【呉座Solo】大河ドラマ『どうする家康』を歴史学者・呉座勇一が解説⑥ 第一部(無料)ーー忍者が大活躍!? 上之郷合戦の真実に迫る!!ーー

【呉座Solo】大河ドラマ『どうする家康』を歴史学者・呉座勇一が解説⑥ 第一部(無料)ーー忍者が大活躍!? 上之郷合戦の真実に迫る!!ーー



本日21時より、本日放送のNHK大河ドラマ『どうする家康』第6回「続・瀬名奪還作戦」を、放送直後に歴史学者・呉座勇一が解説します。描写の根拠となった史料、史実との相違などに注目しつつ、感想を述べます。今後の展開の予測なども含め、視聴者の方からの活発なご質問・ご意見をお待ちしております。

なおメンバーシップ導入に伴い、本ライブ配信は冒頭30分~1時間のみを第一部(無料ライブ配信)とし、それ以降の第二部はメンバー限定ライブ配信となります。ご了承ください。

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※『どうする家康』忍者考証の山田雄司先生がチャット欄に登場! 歴史の闇で活躍した忍者の真実についてご解説いただきました。

2 comments
  1. Wiki見たらむしろ今川家(小原の野田攻め)が同時期に伊賀者使って城を落としてました
    ソースはちょっと分かりませんが

  2. ①上之郷城攻めに関してですが、ドラマでも甲賀忍者のリーダー役として登場しましたが、「伴与七郎」という人物に宛てた松平元康の「感状写(永禄五年二月六日付)」という史料がありますね。そこには彼が鵜殿藤太郎(長照)を討ち取ったと書かれてますが、しかし徳川家臣団の中に伴与七郎という名前が見あたらない。そのため、江戸時代の歴史著述者たちは彼を「甲賀伴党」の一族ではないかと考えたのではないでしょうか?
     神君伊賀越えの時に甲賀の多羅尾光俊が積極的に援護してくれたことをふまえ、それ以前から家康と甲賀衆との間に繋がりがあったと想像できる余地があるかもしれません。
     いずれにせよ「伴与七郎」について、彼が本当に甲賀忍者だったのかについて解説をしていただきたかったです。

    ②今川氏真が、永禄5年に三河まで来ていたことを物語ると考えられる史料は存在します。
    永禄五年八月七日付、稲垣平右衛門尉宛て今川氏真感状に「去二月三州出馬之砌、(後略)」(愛知県史 資料編11 織豊1)とあります。
     「出馬」とは「大将みずから軍勢を率いて出向くこと」であるとする説にのっとれば、「去る二月」に三河にやって来たことになります。
     黒田基樹氏は『家康の正妻 築山殿』の中で、『三河物語』や『松平記』に石川数正が人質交換の交渉のために駿府まで出向いたとある記述について、
    「しかしながら両史料はそもそも、元康が上之郷城を攻略した直後に、氏真が三河に進軍していたことを見逃している。そのことを前提に考えれば、人質交換の交渉は、氏真が三河に在陣しているあいだにおこなわれたとみるのが自然である。」と述べられており、先の説を肯定しています。
     もし氏真が三河に来ていたのなら吉田城に在城したとしても不思議ではありませんし、ドラマで描かれたように吉田川(豊川)を挟んでの人質交換という情景も、ひょっとしたらあり得たかもしれないと思うのですが、いかがでしょうか?

    (もちろん、東三河の住人としては「歩いて渡れる豊川、浅っ!www」とツッコミを入れてしまいましたが、まぁ戦国時代はどうだったんだろうか?)

    などなど、ド素人なりにあれこれ考えてみました。長文になり失礼しました。

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