2023年1月7日 焼津教会 礼拝説教 「王の戴冠と行進」マルコによる福音書15章18〜22節

2023年1月7日 焼津教会 礼拝説教 「王の戴冠と行進」マルコによる福音書15章18〜22節

皆さんも耳にしたことがあるかもしれませ んけども主イエスがピラトの官邸から死刑 判決を受けてゴロゴの形状まで引かれて いく道でこの道のことをですね教会では ビアドロローサ の道というのですけどもそのように 言い習わしてきました今もエルサレムに 行くとですねまその時のままのルートでは ないと思うんですけどもおよそこのように 歩まれたのだろうとそういう道が残って おりますそしてその道を今も多くの人々が いわば純礼と言ったらいいのでしょうか そういう思いを持って歩くということを耳 にしたことがあり ますまたですねあのローマカトリックの 修道院を訪ねると建物の外に大体庭がある んですがその庭にですね必ずと言っていい ほどこのビアドロローサ悲しみの道を持し たルートってのはこう作られているんです ねでそこの道の所々に大体鉄の板みたいな ものがありましてでここのルートはここの 場面だっていう風な説明がついてるところ があります 私も研修で修道院に行くとですねしばしば その道を何度か歩いたりしたことがあり ますイエスキリストの見の後 をたどりたいそういう教会の信仰の思いが ここには表されているわけ です悲しみの道の悲しみっていうのはです ねこれは私たちの悲しみではなくて主 イエスが私たちのために悲しんでくださっ てる悲しみですね私たち人間のために主 イエスが歩まれた悲しみの道であるわけ です私がまだ子供の頃ですけどもある時に ですね父とキリストの生涯を描いた映画を 家で見ておりましたタイトルももう忘れて しまったんですけれどもま大体およその 内容 はおりましてま主イエスの裁判の席があっ てそしてそこから主イエスが引き出されて いくそして今話したこのビアドローサの 道のりというものを主が歩んでくわけです た突然ですね今でもはっきり覚えてるん ですけども父がですね見てられねえなって くだらないて消せていう風に言ってですね テレビを消してしまったん です私はあけに取られて黙ってたたんです けどもま幼稚が教会の幼稚でしたのでなん となくそういう話は知ってたわけ ですでもそれよりも何よりもどうしてそこ の箇所で突然父が起こり出してテレビを消 せっていう風に言ったんだろうっていう ことを思ったんですまその父ですけどもま その後何十年も経ってから信仰を持つこと になったんですけどもでも今思い返すと

ですねこの時に父が思ったこととか言おう としたことてのは分かるような気がするん です何気も悪くもないのに黙ったままで 自己弁護もしないで死刑判決を受けて そして散々に恥ずかしめられて死へと 引き立てられて いくそんな生き方っていうのはおそらく その時の父が到底認められないこの男は 一体何なんだくらないままさにそう思った んだと思いますそれが随分後になって わかりまし た主イエスのビアドロローサこの悲しみの 道の周りにいる人々というのは誰 1人主イエスのことを本当には知ろうとし ていませんし分からないんです よむしろその人々の無 理解それこそがまさに主の道を悲しみの道 にしているでもそのような人々に囲まれて 主は十字への道を進んでいかれるわけです ここで兵士たちの姿が出てき ます鞭 で主を打たれるこの頃の鞭っていうのは ですねま今実物もあんまり目にすることは ないと思いますけれどもこの頃の虫って いうのは川にですねこう金属の鋭い病 みたいなものをたくさんこう埋め込んでっ て言うんでしょうかそういう風にして作っ ていたそうですでこらしめのためにこの鞭 で罪人を打つわけですけれども打つ回数が 決まっててですね39回までって決まって なんだそうですなぜかって言うとそれ以上 打つと死んじゃうからですそれだけ激しい 打撃だったっていうことなんです ねそしてここで舞台がここに集まってる 様子が書かれてますけどもこのの全員って のはまおよそ200人ぐらいだろうという 風に言われてい ます主イエスを引っ張っていくのに200 人必要なわけはないわけですですから おそらくここではこの罪人を形状に引いて いく前にいぶろうそしてその様子を見守っ 見てま楽しもうそういうような冷やかし 半分でおそらく舞台全員がどやどやと 集まってきたんだろうという風に想像 いたし ますイエスという人がどのような人である のかでこれはおそらく兵士たちもある程度 は耳にしてるわけです よ神の釘のことを伝えて多くの人々を癒し てしかしこうして捉えられてしまって今 死刑判決を受け たおそらくですね戦いの最前線でいわば命 のやり取りをしてるような兵士たにとって はこのナザレのイエスっていう人の話す こととかやってることっていうのは

