【ゆっくり解説】名門を滅亡させた武田勝頼は無能なのか?通説で生涯を見て行こう!【長篠の戦い】

【ゆっくり解説】名門を滅亡させた武田勝頼は無能なのか?通説で生涯を見て行こう!【長篠の戦い】



「武田勝頼は無能」というコメントが多いので作りました。
ただし現状伝わっている通説(通説になりつつある三段撃ち否定含め)だけでも
動画時間が長くなってしまったので今回は通説だけに留めます。
また通説なので軍記、風説、俗説など様々な箇所から話を持って来ています。ご了承下さい。
次回は深堀編になるかも。

↓誰にも見られてないTwitter↓

#ゆっくり解説
#武田勝頼
#長篠の戦い

00:00 武田勝頼
00:48 四郎誕生
05:56 諏訪勝頼
08:26 義信事件
14:05 西上作戦
20:03 連戦連勝
24:29 長篠合戦
31:57 孤軍奮闘
39:55 甲州征伐

BGM:若林タカツグ
https://x.com/cocoa2448
https://youtube.com/@UCIHIFDHvA6loFvr1GwxCITA

かつての虎田玄の跡を継いだ武田勝よりといえばの遺産を食いつぶし武田を滅亡へと導い典型的な凡具な継者であり才的な織田信長と徳画家康安康の前に破れ家を滅ぼした武将として語らることが多かったしかしグという言葉で片付け られるものなのであろうか若き優勝に思い もよらず開いた武田患者への道そして 下げまれた敵の血筋だが時には大胆な采敗 で父をも超えたとされる第二代投手大前 だぶ活よりその姿を追えば従来のイメージ とは異なる人物像が浮かび上がってくるか もしれない父の意向の重さと周囲との圧歴 また変わりゆ行く時代の波に翻弄され ながらもおいを時代につなげようと試みた 若き大名果たして武田勝よりは戦乱の ただ中でどのような道を選んだのかそれで はこ宵い先じて現状伝わる一般論を買見 て行く天文15年1546年国乱席はまる 日の元において海国現在の山梨県で上手 から海の虎名をせる海原事武田市第19代 投手武田春信の神玄の4難として男事が 誕生した神玄の余難から要名を素郎と 名付けられ兄3人が太郎次郎三郎である ことから紛れもなく史郎は神玄の子供と 認識されていたしかしで見ていくと兄3人 とは明確に違う立場に置かれていたことが 分かる太郎吉信次郎の部下三郎信そして 白郎勝勝よりの美竹だけの通り寺である信 を持たずその意味にはあまりに大きな 意味合いがあったのであるそもそも兄3人 は神玄と性質の子供で勝よりの母は即質で あったのだがそれ以上に政治的な背景から 勝よりの生まれは武田着流とは異なり母方 の品の諏訪の違い皆に現れていたここで 勝よりにとって父方の買いただけまた母方 の品の素家の話をしておこう まずい竹田しは本源本の友川高内の先祖である本源本の八万 太郎義よえその弟本源の羅三郎光の末裔であるわ井竹だの家柄は高生で誠意象を排出する義龍の友やの弟分に当たる事名門と認識してもらうと分かりやすいかもしれないちなみに武田と同じく 信羅三郎 吉光のお家には平安時代から原の戦いまでひ国現在の茨城県を統治した家が有名であるそれしまうが原で役となった家は国に転される この際に佐は茨城美人を全て秋田に連れて 行ったため秋田美人が誕生して茨城は不量 になったと伝わるが他方面から叱られる べき与話であるまた秋田は平成令和の世で も県知事が末裔の佐の力差しであり現代に も現事のおはに脈凍結がれている話を戻し て信羅三郎吉光は日立国で勢力を 築づき上げ長男吉成の千筋が日立佐の外 なるそして三難よがひ立国武田号を本拠と して武田星を名乗ったのが武田市の始まり であるしかし着難清光が老石行為を行った ことで節友どもひ立ち武田号を追われて 海国へと配慮されてしまう以降同地に土着 した武田市は海原寺の早として勢力を拡大 同族として品の守合がらしなども排出する その後武田の本家は秋κεへと渡り武田は 所留とする説も有力だが今回その辺りの 説明は省いて進めるそして鎌倉時代南北町 室町時代と引き続き国を納めるも戦国時代 に入ると国内の有力国州集や守護台が対当 また外的の侵入を許しを言え騒動が勃発 するなど国内が混乱し18代投手のブトラ の第2は海国内を統一次に着難春信は強引 な司法で国内を統制して反発を招いた父の 信を関係にあるが今川の元へと追放し武田 第19代投資として家得を継承に圧力を 強めて品の所性力と結んだ父の政策をマク に転換外交でするが今側と相工場を和北に 導き高総三国同盟を結成するなど南の安定 に務める一方で父が品の勢力と結んだ有効 関係を吐棄して北の品の国現在の長野県に 向かって勢力を拡大させる対して品の素け はと言うと代々スは大謝の大法を務める 新刊武士の家計でありその執は神話の時代 にまで遡る原兵河には本源のよりに使え 鎌倉幕府のご家人として対当室町時代に 下ってもシ野の有力武士団として勢力を 築づき戦国時代には海国の武田信と同盟を 結ぶしかし前術の通り神玄がノブトラの 政策を転換すると天文11年1542年 神玄に破れた投手諏訪よりしげは自外に 追い込まれス量は武田軍に飲み込まれたの であるその分家の地を引くのが勝よりで あった母は諏よりしげの娘はご両人竹とは かつて名を結んでいたが神玄の家相続に よってその関係は決裂武田軍は力でを 抑えつけたものの品野の両国を安定して 納めるためにはスの家を乗っ取ることが 不可欠であったそこで神玄は自外に 追い込んだスよりしげの娘を即として 生まれた子供をスに送り込もうと格策した のであるこうして4年後誕生した勝よりは 竹だけの血筋を持ちながらも母方の素けの 宿命を背負うこととなるそれが意味とに 現れていた神玄と性質の子供である兄3人 は全て武田の通りであるの部を持ち大して 素郎に与えられた里は諏訪の通りである よりであったのださらに神玄の意を知って か知らずか武田中は敵であるスの姫を即室 として迎えることに根強い反対があったと されこれが高年の活寄りに影を落とすこと になる生まれながらにして父元と性質の元 に生まれた兄さ人と異なる血統を持つ 勝つよりは武田星を名乗ることが叶わずの 光継者としての道を歩むことになったのだ その一方で勝よりの妖明は4人目を表し また通り字を与えてはもらえなかったが 神玄の妖名であるカ千から人じ回り勝より と名乗っているところを見ると神玄は 勝よりを自らの子供であると明確に示して おり通字を与えなかったという表現よりも 様々な理由からではなくを優先したとする 方が適切かもしれないしかしこうした配慮 も報われず郎の誕生は内外で大きな反発を 伴ったのである活よりの末継承に反対する 諏心がよりしげの維持読みや丸るを要立し おい最高を目指して氾濫を巻き起こす神玄 はこれを許さず諏訪の半武田を徹底的に 弾圧して宿成ちなみに千代丸は神玄の姉の 子でありその後は武田軍に殺害されたや 各地に亡したなど諸説あるこのように品の 素は以前として危険だったため勝よりは 交付の筒が先や方で育ったというだが 勝よりの幼少期に関する記述はほとんど見 られずその成長家庭は謎に包まれている 確かなのは彼の存在が即の子という以上に 政治的に武田の中でも微妙な立場にあった ということだやがて武田神玄は南のに続い て北のも兵これに越後の上杉剣身が介入に 及び武田軍と上杉軍は長野凡地を巡る激戦 