松平忠輝の生涯 なぜ家康は息子を憎み、死の間際に改易に追いやったのか【どうする家康】

松平忠輝の生涯  なぜ家康は息子を憎み、死の間際に改易に追いやったのか【どうする家康】



参考文献
藤田達生『江戸時代の設計者 : 異能の武将・藤堂高虎 (講談社現代新書)』
https://amzn.to/3T3KWDy
白川亨『石田三成とその一族』
https://amzn.to/3sGSRfj
須田茂『徳川大名改易録』
https://amzn.to/4aB4Zjl
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松平忠輝は母の身分が低かったにも関わらず、伊達政宗との縁組などもあり越後65万石を領するまでになりましたが、大坂の陣後に家康から義絶され、家康死後に改易され流罪処分が下されました。
その背景には、伊達政宗に加え、大久保長安、豊臣家ともつながりを持つなど将軍秀忠に対抗しうる力を有していたことがあり、天下泰平のためにいちゃもんつけて排除されたというのが実態です。
忠輝は流人として幕府の移りゆく様を見つめ続け、5代将軍徳川綱吉の時代まで生き続けました。
今回は、息子の一人として家康に期待され大領を預けられたにも関わらず、忠輝を中心に大きなグループが出来上がってしまったがゆえに家康 秀忠から警戒され追い落とされてしまった松平忠輝の生涯について紹介します!
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【画像引用】
大河ドラマどうする家康公式サイト
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#どうする家康 #日本史 #歴史

[音楽] こんにちは歴ショックです今回は家康の 息子として北陸の代々名となるも財処分と され60年以上もの月日を罪人として 過ごすこととなった松田たてるの障害に ついて紹介しますただてるは母の身分が 低かったにもかわらず伊達政宗との縁組 などもあり越後65万国を了するまでに なりましたが大阪の人後に突如家康から絶 され家康後に解役される在処軍が下され ましたその背景には野神を持ち続ける伊 政宗に加え幕府で大きな権力を持つ大久保 長安さらには母チャーの壺を返してトヨ ミケとも繋がりを持つなど将軍ひれただに 対抗しうる力を有していたことがあり たてるの落ち度というより天下太平のため にイチもつけて排除されたというのが実態 ですひただと五山機の中間に当たる世代の 手立てるがいなくなったことで秀たは家康 死後の絶対的な権力を持てた一方手立てる は人として幕府の移り行く様を見つめ続け 古代将軍徳川綱良の時代まで行き続けまし た今回は息子の1人として家康に期待され 大量を預けられたにもかわらずただてるを 中心に大きなグループが出来上がって しまったがゆえに家康秀たから警戒され 追い落とすれてしまった松田たるの生涯に ついて紹介し ます母親はトヨミケとつながりがあった 松田たの 執事松田平田は1592年徳川家康の6男 として即チャーの壺を母に生まれました 家康が49歳の時の子で徳川秀たの13歳 年下豊富秀よの1歳年上に当たりますが 一方で家康の関東を違法前に誕生したと する記録もあり東邸松代との関係も含め 確定はしていません手立てが生まれる2年 前までは家康には秀吉の妹朝日が性質に おり秀吉をはばかり当初は出生を隠された とする説もあります手立ては生まれた直後 に家康から顔が見にくいという理由で ステゴ扱いされたなど容子を理由に家康 から嫌われたとする話が多く残っており 実際に幼少期は下の大名川ヒロテに育て られていますが多くはたての末路を見た生 の捜索と言えるもので朝日をはかった家康 の態度も影響しているのかもしれません母 のチャーの壺は通説ではいかけ屋の妻で あったのが夫が喧嘩の末に殺され高がりを していた浜松女時代の家康に娘を連れて 訴えれてそのまま家康に気に入られやがて 家康のお手つきになったとされています ただしチャーの壺の兄とされる山田孝之助 が前半世は尊美にいた石田三の姑と宇寄り たに使え後に三成重心となり息子勝が三成

