【睡眠用】謎だらけの日本史人物7選…【ゆっくり解説】

【睡眠用】謎だらけの日本史人物7選...【ゆっくり解説】



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これが日本史の謎人物か…
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歴史は何のために学ぶのか。この疑問を持ったことがある方は少なくないでしょう。仕事では直接使うことはほとんどないですよね。
過去を学ぶことで未来に活かせると私は考えています。教養という意味でも社会で必要な知識でしょう。
先人たちはどのような暮らしでなぜそのような文化が形成されたのか。面白いことばかりです。

こういった考えから、このチャンネルでは社会人の方が、ゆっくり楽しく歴史上の偉人のことを学べ、更に、そこから日常でも役立てられるような動画を作っています。
このチャンネルを通して学び、役立てられる人が1人でも多くなるようにチャンネル運営を頑張っていきます。応援してもらえると嬉しいです。
ほぼ毎日17時に動画を配信中 にっぽんぽん 運営 山本陽太

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#ゆっくり #ゆっくり日本史 #ゆっくり解説

ゆっくり霊夢とゆっっくり魔理沙だぜ今回 は未だに解明されない前田刑事の謎7戦に ついて解説するぜ前田刑事漫画や小説 パチンコなんかで聞いたことあるわね 歌舞伎者のイメージだわ前だってことは あの蚊が100万国で有名な前だけに関係 ある人でしょまあそうだなそれに漫画の キャラだと背が高くてイケメンで強くて それでいて共用があっておしゃれな感じよ ねでもそんなパーフェクトな人っている かしらもしかして架空の人物というわけで 名前はよく聞く割に分からないことだらけ の前田刑事について見ていくぞそれじゃあ ゆっくりしていって ね前田刑事の執事に関する謎は3つある1 つ目は生まれた年2つ目は首相の地3つ目 は両親が誰なのかだぜえ歴史上の人物とし ては人気者なのに刑事ってベールに包まれ すぎねでは前田刑事の生まれた年からだ まずは1532年天文が説それと1530 3年天文2年説他には1533年から 1541年天文2年から10年の間とする 説1542年天文11年説がある生まれ年 20年も幅があるじゃない例えば1533 年天文2年説前だけに伝わるかが反資料に あるその引用元は公許的録だ公許的6に よれば慶長10年1605去年73で 亡くなられたとあるそこから逆算すると 1533年点2年生まれになるわけだ加賀 反資料は失点として他にも8つの書物を 上げているそんなにたくさん果敢小説加賀 半歴府雑器重種雑談相加自園前出し系譜 三保機無暗期うわあ漢字だらけで目が回る わよし10冊の書物が押んだから1533 年天文2年生まれで決まりね確かに 1533年天門2年説は有力だだが他の 生まれ年を記録した資料もあるんだよ 上杉家に伝わる米沢人国機では1542年 天文11年と記載されているぞところが 米沢師団では天文10年1541年の頃 生まれたとされているうえどれが本当よ 分からんだから謎なんだよそういえば刑事 って生まれた場所もわかんないのよねああ 前田刑事の執事の謎2つ目は首相の地だ まず名古屋説先ほどの米沢師団には美州 街東軍荒子今の名古屋に生まれたと記され ている他には越後の国説大の国画軍の説画 説もあるぞ3つとも隣り合ってもいないわ ねなんでこうバラバラな説になっちゃうの かしらまあ名古屋説が有力だがなしかし 古代ならともかくあ桃山から江戸時代に かけての人物だぞそれだけ謎が多いって ことだな本当よねだって両親が誰なのかも 分からないんでしょそうそう前田二の羊の 謎3つ目は両親は誰なのかじゃあまず お父さん候補はどんな人それとも不明なの かかしら前田刑事の父は滝川カマスの一族 だとされている滝川かますなんか聞き覚え