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表題に偽りあり!「聖徳太子が消された理由」なんて説いてないじゃないか!タイトルで閲覧件数を稼ぐのはおやめになったらどうですか?訳わからん寸劇は結構ですから!
蘇我馬子大王と蘇我善徳大王
蘇我馬子大王は「百済が倭国侵略を企んでいる」との日羅の進言(583年)に基づき、百済を警戒していた。百済の不穏な動きがあったので百済に侵攻し平定した(587年)。捕虜は273人いた。日本(百済)は倭国を乗っ取ってから、この事件を蘇我馬子と物部の宗教戦争に置き換えた。丁未の乱は作り話であった。592年には百済王の崇峻も殺された。
蘇我馬子大王は日羅の進言に基づき、任那(全羅南道)を侵す百済に対して、王か王子が倭国に来るよう求めていた。
隋書東夷倭国伝にある倭王「あまの多利思比孤」は蘇我馬子であり、太子の「利歌彌多弗利」は蘇我入鹿(蘇我善徳)である。磐余池辺双槻宮は用明天皇の皇居ではなく島大臣蘇我馬子の宮であった。宮は鳥取県北栄町北条島にあった。米里と北条島が磐余邑であった。磐余池と池上の陵も確認できる。600-700人の女がいた後宮は北栄町の曲にあった。蘇我入鹿(蘇我善徳=厩戸皇子)は馬場町で生まれた。
人の好い蘇我入鹿(善徳)大王に代わった631年、百済王武は、唐の倭国使高表仁が百済を通る時に豊璋と塞上を倭国に連れて行くように頼んだ。中大兄王子(豊璋)は6歳で、弟の塞上とともに鳥取県北栄町由良の蘇我入鹿(善徳)大王の皇居(由良の宮)に来た。
驚いた蘇我入鹿(善徳)大王は高表仁の非礼をとがめた。中大兄王子(豊璋)は由良の宮(百済からは東宮)に来る前から教えられていた殷王朝が滅ぼされ兵法書の六韜に基づいて蘇我入鹿(善徳)大王を徹底的におだてた。人の良い蘇我入鹿(善徳)大王は、中大兄王子(豊璋)と塞上を大海人王子と同じように育てた。蘇我入鹿(善徳)大王は、隋の裴世清たちが蘇我馬子大王に北栄町北条島で謁見した時の話を聞かせていた。中大兄王子(豊璋)は後に「日出ずる処の天子・・・」の話を「日本」の参考にし、「大国維新之化を教えて欲しい」の話を「大化の改新」の参考にした。
13 大海人皇子と中大兄皇子(豊璋)
中大兄皇子(豊璋)の母(641年に亡くなった百済王の武王の妻で皇極・斉明)と鎌足(翹岐)は、高名な40人を乗せた百済からの船で奈良に到着した(642年)。中大兄皇子(豊璋)は法興寺での蹴鞠の会(643年)で鎌足(翹岐)に出会って奈良に住んだ。
高句麗と百済は殷王朝が滅ぼされた兵法書「六韜」に基づいて行動していた。645年に、中大兄皇子(豊璋)と鎌足(翹岐)は談山(テロリストのアジト)で計画したとおり、「豊璋(天智)の母(皇極)が会って礼を言いたい」と欺いて呼び出し、聖徳太子こと蘇我善徳大王を斬首した。
蘇我善徳は天武天皇の父であった。またの名の関係は次のとおりである。
(父)聖徳太子=蘇我入鹿(蝦夷)=蘇我善徳
(子)山背大兄皇子=古人大兄皇子=大海人皇子(蘇我果安=天武天皇)
これでわかることは「天武天皇は乙巳の変の現場にいた」ことである。この時、大海人皇子と中大兄皇子は二十歳前後の兄弟だから、半島からの調の儀式のような国家的な行事には一緒に出席していた。国史は故意に消しているが、乙巳の変が倭国王を殺したテロであることを隠すためである。
山背大兄皇子殺害事件は乙巳の変というテロ行為を正当化するために創作された一人三役・四役の創作物語であった。
647年に倉吉市大原の石上神宮の武器と宝物を「蘇我倉山田石川麻呂大王が奈良は物騒だからと言った」と欺き奈良に移した。蘇我善徳大王の大海人皇子(天武天皇)は649年に鳥取県倉吉市の賀茂神社を皇居として即位した。
百済の野望と目的達成
⑴ 藤原鎌足は百済人であった(阿武山古墳)。百済名は翹岐であり、「百済王を倭国王にすり替えるため」に倭国に来た。その手始めが乙巳の変(645年)であった。
その後、倭国王を次々と暗殺していくが、ほぼ目的を達成したのが、宮崎県にいた百済王の聖武天皇を奈良県に遷したときであった(718年)。
⑵ 扶余義慈・扶余豊璋のように百済人は扶余族であった。扶余族(藤原五摂家=霞会館)は強奪することに喜びを感ずる一族(三国志魏書・高句麗伝)である 。
金品だけでなくなんでも強奪する。地名も人名も系譜も歴史も良い評判も言葉も国も。