を繰り広げるそして武田軍はこの軽を人 段落させるとこれまでいた両国の晩弱な 支配に乗り出し戦争で屈服させた品の初刑 に竹だけの血を入れて怪獣する作を講じる 第64年1561年ついに勝よりは素家の 妙を次諏史郎勝よりと名乗る先の賞で語っ たように竹だけの寺のではなくスわけの 通りであるよをついだことは勝よりの立場 が示され強調されていたここで神玄の血筋 を用いた品の統地に軽く触れるまずのスの 勝りは元より次男の部下には北の小さ軍の 名族運の幸吉の姫をメトらせの市を継承さ せるこれにより武田は軍事力は有に及ばず 血を持って豊かな上田凡地を支配だが信川 は幼少より盲目だったことから高年の光継 者候補からは除外されたちなみにこの運の こそさ田市の本家である次に勝りと同じく 性質の子ではないご五郎森ノが品のあず軍 の西なしを継承から分かる通り五郎は 通理寺を与えられているこれは西母で神玄 の即質である油川殿が武田四流出身なので 五老は勝り異常に血筋に正当性がありの 通りが許されたと推測されるゆえに高年の 後継者候補として活よりと揃って長上がる また西母は不明だが新玄の3序は原兵河の 英雄の吉中の末裔を辞傷しやひに接する 国境の要所を支配する基礎吉正にとついで 武田は基礎を一問として取り込むことに 成功するそして勝よりは品の高の上手に 認じられたこれは単なる名目上のものでは なく実際に高領の支配を担っていたのだ高 一体はス龍が長年納めていたス量であり 同地を支配するために神玄は活よりを成長 させたのであるこの活寄り入場にあたり 逐場上手と知られた武田市天皇の信春が城 の回収を行って支配体制を整えたこうして 勝寄りは高の地において父元の移行を仰ぎ ながら独自の統治権を行使するまた幼少期 に続いてこの時代の活よりの同行を示す 一時資料は少ないが高建福寺で取り行われ た母はご両人の17会機や小野神社に盆を 奉能した記述が残されているついでA66 年1563年には後付け国ミノ城上めで ウ人を飾ることとなるサに立つ勝りは若き 猛章としての最格を見せ長野不ジ文庫が もみから変えるところを追撃にて組み打ち を行ってこれを打ち取るその後ミノは 城攻めにおいてもこを上げの血筋を払拭 するかのように父や家中からの評価を高め ていくそれ以降勝よりは神玄の戦の ほとんどに十分することとなったこうして ただけの若き武将として勝よりは素晴を 名乗りながらも有力な一問としての地位を 築いていくしかしその未来には決して平穏 とは言えぬ運命が待ち受けていたのだ A67年1564年の夏海の国に1つの 滅亡が巡らされていた武田神玄の着難吉信 を勝つぐ一波が密かに当手神玄の暗殺を 計画していたのである三木の中心にいたの は吉信の森役である重心オブ虎ラマこの 三望は虎ラマの親類武田市天皇山形正影の 密国によって路見しの知るところとなる よくA68年1565年未望に加担した オブトラマ正は処刑され彼に従った一派も こごとく宿成されたその後信源は家臣に 当てた諸上の中でこれはオブトラマの作望 であり親子のふわはないと釈名しているだ が事件の真層は闇に包まれたままであった 同年10月吉信は交付の投校時に有兵され 事実上の失客となるこの時は吉信の拝着を 決断できずにいた吉信の性質は今川吉本の 娘である霊勝員拝着すれば今川との関係が 破綻し武田に大きな混乱を招くからである 実際に武田と今川の婚姻同盟覇気は吉信 事件から2年後の出来事であるしかし吉信 をそのまま着難にしておくこともでき なかった吉信遊平の翌月信源は4難の 活寄りに当時西で飛ぶ鳥を落とす勢いで 勢力を拡大していた織田信長の幼女優勝員 を目取らせとの結びつきを強めたのである この優勝員は武田漁師なのと織田涼野の 国境苗ぎを納める東山市の姫で母は信長の 妹であったそして勝よと優勝員の間にはA 60年1567年11月着難太郎が誕生し ている後の武田最後の投手武田の部活で ある信長から見ると太郎は地がつがる鉄尊 また神玄から見ると実の孫にあたり武田と 織田の地を持つ男子が誕生したのだく太郎 誕生の1ヶ月前に武田吉信は幽兵先で死亡 している長男を失いはしたが神玄は孫で ある太郎誕生に大喜びし即座にさ田正幸を 派遣してのぶ活と名付けているこの記述が 正しければ勝寄りの着難太郎は生まれ ながらに武田の通りを与えられ新玄は吉信 事件の2年後には勝よの着難を武田着流と 定めていることになるすなわち信源は吉信 に変わって勝よりを後継者にすると決断し たのだしかし勝よりの光景がすぐに認め られたわけではなかった信源には吉信の他 にも性質との間に勝りの兄にあたる運の信 と西ほ信雪が存在しただが信は幼少より 盲目であり湿けし雪は妙弱で若字にして しまっていたまた即質との間に勝よりの弟 に当たる西名森の信村が存在した一説には 神玄の性質や一問集の多くは勝よりでは なく森を後継者とすべ動いたとされるが 森ノ部は勝よよりも10歳も若く未だ弱年 対する勝寄りは品の高党を晩弱に納めて ウ人より武を上げるなど最近溢れる若者で あったそこで神玄は素星を名乗るも4難と して勝よりに白の矢を立てて武田星に改め させ自らの光継者と定めたのであるさらに 元気元年1570年玄が将軍足化が吉明に 勝りの簡易需要を申請したものの何らかの 理由で着化されるという事態が発生する など武田の後継者を巡る問題はなおも決着 を見ず神玄が正式に活よりを光継者として 定めたのは吉信事件から数年が経過した 元気2年1571年が高より交付に勝りを 呼び戻した時と考えられるこうして勝寄り を武田光継者の知恵へ押し上げた吉信事件 通設や軍岐ではおけの戦いにより今川水体 を後期と見た神玄が東海を切り取るべく 今川両進仰を格策これに以前から勝寄りに 高を与えるなど父の方針に不満を抱いてい た吉信が性質の実家である今川を救うため 無本を計画ついに吉信事件が発生する そして3年後のA61年1568年玄は 無惨に着難をしに追い込んでまで目的で ある今川両進行を指導させを接見したとさ れてきたしかし実際には吉信事件以降も 武田と今川に法場を加えた三国同盟は維持 されているむしろ同盟破綻は今川宇の武田 に対するが景気になったに等しい整理する との戦いから飛躍した織田信長との身の間 の国境が接するにあたり敵退する利益が ない信源は信長との有効関係を築づいた しかしこれは今川宇ザを図計ずも刺激する こうした中で吉信が早期の家得継承を望む など何らかの理由で吉信事件が巻き起こり さらに今側を刺激することになったので あるここに至って内は2度目となる霊勝員 の変換要求また法場と共同して武田に 対する圧力で塩止めを行うなどの行動に出 ており同盟が破綻した末に信源は軍事行動 に踏み切っているのだよって信源による 今川両進行格策から全てが始まったとさ れる話は現状の一時からは見えてこない 一方吉信が有兵されてからの武田中は不穏 な空気に包まれていた事件後のA60年 1567年玄は過臣団の同様を抑えるため 北の小さ方軍の行島た島神社において両内 の家臣たちに中性を誓わせる気象門を奉能 させたこれは事件が武田過中に与えた衝撃 の大きさを示すものと考えられるまた吉信 の最後については諸説ある彼は投校時で 遊平の身となったがそのまま病子したとも 自害を強いられたとも言われているいずれ にせよかつて父の光継者として期待され 武田の未来を担うはずだった吉信の人生は 無念のうちに膜を閉じたのだったそして 武田が揺れ動く中で勝よりは破綻した高層 寸三国同盟の一角である相模法条士との戦 でも活躍62年1569年の武蔵国 滝山城攻めでは法場の過労もろか山代神と サ度槍を交え小田原城攻めからの撤退戦で ある激戦の見ま瀬峠の戦いでは狩りを務め たその際松田乗秀の過労従罪門の城と馬上 で一気打ちを繰り広げ千筋では正当な吉信 に劣るが武流では武田の名にはぬ戦いぶり を示しその名を意外にと轟かせた神玄率 引き入る武田軍は三川の徳川家康と同盟を 結んで今川宇ザを破りするを攻略神玄は 家康と今川給料を分割するも中間に位置 する等々身を巡って武田と徳川は対立また 要景いずれとも同盟関係にある織田は発砲 美人に立ち回り曖昧な姿勢を崩さずにいた こうした中法場では大代わりによりが針を 転換武田神玄とは牧士北関東への北信を 再開させたのである高古の礼をたった神玄 は徳川に対する大規模な進行作戦を本格化 させる 現3年1572年織田信長が機内周辺で 一前朝倉など反信長法位と一心一体の戦い を進める中海の虎武田神玄は食徳同盟に 対して牙を向くこれまで武田は小田の同盟 を維持しつつ徳川とは一色即発の状態に あったまた室町幕府将軍足川吉明戸東田 信長が権威向場のため各地の大名官の停戦 仲回を進めていた一環により武田は上杉と の和北木交渉が重ねられていたしかし神玄 は突如軍勢を北審させたのだ すなわち上杉への行の構えを見せての徳画安康の油断を誘ったのであるそして武田玄一斉 1 台の大草ついに世になか会い城作戦を発動させる高越の木を回してい信長は激怒し上杉に武田とは絶好すると上を送ったと伝えられる信長の噴をよそに新源は三川と見の攻撃を立案 武田軍総税2万5000は二手に別れ山形 正影引きる別道隊5000は9月下旬に 北審先の品の須からなんか徳川両奥三川に 入ると周辺国集を基準させほとんど無きず に流しの城などあたり一体を攻略家康安の 本量三川に遺憾なく部を示したさらに武田 軍主力と合流すべく等と進撃一方法場の 援軍2戦を含む武田神玄引きる本体 2万2000は10月上旬に海交府を出人 して山形隊と同様にスを経由しなんか途中 バ信春5000を別道隊として先行させ こうして武田軍総税2万7000は圧倒的 な兵力を誇り徳川の所上を次々と陥落させ ていった対する徳川軍は最大1万5000 を同員可能であったが三川山形武田別道隊 の進行により等の防衛には8000程度 しか避けず援軍として頼るはずの織田軍も 機内の戦に釘付けとなっていた10月中旬 バ安の巨上浜松の北に位置する幼少二股城 を放したこれを受け本体も二股城に迫る 家康は武田軍の劣下のごとき新軍速度を つめておらず偵察を兼ねて出人し本田 たかつに3000の兵を与えて先行させる も思いもよらず武田軍と接敵してしまう 他税に部勢と家康安は早々に徳川軍に対却 を命じたがバ場バ信春の追撃を受けて 本田勝が3000の兵で新狩りを務めた ここに三川から等頭身に転線していた山形 正影も合流し武田軍と徳川軍の初戦である 一言の戦いが勃発家康はただ勝つの活躍で なんとか浜松城へ逃げ延びるも徳川軍の 配送で終わるその後双股城に幸福韓国が なされたが上兵は織田の援軍を期待して これを拒否実際に織田のは武田軍による 二股城法位の知らせを受けると武田との 同盟覇気を正式に決断して農尾に残してい た小詰郎筆等作魔信森を壮大症とする 1万5000の援軍を11月中に派遣した そして武田軍は工場戦に移行するも二股城 の攻め口は大手門に限られその大手門も 写面にあり路上軍約1戦は血のりを持って 頑境に抵抗しかし妖外とは利点欠点を 合わせているもの厳線を控えていた神玄は 損害を抑えるべく力攻めを諦め給料場に 気づかれた二股城が水を得るために使用し ていた井戸ヤグを破壊12月中旬補給を 立たれた二股城は幸福し東国の北部は武田 の勢力化に入ったのであったこのような中 で食徳連合軍は新玄が次に浜松城を狙うと 見て老場だが武田全軍は二端股城攻略から 3日後の12月下旬あえて浜松城を素通り し三川に進むように味方が原大一へと 向かった 家康安動きを後期と捉えそれまでの老場を取りやめ織田軍と共に武田軍を背後から吸収する構えを取るこれこそが玄の罠であった味方が原大一地に到達した安康の目の前に現れたのはすでに攻撃的な魚輪の陣を敷き終えた武田軍万全の構えで待ち構まえていた玄に対し誘い出された安康はすぐに防衛に適した閣欲の陣を取るが武田軍の猛行によりまた琢間にがいいわずか 2時間の戦闘で特 連合軍は壊滅しもの王を失った 家康安康は過心なめ吉信の身代わりにより 辛くも浜松城へ逃げ延びるがその配送の 様子は一言坂と合わせて後に脱というお ヒれまでついて構成まで語り継がれること となったそして武田の光継者となっていた 勝はこれまでの一連の戦いで対象として 参戦を果たし勝利に貢献している通設では この武田神玄の正常作戦は反信長法位猛毛 に火事を切った将軍足川吉明の妖精に応じ たものであるとされてきたが近年の研究で は逆の味方が提示されているすなわち震の 進撃を間の当たりにした吉明が信長を 見限り武田と結ぶ決断を下したというので あるこの説に従えば吉明が諸国に信長討伐 を呼びかけるのは武田の勝利を確認した 元気4年1573年以降ということになる これにより窮地に立たされた信長は吉明に 偵や人質など幸福を申し入れたがすでに 完全勝利を見据えていた吉明は幸福案を 拒絶したのであっただが朝倉吉が高と翔平 疲労を理由に戦を放棄し国本越全国に撤退 を開始一方で味方が原の戦いを経て武田 神玄は等でいつ年よく元気4年1573年 に東三川へ進行し2月中旬に三川諸場を 攻撃する前後で越前朝倉鉄の方に接して 新玄は吉影を激しく避難するを送り付けた 以下一部抜粋した内容である二股城の不審 の中で徳川家康と光戦猿22日味方が原の 戦いで勝利し三川等未両国の軍勢と織田方 の火星一戦余あまりを打ち取り本位を達し たのでご安心いただきたい人に聞きました が気候の兵の大半が先線を離れて帰国した ことに驚いている兵を至わるのは当然だが 織田を滅亡に追い込める後期が到来した時 にそのような観用な備えでいてもろある のみでこうなどはない判断を謝ること なかれ朝倉吉を暗とする話はこの撤退と 滅亡時の撤退という2度に渡る軍事的大 失体がやり玉にあげれる確かにこの撤退が なければ吉影と信源が交わした織田ノびへ の強が実現し前術したように信長が吉明に 幸福を申し出ていることを加えて国田高傘 など度返しに置かれた状況から織田軍は この戦役で再期不能になっていた可能性は 否めないその一方で朝倉吉を擁護するなら ば公接は補給路の遮断であり表の枯渇また 滅亡につがった2度目の撤退では一問が 疲労を理由に出人していないなので今回に おける1度目の撤退も疲労は朝倉一問集の 内部対立と考えると撤退に追い込まれた 事案かもしれない何はともあれ朝倉軍の 撤退によって織田信長を破る最後の後期が 失われたのは明白な事実であるしかし武田 神玄もその直後健康状態が急速にあっか 武田軍は正常作戦の続行を断念し海への 撤退を決断するそして元気4年4月12日 の国稲軍場において戦国最強と歌われた 武田神玄はその障害に幕を下ろしただが 