#12カンニング竹山・神田愛花100年ラヂオ商会 ゲスト:平井一夫さん

#12カンニング竹山・神田愛花100年ラヂオ商会 ゲスト:平井一夫さん



7月スタートのこの番組は、
ゲストのこれまでの人生を振り返り、これまでの忘れられない出来事についてお話を伺う番組です。
12回目のゲストは、平井一夫さんです。
#100年ラヂオ商会 #カンニング竹山 #神田愛花 #平井一夫

カンニング竹山です。 神田愛花です。この番組は創業 100 周年を迎えた田村政作書提供のも、毎回多彩なゲストを招きし、これまでの人生の中で忘れられない出来事についてお話を伺っていこうという番組です。田村政作書に 100 年の歴史があるように人に歴史やり、物に歴史やりそれぞれドラマがあります。さらにゲストの方に関わりが深いテーマを取り上げてその歴史にも迫ってまいります。 さあ、竹山さん、 この番組、これまで様々なジャンルのゲストの方に来ていただきましたが、今回のゲストは初めての経営者です。 うん。 なんかこれまでとちょっと違う雰囲気ですよね。 そうですよね。でもすごく楽しみにしておりますし、偶然ね、あの、こちらの会社のことをこの間だちょっと色々話してて、 すごいこうね、ことを日本でやってる会社だなっていうことを話したりとか、 え、偶然話、そんなこと話、 そういうことをね、偶然ちょっと話してたんですよ。まさかこうやって近い時にお会いできると思わなかったんで。 はい。 あとヒントだけ言うと僕の実家の家は小さい時からですからベータ派でしたから。 ということで本日のゲストは元ソニー会社代表執行役社長県兼 CEOの平井か和夫さんです。 はい。世界のソニーと言われるあの大きな企業のトップに立って会社や人を動かしてこられた方がどんな人生を歩んできたのか今回はじっくりお話を伺ってみたいと思っております。 ということで、CMの後は平井和夫さんの 人生の歴史、そして平井さんに関わりが 深いテーマの歴史にも迫ってまいります。 お楽しみに。田村制作所書プレゼンツ カンニング竹山神田花100年ラジオ紹介 。ここからはゲストの登場です。今回の ソニー社長の平井和夫さんです。平井です 。どうぞよろしくお願いいたします。 よろしくお願いいたします。では早速平井 さんのプロフィールを簡単にご紹介させて いただきます。平井和夫さんは1960年 、東京都杉並空までの現在64歳で いらっしゃいます。1984年に国際 キリスト教大学をご卒業後、株式会社 CBSソニーに入社。その後数々の養殖を 務められ、2012年にソニー株式会社、 現在のソニーグループ株式会社の代表執行 役社長兼に就任されると赤字経営が続いて いた会社を6年間で当時の過去左右に導き ソニー再生の立役者と呼ばれます。24 年にソニーグループを代謝され、現在は一般車団法人プロジェクト希望を立ち上げ子供の相対的貧困や若者への感動体験の提供講公演活動に注力されていらっしゃいます。ということで改めましてよろしくお願いいたします。 よろしくお願いします。 よろしくお願いします。 お願いします。 早速人に歴しるということでお子さんの時からの人生迫ってまいりたいと思います。 はい。はい。え、1960 年に東京都でお生まれになりましたけども、子供の頃は銀行員だったお父様のお仕事の関係でアメリカやカナダと日本を何度も生きされていたということですよね。 この海外と日本の往復生活子供の頃っていうのはどういう影響がありましたか? あの、今振り返るとですね、すごい自分の人生にとってはプラスになったなと思ったんですけれども、当時はですね、なんで私が海外に行かなきゃいけないんだろうっていうんで、結構やっぱりこう悩んでといますか。 うん。うん。 急に小学校に入れられて転候するだけでも辛いのにこも通じない。これどうしようっていうのでかなり苦労したので アメリカのどのだった? ニューヨークだったんですけれども、 それでかなり苦労して当時はもうなんで私がと思ったんですけど、ま、今振り返れば本当にあの非常にやっぱりいい経験させてもらいましたし、ま、自分の人生にとってプラスだなと思ったんですけども、ま、当時は結構悩ましたね。 