の長女を妻に迎えた山台族と繋がりがある とする説もあります百勝同然の身分だった とする説もありますが身分は低いものの 全く無名の家の出身ではなかったと考え られむしろその羊のおかげで後年トヨミと も繋がりを持つこととなりますチャーの壺 は初めから家康の愛を受けたわけでは なかったものの数年が経った1592年に たてる1594年に松を産んでおり本人も 美人でそう明だったと伝わることからある 日を境に家康の口愛を勝ち取ったと見られ ますタテルは18松平と呼ばれる三河の 松平一族の1つで徳川16新相の1人にも 数えられる松平安田だと家康のエま優姫の 間の子の松平安直の後を継長沢松平家の 投資となりますが元々1593年の安直の 死後は生後間もない弟の松千代が継いでい ましたしかし松千代も1599年に 亡くなってしまったため手立てが長沢松代 だけの投資となり武蔵深谷一万国を了する 大名となりましたが直接ついだとする資料 もありはっきりとはしていませんこの頃 家康は秀吉死後自分の派閥を広げるため 初代名との縁組を進めたてるは7歳の時に 当時5歳の伊政宗の娘イは姫と縁組して おりたてるの運命をを決定付ける政宗との つながりを得ています関ヶ原の戦い後10 歳になった1602年には下桜5万国を 与えられると同時に元服し兄秀たから一次 をもらいたてるを名乗りました1603年 2月にはシの川中島12万国に稼働され ますが同時期には2歳の弟吉が回25万国 1歳の義信が日見と20万国を与えられて おり諸子として明確に区別されています それでも1605年には家康に変わり秀た が将軍となりたてるも樹のう言の少将に 人間松田たに次シトの伊政宗八たつ池田 照正と並ぶちとなりましたさらに家康が 秀吉性質ネネを死者に大阪城の豊秀よに 対し秀たへの挨拶を求め拒否されたさえは 13歳のたは将軍秀たの明大として大阪城 に行きひよりと見しています当時は兄の 武田信義が1603年に亡くなり尾清洲の 領松田たは病気がちだったことからたてる がこの大役を務めたと見られますがこの 背景には母チャーの壺と豊家の繋がりが 関係している可能性がありますチャーの壺 はネネと交流があったようで手立ての大阪 城途上前の1605年正月にはネネやその 情郎構造スと共にチャーの壺がが今日の ネネの屋敷にいた記録がありその後もネネ は家康の移行を探るためチャーの壺を頼る など両者は深いつながりを持っていました こうした縁もあり豊富徳川の繋がりが崩れ かねない状況でたてるが大阪城訪問を任さ

れた可能性もありやがて1607年に勇紀 秀康松平たが亡くなるとたてるが家康の この中では秀たに継ぐ年長者となり豊富伊 との繋がりもあり大きな存在感を放つよう になるの です越後を漁師伊大久保とつがるも幕府内 の争いに巻き込まれるエチゴ時代の たてる1609年には幼少期からタテルを 育てた水川ヒテや山田茂松平清浦長沢 松平家の古くからの家臣が家休み対し たてるの初行不良を訴えるという事件が 起きていますこの事件は高成手だての祖母 エピソードとして語られますがこれは 手立ての問題というよりジーの壺のセプと の娘の向こで手立ての過労となっていた 花井吉成との対立の結果とされ家康も花派 を擁護するたてるの弁名を聞き入れは花派 を処分しましたそもそもたてるは川中島 領主時代は両国入りしておらず両国統治に 当たるかしと衝突する可能性は限りなく 低くたてるのエピソードには悪意のある 捜索が入り混じっていることがほとんどと 言えます当年には石田三成の長女の向こ 山田勝がチャーの壺の縁でたてるに過労と して使えていますまた同時期にはネネの 情郎構造スが三成の娘でネネが保護してい た竜姫を連れて江戸に下り姫は津軽家腰 入れ構造スはチャーの壺の老女になるなど 手だてのトヨミ人脈も機能していました 手立てるは家康から目をかけられいい直後 中対立に苦しむいい直かにって彦根への法 が計画されるも隣国越後の堀市が1610 年に海域となったことで旧堀量を稼働され 45万国とも65万国ともされる大量師と なり越前松田だけと共にかが前だけを 抑える役目を任されました手立てるは当初 は堀市の福島城を挙上としていたものの やがて1614年に新たに高田城を築き 拠点を移しており高田城は伊政宗を中心に 天下部で大規模にに築上されていますこの 高田城築上時にはチャーの壺が構造層コチ 通電の元に派遣し方位の吉興を占わせてい ますただし越後の領主になった頃から手立 てる本人の意思はともかく幕府内で伊政宗 や大久保長安大久保たかといった真たてる グループとでも言うべき括りが出来上がり 幕府内の権力闘争と合わさりひただの将軍 権力を脅かしかねない存在と警戒される ようになります1613年に亡くなる元 武田臣大久保長安は大館として広大な領地 に加え金山の管理に携わるなど絶大な権力 を有し手だての過労も県人で務め領内の 統治事務を担当するなどたてるとも深い 繋がりがありました長安はたてるを通じて 伊達政宗とも交流を持ち幕府内では小田原

