この世の地獄をすべて詰め込んだ伝説のカルト映画の話をする

この世の地獄をすべて詰め込んだ伝説のカルト映画の話をする



本作への愛が祟り、またしても長尺になってしまいました。
イタリア映画がお好きな方、フランス文学に興味のある方、それから拷問等のエンタメが大好きな方はぜひ見ていってください。

しばしば本作の見どころとされてきたエ○グ○な描写よりも、作品の芸術的価値に重きを置いて解説しているので、過度の残虐描写が苦手な方も楽しんでいただけるはずです。
というより、主に、そうした方のための解説動画です!

なお新年ということで、タニムラ劇場作戦会議(参加者は僕のみ)を開きました。
今年は、短めの動画を月二本を目安に上げていくことに決まったため、次回から、動画の尺が30~49分とかなり短めになります🙋
短尺の方が見やすいという方には朗報です🙋🙋

▶︎映画本編を観る
https://amzn.to/3u3rFbt

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【チャンネル内の関連動画】

・ビデオドローム

・時計じかけのオレンジ

・アメリカンサイコ

【動画内で紹介した関連映画たち】

ーパゾリーニ作品(前期〜中期)

▶︎アッカトーネ(1961)
https://amzn.to/48FRT2S

▶︎マンマ·ローマ(1962)
https://amzn.to/3U3Q4Z7

▶︎奇跡の丘(1964)
https://amzn.to/47JBwkk

▶︎テオレマ(1968)
https://amzn.to/47HHulO

ーパゾリーニの「生の三部作」

▶︎デカメロン
https://amzn.to/48HdNCJ

▶︎カンタベリー物語
https://amzn.to/47QAUd2

▶︎アラビアン·ナイト
https://amzn.to/48HfWyc

ーサド原作の映画作品

▶︎悪徳の栄え(1963)
https://amzn.to/48XHsr6

▶︎悪徳の栄え(1988)
https://amzn.to/48XpmFF

【本動画の参考書籍】

・ソドム百二十日/サド侯爵
https://amzn.to/4aXTQJz

・悪徳の栄え/サド侯爵
https://amzn.to/48Yc4Zu

・閨房哲学/サド侯爵
https://amzn.to/424cBXu

・エロティシズム/ジョルジュ·バタイユ
https://amzn.to/3vMm7CQ

・パゾリーニの生と〈シ〉/兼子利光
https://amzn.to/3HrMa4I

・フランス文学と愛/野崎 歓
https://amzn.to/47CQMjb

・三島由紀夫フランス文学講座/三島由紀夫
https://amzn.to/48FPYLE

・サドから『星の王子さま』へ―フランス小説と日本人 /稲垣 直樹
https://amzn.to/4b1sT7I

・エロスの涙/ジョルジュ·バタイユ
https://amzn.to/3HwetyI

・文学王/高橋源一郎
https://amzn.to/3tZMHrm

・エロス的人間/澁澤龍彦
https://amzn.to/4b57Fpt

・快楽主義的哲学/澁澤龍彦
https://amzn.to/4b0WZZ5

・エロティシズム/ロベール·デスノス
https://amzn.to/4b2KMmE

・イタリア名画120年年史/古賀 太
https://amzn.to/3OayyhZ

・スクリーンの悪魔/澁澤龍彦
https://amzn.to/3U8LgBF

・いまこそ、希望を/サルトル
https://amzn.to/3HoNBB1

・イタリア映画BEST5/民岡順朗
https://amzn.to/3OaqNIM

・イタリア映画の監督たち ヴィスコンティからベルトルッチまで
https://amzn.to/42aA8Gj

00:00|概要
1:43|あらすじ
10:23|解説①:サド侯爵の快楽世界
48:28|解説②:パゾリーニの詩的倒錯世界
1:32:29|終章:パゾリーニの最期
1:35:32|おわりに

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#サイコホラー
#サイコパス
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BGM:MusMus

ソドムの位ホラーやカルト映画ファンの中 でこのタイトルを聞いたことのない方は ほとんどいない でしょうしかしこの映画を実際に見たこと のある方もそう多くはない はず初公開以来ほとんどの国で上映禁止と されてきたのですから無理もありませ んではソマの位置には一体何が描かれて いるのでしょう か一言で言えば拷問と殺人からなる究極の 快楽 です原作者のマルキドサドはこの物語に ついてソドムとゴモラの滅亡以来誰も考え 及ばなかったようなあらゆる印行が演じ られる場だと記してい ますチャンネル解説以来一部の変態映画 ファンにのみ愛されるカルドムービーを 積極的に取り上げてきた当チャンネルの 基準に照らしても破格の変態映画で アブノーマルの作品を子なく愛してきた僕 谷村もこれを超える作品には未だ出会った ことがありませ んけは望むべくもないない一方一部の ファンには熱狂的に愛される作品をカルト ムービーの定義とするならソドムの位置 ほどその位置付けにふさわしい映画はまと とない でしょうそれでは地と殺戮のメクルメク 快楽世界を通じ皆さんを究極のカルト映画 の深見へとをお連れし ます作品内には人によっては嫌悪感を抱き かねないグロテスクなシーンや小学校の 道徳の教科書に載せるべきアンモラルな 性病者が多数含まれています そうした表現に慣れていない方あるいは 家族や恋人がそばにいる方は師匠を控える ようをお勧めします最初で最後の忠告 です成占良家の1944年湖の等量の青と 山波の緑が美しい円形をなすイタリア北部 の正都サロにナドイツの海来政権イタリア 社会共和国が立されます さらの国家原始として君臨する4人の権力 者彼らが4にも奇妙なラチ騒ぎの計画を 立て実行に移していき ますその権力者とは公爵大教最高裁判事に 大統領の4人 でし背かのファシスト兵士や元のマダムに 命令を下し町の若い男女を 誘拐あるいは還元を労しておびき寄せ一所 へ集めると若者たちを品定め 自分たちのおメガに叶うエリス繰りの男女 を人里離れた別荘へと送るのでし た位相の最中に脱走をみた青年には容赦 なく銃弾が打ち込まれ中にはその同じ位相 の家庭で母親を殺された少女もいまし

た隠して別荘に集められた生贄の男女彼ら に向け権力者は高らかに宣言し ますお前たちは快楽に奉仕する道具だ 哀れみなどコな 自由や情けはどこにもないここでは我らが 法律なの だ早速その日の午後にはカラの宴が幕を 開け ます照射ない衣服に身をまとったマダムが 自身が身を持って経験してきた作的な生態 権を語り聞かせることで4人の権力者の 欲情を書きたてるという趣旨の もの夕日なピアノ演奏を背景に様々な土地 で送られた生が故に深められた独自の見分 でもってラザードさがの語りで男たちの 欲望を刺激していく マダムところがハジが彼女の話を静止し ますもっと詳しく語るようにとの要求でし た曰く陰光の状況を具体的に包み隠さず 話さなければ興奮できないとの こと夫人は穏やかな笑味でそれに応じ ます7歳の頃華暦間近の寄宿学校の教師の 顔にまたがり口に放尿させられた思い出を ビニ入り採用がち語り始めると権力者たち は気に入った少年の手を引き部屋を出て いくのでし た夕食の席では4人の国家原種は元より 配下のファシスト兵士たちにも快楽の道が 開かれていまし たそこで催されるのは彼ら曰わく獣を手本 にしたオルギーという名の快楽の 儀式昼間のあの宴を経て権力者のズボとと に地に落ちていた館内の倫理館たりは もはやいかんともしがく彼らに続けとズボ を下ろしていく若い兵士 たちそれに感化された大統領が彼曰く 美しい尻を披露し兵士の一物を受け入れる と館内をさらなる熱気が押し進めでいくの でし た日を改め後日語り部のマダムが過去に 快楽の主人に奉仕すべく犬の格好させられ た話をしたことで今日得た判事が若者たち を全裸に向き犬のように歩かせた上で犬に 餌をやるように食事を与えて楽しみ ます後日大教の運動のも結婚式が開かれる こと に新郎神父に選ばれたのは生贄の若者の中 でも取分け容姿に恵まれかつバージンの 男女でし た清掃した新郎神父にブケを手に全裸で式 に参列する若い 男女その光景に矢も盾もたまらなくなった 公爵が裸の若者を1人1人に口付けをし さらには列席したマダムや背後に立つ護衛 の兵士にも唇を押し付けていき

ます式は進み夫婦のちぎりがかわされると 3列者たちは追い出され新郎神父が初夜の 営へと呼ぶ団 にそこへ大統領と公爵の2人が終わって 入りお前たちの花は我々が散らすと宣言 新郎神父の花を散らしている最中の彼らの 殿部へさらに最高裁判事が一物を突き立て ていくのでし た翌日次なる語りべとして2人目のマダム が姿を見せ ます若い頃に放らな道楽者の誘いに応じて スカトロジーを楽しんでいたという彼女は その道徳にもる行いをやめさせようとした 母親を鬱陶しさから殺してしまったとの ことその話に公爵が賛同の意を示し ます彼は夫人と似た経験を持つことを何 くわぬ顔で打ち明け母親に感謝するなど 今後同断だ欲望を満たした結果我々は 生まれてきたのだと自身の哲学を披露 さらにこう続け ます私は母親を憎んできた独り出しすると 即刻殺してやった目を閉じてやった時の 快感は忘れ んそれと1人の少女が泣きだし ます彼女はここへ拉致される最中に母親を 殺されていたの です一層自分も殺して母の元へ行かせて くれと懇願する彼女でしたが可憐な少女の 苦悩は権力者たちにとっては密の味一層 かしくない行為の呼び水にしかならずその 上少女が神に助けを求めたことで司教が 激怒原発が下されること にその罰度はスカトロジー でし公爵の切り出したものをおえまじりに 咀嚼する彼女に権力者たちの欲望は エスカレート翌日のディナーにされたのは 生贄の若者たちから直接集めた悪たる焦げ チエルの何かでし たそれを原種兵士生贄と立場の違いを超え 皆で仲良く職するのでし たそのよ公爵と大教の発案でビジ コンテストが開かれることに暗闇の中で 懐中伝統の明りを頼りに最も美しい全部の 持ち主を選ぶという趣旨で優勝者に与え られるのは死でし た4人はじっくりと時間をかけて 吟味選ばれた優勝者に銃を突きつけ引き金 を引き ますしかしそれは空恐怖に打ち触れる優勝 者に地境が鬼の行走でまくし立て ます簡単に死なせるものか永遠の終わりが 来るまで何千回となく殺して やる後日再び教の温度のも公爵大統領半治 の3人が女装しファシストの若い兵士と 結婚式を上げることに自分のもたらした

イビな地獄が夢か何かであるかのように 新婚相手とのむつまじ所野を経て司教たち は館内の見回りに出 ますするとある若者が懲罰を逃れたい一心 で1人の女性の不正行為を 密告枕の下に恋人の写真を隠し持っていた の ですそこで彼女は別の女性2人が愛し合っ ていることを 告げ口その2人は今度はファシストの兵士 が使用人と体の関係を持っていることを 耳打ち 密告の連鎖の果てに現場を抑えられた青年 は直立の姿勢で左の拳を突き上げ ますそれは社会主義者のポーズでし た4人は一瞬たじろぐも我に帰り兵士と 使用人の2人に中数初もの銃弾を打ち込む のでし [音楽] た翌日3人目の夫人が拷問と殺人を[ __ ]と する包頭者に受けた暴力的な体験の数々を 語り聞かせるとある朝には彼女の話が実行 に移され ます中庭に集められた生贄の男女が胸に焼 をされ鞭打たれ舌を引き抜かれ眼球をえり 出され ますその光景を目にしたピアニストの女性 は窓から飛び降りて 自死権力者たちは上階の窓際から双眼鏡を 手に拷問と殺人の一部四重を満足限に眺め ていまし たそしてその同じ頃うららかな日差しと地 音きから流れる天河なダス音楽に包まれて いた 館内音楽に合わせ2人の兵士がステップを 踏み始め ます恋人の名前は何て言うんだい マルゲリータだよ彼らはジャキのない笑顔 でそう言葉をかわし踊りに生じるのでし [音楽] た ボードレールの悪の花よりエロティックで 同時にニチやヘーゲルに匹敵する強固な 哲学を備えた作家の本がこのように出回っ てるとしたら皆さんは手に取るでしょう かそれらが発表されたフランスにおいて さらには日本においてもその翻訳書が発見 処分となり作者は元より翻訳者さもが有罪 宣告を受けたとしればさらに興味を惹か れるでしょう か映画ソドムの位置には原作が存在します その名もソドム120 日この小説を書いたのはサドマゾヒズムの 語言にもなった有名なマルキドサド 公爵彼自身の筆によればソドム120日は