親を恨みましたよ。 結構打ち解けるもんなんですか?英語もそんなにその喋れない小学生が向こうの小学校とから入るわけですよね。 どういう風なコミュニケーションを取ってたんですか? あの、最初は身ブ振り、手ぶりなんですけども、あの、たまたまですね、私が住んでたあのマンションアパートのですね、隣にあの、ま、え、私と同じ年のですね、クリスっていう男の子がいて、で、ジェンっていうお姉さんがいたんですけども、あの、声かけてくれて、それでミブリ、テブり最初遊んだんですけども、本当にお隣さんなんで、毎日のようにこう交流するようになってきたらば、やっぱり子供って英語すごい早くやっぱり習得できるんで、もう 1年ぐらい経った時はもうベラベラ英語喋 あ、そうです。生活できたんです。やっぱりそれはやっぱり子供の時ってのはやっぱ英語とか早いですよね。 はい。はい。はい。はい。え、ちょっと英語お聞きしたいんですけど、あの私元ソニー社長ですてちょっと言ってみてもらってもいいですかね? IustobetheCEOofSony はあ。さんも喋れるんでしょ? いや、私全然ない。今A 会話は教室で入ってるとこなんですけど全然やっぱ発音全然違います。 アメリカうまれじゃありませんでしたっけ? いや、そのイメージいいですね。私横浜生まれな。 あ、そうでしたっけ?あ、そうだ。そう。 てっきりっきりアメリカ生までどってます。僕もこで生まれてずっと勘違いしてまし。 いや、いや、やっぱすごいですね。子供の頃にあっちに行くと、ま、それはも必要に迫られてっていうのもあるんですか? ま、もう生活そのものですから。 はい。 その時にでもその少年の時に何かこう夢というかなりたいものとかそういうものってあったんですか?将来た。 ま、まだ小学校1 年生の時は何もなかったですけれども、あの、小学校 4 年生日本に帰ってきたんですけども、その時にですね、あの、 1 年間だけ、あの、私立のあの学校に入ってまして、毎日あの、東横子線に乗って学校行ったんですよ。 で、そしたらなんかこう電車に結構こうなんか憧れるようになってですね、あの東横子線のあの、 1 番前にあの、運転士さんいるじゃないですか。そこの後ろにこうずっと立って、あの、ずっと運転するの見ててですね。 これはもしかしたら俺はあの東急伝鉄の 電車の運転手になるかなっていうのも一応ありましたけども あ、東線は これはもう東洋子線もう東線指定で行きましたけども なかなか夢は叶いませんでしたけれども でもそうすなんかあれですねそのお子さんの夢ってま、ま、一般的に聞職業じゃないですか? その時はまだ社長とかそんな発想全くないです。 いや、全くそんな発想ないですよ。え、ソニーって発想も当然ないですから。 でも当時からね、平井さんが少年時代、小学校 4 年とか中学校時代からもうソニーはだってあるし。 企業だったじゃない。 でも、ま、まさか自分がそこに行ってのもう 1個もじゃム結びつかなかったんです。 いや、全くないんですけれども、たまたま私の父親と祖父がですね、大のソニーファンでうちに結構ソニーのテーブルレコーダーとかいろんなのあったんですよ。で、あの、よってもソニー SY っていうのなんとなく知ってましたし、なんかあの、いろんな面白いものを作る会社だっていうイメージはあったんですよね。 で、ま、テープレコーダーとかで遊んだりとかしたんですけど、まさかね、あの、何十年後にその作ってる会社の社長なるとやっぱり当然思わないです。面白い人生ですよね。それ機械に強かったとかっていうわけでもないです。 あの、ものを分解するのは好きでしたね。立てるのはダメですけど。だから何度分解しちゃった後にもうバラバラになった。それでうちの父親とか母親に怒られてどうしてくれるんだこれ?みたいな。すいません。組み立てばできません。分解やですみたいなことやってましたけど、ただ機械もは好きですね。 [音楽] へえ。 天才のお子さんて分解するってよく言います。ありますよね。まさにそれなんですかね。 でもやっぱり組み立てる方ができないね。