【貞明皇后と大正天皇】「健康だから」と選ばれた少女は、病に苦しむ夫を最期まで支えた――47歳の最期、実母との再会をかなえた皇后

【貞明皇后と大正天皇】「健康だから」と選ばれた少女は、病に苦しむ夫を最期まで支えた――47歳の最期、実母との再会をかなえた皇后



大正天皇の妻・貞明皇后。大正十五年十二月、葉山の御用邸で迎えた大正天皇の臨終の場には、宮中の公式な記録の上では天皇の母とされない、一人の年老いた女性の姿がありました。

【貞明皇后と大正天皇】「健康だから」と選ばれた側室の娘は、なぜ病の夫を最期まで愛し抜いたのか――47歳の臨終で実母に握らせた夫の手

大正十五年十二月、葉山の御用邸。大正天皇の臨終の場には、宮中の公式な記録の上では天皇の母とされない、一人の年老いた女性の姿がありました。その名は柳原愛子。四十七年前、この天皇を産んだ生母です。生まれて間もなく引き離された母と子は、なぜ最期の夜に同じ場所にいることができたのでしょうか。

その答えに深く関わっているのが、大正天皇の妻、貞明皇后です。公爵・九条道孝と側室・野間幾子の間に生まれた九条節子は、生後七日目から東京近郊の高円寺村の農家に里子として預けられました。裸足で野を駆け、日に焼けた肌から「九条の黒姫様」と呼ばれたと伝えられる少女でした。

一方、明治天皇のただ一人の皇子として成人した嘉仁親王は、幼い頃から病を重ねていました。最初の妃候補との婚約内定が取り消されたのち、新たな妃に求められたのは、何よりも健やかな体でした。選ばれた理由として伝えられているのは、華やかな容姿ではなく、健康、明るい気質、そして家柄です。

明治三十三年の婚儀ののち、二人は側室を置かない家庭を築き、四人の皇子に恵まれます。しかし皇室のしきたりのもと、生まれた皇子たちは幼くして親元を離れて育てられました。かつて生母から引き離されて育った皇太子の子もまた、同じ道をたどることになります。

大正の時代、皇后となった節子は、宮中に紅葉山御養蚕所を設け、自ら蚕を育てました。その一方で、天皇の病は少しずつ進んでいきます。大正十年には皇太子裕仁親王が摂政に就任し、天皇は公務の場を退きました。関東大震災の際には、皇后が自ら病院を訪れ、被災した人々を見舞っています。

葉山での長い看病の日々。そして大正十五年十二月二十五日、大正天皇は四十七歳で崩御します。皇后は自ら夫に末期の水を含ませました。生母・柳原愛子がその枕辺に立ち会うことができたのは、皇后の配慮によるものだったと伝えられています。

皇太后となってからの二十四年あまり、節子は黒か紫の衣服だけを身につけ、亡き天皇の御影に語りかける日々を送ったといわれます。柳原愛子の米寿には手縫いの布団を贈り、その臨終の枕辺にも駆けつけました。戦争と敗戦、皇室の大きな変化を経て、昭和二十六年、皇太后は六十六歳で崩御します。その陵は、今も大正天皇の陵と並んで築かれています。

本動画では、二人の生い立ちから皇太子妃選び、一夫一妻の家庭、皇后としての務め、天皇の病と摂政設置、葉山での臨終、そして皇太后としての晩年まで、記録と回想をもとにたどります。

健康を理由に選ばれたと伝えられる一人の少女は、皇太子妃、皇后、皇太后という立場のなかで、何を選び、何を守ろうとしたのか。その問いを、宮中の慣行と時代背景から見つめます。

【目次】

00:00 葉山の夜――病弱な皇子と「九条の黒姫様」の生い立ち
06:39 健康を理由に選ばれた妃――皇太子妃選びと一夫一妻の家庭
17:25 皇后として――養蚕、天皇の病、摂政設置と関東大震災
24:52 葉山の看病と臨終――生母・柳原愛子が立ち会った夜
28:48 皇太后としての二十四年――戦争、孫たち、そして並び立つ陵

病の夫に寄り添い、その最期の夜には生母を枕辺に迎えたと伝えられる貞明皇后。その歩みから、皆さまは当時の皇室の家族のあり方や、皇后という立場をどのように感じますか。心に残った場面やご感想を、ぜひコメント欄でお聞かせください。

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【ご案内】

※音声および一部の映像素材には、AI技術を使用しています。映像・サムネイルには合成や再現表現が含まれ、実際の場面を撮影したものとは限りません。

※タイトルの「側室の娘」は、貞明皇后が九条道孝と側室・野間幾子の間に生まれたことを示す表現です。

※タイトルの「健康だから」は、皇太子妃の選定にあたり健康が重視されたと伝えられていることを要約した表現です。特定の人物の発言をそのまま引用したものではありません。

※「愛し抜いた」は、看病や崩御後の追慕など、記録や回想に残る皇后の行動をもとにした表現です。皇后の内面や心情を断定するものではありません。

※「実母に握らせた夫の手」は、柳原愛子が大正天皇の臨終に立ち会えたのは皇后の配慮によるものだったと伝えられていることにもとづく表現です。臨終の際に愛子が天皇の手を握っていたとする記述も見られますが、皇后がそれを促したことを直接示す同時代の記録は確認されていません。

※「47歳」は、大正天皇の崩御時の満年齢です。

※良子妃をめぐる回想、焼け跡でのさつまいも作り、敗戦後の退位をめぐる皇太后の言葉などは、女官や関係者の回想・証言として紹介しています。

※貞明皇后の誕生日については、資料によって六月二十五日と六月二十七日の記載があります。

※ご本人、ご家族、関係者の方々に敬意をもって制作しています。

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1 comment
  1. 柳原愛子様が臨終に立ち会えたことは、貞明皇后の深いお心遣いがあったからこそですね。皇后様はどのような想いで、その決断をされたのだと思われますか?

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