のある名前だわ織田信長の重心で小田天皇 の1人でもあった人物だ戦上手で鉄砲の 名主だったと言われるぜちなみにこの カマス大江の国高野軍の出身で忍者だった のではとも言われているぜ大江の国画軍 前田二出世の血の一候補よねおよく気づい たな霊夢光画説は滝がしから来ているんだ 刑事のお父さんが滝川カマスの一族なのは 分かったけど一族の中の誰だったの刑事の 父とされているのは滝川カマスのいまたは 追いと言われる滝川マスか滝川マジこの マスとマジは同一人物ではとも言われてい てよく分かっていない前田刑事の父は滝川 義田優だと言われるんだがこの義田優が 増しだともマジだとも言われるうん すっきりしないけどともかく刑事の お父さんは滝川優なのねいやこの滝川優も 前田刑事の父だとも兄だとも言われてるん だえじゃあ滝川田勇が刑事のお兄さんだっ た場合誰がお父さんになるわけ他の父親 候補は滝川かますの兄高安の離活だ父親の 話ではないが他にも前田刑事が滝川カマの 弟だという説もあるぜもう聞けば聞くほど 混乱してきたわ次お母さんの話に行き ましょう前田刑事の母親は不明だ生まれた 年も生まれた場所も両親もみんな謎じゃ ないのモヤモヤさせてすまんな刑事の母親 について言われていることは前田都家の兄 年ひの5歳になったという説だだがこれに も別の説がある前田久は弟前田安勝の娘の 向こだった刑事を容姿にしたって説だ やっぱりよくわかりません現時点で分かっ ていることは本当にこのぐらいなんだ よ名前の謎って前田刑事は本名じゃないっ ていうのあ刑事ってのは通称の1つなんだ な意味なつまり実明は別にある中国や日本 ののような感じの文化権では親や君以外の 人間が実名で呼ぶのはブレイだとして避け られたんだじゃあ刑事の意味なは何とし ますというのが最近ではポピュラーだな他 には年沖年さ年高年高年ひというのもある うわまた候補がいっぱい出てきたちなみに 通称もまだあるぞ刑事刑事郎刑事郎刑事郎 刑事郎相米刑事って通称もだけど次や にって感じが結構入ってるわね次男だった のかしらあり得るな実際前田刑事は滝川木 田勇増か数字の自死だとする説があるんだ まあとりあえず刑事の本名は年マに決まり ねいや相とは断定できない本人自筆で減損 するのは刑事刑事郎都さだけなんだよ意で 行くと年さは刑事本人が所蔵していた特に 地質が残っている刑事は倉がの綱秀あての 所場が刑事郎は前田刑事道中日記が本人 自室だまた分からなくなってきちゃったわ ね本人質外では当時の一次資料を見て みよう刑事年高と記録に残っている刑事は 前田都家からの所場に年高は野崎友道の 一書にそれぞれ書かれているぜねえ魔理沙 今思ったんだけど名前はどれも本名なん じゃない昔の部将って何度も名前が変わっ てるケースがあるでしょ刑事もそうだった だけじゃないまその可能性は否定できない が他の武将の意味なは生ぜ2つ3つぐらい だろ刑事ほどたくさん名前があると判断し づらいのが現状だ刑事は本名すらわからな いってこと ね質問があるの刑事は滝川カマスの一族な のになんで苗字が前田なの前田年や前だけ とはどういう関係よしでは今まで話した 以外の刑事の経歴を見ていこう刑事が前田 というせなのは洋が前田年ひだからだな 終わりの国荒子上手前田年春の長男が年ひ 4なが年だ有名な前田年って長男じゃ なかったのねああところで長男の年ひには 子がいなかったで年ひが容姿にしたのが 刑事だなぜ滝川一族の刑事が前田なのかと 言うと滝がしに嫁いでいた刑事の母が前田 俊久と再婚したからあるいは前田俊久が弟 安勝の娘向こだった刑事を滝川一族から 引き取って容姿にしたためとも言われる なるほど刑事は敬意はさて置き滝川一族 から前田年ひの容姿に入ったから前田刑事 っていうわけねってことは前田年は義の おじさんねその通り前だけは年久の台まで は終わりの国にあったが病弱で実施もい なかった年ひは家督を譲ることにしたあ それで弟の都家が過相続したんだでも都家 は4なでしょどうして次男や三男が継が