上手の大久保たを寄り親としておりたと 本田正信正親子の対立ではただてる グループはた地下派に属していました本田 大久保の対立は1612年に本田正が背か の岡本大八が正の名を持ち出し九州の大名 有馬春信にワイロを要求し処刑された岡本 第8事件で失敗したことでたか有利に傾き 本田親子は挽回の機会を伺っていました 一方で大久保一派の権力拡大はタテルの 勢力拡大ひてはたてるがひれたに並びうる 可能性も秘めており家康その復の藤堂高 とらも大久保一族たてるグループの勢力 削減を図りその結果が1613年の大久保 長安後に長屋の不正が暴露された大久保 長安事件とされます大久保長安事件により たてる政宗田地本人は影響を受けなかった ものの長の則遠石大名が処分され長安一派 は壊滅に追い込まれておりこの件は生前の 長安から医療目録を受け取りながらも無視 して事件に介入した東道高虎が策したとも されています大久保長安事件を景気に本田 親子は復建を進めていき1614年1月に は突如大久保田地が解役となりましたここ でもたてる政宗は表向きは連鎖していない もののたてるグループは枠府中数では壊滅 させられることとなりますまたたてる グループの4名をつぐもとしてキリスト教 の保護者理解者という立場があり特に伊達 政宗は1613年に家臣長倉常長を スペインへ派遣するなどキリスト教を通じ た海外貿易に積極的でしたただてる グループを狙い打ちにしたわけではない ものの家康は岡本第8事件をきっかけに 1612年から1613年にかけて キリスト教近教令を発布しており1614 年には元キリシタン大名とて有名な高山 ウコが国外追放されるなどキリスタン弾圧 が進んでいきます近況令は反秀た勢力が キリスト教を媒介に手立てのもへつがる ことを防ぐ目的もあったと見られますが キリスンたちは豊家のお膝元で幕府の権力 の及ばない大阪に集まりましたそして 1614年の方向寺証明事件をきに豊富 徳川の回線が現実のものとなると元浮岳 筆頭過労の切下さ明前島を始め多くの キリシタン武士が大阪城に入場しています この当時秀たは将軍と言っても家康抜きで 権力を確立できていたわけではなく着男 家光も表向きは性質豪の子でありながら 実際はめかけの子であった可能性が高く豪 の実施たなとの関係に不安を抱えるなど不 安定な立場にありました手立てる自身に秀 たにとって変わる野があったかは定かでは ありませんが大久保長安大久保たかという シたてる勢力を失い挽回のために盾豊富と

繋がりかねないたてるの存在は特に秀たに とって脅威でありただてるの悲劇が始まる こととなり ますさしてる罪もないまま解役に追い込ま れる在処分に手立て海域の 深層大阪冬の人では義兄弟で過労の花義成 の子花モドが一部のたてる診断を連れて 散人したもののたてる自身は江戸留水悪と されこれを不服に思ったのか高田にいた たてるはなかなか江戸へ行かず伊政宗の 説得でようやく江戸に向かっています家康 秀たが出陣する中万が一2人が戦事したら 家康の子で唯一成人している手立てが徳川 けを仕切るよう分散しただけとされますが 手立てがトヨとけキリシタン勢力と 結びつくのを恐れた末の処置ともされます 実際この時豊とも関係の深い石田三成の娘 向こ山田勝は手勢は出陣したものの本人は 病を理由に出陣しておらず豊美との関係性 はある程度考慮されていた可能性はあり ます冬の人では家康による政宗タテルの 引き離し工作も行われており政宗は藤堂 高虎の管理していたゆ上島10万国を冬の 人公和締結直後に息子秀宗宛てに与えられ ており大した武幸もない中で大阪の人全体 で見ても最大の画像を受けていますたてる は夏の人には軍勢を率いて出陣し伊政宗 水野勝成と川口を進む家康秀たとは別に 大口の大将として五藤ま佐信と同名字で 戦いましたがこの時秀た馬まり州殺害活線 への地山という2つの罪を犯し処分対象と なりましたたてるは大阪へ向かう途中の大 森山でたてる家臣が秀ただ馬まり州の長坂 のぶとを殺害してしまいその後の戦いでも 手立てる自身は戦うことなく後方で大阪城 落城を見届けるのみとなっています資産の 件は1方面軍の大将は自ら戦うよりも後ろ に控えるのが普通で同明寺の戦い天王寺の 戦いで満一徳川軍が敗北した場合は後ろに 控えたたてる軍が崩れる軍勢を支え難しい 撤退戦を引っ張る役割を担うこととなり 海域にになるまでの罪とは言えません ただし長坂信殺害に関しては伊政宗の所場 にも解役の原因だと記されており主君の秀 ただの権威を傷つける行為であるため事件 単体では解役処分は見合わないものの たてるを警戒する秀たをたてる排除へ 向かわせる同機には十分なってしまったと 考えられます大阪の人終結から4ヶ月後の 9月23歳のたてるは家康から今後一歳の 対面を禁じる胸の死者を送られ後付藤岡で 地居することとなりましたやがて家康は 1616年に病床につき秀ただや御三家の 面面も寸far場へ駆けつけましたが家康 の市の一月前の3月にはチャーのつが