分解するたけどちょっとあまりね、貢献になってないと思いますからね。 興味なんですよね。特に男の子の興味というかこれ中どうなってんだろうとか。そうです。そうです。どういう風にこれ動いてるんだろうかとかあのスピーカーにね向けてあのこっちから喋ってみたりとかして聞こえるかもしれない。 本当に繋がってんでもう本当に糸電話よのような感じで繋がってんじゃないかていう少年思ってました。ありました。 ちなみにその日本とそのアメリカナダとか生聞きしてますとその地球みたいなものを意識し始めるのって結構やっぱ子供の頃からなんですか? ま、あの意識し始めるのはですね、本当にもう子供の頃だと思うのはあのやはり、ま、言葉も違いますし、文化も違いますし、もう全てが違うってことと、あとは、あの、最初にニューヨーク行った時はですね、ま、今当然直行便ありますけども、当時はですね、羽田からハワイに 1回行って、ハワイで1 回止まってですね、止まって、あ をレイオーバーしてで、そっからサンフランシスコに行ってサンフランシスコからニューヨークに行くんですよ。 あ、そんなに経由してたんですか? もうだからね、何時間かかるんですかっていうぐらいで、もうですから私小学校 1年ですけど、それ覚えてますよ。 はあ。 で、あの、ハワイにあの最初に降り立ってそれで、あの、当時はね、まだあのジェットウェイじゃなくて、こう階段降りてきて、 [音楽] で、下にあの綺麗なお姉さんがいてですね、あの例をかけてくれてチュー意されて、 [音楽] 小学校1 年生の僕にチューするか君みたいな。ちょっとそれは印象に残ってますけれども。 はい。 それでサンフランシにその後行ってヨークですからね。もう何時間かかったんだって感じです。 そうか。全部だから7時間、7時間、7 時間ぐらいの そのぐらいのあれ。 そうです。そうです。だからやっぱりね、地球はでかいんだっていうのはね、小学校 1年生にはやっぱ感じますよね。 へえ。そこが違いますね。もうそもそも ま、でもそれで日本帰って来られて、で、ば、中学高校されて大学行かれてい そっからソニーと言ってもて音楽ですよね。 CBSソニーに入られるんですよね。 そうですね。CBS ソニー入れこと音楽業界の人になるってことですね。 協会の人になりました。はい。 ね、そバリバリそうですよね。シベストリってもうめちゃくちゃでかいのがあったのもレコード会社が。 え、それどうして急にその音楽業界になる? うん。いや、もうあの、私はあの、ま、趣味が大き 2 つあって車とそれからあとは音楽大好きでそれで、ま、卒業するにあたって、ま、大好きな、え、ま、会社に入りたい、要するに車とか音楽の会社入りたいなと思ったので、ま、あの、色々とあの面接とかさせていただいて、ま、あの、両方の業界の会社から泣いていただいたんですけども、 [音楽] ここがポイントでですね、あの、悩んでたらばうちの父に相談したんですよ、私が。 自動車業界がいいか、レコード会社がいいかたうちの父親がですね、ソフトウェアだと 要するに これからソフトウェアはいくらでも可能性があるからあの、ま、車が好きなの分かるし、それも素晴らしい業界なんだけれどもソフトエアの無限大の可能性があるぞかっていうのをうちの父が言ってくれてですね。 [音楽] なるほど。銀行員にそれを言われたかっていうんでですね。 そうですよね。え、どうした?なんか取引先の会社さんとかがこう色々たい。 ああ、そうなかもしれないんですけども、まさかそういったアドバイスを父親がくれるとは思わなかったんですけども、結構目から鱗でですね、あ、これはソフトだみたい。 それアドバイスをくださるお父様ではなかったんです。 あの、今まではですね、今までてかそれまでは基本的にはもうあの、好きなやってけと人に迷惑をかけない限りは何をやっても構わないし、勉強したければすればいいし、したくなくても別にそれは構わない。でも後で勉強しなかったと後悔しても私に文句言うなよっていう、そういうスタンスだったんですよね。 うん。 