#皇室 #天皇 #歴史
今回は、昭和天皇のお妃候補だったことでも知られ、朝鮮王朝に嫁ぐことになった方子女王殿下の激動の生涯を解説していきます。
このチャンネルでは皇室の歴史について紹介していきます。
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【目次】
00:00 オープニング
00:40 激動の生涯の始まり
01:43 皇太子裕仁親王のお妃候補報道
03:28 突然のご婚約
07:14 王公族とは?
11:52 ご結婚へ
14:49 ご結婚後の歩み
17:59 大戦後の国籍
21:53 夫・李垠殿下との別れ
23:58 韓国のオモニ(母)
【参考・引用】
李方子『流れのままに』(啓佑社)
小田部雄次『李方子:一韓国人として悔いなく』(ミネルヴァ書房)
小田部雄次『梨本宮伊都子妃の日記:皇族妃の見た明治・大正・昭和』(小学館)
【素材】
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#日本史
[音楽] まこ女王殿下の 生涯今回は日本の皇族の1人でありながら 朝鮮利用町最後の交代使である利金電荷の お先となられた李正子さんについてご紹介 します後に昭和天皇となる博仁新王の先 候補の1人として国民から注目され16歳 の頃日本で皇族に順じ待遇を受けた利金 殿下にぎました日韓の間でさ乱に満た人生 を送られた女王子さんについて詳しくごご 紹介しますので是非最後までご視聴 くださいね激怒の生涯の 始まり正子女王は1901年11月4日巡 工合の祖父にあたる国宮朝彦新王の第4 王子梨本宮森正と中イタリア匿名全権講師 であった鍋島直の次女いつ子夫妻の第一 王女子として誕生しましたその6年後に妹 ののり子女王が生まれています正子女王の 幼少期については詳しい記述が残されてい ませんが母であるいつ子様が17歳の頃 から日記を書かれていたことは有名でその 日記は貴重な階層録となっており1958 年に交代し仁新とみ子様のご婚約発表の際 に日本ももうだめだを考えたと書かれた 文章が報道で引用されたこともしばしば そんな勇し正しき両親の元に生まれた正子 女王の激動の生涯が幕を開けるのでした 交代使博仁新王の沖候補 報道真面目で気品ある正子女王は1916 年頃当時日本の交代使であり後に昭和天皇 となる道宮博仁新王の先候補の1人として 名前がが取り沙汰され一躍注目を浴びる ことになりましたなお正子女王の他に実際 に沖さとなられた長子女王や一条時子さん などが博仁新王の有力な先候補とみなされ ていましたしかし正子女王は博仁新王と 同い年であることが一条時子さんは血縁的 に近すぎることが懸念されたため最終的に 長子女王が交代市費に内定したのです ちなみに長子女王の父国宮邦義王は梨本宮 森正大の兄であり正子女王と長子女王はい の関係にあたります交代視費が国宮長子 女王に決まったと伝えられた母いつ子様は 10代半ばの正子女王の配偶者探しを急が せるのでしたかつて豪族や家族など好奇な 方々はこの世にせを授かると同時に配偶者 探しが始まると言われるほどそのご結婚 相手が重要視されていました家と家をつぐ ための略結婚の要素が強く配偶者が決め られる際に本人の意思を尊重確認されない ケースも多かったため戸惑うことも多かっ たことでしょうそれでもその状況に抗う ことなく祝福と受け入れて子孫を残して いく先人方には頭が下がる思いです突然の かつて後期な方々はご自分の配偶者が
決まったことを人から聞かされるという ことも珍しくはありませんでしたそして そのような結婚の流れを取ったのは正子 女王も同様でした1916年8月正子女王 は当時朝鮮の大星市であったリギ殿下との 婚約を何気なく見た新聞を読んで知ること になりますそれは秘書のために滞在してい た現在奈県中大町にある本宮の別に滞在し ていた時でした子女王はその報道を見て 大変ショックを受けなぜ自分が異国の王族 に嫁がなければならないのと言って 泣き崩れたもののいつ子様から天皇の おぼしめしであると説明を受け納得された と言います新国の続であった長は日進戦争 により独立し大帝国となり時は日本に併合 されていましたそんな大官帝国最後の交代 使であるリギ殿下との突然の婚約報道感情 が追いつかないのも無理はありません しかし父梨本宮森正夫から正式に婚約を 告げられた時にはよくわかりました大変な お役だと思いますがご両親のお考えのよう