たてるに連鎖して謹慎となっていたからか 家康はアチの壺を返して改めてたてるに 気絶を申し訳ており家康存命中に手立テル の解役も決定していたとされます手立ては ついに家康が亡くなるまで対面することは 許されず家康の死の3ヶ月後手立ては海域 の上伊浅間に理財処分とされましたこの時 性質のイハ姫は子がいなかったこともあり 伊に戻り政宗も連鎖することはありません でしたが秀たは政宗を信用していなかった ようで初代名に命じて薄い関所や江戸周辺 の入口を固め満一に備えています手立ての 解役により家康の子供たちで残ったのはた と吉信ふのとなり秀たは20歳以上年の 離れた弟たちを将軍家を支える御三家とし て整備し自身の権力を安定させました タテルは1年半後の1618年に日高山班 の金森しよへ預けられますがこの時たてる は自分に罪はないのだからこのまま死を 賜るべきだと応じず死者の近藤ひもらから とにかく将軍に陳謝すべきと説得され ようやくひに赴いてい そして1626年には井からシの諏訪の 諏訪寄り目ずに預け替えとなり諏訪市は 高島城に南のを増設しここを手立てるの 拠所とし手立てるはここで反世紀以上 過ごすこととなりました1621年には チャーの壺が72歳で亡くなり1632年 には手立てが即日との間に儲け圧犯預かり となっていた息子徳松次い立てる自身も 南房展開などを通じ面を丸しましたが 聞き入れられることはありませんでした 1661年には伊達家に戻っていた元性質 彩姫が1671年には4台将軍徳川イツの 時代になり家康の子で最後の生き残りと なっていた10歳年下の紀州徳川家の徳川 よりのがなくなります1680年には徳川 家なさえもなくなり海前のたてるの様子を 知るものはほとんどいなくなる中ルザ分 から67年後手ては代将軍徳川綱良の時代 8代将軍徳川義宗が生まれる1年前の 1683年に91歳で不遇の障害を閉じ まし た最後まで動画をご覧いただきありがとう ございました参考文献は概要欄に記載して おりますこの動画をいいなと思って いただけたら高評価チャンネル登録をお 願いしますこちらのをタップして いただけるとチャンネル登録できます Twitterウェブサイトでもたくさん の日本史情報を発信していますのでよかっ たらチェックしてみてくださいね

35 comments
  1. 秀忠の次に年長の松平忠輝と舅の伊達政宗の繋がりが、家康亡き後の秀忠政権に与える影響を鑑みたら、「泣いて馬謖を斬る」では無いが、忠輝を改易して後顧之憂を無くしたのだろう。
    赦免が無かったのも、後の家光・家綱政権も才気煥発な忠輝を赦免したら不安だったのではないか❔

  2. 忠輝はあまりにも不憫ですが、忠輝が家康死後に秀忠と共存する未来が見えないのも事実で正しい処置だったんだろうなと思いました…

  3. 忠輝が改易されたあと、佐渡金山の積出港出雲崎町が明治まで天領に、長岡藩など小藩が次々と立藩し、忠輝の領域だった松代に真田幸村の兄信之が回されました。忠輝改易から明治維新まで一貫して国替えなしだったのが、長岡藩の牧野氏と松代の真田氏ぐらいでした。

  4. 性格で身を滅ぼしたにせよ、せめて御落胤などがいて、旗本復帰みたいな流れが有ったら…

  5. 徳川幕府体制の見せしめだと思います、親類縁者に対しての厳正な処罰、外様大名達に対しての見本となす

  6. 越後高田藩主、75五万石の大名ででござるが、越後高田75万石改易されて、伊勢に流罪、飛騨高山藩、金森家に、預かり、信濃諏訪高島藩に、預かり流罪、後に信濃諏訪高島藩を脱出して、後の吉原の用心棒、曲輪幻之介に、名を変え、生きていたでござる、徳川無頼帳!

