邪馬台国の場所はズバリここ!宮崎説・日向説が推される理由

邪馬台国の場所はズバリここ!宮崎説・日向説が推される理由



邪馬台国の場所として有力なのは北部九州説と畿内説なのだ。
ええっ!?邪馬台国は宮崎県にあったって!?
こうしちゃいられないのだ!
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#古代ミステリー #邪馬台国 #宮崎 #日向

00:00 邪馬台国はどこにある?
00:23 邪馬台国論争とは?
04:13 なぜ今、宮崎が注目されている?
08:27 魏志倭人伝のルート検証
11:27 考古学の視点から検証
15:19 地名に残された卑弥呼の痕跡
17:21 邪馬台国のまわりはどうなってた?
22:13 邪馬台国宮崎説への主な反論とその再反論
27:53 邪馬台国の場所、最終結論!

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・邪馬台国はなぜ見つからないのか

・倭の五王の正体

・【総集編】邪馬台国の謎part1

・【総集編】邪馬台国の謎part2

・【総集編】邪馬台国の謎part3

・【総集編】邪馬台国の謎part4

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47 comments
  1. 邪馬台国の動画はコメント欄を開いてからが本番!

    九州だけでも福岡朝倉甘木説、古遠賀湾説、佐賀吉野ケ里説、大分宇佐説、宮崎説、熊本説、鹿児島川内説など色々聞きましたけど、どれもすごくわくわくします。

  2. 熊本辺りから宮崎迄100km程度なので陸行1月は合わないです。1日3km程度ではおかしい。

  3. 昔、木花之佐久夜毘売が卑弥呼というラノベがスニーカー文庫から出ていたような

  4. 頓珍漢な邪馬台国畿内説を信じてる人は、まずは纒向発掘に携わった関川尚功氏の本『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』を読もうね。あと、村上恭通氏の『倭人と鉄の考古学』もおすすめだよ。どちらも畿内説をぐうの音も出ないくらい「考古学」的に否定してるよ

  5. 自分は茨城説を推しているが他の説を除外はしない。
    同音のヒミコはその当時もそれなりにいたと思われ、古墳や神社をあばいてもそこのヒミコが魏志倭人伝の卑弥呼である確たる証拠とはならない
    邪馬台国自体が司馬一族のでっち上げかもしれない。

  6. 日本の神話の半数は宮崎だし古墳の数がめちゃくちゃ多い‼️全くのデタラメでは無さそう‼️古代栄えて急に過疎になったのは何故何だろう⁉️

  7. 神話がたくさん残ってる事実からして邪馬台国よりも大和政権との関わりが強いと思ってる‼️生目の古墳は奈良の古墳の瓜2つの縮尺古墳だし
    天皇皇后宮崎から6人出して1番多い‼️大和政権との親戚扱いだからむしろ邪馬台国と対立する大和政権の出先なんじゃ⁉️

  8. 7万戸となると宮崎平野だけでは無理なので、宮崎・鹿児島合わせたエリア(昔の日向)が邪馬台国で中心部が東側だと思ってる。
    狗奴国は「邪馬台国の南」とは書いていないので別の所。自分は畿内だと推測してる。

  9. 数年前までは宮崎県って言えば知名度も低くてほとんど注目されない県だったこともあって、
    宮崎県民としてはただ個人的に信じたい説

  10. 同じ正史に出てくる、諸葛孔明が征伐した南蛮(南中)に孟獲が実在したかも怪しいらしいし、卑弥呼はもっと遠い日本の話。卑しい巫女なんて絶対に作られた名前だし創作人物の可能性もかなりあると思う。
    となると邪馬台国も。。まぁ、どこかに何かはあったんだろうw

  11. ・「水位が高かった」
    いえ、AD3世紀頃だと水位が今より少し低くなっている時期ですね。高くなっていた時期はもう少し前、BC30世紀とかです。
    ・「狗邪韓国」
    これは伽耶國(釜山辺り)ではなく、もっと西側の場所です。というのも、釜山から対馬と言う経路は海流の関係で溶こうが大変に難しい場所だからです。中国というのは実は海洋技術として後進国で、このAD3世紀時期になってやっと外洋に出れる船を作れてきた時期です(三国志で、船技術は呉が先頭で、それに追いつこうと魏・蜀が開発に急いでいた時期)。つまり、この「徐王国への使者」というのは、中国の歴史においても最初期の外洋國への使者派遣なんですね。そのため、従来の日本が使っていた航路、海流を使う航路を使っていたでしょう。人力船では釜山⇔対馬の渡航は難しく、釜山辺りは日本から半島に行く際の到着点にはなるのですが、半島から日本に行く出発点にはなりません。
    ・「帯方郡」
    これも、半島ではたぶんないでしょうね。位置がかなり違います。