ソドムとゴモラ以来誰も考え及ばなかった ようなあらゆる印行が演じられる場であり 天地開闢以来絶えて作られたことのない 極白の物語でし たAがソドムの位置の中でなぜあれほど 必要にグロテスクな描写が繰り返されるの かと言えばそれがでもないサド文学の根幹 をなす精神だから です本章では文学市場後にも先にも例の ないこの空前のエロティシズム作家と彼の 作品を取り上げつつ映画ソドムの位置の 魅力に深く迫っていき ますまずはこの小説がどういう経緯で世に 出ることになったのか言うなれば作品その ものの物語から話を起こし ましょうこの機械な書物が出版され後にA がソムの位置へと結実したのはの連続を経 てのことでし た佐藤公爵がソドムを書き始めたのは本人 曰わく1785年フランス革命勃発の4年 前の こと当時彼はバステ牢獄の一室にいまし たご存知かと思いますがこの牢獄が襲撃さ れたことでフランス革命の火が切って 落とされたという歴史的に非常に重要な 場所そこに彼は習慣されていたんです ね 義の妹と逃避公に出たことが一家の激に 触れまた金手より行きずりの恐怖に残虐な 行為を働いた等の黒い噂も立っていたこと から義の母の計いにより裁判なしで投獄を じられていたの です作家人生という観点から見ればそれは 高温なことでし た全生涯の実に30年近くを牢獄という名 の書斎で過ごした佐はおよそ想像するだに 耐えがい物語を想像することでその途方も ない歳月をやり過ごしたの です真にイマジナてィなサドのような人間 にとって快楽が容易に手に入ることは同時 に快楽が奪われることをも意味していたの であり拷問投しからなるエロティシズム 文学を切り開くのに彼が髪と筆と小さな 部屋しか必要としなかったことは驚くに 当たりませ んとはいえ囚人のみであることに変わりは なく現行を接収されるリスクには常に さらされていまし たの柵として小さな紙片を張り合わせて 全長12mの巻き物を作りそこへありの ように細かな文字をびっしりと書き込み 片側がいっぱいになると今度は裏面へ筆を 走らせていき ますそうして描かれたのがソドム120日 列車ところがこの巻き物は革命の荒めに

飲まれてしまい ますフランス革命勃発の10日前バステ から別の牢獄へ移されることになった際 一切の私物の持ち出しを禁じられたたの です結果現行は獄中にとまり革命のドサに 紛れて以降2度と公爵の手に帰ることは ありませんでし た友人に当てた手紙の中で私は失われた 原稿を持って毎日血の涙を流していると 告白していることからもサドがいかにこの 作品を愛しその喪失を憂いていたかが 伺えるよう ですしかし革命で失われた多くの命と同様 現行が本当にこの世から消え去っていたが 映がソドムの位置が存在しているはずは ありませ ん運命の気まぐれによってサが暮らした バスティの質からソドムの現行は発見され それが高塚の貴族の手に渡り3台の間門外 出の保護を受けることになったの です激同の19世紀をそのようにして やり過ごし20世紀に入ると現行は国境を 超えてドイツの愛の手に渡りその後 ベルリンの精神科の人力によって初めて 日の目を見ることになりますまし た後ほど改めて触れますが精神科の手で 発表されたところに作品の価値がどこに あるのかの一端が垣間見えるよう ですしかしこの初版はいわゆる歯板で内容 も省略に近く出回ったのはわずか百数部 でし たその後巻物は再びフランスへ帰ってき 1935年には晴れて本国での出版が 決まるも時は第2次世界大戦の直前出者の によりこれまた数百部の限定出版にとまり まし たそれが戦後1950年代に入ると佐最 評価の気運の高まりとともについに完全版 が世に出ることになったの ですサドが巻物に最初の人文字を書きつけ てから実に180年の歳月が過ぎていまし た18世紀には近所に認定所有することは 愚か読むことさえも法的に禁じられ19 世紀から20世紀にかけてはそのほとんど 全てが検閲対象となっていたサドの所作品 が見事に復建を果たしヨーロッパや日本を 中心にサドブームが巻き起こったのはこの サドム120日の完全版が世に出たのと時 を同じくしてのことでし たフランスは中世以降長らく芸術の世界の 最先端を行くヨーロッパの文化的首都だっ たことは多くの方が知る 通りそのフランスにおいて17世紀は ラシエヌやモリエルの戯曲すなわち舞台 芸術が全盛を誇った時代でし

た19世紀は科学的交渉の時代ではその 中間にあたる18世紀はと言うと聖と愛 つまりはエロチシズムの時代だとする解釈 があり ます現代フランスの出家にして エロティシズム研究の第一任者ジョルジ バタイユは19世紀の科学の時代を 飛び越し18世紀のエロティシズムの時代 が復活を解けたのが20世紀だと論じてい ますそしてその下地を整えたのは両対戦 とりわけ2次対戦後に到来した世界規模で の豊かさだったというの ですいわゆる先進国に生まれた時点で ほとんどの人間に生まれながらに富が約束 されているという人類市場前例のない事態 に20世紀後半の人々は直面していまし た人口の大部分が農民としていき日々胃袋 に穀物を詰め込むためにのみ生きてきた 人類の歴史において20世紀後半の世界と いうのは極めて特殊な場所なの ですそしてこの豊かさの過剰がもたらした ものこそ聖の系統だったというわけ ですこれはあらゆるものを手に入れもはや 快楽以外に発するもののなくなったかつて の権力者たちと同じ構図ではないでしょう か富と名誉を持て余したせいに少年少女を 城に招き残虐の限りを尽くした中世 フランスのジルドレコやソに描かれる北頭 貴族のそれと20世紀後半以降の現代人の 生活はパラレルにあるというわけ ですかつては一部の人間にのみ与えられる 特権だった豊かさを今や世界規模で教授し ている 私たち事象で詳しく触れますがこの豊かさ の過剰は本作を映像化したイタリア人監督 ピエロパオロパゾリーニが映画作家として のキャリアを通じ繰り返し扱ってきた青年 のテーマでし たソドムの位の舞台が富が過剰に集中した 試下の北イタリアに据えられているのは 監督の気まぐれからではありませ ん20世紀後半に到来する18世紀の王香 貴族にも匹敵する豊かさの過剰が彼の祖国 イタリアへ一足先に訪れたのが戦時中の この一地域だったのであり一見すると特殊 な時代の特殊な場所を扱った物語であり ながら実のところ20世紀後半以降の現代 社会にはびこる豊かさを真光から風死した のがこの映画の正体だったの ですもし映画ソの位置にれことが機に移る としたらそれは私たちが豊かさになりすぎ ているから でしょうかつて富と権力を手にした人間が ほぼ例外なく悪徳に手を染めていたという 歴史的な事実を私たちは豊かさしか知らの

が故に忘れかけてい ます犯罪等の悪は長らく貧しさから来る ものと考えられてきまし たそれは必要からなされる悪 です一方でその逆豊かさから来る悪も存在 し ますそれは快楽のためになされるもの そして私たち現代人の多くが直面する可能 性を秘めているのは校舎の豊かさつまり 快楽に結びついた悪でありサの文学と映画 ソドムの位置が主題として扱っているのは この豊かさの生む悪徳なんです ねそのことについて小説ソドムの作中で サドはこう端的に書き起こしてい ます力の尺度は悪徳の尺度であり全てを手 に入れることが容易になればなるほど人は それだけ自精神を失うので ある時は下り2017年フランス政府は サドが牢獄で執筆した12mにも及ぶ巻髪 ソドム120日を500万ユーロで 買い取りこの偉大な芸術作品が2度と再び 国外へ流出しないよう国宝に認定してい [音楽] ますここで1度18世紀に目を向けてみ ましょうサドの思想と哲学その類いまれ なる快楽描写はどのような土壌から生まれ てたのかソメを理解する上で欠かせない 作品の背景について深かっていき ますさて18世紀のフランスで花開いてい たのは生と愛の芸術分けてもエロチシズム 文学が流星を極めていまし たそれには王と艇という得意なシステムが 関係してい ます太陽14と後王についた類15世絶対 的権力者として訓練したこれらの王は公然 の秘密としてマオ愛人を特会引かし性愛に 愛しんでいまし たご存知の通りカトリックの国フランスで は今も昔も離婚は不可能ではないものの かなり難しい ですそのため結婚は結婚として割り切り真 の愛を結ぶ相手すなわち愛人は婚外で探す というのが当時の通例でしたさらには王の 愛人となった女性が艇内での影響力を保持 すべく新たな若い愛人を何人も見つろって は王に当っていたと言い ますサドムの位劇中で年配のマダムが己れ の地位のために若い男女を追いては権力者 へ発展していたまさにあの構図 です国のモハたる王がそうなのですから王 を中心とする宮殿の風気がいかに乱れた ものであったかは想像に固くありませ ん各して貴族たちは艇で開かれる社交会と いう名のお見合いパーティーを利用しては 今回の愛人探しに邁進していまし

た王の日護の元というかその他でもない王 の館で昼夜をぬ七肉林の宴が開かれていた ことは多くの指揮者が指摘する通りであり 芸術の世界へ生と愛が流れ込むのはそうし た想を反映しての ことそしてその生と愛の行きつく先が公職 文学でしたまたの名をエロティシズム文学 と言い過激な性病者と大胆な差しをった神 をも恐れぬハレンチさによって特徴づけ られる小説軍でし たもちろん風気敏ALSの世とはいえそう した書物が大出を振って読まれていたわけ ではさすがになく発見処分とそれに伴う 刑罰を恐れるように貴族たちのマントの下 に隠れて流通していまし たがその流通量も影響力の大きさも現代に 生きる私たちが想像する以上のスケール だったようです そして同時代の末に水星のごとく現れ エロティシズム文学の覇者となり21世紀 現在までその王位に偽り続けている男がい ます丸木サド公爵 です彼は著書を警防哲学の中にこ書きつけ てい ます残酷は悪徳とは程遠いものであって 自然が我々の内部に刻みつけた最初の感情 で あるそこにこの賞の冒頭で引用したバタユ のエロティシズムに書かれた有名な言葉 エロティシズムとは死にまで高まる聖の 賛美であるお加えるとサドの哲学を理解 する助けになるでしょう かすなわち快楽のために残虐行為を行うの は人間が持って生まれた自然な欲求なので ありそうであるなら死へと近づくほどに 究極の快楽を得られるのは四国論理的で 自然なことだと佐藤は考えたの です死へと近づくほどに増大する快楽これ がサドマゾヒズムの基本的な概念をなして いることは言うまでもありませ ん大成下における貴族たちの生と愛への 関心の高まりとその彼らの包頭の行きつく 先に生まれてたのがサド文学であり西洋の 歴史においてかつてないほどに快楽を雷三 した18世紀という得意な時代の下地が あってこそこのエロティシズムの鉄人は 出現しえたんです ねそしてサドの文学は世に5万とあるエロ 小説とは一戦を隠してい ます思うに因は2 つ1つは先に引用した著者自身の言葉や映 がソの位置で語られるような登場人物たち の過たる哲学 ですシド作品に出てくる人間は何らかの 行為を行う際それと同じくらい多くの思想