倭国歴史書原本を入手して、大王を大臣に変えた。新羅を百済に変えた。聖武東遷を神武東遷に変えた。
鳥取県にあった地名を、筑紫や日向や葛城や磐余や石上や伊勢や難波や河内や高千穂や宗像(もとは胸形)や稲葉(因幡)などに持っていった。
難波を南場に変えさせ、安倍を阿部に変えさせ、歴史書の人名を奪った。
大谷翔平は坂上田村麻呂が来るまでに卑弥呼一族と一緒に奥州市に来ていた。杉原千畝の評判も奪う。
周りに受ける言葉を、そっくり口真似する。
国(倭国・朝鮮・満州国)の領土を強奪した。
藤原鎌足(翹岐)は倭国を奪う手段として六韜「権力者に近づいて徹底的におだてろ。相手の判断が鈍ったところで殺せ」を用いた(藤氏家伝)。
また、扶余族は選民意識も持っているので自分たち以外の人々を家畜や虫けらのように扱った。藤原五摂家(霞会館)がそれである。
⑶ 蘇我馬子大王は日羅の進言(583年)により「百済は三百隻の船で倭国を侵略する計画をたてている」ことを知り、百済王の用明天皇を殺し(587年)百済兵273人を捕虜として倭国に連れて帰り奴婢とした(丁未の乱)。次の百済王の崇峻天皇も殺した(592年)。
百済は殺されないように女帝の推古天皇をたてた。推古天皇のときに75名の俗人と10名の僧を肥後国の葦北の港に送るが、蘇我馬子は11名の僧以外は受け入れなかった(609年)。
⑷ 百済王の武王(舒明)は倭国王の蘇我馬子が亡くなり次の蘇我善徳(入鹿)は人の良いことを知ったので、殺されることは覚悟のうえで、試しに幼い次男(豊璋)と三男(塞上)の王子を人質として倭国に送った(631年)。
武王(舒明)は641年に亡くなったが、次男(豊璋)と三男(塞上)は殺されずに大事にされていることが分かったので、百済は作戦を変更して、策士の翹岐(藤原鎌足)と高名な百済人40人余りを筑紫に送った(642年)。この船には皇極(斉明)や山上憶良の父も乗っていた。
「藤原鎌足(策士の翹岐)は・・・つぎつぎと王家の人々に接触して、企てを成し遂げうる明主を求めた(日本書紀・644年)」。「王家」とは百済王家であり、「企て」とは「百済王と倭国王をすり替えること」である。その手始めが乙巳の変であった。
⑸ なぜ、白村江の戦いを起こしたのか、なぜ、中大兄(百済王子の豊璋)は7年間即位しなかったのか(661年に中大兄は百済に行き、663年に百済王の禎嘉王を宮崎県に連れて帰り、各地から兵を集めて軍備を整えていた)、なぜ近江大津に遷都(667年)し壬申の乱を起こして騒ぎ立てたのか(宮崎県に百済王をかくまって軍備を拡張していることが見つかりそうになったので、宮崎県の神門神社を守るためにヒバリの偽傷行動をした)、の謎が解ける。すべては、「百済王と倭国王をすり替えるため」の準備であった。
⑹ そのあと、鎌足の子孫は何度もすり替えのため、倭国王の暗殺をしているが、ほぼすり替えが成功したのは宮崎県から春日大社に呼び寄せた百済王の聖武天皇のときであった。
藤原不比等は権力者(倭国王)をおだてて側近になっていた。呪詛を罪とする大宝律令の制定(701年)や日本書紀の編纂(720年)を主導した。穂積大王を暗殺し(715年)次の倭国王は鳥取県の倉吉に留まらせ、山上憶良を見張りにつけた(716年)。
宮崎県の神門神社から聖武天皇を奈良の春日大社に呼び寄せた(718年)。
5年間、倉吉の倭国王のそばにいた山上憶良を奈良に帰らせ(721年)、聖武を倭国王のように教育させて即位させた(724年)。
春日大社にかくまっていた聖武天皇と鳥取県倉吉市にいさせた倭国王を奈良に帰らせる途中にすり替えている(734年)。しかし、平城京には本当の倭国王を知っている者が多くいたため「聖武は倭国王ではない」と言われた。「聖武は倭国王ではない」と言われるたびに遷都した。「聖武は倭国王ではない」という者は謀反を企てたとして斬首し晒首にした。怨霊として祟らないように東大寺を建立した。同じことを全国各地で行った。
奈良時代は倭王朝の一族と百済王朝の一族との血で血を洗う時代であった。西大寺の道鏡や大伴氏は倭王朝側であった。東大寺と興福寺の怨霊を鎮める処理能力が限界に達したため、桓武天皇は怨霊に苦しみ平城京を捨てた(784年)。平安京では多くの寺を建て、陰陽師を雇って殺した者達の怨霊を鎮めた。東京に遷ってからは、明治神宮と靖国神社である。
大和には群山あれど…仁徳天皇が詠まれたと思っていましたが?舒明天皇でしたか?