おそらく浮を離れしたお笑い無さっていう 風に多分思ってたんじゃないかなっていう 風に思うん です神の力など結局は何にも発揮すること なくこうして惨めに捉えられてさかれて 死刑判決を受けて無知で打たれて いる救い主を語った愚かで無ながユダヤ人 の慣れの果てだおそらくそんな風に捉えて たでしょう ねそして巷で救い主って言われてた男が どういう男なのかま面白半分でやってきて そしてみんなで恥ずかしめようとしたま 格好の退屈しのぎだっったんでしょう ね紫の衣ってのはですね本来はこう王の 衣装ですま紫ってのは不思議なもので人間 ってのは大体こう好なものとして見るよう でこれはどこの釘でも大体共通するんです よね王の一緒なんですよでもですね実は この兵隊たちも赤紫の服を着ていたそうな んですま制服って言うんでしょうかね赤紫 の服を着ていたようですですからおそらく その誰かの赤紫の服をですね主イエスの服 を剥ぎ取ってそしてしめるためにまわせた んでしょうねそしてそこらにいくらでも 入ってるような居イラをですね丸めて まるで王の冠のようにしてその頭にかせ たユダヤ人の万歳ってのはですねこれは元 の言葉を見るとローマ皇帝に対してあの 腹中の時に使う言葉をもじったもんだて いう風に言われてますで返る万歳者皇帝 っていうですね言葉があったんですがそれ をもじってユダヤ人の万歳っていう風な 言葉にしてるわけですそして彼らは敬礼を して節む節むっていうのはま地べたに はいつくばることですけどもま大げさな 仕草ですねからかうためにそういうことを おそらくしたんでしょうねそして唾を吐き かけてそして大石に見立てて足の棒でその 頭を叩い 侮辱し たイエスという方の体に苦痛と一緒にその ような人間の罪っていうものがある意味 ここでは刻み込まれているん です相手が抵抗しないで自分の方に全ての 権限があってそして圧倒的な数を頼んで いる時に人間は実に残酷な姿を表し ます今日の箇所ではこの新教同薬の翻訳で はですねイエスっていう名前が何度も何度 も出てきているように訳されてますけど実 は原文見ると違うんです原文ではですね イエスっていう言葉はもう一切出てこない ん ですここの箇所からあとはもう十字架の上 でイエス様が叫ぶところまで一切イエスっ ていうこういう名刺はもう出てこないん

ですマルコ福書ではただそっけなく彼って いう風にれてるだけなんですおそらくです ねマルコはこれ意意識して彼っていう 言葉遣いしてるんですイエスっていうこう いう名所を外してるんですよつまりここで はまさに無名のもの犯罪を犯したりすると ですねそっから刑務所とか行くとあの名前 が取られて何番っていう風な番号で呼ばれ たりしますねそういう名前が取られたよう なものとしてまさに犯罪者のににされてさ れてですね物のようにイエスというお方が 扱われてるということをマルコはここで 描き出そうとしてるん ですこの世の力によって力なきものを 傷つけて喜ぶ者たちのその罪を主イエスは 身を持ってまるでその罪を全て自分の体に 染み込ませるようにいぶりを受け てるそして同時に 人に傷つけられて無抵抗でいぶられるしか ないような者たちとも同じものとなって その痛みや苦しみを体にある意味染み込ま せてくださってるんです主イエスはその 両方のものとその存在を持って共にいて くださるん ですどちらもですね同じ人間の姿なんです よ時としてこの立場はが入れ替わったりし ます傷つけてたものが傷つけられるものに なることがありますしまた傷つけられてた ものが今度は傷つくものになることがあり ますどちらも人間のこの世界の現実の姿 ですね今もう多く説明する必要はないと 思いますが今パレスチナイスラエルの地で またウクライナやロシアの地で 戦争がずっと続いており ます大逆と殺りってものが毎日繰り返され てる殺すものがそして殺されるものがい ますそして武器を持つものがいますまた無 抵抗で殺されてしまうものがい ます加害と被害という被害というものが いわば入り混じっ てる線引やや白黒ってのはこれは簡単には できません ねそれぞれの立場でどっちがいいとか どっちが悪いっていう風なことがある でしょうしそれぞれの意見はあるかもしれ ませんけどもでもそれをですね簡単に白黒 つけたり線引きすることはこれはできない かなと思うんですここで出てくるローマの 兵士であってももし自分たちが相手に捉え られればやっぱり同じように今度は破ら れる立場になるわけ です歴史を見た時に過去に迫害されて殺さ れたユダヤの人々が今度はパレスチナの地 で は逆の立場になって同じようなことをして