なかったの4男の都家は当時信長に使えて いたからだ君にして有力者信長の命令で 都家が後継者になったという信長にして みれば家臣である年が投手なら前田を支配 しやすいしかも年は健康でそう明だった からなそういうことね納得それはそうと 家督相続の謎って何かしら前だけの家督は 結果を見れば長景年ひから4な都家と兄弟 官で相続がなされている年ひには子供がい なかったんだし四男の都家が信長の家臣 だったなら特に不自然には感じないわねだ がこの家督相続には刑事も候補に上がって いたんだというか洋の年ひが継がせようと していたえいくら長男のことはいえ血の 繋がりがないんだから不自然ねそうこれ こそが家督相続の謎なんだよ年久には年家 以外にも4人弟がいたんだぞそれなのに他 の家から容姿に入った刑事に家督を継が せようとしたのはなぜか年ひは前だけの 本流が弟の系統に移って欲しくなかったの かしらまあ考えられるかもしれないな他に 作家の砂原孝太郎氏は俊久の妻刑事の母 陰謀説を立てている要は滝がし出身である 年ひの妻が刑事に前田の家督を継がせよう と夫をそのかしたという仮説だそれで刑事 に家相続させようとした剣の真相は分かっ ていない分かっているのは1569年英 62年病弱を理由に信長が年ひを隠居させ たこと刑事の家督相続話が信長によって 却下されていること刑事が隠居となった年 ひに従って荒子上を出たことだ荒子上を出 たら住むところがないじゃないホームレス にでもなったの諸説あるぞ前田久刑事親子 は今日で生活していたとか滝川カマスを 頼って伊に言ったとかな刑事の話って聞く 度情報は増えるけど謎が膨らむばかり ね1581年から1582年転生9年から 転生10年頃刑事は再び前だけに使える ことになるこの頃には前田都家は信長に 活躍を認められのの国を納める大名にまで 出世していたそのため前田俊久刑事は都家 から7000国を与えられたぜこのうち都 が2000国刑事が5000億だ 7000億とか戦国とか言われてもピンと こないわ現代の給料と比べるとどのくらい の価値だったの分かりやすいので江戸時代 の国高と比較して説明しよう江戸時代のお 金の単位は量だろで一国は一両だった1両 っていくらぐらいおよそ10万円だなだ から1000国は1億円ってことになるえ じゃあ現代で言うと刑事は年収5億円都ひ は年収2億円って感じああ今のプロ スポーツ選手並みの稼ぎだぜ刑事と都は もちろんだけこれだけの給料を払えた前だ けってどんだけすごいのよ1584年転生 12年細巻き長くての戦いが起こる刑事は 末森城石川県白衣軍の救援に行った刑事は 高収入に見合った活躍ができたのかしら もちろん猛将ささなまによる攻撃を受けた 末森城だったが刑事が見事な戦術で攻撃を 食い止めたぜ刑事は他にも前田年からの メデアを上現在の富山県日の場台を務める 1585年転3年青城の戦いでは援軍を 受けつつもさっさなりまの配下である人望 春の軍を撃退おお刑事バリバリ働いてるわ ね1587年転生15年洋風の年ひが なくなる1583年転生11年没の説も あるが年ひに変わって刑事の小前田マトラ が都家に使え年ひの2戦国を受け継ぐその 後1590年天勝18年にはいわゆる 小田原抜があった小田原抜豊富秀吉が関東 の豊城士を破った戦いだな刑事はこの 小田原生別にも参戦北陸の軍事統括を担当 した前田都家に従い豊富方として出陣した ぜ刑事もう明日ともに前田の男になっ たって感じねところがだこの1590年 転生18年以降刑事は突然前だけを出版 する嘘でしょあんなにたくさんお給料 もらってたじゃない霊夢の突っ込みどころ はそこか前だけおしっぽつまり行方を くらました理由がまた謎なんだよなんと なく仕事に飽きたんじゃないかって気が するわだって刑事って自由本法で1つの 場所に留まってるの苦手そうだもの刑事 出品の考えられる理由は3つ1つ目洋とが なくなって前だけとの縁がなくなったから 2つ目前田年と船中だったから3つ目都家 の着な年長と船中だったからだどれもあり