を語り ます例えば1人の人間を繰り返し殺しても 到底飽きたらぬ故になるべく大勢を殺すの だと言ったよう に登場人物たちの疲れを知らぬその変態 ぷりは作者本人が丹念に折り上げた思想の 上に成り立っているのでありこうした哲学 的変態の超絶を抜きにしてサ作品を十分に 楽しむことはできませ んむしろこのように言って差してえないと 思いますサの作品に触れることは彼の哲学 に触れることでもあるの ですエロティックな視野から見るにサドの 作品は優れて的なもので ある執筆欲を煽る動機がどうあろうとよ彼 が式場であるにせよあるいは囚人として 肉体的生命の抑圧があったにせよともかく 彼の作品は絶対的に新たな宇宙の想像で ある20世紀のとあるシュールレアリスム 詩人はサド作品のエロティシズムについて 考察した著書の中でこう断言してい ますこのサドが探求した新たな宇宙とは他 でもない死とエロを結びつける彼独自の 哲学の ことソドムの一劇中の公爵のセリフを覚え ていますでしょうか母親に感謝するなど 今後同断だ欲望を満たした結果我々は 生まれてきたのだ私は母親を憎んできた 独り出しすると即刻殺してやった目を閉じ てやった時の快感は忘れんという セリフこの言葉によくよく現れているよう に死とエロティシズムは一直線上にあるの だという盗作的なエロスの観念はサ作品の 根幹をなす最重要な考え方 です事実現代ではマゾヒズムという人間の せの本能に彼の名が関せられておりサの 作品を意味嫌うどんな人間もそれらの本能 のいくらかをうちに秘めていることを否定 できない はずこの動画を見ている人の中で自分はサ でも魔でもないという人がどれくらいいる でしょう かもしいたとしたらその人は今すぐ書物と 映画を捨て街へ出た方がいい でしょうこのようにそれまで誰も取り合わ なかった人間の性の本能に光を当てた点1 つを取ってみてもサドの哲学の偉大さが 伺い知れようという もの前日の通りソドムを含むほとんど全て の作品が書かれたのは牢獄の中でし た貴族として性を受けながら些細な罪に よって生涯の大半を独房で過ごすことに なった彼はその究極の孤独のさ中にあって 死と性を結びつけるという独自のしかし後 には人類のスタンダードとなる思想へ

行きつきまし た快楽のために人を殺すことと快楽のため にセックスに吹けることは猫の部分では何 ら変わりはない他者を痛めつけるあるいは 痛めつけられることで快楽を得ることが できるのであればその行為が究極的に 行きつく先である死がどうして快楽でない と言えるでしょう かそのことをサドはあらゆる快楽を奪われ た日々の中でカパしたんです ね殺人は快楽だという彼の首相は当時こそ 避難の対象にしかならなかったものの現代 を生きる私たちには比較的親しみやすい 論理な はず当チャンネルでも度々取り上げてきた テッドバンディやアンドレチカチーロが何 のために人を殺していたかを思い出してみ て ください映画アメリカンサイコの パトリックベイトマンを思い浮かべてみて もいいかもしれませ んとはいえ連続殺人機の元祖と目されるの は ジャックザリッパー彼が活躍したのは19 世紀末でサドの時代からたっぷり100年 も後のことなんですね サドは同時代の貴族を描きつつもその日 古代から中世におけるヨーロッパの権力者 たちにより共感し作中人物のモデルとして いた節があり ます絶対的権力は絶対的に腐敗するという 言葉にある通り古代ローマのカリグラ ヘリオガバルス同和青髭で有名なジルドレ コなど実在の権力者が常人には想像もつか ない残虐な方法で日々快楽をむさぼってい たことは多くの方が知る通りです 一刻のアジが目をかけた人間を国中から 集めてきては快楽の奴隷にしそしてその 印行を誰にもさかれないとなればどうして それをしないでいられるでしょう かそれをしないことは佐藤が主張する通り 人間の本能に反し ます法制度の整っていない時代あるいは 機能していない国において権力を握った 人間が揃いも揃って求めることといえば 究極の快楽と相場は決まっているの ですなんだかどこかの映画で目にした光景 です ねここで佐の作品をその他のエロ小説と 分かつ2つの要素が出揃いまし た1つ目は著者本人のかこたる性哲学 そして2つ目は作中における性的盗作の 数々を客観的な研究対象として描写して いること ですソム120日がその恒例

でしょう主人公隣4人の権力者と生贄に 選ばれた数十人の若者の肖像をそれぞれ 主催に語ることから筆を起こし作品の末日 には虐殺された人数と生還した人数があか も1つの統計資料化のように冷やかに記述 されてい ます先の方でソドムが初めて出版されたの は精神科の人力によるものだったと触れ まし たそれはサドが自身のエロチシズム小説を 道徳的判断を超えたいやば自覚的な研究 対象として扱っていたことの1つの現れで はないでしょう か彼にとってサディズムはしばしばそう みなされてきたようなさの証拠では到底 なく人間の本能がそう求めているからする にすぎない四国論理的で全頭な性の発露 だったの ですではその客観的な描写が登場人物の 語る哲学と矛盾しないのかと言うとそこが サ作品の興味深い ところ描写の上では徹底した射術主義を 実践していながら時折り登場人物の口を ついて出てくるセリフに親衛な哲学的考察 が含まれているというのが彼の作品の ユニークな点なんです ねそしてその客観的な印行描写において サドの筆はおよそ制限というものを知らず 正確な観察を残さなかった堕落は1つとし てありませ んそもそも彼自身投獄される前は行為の 最中に相手と自分の体に傷をつけそれが どの程度の痛みあるいは快楽をもたらすの かを調べることを趣味としていたよう ですソの一劇中で最高裁判事がマダムの 語りを中断させもっと詳しく語るようにと 求めたのはサドの精神としてはごく全頭な ものでし た曖昧さに出ることは彼の筆が最も嫌った ことだったから です性格さへの潔癖なほどのこだわりそれ により仮に1つ1つの描写は品がなく グロテスクだったとしても作品そのものが 下品でありグロテスクだったことは1度も ありませ んここでサド公爵の名誉のためあるいは不 名誉のために一点補足しておくと彼自身は 少なくとも現実世界においてはソで描か れるような水際だったサディストではあり ませんでし た地位にもお金にも想像力にも恵まれてい た彼はソとゴム以来誰も考え及ばなかった ようなあらゆる印行を自ら行う余裕が十分 にあったはずしかしそうはなりませんでし た

想像大ピラに実行に移すには坂小心者に 過ぎたよう です実際彼がおかしたされる罪もさ自身 そう主張していた通り実にあやふやなもの でし た先に触れた聖にまつわる実験が罪に 当たるか否かも判然としませ んそもそも権力者の義母が佐藤を厄介払い すべくへ申請し裁判なしで習慣させたと いうのですから現代の基準に照らし合わせ ば罪を犯ししたと言えるかどうかも曖昧 ですが確かなこともあり ますごにつがれた最初の理由が何であった にせよ獄中で書き続けた小説こそが彼を 牢獄につなぎとめる理由として機能して しまったという こと事実革命のドサのさ中に1度は釈放さ れたものの悪徳の境を出版し風気を乱した 角で再度金固刑に処されその後は死ぬまで 精神病院へ幽閉され続けまし た サドの文学は書き手のさを示す何よりの 証拠でし た彼自身は理性によってそれを書いたにも 関わらず です残虐行為を現実世界においてはおよそ 封印し小説という形で発表したサドは想像 を筆で表すというまさにその行為により 異常と認定されたんです ねそしてソドム120日を始め彼の著作の ほぼ全てが獄中生活の中で書かれたのは 象徴的でし たソマの現行が失われたのはフランス革命 勃発の10日前のことでした ね革命は国王の首を跳ね以降貴族の権威は 失墜彼らに変わってブルジョアジーが文化 の表部隊へと踊り出 ますそこでは貴族が放しな想を持てあび 欲望の赴くがままに肉欲をむさぼる聖の 時代は遠い昔話になろうとしていたの ですしかしサドの影響力がえることはあり ませんでし た全ての作品が賛美な周回さをモチーフと していながらその貴族的で後期な必と思想 化顔負けの哲学は彼の全作品に意向を与え てきまし [音楽] たそうして確立されたエロチシズム文学は 現代を生きる私たちへ直接その魔の手を 伸ばしてい ます自分はサディストでもマゾヒストでも ないと思い込んでいる人も人間である以上 そのどちらかあるいはは両方を本能として 必ずうに秘めていることは否定できませ んまたフランスでは18世紀以降すでに世

に認められた公明な詩人や小説家が筆休め の手としてポルノグラフィーを書き残すと いう文化的伝統が受け継がれてきまし た本の一例にはなりますがレミゼラブルの ビクトル融合に現代史の選挙者ランボや ボードレール武島幸王が永遠の憧れとし 崇拝した溶接の天才 ラゲ初代美女と野獣を監督した詩人や映画 作家としての顔も持つジャン国島にこの賞 で何度か引用してきたバタイユ谷村をつき の偉大な男性作家ジャンジュネもここに 属し ます最も彼らのうちの1人家は匿名で書い たポルノ小説が後に発覚するという経緯を たどっているわけですが他国にはないこの 後期な伝統がどこにタンを発してるかに ついてはおよそ皆さんの想像されている 通り です ところで現在発散されているソドも120 日は完全版でありながら不完全 です先に話した経緯によってサドが現行を 完成させることができなかったため物語は みかのまま止めおかれているんです ねしかし不完全でありながら彼の所作品の 中で最も里的な作品は間違いなくこの ソドム120日 でしょうの魅力を僕の知る限り最も本質的 な言葉で使用しているのが小説家高橋 元一郎さんの著書文学王に納められている サより他に神はなしという文芸事表です 一部抜粋させていただきここに引用し ます我々読者が文学に対して持っている プラスの積極的な公実的なイメージを完全 に変えているにも関わらずサドの作品が もたらす感銘は100%文学的なもので あり人は言葉によってそこまでいけるのだ としした瞬間我々は言い知れぬ感動に襲わ れるそれは決して人を公用させる感動では なく死体しえ奈の底へ引っ張りこむ感動な のだがもし感動が絶対値によって図られる ものなら当然そうあるべきだろうサドの 作品こそ最も感動的な文学と呼ぶべきもの なので あるそしてこの批評全体の論者を要約する と以下のようになり ます完成するはずだった長編少室の助を 残した本作ではおよそ小説らしいプロット や会話給表現は省かれそこで何が行わ れようとしているのかがあかも変鏡的殺人 者の残した主のような利しさで綴られて おり言うなれば作的乱行の集体性を準備 する舞台設定のみを単年に描いたのがソム 120日なのだ ともし完成していればまさしくサディズム

の集団性というべき作品になっていた はず描かれていない部分を想像で膨らま せるというのは古今当の文学作品に共通 する楽しみ方ですがこれほど単年にといか 必要に舞台設定が整えられた上で絶筆した 作品というのはソドムの他に例がありませ んそれはみかであるがゆえに作的なものを 色こく残し読者の想像力を刺激するの ですそしてその彼の作品のみかの部分を 補い映像化したのがaがソドムの位置でし たサを愛するものまたこれから好きになる にとってソドムの位置の価値がいかほどの ものかが想像できますよ ねこのように小説ソドム120日と映画 ソドムの位置は互いが互いを補い合うと いう切っても切れない関係にあり ますこの2作の魅力を合わせて理解された 方は晴れて奇veryのサディストソドム の位置を何度も干渉する境地に足している こと でしょうさて文庫本にして100ページ 少々のサドム120日にはまるで バルザックの長編小説のように延々と舞台 設定が書き付けられてい ますがバルザックとは違い舞台設定しか語 られていませ ん女性完成の時点で現行喪失の アクシデントに見舞われらずもこれだけ 整えたからあは読者の想像力に任せると いうスタイルになってしまったの です本作に関して言えばそれがこうそうし まし た4人の権力者とその犠牲者たちがどう いう人間であり彼らがどんな過去を経て あの快楽の夜へたどり着いたの かそうした事実の記述のみに収支した客観 的な必はこれから語られようとする物語へ の想像力をたくましくさせると同時にそれ らの客観的描写それ自体が性的盗作者の 記録として精神医学的な価値をさえ持って いるの ですソドムの役者渋沢達彦氏はちなみに この一部アングラ界隈では有名なフランス 文学者こそ日本にサを広めたおそらく最初 で最後の第1任者で僕がサド作品を好きに なりこうして語ることができているのは ほぼ10割この人の功績に寄っているわけ ですが彼は本役所の後書きにこうししてい ますこれほどの題材を取りながらも客観に 収支したその機械な必上にかってソドムは 系統的に観察し分類した正当作現象の集 体性科学者の目で取れた性病理学論といっ た性格を帯びエヴィングやフロイト以前の 貴重な資料ともなっているので あるではソドムにおける残虐描写を現代の