しまうそしてパレスチナの人々 もユダヤ人に対して司会しなんだとして 同じようなことをして しまうしばしばこんなことが問われること があります神は一体どっちの側にいるんだ そしてどっちが神の見へ叶ってるの かそのような問いかけ がそれぞれからなされることがあります そして自分たちほどこそ神の方に立ってる んだという風におそらく 思ったり言ったりもするかもしれない そしてまたよその人々外部の人々からも 一体どっちが神様は一体どっちの味方なん だそういう風な言葉が出てくるかもしれ ませ んそれぞれの思うところの正義があります そしてその正義の中にも罪があり ます立場が変われば何倍にもしてやり返し て正義が恐ろしい悪を生み出すということ もあり ますどちらも見へ叶ってないんです神は どちらのでもないん ですもしどちらかがそのような主張をする ならばそれは誤りです ね自分が神の側にいるとして自分を正当化 して相手を悪くと決めつけ るっていうのは当事者だけでなくて他の誰 がするとしても許されることではない でしょうけれども同時に神はどちらの敵で もありませ ん人間の罪をまさにその身で引き受ける 救い主として神はどんなものとも一緒にい てくださるん です救い主 は人間の全てを受け入れてその罪を追って ください ます救い主イエスは沈黙の中で人間の罪を その肉体に刻みつけてください ますでも人間はそんなことは分かりはし ません わからないんですよそんなものは愚かだっ て思うん です相手が何気も返してこないと相手は 何にもできないってますます増長して好き なようになろうと するけれども主イエス はこのローマ兵たちとも共にいてくださる ん ですそして今声も出せずしいたげられ 苦しめられてる人々とも共に出になるん ですそしてこの主イエスの前でだけ私たち の本当の自分の姿っていうものが明らかに なり ます人間同士の中だけで正義と悪の割合 っていうものを比較してもその比較自体に

意味がありませ ん自分自身 とイエスという方が一緒にいて くださるそういうことを知るところから しか真実っていうものは見えてはこない ですそれ は自分自身の罪が主イエスを苦しめている んだっていうことを知ることですそして そんな自分を主イエスは受け入れて許して 愛してくださるんだっていうことを知 るっていうこと ですこの兵士たちの中の1人がこの後 しばらく後に見ることになりますけれど もで息を引き取った主イエスを見て本当に この人は神の子だったっていう風に つぶやくん です福音主義にそういうことは書いてあり ますけれどもでもね考えてみるとねこれ 一体誰が聞いて福音初義書いたんだろう てその十字架のそばにいるのは弟子でも なければ兵士たちだけですよある程度距離 があります からその口にしたローマ兵自身が後で マルコに行ったとしか考えられないんです よつまりこの人はこのように主イエスを なっ てゴルゴ代連れて行ってそして十字架に つけたその人自身の中の1人が本当にこの 人は神の子だったっていう風に告白する ものになるん です何がこの人にこのローマ兵に起こった の かそれを探ることはあんまり意味ないです ね徹底的に人間の罪を受け続けて死んだ方 によってしか自分は救われないそのように 1人のローマ兵が信じたっていう事実が あるだけ ですローマの兵士たちにとってはイエスて いう方は自分たちの職務の中でたまたま 出会った犯罪議に過ぎませんでしたけれど も実はそんなひどいことをこの方にするな でその救いの見の中にこの人々も実は 巻き込まれていってるんです本人たちは 思いもやらないけれどもそういうことが ここで起こってきてるん ですそしてもう1人本人は全く思わなくて 主イスにある救いに巻き込まれる人がもう 1人現れてきますシモンっていうキレネジ ですキレネっていうのはですね今の地図と いうと大体リビアの辺りだろうと言われて ますでそこにはですね多くのユダヤ人が 住んでたそうですで恐らくそこからですね 移住してきてエルサレムの田舎の方郊外の 方に住んでた人だろうと思われるんですね でこの時はちょうど過ぎ越しの祭りでした

