昭和45年/1970年どんな年?こんな年【伊東彩のほんのり昭和回顧】

昭和45年/1970年どんな年?こんな年【伊東彩のほんのり昭和回顧】



今回は、昭和45年 / 1970年という年を、文化や芸能、政治や社会など多方面から振り返ります。
よろしければ、ぜひご覧ください。
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【関連動画】
①https://www.youtube.com/watch?v=R8zAk2HMzrs&t=2s
②https://www.youtube.com/watch?v=Md9lxZRsks4
③https://www.youtube.com/watch?v=W-QED0xoUeI&t=521s
④https://www.youtube.com/watch?v=BQbGR4yMxzw&t=172s
⑤https://www.youtube.com/watch?v=1ERpJTUbFK0

36 comments
  1. たしか切手は東正敏が集めててそれを真似して定夫も集めてたな因みに
    家の兄貴はハレンチ学園♪ハレンチ学園
    とかわけわからない歌を歌ってました

  2. 当時の私は15歳。多岐にわたる情報と伊東様の編集及びコメントに感服いたしました。
    懐かしい映像を見せていただきありがとうございました。
    今後のご活躍をお祈りいたします。

  3. 昭和45年1970年。自分の産まれた年です。当然ながらこの年の記憶は無いのですが、自分の産まれた年はキョーレツに意識しますねw
    今回の動画の歴史についての語りは自分も思っていた事なので、改めて動画主さんには頑張って、昭和のサブカルチャー史をアーカイブして行って欲しいです。

  4. 最後の独り言が素敵でした。確かに個別の「特撮」「アニメ」「プロレス」「歌謡曲」と言う事象については、過去のことでも把握するのは可能ですが、どうしても掴めないのは、この「1970年という特定の時代の気分」でしょう。万博があってハレンチ学園があって、藤圭子がいてアンノン族がいて、八百長と公害があって、GSもアイドルもなく、怪獣もヒーローもなく、少年マガジンが青年誌化して、三島事件があって庄司薫がいて、暗い事件が多いようで、街の女性のミニスカートは一番短かった時代。明るい、暗いでは語れない、「フィーリング」と言う言葉が言われ出した時代。この感覚はやはり、その時しか味わえないものでした。1970年は、1969年とは違う、1971年とも違う、1970年の気分の年でした。

  5. 精緻な調査、膨大な資料、美しい画像、たった20分の作品にどれ程の手間暇がかかつているのでしょうか? 心から感謝、次回作楽しみにしております。😊

  6. 1964年東京五輪、1970年大阪万博、テレビをつければONがBI砲が、まさに高度成長真っ盛り。

  7. ひとりごとが素晴らしい。
    確かに、戻りたいと思う一方、ろくでもないという気持ちにもなります。
    その時代での喜怒哀楽を経験したから、そう思うのでしょう。
    だけど、その時がどんな歳だったとしても何かに対して頑張って得た喜びは忘れない思い出として、時代を超え、今を生きる活力になるでしょう。
    最後の映像を見て、ふと思い出しました。

  8. ヘドラでお馴染みの田子ノ浦港は隣町でしたので親に連れられ見に行った記憶がございます、ニュース媒体の影響あってかかなりの見物客が押し寄せていた 印象が残ります!そんな湾内も50年の時を経て今では漁港で名物しらす丼を推せる迄に水質改善復興いたしました。
    赤軍の明日のジョーの件から強盗集団ルフィを思い出しましたが甚だ原作者及び製作者やファンの方々に対し迷惑な話しです、もしかしたらその内ギレンとか名乗る秘密結社が現れるかも知れませんね😅