で、その父に相談したらばなんか的確なアドバイスが出てきたんで、いや、さすがお父さんなかなやっぱり人生やってるだけあるわなと思いましたけどね。 1980年代ぐらいの話ですよね。 1984年の入社ですから83 年ぐらいじゃないですか。 その、その時のお父さんでソフトウェアだって言って、 これからソフトウェアだと言ってました。 ええ、その頃竹山さん何歳ですか? え、僕はだからと多分平井さん [音楽] 10 個ぐらい下になるからまだまだ小学生とか それくらいの時ですよね。 あ、ソフトウェア感じてないです。 いや、何にもないですよ。何、ま、後に出てくると思うけど、だからゲームとかは出てきてましたよ、僕の時代。でもまだもうテレビゲームっても単純なもんだったから。 [音楽] うん。うん。ファミリーコンピューターみたいなこと。 うん。ま、のもちょい前かそれくらいかな。 ああ、そうだったんですね。 うん。でも確かにこうどんどんそういうものは出てくる時代でしたね。 よく言われたのはだからに言われたのが数いいか、あの 1 回曲を聞いたらばこれほど素晴らしい曲を聞いたんで、もう 2 度と新しい曲を聞かなくていいっていう人は誰もいないと。また新しい曲が出てきたらそれもまた好きになるし。 あの、じゃ、無限大にやっぱり可能性があるのがソフトウェアだっていうの、ま、説明されましたからね。 もしかしてなんかレコード会社で仕事してたんですかね、昔。わかんないですけど。 なんかそれ持ったのかもしれないですね。知識があった。 でもさ、C ベスに入って要はその海外アーティストの担当になるんですか? [音楽] そうですね。 あの、洋学関係の、え、マーケティングの仕事を、え、してたので、あの、アーチとかですね、ま、日本に来日された時に、特にあの、プロモーションで来日する時はレコード会社の、ま、あの、スポンサーで LIN させていただきますから、その時はレコード会社の責任を持っていろんなアーチの方々のそのいろんなイベントに行ったりとかですね。ま、それこそテレビ局に行ったり、ラジオ局に行って出演するところをこうサポートするってことをしてましたね。 当時じゃ、どんなアーティストをに迎えると? そうですね。 あの、最初に、え、私がお手伝いできたのガジェボっていう、あの、これイタリアのですね、え、レコード会社の、あの、アーチだったんですけども、 え、アイライクショパンっていう曲が、え、すごい流行ってですね。で、彼がプロモショナルにした時にサポートしてみたりとかですね。 あとも本当に色々とあのま、え、トですとかあのボズスキャッグズですとかジャーニーですとか、え、アースウインドファイアとか、ま、いろんな地図を、え、ま、あの、フルじゃない場合もありますし、面からサポートすることがあったんですけども、色々サポートさせていただいて、 ご自身のその入社のビジョンっていうのは何かあったんですか?やりたいこととか将来なりたいっていう目標みたいな、 あの、当時はですね、ま、結構コンパクトにまとまったんですけども、あの、ま、毎日会社に行ってそれで当然、あの、う ま、あの、自分の上司のり長が、その上に部長さんがいるわけじゃないですか。 部長さんですよ。部長さん。それでもう、あの、やっぱりね、部長さんってかっこいいじゃないですか。 いや、頑張ればもしかしたらば俺はこの部長になれるかもしれない。それに向けて頑張ろうっていうことは一応あの自分には入者社当時聞かしてましたけど。 あ、じゃ、上にこう上がるというのが一応難 そうですね。一応ま、あのですから外国部、外国部ですよの部長になればこれはもうラッキーかなぐらいに思ってましたけど。あ、 へえ。 けど音楽業界からそっからコンピューターの方てかゲームの方にソニーコンピューターエンターテイメントアメリカに出行され事業に携われるんです。これはどういうきっかけだったんです。 これはですね、あの当時の Play ationの、え、ま、会社というのはですね、ソニーコンピューターという会社だったんですけども、今ソニーインタラクトと言いますけども、当時はですね、実はソニー [音楽] musicと、ま、CBS ソニーですねと便会社だったんです。 