からその祭りのためにでしょうか エルサレムの街中にやってきてたん でしょうゴルゴダの丘までのこの悲しみの 道ビアドロロさってのはですね距離にする と1kgぐらいだそうですもう大した距離 ではないんです よでもねそこ まで罪人とされたものは自分がつけられる 十字架の横にってものを担いでいくことに なっておりました十字架はこのように縦横 になってますけどもこの縦の部分っていう のはですねもう形状にあるんだそうですで その横の部分手が見付けられるところです ねそこの木だけはその罪人自身が運ぶって いう取り決めになってたんだそう です短い距離かもしれません が主イエスは睡眠も食事も取れておりませ んしそして鞭打たれて殴りつけられており ますのでもうおそらく歩くのがやっとです ねでけれどもそこで重い十字架の横木を 担がせ られるでも動けなくなったわけです だからと言ってローマの兵隊が助けて くれるはずはないわけですでもほってく わけにもいか ないなぜなら兵士たちはその死刑にする 人間を経常まで生きた状態で連れてくって いうことが使命だったからですなぜかって 言うとですねこれとってもこれも残酷な ことなんですけど も罪の処刑ってのを楽しみにして人たが たくさんいるん ですこれは別にこの時だけじゃないです つい19世紀ぐらいまではですね公開処刑 ってのは結構あって実は本当にひどい話 ですけれどもみんな割と娯楽のようにして 喜んで見てたんですねあ悪いやつはこう なるんだみたいな感じで実はヨーロッパの 方なんかでもですねあのお店とかもその時 出たりしてみんなでワイワイ楽しみながら そういうもの見て そういう人間の現実もあるんです よここでもやっぱりそうでしょう [音楽] ねできるだけ罪人を残酷に処刑することに よって人々の鬱憤を張ら させるそういうような勤めってものも実は 兵士たちは負わされてたわけ ですそういう意味ではこの兵士たちもそう いう役割を課せられてたって言ってもいい かもしれませ んそういう時にですね残任が動けなくなっ た時にローマ兵はそこにいる人を誰でも 好きなように徴用することができました そこら辺にいる人をおいお前って言って

ですね使うことが自由にできたんですただ そうは言ってもそれなりに体がしっかりし ててそしてまたあんまり社会的身分高い人 だと面倒くさいことになりますのでまあ 見るからに身分があまり高なくてそして体 がまがっちりしてるようなそういう人を 適当に選び出して命令するわけですでそう いうことでですねキネの指紋という人が おいお前これ持てということで言いつけ られるわけです ねシモはここにたまたまいただけですね 拒むことなんかできませんよあ嫌ですとか 忙しいですとかそういう理屈は通らない もうやれって言われたらやるしかないん ですでもねそんな岩場通りがかりの人の 名前っていうのがですねここにわざわざ 記されてるわけですなんでなんだろう てマルコによる福音書はペテロに非常に縁 が深かったローマの教会に当てて最初は 書かれたていう風にま大体言われてるん です ね後にパウロがローマの教会に当てて書い た手紙の中にこのルフォスっていうですね 人が出てくるんですよシモンのあの子供と してのルフォスっていう人が出てくるん です他にはあんまり出てこない名前で 珍しい名前って言っていいかもしれない ですでこういうことは書いてあんですよ主 に結ばれている選ばれたものルフォス及び その母によろしく彼女は私にとっても母な のですという風にパウロが書き送ってん です他にもですねいろんな人の名前がこう 出てるんですけどちょっと特別な書き方を してるんですよね私にとっても母なのです とか特別な書き方をしてるんですでこの ルフォスと母親ローマ所に出てくる ルフォスと母親をですねここで出てくる キネの指紋と多くの人々は結びつけて考え ますおそらくそうなんだろうと思われるん ですでローマの教会で母とに神に使えて いるその父親がこのキレネジシモだという ことになるんです ねローマのローマの信徒の手紙の中には このシモンの名前はありませんからこれは 想像ですけどもおそらくですねもうシモは そん時召されてるんじゃないかとそして このルフォスと母親だけが残されてるん じゃないかっていう風に考えます 偶然に本人の望まないところでですね徴用 されて十字架を担ぐことになったことが おそらくこのシモという人に信仰を与る 導きとなっ たそして家族が同じように信仰を持つもの になったその始まりがこの無理に十字架を 活すられたところから始まると想像する