とりよろふ…とは、とりわけ天香久山…だと習った様に思いましたが違っていたのですね。
この人の話は素人向け。過去に私がそうでした。
皆さん他で勉強しましょう。
表題に偽りあり。聖徳太子の死因は語られていない。詐欺?
蘇我善徳が聖徳太子のお名前でしょうか。やまとあやこま(渡来人)が暗殺を指示され、そののち口封じのために暗殺されたとも伝えられます。職人の神様と未だに伝えられております。偉大な人物。
ぎゅっしゃって言ってます? 33:04
大変勉強になりました。ありがとうございます。
蘇我って悪どい。
今も蘇我の一族はいるのかな?
この時代てたしか世界的寒冷化時代で世界中で大飢饉や疫病や大不況的な暗い時代だったはず?
その時代において既存の政治体制や宗教体制では維持できなくなって
大陸から新しい宗教や価値観や政治体制や知識や文化人知識人を受け入れて
なんとか国を立て直そうとしたのかな?
当然既存の権力者たちや利権者たちによる反感や反乱が起きただろうし
また半島や大陸出身の勢力にわが国が乗っ取られるのでは?という危機感も当然あっただろうことは想像できる
もしいま現代においても世界的な暗黒時代が訪れた時には歴史は繰り返されるのだろうか?
お願い事をする風習は神道であり、仏教ではありません!
仏教は仏の教えであり、因果の道理を説く教えです。
根本的に間違えておられます。
19:08 蘇我氏の祖先は史実では「武内宿禰」であり、孝元天皇にも通じる家柄では?
古事記、日本書紀。は〜 『偽書』と、去れた各種の『古文書』から〜『抜粋』(⬅良い所、取り)して時系列を誤魔化し、パズルの様に書き換えた、当時の『勝者』の『特権』(⬅歴史は勝者が書き換える) なので聖徳太子の『件』も真実は、未だ『闇』の中
日本人やっぱ頭良いんだな
100均で仏像買えるの?
おおとも の やかもちじゃないんかい?
大伴金村(かねむら)が家持(やかもち)になってますよ!
どんな理由つけても負けは負け、国民を言い訳に戦いから逃げただけやんけ。流石皇室が一切の責任を放棄しつつも、権力だけは保持できる仕組みを考えた聖徳太子の一族だね。
最早作り過ぎた嘘。
明治維新から日本の歴史は西欧と稼ぐ日本人が作った嘘。
信頼って大事だよ
歴史に何を学んでるんだ?
記紀には蘇我入鹿が暗殺される時 なぜ天の子である私が位を継ごうとする時殺されなければならないのか と言ったとあります。と言う事は当時入鹿は天の子即ち皇太子であり天皇になろうとする式で突然暗殺されたと思われます。即ち当時は629年に舒明天皇が即位と言うのは嘘で蘇我入鹿が摂政皇太子として即位し聖徳太子とよばれていたと思われそして645年に入鹿が天皇になる式で中大兄皇子のさしがねで突然暗殺されたのではないでしょうか。だから入鹿はなぜ自分が殺されるのかわけがわからなかったと思われます。記紀にも入鹿が殺された時にそれを示唆する歌があり突然殺されなぜ殺されるのか訳がわからないと言う歌が載っています。
勉強になります。
いつもありがとうございます。蘇我氏がもともと飾りなどのデコレーションを生業としており、仕舞いには荘園をもらったという根拠などはございますでしょうか。
日本を格好良くと言いながらLG製のモニターに違和感。
日本神話、神武から皇位相続争いで殺し合いの歴史。古代の歴史を個人的に調べたけど、証拠と根拠が見つからないんだよね。漢文で書かれた古事記。日本書紀と矛盾だらけ。古事記は中国人が書いた本?じゃなかったとしても、漢文で書かれた写本は貴方が本気で調べて語っているのですか?その翻訳に信憑性は誰か他に調べた人がいますか?あなたの信じたいことと真実は違うかもしれませんよ。我々が教えられ学んだ古文書、歴史書物は時の権力者によって都合良く書かれた本かも知れません。仏法僧を熱く敬えも日本人が創作した宗教。聖書神話は歴史書であり真実が書かれてます。その根拠は遺跡の発見です😅
動画のUPに感謝です。
聖徳太子=蘇我氏