うん。 だ、車内便ですよね。 それで、あの、よって半分の役員さんは CBS にそのミュージックから出てたんですよ。 それで私はアメリカにミュージックで不妊してたんですけれども、アメリカでプス ation を発売するっていうタイミングになって、 え、もう少し英語ができるやつはいないのかって話になった時にその、ま、あの、私の本当にもう大尊敬する先輩の丸山さんがですね、え、というあの、 [音楽] CBSソニーとあの、プ ation取締役両方任された方がいるんですけども、 平井っていうのがニューヨークにいるから、あの、あいつを使うと、あの、いいかもしれない。 で、 え、呼ばれてですね、ちょっとあの、プシの発売まで、あの、 9 月ぐらいに呼ばれて、それで、ま、年末戦まで、あの、ちょっと手伝ってくれたらまたミュージック戻っていいよっていう風に言われたんで、 私ニューヨークにいたんで、いや、ニューヨークから何なんか鳥々西海岸に行けるわけみたいな、なんかエグゼクティブな感じじゃない ていうんで、ちょっとノりでですね、やりますって手上げていったのが始まりです。 でもゲームのことは別に詳しいとかすごくじゃないわ。 へえ。 へ、 全くわかないです。 どちらかというと私は最初はあの、ま、元々ミュージックの人間ですからそもそもソニーミュージックとかソニーがゲームを始めるっていうのはよくそんなことやるよねっていう。 どちらかというとこのネガティブな方の人間だったんで、あの、ま、まさかそれがですね、プの、ま、仕事に携さるってこ思ってなかったですし、ま、その後にですね、アメリカの社長になるってことは全く想像してなかったんで、あの、ま、前撤開しなきゃいけなかったんですけど、なんでゲームやるんだみたいなこと言った平ってのちょっと今封印してますけれども、今行っちゃいましたけど、 でもその時平井さん、あれですよ、あの時代、え、ソニーってゲーム作るのつって、いろんな会社がアメリカの会場も含めああいう風なハードのゲーム色みんなできてきたじゃないですか。 はい。はい。はい。 相当やっぱりビジネス的には難しい戦いは難しい戦いのと始まったと思うんですけど、 あの最初はやはりですね、え、ま、実際に発売して実績が出るまではいや、ソニーがゲームやるわけっていうのやっぱりかなり皆さん思ってましたよね。 うん。 あの、く歴史もないですし、経験もないでどうやってやるんですか?こと結構言われたんですけども、ま、あの、実際に発売してみるとですね、やっぱりあの、ま、あの、県という天才がエンジニアとしてですね、設計したプ ation というプラットフォームが技術的な優意戦がすごい高かったのと、 あとはやはりあの最初に3D で、え、ゲームが楽しめるっていう 3D でポリゴンの表現楽しめるってこととやっぱりゲームが楽しいものがいっぱい出てきたってことでも一挙にもう え、スタートしたというか、もうアクセル全開で、え、ま、アメリカのみならず日本ヨーロッパで、え、立ち上がったっていう歴史がありますね。映画綺麗っていうイメージあるんですよ。プレステ atテ初めて見た時に 綺麗な絵だがっていうか、あ、ゲームってこんなになってくるのって感じありましたね。 うん。いや、私もですから、あの、 Play スお手伝いしろっていう風に言われて、じゃ、ちょっと貸してくださいと言って、当時のあのリッジレーサーをですね。 あ、懐かしい。 あの、遊んでみたらば、や、こんなことが今うちでできるわけ。はい。はい。 ああ、いう、ちょっと私もびっくりしたんですけれども、 え、じゃ、広めていくのに特に苦労はなかったわけですか? いやいやいや、あの、やはりですね、あの、これは、え、アメリカでやはり、あの、ま、当時は特にオンラインがないですから、あの、ま、ゲーム専門店さんですとか、家電販店さんとか、あの、ま、いろんなお店にやっぱり売ってもらなきゃいけなくて、それでですね、あの、 [音楽] 1 番苦労するのがやはりその展示スペースをどう確保するかなんですよ。 ああ、 もう限られた展示スペースでもう他のメーカーさんも前からやってますから、もう全部確保してるわけですね。