今回の動画は
邪馬台国・完全版【後編】
是非前編からセットでご覧ください。
【前編】
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このチャンネルは都市伝説やオカルトになっているような歴史の謎を、都市伝説で終わらせずに深掘りしていくチャンネルです。
お城や神社仏閣など現地のフィールドワークも行って行きますが、常識に囚われずに色んな角度から考えて行こうと思うので、これまで聞いたこともないような説も出て来るかもしれません。
しかし数ある考察の中の一説として気楽に楽しんで頂けたらありがたいです。
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#邪馬台国 #卑弥呼 #魏志倭人伝
習近平や毛沢東と、古代の中華皇帝も同じ。
中華記紀が正確と感じる時点で日本人として終わってる
いつもありがとうございます。 竹田恒泰さんの解説にもあるように、当時は、戦乱の世だったので、敵に邪馬台国の場所を知られては、不利になるので、場所をごまかしたと考えます・ また、出土物の多い邪馬台国・九州説がありだと私は、考えておりましたが、日本が大好きで、何度も来日した、あの有名なジョゼフ・マクモニーグルさんが雑誌ムーの透視依頼で見たら邪馬台国は、畿内であると透視結果が出た。 ジョゼフ・マクモニーグルさんは、敵の地下ミサイル基地、敵の潜水艦の行動範囲、火星の地下基地などの透視を行っていたらしい。 そして宇宙には、遠くの銀河系より地球などの惑星にワープするための大規模なポータルネットワークが形成されているとのことです。 まるでスターウオーズの世界ですね
初めまして張川日出夫と申します。張川家の謎について話をさせて頂きます。俄かに信じ難い事なのですが、私の生家が邪馬台国が有った場所です。四国の徳島県三好市三野町勢力上野です。今でも邪馬台国(丸山遺跡)が有ります。そこには不思議な祠があります。その下にはアークが眠っていると思います。今からそのことについて説明させて頂きます。私が生まれた時はすでに貧乏家でした。日本昔話に出て来る麦わら屋根の小さな家で部屋の中ほどに囲炉裏があり床には畳は無くムシロを敷いてあった。部屋は昼間でも薄暗暗い夜は裸電球が吊り下げてあった。夏になると色んな昆虫が集まってくる。蚊。ハエ。ノミ。ダニ。ムカデ。は、毎日出て身体中が湿疹だらけであった。唯一救われたのは父が風呂好きだったので五右衛門風呂に入って体を洗って暮れたので湿疹も少なくて良かった幼い頃の思い出があります。私は8人兄弟でありましたが現在は2人だけになりました。今張川家の謎について話をしておかなければと思い投稿させて頂きました。私の生家三野町は小さな田舎町です。そこに今から37年ほど前まで石組みの祠の祠がありました。父が亡くなる1ヶ月前に父が石組みを崩してしまいその場所を埋めてしまいました。その下には何が有るかわかりませんが何か大切なものあると思います。私は失われた契約の箱アークが眠っていると思います。ここは(丸山遺跡)邪馬台国が有った場所です。魏志倭人伝の経路や卑弥呼のルーツを解明しました。私は歴史学や考古学を学んだ学んだ事が無いのでうまく説明すことが出来ません。一度検証してみては頂けませんか?いつの時代も表舞台には入らず神様を守って反逆もせずに流れに任せて来た。もし逆襲すれば命が危ぶまれてアークを守れなくなると思ったのでは無いか祖父の時代頃から山林(丸山遺跡)や田畑を没収された家も取り壊された父は小学校も行けない環境に成り伝承することが出来なく成ってしまいました。私も67歳になります。このままでは邪馬台国の場所も永遠に分からなくなると思っています。私が独自で調べた資料見ていただきたいのです。私は現在奈良県大和高田市に在住しています。
「会稽東治の東」と「楽浪郡の東南」の交点(神山)が、卑弥呼が居たところであり、邪馬台国の中心である。これ以上の証明は無いでしょ。
霊視される人は卑弥呼の霊視して下さい。邪馬台国も分かるのでは?
