから自らその 海峡を強調するほどで57歳になっていた マ一手は現時全体から見ても画期的な 出来事でした金道と金家の対立など上帝 政治の核となる藤原市は内部対立ばかりで ありそんな中天皇家の血煙者でもあるマは ますます信頼を得て上帝政治で重きをなし ていくこととなり ます永雄天皇の熱い信頼の元藤原氏の力を 抑えつける大臣時代の 正信正信は武大臣に登ったと言っても通常 打上大臣がいる時は佐大臣は飾り物で宇 大臣が政治を支配するはずが今まで通り佐 大臣のよただが金道と協力して政治を 仕切っており政信がすぐに強大な力を得る ことはありませんでしたさらに謝大臣を

追われた源の金明や969年のアナの編で 同じく人から戦された源の高明など第5 天皇の王子を中心とした健人一族は勢力を 失いつつあり五大臣としての正信の権力は 遠天皇との繋がりに依存するところが大 でしたただし政信は温厚な性格で仕事に 実直に取り組む人物だったと当時の記録に あるため源の金明などが失客する中でも 金道ら権力者と強調できたのだろうと推測 されています同年に金道がなくなるとと謝 大臣の緑たがトップに立ち死の間際の金道 の移行で関白になりましたしかしこの人間 は関白の座を開けておくことで対立する 金家が関白になることを金道が嫌っただけ とされており天皇と遠石関係のない織ただ は関白には不適格でした一方自ら政治を 行うことを目指す遠天皇は監督のゆただに 一任するのではなくナンバー2のマノを 徴用するようになり元であり権力争いに さほど関心のない正信は永雄天皇の意の ままに動く存在となりますこのままでは遠 天皇と政信の2人に藤原氏が握っていた 政治の実験を奪われてしまうと焦った百田 は978年10月に自身が打上大臣正を佐 大臣にして会た宇大臣のポストに礼遇され ていた金家を据えました毒を持って毒を 精しと言わんばかりに永雄天皇政の神聖の 立てを藤原氏が一体となって抑えにかかっ たのですそれでも遠天皇は正信を徴用しよ ただではなく正信に政務の執行について 直接指示し正信も延雄天皇に忠実に従い 打上官を仕切って政務を進めていきます武 大臣となり復建した金は早速勢力拡大を 図り娘明子遠雄天皇に代させ980年には 唯一の王子となる安一神王が生まれました しかし雄天皇は明子ではなくこの否なかっ たよただの娘信子を982年に中宮として 金の反感を買っており永雄天皇は正信緑田 金の三大人の勢力を均衡させて自らの勢力 を維持していました982年時点で長女の とこは16歳となっており23歳の永雄 天皇に受台させるにはぴったりでしたこの 稲内のぶが中宮になるくらいなのでとこに もチャンスはあったはずですが代の計画 すらなかったことから正信は娘の時代に よるさらなる達は狙っていなかったと見 られます正信は謝大臣ではあったものの 永雄天皇との血縁関係以外に頼れる勢力は なく本音では有力者の金と遠石関係を結び たがっていたともされていますただし 978年まで金が礼遇されていた影響で 息子たちも政の高い身分につり合うだけの 昇進ができないうちに火貴族の娘を妻とし ており政信は友子に結婚的レを過ぎさせて しまいましたやがて金との対立も抱えてい

た遠天皇は息子の康人新王の即位を確実に するために交代使の火山天皇に上意し監督 の寄田は永雄天皇が対位後の影響力を持つ ためにそのまま留任しますですが本来の 天皇家着流さ天皇は後頭山奪を狙う雄天皇 とは大立関係にあり監督に留任した緑たは 遠ざけられやがて板になることを嫌って 出資しなくなってしまいましたそのため 正野が朝定政治を筆頭業として主導する こととなりこの時期クロードの党であった 藤原の助も政信の真面目な仕事ぶりを日記 に書き残していますしかし火山政治も 985年7月に火山天皇の子を見守ってい たよし子が亡くなったことでその父で最大 の支援性であった藤原のためとの繋がりを 失っていこう一気に崩壊していきました もも遠性リレなど有力貴族の反発を招く 政策を進めていた上にたみとの定型が なくなった後若い外積の藤原の吉地が参議 権の中名言と強引に昇進し自ら調定政治を 動かそうとしたためいよいよ見放され始め ます実直に政務に取り組む様子が評価され ていた政信すら出資することが減っていき 兼ねてから繋がりのあった遠法王の元に 出向いたりしておりうてが亡くなった火山 天皇は金への即suppもあり986年に 出家退位しましたこの後金家の娘明子が 産んだ一条天皇が即位し金は清勝に就任し ますが火山天皇時代にはほぼ活動せず監督 のチーを失った緑田はもはや金家の敵とは なり得ませんでしたむしろ謝大臣として 朝定政治を主導し援法王ともつながりの あった正信こそが権力者となった金家に とっては最も厄介な存在となります金は まずは謝大臣である政信の上に立つため武 大臣を辞任して接しのみの身分になること で政信どころか打上大臣の寄りたをも 上回る地位を手に入れましたそして自身の 公認の宇大臣に火山時代は競争関係にあっ たもののよし子死後に保護家に置いていた エボのたみを据え正信と協力して政治に 当たらせマとは敵対しない方針を取ります 政治的野心を持たず実直かつ意欲的に政治 に取り組んでいるだけの正信のことはイも つけて追い落とすことも力で抑えつける こともできず政信が金井への勢力に遠慮し て謝大臣を辞任することもなかったため 有効関係を気づくしかなかったのですマは この時点で66歳となっており高齢による 不調を訴えるようになっていましたが新 時代においてなおも勢力的に政治に 取り組んでいくこととなり ます時代が金家に傾く中でも己れの信じる 道を貫く源の正信の 万年正信と金の優和の象徴としてとこと

道長の結婚が挙げられ当時21歳の道長が 23歳のとこの元に通い987年に結婚し ます厚生の捜索である映画物語では信は 道長の分が低いと反対し道長を気に入った 妻の敦子の説得でしぶしぶ結婚を認めたと されていますですが実際はマ自身も藤原市 との繋がりを求めていた節があり正解の2 大共闘となるに至り結婚が実現した形です 政信は本の土門殿のをとに譲りやがて権力 者となる道長の底とされマの遺産をとを 通じて道長に受け継がれることとなります ももこにより正信が金家に属すると言った ことはなく省として金が天皇に変わって 政治を主導する中政信は火山天皇時代と 変わらず謝大臣として朝定政治を 取り仕切りました正信は政治に熱心だった だけではなく政務の執行行事の運営におい てミスが全くなかったとされ金家やたみ などはミスの王さに苦言を呈されることも あった一方政はまさにお手本のような働き ぶりだったと言います後年権力者となった 道長が藤原の実の仕事の見事さを褒め たえる際にまるで正信のようだと褒め言葉 に使うほどで政信は苦行の鏡として当時 から認識され本人もそれを誇りに思ってい ましたただし誇りに思うがゆえに仕事に 執着しすぎることがあり火山天皇の時代に は高齢のため足を歩くし馬に乗れなかった ため儀式での役目を金家に変わったものの 馬を降りるところで待ち構えその後の儀式 には維持でも出席しようとしたという話が ありますさらに金家が接しとなった後は 痛々しい姿を見ていられなくなった金家が 儀式の欠席を仕切りに進めるも拒否し金家 が儀式に不参加でも筆頭業の地位は変わら ないことを約束してようやく引き下がる ほどでしたある意味集をさらしたとも 言える政信の仕事熱審査と体の故障がそれ まで押しめていた金へのさらなる躍進を 招いてしまいます当時金は宇大臣のたみを 操り政信と協力させながら調定政治を 動かしていましたが自身の子道を内大臣に 据えてたみに頼らず身内だけで政治を 動かそうとしていましたしかし実質的な 大臣である金家に加え道隆まで大臣となっ ては大臣が5人と前例のない状態となる ため政部を中止する縁由法王の意行もあり これまで三貴の内大臣就任は認められてい ませんでしたそこに70代を間近にした マノが体の不調による集をさらし始めた ため貴族たちの間にマノに変わる大臣が 必要という空気が生まれてしまいます そして989年正月には政信が儀式の欠席 を続ける中道たが内大臣に就任し金井への 牽制はさらに高まりました遅れを取って

