2023年度 日本ロシア文学会 公開講演会
趣旨説明
中村唯史会長
05:32
神西清とロシア:北京ロシア居留地の記憶
講師:畔柳 千明
41:42
今、ロシア・モダニズム小説と向き合って: ユーリー・オレーシャ『羨望』を中心に
講師:古宮 路子
え日本ロシア文学会会長の中村太です今回 の公演録話の公開にあたって一言ご挨拶 申し上げますまず今回の趣旨を簡単にご 説明いたします2022年度に黒柳千さん が日本学術振興会育省小宮道子さんが日本 学術振興会賞長ゆさんがサントリー学芸省 芸術文学部門を受賞されましたこれらは もちろんおさ方それぞれの決しした業績に 対して小授与されたものですけれども当 学会の会員である方々がこのように評価さ れたことは私どもにとっても非常な喜び でした2022年2月に開始されたロシア 軍のウクライナ進行がもたらした衝撃と 同様中でもロシア文化に関わる極めて力に 見した研究が継続されていることまたそれ が広い学術会と社会の評価を受けたことに 私たちは強く励まされております本度受賞 を記念して黒柳さんと小宮さんにご自分の 研究をさらに広げる形でのご講演をお 引き受けいただきましたロシアとその隣接 領域を対象とする人文学の日本における最 前線の成果を広く知っていただく目的から ご講演は録画をお願いしこれを公開する ことにした死体です次に講演者のお2人を ご紹介しますはいえっと1人目の講演者は 黒柳千さんです黒柳さんのご専門は中国 身長におけるロシア政教の選挙を中心と する土中関係士です2022年10月に 論文政典の政教化東京週刊1860年と 身長中国のキリスト教に対して日本ロシア 文学解消そして2023年3月にはロシア 帝国のの北京宗教施設団の研究を評価され てすでに申し上げましたようにえ2022 年度日本学術振興会育省を受賞されました 同じく2023年3月に東京大学より博士 学術の学位を取得され現在は早稲田大学 自席研究員日本学術振興会特別研究員で いらっしゃいます今回のご講演は北京に 残存していたロシア人巨と20世紀前半の 日本の小説家ロシア文学者であった人材 起しとの設定についての大変興味深いお話 です2人目のごえっと講演者は小宮美子 さんです小宮さんのご専門は特に1920 年代30年代のアヴァンギャルドと モダニズムを中心とする20世紀前半の ロシア文学です2017年9月に東京大学 より博士文学の学位を取得されています 2021年に観光された店長お礼者展望 走行研究人物造形の奇跡で当年の東京大学 自立省及び翌年の日本日本ロシア文学会長 を授与されましたまた列車戦法の生成家庭 解明に基づいたス前期ロシア文学士の実証 的研究を評価されてすでに申し上げました ように2022年度日本学術振興解消を 授与さえました
現在は東京大学文学部除去え2024年度 からは東京外国語大学で選任行使として 強弁を問われるとのことですえ今回はえ 今回のご講演では20世紀前半のロシア語 文学を代表する作家オ礼者についてえ分隊 テキスト生成当時の状況との関連などの 観点から多面的にお話になって いらっしゃいますえ最後になりますけれど も私は黒柳さんのご公演録画をえ事前に 拝聴え拝聴した際思い出したことがあり ますそれは作家の堀田の太古夫人からその ご生前に伺ったことですけれども人在清は 太平洋戦争中品の県に住む親友の堀田の家 にしばしば週末になると東京から訪ねてき て酔っ払っていたそうですでそんなある翌 太子夫人がそれをからかうと人在は一瞬 今日日疲れたよな顔をした後大笑いに 紛らわせたそうですけれども太子夫人は後 で掘立をから人材は今とても苦しいのだ からあんなことを言うもんじゃないと嗜め られたそう です小宮さんもご講演の中でえ作家有利礼 者が1920年代後半から当選を度合いを 強めていった疎遠社会の中で晩年まで 苦しんだことそしてそれは核という作家の 最も根本的な縁にまで影を落としていた ことに言及されています 人材やお礼者がそうであったように言語 文学文化はそしてそれらの研究という営み もまた自分たちを取り巻く状況から すっかり無縁でいることはできません そしてこれは現代世界に生きる私たちにも 当てはまることだと思い ます日本文学会ではこれからも様々な世代 の研究成果や多様な見解の発信に努めて まいります今後ともどうぞよろしくお願い いたします以上でおわり 早稲田大学の黒柳と申しますえ本日は どうぞよろしくお願いいたします発表の 機会をいただきましてありがとうござい ますえ私はロシアを中心にロシアと中国の 文化交流についてえ研究しておりますえ 異文下間で対話が行われる時にはそのズレ を解消するあるいは見えにくくするえ必要 があると思いますえこの場合え言葉は 極めて重要な問題ですえこれはすなわち誰 がえ何をどう翻訳するかという問題でも あると思いますえロシアと中国は長大な 国境を接していますが基本的には大きく 異なった文化権に属していますこのため ロシアと中国の間には古来意思疎通のため の場や様式人のあり方がせえ発達してき ましたえその1つが17世紀から新町の都 北京にあったロシア人巨竜地ですここは ロシアの管理家に置かれ宗教施設団の拠点
として様々な翻訳が行われまた翻訳者の 育成が行われる場となっていましたえ巨竜 地は300年以上の間繰り返しえま変化し ながらえ残りましてえ現在はロシア大使館 としてえ継承されていますえ私はこれまで えこの巨竜地を舞台としたえ外交やえ文化 交流の歴史について調べてきまし たえ北京のロシア巨竜地を指す歴史的な 用語としてえ日本語では北間北館と書いて ベイグアンとえアルバジン村えというもの がありますえベイクアンはえロシア語中国 語資料の中にもえ見ら用語ですえこれに 対してえアルバジン村はえ日本語独自のえ 用語ですえまこのえ様子がえまこのベイグ アンのえ様子ですえここに居住したのはえ ネルチンスク条約締結前の戦争で発生した えロシア人捕虜とえその子孫えでえ現地で の通行が進んだ結果外見はロシア人とは 思えず中国人に近い見た目をえしていたと 言われますえロシアではこれらの人々は その個である常態のえ名前からえアルバ 人人アルバジツとえ呼ばれますえ アルバジン村というのはまここから取って いるわけなんですけれどもえまこれはあの やはりえロシア語中国語にはえ見られない え故障えということになりますえ一見えま これら日本とは直接関わりないような話な んですけれどもま実は最近になってえま この巨竜地を描いた日本の日本語のえ小説 の存在に気づきまし たえまその小説なんですけれどもえ 1947年に雑誌文芸春樹にえ発表された 人材清市のえ短編小説白樺のある風景え ですがまこれはえ第2次世界大戦中の中国 北京のロシア人をえ題材にした作品ですえ 進行の深かった作家であるえま三島幸夫は え人材の没後間もない時期にえ観光された 作品集に説を寄せていましてえまその中で え白樺のある風景をえま代表作えであるえ 雪の宿りと1には争う可変という風にま 表していますえまなんですけれどもえこれ まで研究対象となることはえま稀な作品 でしたえ人在清は東京外国語学校ロゴ部を 卒業しえチェーホフやプーシキンの翻訳で もえまよく知られているえロシア文学翻訳 者ですえま翻訳者としての仕事に比べると え作家として注目されるということは 少ないんですけれどもえまえ非常に白式で 知られていましてえ多にわる題材を駆使し たえ作品を残していますえま今回はえ北京 北京のそのロシア巨竜地についてえま 考えるきっかけとしてま人材が何を書き何 を書いていないのかということをえ検討し たいと思いますえままずえ場のある風景の あらすをご紹介します1942年9月19