  9. 素晴らしい内容の「神動画」です。特に終わりの投稿者様の恩師の言葉に感銘を受けました。なぜなら私は信条として「時代には同時間生きていた人にしか分からないその時代独特の空気感がある。現在の価値観や倫理観で過去を断罪してはいけない」と思っていますが、それを見事に論理的に裏付けして下さったからです。それがとても嬉しいです。感謝します。
    私はこの年に東北の宮城県の片田舎に生まれました。ですから正確にこの年の空気をお話出來ませが、親から聞いたり色々調べたり物心ついた時の記憶や印象から推察した事を述べるとこの頃はまだ戦前からの生活習慣や地方の文化がまだ色濃く残っていたと言えます。例えば東北地方だとかなり訛りの強いズーズー弁が話されていて他の地域特に都会から引っ越してきたりすると話しかけられても何を言っているかほとんど分からなかったそうです。画像見るとお婆さんはほとんどが和服ですよね。亡くなった父方母方の両祖母もそうでした。
    年を取って来て若い世代の方々にこの時代を生きていた者の責任としてこのような時代の証言を伝える必然性をひしひしと感じています。多くの若い方々にこの動画そして寄せられたコメントを見て頂きたいです。長文失礼しました。チャンネル登録させて頂きます。

  10. 当時2歳、知らなかったことばかりで楽しかったです。
    大阪万博のそばで生まれ育ったんで当時宿がとれなかったのか、日々いろんな人が我が家に泊りにきて面白かったのは覚えてます。
    次回の動画も楽しみにしてますね!

  11. 1970年という年、現在よりもたくさんの事象が詰まっていたように思います。1つでも現在では新聞の号外が出るほどの大事件が毎日のように起きていたことが驚きです。人々は皆エネルギッシュな毎日を過ごしたのでしょうが、ベトナム戦争に疲弊し学生運動はよど号事件や後の山岳ベース事件、あさま山荘事件など負のスパイラルへと繋がってゆくのだと思います。
    毎回伊東さんがアップするのを拝見しています。他の動画よりも豊富な資料、しっかりとしたクオリティの高い編集、澱みなくまた読み間違いのないナレーションに感服しています。これら質の高い動画を配信してゆくのは大変な労力の賜物と思っています。これからも激動の時代の動画を期待しております。

  12. 大阪万国博覧会 スポ根ブームによる特撮怪獣ヒーローの不在 公害問題 辺りかな?それでも自分的に気運は上向きだった。

  13. 1970大阪万博は高度成長の証だと思います。メリーホプキンも来日して歌ったんですよね。昆虫採集セット買いました。でも昆虫は苦手で取れませんでした。切手も集めてましたが長続きしませんでした😍

  14. いつも楽しく拝見しています。
    次は1971年でしょうか??
    違うのかなぁ。
    過剰な期待はせずに気楽にお待ちしますね。
    もっとフォロアー数伸びても良いチャンネルだと個人的には思うのですがw

  15. 大阪万博なつかしい! 子供の頃 親に連れられて行って、会場風景を写した立体覗き見メガネとか土産に買って貰ったなぁ。 あれもう捨てちゃったんだろうか。

    海洋堂さんが、太陽の塔の内部構造まで再現した 精密プラモデルの予約販売をされてますが、なかなか強気なお値段なんですよねぇ。 ちょっと手が出せない ...

    今回も古き良き時代の映像をたくさん見せて頂き、どうもありがとうございます。

  16. とんねるずのノリオの修学旅行回でヒゲゴジラ先生が。
    (仮面ノリダーでも巨大怪人ヒゲゴジラ男が。フォルムはゴジラというからに、下半身がゴジラ)

    ハレンチ学園、平成でR-18のエロゲーが発売されたとか。

  17. 動画終盤でちょっと写ったスチール学習机とZライト!今までずっと忘れてたけど見た瞬間に思い出したよ。机は小学校6年間も持たなかった。Zライトはつけてると頭が熱くなるんだよな。