そうねこのうち2つ目の年不説に関しては 有名なエピソードが残っているので紹介 しよう刑事が田都家を騙して水風呂に入ら せている間に強え出版したという話だ刑事 には日頃からひねくれた考えを持ったり人 を馬鹿にしたりする癖があり都家から何度 も注意されていたそんなある日刑事は都家 に今まで心配をかけた詫びと開心して 生きることを伝えたんだそして茶を一服 もてなしたいと年を家に招待したのさ喜ん で訪ねてきた都家に刑事は今日は寒かった からお茶の前に一風いかがですかと進めた 心よく応じ風呂場で服を脱ぐ年わあこれ コントなら絶対何かが起きるやつよね刑事 がいい床加減ですというので都家が湯舟に 入るとなんと水風だった激怒する都家で 都家が水風呂に入ってる間に刑事が出奔し たってわけねしかも都家の合松風に乗って 逃げたんだぜ大した球だよなねえ刑事の 出品理由だけどさやっぱり都家が気に入ら なかったんじゃないのだって自分が前だけ の家を告げず年家がついだじゃないそれに 都家から態度について頃から注意されてた のもめんどくさかったんじゃないかしら 確かに家を告げなかったことで心にわかり はあったかもしれんなだが刑事って男は 小言にこだわらず決断力も実力もあり 忙しかったそうだ性格から考えると前田と 家が面倒だから前だけを出ていくような タイプではないだろうそれか漫画だと前田 年家が臆病もで前田け地を出品に追い込ん だように描かれてるけどいや実際の前田年 はそう明で豊富政権でも大名の連落薬など を行って多くの武将に慕われていたんだ 刑事を追い出すような小さい人間では なかったと見られているぜうんじゃあ出版 理由はもうお手あげ ね前だけを出てからの刑事は今日で何をし ていたの浪人生活を送りながら里村女波 正室親子や上種道古田オリベ多くの文化人 と交流していたというぜ刑事は歌舞伎者だ けどそれでいて共用のあるインテリの イメージもあるよね後に使えることになる 米沢ハでは中国の歴史書式に注釈を入れる ほどのレベルだったとされるそんな高い 教育水準を一体どこで身につけたのかしら おそらく出方後の兄弟だろうなレガは里村 女波に茶の湯古田オリベに指示したという がそれ以外に若の嗜みもあったというぜ さらにはクたちと間国金の書や原子物語 伊勢物語などの秘伝を受けたという中国の 歴史書を読み解いたり原子物語を不 くり返したりといったことはそうそう できることではない出版後に何をやってい たのかはイメージできたわ分からないのは なんで家族を置いて自分1人で出てきたか 家族も来なかったのかよその辺も分から ないんだあるとすればもし水風の話が本当 だったなら刑事は今でいう指名手配の状況 だ指名手配なら家族を連れてどこという わけにはいかないからなしかし蚊に残され た家族が特に咎められたわけでもない家族 のことや単独出版の理由は不明だだがこの 出版時に連がつながりで尚江金と出会い後 の君上杉影活をたようだ な前田刑事にはさっきの水風呂の話をはめ とする数多くの逸が残されている例えば どんな話2つ話そう1つ目は刑事が上過ぎ 影勝に使える時の話だ刑事は影勝への 手みやげに大根を3本自賛したそして大根 は見かけが悪いが噛めば噛むほど味がある のは拙者も同じと影勝に行ったとされる2 つ目は刑事が合図に移住した時の話だある もが傲慢な臨戦寺の将を殴りたいとと言っ たそれで刑事は臨戦寺のお将のところへ合 打ちに行き勝ったものが負けたものを殴る という条件をつけたぜ刑事はお将に勝つと 尚の顔面を思いきり殴りつけそのまま逃げ たと言われるこんな具合に刑事には ユニークな逸話が多いんだが信憑性に かけるものもたくさんあるんだ刑事って こぼれ話は多いのに肝心の情報が抜け落ち てるよねなぜなのかしら本当に謎が多 すぎるのが謎だよな逸が収録されている ような2次資料は豊富なのに一次資料に 乏しい刑事その理由として日本中性史の 研究家池田光一は次のように指摘している ぜ歌舞伎者だった刑事の出版後刑事に 関する記録は前だけのタブーとして闇に葬 