日と日付が明記されているんですけれども え作家の文身と式僕がベキのホテルの部屋 でベキを訪れた印象を手紙に綴るという形 で物語が進行しますビキンで1人孤独を 持て余していた僕は京都からやってきた 学者のU博士と知り合いその案内でベイグ アンへと赴きますベイグはえ17世紀後半 にえ後期定がロシア人捕虜に与えた領地に 担を発しえ住民の要望も生活もえ中国化し ながらえ未だにロシア語が聞かれるえ混結 部落だとえいうのでしたえ僕はベイグアン でえ裕博士の給油の パンテレリアをえ見学し ますえ実は人材は実際ににベイグアンをえ 訪問していましてえこの主人公の僕はえ 作家の自画像とえ思われますえ白樺のある 風景は戦後の作品なんですけれどもえ人材 が満州国と北京を含むえ下北を巡ったのは え1942年のえま夏から秋にかけての ことでしたえ旅の具体的な目的こそ不明な んですけれどもま当時え人材はえ国作調査 機関のえ東亜研究所えま八卦ロシア人を まとめる主任であったということがえ知ら れていますえそのためえこの白樺のある 風景という作品の成立をま日本の政治体制 とえま切り離して考えることはえできない と思われますえ確認できる限りえ作家が 北京行の願望を最初にま日記に書きつけた のは1938年にえ遡るようですえ 1937年の7月えに日が回線した後日本 ではえ中国語中国語ブームえ中国ブームが 起きえ1938年には人材のま親しい友人 えでありましたえ竹山道男もえ北京に旅行 していますえ文学会ではえ1939年に かけてえ戦争文学流星の時代をえ迎えてい ましたえ人材は1939年に朝日新聞場で 明日大陸を描く作家はえあの大地に生きる 民の脈REMに自家に触れその疲労や底力 を直接に感じ取りえ古い文化の検体や願望 の声を微妙な死後のうちに聞き取るもので なければならないとえ大陸の現実を反映し た新たな文学の必要性について述べてい ます京域は千治体成果で作家としてどう 活動すべきか模索した結果であったのかも しれませんえ実は白樺のある風景では北京 をえ舞台にしているにもかわらずえ そもそも中国人がえほとんど登場登場し ませんえまた登場したとしても典型的な 造形にえ収支しているようにえ見えますえ これは1939年のま作家自らの発言とえ ま矛盾しているようにもえ見え ますえ高層当初この小説のタイトルは ベイグアンのえ人々でしたこののタイトル は小説がえまベイグアンえ別名アルバジン 村中国とロシアの混結部落をえま前傾化
する内容でえ当初構想されていたことを 示唆していると思いますえま人材は非常に 筆が遅いことで有名でしてえこの時も執筆 は難行しますえそこでタイトルを白樺の ある風景に変更するとえそれをきっかけに ようやくえ筆がえ進んだと言いますこの 作品の力点はえ当初の混血部落からえ白樺 へすなわちロシアへとえま移っていったえ のではないかと思われ ますえ北京で主人公の僕はえこれまで会っ たことがなかったロシア人にえ初めて 出会ったというえことにえされていますえ また僕が出会うえアルバ人村えの住民もえ 純粋なえロシア人という風にされています え人材自身がロシア人に初めてあったのが 金だったというわけではえま実はないん ですけれどもましかしえこうした描写は 生涯ロシアやソ連をま訪れることがなかっ たえ人材の自伝的事実をえ早期させるもの だとえ思いますえ白樺のある風景にはえ二 項体率を用いてま技工があの非常に凝らさ れていますえ作品全体を支配するのはま 文芸評論化の青の水液地が油えに例えて いるんですけれどもま非常にに客観的な 描写ですえ一方でえまここにえ移している 北京の教会のえ奨学の場面は際立ってえ 動的でしてえ読者を場面への没入にえいい ますえ教会え奨学はえま白樺とともにえま いかにもロシア的なモチーフだと思います え北京の中にあるロシアがえま理想の中の えロシアにえますなわちま現実えとして見 ているものがえま年にま一致えしていくと いうえ場面がえここで作り出されてえい ますえこの小説はえまロシアという理想が 発見されてまそこにえ同化した後でま さらにですねその理想の喪失へとえ向かっ ていきますえ先ほどのえ場面のま小学にま 感動したというえ場面のえすぐ後にえ僕え 主人公はえ同行者の裕博士がえアルバジン 村でえ白樺えをえ目撃したということを 聞きましてえま異様な厳密をえ感じますえ 主人公はえまないはずのものがあるいる はずの人がいないえということでま期待を 裏切られてま気まずい思いをするという シーンがまいくつかこの小説の中に出てき ますえ登場人物えがまえ著者のえ自画像で あるゆえのま一種の痛切な自己風えがこの 作品の貴重えましているとえ思われまして えまたそれがあのロシアを巡ってま展開さ れるとえいうことにえなっていると思い ますえまこのえ白樺のある風景の走行がま 神奈川え近代文学館に保管されているん ですけれどもまそれを見ますとえまこのえ ここに移しているシーンのえま河川部え のみがえ現行用紙の乱外にえ記されており