しまった政信でしたが同年の一条天皇の春 モデを巡る金永雄法王の対立では永雄法王 側に立ち再び存在感を見せつけます加は 藤原市と一条天皇のつながりをアピール するため藤原市の内神である春賀大社に 一条天皇を産経させることを決定しますが 天皇家の課長として遠法王が猛反対し1度 決定したのを覆しました春賀大社関連の 仕事は藤原族が行うのが常で中止の決定を 言い渡すのも藤原市の役目でしたがみ金井 の顔を伺い辞退してしまいますそんな中 正信は現時ながら藤原市の仕事である春賀 大社教行中止の戦事を読み上げる役目を 担い結局は明子の働きにより実現して しまうものの永雄法王による金のたみ阻に 貢献することとなりました3ヶ月後の 989年6月には座業大臣藤原の百田 990年には新たに打上大臣となっていた 藤原の金991年には友法王と長年長底 政治を共に引っ張ってきた有力者が次々と 亡くなりますが正信は70代になりながら なおも佐大臣として勢力的に政務をこし ます金の後を継いだ三貴も正信を最大限に 警戒し自らは接しを仙人となってマノの上 に立ち扱いやすいたみを金への公認の打上 大臣に据えることで政信の躍進を防ぐ一方 宇大臣には政信の弟の茂信を据えるなど 情報も見せました正信も道に敵対心は見せ ず変わらず謝大臣の職務をこなし992年 には長年左右大臣として協力してきたたみ も見送っていますそして正信はたみの死の 10ヶ月後いよいよ病が重くなり謝大臣を 辞任しようとするも許されず2ヶ月後の7 月に73歳で仕事一筋の生涯を閉じました 政信には多くの子供がおり彼らは友子の縁 で道長族に使え多くの釘源子が1台か2台 で没落していく中孫の台まで長底政治の 中枢に関わる参議は排出するなど反映し ますこのうち4男の源の助よの経夫からは 大美に勢力を持つ佐々木氏が生まれ佐々木 秀吉と佐々木4兄弟は源の義友を巨寺から 支え佐々木氏の子孫からは六角士や強国士 といった戦国江戸時代でも重要な役割を 果たす家が出てくることとなるのです 最後まで動画をご覧いただきありがとう ございました参考文献は概要欄に記載して おりますこの動画をいいなと思って いただけたら高評価チャンネル登録をお 願いしますこちらのアイコンをタップして いただけるとチャンネル登録できます Twitterウェブサイトでもたくさん の日本史情報を発信していますのでよかっ たらチェックしてみてくださいね

10 comments
  1. 宇多帝時代を目指せば自然と藤原氏は遠のけるなぁ、
    といっても時代がそれを許してくなかったけど。

  2. 雅信が、兼家にライバル意識を持たず、倫子と道長を結婚させたことが、自分を守ることに繋がった感じですね。両家ウインウインの関係。

  3. 陰謀、権謀術数渦巻く平安時代に、こういう人物もいたんですね!温厚で実直、ミスのない完璧な仕事ぶりで、さすがの兼家も簡単には排斥できなかった!藤原氏の力を抑えるために、円融法皇からも重用され、公卿の鑑とまで言われるパーフェクトな人です。その上、当の円融天皇に取り入って娘の倫子を入内させようとも考えず、後に兼家が摂政として権力を握ってからは、娘婿の道長を道隆の代わりに首脳部に招こうともしない!まさに仕事第一、業務上の遂行を何より大事に考える常識人ですね。ただあまりに非の打ち所がなくて、ちょっとつまらない人のようでもあります。意外に、娘の倫子はこの点に気づいていて、それを補うような働きを後年するのかもしれません。

  4. 17:41 の通り、この時期の有力者は皆同じ時期に活躍し亡くなっているので、人物紹介をするとどうしても皆似たりよったりの内容になってしまいます…

  5. この動画を見て、現皇族も藤原時平の子孫であることを初めて知りました。時平は道真を陥れた張本人として早死にしたとあまり後生の憶えも良くないですよね。北家嫡流である弟忠平は時平ほど悪どく描かれていませんが、道真を陥れた北家の同族の子孫である兼家の息子たちが道真の一字を使っていたのも何とも奇妙な話ですね。

  6. 村上・清和の源氏を祖にもつ私にとっては出自こそ違えど雅信を応援せざるを得ません😊
    藤原如きに負けてはなりませんぞ、雅信卿 !!
    結局、村上や醍醐や宇多や花山、嵯峨・清和源氏と言っても所詮同じ皇室から出た家柄です…従兄弟や再従兄弟になるわけですから源氏は仲良く致しましょう😅
    藤原氏は公家にして肉食ですから藤原四家はもちろん、北家でさえ小野宮と九条で骨肉の争い…源氏は雅信卿のように藤原骨肉争いを尻目に頑張ってください😊
    末裔として応援するだけでなく私は枕草子の清少納言を応援致しますぞ🎉

  7. 雅信のこと道長の舅、ぐらいしか知りませんでした

    兼家がツブせないってすごい人だったんですよ
    雅信の実直さ勤勉さ、生涯現役なところ
    孫娘の彰子にしっかり受け継がれてますね

  8. 私の母方の江戸時代後期の先祖が天皇の先祖の為、ネットで家系が、分かります。
    先祖の男系先祖が、兼家、道長、頼通で、彼らの兄弟姉妹も殆ど先祖で亀山天皇迄先祖です。源雅信、倫子も先祖であるので藤原時平も先祖ですが、菅原道真と3人の息子も先祖になります。5月に太宰府に母とお参りで旅をします。
    歴代、敵対同士が先祖で有る事が少なく有りません。色々先祖に付いて知る事は有り難く、先祖達には感謝です。😊

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