に努力してみますと答えられたのです いつ子様が後年公開された日記の中で実は 当時は正子女王と利金殿下との円THが すぐにまとまらず朝鮮相徳を通じて極日に 利家円THを申し込んだことそして表向き は天皇の命令としたことが明らかになって いますさらに正子女王とリギ殿下との結婚 については日本の皇族と朝鮮の王族感で 身分の取り扱いに関する問題が表面化し またも話が一時ってしまいました最終的に 皇室テパが増補されることで皇族女子と 王族とのご結婚が容認されることになり ようやくお2人の結婚の直居が降りたの ですこうして子女王は学習院女子中東家 在学中に王制市であったリギン殿下との 婚約が正式に決まり若干16歳の女性が日 戦の掛橋日戦優和の石として役目を担う ことになりました なお梨本の宮宅には正子女王と典子女王の 姉妹しかいなかったため次回将来絶家する ことが確実であることから皇族との縁組を 強く希望していたとのことです母いつ子様 としてば他国といえども国のおとのご結婚 は決して見劣りしないと判断し談を進め られたようですこの当時日韓併合によって 朝鮮半島は日本の一部と考え 日本人は朝鮮人を同とみなしていましたと はいえ日本が韓国併合をスムーズに進める ための略結婚と噂されることもありました しかもご自分の婚約を新聞で知るという 現代では到底考えられないような出来事家 と家を結ぶための結婚が日常的に行われて いた時代とはいえその当人が受け入れられ ない場合もあったでしょう実際には結婚の
報道を目にして泣き崩れたと言われてい ますしかし隣国の王族にぐことが決まった 正子女王は覚悟を決め前を向いてご結婚に 向かって歩き出されるのです王族とは 先ほど少し触れましたがここでは改めて 当時の日本と朝鮮との関係を振り返ってみ ましょう城の夫となった利殿下は日戦争で 新王から独立が認められた理子朝鮮が大観 帝国となった1897年に生まれわずか 10歳で交代使となりましたイケの純層 電荷が読者事件で父と共に暗殺未遂事件に 巻き込まれて亜変入りのコーヒーを飲んだ ことにより心身ともに居 characterであったことや20歳 上の兄は貧困が悪く後継者候補から除外さ れたことで利金電荷が交代使に選ばれたの です1905年日戦争に勝利した日本は大 帝国の外交権を得ましたそんな中で交代使 となったリギ殿下は日本に留学しています その留学の発案者が伊藤博文です伊藤博文 が初めてリギ電に謁見した際少年であった 彼はすることなく進み出て力強い握手をし たことから教育がよければ必ず見るべき人 になると感じたと言います新家のを育てる たに利電を日本で教育するという計画を 立てた伊藤文でしたがその意図は誤解され 日本の植民地であった大韓帝国側はそれを 人質だと捉えました11歳になったリギ 連家は学習院に入学し近代教育を受けまし た真面目で貧困法制という模範的な生徒 だったと言いますまた翌年には東北や 北海道に視察旅行をして熱狂的な歓迎を 受けています陸軍中央4年学校を経て陸軍 志間学校卒業後日本陸軍に所属した利金 殿下は軍人としても非常に有能な方でした 1936年の226事件の際歩兵連隊長と して大体を引き反乱軍の鎮圧に当たってい ます1910年日韓併合によって大官帝国 が消滅したことに伴って利電は父の高層電 兄の純ととに日本の皇族に準じる存在で ある王族となり交代使であった利殿下は王 士となりますなお王聖士とは中国で皇族 などの王の四または大い継承者の称号です この当時日本に併合されて真住していた旧 大官邸国の王の四は議Death上交代使 の称号を使用することができないため大士 となるのです子女王との結婚式ではお2人 の結婚が朝鮮独立の障害となると考えた 学生による理王制士暗殺未事件が 起きました主犯の学生の教授では 標的はリギ夫妻ではなく朝鮮相徳の斎藤誠 だったということですリギ殿下は大官帝国 の最後の交代使として育ち幼少期に 伊藤博文の発案によって放して学習院や 陸軍官学校でましそして日韓併合によって