武田だけは直ちにその死を大けにすること はなかった神玄の移行が選挙を左右する中 家中は混乱を避けるため神が引居したと 発表し勝よりが家をついだと取り作ろった のだここで一旦神玄の遺言に少し触れて おくよく言われる神玄の遺言には自らの死 を一くとすること活よりはぶ活原服までの 中継にすること活寄りに損死の旗を継承し ないこと等々が伝わるがこれを詳しく記載 しているのが武田の軍用軍艦であるここ まで軍官の内容を取り入れつつカ寄りの 障害を追ってきてはいるが同群器の解説と 評価を本動画では避ける都合上よりに風林 火山の旗を使わせないなど遺言に関しては 一時資料から見えてこない話として触れず に進めるまた勝が家得を継承するにあたり その執から正当性が危まれて一問週と重心 から多くの反発を招いたともされ神玄は荒 ぬ混乱を避けるために活寄りを人代 すなわち生まれながらの光継者武田の部活 原服までの中継と定めたというよくこの説 に付随して話されるのが武田市天皇内藤 正豊の行動である武田大代わりに際して 正豊は勝に中性を誓う気象門をいち早く 提出しているその反面勝り側と喧嘩騒動を 起こすこれにより内藤正は元々反寄り派で あったので気象門を提出せざる得なかった とも逆に気象門と喧嘩騒動を分けた事案と して提出は中義からの行動とも意見 が二通り存在しているどちらが正しいかは 分からないという他ないが重心と活より近 が喧嘩騒動を起こす状況が存在したことは 間違いないまた死の一得に関しては関連 所上から神源の死の一得に務めている形跡 が見て取れるので軽く触れさせていただく 武田軍が正常作戦を断念し辻が先や方に 撤退した頃宇正が神玄拍子の真層を 確かめるべく伊部岡高設祭を派遣したこれ に武田は神玄の弟の信角が影者となり高接 を欺たとも言うしかし海の静寂とは裏原に 最国ではすでに武田神玄の噂が飛び交って いたそして選曲は大きく動いた信長は将軍 足川吉明を今日より追放し室町幕府は事実 上の消滅を迎えたまた一前朝倉軍も大海 からの撤退でそう崩れとなって滅亡信長に 続いて家康も奥川の回復を図り省略によっ て流しの城の奪還を果たした食徳連合軍は これまで抑え込まれていた鬱憤を晴らすか のように構成へと展じたのであるだが 勝よりは決して主勢には回らなかった天少 2年1574年1月開始なのするが漬け ひ田の5過国から3万の精鋭を招集し東江 と進行を開始そして勝り引きる武田軍は 岩村城周辺に進出4月に入ると内木城の 辺りに天在する織田方の所上を立て続けに 陥落させたこれには信長も機内の軍勢を 呼び戻し3万を引きいて自ら迎撃に向かっ たものの山形正影引きる6000の兵が 睨みを聞かせながら背後に回り込もうと すると信長は勝り引きる武田軍との決戦を 避けて撤退を選択したこうして東美野の 戦いは武田軍が約20人を及ぶ白を攻略し 織田信長に兵を引かせるという大戦加を 納めたのだこの戦いは紛れもなく神源の 光継者武田勝が初めて主導した戦いであり 嫁名月き果て信源でもなし得なかった織田 軍に対する勝利を勝ち取ったのである さらに勝よりの回進劇はまだまだ続く5月 勝よは2万5000の大軍を引き徳川方の 重要拠点である東海三天神へと新軍する 西城作戦の高天神は武田軍から放されたが 健状として神玄が攻略を諦めた城とも 伝わっているだが今回の勝りは迷いなく 行為を決断した城を守る上手小笠原の信は 必死に徳川家康援軍を求めるがイ康の兵力 は1万に満たず品野からの武田別道隊の 動きにも備えねばならなかった援軍を要請 された織田信長も京都の鴨祭りに出席して おりすぐには動くことができず6月中旬 信長の援軍がようやく岐阜を出人し遅れ ながら東三川へと到着していたしかしそれ はすでに手遅れであった白型の抵抗は 激しく約2ヶ月もの老上戦が続いたが次々 と浄格が陥落ついには本丸を残すのみと なり上手の武器は勝へ会場を申し出るこれ を受け入れたカ寄りは誰1人処刑すること なく幸福したものは武田に迎え機間を希望 するものには自由を与えたというこの肝大 な処置により活よりの名星は高まった戦場 をかける猛章としてだけではなく企業ある 名称としての直天下に示すこととなったの だしかしその一方で食徳連合軍の失体は 決定的なものとなった信長と言え康安天神 を救えなかったことで名星を大きく損い勝 の軍勢はさらに浜松城へと迫り浄化に火の 手をあげた神玄を超えた草2度の勝利で 勝よりはそう確信していたであろう神玄 すら相間見えられなかった信長を引かせ すら落とせなかった城を陥落させたお家を 継承してから約1年で連戦連勝この短期間 での成功体験は勝りに強烈な地震を もたらした臆病な食得連合軍など恐れる ことなかれだがこの勝利が後の悲劇の助賞 であることをこの時の活寄りはまだ知ら なかったのである天少3年1575年武田 勝は自らに背いた逆身を打つべく徳川両 三川と軍を進めた標的は徳川家康安康に 願った奥大平信正が立てこもる流しの城 かより引きる1万5000の武田勢は 長野城を放し猛を加える対する奥大軍は わずか500しかし彼らは200兆の鉄砲 を有し周囲を谷側に囲まれたこの城は容易 に陥落するものではなかった数日間の攻撃 で白の兵老グラが消出し流しの上兵の式は 大いに低下かよりは後でこの白が落ちると 確信するだが白方は一の望みを託し カシントリースネーモンをミッシュとして 岡崎城へと送り出した彼は三川に流れる カ差を潜り厳重な武田の警戒毛を突破 65km先の岡崎城へとたどり着くと織田 信長と徳川家康が3万8000を引きいて すでに流しの救援に向かおうとしていた 喜び遺産で城へ戻ろうとした鳥だったが 木前で武田軍に捉えられる勝よりは スネーモンに対して上兵に援軍は来ないと いえば著名して初料を与えようと訳するだ が鳥は城の木前で堂々と叫んだあと2日3 日で数万の援軍が到着するそれまで 持ちこえよこれには勝よりも激怒し門を その場で貼り付けにして処刑したしかし この中心の最後の叫びは老城軍の式を 古い立たせることとなる長野城救援に 向かう信長といえ安の軍勢は5月18日 下がヶ原に着人食得連合軍は4万人を 川沿いに配置し鉄砲隊を金めとした場暴作 を築づいたこの人系は当時では慰例の野線 逐場でありまさに武田軍の牙戦法を封じる ための夫人であったのだ一方勝寄りの陣営 では軍が開かれた山形正バ信春内藤正よ 仙台以来の名称たちは撤退を震信長や家康 が自ら出人している以上おそらく敵は万全 をきした大軍であろう無謀な戦いは避ける べきだとしかし勝よはこれを知り解け活戦 を決断する決断に至った経緯として流しの としたら原を阻む三画の地形上武田軍は 食得連合軍の正確な兵数や夫人をつめてい なかった説直接対決を先延伸ばしにして しまえばさらに国力の差が開くことを危惧 した説晩弱ではない政治基盤を維持するに は撤退が許される状況ではなかった説など 複数の説が入り乱だれ様々あるが前年の 連戦連勝から見るに勝よりは相当な自信を 有していたのではないかと考えられるまた いずれかの説に絞れる程度の単純な事柄で はなく全ての要因と事象が重なった末の 決戦判断と見るべきであろう5月20日の 深夜信長は徳川の重心脱ぐに明治2戦の 鉄砲隊を引きいて武田軍の背後を守る 飛びガ山砦出を寄襲させた酒は夜明けと共 