そこになんとかこうプ ation のゲーム入れてくださいっていうのをやっぱり色とこう交渉しながらでこんなプロモーションしますからお願いしますよ。年末挑戦みたいなことでもう少しずつやっぱりあのお店とのやっぱり関係もやっぱ作ってかなければいけないのでゲームはいくら良くてもお店で売ってくれなければ売れないですからやっぱそこら辺はマーケティングと営業っていうのは苦労しましたよね。 [音楽] うん。 不思議ですよね。 それが今やもう本当にゲームの価値も上がってインスポーツがあったりそれでゲームで生活してる人たちもいて プロというもの出てきてそれもこの時にプステ ationなかったらそういう文化にはなってない可能性があるわけじゃないですか。不思議ですよね。だからさあここからはですね、平井和夫さんに関わりの深いテーマについて迫っていきたいと思います。 はい。 今回のテーマはもちろんその PlayStationです。 PlayStationはソニー コンピューターエンターテインメントが 開発したゲーム機ですけどもお話いただき ましたように平井さんはプレステの北米で の事業展開に大きく関わっていらっしゃっ たということで今回はプレステの歴史を 紐解きたいと思います。竹山さんもちろん プレステで遊んでらっしゃい。もうずっと ね遊んでましたし、もう今て数年前にあの 知り合いのあのま子供じゃないけどそれに ちょっとあのま年ですけどプレゼントに 買ってあげたりとかもうもはやねプレステ はねゲームじゃないんですよ。 ゲームだけど他のこともできるから はい。で、プレスト家にあっていいんですよ。 そう、そうなんですよね。え、まず 1989 年頃検査の指導で開発が始まりまして、当時車内ではお話にあったようにゲーム授業への進出に反対する意見が多かったんですが、 1992年6 月に行われた経営会議で当時の社長であった大典おさんがゲーム授業への入人を決断されます。 で、94年12 月右曲を経て初代プレステが日本で発売。 95年9 月に北米大陸とヨーロッパで初代プレステが発売され、日本と同じく大ヒットとなります。 で、たくさんPlayStation34 と発売されまして、2020年11月に PlayStation5 が発売されました。 うん。 この海外でも愛されるゲーム機となった理由っていうのは平井さんはどのように分析されてますか? そうですね。 あの、先ほどもちょっとお話しさせていただいたんですけれども、ま、技術的優意性がプラットフォームとしてあったということと、それからやはりですね、あの、その優意性をうまく、え、ま、ゲームの中に表現していただけるような、え、ゲームをですね、次々と、え、ま、車内のスタジオも作りましたし、あとはいろんなゲームメーカーさんがですね、やはり、あの、いろんなゲームを開発してくれて、で、それをですね、やはりあの、市場に投入することができた、タイムにできたってことと、あとはゲームの数がやっぱりあった、ライブラリーとしてあったてことがやっぱりすごい、 あの、は 強みだなっていう風に思いますね。 いろんなあのソフトの開発会社がプレステでこう置きたいってなってくるわけじゃないですか。で、やっぱりソフトがいっぱい楽しくないとユーザーもあんまり喜ばじゃないじゃないですか。それっていうのもだいぶ色々仕掛けたり色々こう手を打ってきたんですか?あのゲーム業界で [音楽] 1 番大事なのはですね、そのプラットフォームま、プ ationだったらPlayスプ2だ2だ のハードがですね、いかにロケットんです かね。要するにもう本当に加速度的に普及 ダイソが増えるか大事なんですよね。 ないと、あの、数がそんな普及してないですから、ゲームメーカーさんからしてみたらば数が少ないプラットフォームにゲームは作りたく、投資したくなるんじゃないですか。 だからやはり、あの、もう100万台、 200万台、300万台、500 万台ってことでどんどんどんどんやっぱり、え、台数を普及させてそれに対して、あ、そこまで普及してるんだったら投資しましょうよって言ってくれるような環境をプラットフォームダーっての作んなきゃいけないんですよね。 