ことはできるん ですおそらくですね主イエスの十字架を 背負わされたシモの話ってのはローマの 教会でもよく知ってる話だったんじゃない かと思うん ですこの家の信仰はシモが十字架を活せ られたところから始められたんじゃない かこの時にこの十字架を担がせられたのは 本人にとってはですね迷惑な話でしかない わけですよもちろんイエスがシにだわけで もないローマの兵に無理やりやれって言わ れただけです よそういう人間の罪の世界の中での拒め ないような出来事の中にシモは巻き込まれ ただけですで もそれは人の思いを超えて神の救いの 出来事にシモが巻き込まれてることでも あったん ですどのようにこのこと が指紋の信仰となってまた家族にまでそれ が引き継がれるようになったのかどのよう にしてかそれは分からないんですよただ 指紋に救いの技がこのことから及んだって ことだけはおそらく確かなことなん です後にも先にも主エスがつけられた木の 十字架を背負ったってのはこの指紋だけ ですねでそうするとですね私たちはどうし てもおそらく1つの言葉を思い思い出すん じゃないでしょう か自分の自分を捨て自分の十字架を背負っ てそして私に従いなさいて主イエスが言わ れた言葉 です弟子の中にもシモンペテロって人がい ましたがこの指紋は今いない逃げちゃっ てるんですでも全く別の指紋がここでこの 十字架を背負うものになるん です私たちはその言葉を聞くと自分を捨て てどういうことかなって自分を捨て るってどうしたらいいのかなって大体 考えるんじゃないかと思うんですでもね そんなこと考える必要ないのかもしれませ んここで指紋は自分の思いや意思は全く ないんです よわは自分を捨てさせられてるん ですさらにルカによる福音書の方を見ると ですねシは主イエスの後ろから運んだって うなことは書かれてるんです読み方によっ て は主イエスを十字架の横木と一緒に後ろ から支えるようにシモン が歩んでったんじゃないかなっていう風に も読めるん です主イエスに従わざるを得ないものにさ れたん ですおそらく彼はこのことを後

でいろんなところで話したんだろうなって 思うんです 自分を捨て るっていうのは自分をある意味言葉が 激しいですが自分を殺すっていうことです ね今生きてる私たちはま現代人はですね 自分で考えて自分で意思して自分で行動 するそういう自分自身を通して生きるよう にっていう風にま大体どこででも言われる と思い ますしかし現実には分分の思うようにいか ない ことまるで巻き込まれたようなことなんで こんなことになるのっていう風なことが 実際にはたくさんあるんじゃないです かそれをですね神っていうものを抜きにし て自分のこの目で見えるこの世界の中の ことだけとして見るんだったらそれは自分 の思いが通らなかったこと無くこんなこと やらされちゃったひどい目にあったそう いう食えるようなことにしかならない でしょう で も信仰から見ると違うんですよ神が世界を 支配し てる私たちは天地の作り前脳の死なる神を 信ずって言いますよね前脳ってのはですね 前脳なんですよどんな世界の片隅で起こっ てる出来事も全部ご存知で導いてるんです よその全脳の神の信ずる信仰から見ると むしろそのような事柄の中にですね神の 救いの心が働いてる神の導きの心が働い てるそういう中で自分が救われたんだて いうことを見出すことができるん です私たちもそのように神の救いの御心 に捉えていただいてるんです よ私の知人でですね今牧をしてる人がおり ましてその人は牧の息子なんです親も牧 だったの田舎の小さな町でですね牧の息子 として生きるっていうことが嫌で嫌で たまらなかったそう です本当に嫌だったっていう風に今でも 思い出すと嫌だって言うんですけれども嫌 で言らたまんなかったって言うんですよ 教会生活も聖書も祈りももう強制でしか なかっ たで自分は もう自分の好きなように生きる人人や親や 教会や牧師に強制されるのはまっぴらだっ て言ってですね家飛び出したんですある 一定年齢になった時 にそれでけれどもです ね結局彼がそこでぶつかったのはどうも キリストが邪魔なんですっ て自分が自由に生きようと思うといつも