私たちは楽しめないのかというともちろん そんなことはありませ ん1つには映画ソドムの位置があり ますサの天田の小説に描かれる快楽描写を 膨らませ凝縮させることで原作に描かれ なかった空白部分をこの上なく見事に埋め て見せたのがソドムの位置でし たそしてありがたいことにかつては発処分 となっていたものの現在では比較的容易に 手に入る悪徳のさえというサの代表作が あり ます修道院で座ったカレナ乙女が権力者で ある年配の修道女の教えを受けて快楽の 奴隷となり自身も長与花よと育てられた 両家の市女たちを囲ってはこの世のありと あらゆる攻めを与え快楽の奴隷にしていく という最高に愉快な閲reprの 物語本国フランスではカトリーヌドヌーブ 主演でややマイルドに描かされ日本では 実装京監督のロマンポルの作品として世に 出ているので目にしたことのある方もいる かもしれませ んしかしこの物語どこか騎士感ありません かそうですそだのシナリオは大筋ではこの 悪徳の境とさほど変わりがないんです ねそもそもサドの作品はいつも同じことを やっているという批判が足掛け2世紀に わりレメとなされているくらいにはいつも 同じことをやってい ますそれが変態哲学作家マルキドサドを マルキドサド垂らし油でありそうした批判 はカフ科の小説がいつも不条理な題材 ばかりを扱っているとかスピルバーグの 映画がいつも観客を楽しませることばかり やっているというのと同じ程度には ナンセンスなわけですがそれはさておいて 悪徳とソドムの2作では視点と規模が 異なり ます悪徳のさえは主人公ジュリエットの1 人称に立ち彼女が経験してきた個人的な 快楽体験を彼女のの周囲で起きた出来事に 限って主観的に記述しているのに対し ソドムでは一点3人称に徹しており権力者 が国中から贄の若者を集めてきては大乱行 パーティーに吹ける様を完璧に客観的な 立場から記述してい [音楽] ます本作がサド文学の集体制となるはず だったというのも頷けますよ ね実際映画ソドムの劇中にも悪徳は栄える からなという権力者のセリフが坂合意に 差し挟まれることでこの2作の関連が ほのめかされていまし た早い話が悪徳の坂への規模を拡大させ 関係者の数を増やしつつさらなる快楽の

極みを目指したのが映画ソドムの位置なの ですなおこの賞の冒頭でほんの触りだけ 触れましたが悪徳のさえの日本語役は かつてフランスでそうだったのと同様発見 処分となり当初を役した渋沢市はいわゆる サド裁判に敗訴し有罪宣告を受けてい ます渋沢の個人的な友人でもあった三島 幸夫は辞書にこのように書いてい ますサ文学の紹介者としてこれほどの名誉 があるだろう か同所が発見処分となり天へ有罪宣告まで 受けたとなればそれは佐藤公爵の精神が2 世紀の時を超え自らその役者にバの花輪を 与えたも同然ではない かこの動画ではサ裁判の詳細と是非につい ては深掘りませんその代わりとある映画 から2つほどセリフを引いておき ますハスラーシを相関したポルノ王の電気 映画ラリーフリントで札物を出版した角で 訴えられた主人公が被告認DOMから放っ た俺みたいな変態のクソ野郎を法律とやら で守れることが言論の自由なんじゃないの かそれからマイケルダグラスが米国大統領 を務めた映画アメリカンプレジで恋人が 過去にデモに参加しアメリカ国旗を燃して いたのをスキャンダルとして暴かれた際の 大統領のセリフ自国の国旗を燃やす自由が なくて何の自由があるの か佐と渋沢の名誉について思う際これらの 言葉が頭に浮かびまし た風気を見出すという理由で何らかの表現 が禁じられてしまえば今度は風気を見出さ ないものまでが禁じられることになると いうのは多少なりとも歴史をかじったこと のある人なら誰もがは知っている こと21世紀現在では悪徳な栄えを始め かつては金証ないしは検閲対象だったサド の翻訳書は復活されてい ますこの限りなく大敗した文学作品を許可 したことは逆接的な表現ではありますが この国の文化的水準がかつてのフランスの それに並んだことの1つの証なのかもしれ ませ ん話を戻すとソドム120日には舞台設定 のものが全く書かれていないわけではあり ませ んつさに読み込めばその舞台説明の合いに あらゆる作作品のそして映画ソドムの位置 のやい骨をなす哲学が書き込まれている ことが分かり ます例えばこんな 文章美しさは単純なものであり見にくさは 異常なものであるそして燃えるような想像 力は全て必ず単純なものよりも異常なもの を好むもの

だ美しさやみしさは単純な感覚を 揺り動かすことしかできないが堕落や周回 さはより強烈な打撃を与えることができる ため感覚の振動はさらに大きくなり従って 当然興奮はさらに激しく なるこの作品の最も奥深いところにある 精神性を親切にも作者本人が書き起こして くれているよう ですサは理性の信者であり理性の凶暴な 追求力を知っていたと書いたのはサの愛光 顔認し局サド公爵夫人を書き日本のみなら ずフランスでも大ヒットさせた我らが三島 行をでし たおよそ狂気的と見えるあらある変態的 快楽を扱いながらも里自身は理性の人で あり狂気とは無縁でし た作中のどんな変態行為も里自身の冷めた 哲学から発せられたものでありそれ上彼の 作品のサディストたちは容赦を知らないの ですAがソの位でも少年少女の涙ながらの 訴えを権力者が彼らなりに筋の通った理屈 で跳ね返す様が描かれていまし た常人の理解を超えた行為でもその根源に は美の追求があると言ったよう に館へ集めた若者を拷問にかけ彼らの糞尿 にまみれて喜ぶ変態たちさえも物が論理に 従い行動する理性的な人間として描写して きたサド 作品桜乱や凶器による悪というのはこの世 のあらゆる悪徳を描いてきたこの作家が 唯一手をつけなかったものでし た神の不在について論じた哲学者ニーチェ はさらし命を落としまし たサは神の存在を花から認めず下げさえ する代わり人間の悪徳について語ることで 30年間の獄中生活という極限の状態に あってさえ死ぬまで正気を保ちまし た残酷は自然が我々の内部に刻みつけた 最初の感情であるというのは彼自身の言葉 でした ね1作家である以上にどんな思想家にも 劣らない人間理性の悪なき探求者だった サドは奇veryのヒューマニストだった と言え ます理性の行きつく先を誰よりも深くまで 探ったサド 文学たえそれが人間の暗い面に光を当てる 哲学であろうと発見というものの偉大さが 絶対値で図られるのだとしたらサドの産ん だそれは史上またとない偉大な哲学作品な の です [音楽] 死と拷問からなる公職文学の福井くる香り を変えたところで新規一点とあるイタリア

の公明な詩人の話をしますその名もピエル パオロパゾリーニ 詩人小説家評論家としての顔も持つ現代 イタリア最高の知識人であり670年代に はゴダールと並びヨーロッパのアート映画 の戦闘を走っていた同監督の話を抜きにし てこの映画を語り終えることはできませ ん彼の手になるソドムの位置を表面上に そう見える通りの変態映画と捉えてしまっ ては本作の芸術的価値を大いに見誤りかね ないの ですそしてもちろん咲の子で生日した原作 者マルキドサドエロティシズムと死を 一直線に結ぶという彼独自の警防哲学に 裏打ちされた思想が本作を貫く主題でした ね ではそれを映像化するにあたり最もといか それを可能にした唯一の映画作家がこの パゾリーニでし た向かい合わせにした鏡が無限の映像を 形づくるように各世紀を代表する芸術的 才能が混じり合う決点にここの傑作ソドム の位は生まれたそう断言してさえ一切の調 はないはず です1922年にイタリア北部の ボローニャに生まれたパゾリーニは映画 監督になる前に10冊以上の刺繍と2冊の 小説を書き文芸評化としても直はせた吉粋 の文学者でし たファシスト軍人の父と学校教師の母の元 に生まれ7歳の頃から死を書いていたと いう彼は苦学して入ったボローニャ大学の 在学中20歳で聖母マリアの処女解体を モチーフにしたキリストの男劇を死にしめ ます感受性も分際も人一倍豊かだった彼 ですが不幸なことにその春期と第2次対戦 の時期がぴたりと重なっていまし た戦争とそれがもたらす死を避へぬ運命と して受け入れつつも学生であったことから 実際に戦線へ加わることはなかった パゾリーニ 天気となったのは終戦直前21歳を迎えた 1943年のことでし た死都ローマを追われたファシスト政権が ナチスドイツの日護の元イタリア北部の 正都サロに臨時政権をしったのです 何の因果かこの美しい湖畔の町は パゾリーニの生まれ育った力から相当くい 場所にありまし たドイツ軍が支配した北イタリアでの当時 の体験について後年彼は高回してい ます戦争の終わり頃私は長老の上から ドイツ軍の相当作戦を目撃したことがあり その光景を鮮明に覚えて いる4人の若者が爆されたドイツ軍は1人

の若者を彼の顎に肉をぶら下げるための鍵 を打ち込み死ぬまで彼を吊してい た私の青春時代はフックで引っかけられる か縛り首にされるかという悪夢の中で過ぎ ていっ たこの当時の彼の記憶は後にAがソドムの 位置へ事実の描写として盛り込まれること になり ますさらに同じ時期ナチスへの レジスタンスに参加していた3つ下の弟が レジスタンス内での構想に巻き込まれ殺さ れてしまい ますその活動に参加するよう進めたのは他 でもないパゾリーニ本人だったと言い ます実の弟を襲ったこの悲劇は後年 手掛けることになる映画の登場人物の伊坂 唐突にして運命論メイた死によって表現さ れていくこととなり ます一方では私的な感性に恵まれながら 他方ではファシズムによる凄まじい暴力へ 生身のまま退治せざるを得なかった彼の 青春時代 映画ソドムの位置でファシストたちに包頭 と残虐の限りを尽くさせ最後は若者を なぶり殺しにさせていたことは皆さんの 記憶にもある通りですが本作で頂点を 極めるパゾリーニのグロテスクな姿勢感は 青年期には早くもその法がの刻しを見せて いたの です戦後学校教師に採用された彼は文学を 志しつつ共産党に 入刀当時の進歩的な知識人の多くがそうで あったように左翼的な運動に熱を入れて いき ますところが活動の最中反パゾリーニ波の 共産党員の計いにより未成年に対する印行 の罪を着せられ ます早い話が同性愛 ですこの印行というのはほとんどが 言いがかりであり支援に巻き込まれた結果 の些細な罪でし たその後は越の爵さながら何の罪かも曖昧 なままさかれそうになるも寸のところで罪 が確定この時の印行騒動はパゾリーニを 生涯に渡り苦しめることになりまし たというのもこの不運な男は後に数多くの 同士のイコスキャンダルに巻き込まれる ことになり ます若くして得た地位や才能わけてもその 精鋭的な主張に反感を持った人々が パゾリーニを失客させるべく彼の同性愛的 な成功をあげつらい巨しを織り混ぜて スキャンダルに仕立て上げるということが 後に頻発したのです ネオファシストやカトリック原の敵対組織