大日本帝国の準皇族となり日本の皇族女子 である正子女王とご結婚されていますその ため自分は朝鮮王族なのかそれとも日本の 準皇族なのかと悩んでいたこともあった ようですこの悩みはその後のリギ殿下の 人生において常について回った苦悩です 一方で日本の文化に造形が深く日本の礼儀 作法なども身につけており真面目で科目な 利金殿下を最初こそご婚約にショックを 受けていた子女王も心からおしえするよう になったと言いますまた子女王やその実家 である梨本の宮宅と利金殿下との関係も 良好でしたご自分の婚約を新聞で知った時 は泣き崩れたというまこ女王しかしリギン 殿下の人柄に触れ次第に惹かれていったの でしょう植民地政策による日本と韓国の間 の溝は深く結婚により命の危険にさらさ れるようなこともありましたがお2人は 互いの境遇を理解し夫婦の絆を深めていき ましたそして後に結婚当時のことを夢の ように幸せな日々と振り返ることができた というのはとても幸せなことではない でしょうかご結婚 へ1918年12月8日子女王ととの農の 議が行われました女子学習院高等家卒業後 の1919年1月25日に抗議の予定をし ていましたが直前に岐阜にあたる初代大官 帝国皇帝であり利子朝鮮第26代国王で ある高層電化が脳一決のために亡くなり ますこのため抗議は延期されることになり ましたそして息子であるリギン殿下のモ服 する期間について日長の見解が分かれます 朝鮮側は実質3年を主張したものの日本側 は大正天皇が結婚を急ぐよう要望したため 結局皇族同様1年の複期間に決着したと いうことですなお高層電荷の公許に際して は日本による毒殺説がルフされ葬儀の日に 起きた31独立運動の引き金ともなったと も言われています31独立運動とは 1919年3月1日から始まった朝鮮が 日本の植民地支配から脱して時国の独立を 目指した運動のことです一方でこの1年の 複期間の間にお2人は何度かデートを重ね ており着実に愛を育んでいたことが正子 女王の日記に記されています高層電荷の藻 が開けた1920年4月28日正子女王と 利金殿下の混練の義が取り行われました 結婚式の直前朝鮮の独立運動家による利金 殿下の暗殺未遂事件が発生したものの無事 に混練の義が取り行われました正子女王に は12人への和装と予想に加えて朝鮮服も 準備され後に当時を夢のように幸せな日々 と改装されていますなおお2人のご結婚は 厳密に言えば皇族女子の非皇族男性への 効果ということになりますが大正天皇の誤
沙汰によって女王の真意を保持することに なりますこうして右直接ありましたが まさこ女王は無事利金殿下とご結婚され ましたご結婚後もそのまま日本にとまり 現在は赤坂プリンスクラシックハウスとし て残っている屋敷に住まわれますご本人で はなく母親が熱望し勢結婚の意図が濃く 残る子女王とリギン殿下とのご結婚しかも 夫であるリギ下の状況や立場も時代によっ て変化していきます自分の預かり知らぬ ところで異国の男性とのご結婚を決め られることはひどく不安だったこと でしょうしかしお2人の絆が強く結ばれて いることがその後の人生で証明されるの ですご結婚後の活動1921年正子女王は 第一師である新殿下を出産しますそして 翌年5不妻は息子を連れて日本地下の朝鮮 を訪問し利用庁の儀式に望みましたところ が日本への帰国直前に息子の新殿下が救世 しますその当時は急性消化不良と診断され たもののかつてリギ電荷の父高層電荷を 毒殺されたと考えている上船側による報復 のための毒殺説や日本軍部による毒殺説 などの噂が流れました第1死を失った正子 女王リギ夫妻は悲しみのどん底に 突き落とされますそして正子女王は日本に 留学してきたリギン殿下の15歳年下の イボ舞である利徳系のお世話を熱心にした と言いますそうすることで子供を失った辛 さを忘れようとしたのでしょうもちろん 悲しみに打ちひしがれた正子女王を夫の リギン殿下も懸命に励まし支えたそうです 1926年リギン殿下は大電の拠に伴って 大いを継承し徳級利銀と呼ばれ朝鮮軍司令 部付けとなっていますそして1927年5 月から翌1928年4月まで正子上リギン 夫妻は欧州を訪問しました横浜を出発して フランス入りし第一次世界大戦の用地を 訪問したりイギリスで国王のジョジ御世や 王妃メアリーと対面したりしまし その際リギ殿下は英語で子女王はフランス 語でそれぞれ通訳なしで会話したと言われ ていますさらにお2人はオランダに渡り 第一次世界大戦の敗戦国であったドイツや オーストリアデンマークノルウェー スウェーデンチェコスロバキアイタリア そしてバチカン市国を訪問しています旅行 中お2人はプリンスリプリンセスリの称号 と白 白夫人子の通称を用いていましたその後 2度の流を経て1931年に子女王リギ 夫妻に第2市である旧殿下が誕生しました このように朝鮮の王士の妻となった子女王 は王族の一員として動き始めます最愛の 息子をなくすという極めて辛く悲しい経験