ましたえ人材はこの箇所だけえ別の用紙を 使っておそらく遂行を重ねてえま後からま 全体の中に統合したとえ推測されますえま ここに描かれたのま理想がえはなく失われ ている瞬間だとえ思うんですけれどもまえ 作者をまこのまこうした瞬間というのが この作品のま最も金めになるところだとえ ま考えていたということをえ捜索過程も また示唆しているようにえ思い ますえ主人公はえロシアロシアやえ ロシア人えに限らずロシア後にもえ距離を 感じていますえ自分のロシア語にわざわざ え実に貧弱ながらとえ言い訳めいたことを え述べますえ言葉の通じない北京で当初 島長の状態に陥った僕を救うのはえ北京 判定まホテルえなんですけどもえ地下に あるえ書店えがまありましてえまそこに いるロシア人番頭とまロシア後でする会話 ですえまなをえこのホテルは実在しまして その書店もあの実在するというえことの よう ですえしかし僕が北京でロシア後の世界に 同化できたえのはえ本の塚の間にすぎませ んえその後はえほぼ前編にわたり出来事に 直接介入しない観察者としてえ位置付け られますえ僕ともう1人の主要登場人物で あるアルバジン村の住人パテレフとのえ コミュニケーションはまえまあくまでも その身体的な次元にえとまりますえ人材が ま自らをのま自らの自画像をですねえ ロシア語から遠くちづけているということ はま名翻訳者のまどこかこう屈折したよう なえところというのを受けてまあの非常に 興味深く感じられるえところかと思い ますえ白樺のある風景はえ北京旅行機の 掲載を取っている作品ですえ1937年に え北京では日本の海来政権がえ作られまし てえこの政権はその後えま大朝明を主犯と する南京政府の方にえま統合されてえ 1945年まで日本軍による占領が続け られましたえま戦時架であったわけです けれどもま北京の日本人人口は非常にえ 増えましてまたえ日本から北京を観光に 訪れる人というのがえまあのたくさんえい たそうですでえまその中でベイグアンをえ ま訪れた日本人というのはま実はえそれ ほど珍しくえありませんえ結果としてえ 1937年以降日本語によるアルバジン村 への言及というのはあの非常に増加します えま字が小さいんですけれどもえま表に 示す通りえ1938年から日本語での言及 がえまま増えていったえようですでえま ここでえ1つ注目したいのは1941年え ま年末からあの翌年の年初にかけてなん ですけれどもえロシアソ連え専門市のえ
月刊ロシアえというえマザ誌がえ北間え ベイグアンの人々とええ題されたエッセを え掲載しているということです えまあの先ほども え言いました通りえ人材清は白樺のある 風景を当初ベイグアンの人々という風にえ まタイトルを名付けておりましたえ タイトルだけでなくテーマがえロシア人 棒名者である点もえ白樺のある風景とま 共通していますのでま何らかのそのえま 影響関係がえあるのかもしれませんえま ただえですねえ同時期の他の訪問者と 比べるとこうした棒名ロシア人への着目と いうのはえ非常にに移植の着眼点のように え思われますえというのも多くの訪問者が 注目しているのはえむしろコケブラとして のアルバジン村であってえそこに住む ロシア人捕虜の松江でえあったから ですえ北京を訪れる人々の視線を誘導して いたのはま北京旅行のまガイド本であった とえ思われますえ1941年に出版された 安藤厚生がま編集したえ北京案内 はえ日本語の北京案内書としてま最も優れ たものという評価がえ定着しているガイド 本でま非常にえ情報量の多い本なんです けれどもえまここにですねえアルバジン村 がえ名所としてえ掲載されていますえ今 あのお見せしているのでえ全文 ですこの説明文にはえ白樺のある風景とえ まほぼ一致している内容や表現が見られ ますえまあのここでを見せしている網かけ の部分ですでえ白樺のある風景のえ該当 箇所とまちょっとえ比較をしてみますとえ 引き取り方の交渉があった時も帰国しよう というものはなく地雷2世紀半にわたって 彼らはこの村に住みついてえ満韓両族と 通婚しながら大きな混血部落を作り上げて えまであるとかえ住民の要望も生活も ほとんど中国化してしまったが教会のの中 では未だにロシア語が聞かれるといったえ ところかとえ思いますでここからえ白樺の ある風景のえ執筆時にもえ北京案内がえ 参照された可能性はま高いとえま考えられ ますえそれでえ北京案内期の記述でえ守護 になっているのはえま先ほどからえ出てき ている17世紀に後期定に投稿してま北京 に土地を与えられてえ長年のの間にえ中国 化したコサックの子孫であるまアルバ人 アルバ人人ですえアルバ人人はえオロス 鬼人として発起性の中に組み込まれてえま 軍務についていたということが知られてい ますえでえま高規定が彼らに与えた土地と いうのがまアルバジン村の発症えとえいう 風にされていますえ当初アルバ人人の中に は新側の翻訳者としてえロシアとの外交
文書の翻訳に携わっだったようなえ人もい たようですえましかしえアルバ人人は盛代 交代が進むとえ18世紀の前半にはえもう すでに翻訳者やま通訳者としての水準で ロシア語を使える人はもういなくなってい たという風に考えられていますえ19世紀 以降の看聞資料の中にはえオロス記事に ついてのえ情報はえ見当たりませんえ ロシア側でもえアルバ人人は北京における 通訳者あるいはえま仲介者としてえ利用さ れていましたえ利用したのは1689年に ネルチンスク条約が締結された後にえま キャラバンを組んでえ北京にやってくる ようになったえロシア商人たちですえ ロシア研究者のマイケルホダ コスキチロシアのま通訳者えとしてまえ 雇われている人々の多くがえ東方諸国で 捕虜となった経験をえ有する人々であった とえ言います えロシア帝国はえ北京に宗教施設団をえ 置きましてえ教会を通じてアルバ人人の 同行の把握が続けられましたえただえま アルバ人人を巡ってはえまアルバアルバ 人人え政教徒まあるいはえ信仰とはま関係 ないえ身長側のおろす鬼人まあるいはえ 男女えなどですねえ重なり合う複数の カテゴリーがえありましたえ表はあのこの 表はですねあの各各時代の色々な統計をえ まとめてみたものですえがまこれをあの ご覧いただいても分かる通りえま結果とし てアルバ人人の人口についてはえ一貫した 統計資料が作られませんでしたえロシアと えまアルバ人人のえま関係について見ます とえアルバ人人が一方的に弱い立場に置か れていたわけではえないようですえま 先ほどもえ触れましたけれどもえまアルバ 人人は金社会との仲介者としてまあの ロシアにとって必要な存在でありましたし またえ宗教施設団が活の活動の場にしてい たベイグアンがま本来アルバ人人の土地 ですのでまあのそういった複数の背景がま ここには考えられますえ宗教施設団と アルバ人人はえロシアから送られてくるえ 資金を巡ってえ対立をしていますえ例えば 1830年代のえ事例なんですけれども アルバ人人は施設団が設置した学校に子供 を通わせるかどうかというのをえ施設団 からの有志の取引材料にえ使っていますえ 下半分だけえ少し読みますとえ8月29日 中隊長はアルバ人人数名を自宅に集めえ 一緒に同150万戦を貸してくれと ミッションに言うことを決めたこれは 少なくとも銀50トにえ匹敵する額である また中はミッションが貸し付けを拒否した 場合え聖堂にもオロスカにもアルバ人人は