  7. 「独眼竜政宗」の真田広之の忠輝が印象深い。父の家康役は、津川雅彦。あの忠輝は心の中では父を慕っており、家康もまた、自らの死期が迫る中で忠輝に会いたいという気持ちを殺して面会を拒んだ場面は切なかった。

  8. 自害させられた家光の弟と比べると、まだ優しい。
    家康が最後に面会謝絶してくれたおかげなのかな😿

  9. 現在絶版中の隆慶一郎著「捨て童子」が読みたくなってきました。
    陰険な秀忠でなく陽気な忠輝が将軍だったらと想像してしまう。

  10. 91歳まで生きたんですね。他の短命だった諸氏と比べると不遇だったとは言えない気がします。91歳の長寿を全うしたことは幸福な人生だったいえるでしょう。ストレスが多すぎればそんなに長生きはできません。

  11. やはり、伊達政宗の娘を娶り野心的な政宗が義父だったことで、痛くもない腹を探られたような気がします。
    秀忠に唯一の対抗できる存命の成人男性というポジションも、不運でした。年少の3人の弟のように年が幼ければ、逆に共に徳川家を盛り立てて行く存在として、秀忠も寛大に接したでしょう。忠輝の立ち位置のため、彼を中心にする勢力ができてしまい、そこに政宗、大久保長安らが加わり、無視できない集団となってしまい、秀忠側は脅威に感じた理由も頷けます。そのため、勢力を削ぐ目的で長安事件を利用したのでしょう。大坂の陣でも、豊臣家やキリシタンと結ぶのを恐れ、忠輝を江戸留守居役としたのは、万が一の家康秀忠の死を想定してというより、災いの種を早めに摘み取ったように感じます。忠輝にさほどの野心などなかったかもしれないのに、気の毒になります。改易後も綱吉の時代まで生き、91歳での死とは驚きました。預け替えとなった高島城での日々を、どのような思いで過していたのかと思うと、ちょっと切ないですね。

  12. 皆川から直訴されたのが大きいような
    育ての親に無理と言わせてしまうと

  13. 秀忠は武断統治した。自身が弱いから自分より強い奴を潰しまくったのかも。

  14. 次世代指導者の脅威と不安。

    戦国末期に現れた覇王織田信長級の器の持ち主の奥州王伊達政宗→イスパニア(✝️)→ローマ法王→ローマカトリック信徒
    +家光🆚忠長後継者争いと…再び日本が不安定化しやすい環境が出来ていた。どうする家康でも繰り返し、戦国時代には戻してはならぬの決意は家康→秀忠と確実継承されての処罰だろう。秀忠→家光と安定した権威権力の移譲で江戸幕府は磐石となった。260年の安定した日本。 もし…忠輝が将軍就任してたら…どんな事になってだろうか?奥州王伊達政宗の野望の成就か。鎖国が無い、国際的な🗾も中々の世界。

  15. 容姿と母の身分が原因で愛されなかったと言われたところは兄秀康と似ている。本人たちも非がなかったとは言い切れないにせよ、秀康と言い忠輝と言い、家康は変に我が子に冷たい感がある。「どうする家康」よりも冷酷だったのかもしれない。

  16. 家光と頼宣、義直の関係とか取り上げて欲しいですね
    やけに険悪なイメージがあるので

  17. 91才まで長生きしたのなら、家康が改易しなければ、伊達政宗やら幕府重臣に担がれ何かをやらかしたでしょう。秀忠では抑えることが難しいと家康は考えたのでは。

  18. 個人的には葵徳川三代のイメージが強くて忠輝はただただ家康に嫌われていた印象でしたがいろいろと遠因があるようですね、そういえばどうする家康には名前すら出てきませんでしたねw

  19. 家康の息子の忠輝
    結城秀康の息子の忠直
    秀忠の息子の忠長

    同時期に粛清されてて紛らわしい。

  20. まあ、こうやって、やれるうちに きちんと不安要素を排除したから 250年続く政権を打ち立てられたのかなぁ。

    でも、個人的な気持ちで言うなら、大久保一族は排除したんだから許してやれよ、って思ってしまいます。

    63万石の石高が不味かったのか、義父が怖かったのか、それとも秀忠の力量が家康に比べどうしても不足してたのか………

    91まで軟禁というのは不憫だよなぁ………

  21. 外戚が伊達家というのも不幸
    天下への欲望を隠さない家だった
    忠輝及び嫡子を介して簒位を恐れていた
    伊達家が経済的に弱体化した事で脅威が下がり幽閉から解かれる

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