忖度の集大成では決して見つけることは無理ですね。
徳島の忌部神社の近くに神武天皇の銅像があります。乃木将軍が日露戦争の戦勝祈願の許可をもらい建立したとされてます。
当時明治天皇陛下を神格化してた明治政府が何故黙ってるのかな?不思議ですねー。そして今もひっそりと神武天皇の銅像が残ってる。誕生の地でない限り抹殺される筈の銅像がどうしてあるでしょう?誰か無視せず疑問に答えてください。よろしくお願いします。
とある説によると、この動画で伊都国と比定しているあたりが、まさに大和国です。香春町辺り。伊都国はちょっと北西の鞍手あたりになります。熟田津の港がありました。今は遠賀川ですが、当時はこれが湾でした。末慮国からは海沿いに北からぐるっと回るのです。33分くらいの画像で伊都国という文字の右上に見える白い部分は、香春三の岳です。銅や鉄が採れました。畝傍山は石灰岩の山だったので削られてしまいましたけど、ここが真の天の香久山、三輪山なのだという説。関西の地名は当時の筑豊地方のコピーです。近江や飛鳥なども含めて。記紀編纂も王朝がこのあたりにあったものなので、富士山なんて出てきません。祭祀王と統治王という考え方には賛同します。天体観測や暦を司り、水稲栽培を導いたのが祭祀王、治水灌漑、土木工事などを仕切ったのが統治王。言い換えれば、長期視点の女王と短期視点の男王による統治です。ものすごくしっくりきます。加えて個人的な妄想ですが、祭祀王は女系継承、統治王は男系継承だったのでは? などと思っています。
メルカトル図法でもズレがあります日本から東に行くと地図ではアメリカですが実際はチリに着きます。
当時メルカトル図法は無かったのでどんな地図を中華で使っていたかですよね
私は現代の地図上での整合性にはあまり拘らなくてもいいかなと思います。😊
一寸千里法の必殺技の紹介、南北2箇所間の距離を一人で測った、しかも当日対向。
洛陽では毎日、80寸棒の影長の変化量がわかるので、夏至日相当に修正できます。
夏のある日、沙里院で日陰長を測ると、自然と洛陽との距離が測れます。
何日かして、同じ側手が女王国の日陰長を測ると、当日の洛陽のとの距離が測れる。
洛陽を中心に二つの距離を合計する、しかも雨天回避も可能ある。
以上の 方法で一人で2箇所の測量が可能となるのです。
なお、一寸千里法は影長の「寸」読みを「里」に、置換えるだけなので、インチキ距離です。でも有効な手段でした。
帯方郡からの直線距離の測定ができたかどうかについて考えていました。
南北方向の位置関係は棒の日影長で分かりますが、東西方向はどう測定するかです。
釜山までは見通せないので、例えば、近くの剣山に登り、石鎚山、英彦山とつなぐことで、方向角度を測定
できたかもしれません。天文観測で測定する方法はあるのでしょうか。
また、剣山から平壌までの距離は、12000里(900km)に対し70kmほど遠いように見えます。
帯方郡の位置が平壌の南60kmの沙里院で、剣山までとすれば915kmとなり、その差15kmとかなり近づきます。
ただ、里の距離換算値、帯方郡の位置など、かなり誤差要素が大きいので、確定できないですね。
会稽東治の話は、魅力的ですが、どうなんでしょうね。ただ会稽郡の日影長のデータは持っていたのでしょうね。
九州でない理由は、いったん九州に上がったのにまた海の方に行く理由がない。
アカホヤの噴火が出てきましたが卑弥呼は日巫女ではなく火巫女とは考えられませんか?縄文時代に噴火の影響で壊滅的な打撃を受けている九州ですからそれから何千年経っていたとしても鬼界カルデラや阿蘇山という火山を怖れていると思います。ただ弥生時代に倭で太陽や火を『ヒ』と話していたのか私にはわかりませんが。
(前)とセットで見ました。かなり話があっちこっちの書物へ飛ぶので理解するのに難がありますが、最後の纏めた三点は、5、6年前から阿波説を言ってる人とほぼ同じです。完全じゃないにしても、かなり正解に近い考察に思えました。
ただ、一つだけ見直して欲しいのが、
奴国と狗奴国、ここは見直して欲しいですね。
狗奴国のみ男子が王になっているとあります。女王の国に属さないとも。
女王国の境界の国とその南のところが、
わかり辛いです。
それが微妙に阿波と合致してこなくて
💦💦💦
もう一つ、気になるのは?