はもより心出しを同じくするはずの共産 党員からも心よく思われていなかったこと が事態をさらに悪い方向へ進ませまし た決しした才能はいつの時代も味方より敵 を多く作るもの ですパゾリーニと個人的信仰を結んでいた フランスの哲学者サルトルはかつて革命の 最大の敵は共産党だと唱えていまし た 塔を作り票を集めている時点でそれは革命 から最も遠い行為だというのがおよその 意味合いだと思いますがこの言葉は パゾリーニにとっては文字通りの意味に おいて真実でし た政治活動をするために集まった東内部の 政治に巻き込まれ失客泳ぎなくされた パゾリーニ 後ほど触れますがこのことは彼自身の死に も直接関わってい ます貧しい家庭に育ちマルクスやモタク からではなく貧困から共産主義を学んだ彼 は猫の部分まで体制への反逆者すなわち 共産主義者だったの です表向きは革命的な思想を歌いながら なんだかんだ体制に能しようとする同士 たちは彼の目にはいさか余ったこと でしょうなおイタリアはカトリックの中心 地であり古来より自然に反する成功 すなわち同性愛に関してはどこの国よりも 厳しい目が向けられてきたことは補足して おくかもしれませ ん旧来のカトリックの教えでは同性愛と罪 はイコールでし たそしてその価値観が地方に行くほど濃く なることは想像に固くないですよ ねつまりこのイタリアの地方都市で誰かを 刺客させようと思えば同性案について取出 するのが最も手っ取り早かったというわけ です以上のイコスキャンダルで職し地元の コミュニティで孤立したパゾリーニは母と 2人で逃げ同然に故郷を出首都ローマに 移り住み ます聖愛がみの修文と故郷からの追報と いう前半省における実態験はデビュー作 悪化トネや自伝的長編映がまんまローマに 描かれることになり ますローマへ住しても彼の生活は故郷の それとさほど違ったものではなかったよう で困窮を極めたこの若きローマ時代につい て公使に書きつけてい ますかりに作品の背景を知る上で重要な 一遍なのでそのまま引用し ますコロセオの猫のように哀れな私は町 からも野原からも遠く離れたせかと砂埃 だらけのボルガータで暮らしてい

たぜいぜいうるバスに押し込められ生物 帰りも毎日が汗と苦痛の受難の日々だっ たかしてわずかな日でここをしのぐ日々の 中再び教職を得つつ捜索活動を続けた後 190055年処女長編小説命ある若者を 発表し ます咲の死にも出てきた彼自身が前反省を 送ったボルガータに暮らす若者たちの姿を せられに綴ったこの 作品それまで一般にはほとんど知られてい なかったイタリアの仮想プロレタリアとの 実態を描いたことで分断から高い評価を得 ますのみならず同作の成功によりその明星 がイタリア国外にも行き渡った数少ない 現代イタリア作家としての明星も 確立ロシア人や中国人からではなく本物の 貧困の中で学んだプロレタリア芸術という 武器は映画に活躍の場を移して以降も修正 彼に見方し続けまし たところでその作風の類似から隣国 フランスのゴダールと比較され語られる ことが少なくないパゾリーニ 分泌から身を起こして映画へ転校し同じ 時代に前衛作家として生きた2人ですが 同じく豊さへの反発をしばしば作品の次第 に取りつつも自身がブルジョアジーであっ たゴダールとはそもそもの始まりからして 真逆の立場に立っていまし た富層としての自身の執事への コンプレックスが戦後の左翼的思想の 盛り上がりの中で爆発したことが捜索を 続ける言動力となった彼らのような作家に 対しパゾリーニは豊かさを憎む仮想 プロレタリアートとしての精神を猫の部分 から備えていまし た彼にとってトミへの反発というのは単に 作品の次第というにとまらない生きるか 死ぬかの問題だったの ですその豊さへの憎しみが最終的にどこに 行きつくかについては皆さんもよく知る 通りちなみにゴダールはパゾリーニに多大 なる経緯を捧げていた映画作家の1人で 例えば彼の遺作イメージの本では劇中に ソドムの位置の映像が差し込まれ権力者が 生贄の若者に犬の格好をさせて餌やりを するシーンがそのまま引用されていました 愉快です ねここでサッカーパゾリーニをパゾリーニ 垂らした特質についてもう1つ触れておか なければなりませ んそれは悲劇を男言葉まで呼び寄せたこと です後に改めて語る機会がある通りこの 映画作家には破滅的な死を自ら寄宮する マゾヒスト的な側面が強くありまし たそれでも望まぬ風に度々見舞われていた

ことは実 ですその恒例として処女長編小説命ある 若者がポルノグラフィーに認定され発見 処分になったことをあげておき ますあかも前半省で受けた数司令の雑誌は その後のさらなる不幸を用意する前座で あったと呼んばかりのこの 一件証拠不十分として後に発見は解かれる もののパドリーに本人にとっては相当な 打撃でし たが数年が経ち若い頃から書きためていた を集にまとめ発表すると今度もそれが ベストセラーに実に山あり谷ありな反省を 経て結婚参加という形で徐々に映画の世界 へ軸足を移していき ますフェデリコフェリーニ監督策カビリア の夜は脚本家時代のパゾリーニの代表作 でしょう文学から映画への転校について彼 はそのヒントとなる言葉を残してい ます曰くイタリア語を捨てそれと共にを 少しずつ捨てることで私は国を捨てたいの だイタリア的なもの全てに背を向け私を 侮辱し去勢したものたちに抵抗していたい の だ確かに映画を始め映像表現というのは 言語のみで表現される文学に比べれば比較 的イタリア語を捨てることが容易な言って しまえばコスモポリタンな表現形態 ですことに当時のイタリア映画では音声と 映像を完全に別しセリフは吹き替えで 入れることが通例となっていたため編集時 にそもそもイタリア語を捨てて別の言語へ 差し替えてしまうことも難しくありません でし たさらに言えば450年代のネオ レアリズム以降イタリアではプロの俳優に 頼らず映画作りをする伝統がねいていまし たもちろんそこにはセリフは吹き替えば どうとでもなるというイタリアAが固有の 事情も関係してい ますローマで磨けをしていた少年を スカウトし取られたヴィットリオデシカの 靴磨きや町で見つけた素人俳優を起用した 同監督の自転車泥棒がその 恒例これらのイタリア映画に固有の伝統に のっとりさえすればパゾリーニは筆1つで 物語を書き進めるのとさほど変わらぬ容量 で俳優の力量に縛られず自由に映画作りを することが可能だったんです ね実際この監督は俳優を演技力ではなく 存在感で選ぶという独自の俳優感を デビュー作から遺作まで一貫して持ち 続けることになり ます例えばイエスキリストの受難をテーマ にした初期の映画奇跡の他では聖母マリア

の役に実の母親を記してい ますソマの位置において国家原種の4人は 唯一プロを起用した公爵以外はみな パゾリーニの個人的な友人であり生贄の 若者たちもそのほとんどが町で見つけた 素人 俳優物語の推進力となるマダムの語も もちろんプロの声で吹き替えられていまし たしかし何より数々の芸術分野を渡り歩い てきた生来のアーティストとあるパドレに とって思考する言語を言葉から映像に変え 新たな表現の可能性を模索することは理性 的な判断を超えたところでまずもって ワクワクすることだったはず です実際彼の作るあらゆる映画がセリフ よりも映像主体で語られてい ます小説家や詩人という言葉のプロとして の才能はその返sinceをほのめかす のみで彼の映画を成り立たせるのは1にも 2にも映像の美し さ作家としてデビューしながら映画に軸足 を映した後は物書きとしての アイデンティティを封印し映像で思考する ことに専念したパゾリーニ 新たな方法論を模索し作り手としての事故 を常に殺しし続ける生来のアーティストと しての彼の姿勢は全作品に実験的作風と いう個性を与えることになり ますそれが最終的に行きついた先は今や皆 さんもよく知る 一作彼独自の芸術家精神に戦事家の記憶と 富への憎しみという赤根のテーマが重なっ た地点にあの傑作映画はあるの [音楽] ですここからはもしかするとこの チャンネルを普段見てくれている方には 関心のない方もいるかもしれない話題に 入ります映画の話 です怪人20面相張りに様々な顔を持つ パゾリーニの名を取り分け広く知らしめた のが彼の映画作品であったわけですがこの 監督の名前を聞いたことなくともあるいは 映画を実際に見たことなくとも多くの方に 認知されているのがソドムの位置である ことはここまでの話から予想される 通りパゾリーニの遺作にそれから代表作に もなってしまったこの映画について理解 するにはまずは生の三部作から話を起こさ なければなりません デカメロンカンタベリー物語アラビアン ナイトソドを手掛ける直前までの パゾリーニが作っていたこの3作品が彼 自身の故障に従い生の3部作と呼びなされ てい ますなぜこの話が重要かというと映画

ソドムの1は聖の三部作と追をなす死の三 部作の第1章として構想された作品だから ですこの動画を見ている方の中に感能的な 文学作品を愛する構図がどれくらいいるか は未知数ですがヨーロッパにおいてサド 以前にエロティックな快楽を題材にとった 作品といえばそれこそデカメロンや カンタベリー物語のような中世の女児士 でし たそれらを題材に取り性を通して人生を 多価する人々を発車したのがパゾリーニの 聖の産部作でし たストーリーテリングの匠さは元より肉体 の角な露出と目し差し込まれる国際色の 性病者そしてそれらを美しく物価的な風景 に乗せて描くこの監督独自の映像表現が 大いに受け工業的にも批評的にも成功を 収め ます3作品に共通するテーマはラタの賛美 と聖の喜び 列車それらはこの時期のパゾリーニが思う せに欠かせないもので例えば1作目 デカメロンでは未婚の主と一夜を共にした のを彼女の両親に認められた貴族の青年が 全てを丸出しの格好で永遠の愛をを誓うと いう相がありまし た2作目カンタベリー物語では主人公の 1人が聖の喜びを称える千葉面として全裸 の女性たちに囲まれ踊り狂うシーンがあり ます彼は風気を乱した罪で処刑されるも その顔に浮かんでいるのはくのない笑顔 でし た表向きは聖の三武作と目打っておき ながら聖も死もこれらの作品の登場人物に とっては等しく快楽なの です金てより独自の姿勢感を持ち死への 欲求に突き動かされてきたパゾリーニです がこの聖の三部作の辺りから聖と死そして それらをつぐものが快楽であるという次第 を強固にしていき作品作りに向かう姿勢 そのものがどこの公爵が唱えた エロティシズム哲学のそれへと近づいて いき ます聖と死と快楽の3民一体それは全障害 をかけて進行してきたマルクス主の信頼を 失いつつあったパゾリーニの中で新たなと しての像を結び始めていたの ですただ性格をするなら本作品軍の少し前 からその兆候は現れていまし た聖の三部作の直前に取られた一般に最も パゾリーニらしいとされる私的なグア作品 テオレマ裕福なブルジョアイカを正体不明 の美成年が尋ねてき家族の全員と肉体的に 交わることで一家は精神の大敗をきたし主 や桜により離散していくという精神的