  12. 邪馬台国と卑弥呼

     倭国大乱の原因は孝霊天皇をめぐる出雲族の姫たちの嫉妬であった。卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女・日女命又の名は倭迹迹日百襲姫命である。稚日女命と倭姫命は霞会館(藤裔会)に名前を変えられた卑弥呼であった。内藤湖南(倭姫説)と笠井新也(倭迹迹日百襲姫説)はどちらも正しかった。霞会館(藤裔会)の国史改ざんとフィクションの創作によって混乱が生じていた。

     卑弥呼の出身は鳥取県湯梨浜町宮内(黒田庵戸宮)である。

     魏志倭人伝に「倭の地ではその身体に朱丹を塗る」とあるが、鳥取県中部の古墳から出土した人骨42体(歯のみは省略)のうち11体(26%)は朱を塗った状態で亡くなっている。

     魏志倭人伝に「倭人の俗は、儀式や行事を行い、何かを言ったり行ったりする時は、骨を灼いて卜し、以って吉凶を占う」とある。青谷上寺地遺跡で全国で一番多い240点の卜骨が出土した。

     倭姫命世紀にある豊鋤入姫が巡った「倭の」笠縫邑は鳥取県琴浦町八橋であった。「倭の」彌和の御室嶺の上の宮は鳥取県北栄町下神の三輪神社であった。「倭」は鳥取県中部であった。

     倭国大乱は鳥取県を中心にした出雲族の反乱であった。倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍は鳥取県の出雲族(鬼・土蜘蛛・河童・蝦夷)を平定して倭国大乱は終結した。その後、倭姫(卑弥呼)と倭建の皇軍はさらに、西は長崎県・朝鮮半島、東は岩手県奥州市永岡神社までの広範囲を平定した。

     全国に社を建てて銅鐸祭祀を銅鏡祭祀の神道に改宗させた。全国の代表者を集めての祭祀は鳥取県北栄町下神の神浅茅原していた。その時、開化天皇や崇神天皇は豊田市の猿投神社に、倭迹迹日百襲姫は神戸市の旧生田神社にいた。

     しかし、鳥取県中部は東国から遠いため神道の祭祀は奈良の纒向ですることにした。しかし、奈良盆地には平定されたとはいえ敵対していた殷王朝末裔の準王一族(銅鐸祭祀の一族)が多く居たため、卑弥呼の安全な居所を探さなければならなかった。宇陀を出発し志摩国までめぐる「倭姫命世紀」は卑弥呼の安全な居所を探す巡行であった。

     卑弥呼(151年~248年)の居所は志摩国に定めた。魏志倭人伝に「南の邪馬壹国に至る。女王が都とするところ」とある。女王はそれまでの都(鳥取県中部)を離れて新たに邪馬壹国(志摩国)を都とした。邪馬台国は志摩国(志摩市・鳥羽市)であった。その時はまだ霞会館(藤裔会)の創った邪馬台国(志摩国)を封印するための伊勢国・伊勢神宮(大宮司は霞会館(藤裔会)が決定する)はなかった。

     奈良盆地の集落の環濠を埋めさせたのは190年頃である。卑弥呼が奈良の纒向で祭祀をするときは、伊勢神宮を通り・櫛田川沿いに高見峠を越えて吉野町宮滝経由で纒向に行き、帰りは和歌山の玉津島神社から船で何日もかけて伊射波神社まで帰った。卑弥呼の墓は鳥羽市安楽島町の「松の鼻古墳」である。

     伊勢神宮は、邪馬台国を封印するため、卑弥呼が纒向へ行く御幸ルート上に建てられた。明治期に入り、纒向と同じように神道の代表者を集めての研修・祭祀を伊勢神宮で始めた。

     台与は豊鋤入姫であり彦太忍信の娘の葛木志志見興利木田忍海部刀自(かつらぎししみよりきたおさかいべとじ)であった。第12代倭国王の屋主忍男武雄心の妹となる。第12代の妹は倭姫ではなく豊鋤入姫であり、神功皇后のモデルであった。豊鋤入姫は甥の武内宿禰と一緒に行動していた。豊鋤入姫は都を鳥取県中部(倭)に戻し、倉吉市鋤集落を本拠地にした。