に砦出を襲撃し次々と武田軍の拠点を陥落 させるしかし勝よりは流しの城を牽制する ために3000の兵を残し主力を引きいて 下が原へと向かっていた5月21日ついに 戦いの幕が上がる武田軍は食徳連合軍との 間を遮切る川を渡り信長と家康の陣営と 迫ったのだ勝よりはイ戦上手の山形バ場 内藤浦主力精鋭を左右に配置し中央に一門 集と自らの本人を置くと武田木隊が先人 切って突撃を開始しかし彼らの前には無数 の場防作と鉄砲隊の重厚が並んでおり信長 は迎撃しながら一戦または3000兆の 鉄砲を配備し射撃を行った激しい銃弾の嵐 が突撃する武田勢を次々と貫いていく 抜けるのだ全身せよ山形正かが叫び馬を 狩るだが正影の最強を誇った赤へもまた 激しい鉄砲の前には遺かともなしが高く 山形勢は玉砕影は内にして果てたこれは 後年徳川が自らの部を称え家康安の軍岐は 元より織田の身長後期や武田の軍である 工葉軍艦などを参考にし描いたとされる 流しの活戦図部なので私実に即していると は言えないものの山形正影が突撃の末に内 に泳ぎなくされ臣が主軍君の首を取られ まいと正影の首を持って交代する姿が描写 されているそして食徳連合軍は構えを数 抜かれながらも先線を崩さぬまま次々と 武田勢を撃破午後には武田軍の人系は完全 に崩壊しそう崩れとなる飛びガ山砦出の 陥落により太路を立たれたこともあり武田 軍は壊滅的な被害を受けていたここに至っ て勝よりは全軍撤退を命じるも長野の戦い は武田軍にとってみの敗北となったなぜ これほどの精鋭を用した武田軍が大配を キするに至ったのか戦いが始まる稲ナや 武田軍の牙隊を含む足軽が川を渡り食徳 連合軍の陣営と猛進しかし前術の通り想定 をはるかに超えた防御人が待ち構えていた 信長はサに場暴作を築づきそこに3000 兆の鉄砲を配置通設では織田軍が3段内ち の連続射撃で武田隊を撃破したとされる しかし実際はその戦術の実在に20年前 から疑問が投げかけられているそもそも3 段の根拠となる資料がお勢保安が江戸時代 に記した身長期にありこれは食法の過心で ある太田牛が記した身長後機をさらに軍と して飛躍させた書物である身長後期自体も 一時資料とは呼べないものの心境性が高い とされそこによれば鉄砲は3000兆では なく1戦となる仮に織田軍が尋常ではない 訓練を積んで3段打ちなる戦術を取れたと しても通とは駆け離れた小規模なものだっ たであろう一方で武田軍にも鉄砲隊が存在 したがその数においては織田軍が確実に 上回っており信長が組織した鉄砲隊が 大きな脅威であったことは間違いないまた 武田軍が朝から昼過ぎまでの数時間鉄砲の 射程内にとまり途切れることのない銃撃に さらされ続けたというのは通りに合わない そして武田隊についてはこの戦いで食徳 連合軍が場暴作を構築していたことや直前 に徳川家康が過当てに作などよく念を入れ て構築するように馬筋に突入してくるぞと いう死の処上を発していること身長後期に 関東は馬の扱いがうまくこの時も馬を使っ てかかってきたと書かれていること実際に 参戦した徳川家臣の日に武田の牙武者が 数十人で集団を組み攻めかかってきたなど の記述があることから様々な物語における 伝説的な武田牙が存在せずとも食得連合軍 が武田の隊を警戒し馬場越誤師に鉄砲を 使ったのは有力であるそして武田軍の夫人 は主勢に適しながらも敵の法位を狙い やすい核力の人系を取っていたこれは歴史 上度も優勢な敵軍を破った夫人であるだが ここには致名的な誤参が存在したまず最大 の要因は覆返せない兵力差にあり食得連合 軍3万数千に対して武田軍は1万数千倍 以上の開きがあったにも関わらず武田軍が 構成側であったのだ信長は兵力でまさり 千のも味方につけして待ち構えているだけ でことが住みこれは武田軍が食得連合軍の 平数を見ったという他に説明がつかない次 に勝じ武田の信戸議兄系穴山信が人の中央 に浮人していたが彼らの早期撤退が中央部 の崩壊を招き結果として領欲の舞隊が孤立 山形内藤が率きる左翼バ田兄弟土らが指揮 する右翼は噴戦したが中央の界によって放 され大きな損害を出してしまうそして小田 軍はさらに工業だったのである信長は武田 の核欲陣を察知し鉄砲隊の集中配置を領欲 に施していた結果右翼で山形正か左翼で 土山倉の猛章たちの主力が相ついで 打ち取られ武田軍の繊維は次第に喪失を よぎなくされたついで飛びガ山デの奇襲は 武田軍に決定的な打撃を与えたと言える 背後の拠点が陥落し補給も大も立たれた 武田軍は必然的に選択肢を失ってしまった 時代に崩れ出した武田軍の戦は崩壊バの 信春がサイド撤退の震源をすると勝よりは 苦十の対却を決断最後まで戦線を保ってい たバた隊は武田軍の侵狩りを務めるべく勝 が対却を始めると内藤正と共に太にある 山合の急春な地形を利用し残った兵数百で 迫りくる大軍をよく阻だ勝の姿が見えなく なり対却したのを見届けるとこの時点でも 信春はまだ無傷であったが全面構成に展じ た食得連合軍と戦い突撃か追撃で内にした 山形正影に続いてババ信と内藤正も内に おげたこれが長野の戦いの天末である参戦 した武田四天皇の3人や武田24勝の多く もしたら原に手ちったのであった勝よりは 数百の旗本に守られながら南へと配送を よぎなくされ重心の多くが内にし青生活還 したのは本のわずか竹だけの精鋭はほぼ 壊滅まさに歴史に残る大配であった高場へ と逃れた勝りを迎えたのは上杉軍への 抑えって国元に残された最後の武田市天皇 高信であった彼は上杉健身との和木を 成し遂げからの撤退を援護したのである しかしもはや武田軍は新玄期の圧倒的な 軍勢ではなくなっていたブロン多くの犠牲 による弱体化も去ることながら長野の戦い はただの配線ではなかった織田の国力 蒼いや王でも自覚させられた戦いであった のだゆえに武田軍が圧倒的で亡くなったの は長野の戦いが始まる前からのことであり 織田の国力が急速に向上していた点にある しかし勝よりの苦難の道は配線を境に加速 していくこととなる長野の敗北によって竹 だけは多くの重心と精鋭を失い神殿が残し た以降に限りが見え始めていた一方信長は 越前一期を閉定し悩みの種であった石山 本願寺ともは和僕反信長勢力は次々と屈服 をよぎなくされ天下人としての地位を確立 しつつありそして着難の信田が軍勢を 率きいて岩村城を放するも長野で配戦した 武田軍はすぐ岩村城を救援に迎えなかった 勝寄りの妹である吉も保針に走って岩村城 を積極的に支援せず上手秋山虎茂は幸福を 申し入れて会場するしかし信長は秋山虎茂 とその妻で信長にとっておばに当たるおつ の方を許さず岐阜にて秋山おつ夫婦を処刑 したこれにより武田軍は身のより駆逐され 先線を品野まで交代させるまた徳川家康も 三川の実験を完全に掌握しと美の二股城も 軍事力を持って奪還勝よりの連戦連勝の 象徴る高天も徳川軍からの締め付けが 厳しくなった勝よは高坂正部の検索を 受け入れ外交基盤を立て直すため法条士と の構想同盟を強化する信長の冥子で活寄り の性質として突ぶ勝を産んだ優勝員は 亡くなっていたので転勝4年1576年に は法城正の妹にあたる競輪インド殿ノが 勝よりの警として会にとついだこの時勝は 30歳法城夫人は12歳であった年は離れ ていたものの勝よと法城夫人は仲む つつかったと伝わるしかし法場の軍が出点 ではあるがは勝を妹したことにより武田を 