  18. 最後のお話(独り言)胸に沁みました。
    毎回楽しみにしております。
    これからも頑張ってくださいね。

  19. 昭和45年は15歳で上京した年なので、原風景でもあります。
    良いことも悪いこともいっぱいあった昭和後期ですが、全体にあらゆることが自由に実験された時代だったように思います。
    たとえば自分的には少年マガジンの表紙を横尾忠則が担当したシリーズで、他誌の看板だったアトムが登場したり・・・なんでそんなことが出来るのか?と驚きましたが、後でよ~く考えると「マガジン」の講談社と「少年」の光文社は同じ音羽グループだったことに気づいたり、少年誌に学生運動をモチーフにした作品が掲載されたり、哲学的なテーマの作品もいくつもあったし、いろんな挑戦があった時代だったんだなと振り返っています。

  20. 1970年、年末に三島由紀夫邸のごく近くの大田区南馬込で生まれたから雑誌微笑で生まれ変わりかって特集されたらしいけど、結局ただのおじさんに。親には生まれ変わりだったらもっと頭よかったのにってよく言われてました。

  21. 1970年は12歳、小学6年生でした。
    例年なら修学旅行は、京都.奈良でしたが、この年は、京都.大阪万博でした。三波春夫さんの『世界の国からこんにちは』やジローズの『戦争を知らない子供たち』特に『戦争を知らない子供たち』は、カラオケ🎤で歌います。
    岐阜県在住ですが、この年に飛騨川バス転落事故で、100人を越す死者がでました。

  22. 万博は当時、本当に国民的イベントと幼かったけど感じた。絶対にお出かけをしない自分の家でも行った位だったから。太陽の塔を初めて見た時の感動は今も鮮明に覚えてる
    ゲバゲバってこの年くらいでなかったですかね。ゲバが多発していた中での番組のタイトルでした。

  23. 月影兵庫から花山大吉に切り替わったころかな?自分にとっては大変夢のある時代でした。
    まだ戦後とこれから訪れる新しい時代が入り混じったような、子供でなければなかなかついていけないくらいハードな流れだったのか真央しれませんね。

    明治生まれの雷爺や頑固爺も健在でした。
    まだ今の500円位のサイズの50円玉も使っていたと思います。
    戦争が終わって24年位、この後たったの7年くらいでもう戦後のにおいは消え、飛行機で絵画旅行や新幹線・自家用車やカラーテレビ・ラジカセ・オートバイ等過程にあるのが普通になっていきましたね。

  24. 三島事件か。森田必勝の介錯は思ったように切れなかったそうで三島由紀夫はかなり苦しんだろうと言われました。

  25. 当時中学三年で修学旅行で大阪万博に行った、人の多さしか記憶に無い。懐かしい映像ありがとうございます。私の一番の思い出は、ラジオの深夜放送です毎夜セイヤング、パックインミュージック、オールナイトニッポン、曜日によって局は、変わりましたが深夜の私の授業でした。

  26. 60年代と70年代の橋渡しの年。69年の大みそかのゆく年くる年を家族で観ていて、
    「1960何年というふうに言ってたのが、1970何年といういい方に変わるんだな、
    なんか違和感があるな。。」と思った記憶が今でもはっきり覚えています。
    それだけ小さい頃は生まれてきてずっと当たり前だった「1960何年」という年代が、また1年1年が、非常に長く感じていたということにもなります。