  13. 自分の出身地が、もしかしたら邪馬台国だったかも?ってめっちゃロマンだよね
    この謎は解き明かされることなく、永遠に考察してニヤニヤしたいな

  14. 何故いつまでも
    「邪馬台国」を
    「ヤマタイコク」と呼んでいるのか?
    「ヤマトコク」と呼ぶのが普通だろうに。
    さもないと
    卑弥呼の後継者「台与」も
    「タイヨ」と呼ぶべきだ。

  15. 邪馬台国は漢字であてられた文字を見るのではなく、音で判断すると分かりやすい。
    『やまと』を魏の人が『やまたい』と聞き取り、大和(倭)を卑下した文字に変換して邪馬台としたとすると個人的にしっくりくる。

    記紀でも神武以前の勢力は全国的な規模ではなく地方豪族として、現在の宮崎から鹿児島の南九州の東側に拠点を構えていたけど、稲作の発展と共に権力も増大し東征して奈良の橿原に移った。
    現在の皇室でも上皇陛下の長女の黒田清子さんは、伊勢神宮の祭司をしている。
    伝統的に祭祀を司る責任者として女性、武力など政治の責任者として天皇と役割が分担されているとしたら、遷都と共に邪馬台国が移動してるとしてもおかしくないと個人的に思ってます。

  16. 個人的には別系統の王朝だったと思う。宮崎は福岡から見ると、現在でも陸の孤島。高速バスで4時間以上。外交窓口が伊都国と考えると、そこから離れた場所に本国があっても抑えきれない。また奴国の約3倍の戸数と考えると、福岡平野と筑紫平野の関係に思えてくる。吉野ヶ里遺跡・平塚川添遺跡・尾迫辻原遺跡と東西方向に広いエリアだったのでは。尾迫辻原遺跡から数キロ東に行った場所が、曹操の鏡と似ている鉄鏡の出土地と伝わっている。鉄鏡は「金銀錯嵌珠竜文鉄鏡」というが、再現された映像を見ると銅鏡と比較にならない凄さを感じる。

  17. 銅鏡は古墳と違って移動できるもの。遷都があれば持っていくだろうし、その国が滅亡したら、征服者が戦利品として持ち帰るだろう。場所を比定するための参考にはなるが、決定的証拠にはならない。

    大和、飛鳥、奈良時代以降の権力中枢が近畿にあったことは、紛れも無い事実なのだから、そこに移動可能な宝物が集中して見つかるのは当たり前。

  18. 2万戸と記述された人口は、食糧事情のため宮崎では養えなかったとする意見に対して反論です。

    宮崎平野は九州で2番目に広く、全国順位でも14位です。

    さらに九州山地を水源とする大淀川、五ヶ瀬川、小丸川等の一級河川があり、稲作栽培の技術が未熟だった時代でも、雑穀を含めて、それなりの収穫量は確保できたと思います。

    今から約7300年前の「鬼界アカホヤ噴火」で一旦は火山灰の影響で土地がやせたと思いますが、約5500年も経った邪馬台国の時代には回復したと考えるのが自然です。

    さらに宮崎平野は太平洋に長い辺を向ける三角形の形をしており、遠浅の海岸線が広がっています。古代人でも採集可能な海産物には困らなかったと推測できます。

    さらに宮崎市の西部、綾町には日本最大級の「シイ・カシ類を主体とした原生的な照葉樹林」が広がっており、縄文人が主食としていたどんぐりもたくさん採れていたわけで、古い時代の食生活を受け継いでいる人々のお腹を満たしていたと考えられます。

    ちなみに魏志倭人伝には「サルやキジが生息している」との記述がありますが、現代でも宮崎市内にある私の家から直接、サルとキジを見たことあります。サルはともかくキジは古代人にとっては食料ですから、温暖な気候は狩猟生物も育んでいたと思いますよ。

    以上のようなことから、宮崎市周辺が食糧事情が悪くて大量の民を抱えられなかったという説には疑問があります。逆に宮崎で無理なら、何処でそれだけの民を養えるの?って思います。

  19. 弥生時代の倭国の首都である。邪馬台国は、九州の地の何処かにあった。
    女王卑弥呼様は、鬼道に長けていた。と、記録されています。 そうなれば、火の神立ち昇る、阿蘇山を仰ぐ熊本県内になります。
    因みに、畿内説は、右勢力で、のっぺらぼう顔の御用学者の願望説に過ぎない。
    そもそも、年代測定が、200年もズレているので、畿内説は、空想の産物のお粗末さの説。

