ピオニーズ – パッパ・パパラ ソフトロック 和ボサ スキャット すぎやまこういち

ピオニーズ - パッパ・パパラ ソフトロック 和ボサ スキャット すぎやまこういち



Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.2
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.2.html

ピオニーズ – パッパ・パパラ (Pappa-Papala)
7inch single : Polydor DP-2051
1969年11月リリース。

作詞 : 林 春生, 森 尚明
作曲編曲 : すぎやま こういち
北崎美知子、田熊由美による女性フォーク・デュオ。

ニッポン放送が後援し1969年3月9日に大妻講堂で行われた
イヴェント Students’ Festival 38 Let’s Enjoy Country And Folk Music!
のパンフレットに PEONIES ギター・田熊由美 ギター・北崎美知子
とプリントされており、それが1969年11月にリリースされた
本件デビューシングルの前の参加であった事が確認できる。
そのイヴェントの司会が金子洋明、森山良子とクレジット
されているので佐瀬寿一氏のインタビューと重なる。
佐瀬寿一氏は「およげ!たいやきくん」「いっぽんでもにんじん」
「パタパタママ」以外でも山口百恵「赤い衝撃」や
キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」、そして畑中葉子の
問題作「後から前から」の作曲家として有名で、オールジャンル
で多作な作家である。

佐瀬寿一は日本大学芸術学部在籍中にビートルズのコピーバンドを
やっており、ニッポン放送の『バイタリス・フォーク・ヴィレッジ』
(1966年 – 1972年) に出演していた。この番組にはビリー・バンバン、
ブレッド&バター、ジャックス、遠藤賢司とかが出ていた。
この番組ディレクターだった金子洋明がやってた
ミュージカル・ステーション主催のコンサートの前座に
出たりしていたが、そこにピオニーズという女性デュオがいて、
彼女らも自作自演だがすごくいい声してたので「今度曲書くから
歌ってみない?」と誘った。佐瀬寿一が曲書いて持って行ったら
とても好評で、レコードにしたいとなった。
それが「消えた想い出」(1969年日本グラモフォン=ポリドール)で、
佐瀬寿一の書いた初めてのレコードとなった。
当時佐瀬寿一は大学2年か3年のときで、まだ10代だった。
詞は『バイタリス』のスタッフの人に手を加えてもらった。

佐瀬寿一は1969年、大学在学中にピオニーズのこのファースト
シングルA面作品「消えた想い出」で作詞・作曲家デビュー。
このとき印税か買取のどちらにするかと聞かれ、結局3万円の
買取契約にしたものの、割と売れたので後悔したという。
実際当時のラジオの深夜放送で「消えた想い出」は
よくオンエアーされていた。

佐瀬寿一氏は1980年以降に「茅 蔵人(かや くらんど)」の
別名義でも楽曲制作をしている。
なお、茅蔵人は「火薬の島 (kayaku-island)」の意で、
大爆発するようにと名付けたという。

すぎやまこういち (本名:椙山 浩一 読みは同じ)、
(1931年4月11日 – 2021年9月30日)
日本の作曲家・編曲家・指揮者。日本作編曲家協会 (JCAA) 常任理事、
日本音楽著作権協会 (JASRAC) 評議員、日本カジノ学会理事、
日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。
名義にひらがなを使用しているのは、「誰もが分かるように」したため。
位階は従四位。当初は音楽大学への進学を望んでいたが、音楽大学に
入学できるほどにピアノが弾けなかったことから断念し、
東京大学理科II類に進学。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。
3年のとき、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ
傍系進学。しかし、教官が授業にあまり出ないすぎやまの顔を
覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため
1年留年して卒業。卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイト
をしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を
音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、
引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後、
芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。

1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」
と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。
フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。
次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる
『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組
はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に
集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが
難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、
ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集に
ナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て
放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード〜芸能界
を変えた男・渡辺晋物語〜』としてドラマ化された。
当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、
すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。
また、1964年から2010年までの長年に渡り、正月・元日の
看板番組になっていた大型バラエティ番組『新春かくし芸大会』も
すぎやまと渡辺の2人が主導する形で制作・放送されていた。

1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても
精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も
始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、
自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように
苦慮するようになり、また JASRAC とフジテレビが著作権料の
支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家
としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月に
フジテレビを退社した。退職後、フリーのディレクターとして
フジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から
作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、
彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。

1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く
手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』
のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し
『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表
(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。
自ら「B面の王者」を自称しており、「花の首飾り」や「学生街の喫茶店」
のように当初はシングルB面ながらラジオでのオンエアなどで
徐々に人気が出てロングセラーになったという例がいくつかある。
インタビューでは「(9歳下の)筒美京平さんは狙ってヒットを
打てるすごい作曲家だが、自分は頑固なんで時流に乗った曲作りは
できなくて」と語っている。『ザ・ヒットパレード』で音楽を担当した
宮川泰とは同い年(学年は宮川が早生まれのため一つ上)だが、
作曲家になる勉強のために宮川の書いた譜面を参考にしていたため
宮川泰を「師匠」と呼んでいた。
ポップスやクラシックを多く作曲しているが、少数でありながら
現代音楽、実験音楽も作曲している。また、ジャズに関しては
親交のあった色川武大によると著書にて「すぎやまさんはジャズ嫌い」
と書かれているが、実際はドラクエのカジノの音楽などジャズ調の
曲も多く作曲している。
また、演歌について「演歌こそ日本民族の音楽である、という
権威付けは間違いである」「音楽芸術の面から見れば、瀧廉太郎から
始まりすくすくと育っていた日本の音楽文化に、暗黒時代を
築いたと断言してよい」「我々コンポーザーの間でも演歌を
歌とは認めても、音楽的には優れた美しいものと認めている人は
少ないのではないか」と否定的な見解を自著に記している。
ただし、風来のシレンシリーズでは演歌調の曲も作曲している。

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