参加に納めたと認識したという対する武田 側としては当然そのような認識はされて おらず後々の礼と災いにつがっていくまた 外交は法場にとまらず越後の上杉市や関東 の佐氏など高古の勢力との関係を強化だが 武田は食徳に対して構成を仕掛ける余裕は なく姿勢を強いられる状況に追い込まれて いたそのようなさ中転勝6年1578年 エチゴの上杉献身が吸止するそして上杉の 家を巡り献身のおいで地のつがる用紙の 影勝つと地はつがらないが同じく用姿で 法場の人質としていゴに送られるも献心の 名誉を妻に迎えて着難を設けた影トでお盾 のラが勃発春ヶ山場内で激しい戦が繰り広 られる中影トは兄である法城宇正に援軍を 要請するしかし法城軍は北関東で佐宇宮や 連合軍と光戦中で即座に越声軍を送ること ができなかったそこで北条宇正は妹である 武田勝よりに影ト救援を依頼は一門集を 先法とする2万の大軍を品の経由で一後に 派遣し国境へと迫ったしかし法城と武田の 間には長年の不審が横たわっており武田も このままエゴが法城の影響化に置かれる ことを安全保障上で警戒していたこの時の 活よりの心情を察すれば生難で食得との戦 が続いており身に注力せねばならない中で 何ゆえ法のために越後の内乱へ武田軍が 出しなければならないのかそもそも子宮 援軍を送るべき法条軍は越後2軍を 差し向けず北関東で私戦を繰り広げている ではないかこれでは武田がに使われている も同然それにこのまま影勝を討伐して しまえば越後をema正の弟が納めること になる武田が東北も北城に囲まれるなど あってはならぬ対するマの心情としては妹 を暮れてやったのだから今や勝よりは義定 越ちの影トラすら勝よりにとっては犠牲で はないか我らに2人に勝よりが尽くすは 当然のことそして影勝つから密かに武田へ は僕の申し出がなされたこれが勝より障害 最大の運命の別れ道勝よりは危険を犯して 出した以上武田にとって実りあるものと すべく影勝つからの資金援助と幸付けや場 活上を条件とするは僕を受け入れたのだだ が法城の顔を建てるため勝より自らエゴに 在人士影勝つと影トらの和僕に本送一時的 な和兵を成立させたしかしそのさ中最後の 四天皇坂正が描う こととなるさらに武田にとって厳しい事態 が続き武田軍の期待の失兵を言え康が 見過ごすはずもなく徳川軍が駿まで進行し てきたのだこれには勝つよりも継続的な 和兵仲回を断念し兵の一部を残しててを よぎなくされる案の上勝寄りが帰国すると 間もなく影勝つ影トの和兵は破綻お盾の乱 は上杉影勝つが精死影トは自外終わって みればこの戦いの最大の照者は武田勝寄り であった金銀を得るだけでなく上杉量の 多くを活上され越後の支配者が以前のまま に反上勢力として維持されたのだしかし 当然のごと法上は怒りくい勝と団皇子高層 同盟はサイド破綻したこれが武田が滅亡に 至る最たる要因となったと言えるただで さえ西に添加人となった織田信長と 突き従う徳画は言え康という強敵を抱え ながら東の法城をも敵に回してしまったの だ代わりに越後の上杉影勝に勝よは妹を とがせ有裕子の公越同盟を成立させたとは いえ杉軍に献心時代の正強さは失われてい た一方で勝よりは影勝から領土活動を受け て団皇に至った法場を相手に構付けで選教 を優勢に進めたことから武田最大半島を 築づき上げたのである勝よは障害にわって 法城軍を相手に優位であったがは対抗手段 として食徳と同盟するこうして徐々に焦り を募らせた武田は神玄時代から織田より 人質に取っていた織田の部さを一方的に 信長へ変換して武田と同族で名薬関係に ある日佐を通じて非公式に織田とは僕を 図るも信長は武田とは絶好を宣言しており 間関節的な接触に虫を決め込んだので いわゆる攻合の進捗は色くなかったついに 織田軍との決戦が避けられぬものになる中 で勝りは守りに適さない本拠の筒が先やか 新たに三脈を利用して防衛に優れた新父場 の畜上を開始するしかしこの地上は莫大な 労力を用し国や家臣たちへの思い増役を 貸すことで過中には活寄りを見限るものも 現れ武田の土台は急速に崩れ始めていた まさに滅亡への坂道を転がり落ちていく さ中にあったそして決定的な事柄が発生 する長野の戦いでの敗北以降徳川軍はと々 三鷹天神への圧力を日に日に強めており下 の田畑は繰り返し焼き払われ補給路も次第 に寸断されていった武田軍も反撃を試み何 度も補給路の確保を図ったがその努力は身 を結ばなかったのである高天神は武田に とって戦略的な要であるとともに勝よりの 勝利の象徴ともなっていたのだが孤立した ゆえに補給の困難差が次第に武田軍の負担 となりこの城を守ること自体が大きな重と なっていった天少8年1580年10月 徳川家康安康は5000の兵を率いて高 天人場を攻略すべく完全な法に置く正面 からの力攻めではなく囲むように土類を 築づき表老攻めによって城をじわじわと 追い詰める作に出たのだ高天人の上手岡部 元は絶望的な状況の中で勝よへ救援を 求める所をいく度も送ったしかし勝よは この頃前術の攻合用し進めて織田信長との 和木を模索しており関係悪化を恐れて援軍 を送らなかったまた武田中も高天人は 見捨てるべきという意見が吹き出し勝は 苦十にも城を見殺しにする決断を下したの であるマテどクラせド援軍が来ない事態に 岡部元は徳川へは僕を申し入れた家康は 返頭に迷い織田に大伺いを立てるも信長は これを拒否し巧妙な作を授ける武田が援軍 を送れば激滅し送らねば勝寄りの維新を 執意させるもはや織田には和僕の和の字も なかったのであるこうして援軍の望みを 立たれた岡部は徳川軍に向かって突撃を 観光だが圧倒的な兵力差の前に彼らは次々 と統取られ高天人はついに落上したこの 敗北は武田にとって通打となるかつて 勝よりの勝利の象徴であった高天神は一転 して武田水体を象徴する城となったので あるこの戦いにより一問週や不大家心それ にも増ましして国州たちは武田に見捨て られるのではないかと考えるようになった のは言うまでもないこれを気に食徳による 武田両内への跳略が本格化し元が元来一門 習得2週による合義の色合いが強かった 武田は内部分裂状態に陥るそして新父場の 不役や従勢が激しくなり織田ミ野に接する 基礎吉正もまた武田への不審感を募らせて いた元々吉正は岩村城を支援しなかった こともあり勝りからの信頼を失っていた 両者の関係は急速に冷え込み小田に接する 基礎は真っ先に攻撃される立地にあること からも吉正は武田から離れることを考え 始めていたのである転勝10年1582年 2月1 日いにそは武田を裏切り信長の着男織田信ぶた田に中世を誓った正は自らの弟を人質として田方形に差し出し田に全域を織田軍へ引き渡したのであるこの方を聞いた克は激怒し基礎の人質を処刑すると吉正マ正を討伐すべく一問集引きる 5000の先発隊を派遣さらに自らも 1 番の兵を引きいて上原城へ新軍したしは織田信た田の支援を受け武田軍の新軍を食い止めた信長は勝よりによる基礎の人質刑を知るとこれを大 名分に武田討伐を決定食徳連合軍は同員を 開始し武田を滅ぼすべを発しただが基礎の 根帰りがあろうとなかろうと織田信長に よる公衆生罰は避けられないものであった 先人は信田が領有していた農美兵からなり 森長吉川尻秀を主力とするいわゆる信田 軍団が当てられそこに基準した基礎よ正や 小田市天皇の滝川マスを軍艦に加えて軍勢 