をしますがそれでも歩を止めずに前にける 女王夫のいまいのお世話をするなど多忙な 日々を送ることで悲しみを忘れようと努力 されている様子も見られ決して後ろ向きに ならずすることなくその後は欧州の旅に 出かけていますそして2度の流山を経て 新しい命を授かるのです子女王は精神的に 非常にタフで前向きな方であると言える でしょう国籍と帰国正子女王は生涯で対戦 を2度経験されています1945年第2次 世界大戦の敗戦によって日本は朝鮮の領有 権をなくしましたそして1947年5月3 日に進行された日本国憲法によって正子 女王は王族の身分を喪失し李正子さんと なりましたさらに1952年4月28日 サンフランシスコ平和条約の締結によって 日本が主権を回復するとリ正子さんは日本 国籍を喪失し無国籍となりますしかも利金 電化は財産税法によって多額の税を課され た上日本政府から支払われていた祭祀は 1945年度で打ち切られていますその ためお2人の生活は苦しくなり邸宅などの 資産を売却しながら細細と暮らしていまし たしかもリギ殿下は日本の軍人であったに も関わら 韓国人であるとして軍人求も支払われ なかったためお2人の生活は収入源がなく 困窮していきましたそのような状況から 利金殿下は日に日に塞ぎ込むようになり 自身のことを日本人でも韓国人でもない 中途半端な人間だと口癖のように言ってい たそうです日本皇族と韓国王族であった子 さんと利殿にとって体験したことのない 苦労でしたなおに国をなした大民国の初代 大統領であった李シバは王制復興を恐れて おり着のリギさんを敵視していたと言われ ていますそのため幼い頃に過ごした祖国に 思いをはせり正子さんとリギさんは何度も 帰国を脱進しましたが理小判大統領の許可 が降りることはありませんでした一方1人 息子の理さんは学習院高等家を卒業後 アメリカの朝中節高家大学に留学して建築 学を学んでいます1957年り雅子さんと リギンさんが息子の卒業式に出席するため 欧米を希望した際は日本政府が旅行証明書 を発行しましたこの時日本政府は大学の 翔平上を根拠に旅行証明書を発行したと 言いますそして無事にアメリカに渡った 2人は息子の理さんから後に妻となる ウクライナ系アメリカ人女性でジュリア マロックさんを紹介されましたそしてその ままリ子さんとリギンさんはアメリカで 生活を送り親子水イラの一時を過ごします が2年後1959年3月リギンさんが脳 血戦で倒れ歩行困難となったため2ヶ月後
に日本に渡ります翌年に再度都を希望する ものの今回は小平上がなかったため旅行 証明書を発行してもらえなかったことから 妻はは日本国籍を取得することになります また息子のリキさんはジュリアマロック さんと結婚しアメリカに帰化しましたこの 時期は韓国日本両国における理正子さ夫妻 の立場や状況が大きく変化し無国籍になっ たり多額の課税によって財産を失うなど 過酷な状況が続きました身分や国籍を失う ことはより所をなくし足元がつかないよう な不安もあるでしょうただ唯一の救いは 息子であるリキさんの結婚だったのでは ないでしょうかアメリカでは久しぶりの 親子水ずの時間を過ごせるなど濃密な時間 を過ごすこともできましたしかし最愛の夫 リギンさんが倒れて歩行困難となりこれ 以降介護が必要になりますり正子さんの 人生にはまだ波乱や苦難が待ち受けている のです夫との 別れ国籍をしない安中の地を求めるものの その願いは届かなかった子さんとリギさん ですが1960年に大統領であるリ判が 失客すると状況が変化します1961年に アメリカを訪れたパチヒ国家再見最高会議 議長が病床のリギンさんを見舞いいつ韓国 に帰国しても構わないとリ正子さんに伝え たのですその前年にはリギンさんの韓国へ の帰国を求める署名運動がきますそのよう な国民の動きも大きな後押しとなったこと でしょうそして翌年には夫婦共に韓国石に なることを認めるとの通知を受けお2人は 晴れて国籍を回復しようやく帰国を果たす ことになりました病身のリギさんのために 空港から病院へ直接運ばれる沿道には歓迎 の市民で埋め尽くされたと言いますただ この時リギンさんはほとんど意識がない まま祖国の地に戻ってきたようですしかし 韓国政府から生活費の送金も開始され ようやく生活が安定し始めました1970 年4月28日リギンさんの入院する病院で 金婚式を記念したミサを開くもののその3 日後の5月1日にリギンさんは息を 引き取りました最愛の夫を失ったり雅子 さん7年間という長い介護生活は必に 尽くしがかったでしょうもちろん愛する人 を失った悲しみも計り知れないものだった に違いありませんしかしこれまで日本と 韓国の間で揺れ動いていたお2人の居場所 が定まりようやく安中の地を手に入れる ことができたことは喜ばしいことで1つの 安心材料となったでしょうこれまで時代の 波に翻弄されながらも必死に前を向いて 歩いてきたリ正子さんは愛する人を失った 後も夫の祖国で力強く生きていくことに