  20. 自分も卑弥呼の邪馬台国は九州にあったとは思うけど、明確な物的証拠がでるまでは「決着!」はしないと思う。

  21. 個人的に邪馬台国は熊本、狗奴国は宮崎だと信じてます。狗奴国が東征したのでは考えます。
    ただ、邪馬台国の場所だったり確定しない方が楽しいとおもいます。

  22. 宮崎に今住んでますが・・・今の住人見てる日本を主導していたとはとても思えないですね。東征の際に有能な人達が近畿に移りゴミレベルが宮崎に残ったのならそれならそうだよなって確信してます。

  23. 卑弥呼は宇佐八幡宮の下に眠っています。邪馬台国はその周辺と考えています。田油津姫が壹与の縁者であると思う。

  24. ずっと邪馬台国は大分県、宇佐神宮の北方辺りと結論付けて、宮崎県辺りは投馬国とか思ってましたが、投馬国じゃなく邪馬台国が宮崎県!
    なるほど、東に海があり、温暖な気候という魏志倭人伝の記述にも合致し、更に卑弥呼の側近の名前と地名の一致まで付いて来たとなれば、邪馬台国候補筆頭にもなりますね! 
    3年前の日本一周中に西都原古墳群も見てきましたが、夕方で観光案内的な施設は閉まっててただ全部を見渡してきただけだったのが、勿体なかったかな~

  25. と言うことは『ウガヤフキアエズ王朝が実は邪馬台国説』ってことかな?
    なくはない気はするなあ

  26. 19:25の狗奴国が邪馬台国の南側に有ると言うのは魏志倭人伝をちゃんと読んでいないと思います。まずこれらの記述が有る部分では「邪馬台国」とは書いていません。「女王国」と書かれています。陳寿(三国志の編者)は言葉を使い分ける人なので、邪馬台国と女王国をはっきりと使い分けています。次に狗奴国は「其の南」に有ると書いているだけで女王国の南とは書いていません。この「其の」をそれまで書かれている奴国と考えるか女王国と考えるかで狗奴国と女王国の位置関係が変わります。漢文の読めない学者は奴国で女王に属する国が終わっているので「其の」を女王国と考えますが、ここで重大な誤りに気がつきます。女王国の北側に在る国々の話がここで終わるのならば、「郡より1万2千里」と言う記述はここに書かれるはずです。ところが実際は狗奴国の話の後に書かれています。何故か。女王に属さない狗奴国も女王国の北側つまり帯方郡と女王国の間に有るからです。そう「其の」は女王国を指すのではなく、それまで話していた奴国を指しているのです。つまり狗奴国は奴国の南で女王国の北側に在るので、奴国の所で女王国の北側に在る国々の話は終わっておらず、女王に属さない狗奴国も含めて女王国の北側に在ると読むのが正しい漢文の読み方です。そうでないと「郡より1万2千里」の書かれる位置がおかしいと思います。奴国は福岡でその南に狗奴国=熊本が有り、さらにその南の宮崎に女王国が有ったのだと思います。地球儀で計ってみると帯方郡から宮崎は1里を約80mとするとちょうど1万2千里になるんですよ。近畿説じゃ無理でしょう?

  27. まっ歴史を動かした人だけが人間ではないからね〜
    歴史外で生きてる人間もたくさんいるので😅
    宮崎は全体的に古墳や人が居た遺跡もたくさんあります。
    まだまだ発掘途中なので出てきていない物もあると思いますよ〜

    私が聞いていた日本の神話はヤマトタケルや卑弥呼の話だけど
    子供心のイメージでは話の中でどこでってのは詳しくなかったのですが宮崎と熊本の間くらい今で言う人吉辺りを強く感じてました。

    これは子供心にそう直感したってだけですけどね。
    野うさぎやヤマタノオロチと言えばそんなイメージでした。

  28. 福岡の京都郡、香春、大任町あたりが邪馬台国の中心地です。御所が谷神籠石が高天原です。高句麗から大分の姫島に入り、その後に九州に上陸しました。姫島には姫の伝説が多数残されており、宇佐神宮の比売大神=卑弥呼、またの名をアカルヒメといいます。卑弥呼(日巫女)、ヒメコソのアカルヒメ、神功皇后(息長足姫=天日照らし姫)、天照大神、名前がみな同じ意味です。ついでにいうと、かぐや姫も。この姫は後の世では京都の葵祭の主役となります。