誰も行かないし全生徒は学校を退学すると いう条件をあらかじめつけたえすなわち アルバ人人は政教とかえまそうでないか ロシアとの関係をどうするかというのをま 自らま選択していたとえいうことかと思い ますえまアルバ人人とはえ真えロシアえ あるいは政教かま正教でないかとえいうえ まどちらもえ放せしうる非常に曖昧なえ カテゴリーでしたえこの事件はえアルバ 人人自身がえその曖昧さを自覚していてま それを生存戦略としてま利用していたので はないかというえことをえ示唆していると 思い ますそれではえ北京を訪れた旅行者たちは アルバ人人をどう描いたでしょうかえ結論 から言うとえ日本語の文脈でよく注目され たのはアルバ人人はロシア人でもありえ 中国人でもあるという点でしたえ作家 長谷川史郎はアルバ人人をロシア人でも なく中国人でもなくえこの2つの混ぜ小に なったようなといいえ言語は北京語だった としていますえより詳細な記録を残した 書き手としてまジャーナリストなんです けれどもえ高木武夫がいますえ19440 年の冬高木はアルバ神村の教会を訪れまし てえそこで出会った神父えはえですねえ ロシア語とはれの良いベキ語を話すアルバ 人人でしたこのワシえ神父は写真もえ残っ ておりますえこんなえ方でしたえただし 当時えアルバ神村にえ居住していたのは アルバ人人だけではありませんでしたえ ロシア革命後ロシアから中国に棒名者が 流入しましたえ次の統計ではえ1928年 時点の人口はえ7万6000人とえなって いましてえフランスポラードに継ぐ規模 でしたえその大部分は満州にいたんです けれどもえ下北では天心がえ最も多くてえ ま約6000人という数字がありますえ 北京はあの人数としてはかなり少ないん ですけれどもえ18世紀からえ宗教施設団 が置かれていたアルバジン村というのはえ ま亡命文化のえ中心の1つになっていまし てえ約130人のえロシア人え棒名 ロシア人とえほぼ同数のえ中国人がえ居住 していたとえ言われてい ますアルバ人時にえ元々主導権があった アルバジン村だったんですけれどもま やはり村を訪れたえ石橋牛男というえ方の ま記述からえするとま多くのえロシア人 亡命がえ流入したことでコミュニティにえ 分断が生じたということがえ伺えますえ白 のある風景も実は経済的方面でのまえ不教 和音をえまほのめかしていますえ石橋が言 対立の実装やまあるいは日本が当時北京を 占領していたわけですけれどもえまこれが
与えた影響などまこれらはですねまなおえ ほとんどえまだ研究されていないえテーマ かと思いますますえしかしえ人材えま しかしですねあのま言えることとしてはえ この人材が訪れた当時のアルバジン村はえ ま棒名ロシア人やまあるいはえ新たなその 日本えの影響のもでま政治的にどのような 立場を取るかというま新たなカテゴリー 付けがえま生まれてえま曖昧さというのは 増一方であったはずとえ思われますえま それは今月部落の一言ではまとてもえ 片付けられないものだと思いますえ人材は えベイグアンを描きながらえまほぼ同時期 にえベイグアンを訪れた石橋や高木といっ た人たちと異なってえま作中には明確に アルバ人人がえ登場することはありません え石橋や高木が出会ったならえ人材が 出会わなかったとはま思えないんです けれどもえままずえ前行ええま述べたん ですけれどもえアルバ人人はま エスニシティもえ宗教も非常に曖昧である ということをえ前提とした存在でしてえ 小説に落とし込むということはま非常に 難しいのではないかということはま想像さ れますえしかしまそうした難しさに加えて え白樺にはえま高木が提示したようなま 通訳者あるいはま仲介者としてのイメージ というのもえ当てはめにくいのではないか と思われますえというのもま最初にえま 触れましたがえ白樺にもっぱら描かれるの がえ主人公の僕がえ現行的な コミュニケーションを喪失しているとえ いうまそういう状態だから ですでそこでえアルバ人人の代わりにえ ベイグアンの案内者として現れるのがえ パンテレリアこの人物にもえモデルがいる とえ思われますええロシア局投資の研究者 のアミールヒムジノえ氏によればえドミト えペトロヴィッチ パンテレリアウクライナえ市え編集者でえ 棒名後ハルピンでえ同士を復活した人物で あったとえ言いますえこの人はえその後は 北京に住んでいまして宗教施設団で所屋や え編集の仕事をしてえ棒名先の サンフランシスコでえ亡くなったとのこと ですえま人材がまベイグアンを訪れた日に えパンテレフと実際に会っていてもえ おかしくはないとえ思われますえまた日山 新一市の研究によればえドミトリ パンテレリア観光団を印刷してえ1909 年にえ来日していますえ人材はですねえ これらの事実をえ知っていましてえ白樺の ある風景の設定にえ生かしていると思われ ますえ河川部え極東えっとえあの名付け られている新聞はパンテレーフのえま編集
していたえ打両界やウクライナにえ相当 するとえ思われ ますえこれですねはいええただしですねえ 白樺のパンテレーフのえ名前と青年はえ ドミトリパンテレフとはえ異なっている ようですえ白樺のパンテリーコヨーテ フにえ同か所に登場するえマトウエフえま すなわちえニコライペトロマトウエフなん ですけれどももえのええ経歴をえ融合させ ていると思われますえまここにえ出して おりますがえま革命をしばらくして市長の まなんかと一緒に神戸へ流れてきたえ一時 はえ神戸で路地新聞をその市長と共同で 始めたのはえま実際のパンテレフのことで はなくてま実はえマトウエフえというま この人えに当てはまること です え白樺の パンテレリア出身のようなんですけれども 一方で北京生まれとされていましてアルバ 人人であるようにも読めますえギダ事件で は外交官など北京にえ駐在していた ロシア人は南のオロス艦まつまりえ大使館 のことですがえまそこに立てこもったりえ また郊外に避難したりしてえ無事でしたえ 一方で現地の政教徒が犠牲となりええなっ ていましてえ事件後にはえ北京での犠牲者 の222名がえまえ助男者としてえま劣勢 されていますえ宗教施設男子の研究者で あるえアフォにな市によればえ222名に はえアルバジンだけでなくえま満州人幹人 えモンゴル人とえま非常に多様な カテゴリーの人々が含まれていたようなん ですけれどもえロシア人はいませんでした えパンテレフの母親が岩田事件で犠牲に なったというこの箇所だけえ読みますと あかもえまパンテレーフはロシアからの 棒名者ではなくてえ北京生まれのアルバ 人人でえあるかのよですえ例えばえ 1940年にま先ほどのえ高木が出会った アルバ人人の神父もまたえ際ダ事件でえ 天外孤独となったえ人であったとえ高木が 伝えていますえ作者はえパンテレーフ1人 にえま石橋が言うところのえまえ新アルバ 人人まつまり棒名えロシア人とアルバ人人 という2つの異なる個性をえ重ね合わせて いると思われますえまパンテレーフは非常 に常に3万で曖昧な態度を取る人物として 描かれているんですけれどもまそれはこの 愛反する2つの個性にえ対応したえもので あるようにもえ読みえ読み取れると思い ます え人在のえま親友であった作家の堀田はえ ま白樺のある風景を読みましてま感想を 手紙に書いているんですけれどもえパンテ