られたのではないかとなだから信憑性の 低い捜索明た話は残っていて質や前だけで の様子などの肝心な記録は減損しないのね 今の刑事像はゆけ一郎の小説一務アフ勇紀 とそれを原作とした原哲夫の漫画花の刑事 の影響台だだがこの2作品の現は草果敢 小説上山気団武辺話聞き書きなど武辺話の 書かれた逸話軍江戸時代熱心に読まれた 逸話軍を通して作られた刑事像が現代に 蘇ったと見ることができる今の刑事像って 言えば本当に身長が190何cmもあった のいいや実際は同じ時代の他の武将と対し て変わらないぞというと戦国時代の男性の 平均身長は157cmくらいだだから刑事 も大体そのぐらいと思っていいぜああ身長 イケメンのイメージがとにかく歴史っての は勝者が作るものだからな前田刑事が生き たのは戦国時代戦を制したものによって 刑事の資料が消されたとしても何の不思議 もないだがこれも想像であって実際に何が 起きたのかは今となっては知るよしもない だから逸話をたどって高成の私たちが思い を寄せるしかないのねねせっかくだから 刑事の逸で他にどんなのがあるか教えて 任せろ審議のほどはさておき話を ピックアップしておお届けしようまずは 刑事が上杉家に使え始めた頃の逸話だ当時 刑事が大府変物の旗ざし物をしていたこと で他の武士と言い争ったとしている武らは 武幸輝かしい上杉家の新山者がなぜ優れた 無人などという旗をさしているのだと責め た刑事新人なのに対した度胸ねどう 切り返したの刑事はあなたは田舎の方です ねカのせいダを知らないのですかと言った んださらに続けて私は老人で貧乏だから大 不便もと書いた旗をさしているのです特傷 したとしている上杉家の武たち真面目に 怒ってたのに狐につままれたような気分 だったでしょうね繊維喪失だなさて次は 遠石での逸話だ刑事が京都にいた頃豊富 秀吉が初代名を招いて宴を模したことが あったえも竹縄という頃刑事は猿のお面に 手ぬいのほっかりをして場を笑いの渦に 包んだぜしかもその猿の格好で大名の膝に 次々と乗る始末膝に乗られた武将も 歌舞伎者の刑事には音がめなしだが刑事は 上す影勝の異に圧倒され影勝の膝にだけは 乗らなかったというんだまだまだありそう ねある日商店の前を通った前田刑事は足を 放り出して話している天主を見つけた刑事 はこの足も商品かと天主に聞き100巻門 を支払って天主の足を切り落とすとしたん だぜ自由気ままなお調子もだけど完全凶悪 なところもあったのねちょっとめんどくさ そうなタイプだけど人間臭くて憎めないわ ね 生まれた年について話してた時は確か刑事 は去年73だったって言ってたわね晩年の 謎って一体何かしら2つある1つ目は なくなったち2つ目はなくなった年がよく 分かっていないってことだなその前に晩年 に至るまでの刑事の障害を解説お願いよし 刑事は1598年慶長3年から1600年 慶長5年の間に上杉家に使え始めた1戦国 で飯抱えられたとされる年方1億円ね さすが霊夢お金のことは覚えが早いな四君 上杉影勝に従って刑事は関ヶ原の戦いでは 西軍に属し馳道上の戦いで武行を上げたと いう西軍が破れた結果合津120万国の影 活が米沢30万国に違法されることとなる 多くの武将が影活を離れる中刑事は主君を 見捨てることなく米沢に同行だがここで説 が別れる例えば加賀半側の公式記録では 関ヶ原の後米沢には同行せず浪人して合図 に残り合図でなくなったとされる一方の 上杉側の記録では先ほど述べたように米沢 に同行し米沢でなくなったとされているぜ うんどっちの説が正解かしらね説は2つ だけじゃないぞ野崎友道の医書によれば 刑事は大和の区に狩に陰生しその地で山の ためなくなったという陰性は関ヶ原の後も 刑事のいたずら癖と気候が治らなかった ため前田年長に命じられたとされるとなる と合津米座は大和の国借うのどれかって ことねどれも失点があるよねもう混乱して きたわ2つ目はなくなった年よね去年73 だっけなくなった年だが没年も没年齢も はっきりしないんだ例えば米沢の道森地区 