キリストが立ちふさがるんですって自分の 前 にもう邪魔で邪魔でしょうが それで苦しんだ末にですね彼がなんでそう いう風に思ったんだろうって言うんです けれどもこうなったら敵をまずやっつけ なきゃだめだってで敵をやっつけるには敵 のことを知らないとやっつけられないいて 思ったんですってそれでそうだ新学校に 行こうって思ったんですっ てなんでって思いますけどもででも彼は 思ったんだつってえこんな人をねま戦略 一長受けてたみたいなんですけどこんな人 を入れてくれるはずがないってだからその ことを言ったんですって面接でこうでこう でこうだっていうことを言ったんですって だどうせ落ちるだろうっていう風変に安心 してたらですね受かっちゃったんですっ てなんで受かったんだろうっていいのか なっていう風にも思いますけどもいやそう なっちゃったんだよねてそれ でじゃあ最初に元々敵をやっつけるため来 たんだからじゃあ一生懸命敵のをしろと 思って学んでるうちにま皆さんももう 分かると思いますけども信仰を持つものに なっちゃったんですっ てで自分でも不思議でうまく説明できな いって言んですでも話すとそういうことに なるってでその話を聞いてて私もうまく今 皆さんに今説明できてるかどうか分かり ませんけどもでもねよく分かるんですよ 説明はできないんだけどもよく分かるん です教会の言葉でですね強いられた恵って いう言葉があるんですよ逆らうことのでき ない恵っていう風にも言い ます自分の思いを超えて自分を救って しまう神の恵みに捉えられてしまうって いう意味 です説明できなくたっていいんですよね その恵みが自分に望んだん だ自分が通せない自分の思いと異なるそれ は嫌だ ごめんこりたいって思ったことが自分の 信仰の導きになって しまうそういうことを通して ああそうだなっていう風に告白できるのが キリスト者っていうものなんです よシモがした十字架を背負わされた証って のはきっとね多くの人々の心を捉えたん じゃないかなと思うんです先のローマの 兵隊も形は違いますけれどもある意味自分 の職務の中でキリストに巻き込まれて しまったんです よ今日の説教代を王の体感と更新って ちょっと仰々しいものつけたんですけど居

の冠をかぶっ てビアドロローサを歩むキリストの歩みっ てのが私たちの王の体感であり王の更新な んですで私たちはそこに突き従うものにさ れる巻き込まれちゃったんですですよ ちゃったって言ったら神様悪いですけど 本当にそこに巻き込まれてしまったんです 人生のいろんな中 でエルサレムのピアドローサはですね多く の人々が訪れてるっていうことをさっき 話しましたでもねいいんですよエルサレム 行かなくっ たってビアドロロさはあるんです私たちの 目の前に私たちの人生の歩みそのものが キリストと伴なるビアドロサなん ですそれぞれにそれは異なる歩みですでも ねキリストがいるっていう意味では同じ1 つの歩みなんですよ十字架を背負って自分 に与えられた十字架を背負って主イエスに 従うことのできる道なん ですそれが私たちの救いの道なんです よ新しい年の最初の礼拝ですこの2024 年にどんなことが起こるのか誰にも分かり ませんなんか計画らしいもの立てるかも しんないけどわかんないですよそんなこと 思いにならないことが度々起こり ますでもねいいんですそれでキれの指紋の 歩みを私たちはするん です時として喜べない十字架を背負わさ れるでもそれは主イエスと共にあることな ん です今も そしてこれからも強いられてる十字架を 負うでもそれは強いられた恵みなんですよ その恵みに私たちは生かされていくんです 主イエスはそんな私たちと共にいて くださいます祈り ます父なる御神あなたが共に歩んで くださることを感謝をいたします私たちは 自分で生きてるという風にどこかで 思い違いをしてしまうものですそして自分 の思いが通る時にそれこそが良い道だと 勝手に思い込みますしかしそうではなくて あなたが時として私たちに恵みを敷いて くださることそしてその中で引きずられる ようにしながらもしかしあなたの見の後に 習うものとされて生かされていることその ような導きの道を私たちは歩んでまいり たいと出いますどうぞ御言葉と見たによっ て 私たちのこの1年のみを支え導いて ください主イエスキリストの皆によって 祈ります あン

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