の規模はおよそ3万に膨れ上がったそして あには信長が自ら機内から同員した軍勢が 続々と集結しつつあったこの頃明光秀の作 により頂い武田を大手との直名が下され 織田軍の進行に正当性が付与されたこうし て武田勝は正式に長敵となり織田軍は武田 を滅ぼすべく一斉に動き始めたのである 基礎の根返りから2日後の2月3日森長吉 と川尻秀の先法隊が岐阜場を出人規則から 稲道を進み武田涼へ進行すると武田の国 たちは次々と織田方へ願いほぼ戦わずして 品野の侵入を許した権老なはずの3部の 防衛戦はあっという間に崩れ去ったので ある2月14日織田の豚田と滝川か和の 本体が岩村へ新軍したその日突如として 朝山が噴火した当時の人々にとって火山の 噴火は国に異変が起こる全兆と考えられて おりこのテンペンチーは武田軍の式を 一著しく低下させたさらに武田中では次々 と内通者が現れまた琢間に武田への中が 揺らぎ始める2月18日織田の豚田が南し なの言い大地の城を守っていた星尾は戦わ ずして城を放棄し高城へと逃亡するこの 知らせは武田の信堂をはめとする獣たちに 伝わり彼らの繊維を大きく削ぐこととなっ たその間徳川家康は浜松城を出発した未だ 織田から信用されておらず公衆生の情報 共有を受けていなかった法条は遅れながら 相国境に戦法を派遣した後2月下旬にする が頭部に攻めった後付方面でも北条の弟子 国が武田の領地を脅やかしていった3月1 日織田のは川尻秀田からと合流し武田軍が 交代した高場を放した上手西は勝りの意母 艇であり決死の覚悟で老上戦を決意してい た織田軍はまず死者として僧侶を送り黄金 と処上を持って森に幸福を勧告しかし森信 はこれを拒絶し送られた僧侶の耳と花を 削ぎ取って繰り返したこれに激怒した信田 は全軍3万の兵で総撃を開始する高城には 3000の武田兵がこもり織田軍を 迎え打った数の上では圧倒的に不りであっ たが武田の兵たちは最後の誇りをかけ縄文 前で激戦を繰り広げた小田軍もまた平を 多く失いながらも必要に攻め続けついに 縄文を突破壮絶な攻防の末西延は過労たち と共に自害し勝よりが初めて上手を務めた 高城は陥落したこの時川の記述によれば 織田軍が打ち取った武田軍の子宮は400 であり老場した平数は3000よりも 少なかった可能性がある玉砕した兵の子宮 は信田の人に届けられそれらはさらすため に教えと送られたそして彼らの遺体は地元 の両民によってわれて今も五老山として その名を残している当日一問週の重心で あった穴山の豚だが突如として徳画は 家康安に願ったのだこれは土タ場の根帰り ではなく以前から通じていたとされ新玄の 娘子であり勝りの義兄たる武田一門集の 重席にありながら回線前より食徳に通じる までに武田は画していたということである これにより東海の防衛戦も一気に崩壊し南 市なから菅賀にかけての武田勢力は事実上 無力化された徳川軍はまた琢間に菅賀を 接見武田勝の本国会は南の脅威にさらされ たのであるこの知らせを受けた勝は大いに 同揺し新州方面で織田軍の進撃を防ぐこと を断念シノ巣は上原城より海新父場へと 撤退することを決断しただが噴火や各地の 根返りと配線が次々と勝り本人に伝わると 兵士たちの式は急激に低下恐怖と不安軍 全体を追い尽くしもはや勝りの廃下には 十分な戦力が残されていなかったのだ かつて1万を数えた勝の軍勢は3月に入る 頃にはわずか1000人ほどにまで減少し ていた織田の豚田引き入る織田軍は3月2 日には高場を陥落させその勢いのまま品野 を銃弾廃山兵が続々と逃げる中武田軍の 最前線は崩れ去った勝寄りはまだ新父場に とまっていたしかし続々と入る方に接する と新父にこもることの無みさを悟った 勝よりの若き着難の部活は同地で徹底光戦 を主張したが勝よりは完成間もなく老場の 準備が整わないと判断した北野の国で新父 逐場武良の佐田正幸は後場への撤退を震し た対して側近らは武田一門親山田信の岩殿 の城へ向かうよう言したそして勝寄りは ついに新父場を放棄場内には多くの兵士や 祭祀また人質が取り残されたままだったが それでも新父場には火が放たれたこうして 武田直轄の拠点は消え去り勝よりの引きる 平和200を切っていたという3月4日 武田勝よが新父場を焼き払った翌日徳画は 家康が穴山田を案内役として海へと進行を 開始3月7日ぶ田が焼けた新父場を見上げ ながら筒が先や方へと無結入場を果たした 小田軍は泣きた武田神玄の本拠を主中に 納めたのである勝りは小山田の毛の岩殿の 城を目指していたしかしその道中で親山田 の裏切りに会う彼は勝よりを迎えれると 見せかけ突如として鉄砲を放ちを閉ざした のだ進む道を立たれた勝りはわずかな一光 と共に天目山へ向かうことを決断した かつて室町時代の武田投手が関東の氾濫に 加担して敗北し命を立った武田因縁の地で ある道中逃げ出す兵も後を立たず次第に 軍勢は縮小していった同じ頃徳川軍も交付 に入り家康は穴山と共に野信だと会見した 会の支配が食得の手に落ちたのである3月 11日武田軍を追撃していた滝川の舞隊が 勝よりを教習天目山において最後の抵抗が 繰り広げられた土山さは片手千人切りと 消されるほどの噴線を見せ若きの部活も また刀を振って織田兵を切り伏せたしかし 織田軍の圧倒的な兵力の前に武田軍は次第 に押し込まれていった午前11時勝よは もはや逃れられぬことを悟り法城夫婦人と のぶ勝に向かって静かに語りかけたそして 信の信勝2回現事武田の過法にして象徴で ある縦なしを着せると原服の木を取り行っ て最後の時を迎えたおぼろなる月のほかに 雲霞晴れて行方の西の山の葉武田勝より 今年37歳あに美よ誰も嵐の桜花先散る ほどは春の夜の夢武田の部活今年16歳 北条夫人もまた実家の法場に落ちびること を拒絶し補鏡を読み終えた後静かに担当を 手に取った黒髪の乱れたるよぞ果てしなき 思いに消える梅雨の玉の法条夫今年19 歳臣たちも主君に順じるべく次々と内時に また事人していったサブライブ41名女 50人勝ら一光が自外した時未だ信長は美 の岩村城におり買に向かうなので武田の 子宮が届くと日本有数の武将であったが うんつきてこの有様になってしまったと 武田勝りを哀れんだというまた徳川は家康 も後々に勝りを勇気ある人物と表している その後地球は織田軍によって共送られ一条 王子にさらされた勝り泣き跡小田軍は武田 残党を追い詰め重心や親族を次次と処刑し た親山田の信毛も基礎や穴山に続いて織田 に使えようとしたが以前から通じていた 両名と異なり土タ場で願って九種に弓を 引きその行為が食徳にとってなんら高に なっていないことから織田は信の浅ましい 所量に激怒し主君を裏切るとは親山田こそ はコみ蔵の不中物とその家族とども処刑し たのであったこれにより転生10年3月 長野の戦いから7年後世裸三郎吉光以来の 名門竹田し着流は滅亡したのであるしかし 3ヶ月後今度は織田のが本能寺の編で なくなり武田給料を巡って地獄の転象人後 の乱が勃発するとは誰も思いもしなかった であろうこの動画は当チャンネルが武田 関連の動画を投稿する都合上よりを無能と するコメントが多数寄せられそれも1つの 評価であると思いながらも少しでも武田 勝寄りの置かれた状況を説明したく制作し たものであり決してアングという言葉で 片付けられない一面が見えたらと思う