レーフの人物造形にもう1歩物足りないと いう感じを受けたようですえ堀が言う通り パンテレーフを取り巻く生活がもっと必要 に書いてあればえまそれはおそらくえ とても興味深い物語になったのではないか とえ思いますえしかしえ人材がそうし なかったのはえ単にえこれが短編であると いう形式の問題だったのでしょうかえ そもそも北京ガイド本はえアルバ人村を 訪れる人々の視線をえアルバ人人の方へえ 誘導していましたえこれに対してえ人材は 亡命ロシア人にえ着目していますえ人材は 棒名ロシア人にアルバ人人の特徴を重ねて えアルバジン村をえ象徴すると人物をえ 作り出そうとしましたえしかしそも そもそもえアルバジンVは複数の カテゴリーがえま重なっていてま曖昧で あってえま言葉による決定をえまれる存在 であるとえ思いますえ実際 パンテレリアできずえ同時に複数の カテゴリーに属していますえつまり ロシア人のようでもあり中国人のようでも ありえまたそうでもないえそうでないよう でもあるようにえ描かれていると思い ますこのあり方部分的にえアルバ人人の あり方にの反映でもあると思いますえーま このパンテレーフのアイデンティティて いうのはま1つの人格に収まってえいない 状態になっていましてえまこれこの生活を えり掘り下げるということはま非常に困難 なのではないかとえいう風に思えますえま 最初にえ理想との出会いとその喪失がこの 小説のテーマではないかというえことに 触れたんですけれどもまこの小説ではえ 最初単純なものとして現れたロシアがえ 亡命やえ移住あるいはまアジア中国といっ たえ要素とえ工作をすることでまどんどん 複雑さを荒にしていきますえまたえ失わ れる理想はロシアだけに限りませんえ序盤 でも取り上げた1939年の発言ですがえ 明日え大陸を描く作家はあの大地に生きる 民の脈拍に直家に触れその疲労や底力を 直接に感じ取りえ古い文化の検体や願望の 声を微妙な死後のうちに聞き取るもので なければならないえ人材はこの発言を自ら 否定する方向にえこの物語を作っているの ではないでしょうかえつまりえ大陸に 生きる民であるえパンテレーフとはま対話 もなくえ極めて曖昧に彼は存在していまし てま意味や定義の不要というのをえ拒み ますえ白樺のある風景は戦争の時代を生き た文学者としてま他者との出会い方という のを見つめなした作品であってまその意味 でもえ一種の痛切な自己風でもあったので はないかとえ考えられると思い
ますえロシアと中国の関係は良い時と悪い 時とえありましてでま今はいいとえ言われ ていると思うんですけれどもえま個人の レベルでは曖昧だということもえま多く あると思いますえ中路関係をま歴史的にま え個人のレベルでえま調べようとすると どうしても資的な制約にえぶつかると思い ますま例えばこのえ報告でえ取り上げてき たアルバ人人にはま非常に断片的な資料 しかえ残されていませんまそうしたにはま それが曖昧にされていることの意味をえま 考えたいとえいつも思っておりますま 例えばアルバ人人の場合私はえこの彼らの えま主体的な行動がえ曖昧さの維持に つがっていたのではないかとえま考えてい ますえまたどのくらい曖昧に見えるかと いうのはそれはそれを誰が見ているかにも え依存すると思いますまさらに調査が必要 なことではあるんですけれども日中戦争の さ中にま日本のえま国策機関のま研究員と して美京を訪れた人材がまその住民の声を 本当に聞き取るということがまそもそも 可能だったのでしょうかまどう曖昧なのか まなぜ曖昧なのかをま考える上でえ文学や 歴史学がま積み上げてきた技術や知見と いうのはえまえ必要不可欠なものではない かとえ考えていますまこれからもええこう したま曖昧なもののためにま研究であっ たりえま勉強えし続けていけたらとえ考え ており ます参考文献はえ次の通り ですご清聴ありがとうございまし たこんにちは東京大学の子です私は令和4 年度に日本学術振興会社をいただきました この度は私が所属する日本ロシア文学会が その記念講演の機会を設けてくださり大変 光栄です会員の皆様この講演を視聴して くださっている皆様に心からお礼を 申し上げます限られた時間の中でうまくお 話しできる自信はありませんが私の研究と 今後の展望についてそして私なりに考える 今ロシアの文学や歴史を考えることの意味 についてお話をさせていただきたいと思い ますではえ講演を始めさせていただき ますまず受賞理由としてあげていただいた 有利令者千望の生成家庭解明に基づいた ソ連前期ロシア文学の実証的研究ですが ここには2つの異なる研究ジャンルが含ま れています1つは生成論でもう1つは学 研究です生成論というのは文学作品の走行 を検証してその作品が書かれていく プロセスを明らかにする研究のことです 他方文学史研究とは文学作品を取り巻く 状況を歴史的に明らかにする研究です 例えばマクロなものでは作品が書かれた
当時の出版事情や分断の状況国家の文化 政策ミクロなものでは作家同士の交流や 作家個人の電気などが研究対象として 思い浮かび 私は1920から30年代に活躍したソ連 の作家である有利オレ者の代表的小説千望 の走行研究を行いましたその際には執筆投 の当時の文学史的文化主的状況と 重ね合わせて走行の内容を解釈する アプローチをとったため私の研究は生成論 と文学史研究の2つの正格を合わせ持つ ようなものになってい ます 研究の具体的成果の1つとして私はお礼者 千望走行研究人物造形の奇跡という探知を 出版しましたこの本は2017年に東京 大学に提出した博士論文を元にしたもので 第2回東京大学自律長をいただき観光の 運びとなりましたまた2022年には日本 ロシア文学会社をいただき学会からも肯定 的な評価を受けておりますロシア語版も 2023年にエナツイアシスはイスリサ ダニアラマーナアデシザービスという タイトルで観行されました以下ではこの本 の内容を中心に読者の楽しさ研究の楽しさ についてお話をしていきたいと思い ますまずは作家有利お礼者について簡単に 紹介しますお礼者はは1899年に当時は ロシア帝国領だった現在のウクライナ南部 のクロピフにつきという町で連絡した ポーランド貴族の家庭に生まれました そしてお礼者がまだ幼いうち に一巻小デサに移りこの国家沿岸の港町が 彼の事実上の故郷になりましたお礼者は ギムナジウムで優秀な成績を納め現在のお デサ大学法学部に入学して死のサークル 活動に熱中する学生時代を過ごしました しかしちょうどその頃ロシア革命が起こっ た影響で混乱する世の雰囲気の中でお礼者 は大学を退学し作家になることを夢みて 1922年にモスクワに上京します モスクワでの礼者は規定を意味する武道と いう鉄道労働者向けの新聞で ジャーナリストの仕事をしつつ作家 デビューを目指して小説を書きましたそう して完成した初めての本格的小説が千望 ですこの作品は当時影響力があった雑誌 赤い処女地の1927年7号8号に掲載さ れ大きな反響を呼びましたこして礼者は 華々しい分断デビューを果たします 1920年代マスから30年代半ばにかけ ウレッコ作家として次々に短編小説を発表 しまた演劇の戯曲や映画シナリオも 手掛けるようになって活躍しまし たしかし1936年にシナリオを手掛けた