なるのです韓国人として夫リギンさんと共 に韓国に帰国したリ正子さんは夫の意志を 引き継ぎ当時の韓国ではまだ進んでい なかった障害児教育に取り組みますまた 趣味でもあった出方焼きの特技を生かし ソル出方研究所を設立して自作の出方焼き や絵画などを販売したり利子朝鮮王朝の中 衣装を持って世界中で王朝衣装を披露して 金を集め知的障害者施設のみヒオと知的 障害用語学校である自警学校を設立しまし たなおみヒはリギンさんの次兄はり正子 さんの画号ですさらに日本と韓国の駆け足 として終戦後の混乱期に韓国に残留したり 様々な事情で急遽韓国に渡った日本人妻 たちの集まりである在官日本人婦人会不要 会の初代名誉会も務めましたそのような子 さんの功績が認められ1981年に韓国 政府からボタ勲章がまた5挙後には韓国 国民勲章が授与されましたそしてリ正子 さんは福祉活動や病気治療のために度々 来日し昭和天皇公準合当時交代使であった 明仁の子様など日本の皇族とも会見して 日本と韓国の総互理解を一となるよう務め ていますそのように多くの人のために尽力 してきたリ子さんですが1989年4月 30日に多くの人におしまれながら拠し ました今年87歳でした葬儀は韓国交代 市費の準国東として 取り行っされています列は数kmにも及ん だそうです日本の元続ということでリ正子 さんに対して反発する韓国国民もいた でしょう実際チョッパルが寄付なんて 図々しいよその国で何を始めようというの だという中傷も寄せられましたしかしり 正子さんは夫と共に日本と韓国の有効を 願いながら両者の駆けwhichとなり 人種を超えて社会福祉や国際神前に 取り組んだことからり正子さんに対する見 方もやがて変わっていき最後は韓国の主と して慕われていきましたそして日本の皇族 として誕生したリ雅子さんは愛する夫に 尽くしその祖国である韓国でシを賜り最後 を迎えました今回は元々日本の皇族であり ながら異国の王族とご結婚され両国を つなぐ役割をになった正子女王をご紹介し てきました自身の婚約を新聞で知るという 現代では考えられないような始まりで結婚 に至りましたが夫を愛し支えた障害を歩み ましたそして日本と韓国が経た暗い歴史の 中で時に立場が不安定になったり中傷を 受けたりするなど辛いことも多かったはず ですが夫である利金殿下の死後も両国の 駆けwhichであり続けたのですリ正子 さんの存在が両国の神前に大きく寄与して いることは間違いありません相手の国に
反発するのではなく温かい気持ちで 受け入れその国の発展のために尽くした 日本の女王であり韓国の王妃が見えたこと を日韓両国の多くの方に知っていただき たいですね皆さんはどの部分が印象に残っ たでしょうかチャンネル登録高評価 コメントも是非よろしくお願いいたします それではまた次の動画でお会いし [音楽] ましょう [音楽] DET
昔、母から方子様のお話は、微かに伺った記憶はありますが、素晴らしいご夫妻で、両国の為に頑張られた、皇族の御手本の方ですね。
因みに、お住まいだった赤坂プリンス🏨別館で、50年前に結婚式をした様子を思い出しました。
すごいよね。あんな蛮族国に嫁いだんだから。
震えました、今の日本があるのは無数の先人達のお陰であるこおを胸に刻んで生きたいです
蓮の花のように泥沼に輝いた~💡皇女さまの御話し❤ありがとうございます❗
映画で観て覚えてます。結婚されてからは禍福はあざなえる縄の如しで最初の子を亡くされたり2度も流産されてから第二子を授かったり・・・。
それでも夫となった李氏が本当に人間的に苦労された方で大変な時代を御二人で歩まれたことは尊敬に値します。
動乱の時代、国と国との、結び付きを考えたり、有効な関係を作るために縁組みをした、身分の高い方々が、沢山居ましたね。しんのつよい女性が多かったのですね~。今の時代にもあるかも、自由で良かったです❤