単里ですが、短里のことだと思いますが
それから、いろんな文献と合わせて見る場合に、その文献と比較する理由の説明も欲しいですね。
御願いばかりですみません🙏
0:39
先に、複数地点での長距離の合計を例にして、次に韓国から対馬までだけの遠く無い距離と比較するのは何故?
1国ごとが直線距離なのは当たり前だし、合計距離を足すのも普通の事です
寧ろ、難しいのは、合計距離などから直線距離を割り出す事の方です
奴国が女王の境界の尽きる所に在るのだから、女王国は北部九州の奴国の隣です
なので、1万2千里は、貴方の説の奴国では、徳島県までの距離になりません
奴国は2つ書いて有りますが、別々の国であれば、同じ発音の別の漢字で表音すればいいだけです。
わざわざ、普通に読めば同じ国にしか思えなくする必要性はない
魏志辰韓伝「弁辰韓合二十四國」
26個の国名を書いて、弁韓と辰韓を合わせて24国と書いています。なぜかと言うと、同じ名前の国を含めていないからです。
この事からも、2種類の奴国が存在する事は無理が有ります。
奴国が奴国に周旋(行って帰る・戻る)しない説だと、餘国に一々「次」を付けて連続して読ませる事の意味が無くなる
※水行は狗邪韓国の通り、海岸を沿う移動です。海を渡るではありません。なので、四国では無理です。
ぜひ、茂木誠氏に繋がり対談動画をつくってください。地政学的な見解もあるため、茂木先生には共感してもらえるはずです。
もはやこの路線で神話を史実として検証する。伊の國を日本国のルーツとして日本人全てが認識する。
阿波国から派生された国作りを思い出し現代の地域活性化策を施す。
各地に色々ある地名や史跡を関連づけて見る。史実の裏付けがあれば教育委員会でも取り上げ、郷土史の授業でも取り扱う。
こんな動きが全国のあちこちで施される世の中になれば、どれほど楽しいか。めまいがするほど、クラクラして来る。
例えば私の住む近くに伊倉という地名があり、小さな山になっている、登ってみたら頂上に不思議な石の史跡?がある。お賽銭が無造作に投げられていて。周りを掘って見たら蔵だったりして。〔妄想です〕
その一帯は、綾羅木郷という、新羅に縁のあるエリアだと教育委員会ホームページにあるし、伊の倉と読むだけで色々繋がるのですね〔下関市〕
その上、馬関祭りは有名で、ばかんと言えば、半島の国、馬韓。新羅との交易や人的な繋がりが活発だったことは明白。
長門国風土記を探したいくらい、古代史に惹かれてますが、これと言って納得の物語には未だ出会ってません。
この、動画のストーリーを元に考察を続けます。関門海峡が天然の関所となり、お陰で日本海側に湊を作り半島と行き来した。その跡も辿りつつ、多種多様な人種、民族が入り乱れ、それぞれが集落を築いて今に至る。
と考えると、町中考古学博物館なんじゃないか、と思えて来た。沼にハマる思考を一本の線で繋げてくれるこの動画たちに感謝します。
東治の治の意味は何でしょうか。もっと言えば、東治とは、どういった意味があるのですか?。治の意味も分からずに、治と書いてあるから治だと言ったって何の説得力も持ちませんよ。
👏👏👏👏👏👏💓
全行程で、帯方郡より、水行10日、陸行1ヶ月 という考えも出来ますね。
投馬国→殺馬国(薩摩国) の写し間違い、はどうですか?
ありがとうございます。
参考になりました
皆が探している 百人と卑弥呼が眠る墓はどれなのか 前方後円墳なりかけの墓なのか? よくわからなかった
阿波説、なるほど。国産みで何故日本が最初に淡路島から作られたか不思議だった。
徳島は、古墳が多くある土地と聞きます。気候も温暖で住みよかったことでしょう。
ありがとうございます😊
伊都国を田川と比定されてましたが、地図をみると田川に位登古墳がありました。関係ありますかね?