    こちらの動画を見させて頂き、感化された私の個人的なひとり言を長く書きますが、
     大阪万博は、開催前からいろんな媒体で情報が出回っていましたので、個人的には太陽の塔の姿かたちに狂っていたことを思い出します。教科書やノート、学校の黒板にまで太陽の塔の絵を書きまくっていた事や、クラスのガキ大将までその様子を見て、自分に仲良くしてきた記憶も覚えています。逆に、ある一人の女の子が自分にしょっちゅうちょっかいを出してきて、それが嫌だったことも併せてセットで思い出します(笑)。
     サザエさんが今と違ってとてもエネルギーがあって面白く、毎週楽しみにしていました。
    不二家提供のTVドラマ「アテンションプリーズ」も、毎週毎週続きがどうなるのか?が大変興味深く楽しみにしていました。
     チキチキマシン猛レース、タイガーマスク、怪獣の鳴き声、といったレコードやソノシートを近所の友達や兄弟とよく聴いていたものです。
     時代時代の映像の「色」に関してですが、当時のTVのニュース映像などはほとんどフィルム映像です。酸化などでフィルム画像の色が劣化し、例えば青空がとてもいい感じのくすみの入ったブル-グレーになっています。それがさらにノスタルジックな雰囲気😌を醸し出すのでしょう。その感じがたまらなく好きです🥺🥺。
     数十年前は1960年代がまさにその感じでした。この動画でも70年代をまだカラーで表してくれていますね😊、ところが近年の回顧系のメディアを見ますと、すでに70年代ですらモノクロで表現しているものが多く(意識的にワザとかなぁ?🤔)、当時を生きている私にとってはとても違和感を感じてしまいます。(大阪万博も、タイガーマスクも、天地真理の衣装の色も、ドリフのハッピの色も、セリカや箱スカもすべて豊かな色に満ちています!🤩)
    1950年代はモノクロ、アメリカだと半分くらいカラー、60年代はくすんだカラー、アメリカだとほとんどは(くすんだ)カラー、70年代はどちらも(くすみかけた)カラーといったイメージなのですが、最近は70年代はモノクロで伝えられることが目立っていて悲しくなります。古い人間だと言われればそれまでなのですが・・😔
     主さんはおそらく私と同世代の方だと推察します。その時代の世相と文化は当然切り離せないものですよね、そして人間も時代に生きる生き物だと思います。残念ながら現在の2023年は私にとっては何の魅力も意欲も興味もない時代です。でも「それは必然なんだなぁ😷」とつくづく思います。いろいろひとり言が長くなってすいませんでした。これからもちょくちょく訪問させて頂きます🙂

    あと、グリコペロティチョコは、現在のものは名前は同じでも、中身は全く別物ですよね😮‍💨。昔の大きなアイボリーの丸に、茶色で0系新幹線やSLの描かれた本物のペロティチョコがもう一度食べたい、ついでに言うと薄っすら桜色の甘いカルビー仮面ライダースナックももう一度食べたい。😭

  27. アメリカ館など人気パビリオンは3時間待ちだった。小っちゃな月の石を一瞬だけ見るために。ニュージーランド館で生まれて初めてヨーグルトを食べ、そのおいしさに感動した記憶がある。

  28. 1970年の平均年収が約80万円弱。世界一周が50万円と有ったが、今で言えば200~300万円位だね。
    内容に依るけど高いような安いような。(笑)

  29. 子ともの頃、顎に手を添えると、脇に居る友達が
    うーん マンダム って 言っていた‼️(笑)

  30. この頃はまだ日本は固定相場制で1ドル360円って決まってたから海外旅行はやっぱりちょっとリッチな人しか行けない感じがしました。
    だからクイズ番組の『アップダウンクイズ』なんか「10問正解してさあ夢のハワイへ」とか言うてたからなぁ~、まだハワイ行くのが夢やった
    時代でした・・。

  31. 1970年の大阪万博は開業してから6年目の新幹線に初めて乗り観に行きました。9月でしたが残暑が厳しく大汗をかきながら足が棒になるくらい歩き回りましたね。アポロ計画で月から持ち帰った月の石が展示してあったアメリカ館は長蛇の列で入館するのに2~3時間かかるということだったので諦めました。
    一服しようと思い友人とフランス館の休憩所でコーラ(瓶)を買ったのですが一本500円でした。一瞬、ええってなりましたが、栓を抜いてカウンターに差し出され500円ですと言われ後の祭り。近所で買えば50円くらいだったので、子供だと思ってぼったくられたのかなと思い悔しかったのでよく覚えています。

  32. 正に万博、三島さんの事件時に中3で青春ど真ん中。ほかの話題もすべて思い出して懐かしくも、切ない気持ちになりました。ありがとうございます。あと修学旅行に日出号と言う電車がありましたね。(笑)

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