21 comments
  1. こういう動画もイイね。
    気持ちの上で無理をせず、変に義務化せず、想いのままに作ればいいと思うよ。

  2. 信玄のツケを払わなきゃならんかった勝頼はそこまで悪くはなかったと評価するけどな。
    けど、君主の器か?と言われたら違うと言い切れるが。家臣の信頼も良くなかったし。

  3. 信玄が越後に出られなかった段階で徳川ポジションで織田と組む以外、勝ち目は無い。

  4. 武田勝頼は、無能ではなかった。
    しかし、織田信長、徳川家康の二人を相手にするには、役不足であった。
    例えば、武田信玄の信濃攻略を遅延させた村上義清と同じ程度の器であったと思う。
    返す返すも、北条と織田の両面作戦になってしまった事が悔やまれる。
    武田勝頼は、織田信長の天下統一を遅延させる可能性を秘めたファクターである。
    しかし、織田信長、羽柴秀吉に取って代わるほどの因子ではない、と考える。

  5. 勝頼の能力や信玄の負の遺産がどうのこうのというよりも、濃尾と伊勢を基盤に畿内の大部分を抑えた織田の国力増強スピードに追いつけなかったというのが武田滅亡の主因かと
    家康の首を獲り三河を獲得してからバトンタッチしていれば勝頼も少しは余裕を持って各方面にあたれたかもしれないが、西上作戦の途上で信玄が病を発し徳川を滅ぼせないまま撤退せざるを得なくなった時点で武田は詰んでた

  6. まぁ、金鉱山も鉱脈がヤバ目になって来たり、浅間山爆発で、真田方面へすら移動困難になるとか、運が悪かったとしか思えない、上手く立ち回れたら随分違う未来に繋がってたろうとは思いました、折角婚姻同盟しかかっていたのになぁ、織田徳川武田同盟とか有り得たのになぁ、

  7. 長篠での大敗北が無能の印象を植え付けているのだろうけど、
    逆に言えば、長篠の時点で倍以上の兵力の差があり、
    あそこで戦わず撤退したとしてもその後はどんどん国力に差が開き、
    ジリ貧で勝ち目はなかったんじゃないかなと感じる。
    であれば、勝ちが続いて勢いが乗ってる状態で大博打に打って出るという選択肢も
    仕方ない選択とも見て取れる。
    信長は桶狭間を始めいくつかの大博打に勝ち天下人寸前までいったのに対し、
    勝頼はたった一度の大博打でほとんどすべてを失ってしまったという対比かも

  8. 勝頼を悪くいう人達に、じゃああなた達が勝頼の立場や状況だとしてどう行動するのか、その行動をすればどうなっていたと思うのか、その行動の結果起きた事の責任を取れるのか取る覚悟があるのか聞いてみたいですね。

    私なら責任を取りきれずにすぐ家臣達に殺されていたと思います。

  9. 信玄は「一代で周辺すべてに出兵して実入りを見出す山間部の異常な機動力の軍団を創り上げた」という天才性と、やや近視眼だけど敵の敵は味方がうまい外交は凄い
    これで滅亡の原因と言われるのは勝頼びいきが過ぎる。そもそも会社を巨大にしたのは信玄だろ
    ただ引継ぎがうまかったとは言いづらいね。所詮は国衆どもの略奪モチベで繋がってる軍閥でしかないので、織田という中央のデカい政権が生まれちゃったから負けただけ

  10. 義信を切り捨て北条と敵対するなど自分が死んだ後の武田を無視してまで上洛を目指した信玄が夢破れた時点で武田は終わったんだよ

  11. 勝頼無能説はよく述べられるが、美濃国の城を信玄のように落としたり、家康の正室・嫡男にまで調略を仕掛けて信長と家康を震え上がらせたりと、武将としては無能であるはずがない。
    問題は一部家臣や領民に寄り添う事ができなかった事だが、個人的には家臣や領民を蔑ろにする事は戦国武将のあるあるだと思う。

  12. 松本清張の著書(小説ではない)でボロクソに貶されてるのを読んでから判官びいきするようになった
    逆に松本清張が死ぬほど嫌いになった
    歴史家でもないのに何様のつもりかと

  13. 武田が120万石、織田は600万石、他に徳川が50万石。
    しかも信長包囲網の時に共に戦った浅井、朝倉、本願寺などもすでに織田に滅ぼされるか講和したかで武田には御館の乱で弱体化した上杉以外、味方はいない。
    勝頼が有能とか無能とか関係なくすでに詰んでます。

  14. 織田配下の甲斐一国の国持大名として生き残る道はあったのでしょうか?人質と領土差出で子供に家督、織田の姫を娶るとか。

  15. 絶対無能ではないと思う。親父が周りに敵作りまくったのと、戦が強すぎて初敗北が長篠の戦だったのがね。

  16. 銃を連射する戦法は初めてだった事、織田軍が隠れてて実際の人数がバレなかった事、梅雨なのにその日だけ雨が降らなかった事、織田信長の実力がそこまでバレてなかった事。が要因。サッカーワールドカップで日本がスペインとドイツに勝った時と似ている。三笘や堂安、伊藤などの逸材がそこまでバレてなく警戒され切ってない時期だった

  17. 武田勝頼を『暗愚』という声も
    あるが「果たして自分が勝頼だったら勝頼と同じ結末にならなかったのか?」という事だと思うんですよね。オレは
    たまたま勝頼は戦国時代に生まれたからそうなったのかもしれませんし、たまたま勝頼は武田家の四男とし生まれたからそうなったのかもしれませんし。

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