ちょっと違うかな⁉️
もっと簡単には着くのに
残念😅
単里ー →短里。 短里は魏志倭人伝のみならず三国志の東夷伝では統一して使用され、三国部分は長里で統一。 陳寿は東夷の国へのリスペクトあり、三国と規模を合わせたかったと推定。 <直線距離、沙里院、夏や会稽の話には同意見>も四国説は?? 周旋5000里、水行10日陸行一月の説明がスンナリと行かないのでは。 因みに私説は投馬国沖縄、邪馬台国薩摩川内。 末廬国は?も松浦地区の何処か。 ニニギ祀られているという新田神社可愛陵ほか神武前三代の陵が集中する南九州なら会稽の東も概ね合格。 邪馬台国の北にある末廬、伊都などが西もおかしい。 後漢書はミス多い史書と思い重視せず。
弥生時代の倭国の首都は九州だった。
全く、その通り。
倭国のルーツは、九州だったのである。
畿内へは、ルーツの九州勢が、東遷して落ち着いた地であった。 のです。
直線距離という考え方、もしくは測定方法というものがあったのでしょうか。
魏志倭人伝の会稽東治の東は鹿児島です。鹿児島が邪馬台国なのです。
加治木義博 「真説」日本誕生 卑弥呼は金髪で青い目の女王だった
「真説」日本誕生 神武天皇が攻めた卑弥呼の邪馬台国は鹿児島にあった
魏志倭人伝の会稽東治の東に邪馬台国があるときされており、実際にその東には鹿児島があるということから、邪馬台国は鹿児島なんですよ。
加治木義博著 「真説」日本誕生 卑弥呼は金髪で青い目の女王だった
「真説」日本誕生 神武天皇が攻めた卑弥呼の邪馬台国は鹿児島にあった
まっ、どちらにせよ、邪馬台国は鹿児島にあったのですよ。
邪馬台国の卑弥呼は鹿児島で壱與を担いだ神武天皇によって邪馬台国を倒されその名も邪馬壱国(イチコク)に変えられてしまう。
そして元の邪馬台国の人民らは四国へ逃げ延びたということです。
わはは、なりゅほろ〜😊
田川周辺が伊都国。
私もそう思います。
「伊都国」の伊は当て字ではありません。
「伊」単独で意味があります。
糸島は「怡土」ですから二文字です。
「伊」とは「神に関する聖職者」と言う意味になります。
彼等は物部氏の一族で、遠賀川東岸、筑豊地区、北九州市の八幡と戸畑には「熊鰐」と呼ばれる一族が支配していました。
2000年前、遠賀川はもっと広い海で、内陸に深く入り込んだ洞海湾と繋がっていました。
ここは「くきの海」です。
古事記にも仲哀天皇がここを通る時に熊鰐が水先案内をしたと記述されています。
田川周辺には「伊」が頭に付く地名が多いです。
(田川市)
伊田、伊方、伊加里
(飯塚市)
伊川、伊岐須
(添田町)
伊原
他にも糸田、位登(伊都?)
位登は古墳があります。
奈良って地名もあります。
この周辺の地名は作っている物を表しています。
伊田=木の板
伊方=鋳型
伊加里=錨
船尾=舟の舵
勾金=金属を曲げる技術
釣り針、針金、鎖、フックなど
熊鰐も周辺の物部氏と同じく「饒速日命」を崇拝していましたが、岡田宮に神武天皇が滞在した時に神武天皇に臣従を誓いました。
香春岳、英彦山を信仰していました。
英彦山の第二、第三の祭神は「伊邪那岐」「伊邪那美」です。
どちらも頭に「伊」が付いていますね。
ここが伊都国だと思います。
奴国も京都郡みやこ町、行橋市、豊津で間違いありません。
ですが、私は奴国は福岡県苅田町〜宇佐市まで拡がる広域国家だと思います。
ここが卑弥呼時代の首都と思います。
不弥国は国東市国見町伊美だと思います。
ここは縄文時代から交易拠点だった「姫島」へ渡る港です。
邪馬台国は瀬戸内海交易で栄えた海洋国家です。
なので邪馬台国は瀬戸内海の西側から徐々に東へと勢力を拡げたと思ます。
ですが、徳島は遠いので徳島と直接交易があったかどうかはわかりません。
陸上での勢力も日本神話で朝鮮の須佐之男が宗像へ上陸して、遠賀川を挟んで戦った事から、少しづつ西へと勢力を伸ばし、狗奴国と衝突したのだと思います。