うん。 で、それはプation は本当に幸に、え、ま、日米でそれができたので、え、プ ation のプラットフォームも本当にゲームメーカーさんから大なサポートをいたっていう感じですよね。 うん。さんもプレステでゲームしちゃって仕事おろかになっちゃうみたいなことあるんですか? あの、仕事おろかにはなんなかったと思いますが、あの、確かにですね、え、私もあの、ま、リッジレーサー結構はまって遊んでたのと、それからですね、あの、これ発売とタイミングがちょっとあの違って、もうちょっと後だったんですけど、あの、最初のですね、グランツリスモはい。 が出てきた時はですね、ちょっとすいません。あの、仕事はちょっと置いといてっていうぐらい楽しんじゃない?なっちゃうぐらい。 車版が結構好きだった。 車好きですよね。それ大好きですね。でもね、やっぱり社長やってますから。あの、何やってんだって何一応商品のチェックしかだろう。そう。い 何を言ってんだ君はっていうぐらいで、もう自信を持ってもうプレイするってことやってました。 何を言ってんだみたいな。 楽しまれてたんですね。 さあ、田村制作レゼンツ 100 年ラジオ紹介。この後は田村政作書の歴史も掘り起こしていきましょう。 人に歴史あり、物に歴史あり、会社に歴史 あり、創業100周年を迎えた田村政作所 の歴史は未来への挑戦の連続でした。今に つながる田村政作所の挑戦の奇跡を紹介し ていきたいと思います。第12回となる 今回は時計の針を2024年5月11日に 巻き戻してみましょう。創業100周年。 そして挑戦は続く。 年5月11日島根県で生まれ育ち、単心 渡ったアメリカで技術者としての検算を 重ね、日本に帰国した田村徳松によって 田村政作所の全身である田村ラジオ紹介が 設立されました。 以来会社は特が掲げた経営理念。田村政作 署は必ずしも大会社になるを発せずれど その製品は世界第一流品たらざざるべから ずを下向きに追求しながらその歩みを進め てきました。 ラジオの販売からスタートし、トランス などの電子部品、切合技術、音声、通信 技術を極めつつ正しく立派な製品を 作り上げようと物づりに埋進すること実に 100年。 2024年5月11日に田村政作署は ついに創業100周年を迎えました。 東洋当時のラジオ及び電子部品の制作販売 から始まり、現在は電子部品、電子科学 実装、情報機器の3つの事業分野で様々な 市場のニーズに答える製品サービスを提供 しています。 その奇跡に深く刻まれているのは社員たち の絶ない努力と工夫。葛藤や衝突を超えて より良い製品を作るという心志しです。 それによって1人のエンジニアであった 田村徳松が開業したラジオ紹介は売上高 1000億円を超えるグローバル企業へと 成長を遂げることとなったのです。そして 創業100周年という大きな節目を迎えて もその歩みを止めることはありません。 これまでも田村政作所は時代の変化を 先取りした製品サービスを提供することで 社会に貢献する唯一無理の会社であること を目指してきました。 次の100年もコーポレートスローガンで あるオンリーワンカンパニーの実現に向け 良い企業文化を継承しながら激動する時代 の変化への挑戦を続けていきます。 さてこれまで田村政作所の挑戦の奇跡を 紹介してきましたが次回はいよいよ最終回 です。お楽しみに。ま、あっという間に エンディングのお時間になってしまいまし た。 ゲストの平井和夫さんと共にお送りしてまいりました。今回の 100 年ラジオ紹介山さんいかがでしたか? いや、あの、まだね、聞きたいことがまだいっぱいあったんですよ。 本当はね、これどうなんすかって聞きたかったんですけど、ちょっとで、その気持ち受け承まりました。 次回も平井さんにお越しいただけます。 ありがとうございます。ありがとうございます。よろしくお願いします。お願いします。平 さん、来週もお願いいたします。 願 それではまた来週お耳にかかりましょう。さよなら。 なら