にある道森前行寺内には前田刑事の供養刀 があってなその碑文には前田刑事は 1612年慶長17年去年70前後で同森 の地で没したと記されているじゃあ他の説 は加賀班資料では1605年慶長10年 11月9日ボスと書かれ没年は73とされ ている他にも1613年慶長18年没と する説があるなくなった地もなくなった年 没年と没年齢も分からないのねちなみに シーンはシーンも竜マとか腹の病気とか 言われていてはっきりしないんだもう今日 ははっきりしないことづくしでモヤモヤ マックスです霊夢すまんすまんじゃあ最後 に刑事ゆりの原品を紹介しながら終わろう お願いするわ1つ目は私立米沢図書館に尊 する前田刑事道中日記だぜ1601年慶長 6年刑事が伏見から米沢へ戻る際の旅日記 だ2つ目は刑事自作の面だ刑事は強で 文化人だけでなく農学者とも積極的に交流 した脳は武の嗜みの1つであり大の場所で の舞はよくあったんだ刑事ゲ達者ねそして 最後にムアの木の一説を紹介しよう そもそも私ことム安には高校すべき親も いつくしむべき子供もいない私の心はすぎ を着ると言えるほどそうにはなりきらない が髪を言うのが面倒なので頭を沿った手足 も不自由していないので誰も雇わない ずっと病気にもならないのでもぐさの世話 にもなっていないそうは言っても 思い通りにならないこともある寝たければ 昼も寝て起きたくなれば夜でも起きる寿命 が尽きるまで生きたらあとはただ死ぬだけ のことだと思っている行きざも死に様も かっこいいわね謎は山ほどあるけどきっと この心意だけは真実だって気がするわ違い ななゆっくり霊夢とゆっっくり魔理沙だぜ 今回紹介するのは鎌倉時代に蒙古集らを 予言した日連についてだ日連って言うと 日連集だっけそこのお坊さんああ現在では 最大級の仏教周波の1つ日連集の回そだぜ 日連が日連集を回収した経緯やその後に 降りかかる様々な苦難そして多波との バトルや蒙古集らの予言など彼の人生を 振り返りながら解説していくぜよろしく それじゃあゆっくりしていってね日連は 1222年現在の千葉県の国の漁村で誕生 している親は漁師といえど魚民を束ねる ような立場にあったと考えられているぜ 漁師さんは漁師さんでもちょっと偉い人 だったんだねそうなんだおかげで12歳の 時には同じ地域にある天大州の成長時で 初島教育を受けることができたぜ普通の 漁師の家だったら受けることはできなかっ ただろうななお信憑性にかける話だが言葉 条項の娯楽員だって説もあるぞそっか誰で も勉強できる時代じゃなかったんだもんね 成長時で読み書きや仏教の主要に励む日々 を送っていた日連だったが彼の中で仏教に 対する疑問が生まれそれは仏教について 学べば学ぶほど大きくなっていった疑問 って自分が生まれる前年に起きた上級の乱 で長底は信言密教の気筒を用いたのになぜ 負けたんだろうどうして同じ仏教なのに 宗派が乱立していてしかも仏教同士で争っ ているんだろうってな調定は負けたけど 戦った相手も当したんだろうしあとそんな にたくさん周波があるんだっけあああるん だぜ簡単にだが仏教の周波を紹介して おこうまずはなら時代に始まるなら仏教に はケゴ集や立集発送集などがある平安仏教 には天台集や信言集鎌倉仏教には念仏を 唱える上土系の周波上土集や上土真州座禅 を組む全集系の臨在集などだぜふむふむ 色々あるんだね中でも鎌倉仏教は念仏や 大目座禅などの簡単な方法で救われると 解いているんだとても入りやすいから鎌倉 仏教は庶民の間で爆発的に普及したそうだ ぜ私がこれを1日1粒飲めば痩せますって いうお薬に飛びつくのと同じだね同じと 言っていいのかわからないがまあ大体そう だなさて日連の疑問に戻ろう仏の教えは1 つなはずなのにこれだけの宗派が存在して いるのはなぜかその答えを知るため自分 より偉いお坊さんに聞いたが答えはなかっ たならばと自分で答えを出すべくこれら 既存の周波を猛進せずに自らの道を模索を 始めたぜ勉強熱心なのはいいことだわ16 歳の時に湿気すると今度は学習派の競技を 