映画厳格な若者これは放題は未来への迷宮 というものなんですけれどもこちらが上映 禁止処分を受けたことがきっかけでお礼者 は本を出版できなくなってしまい以後困窮 するようになります質のうちに荒れた生活 を送るようになりアルコール依存症に 苦しみましたお礼者が名を回復されたのは スターリンの死後1956年になってから のことですこの年長らく忘れ去られていた お礼者の殺菌集がされると読書会は彼を再 発見し高く評価しましたこうして晩年には 再び注目を浴びたお礼者でしたが苦難の 時代を経てすでに心身の健康をひどく 損なっており1960年に押しまれつつ 病没しまし たではお礼者の代表作展望とはどのような 作品なのかということに移りますがこれは ある意味では居場所がない人工の物語で あると言えると思います小説の舞台はお 礼者が執筆していた当時の1920年代 後半のモスクワです主人公はニコライ カバレロという知識人の青年で年齢も当時 のお礼者と同世代の20代後半です カバレロは詩人基質で文章をか才能がある のですがその能力を生かせず経劇の脚音を 変えてここをしいて今そんな彼はあるよ よって路上に倒れていたところを偶然 通りかかった政府交換で食品工業トラスト のトップを務めるアンドレイバービチェフ に解放され合成な自宅に連れてこられます カバレロを不便に思ったバービチェフは 一時的に彼を自分の元に住まわせ秘書の ような仕事をさせるようになりました しかしカバレロはこの恩をありがたいと 思わずむしろ社会の花型のバービチフを 妬むようになります貴族階級出身の元革命 家で今はソ連の軽業発展を担う重要人の バービチェフは極端な合理主義者で事務的 な仕事の試案を発揮していますがそん中で も私人気質のカバレロの目には無乾燥でぼ よな人物に移ってしまいますアンドレイ バービチェフには敵がいますそれは兄の イヴァンバービチェフでこの人物は弟とは 正反対に革命後のソ連で落ちぶれ今ビア ホールで芸などして生活していますが豊か な想像力の持ち主でいつも自分の空想に ついて夕べに語り周囲を煙に巻いています ますカバレロがこのバービチェフ兄弟の 対立に巻き込まれ次第に身を滅ぼしていく というのが展望のストーリー です千望を一読した方に感想を伺うと 分かりづらかったというお返事をいただく ことがあります実際展望は現代の日本の 読者の理解を阻む部分がある作品かもしれ ません例えばカバレロが街を歩いていく
シーンから一説を取ってみましょう トルス通りを横道に入ったニス通りへ出 たかったのだ早朝横長には関節がある僕は 難儀な流町のように節から節へ移動して いく僕は事物に愛されていない横長は僕を 病んで いるモスクワの地理をご存知の方なら通り の名前からここが町の中心部だということ はピンとくるかと思いますしかしこの一説 では横長を関節に自分自身を夕に例えると いうかなり奇抜なヒが使われていますお 礼者は後年ヒの王者という異名を取るよう にさえなっていて彼の捜索には普通は あまり考えられないような異をついた費が 多様されていますそのことと合わせこの ような分隊は展望がモダニズム小説である ということからも説明がつきます モダニズムとは19世紀末から20世紀の 30年代頃社会主義リアリズムが確立さ れるまでの時代に大きな影響力を持ってい たの潮流で文学においては実験的な分隊を 1つの特徴とし ますお礼者に限らず同時在に活躍していた ピリアのあピリアやセボイバーノフなどの 作家たちも スカーステンと呼ばれるようなモダニズム 三分特有の分隊を駆使し人気を白してい ましたモダニズム三分の分隊における皮 表現の特徴として資格的であることがあげ られます先に引用した千望のワシーでも モスクワ中心部の曲がり角の多い入り組ん だ横長は資格的に似ているという理由で 間接に例えられているわけですしかしこう した資格的な費は読者の意表をつくことが できる一方で例えるものと例えられるもの の間の意味論的な繋がりが気迫なため意味 が取りづらく結果的に読者に分かりづらい という印象を与えます横長と間接も通常は 結びつきのない2つのものであるため作者 が違としていることが理解されづらくなっ ています では横長は僕を病んでいる僕は事物に愛さ れていないとはどのような意味の発言なの でしょうか横長は僕を病んでいるとは関節 に例えられるモスクワ中心部にとって自分 は病のような存在であるということです ですのでこの表現は自分はモスクワという 街に居場所がない皆からつまはきされる ような存在なのだというカバレエロフの 感じている居場所のなさを表していると 分かります そもそもカバレロにはなぜ居場所がないの でしょうか実はこの主人公が置かれた立場 は小説の部隊である1920年代後半 つまりロシア革命後10年という事代背景
を考えるとよくわかりますカバレロは文学 についての高い教養と教と所用を備えた 知識人です従って革命前は富裕な家庭に 育ったことが推測されますしかし革命が 起こり彼の家庭は絡しましたそして建設が 進む新国家ソ連では社会の主人公は労働者 階級ですすると1920年代のソ連文学 ソ連文学の世界では実際に知識人階級出身 者の排斥が起こりました知識人の作家は 多くの文芸士で小説の掲載をボイコットさ れましたソ連文化士研究家のドブ連子に よるとこのような状況かでは文学の世界に 限らず知識人というだけでどこへ行っても 悪いイメージがつきとったと言います カバレロが才能があるのに発揮できず居 場所を持てないことの背景にはこのような 文化的状況があり ますでは僕は事物に愛されていないとは どういうことでしょうか千望の部隊となっ た第一次5加年計画開始を目前に控えた 時期には新国家を挙げて工業の発展が 目指され小高に唱えられていました カバレロが妬むアンドレバービフもまた この情勢家で食品工業ラストのトップとし て社会の花型になりましたバービチェフは 新しい製品すなわち事物を次々生み出し それがヒッとしてますます世の賞賛を浴び ますしかしカバレロフはいかなる生産物も 作り出していません僕は事物に愛されてい ないという発言には急速に工業化していく 社会でカバレロフが感じる阻害感が現れて いますそしてそれだけではありません工業 家に合わせて人々を取り巻く美のモードも していました革命前に好まれたアール ヌーボの装飾日はもはや自在遅れとされ シンプルで機能性を重視したプロダクツの 美がアヴァンギャルド派である公生主義者 を中心に最先端のものとして小高に唱え られるようになりました革命前のB式の中 で育ってきたカバレロフにとってはこの 新しいモードもまた違和感を持って 受け取られるものです僕は事物に愛されて いないという発言は工業製品を美のより所 とする再先端の美識から取り残されている という芸術家としてのカバレロフの阻害観 の現れでもあり ますそしてカレロフが置かれたこの状況は 千望を執筆していた当時のお礼者の状況に かなり近いものでしたお礼者もまた ポーランド貴族の末裔として生まれ高度な 教育を受けた知識人として革命後の社会で 生きていく上で差別を受けることも多かっ たようですまた後ほど詳しく取り上げます がお礼者は戦職務の時期に作家として時代 の美識についていくのに困難を感じている
