【戦争証言】大阪大空襲 火の海を逃げて

【戦争証言】大阪大空襲 火の海を逃げて



太平洋戦争末期、大阪は50回をこえる空襲によって、約15,000人が犠牲になり、街は焼け野原になった。
大阪では、爆撃機B29が100機以上飛来した空襲を「大空襲」と呼び、1945(昭和20)年3月13日から
終戦前日の8月14日までに、8回の大空襲があった。

明仁二三雄さんは、1932(昭和7)年生まれ。大阪市浪速区、大国町あたりに住んでいた。
当時、国民学校6年生。学校からの集団疎開で滋賀県水口町に行っていたが、3月の卒業式を前に
大阪にもどり、空襲にあった。(ピースおおさか証言映像2022より)

 ※証言映像の団体向けDVD貸出について
  https://www.peace-osaka.or.jp/education/lending/

■大阪空襲を語り継ぐ平和ミュージアム「ピースおおさか」
 OSAKA INTERNATIONAL PEACE CENTER (Peace Osaka)
大阪城公園内にある資料館。大阪空襲の犠牲者を追悼し、平和を祈念するとともに、空襲を中心に
大阪の人々の戦争体験に関する資料を展示している。

公式ホームページ http://www.peace-osaka.or.jp
公式X     https://twitter.com/oipc0917
公式Facebook https://www.facebook.com/oipc0917

[音楽] 大阪風習を経験された方々が描いたもの です終戦から長い年月を経てなお忘れる ことのない記憶だと言い ます空を埋めかのような爆撃機B 29この時1700Tもの勝団が落とされ 大阪の町は一面火の海となりまし たこの体験を描いた明神文男 さん先日中は大阪市のナ区大黒小ありに 暮らしていまし た当時民学校6年生今で言小学6年 です学校からの集団初会で滋賀県み町に 行っていましたが3月の卒業式を前に大阪 に戻っていまし た私らの卒業式でしたですよその卒業式の あの用意するあの椅子並べて 白でえけてあのちゃんと用意するまでしが こ行ってったんです よ昭和20年1月より爆撃機B29が頻繁 に大阪の空を飛ぶようになり ます最初のうちは数も少なく一期で来る ことが多かったよう です毎日のより警戒系を空My系をされに なるんですよであ空Myやてあの防号あの 中へまた入ってああこれはもう経画警報 解除やもう大丈夫やてまたそ出てきてそん のがねもう2日にやくあったんですよ時間 帯夜ですよもう決まってね11 時夜の11時前ですね慣れてくるんです そればもうタがくぐってますようおとされ になりますあたやあまた今日もやもうそれ に慣れてしまたっていうんですかもうとと 13日にホモが来ました です3月13日夜中11時を過ぎた 頃この日は274機ののB29が被し勝団 による無差別爆撃を行いまし [音楽] た1番最初はあの西淀川の港区やらえ大正 区西区あの方からも燃えてきたんですよ そしてものすごい日の勢でうわーっと燃え てきたもんですからそこらの方がみ私とこ 家の方へあの逃げてこられたんですよ そしてなんどらしまして空中で醤油んで家 あげてんねんと聞いてそれで初めてああ こらこっちいうような状態でし たその時明人さんの家ではおじいちゃんが あの早逃げなあかんで早逃げなあかんで 言いながらまあ荷物をね固めてました お父さんもあの1番上の姉が結婚するから え着物上等の着物やらであの時に生のお米 を1とあのやら氷に入れてれで担いで持っ て逃げるいて1番上のあれがあのその嫁嫁 先の家へお手伝いに行ってませんそして おりませんね次の姉がそのも漫画 あの盲腸で中水園でもう起きられへんて

きりでしたそして妹はあの母親の妹の妹の 家へあの預かってもらってそみたいにして ました逃げる時はだからおじいちゃんが もう早逃げなかんでて言いながらもうつな てあの盲腸で寝てましたでしょそしたら もうあの立てることもできませんやもう その時はねもう死ぬんや母親がもう一緒に ここで一緒に死ぬ言うてそのあ私の姉が寝 てるとこへ覆いかぶさって もう抱きしめて動きしませ私がもう早逃げ なかて引っ張ってるそれはもう逃げへも ここでこうしてこうこのこと一緒に死ぬん やからほとでくれ言って親親が言うたん ですよだけどそのそばにおったおじい ちゃんが逃げて死んでもここで死ぬのも 死ぬのは石やからもう生きられるだけ生き てらとないや言うて無理やりにその姉を その起こしたんですよそれで母親があの 一緒に立って肩へこう担ぐようにして私が このこっちのでこう支えてもう私も6年生 ですからそんなたた力もないですも母親と 2人でこう担ぎ上げてようやく立たせて 痛い痛い痛い痛いて言っても歩かれしませ んそしてようやくその表てからもう迎の家 うわと燃えてますでしょ近所はまその時私 とこの家がまた裏あの裏の方がまだ燃えて なかったですよああ裏ひつじもうわかんね て言いながらあのもう逃げよいて無理に その姉をその引っ張り出して逃げたんです よ逃げるだって逃げるところがないですよ 意味はもう広ですよですからもうどこへ 逃げたらいいど逃げる場所がない早を逃げ た方は焼けてない家あったもんですから みな避難所へ逃げていた私とこはもう遅れ で逃げたもんです からそれでも逃げなければなりませ ん明人さん一家は火の中を進み ます燃えた焼 しかし火屋と言うてももう地面が暑いは もうまだこここことこ日をってるば向け たいと向けたのくもってきて燃えてくる ような状態そして途中で防火寄子があっ たらボカ野水の水をずっともう体にかけて もう日がつかいようにしてそしてあっちへ 前々こっちへ前々とそうあの逃げ回って ようやくたどり着いたんがあのお墓今でも 眼線てあるんですよそこのお若い込んなん ですよそしてそこでようやく人できました はは言うて良かったな言うてそこは下手 ってへたり込んだんですよそしたらえ若い あのお兄ちゃんが自分の母親はですねあの 背中におて逃げてこられたんですよで私 そこあのお墓の隣へああいて座ってそし たらそのお母さんですねお母さんがお水 ちょだいお水ちょうだい水くれ水くれ言っ