グロテスクの極地のようなこの 作品ここでも性を王化していたはずの彼ら を死へと向かわせるのは快楽でし たではなぜ快楽が死につながるのでしょう かその答えを私たちはすでに知ってい ます200年前のとあるフランスの貴族が 出してくれているから ですサマヒムに代表される過激な方法で 快楽を求める行為はシと向かう家庭の中に 快楽を見出すものでした ねもっと簡単に言えば市へ近づけば近づく ほど快楽も大きくなるという ことであればそれらの行為が究極的に 行きつく先である死がどうして快楽でない でしょう か事実として古来ヨーロッパでは オルガズムを小さな死と呼びなしてきまし た江戸の昔吉原の遊郭では優女たちが絶頂 を迎える際お客を喜ばせるために死を連想 させる言葉を放っていたと言います 以前このチャンネルで取り上げたビデオ ドロームという映画では恋人の耳にピアス を突き刺し体に鞭打ち首を閉める行為が 観能描写の一環として描かれていまし た快楽を死の前段階に置く物の見事な霊 ですよ ねそしてオルガズムの性質は本質的に弁償 法的であるといったのはアメリカの作家 ノーマンメイラーでし た一般に刺激的とされるグロテスクな映画 や文学を好んで漁ってきた僕にはこの言葉 は非常な真実であるように思え ます快楽というものには本質的に果ては ないのであり弁償法的すなわちあるやり方 を見つけたら今度はもっといいやり方を 見つけさらにはもっといいやり方を見つけ という発見と再発見の積み重ねによって のみ快楽は進歩していくというのがこの 言葉の意図するところ ですそして古今東西その弁償法的 オルガズムを追い求めるのにうってつけの 立場にあったのが金と時間をやました権力 者たちだったことは特筆に値し ます聖のさらなる高みを目指す中で彼らの ような人間はいつの時代のどんな場所でも サディズムやオルギーのような極限の行為 へご自然に行きつくほなかったの ですそれではこの辺りで本題へ帰ってき ましょうパゾリーニの遺作となった映画 ソドムの 位彼が彼自身の言葉で言えば聖の部策を 放棄し新規一点新たに構したのがソドムに 始まる死の三部作でし た作り手の唐突な死によって1作目で頓は したもののこの死の三部作が映画の表現

領域を拡張進化させる可能性を持つ偉大な 作品軍になり得たことは本作で描かれる 集会にして有尾な映像日に触れればおよそ 明らか でしょうパゾリーニは聖の三部作を放棄し 死の三部作を手掛けるにあたって以下の ような言葉を残してい ます私がさの産部作で表現した性の自由は すでに個人主義の権力により実現されて しまって いる消費社会の凄まじいばかりの確立化と 個性の破壊は個人の性を抑圧し人々を大敗 的で暴力的な存在へと変筆させてしまっ たここで言及されている消費主義を資本 主義と言い換えても概ね同じ意味合い でしょう小説家としてデビューして以来 自身の出身階層である仮想 プロレタリアートの側にに立つ作品を作り 続けてきたパゾリーニ それが初期から中期にかけての彼の映画 作品を貫く主題にもなっていまし たしかし60年代中盤以降のイタリアで 急激に進みつつあった資本主義の木興と それがもたらす閣一家により階層という 概念そのものが消失しようとしていまし たイタリアのみならず日本やフランスを 含む多くの先進諸国が経験した戦後の経済 成長とそれに伴う消費社会の過のの発達は かつてパゾリーニがその市場と社会に 対する反逆の心を培った仮想 プロレタリアートたちの姿を変質させて いったの です後に残るのは大衆という一言でくら れる 人々共産主義者の聖書共産党宣言に書かれ たマルクスの有名な言葉人類の歴史は階級 闘争の歴史であるはもはや夢物語である ことが証明されようとしていたの ですそしてそれはは自らの貧困を経て マルクスを聖書に選ぶことになった生来の 左翼主義者パゾリーニからその アイデンティティを根こそぎ奪い去るも 同じでし たこの時の雑誌感を彼自身こうほのめかし てい ます私にはもはや選択の余地はなくあるの は現在のみ だ共産主義の敗北と資本主義による大敗 それが彼にもたらした果てしない虚無感A がソマのの位置はこうした背景の元で制作 されまし た角の豊かさを手にし欲しいものを何でも 手に入れられるようになった人間の 行きつく先として構想されたのがあの機械 なランチ騒ぎでした

ね映画ソドムの位は単にサドの小説を映像 化したのではありませ ん前半省での数知れぬ挫折を経て原作者と 似た精神性をうちに抱えるようになったケ な映画人が自らの思想の変化を表現すべく 言うなれば血の涙ととに手掛けたものだっ たの です神同然に崇めた共産主義は力をなくし 憎むべき資本主義が富と堕落をばらまく 世界にあって物が思想の雑誌を声にすべく 産むほかなかったのがこの作品だったん です ね60年代から70年代にかけ同時代的に 目にしていたイタリアという国の変化に ついてパゾリーニはこう語ってい ますかつてファシズムでさえなえなかった ほどの確率を成し遂げた消費社会の暴虐と テレビの前に釘付けで文化を失えつつある くそったれの国だ と彼の言うイタリアを日本やフランスを 含む先進諸国に置き換えてもさしてそは ないはず です貧困から筆一本で身を起こし芸術を 生涯愛してきた彼にとって確立化は堕落と 同義でし た周りと同じというのは芸術という究極の 個性を追い求める永とは正反対にある もの映がソドの位置が全編に渡り徹底して 描いているのは富の過剰がもたらす堕落 でした ねそれは取も直さず豊かさにより確立化 すなわち堕落した彼の祖国の姿だったの ですそれまで誰1人手をつけられなかった 本作を映画化できた最初にして唯一の人間 がこのパゾリーニだったことはもはや驚く に当たりませ ん では改めて映画ソドムの位置へ目を向けて みましょうつい先ほど触れた通り角の豊か さが災いし暴力と快楽の渦巻く粗暴な国へ と変貌しようとしていたイタリア社会の 現在を戦時にナチスが海来政権を敷いた サロ部隊に封したのがこの映画でし たと聞いて同じような次第を扱った作品が すぐさま頭に浮かんだ人はおそらく当 チャンネルのヘビーリスナー重賞者 です実はこの映画作品のテーマが 時計仕掛けのレンジと酷似してい ます国家により富を約束された近未来の 社会ではびこる快楽主義とそれが行きつく 先にあるウルトラ暴力を描いたのが 時計仕掛けのオレンジでし た誤解を避けるために一点補足しておくと ウルトラ暴力というのはウルトラな暴力の こと

ですメディアが流す特殊な電波に脳を支配 された人間が快楽のみを求め破滅へと ひた走る映画ビデオドロームもかなり 近しい 構図舞台背景や物語上のツールに細かな 違いはあれどこれらの作品は現代の消社会 への風を目もくらむアート風の映像日に 落とし込んでいる点で多くのルジを示して い ます富や快楽が濡れ手で泡に手に入る世界 では人々はさらなる快楽とそれがもたらす 自然な気血としての暴力に溺れる他はあり ませ ん彼らが揃いも揃って行きつくのは堕落と いう名のディストピアなんです ねではなぜソドムの位置が例えばビデオ ドロームが80年代の時計仕掛けの オレンジと称されたようにイタリア映画に おける時計仕掛けのような地位にないのか と言えばおそらくその上気を一して グロテスクな映像があまりにフィーチャー されてきたため でしょう作品のエば表の顔が奥の方にある 本質の部分を追いかしてしまい結果吐き気 を燃す映画としての評価が定着し一部の 人々からの熱烈な産女を吹き飛ばして しまったの です しかしこの映画は表面だけを語って済ませ られるものでしょう か僕にとっては答えは脳 ですここまで聞いてくださっている皆さん もおそらくはそう遠くない意見な はず劇中で描かれる拷問やスカトロジー 乱行などの過激な描写はそれを用いて何を 語るのかといういわば目的のための手段な のであってそうした残虐描写を作品の目的 と捉え表面だけを見語ることに収支して しまっては映画ソの位置の本質を見落とし かねないんです [音楽] ね改めて本作の構成は以下のようになって い ます導入部地獄への道に始まり第2部変態 地獄第3部おそらくはここが最も物議を 醸す箇所だと思いますが糞尿地獄を経て 最後の血の地獄に至るという4部 構成ストーリーの大枠の構成はダンテの 新曲の地獄編に乗っとった ものそして導入以降の3編それぞれに3人 の別のマダムが登場し自らがくぐり抜けて きた盗作的世界の記憶を匠に語り聞かせ 権力者の感能を煽るという呪術形式の ストーリーはデカメロンやアラビアン ナイトを持したものでし

た本作を手掛ける直前までパゾリーニは何 を取っていたでしょう かまさにこのデカメロンに始まる生の三武 作でした ねこの3作は全て原作がそうであるように 1つの作品が複数の別の物語により 成り立っているというオムニバスに近い 形式を取っておりその中世ヨーロッパに 特有の女児風のスタイルがソの位置には 受け継がれているんです ねとりわけ重要なのはデカメロンの影響 ですペストを生き延び郊外の街へ逃げ込ん できた10人の男女が退屈しのぎに自身が 経験してきた機械な思い出話を語り聞かせ つつ期間限定のラチ騒ぎにじるというのが この作品の コ場人物の語によってストーリーが進み さらにはその語が実地に移されることで 物語に快楽という名の色が添えられ [音楽] ますソドムの位はこのデカメロンの構成を 色仕掛けの細部も含めてほとんどそのまま の形で取り込んでいるんです ねまた映画劇中で権力者と若者が地位の かきねを超えて皆で糞尿にまみれ果ては 若者たちを分娩の風呂につつけるシーンが ありまし たモーサルとかビリージョエルか カポーティの朗読を聞くためにできている であろう皆さんの綺麗なお耳を汚さぬよう 糞尿関連の話題はなるべく控えますがここ に関しても先達に類似の描写を見出すこと ができ ますダンテの新曲の地獄編そこでは地獄に 送られた大勢の人間が鞭で打たれ体を咲か れ内臓をえぐられ糞尿につけられるの ですそれは文字通りの地獄絵図なはずです がなんだか私たちには馴染みのある光景 ですよ ねつまりサドの原作で描かれなかったみか の部分をパゾリーニは自身に馴染みの深い 中世の感能的な女児師を援用し匠に埋めて 見せたの です言い換えればサドを下敷きにダンテと ボカ地を導き手として作られたのが本作 だったんです ねなおソドムの影響もとして新曲と デカメロンが最重要な2作である理由とし てこれらがイタリア文学を代表する2作品 だという点もを無視できませ ん監督としてデビューした当初パゾリーニ はこう語っていまし たイタリア語をしてそれととに文学を少し ずつ捨てることで私は国を捨てたいの だイタリア的なもの全てに背を向け私を

侮辱し去勢したものたちに抵抗していたい の だイタリア語と文学を捨てることに少なく とも監督業の初期の頃には成功しているか に見えました しかしその意志は聖の三部作の頃には もはや揺らいでいたように思え ますそして本作ソドムに始まる死の三部作 ではイタリア語によるイタリア文学という 自身のルーツへ帰ろうとしていたよう です一方でこの発言の後半部分イタリア的 なもの全てに背を向け私を侮辱し去勢した ものたちに抵抗していたいのだに関しては 彼の中で依然として真実であり続けました 聖の三部作を放棄しソの位置を手掛ける ことになった直接の同機は監督自身が ほのめかす通りトへの憎しみでした ね消費主義がもたらす画一家により堕落し た祖国イタリアを誰よりも憎み嘆いていた からこそ本作はいやばその激悪として作ら れたの です消費主義の堕落が行きつく先を仕方を 見せつけるために ですそして私たちはそこに描かれる堕落 からを話すことができませ ん激しい剣を抱く人も場合によっては 吐き気を燃す人もいる でしょうそれでも最後まで見ずにはいられ ないのがこの映画ならではの 魔力時代の喉元にこれほど鋭利な風信を 突きつけた作品がグロテスクな映画という 一面的な評価に終わってしまうのは 恐ろしくもったいないこと [音楽] ですところでお気づきの方もいるかと思い ますがソム劇中では断るごとにに宗教が 冒涜され ますあらゆる宗教的なものは死だという 冒頭の権力者の宣言に始まりカトリックの 大教の手で取り行われる結婚式や神に助け をこうた女性への上気を一した切間など 本作におけるアンチクライスト的信念は あげ出すと切りがない ほど小説ソドム120日にこんな言葉が 書きつけられてい ますなり物の分際で宗教上の行為をなし てるものはそれがいかなるであれ死を持っ て罰せられる べし神の名を発する時には必ず悪あるいは 祖の言葉を同時に発しそれを繰り返す べしめちゃくちゃなことを言っているよう でその実こうした神への剣をは本作におい ては案外自然なものとして移り ますなぜか彼らの住む快楽の浴にあっては 堕落こそが宗教だから