というような発言も残しています実は千望 についての様々な先行研究でカバレロと いう主人公はお礼者にとって事前的な人物 なのではないかと指摘されているのですが 実際カバレロの感じている居場所のなさ 居心地のあるさというのはお礼者の抱えて いた感情であると言って間違いないと思い ますとはいえ作家お礼者とその主人公をレ ロフとの間には決定的な違いもあります 我が礼者は逆境を跳ねのけて千望を かき上げ作家デビューを果たしましたが 千望のストーリーでは同様の競業にある 主人公カバレロが文学の才能を発揮する ことをついにないまま破滅していきます 作者と主人公の間になぜこのような違いが あるのかという理由の一端は作品の走行を 見ていくと垣間見え ます 先後には先に紹介した人物の他にバーリン という16歳くらいの少女とボロジノもー イコムソモールというのはあの共産党の 青年組織なんですけれどもその大学生も 登場しますバーリはイワンバービの娘です が今は父から離れ叔父のアンドレイの監督 家で1人暮らしをしていますカレナバーリ をたまたま見かけたカバレロは一目惚れし てしまいます一方ボロ者は鉄道者の息子で 過去に革命家だったアンドレイバービ チェフを救ったことから今は容姿として アンドレイに迎えれられてい ますサッカー選手でゴールキーパーとして 活躍していますロジャとバーレは互いに 恋心を抱いてい ますこれから検討していくのは庭で体操し ているボルジャーバーリの姿をカバレロと イヴァンバービチェフが壁の穴から覗き みるシーンですそこではボジが高跳びをし ています この光景は交換されたテクストでは次の ように書かれてい ます2人は下へ降りていった外庭どうしよ つまり退屈の荒れはてた外庭と秘密の緑を 隔てる石壁には穴が開いていたかから 取り出したパンのような石がえいくつか 抜けていたのだこの穴から2人は何もかも 見た日差しがカバレロの首筋を焼いた彼ら が見たのは高跳びのトレーニングだった2 本のポールの間にロープが渡されていた 若者が略跳躍しロープをほとんどかめて 横倒しにした体で情報を飛び障害物に水平 に倒れ込んだ障害物を飛び越えたのでは なくまるで身をひがして大波を超えたかの ようだった昼がりながら若者は足を 蹴り上げ水を受けるA者のような動きをし た次の瞬間下方へ飛んでいく逆さの歪んだ
顔がひらめきすぐにカバレロは地面に立つ 彼を見たしかも地面に落ちた時若者は 途切れた息か緑地へのかの衝撃かあという 感じの声を開けたのだっ たイバンがカルロフの肘をつねったほら あの子です見てください囁き声で一道が声 をあげ手を叩いたほとんど裸のような跳躍 者は軽く片足を引きずって脇へ知りといた きっとスポーツマン的な美容だろうそれは ボロージャマカロフだったカバレロは投し た 周知と恐れに囚われた老者が笑うとよく 整った輝く機械のような花見が見え たこのように交換されたテクストでは カバレロの恋がきであるスポーツマンの ボロ者が殺そと跳躍を成功させる姿が描か れてい ます展望の走行にはこのシーンの意向が 多く残っていてお礼者が遂行を繰り返した ことが分かりますそれらの意行は ストーリーの上で2つにに対決されます1 つは先にあげた交換されたテクストに かなり近いものでボロ者が跳躍を成功させ ます他方もう1つの系統の意向では跳躍 するのはボロジャではなくバーリです そしてそれらのいずれでもバーリは跳躍に 失敗し ますそして僕の方へ真しぐに跳躍のための 女装をしながらかなり日焼けした足の少女 が走ってきた跳躍はうまくいかなかった 若者たちの笑いと金切り声の中彼女はアフ という感じの叫び声をあげて草に落ちた 彼女はすぐには起き上がらなかった僕は 彼女が足をひねったのかと思っただが少女 は立ち上がったうろとても痛かった仲間 たちの笑い声に腹を立て痛みに声をあげ身 をよじり足を引きずり腹と脇を抑えそれと 同時に服を直しながら彼女は秋へしいてそ の木の下で草に足を伸ばして座った白い 運動靴の平らな底とか釣りをした白い靴下 が見えた彼女は指で膝のすり傷をつきそれ から顔を上げて素敵な微笑みを浮かべ たこのように素敵な微笑みを浮かべるカレ なバーリですが跳躍には失敗してしまい ますではなぜボジはどのバリアントでも 跳躍に成功しバレは失敗するのでしょうか このことについて考えるためにはまずお礼 者がなぜ小説に唐突に体操のシを差し挟ん だのかを考える必要があります実は体操と いうのは千望が書かれた1920年代から 30年代初頭の芸術作品において コムソモールイであることを示す記号に なっていましたソ連演劇の専門家である グットコアは著書ソ連のプロットの誕生の 中で当時の戯曲について典型的なコムルイ
が盛にスポーツをし男も女も半ズボや トレーニングパンツを身につけ数子を光ら せた姿で登場すると指摘していますつまり 体操への十字はコムソモールインという 新しいソ連社会に適合した人物であること を示す明かりでやすい特徴付けだったの ですしって外庭での体操のシンはボロンジ だけではなくバーリもまたソ連の多数派の イデオロギーに共感する立場であることを 示してい ますしかしボロンジとは対象的にワレは 跳躍に失敗してしまいますこのことからは はお礼者がバーリを未熟なコムソモールイ として性格付けようとしていることが伺え ます先にお話ししたようにえバーレは革命 語の社会で落ちぶれたイヴァンバービてェ familyの娘でありアンドレイや ボローJAと行動を共にする一方で父親へ の愛着も持っていますバレがこのような 人物臓器を施されたのは彼女が女性である こととも関わりがありますグ公和によれば 1920年代の戯曲文学において不能 ネップマンそして女性というように女性像 は社会主義事業の敵すなわち土地仕事恋愛 といった私という現象もにしている人々と 