  29. 魏志倭人伝はトヨの時代でしょ?
    邪馬台(やまと)がトヨの時代にヒムカからアワ、次の時代にアスカに移ったんじゃないの?
    トヨの墓が宇佐で、その神格化がヒミコとセットでアマテラスで伊勢に祀ったけど、歴代天皇は宇佐を伊勢より重視したってことなんじゃ?
    ヤマタイ?知らん。ヤマトなら昔からあるで。神話で語ってあるやろ? ワシらの先祖がヒムカから東征してきたんじゃ!ってことなんじゃw

  30. 生まれてこの方、60年、宮崎住みだが、私は邪馬台国は宮崎では無いと確信しています。
    私論では邪馬台国は阿蘇山東方面から大分県側に広く広がる地域だったと思いますよ。
    宮崎には邪馬台国とは異なる文化圏として別に日向文化勢力が当時の日本最強の勢力を持つ王朝があったと確信しています。
    倭人伝に於いても邪馬台国の南方には常に邪馬台国の最大敵国としての国の記載があり、後の記紀にも諸県の国としてヤマト王朝の祖霊神との密接な繋がりが見てとられ、この回の内容の西都等の古墳群の内容は、邪馬台国を倒した日向王朝(諸県の国)つまり、神武天皇のスポンサー足る強大な国家であり、邪馬台国では無いと、私は断定しています。
    また、飛鳥時代迄は皇族は毎年3月程宮崎の西都に興行して、日向王朝に朝見するのが習わしでした。
    日向王朝はヤマト王朝の偉大なバックボーンとして南九州の強大帝国としてヤマト王朝をコントロールして、日本統一を支援した単一王朝なのだと考察していますよ😊

  31. 魏志倭人伝の頃より、かなり後の時代(1389年説あり)に作られた、現存する最古の日本を含む地図“ 大明混一図”を見ても日本の形も位置も酷いもの。おそらくこういった略図をもとに邪馬台国の位置は魏志倭人伝に記述されたろうから全く当てにならない。邪馬台国という大国が本当にあったとしたら九州でも四国でも畿内でも、どこでもおかしくない。

  32. 古事記はともかく日本書紀は当時の最高の頭脳と識者(わざわざ中国の人の手まで借りている)をもって対外的にも恥ずかしくない物を作ったのだと思いますよ。ただ謎は存在します。それは古い事は伝聞でしか伝わっていないからです。その為日本書紀ではなるべく誤りを防ぐ為に「一書」と言う方法を使って言い伝えが複数あることを示しています。例えば大国主命の国譲りに際してはバカな学者は事代主命が舟から飛び込んで死んだなどと書いていますが、一書では朝廷にとどまり、そのせいで国譲りは上手くいったと書いてあります。陳寿が魏志倭人伝を残したと言う事実はありません。日本書紀同様に三国志は西晋が陳寿に命じて残した物です。陳寿は蜀の出身なので西晋の役人たちは彼が魏に都合の悪いことを書くのではないかと恐れ、一度は陳寿を解任しようとした経緯が有ります。だから「陳寿が魏志倭人伝を残した目的を考えて」と言うのは間違っていると思いますよ。彼にはそのような権利はありませんから。陳寿はかなり正確に書いていると思いますよ。例えば彼は国の規模を表す際の用語として「戸」と「家」を使い分けています。伊都国や奴国は「戸」ですが、不彌國は「家」です。何故だと思いますか?同じ舟で進むにしても「水行」と「渡」はちゃんと使い分けています。「邪馬台国」と「女王国」も使い分けています。頭の悪い学者はそう言う事をちゃんと調べないで魏志倭人伝はいいかげんだとか言ってちゃんと読もうとしません。なので日本全国に「邪馬台国」があるのです。多くの歴史研究家は論理学的に考えていません。A→Bが正しくてもB→Aが正しいとは限らないと言う論理的な考え方が分かっていないからです。これを「アブダクション」と言います。例えば卑弥呼の墓が径100歩と言うのが正しくても、径百歩の墓が卑弥呼の墓だと言う理論は成り立たないのです。Wiki等でアブダクションと言う言葉を調べてみると良いと思いますよ。宮崎の卑弥呼の墓はもう残っていないと思います。景行天皇の時代及び奈良時代に候補地は徹底的に荒らされたようですから。

  33. 瓜生野が卑弥呼が居た場所で生目は後の壱与の時代ですね
    西都原はもっと後の時代です

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