てねこうもう入りかけてあるんですよ水 言うたってどこもないですそして私は探し まくって水ないから水ないから思ったら そのちょうど向いにお墓に石の離があのお 水であげるとあそこにお水が残っとったん ですよそのお水を水筒の蓋でこうちょっと 上すとすてあお兄ちゃんにあげたんですそ したらその水をお母さんですよなその人に こう飲ませるほんだら あし勝った言うてね方がそう言うてねで ガっとし死んでしまり ましょその場所の安全も長くは続きません お寺本道はこっちにありますよたからそこ で日がついたもんですからこれはまたあ かんは言ってそのお世を出て大学長から あの出てるあの自然あ自然の通り広い通り 出たんですよなんとそこでたくさんのその 人は真っ黒けになってこう倒れて死んなる んです よその時の記憶を描いた明人さんの体験が ですあの道路両側にもたくさんのその 真っ黒くになった死体がゴロゴロゴロゴロ と転がってもう倒れてあるんですもうそこ を歩いて もうその遺体を踏んでまでいかれしません しねもう避けながらよけながらあの時の その痛て言うんですかそのあそこのおっ ちゃん郡屋のおっちゃんが死んである 真っ暗けなたあるま顔は分かりますだけど 体が真っ暗ですよああそこのおかしやろ おっちゃんがまた死んであるわ分かるん ですよだけどそんなあのお出することも できもうそれをこう足でよけるということ できませんしもうよけながらよけながら こうあの時はだいぶ心でなります ねかつて明人さんが逃げ惑う中で歩んだ道 です現在そのおかげはありませんがここで 多くの方が犠牲となったの です こう大学部長の交差やっとついてそして 大学部長の交差電からあの26号線を南へ 住吉の方へ向かってちょっと歩いて左川に あの今中があったん今宮中学校そこへ避難 したんですようやくたどりついてはあって 言うた途端にこのグリートの上でみん もうでしませんもうれてもうたでしません 僕すでそこで寝まし た火の海をかいくぐりなんとか無事に 避難所にたどり着くことができまし たこの時病気のお姉さんも無事でし た1段落つくと気になるのは自分の 家朝あの夜開けてとんで見に行きましただ けどもうもちろん何にもないもう防空を みたいなちょっとしたとこであのもを埋め たりあのもを掘り込んだりしましたけど

もうそれも全然もうむせるって言うんです か蒸焼きみたいなちょっとったらもう ポロっともう開きませんでしたああ僕は なかてましたらもう命がない です3月14日は明人さんの卒業式の日 それも気になって学校へ向かい ますいっぺいドになってるて母親が一緒に 行こう言て連れて四の学校へ連れて行って くれたんですその時にはもう小学校は適 のこ者残ってましたけどあの木造は全部け てもなくなったもうその卒式のその会場を ですね行動で座る椅子ありますであの椅子 を額の置きですよま黒毛になった死体の 置場になってましたわその死体の置場で 思い出しましたけどね私らよりね1つ2つ したる男の人ですけどね真っ黒けにって あのが道に転がってますその中に自分が その空しの時に気を失ってまざってそこで 倒れたはたんですよそれ食にしてねシの 学校へ行動へ運ばれて並並べれてそして パっとこう気がついたら隣も隣りも隣りも みんな真っ黒の人 ばかりびっくりしましたてりましたそう いう人はあるんです よ3月13日から14日にかけての空襲は 後に第一次大阪大空襲と呼ばれる大規模な もので多くの被害を出しまし [音楽] た家を失った明人さん家族は親戚を頼って 住むところを点々とすることになり ます 淀川を渡った先にある寺の辺りで暮らして いまし た配はありますもたお米を半分にして重湯 にして量を増やして食べましたんですもう そのお米時代がもうあのどこに個別はもう 思いでどこにあるのか分かるしないそう いうもをべてましたんかから空いたいうの はもう 中幸い近所で畑を借りることができたため トマトやキュウリトウモロコシなどなんと か食べるものを作ることができまし たしかしそんな畑にも容赦なく攻撃を 仕掛けてき ますその畑で作ってる時にグラマンがっと きて生で受けましたあの急行化して降りて くる飛行機はあのめったに見れませんよ あああの飛行機時代より音はあ音が怖いん ですよたまの落ちてくる風切って落ちて くるその音がそれ 怖いその玉が落ちてくる瞬間って言うん ですかえ2mぐらいのとこで私は畑て不正 をしましたこれこっちがその玉がブとこ 等価へもう30cmこのぐらいの感覚で パパパ

えそれ音が怖いんですがそれはもうやこ [音楽] しさい命に関わる経験を何度もされてきた 明人さん 戦時中を振り返るともうダメだと思った ことが3回あったと言い ますそれは怖かったです ねそれそれ怖かった1回とそれから焼けた 時のもうここで死のうみんな一緒に死のう 言うた時の1回とそれからもう1回で母親 とねもう 食べるもんはないわ働くもんはない働ける もんはないわ言うてもうどもしやないから もうこれやったら あの一緒にもうここでしのか言って話して したことあったんですその時に1回と3回 これ色てた助けてもらってます ね生きるか知る かていうこと は神人てよ言いますよその通りその通り ですああも人時なんて一瞬 [音楽] です

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