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本日の主日礼拝は10:30-11:30の短縮プログラムです。オンラインで私たちとともに神様に礼拝をささげたい方、大歓迎です。チャンネルは礼拝開始15分前から開いています。開始5分前には会堂内の音響が流れ礼拝に向けて、堂内の皆様とひとつ心になって備えることができます。ともに主を礼拝しましょう。説教要旨は以下の通りです:
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2023年5月21日 主日礼拝説教要旨
説教題:『イエスの「戦略」』
聖 書:マルコ4:1-20
「どう生きたらよいのか 思い悩んでしまう 私たち人間が この地球上にあらわれるはるか昔から ただひたすら 生きるために生きてきた植物。 彼らの声なき声に 耳を澄ませよう。 聞こえてくるのは 私たちにつながる いのちの歌」。これはNHKEテレで不定期に放送され、一部にコアなファンがいる教養バラエティ(!)『植物に学ぶ生存戦略 話す人・山田孝之』の冒頭のナレーションである。因みに聞く人は今春から『ニュースウォッチ9』のキャスターとなった林田理沙アナ。二人のなんとも言えないやり取りが「ジワる」のだ。
閑話休題。「イエスは清浄無垢で真正直、この上なくpureなお方」と考えている人は一定数いるかもしれないが、それは彼の一断面に過ぎない。それどころか今朝開いた箇所、即ち「種まきの譬え」としてよく知られているたとえ話とその解釈は私たちにイエスと言うお方の持つ戦略性や大局観について教えている。以下彼が譬えで語った目的と種まきの譬えの真意に迫りたい。
Ⅰ.隠し、試すために
「例える」ということは普通語る内容をわかりやすくするために用いる技術である。一例を挙げれば「パソコンのメモリっていうのは、、、まあ作業机のようなものですよ。机が大きいほうが、いっぱい本を出せるでしょう。だからもう少し増設した方がいいと思いますよ」と言った具合に、最初に未知の情報について語り、そのあとに聞いている者が既に知っていることに例えることによって理解が進むという流れがある。だがここでのイエスのたとえ話はその真逆である。もちろん語られたストーリー自体は当時の人々の日常生活と密着していたから、船上から語るイエスの「お話」自体はみな理解し、納得もでき、楽しむことも出来たろう。しかしいわゆる「そのこころは、、、」については解りようはずがない。イエスはこのようにして、多くの群衆に真理を隠された。ご自身が「あなたがたには神の国の奥義が授けられているが、ほかの者たちには、すべてが譬で語られる。」(四・一一)と言われているとおりである。またイエスは譬えで語ることにより、この話の意味を探求しようとする、即ち「聞く耳のある者」を探されたとも言える。こうした姿勢はまさに戦略的であり、単純無垢とは対極のものであると言える。
Ⅱ.宣教の現実をレクチャーする
ではこの「種まきの譬え」の意図は何だろうか。よくある解釈は種が蒔かれた四つの「土地」に注目し、「わたしの心はどうだろうか?」とか「いなくなったあの人は、、、」といった具合に適用していくというものだが、それはこの譬えの急所ではない。それはイエスがこの譬えの解釈を披露した相手が誰であるかを考えればわかることだ。彼らは十二弟子であり、またこの譬えの真意を理解しようとする、「聞く耳のある者たち」、即ちイエスの弟子たちだった。彼らはイエスの生涯においても、またペンテコステ以後の教会においても「種蒔く人たち」であった。つまり、イエスはこの譬えによって福音宣教に取り組む、みことばの種を蒔く者たちに宣教のリアリティを教えられたということになる。因みにパレスチナの種まきは日本のそれとは好対照で、歩きながら首や肩にかけられた袋に手を入れ、ひとつかみとっては蒔き、それから耕すという。だから道端や、石地、あるいはいばらの中に落ちるものも出てくるし、当然それらは実を結ぶことはない。だがその中で良い地に蒔かれた者、即ち御言を受け入れた人々は、やはり祝福された人生を生きることができる。そう考えていくと、これは宣教者にとって励まし以外の何物でもない。
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今年二月のこと。ライブ配信のお手伝いのためにと苫小牧福音教会を訪ねた。山手町でも使っている可動式のカメラと会衆の賛美の声を集音するマイクの設置などをやったのだが、その時会堂後ろの壁に苫小牧市の地図と、「苫小牧に福音を満たそう」という文字が躍っていた。聞けば戸別配布で水草牧師お手製の『苫小牧通信』を配っているという。それを見て「ああ、先生は種まく人だなあ」と思い、深く感動した。しかしある人は「そんなの蒔いても誰が応答するんですか」「もっと効率的な方法があるのでは」と言うかもしれない。だがそうした小手先の「戦術」では主の負託に応えることは出来ない。ライブ配信だってそうだ。「毎週、感謝、ハレルヤやったっていったい誰が見るんですか。実際過疎放送じゃないですか」という向きも確かにあるだろう。だが今はこうしたIT技術により御言の種を全市いや全世界に蒔くことができる時代なのだ。良いものを用いて宣教に用いるのはある意味当然だ。今朝「譬え」と共に「解き明かし」を聴いた我々は間違いなく「主の弟子」。収穫の主に期待し、種袋に手を入れ、腕を振って、みことばの種をまき散らそう。我々に必要なのは農夫の忍耐(Ⅱテモ二・六)である。アーメン。