同列に置かれていました女性は集団主義に 向かって邁進する当時のソ連において私的 生活という領域にとまろとする限り敵とし て下げの対象になったんですしたがって 跳躍に失敗する場面でもバーレはその思想 的未熟を笑う周囲のコムルイたちに一歩 立ち遅れ彼らから啓蒙される存在として 描かれていると言え ますここまで私たちは特にカバレロボロー JAバーリという3名の人物を見てきまし た彼らを描き出す上でオ礼者は革命後の 新しいソ連社会に対するそれぞれの スタンスを重視し社会対反社会という はっきりした二項対立図式のもに作品世界 を構築していますまず主人公のカバレロは 新しい社会に居心地が居場所がない人物で 国家の重要人物であるアンドレイバービ チフに対しても反抗的な態度を取って しまいますその意味で彼は明らかに反社会 の側の人物ですボローでは逆にアンドレイ に気に入られ国意活用とも結びつく花形 スポーツであるサッカーの選手として活躍 していますしって社会の側に立つ人物で あると分かります最後にバリですがすでに 見たようにこのヒロインは革命前の過去の 価値観や人間関係と決別し新しい イデオロギーの陣営へと意行途上の人物と して描かれていますこの意行の動きは反 社会から社会へと向かうものですお礼者は こうして主登場人物を2つの陣営に分け
革命前の古い価値観と革命後の新しい価値 観の衝突を描きましたこのような作家作家 の問題意識に展望が発表された当時の分断 は鋭く反応し作品を巡る議論は大いに 盛り上がりまし たではお礼者はは社会と反社会のどちらに 近い立場だったのでしょうか社会の側の 人物であるボローはさの引用でも見た通り 成功納め順風満々に生きている法定的な 描かれ方をしています美しいヒロインの バラもまた反社会から社会の側へ移ろうと けないに努力しています他方でカバレロは ついに文学の才能を話させることもなく 社会の形で破滅していきますこのように 考えるとお礼者が社会の側を肯定的に反 社会の側を否定的に描こうとしているのは 明らか ですしかし問題はこの価値判断が果たして お礼者にとって本来的なものであったのか ということです既にお話ししたように カバレエロフは霊者にとって自前性のある 人物です知識人として排斥され次代の モードに違和感を覚えるカバレエロフの 苦しみはお礼者の苦しみでもありました しかしカレロフが逆境の中で夢を諦めた たしお礼者は千望をかき上げ作家になり ました お礼者はこの点で自分自身と主人公の違い に対し自覚的であったと思いますではお 礼者とカバレロフの際は何だったのか展望 発表から5年後の1932年に作家は次の ような発言をしてい ますテーマは作家において長い年月の間に 成長し発展するものだだがある日突然この 作家は彼の命だったテーマが不要のもので あると分かるとてつもない力をは衝撃だ そのテーマは必要ないそのテーマは次義に 叶っていないそれは反動的だそれは気が 抜けているなどということがわかるどう することが望ましいか明らかなメモ帳から 不要なテーマを削除するのだサカーそう する世論にとって面白くないテーマはメモ 帳から削除されるだがそれで切り抜け られるのだろうか削除すればどうにかなる のだろうかだって頭の中に残っているでは ないか除されたテーマは目覚めて頭脳を 邪魔するかもしれ ないここから分かるように世論にとって 面白くないテーマと呼ばれている知識人と しての長い年月の間に成長し発展してきた 作家としての美意識や問題意識をお礼者は 反社会的なものとして削除しようとしてい ましたそれだけではありません反社会的な ものが表向きには現れずとも自身の本来的 なあり方として頭の中に残っていることに
苦しんでいました そのような社会の側への意行を自らに迫る ほぼ脅迫観念とさえ言える感情とともにお 礼者革命前のソ連社会で作家になったの です小説の走行から分かるのは作品が書か れたプロセスだけではありません走行の ページにはこのようにそれを書いていた時 の作家の思いもまたにじみ出ていると思い ます先にに千望のようなモダニズム小説は 分かりにくい印象を与えることが多いと いうお話をしましたすでに触れたように 1920年代ロシアの三文は実験的な分隊 で書かれていますまた当時の作家たちは 革命や新国家建設といった同時代の問題を テーマに選ぶことが多かったので時代社会 に通じていない現代の読者はなおさら 分かりづらいと感じることが多いのでは ないかと思いますそのような理由から モダニズム小説は作者が何を言おうとして いるのか分からない登場人物がなぜこの ような行動を取るのか理解できないという 独語感になることがあるのではないかと 日々感じてい ますしかし例えばカバレロフが抱えている 居場所がないという思い今自分が置かれて いる環境に対する居心地の悪さは現代の 私たちにも通ずるものではないでしょうか この主人公のように自分はもっと評価され ていいはずだという思えから例えば転職を 考える人もいるかもしれませんままた世間 で主流のモードに合わせなければならない というお礼者を苦しめた意識もまた同調 圧力と考えると現代の日本でも共感を得る 感覚ではないでしょうかウクライナ進行後 の現代ロシアではさらに戦争に反対する 考え方を持つ人々は社会において排斥の 対象となっていますマスコミで大きく 取り上げられるような著名な作家芸術家 たちだけでなく実際には市勢の人々の中で も戦争を断行し国際的にリスルロシアで 息苦しさを感じ反省思想を大きにして結果 的に祖国をさらざる得なくなった方は かなりの数に登りますプーチン大統領と 現代はよく千望が発表された1920年代 後半に権力を晩酌なものとしたスターリン とその時代に重ね合わせられてか考え られることがあり ますその意味で100年前に書かれた展望 は現代日本の私たちが私的にも社会的にも 自分自身の直面する問題を考える上で少な からのヒントや共感を与えてくれるものだ と思います小説を読むことはそのような 事故についてより深く考え知るきっかけに なるという面白さがあり ますその一方でモダニズム小説には分かり
にくさもあるとお話してきましたその 分かりにくさの根源は他者性にあるのでは ないかという気が私はしています100年 も昔のロシアの作家が描く同時代や表現 しようとする世界観価値観は現代日本の 私たちから遠く立っていて一族しても何を 言ってるのか分からないと感じそうです ですがむしろそんな自分とは異質の他者の 声に耳を傾け何を言っているのか丁寧に 解きおしていくことにもまた小説を読む ことの醍醐みがあるのであないかと私は 思います事故を深め他者と出会うことは共 に文学を読みさらには研究することの楽し さであると最近感じてい ます声はここまでです皆様ご成長 ありがとうございまし た