ですそしてこの快楽が唯一の神だという 考えははサド作品で繰り返し語られてきた テーマ映画ソドムの位はサド独自の宗教感 を投資しつつさらにエクストリームなもの にしているのですがそれにはパゾリーニ 自身が生来の左翼主義者であったことが 関係しているように思い ます宗教は大衆のアヘであるという マルクスのこれまた有名な言葉にある通り 共産主義思想は基本的には神の存在を否定 してい ますそうして神を殺した上で新たな信仰の 対象としてマルクスや霊人モタクを神とし て掲げていたのが共産主義であるとも言え ます彼らにとって旧来の宗教というのは 押しなべて共産主義を破壊しかねない危険 思想なの ですこの動画を見ている多くの知的に洗練 された公図の皆さんには周知のことかと 思いますが念のため補足しておくと左翼 主義者というのはテロリストのことでは ありませ んの位が取られた70年代当時の ヨーロッパにおいて左翼というのは自由と 反抗のシンボルでし た進歩的な考えを持つ人々の多くが例えば 学者やアーティストがその模範なわけです がこぞって左翼主義に系統していまし たさっきのサルトルもゴダールも ヴィットリオデシカも そうパゾリーニがその列に加わっていない としたらそれはむしろ不自然なことだった でしょうそして伝統的にサハの多かった イタリアの映画監督の中にあってさえ 青少年時代を貧困のうちに過ごし プロレタリアートのための死を書いて分断 にデビューしたパドリーには特に筋金入り だったよう です話を戻すとソドムの位置では宗教が嫌 をされていながらも宗教的儀式はきっちり 取り行われてい ますもちろん宗教を冒涜するため です例えば劇中でなぜか2度までも開か れる結婚式がそれに当たり ます1度目は生贄の中から陽子にひてた バージを2人選んで神狼神父に仕立てあげ 彼らを動物のように継せつつ権力者は自分 たちで彼らの花を散らしていまし たついでに仲内でも交わっていまし た2度目は権力者と若いファシスト兵士を 結ぶ 式神父として入場してくるのが女装した 権力者たちでありまた司教が古代エジプト の神か何かを思わせる理解不能な格好をし ている点を別にすればおよそ世の結婚式に

ふさわしい自然な原宿さの中で取り行われ ますそしてその夜新婚ほやほやの彼らは 幸福なシアを過ごし ます冒頭からラストに至るまで鉄塔手アン モラルな本作において唯一平成なまるで嵐 の中の凪のように穏やかな愛の 人時見る人によっては本作中で最も心 かき乱されるシーンかもしれません なおこのシアの場面でメインに描かれるの はまさしく死その人でし たカトリックの司教が当たり前のように 愛人と結ばれ真っ先にシアを迎えているの は最高におかしいですよ ねそしてこうした何気ないユーモはこそ パゾリーニの才能の発揮しどころ 例えば自伝的初期作マンマローマでは レオナルドダヴィンチの最後の晩餐の構造 を持した結婚式の描写からを開けるのです がゲストは全員勝負か紐で地の余に ヒロインが3匹の小豚を連れて現れ意味 不明な歌を聞かせるという世にも グロテスクな場面を平然と描いて見せまし た中期作豚小屋では何富由ない暮らしを 送っていたブルジョアの青年が豚とつう ことに快楽を見い出し果ては自ら豚に食わ れることになるというさらに直接的な グロテスクを扱っていまし た前者はカトリックを後者はブルジョアの 大敗を風死したものですが先日のような シーンは全て儀式のような厳粛さで 取り行ってい ますパゾリーニ作品は通常の感性には異常 と映る場面を異常なものとしては描写し ませ んあくまで西上の延長にあるごく普通の 行為としてあらカンと描いて見せるところ が彼独自の有毛なんです ね憎んでいるものや嫌っているものに対し 口を極めて罵ることは誰にでもできる でしょう しかし我らがこの詩人においてはその限り ではありませ ん彼が好んでするのはやば知的遊戯として の冒涜なの [音楽] ですそして映画ソドムの位は監督が自らの 思想的雑誌のさ中で生の三部策を放棄し その正反対つまり死を扱うべく生まれた ものでした ね確かに死に向かう行為の中に快楽を 見出すという点では表向きはの三部作の 対局にあるものでし た彼自身聖の産部作を放棄したという言葉 を使ってい ますしかし1パゾリーニファンの視点から

見れば法規というよりむしろ自然な成行と してこの死の三部作へ行きついたように 思い ます何しろそれらには快楽を賛美するため の手段がせかしかという違いしかありませ ん生と死というのは元々パゾリーニ作品で は快楽を媒介にして一直線で繋がっていた もの快楽が生と死をつぐ建設点の役割を 担っていたと言ってもいい でしょうそのため一見すると正反対に 見えるこの2つの概念にもちろん パゾリーニ作品ではという格好付きでは ありますがさして大きな違いはありませ ん生と死の間にあってそれら2つを結ぶの が快楽なのですからその2つの概念は結局 のところ同じコインの両面でしかないの です [音楽] 自身では正反対を試みながらもこの代の 芸術家が自らの思想の奥の方にある独自の 姿勢感を捨てることはなかったんです ねそしてその姿勢感がマルキドサドのそれ と大いに重なることはここで改めて強調し ておくべき でしょうソドムを取ることになってからサ の思想を無法したのではありませ んそもそもの時点からしてこの2人の作家 は非常にケなそれでて互に似通った哲学を 備えていたの ですもしもソドムの位がパゾリーニの フィルモグラフィーへそして映画の世界へ 突如として生まれた異物のように捉えて しまうとそれは聖の三武策の存在をヒテは 芸術そのものに対する監督自身の信念を 無視していることになる でしょう最も本作にはそれまでの パゾリーニ作品にはなかった色付けが加え られていることも確か です政治性がその筆頭 二次大戦末期のナの海来国家サロ共和国を 舞台にとり権力を握った4人の国家原子 たちのめくるめく印行を描いたのがこの 作品でし たドイツ軍の相当作戦を目撃した幼い頃の 原体験が30年という月日を経てようやく 映像化されている点は特質に値し ますがそれは彼の個人誌を語る上で重要な のであって私たち鑑賞者にとってより大切 なのは本作がメインに封しているが富の 過剰がもたらす堕落である ことなぜならそれは映画が公開されて50 年が立とうとしている今なお真実であり 続けているから [音楽] です資本主義や消費主義の行きつき先に

パゾリーニが見い出したのは快楽のみを 発する人々の姿でし たそれはある種の快楽の無府 状態時計仕掛けのオレンジを思い出してみ て ください全てを与えられるのはを奪われる のと同じ こと何でも手に入るからこそ人々は快楽と 暴力を求めざるを得なくなる歴史が私たち に教える通りその2つだけはいくら手に 入れても飽きたれることはありませ ん落というものに本質的に果てはないので ありそれゆえより大きな快楽を求める過程 で人は自然と暴力へ行きついてきたの です貧困から筆1本で芸術の世界に 飛び込み作品作りを通じ自身の出身階層へ の愛を示し続けてきたパゾリーニは消費 社会の到来とともに蔓延した富の過剰に 継承を鳴らすべく現代に朝鮮上を叩きつけ まし たそれがソドムの位置の正体 ですパゾリーニの先輩閣にあたるイタリア のサッカーアルベルトモラビアは本作を 以下のように表してい ます商業映画の型通りの非現実性に鳴らさ れたこの国の観客には挑発が必要なので あるそして物語のラスト生贄の若者たちが 壮絶な拷問のさ中に命を落としていく中 館内ではラジオが流す音楽に合わせ若い 兵士が軽やかにダンスを踊り始め ます窓の外に広がる地獄絵図などまるで 人言であるかのよう に消費主義の果てでは他の全てと同様暴力 や大敗さえもが確立化され日々の安寧の中 に溶け込んで そう告げたところで映画は幕を下ろし [音楽] ます本作の完成直後のことでした暴力と 大敗の渦巻くイタリアを剣をしつつその 憎しみを映画に乗せて書き切った パゾリーニはローマ郊外の荒れ地で斬殺隊 となって発見され ます53歳詩人であり小説家であり映画 監督でもあった彼その才能の大きさに比し てあまりに早すぎる死でし た犯人としてさかれたのは17歳の パゾリーニと行きずりの関係を持ったとさ れる少年でし た完成したばかりの映画で生贄の若者に 残虐の限りを尽くす描写をまざまざと描い た彼がその他でもない若者に斬殺されたと いうの ですが一方ではこの殺人事件は仕組まれた ものだったとの噂も絶えません ほとんど本人とは見がつかないほど顔面を

潰されて発見されたパゾリーニに対し犯人 と目される少年には傷も結婚もついてい なかったことがその陰謀説の発端となり まし たこの元少年が出所後に事件から数十年を 経て証言したところによるとパゾリーニは 彼のことを意味嫌っていた左翼主義者 あるいはネオファシストの集団に車で 連れ去られて暴行を受け殺害されたとの こと少年はたまたまその場に言わせただけ の不運な人間だったというの ですこの証言をどれほど間に受けていいか は安全としませ んパゾリーニの死を巡っては数本の ドキュメンタリー映画が作られているほど で以前真相は闇の中 です左翼主義者でありながら左翼主義者に 憎まれその左翼の雑誌をよにもグロテスク な映画作品にのせ描くことで時代を痛烈に 封したパゾリーニ 70年代当時のイタリアが左の雑誌を受け てテロリズムが横行するまさしく監督自身 が球団した暴力と大敗の渦巻く場所とかし ていたことを考え合わせるに咲の証言は いくらかなりとも信用に至るものなのかも しれませ んとあるアメリカ人ジャーナリストは個人 的信仰を結んでいたパゾリーニとの会話を このように書き残してい ますあなたは人々が神に祈るように死を 願い人々が天国をように自分が殺される ことを亡してい たどこへ出かけようともあなたはいつも悪 と危険に満ちた場所にい た私は何度もあなたが喉をかぎられるか 心臓をピストルで打ち抜かれるかして 見つかったという知らせを受けるのでは ないかと恐れてい た75年11月ローマで開かれた葬儀の日 質を囲み広場をめした若者たちは握り拳を 天に突き出し愛のを捧げまし た映画ソドムの位置が公開されたのはその 3ヶ月後のことでし [音楽] たお疲れ様でした解説は以上になります もしかするとお気づきの方もいるかもしれ ませんがこの動画ではあすの箇所を除いて ほとんど1度も具体的なグ描写に言及して いませ ん少年少女の乳首を焼き切っては眼球を えぐり出しスカトロジーの共演を楽しん だりといった人によっては吐き気を催し かねない快楽描写がこの映画のメイン ディッシュだと考えていた準盗作者の歴歴 には少しばかり表紙抜けだったかもしれ

ませ んしかし動画を一通り作り終えた後で 見返してみてもそれらの描写について具体 的に語る必要を特に感じませんでし たそれは皆さんへの配慮からではなくその 方が作品そのものの本質に深くまで済ま れると考えたから ですそれは本作のように極めて コントロールでともすれば動画が低評価の 嵐になりかれない作品を扱おうと思った そもそものきっかけにも由来しているの ですが映画ソドの位置は金てより不当と いうほい評価を受けてきまし た一言で言えば吐き気を燃す気持ちの悪い あるいは単にやばい映画という ものしかし本当にそうでしょう かマルキドサドにピエロパオロパドリーに という2つの偉大な才能が文字通り時代を 超えて混じり合った奇跡ののような作品が このソドムの位置 です人間心理の極北というべき盗作世界を 独力で探求したサド公爵ともが私的精神と 政治思想を独自の安売で作品へ盛り込み つつそれでいて芸術作品と呼ぶほかない 映画を生み出し続けてきたパゾリーニ この2人の芸術家の功績を素通りして作品 を語ることがそもそもの始まりからして 不当な評価につがっているのではないかと 僕は思ってきまし たそして余談ついでにもう少しばかりの 余談を許していただけるなら映画や文学と いうのは音楽美術と同じくらいには受け手 の知性の参加を要求する表現形態 ですグロテスクな作品や吐き気を催す映画 といった分かりやすい形容士を張り付けて 作品の是非を判断することはその芸術と いうものに向かう姿勢の根幹をなす知性の 参加を知りとけてしまいかれないことだと も兼ねてより思ってきまし たそのためこの解説動画では見れば分かる 部分についてはさらりと触れるにとめ画面 を見ただけでは理解しづらい作品のより 深くにある本質の部分を掘り起こせよう 務めまし たそしてそれはとチャンネルが今後も守っ ていきたいと思っている動画作りの指針で もあり ますこの動画が偉大なエロティシズム哲学 者マルキドサドとずも本作が遺作となり 現在では一般にソドの監督としてのみ記憶 されている感のあるピエロパオロ パゾリーニを彼らが本来寄って立つべき 芸術の世界の評価軸で評価される一助に さやかなりともなっていれば幸い ですそして何よりここまで聞いてくださっ

た皆さんがソドムを産んだ彼らのソドム 以外の作品にも手を伸ばしていただければ それ以上に嬉しいことはありませ んでは最後に本動画を作る上で参考にさせ ていただいた書籍と映画を少し数が多いの で一部紹介し動画を閉めたいと思い ますまずは小説ソドム120日と悪徳の境 への2 作この映画の直接のルーツとしてそれから サディズムやエロチシズムのルーツとして も最重要な作品たち ですそこに小説家であり思想家でもあった ジョルジバ優が佐藤を導き手として同分野 について大真面目に研究した隊長 エロティシズムも加えておき ますそして彼らに匹敵するエロ相家がこれ を聞いているほとんどの方にとって幸運な ことに日本から生まれています渋沢達彦 です ね佐の小説を翻訳し日本の読者へ紹介する のみならず電気作品を始めサドの文学を これまた大真面目に研究するという奇妙な 逆説をまさしくサドがそうであったように 独力でやってのけた偉大な文学者 ですその鉱石の偉大さから彼の訳した作品 が発見処分となったことは先に触れた 通りエッセイや哲学書小説など恐ろしく滝 に渡る彼の著書がいずれも名作揃いなのも 嬉しいところ ですそしてパゾリーニの フィルモグラフィーをたどり彼の作品を 紐解く上で大いに参考にさせていただいた パゾリーニの生徒死をあげておき ます古今のイタリア映画を声なく愛する 著者の知見が余すことなく注ぎ込まれた 日本で手に入る数少ないパゾリーニの研究 所 [音楽] ですそして最後はもちろん映画ソドムの 位置解説パートで触れた通り エロティシズムを入り口に新円な刑事上学 的施策にはまり込ん文学の新骨張を発揮し たのがソドム120日や悪徳のさえだと すれば映画ソドムの位は私たちをそのサド 的快楽の深みへ はまり込む入門作品 ですこの動画を最後まで見終えてしまった 性的盗作者あるいは予備軍の皆さんは サディズム文学とパゾリーニの私的な盗作 世界へはまり込む才能を秘めているので ここであげたいずれもを大いに楽しんで いただけるはずです 最後の最後になりましたが美しさと グロテスクの混在というのは僕が映画や 文学作品に触れる際に最も美学を感じる

テーマであるため今後ともこうした一般に は経営されつつもその実親complな 魔力を秘めたグロテスクな作品というのは 積極的に扱っていこうと思ってい ますそれではこの辺りでさようならまた 次回の動画でお会いしましょうバイ [音楽] バイ DET

34 comments
  1. ああなるほど…やっぱり縄文時代が20000年弱続いたのは奇跡であったし、あの「足るを知」っていたであろう時代はもっと続くべきだった…。ルソーの公募で書いた作文だったか、科学のせいで我々はとんでもない不幸やしがらみに巻き込まれた!うわあああ!!っていう趣旨の作文に今なら納得。

  2. 中学生のとき友達と興味本位で見に行った😂未だにコレを超える変態映画は無い!しかし俺たち美術部!アートだろ?エロはアート!😅
    流石に見終わった後友達とも無言で帰って行った😅これは中学生には刺激が強すぎた!
    絶対的強者と弱者に分けられた存在。快楽の中にある不思議なエロ(天国と地獄)。加害者と被害者。死は天国行きなのか?色々深い哲学と変態エロが交差して頭はおかしくなりそうだった。

    中学生が見終わって思った事は「こんな映画観たら犯罪者になるヤツいるだろうな。俺は欲に勝つぞ!(厨二病的善の目覚め😂)」

  3. アンチコメントをひたすら書き込むのもある意味エロティシズムの延長線上にあるのかもしれませんねぇ

  4. まさにひぐらしの鳴く頃にと一緒ですね。
    表現描写(手段)だけに注目にしてしまい、作品全体(本質)を評価しない。
    周りの意見なんか気にせず、どんなものも自分の目で観ることは大切ですよね。

  5. 母親を憎み、殺し快感を得たという表現があるが、そもそも母親が居なければ生まれることも、その快感を得ることもできない。根本的に矛盾している。これは極一部だが、相当の矛盾が無数にある。文学界では評価されている体の物言いをしているが、究極の駄作として評価されているということを忘れてはならない。

  6. そもそも、死をも快楽と感じられるのはサドやパゾリーニ自身が言うように「満たされた特権階級が求める悪徳を内包する本能」に自らが陥っていたから。しかし、事実は異なる。20世紀以降はすべてが満たされた時代とは言いにくい。サドやパゾリーニのように一部の特権階級には見えない貧富の差、戦争、内紛、難民問題等々。。。深刻な課題を抱え、人類存亡の危機とも言われる2000年代を迎える今、贅沢な欲望でしかない醜悪さは、吐き気を催すほど憎悪のメタファーである。今、世界は貧しい。人類は決して進化していない。この事実を見つめ、常に最悪の事態を想定しながら備えなければ、人類滅亡は、より現実味を帯びていくだろう。

  7. たたたたタニムラさんいつの間に復活されてたんですか😭✨今日見つけた瞬間歓喜で身震いしました。朝9時頃からずっとイヤホンつけて家事してます…😍最高。

  8. まずサドという作家の存在を知って、それからこの映画の存在を知ったのは、確か中学生の頃だったかな?
    その当時この映画を観る術も判らないまま、いつの間にかすっかり忘れていたけど、関連で上がってきて、「おおっ!『ソドムの市』!Σ( ̄□ ̄;)」と、懐かしく(笑)思い出しました。
    超長尺なので、取り敢えず保存して、時間と心の余裕のある時にじっくり視聴させて頂こうと思っています(笑)

    それにしても、我ながら呆れる程関心と興味の範囲がバカみたいに広い自分に、この解説動画をオススメしてくるYouTubeのAIのユーザー嗜好分析能力恐るべし😱www
    ある意味、こういう作品を書いたサドや映像化したパゾリーニよりも恐ろしいかも知れません😅

  9. 動画の次回作が待ち遠しい
    タニムラさんの動画を観ていて
    タニムラさんは古典が好きな方なんだなと思いました
    始祖となるような礎を作った作品たちです

    私はどちらかというと古典からの現代的なホラーが好きなのかもなと思いました
    イットフォローズとかミッドサマー、キャビンとかそんな感じです

    町山智浩の羊たちの沈黙解説を聞いたところ、勘違いおじさんとなったトマスハリスの作った続編のハンニバルでは、クラリスとレクターは肉体関係になってるらしく

    要はレクター色に染まったという事で
    羊たちの沈黙とはある意味真逆の決着をしていて
    それはジョディは嫌だろうなととても腑に落ちました

    ハンニバルって作品はそもそも羊たちの沈黙よりガクッと落ちる作品だと思ってまして、、
    天才のリドリースコットが調理してくれて良かったなって思ってます

    羊たちの沈黙はそれだけで完結してる作品だなって思いました
    羊たちの沈黙にあるいいメッセージが原作者によりひっくり返されちゃうのはなかなか辛い
    井伏鱒二の山椒魚みたい

  10. 今更かもしれませんが、タニムラさんおかえりなさい。面白そうな動画のチャンネル名が懐かしいもので二度見しました。ありがとうございます。

  11. 青○学院大学て自主上映されたらしく兄貴がソフト出たら押さえろと言ってた。自分が高校生の時レーザーディスクで購入して鑑賞した。エグいが訳のわからない感動があった。

  12. 伝説&究極のエログロ映画を教養溢れる格式高い内容の動画にまとめるなんて他の映画紹介系YouTuberとは一線を画していると思います。
    天国のパゾリーニさんも泣いて大喜びしている事でしょう。

  13. サドさんは研究熱心だったんだね…
    理解が及ばないレベルの凡人で良かったわぁ
    富みすぎて暇したら人間あかんってことやな(ひ・ω・ま)

  14. フランスの歴史番組で、巻物を実際にテーブルの上で伸ばしているシーンがありましたが…あの文字の細さと長さは圧巻でした。こちらのチャンネルがオススメに出て来た事に驚きがありましたが…面白いなと思います📕

  15. うわあ…

    映画については、可哀想でみれんわ。
    悪いやつが酷い目にあうならいいけど。

  16. サドかマゾの二極化は違和感..。
    自分がサドかマゾって分かっている人そんなに多くないのでは?
    食べ物の好き嫌いみたいに状況や年齢など様々な要因で様々に変わっていくものだと思うのですが。
    いつもこれで喜ぶんだと決めつけてしまうとその時の相手への配慮も失われてしまう気がします。

    ただこの動画からおそらく主も飲み込まれたのであろう作品の情熱はよくよく伝わりました😂

  17. パゾリーニは貧しい育ちだった故に、豊かさに憧れるのではなく、豊かさを憎むようになってしまった、ということなのでしょうかねぇ?猫ちゃん、可愛いです🥰

  18. 確かにグロテスクなものが多く出てくるが
    それは1つの表現で全てでは無い、
    自分は良くのデス&ブラックメタルを聴くが
    これも全てを評価は出来ない、
    然し中には美しく感じるものも有ることに
    アートという共通ポイントがあるのが面白い。

  19. 館の秩序に沿った饗宴としてエログロがあるんだよな
    カオスを主体にした熱狂とは違って秩序を感じる展開が多いから内容の割にそんなエグくは感じない作品で、その手のジャンルのAVよりは終始上品
    まぁやってること自体はアレだから苦手な人にはドブ川の澱と上澄み程度の違いしかないし、シナリオとして面白いってわけでもないから価値ある創作ではあっても価値ある鑑賞物とは思わなかった

  20. これ現実ですから
    子供だけで年間800万人が売られる。日本では去年一年だけで1万6千人
    エプスタイン島で行われている事実を映画にしただけ

  21. 様々な人がこの作品を引用する事で存在は知っていましたが、読んでも(映画観ても)自分には理解できないだろうと思ってました。
    で、うん、やっぱこりゃ無理だ。
    母親になる前に観たかった。今はもう駄目だ。
    ただこんな醜い最低な出来事をこんな美しく知的に扱われたら、引き込まれるし、言葉の選び方にもうっとりしてしまう。
    あ〜…。
    晴れてるから布団干してくるわ…主婦に戻ります…

  22. この映画は観たことはありませんがタイトルは知ってます。
    関西ではある年代以上の人なら誰でも知ってる大事件、三菱銀行高畠支店強盗監禁事件の犯人梅川昭美が人質に対して
    「ソドムの市って映画知っとるか?」
    の言葉を発し、その後映画さながらの振る舞いを人質たちに強いたとされます。
    あまりに凄惨なことが行われたので詳細は明らかにされず、噂だけが漏れ伝わるだけ。
    最終的には梅川は突入した大阪府警の警察官に射殺され、裁判もなかったので銀行内部のことは闇のまま。
    ただ「ソドムの市」のようなことがあったのだろう、と想像されるばかりです。

  23. ソドムの市、聞いたことなかったけどマルキ・ド・サド原作だって聞いて察した
    よく映像化できたな…役者の負担デカそう

  24. 当時、映画好きの友人に誘われて よく知らずにみてしまいました。制服着た女子高生は,私たちくらいで見終わったら,ぐったり。まわりは,男性ばかり。同時上映が、デカメロン。本当に衝撃的な日でした。解説,お見事…

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