知るため比山遠慮寺や恩情寺荒野さんなど に通ったぜそれから10数年に渡り学習派 について学び仏典を読み漁った日連はある 1つの答えにたどり着いた補教こそが唯一 で死の教えなんだってな補教って何だっけ ウグイスの鳴き声カタカナで書からそう 見えるだけだ補橋はユーラシア大陸中央 から東部で進行される仏教の拠点の1つだ ぜ拠点にも色々種類があって周波によって 使用する点が違うぞ例えば臨在集は半屋 診療など上土集は無料受教など複数の拠点 を使用する周波が多いななるほどそれぞれ 内容が違うってことよねああ補教の内容は というと誰もが平等に仏の心を持てて平等 に成仏できるというもの日連はその補鏡に 命を捧げることを意味する南無妙法連教を 唱えることで救われると信じたそして他の 宗派は誤っていて補教こそ仏教最大の教え だという考えにたどり着いたぜこれが日 練習の始まりだなどれが正解なのかは知ら ないけど他は間違ってるって言えちゃうの はすごい自信だねでも他の宗派は補教を 使ってないの天台集でも補教を使用しては いるぞ彼らは南明法蓮華教と同時に南ア物 といった念仏を唱えていたそうだちなみに だが念仏は仏様の名前を唱えることでで南 あ仏ならあ如来の名前を唱えているぜ一方 の南明法蓮教は大目と呼ばれているものだ ふむふむ日連が子供の頃から世話になって いた成長地も天台衆なんだだから念仏も 唱えていたが彼は南明法蓮教だけを唱える べきだと主張したぞその上念仏は補教を 誹謗することで仏教で1番思い方NGを 犯しているとも主張をしたんだそんなこと 言い始めたらどうなるかは分かるよなうん 宗教戦争が起きちゃうわよとまではかない が争いは起きたぜ特に念仏を進行していた 地元の自党から激しく怒りを買い身の危険 を感じることになったこうなったらもう ここにはいられない長年お世話になった 成長時を去ることに決めたぞなんか 危なっかしい性格みたいだけどお寺を出て 次に行く場所ではうまくやっていけるの かしら向かう場所にもよるかもだけどどこ 行くの1253年成長時を離れた31歳の 日連が向かった場所は幕府があった鎌倉だ なんで鎌倉なの仏教と言ったら京都とかな 気がするんだけどそんなこともないぜ当時 の鎌倉は信言州や天台集臨在集や上土集 など幕府の庇護を受ける学習派のお寺が 立ち並んでいたぞ幕府は仏教を庇護してい たのああ仏教を通じて中国と攻撃し様々な 大陸の品を輸入することで武器文化が発展 していたからな鎌倉は仏教都市と呼べる ほど仏教との繋がりが強かったんだだっ たらなおさら前みたいに他のやり方にケチ つけたらまた揉めちゃうのは分かってるよ ね分かってただろうが鎌倉でもやめなかっ たぜ念仏なんて唱えても誰も救われない補 教こそが唯一の仏の教えなんだってな日連 は自らが信じる補教を解きながら他の周波 の批判を続けたんだあらら避難合合だった んじゃないああお坊さんはもちろん他宗派 の信者から罵声を浴びせられ石を投げ られるようなこともあったようだ庶民の間 でも仏教が広まっていたんだから石の数も 多かったでしょうね私だったら石を 投げつけられたら速攻で諦めちゃうけどね きっと私もだが日連は自分は間違ってい ないと確信していたようだというのも当時 の鎌倉は様々な災害に見舞われていた 1254年に大火災が起きて2年後には 洪水が発生翌年には大地震が起きると鎌倉 にあった寺院は崩壊するなど大災害が 立て続けに起きていたんだそれもこれも 国民が間違った仏教を信じているからだ 災難を食い止めるには補教を広めるしか ないと強く信じていたからだぜすごい自信 だわだが自分1人がそうといたところで何 も変わらないだから異性者の考えを変える べきだと考え1260年に幕府の全失権法 上時より当てに書物を変えて送ったこれ また大胆な行動に打って出たわね立証暗黒 論と題された書物は日連を主人に時よりお 人に見立て逆が尋ねた天辺チーの原因を 主人が答えるという問答形式にして自分の 考えを記しているんだその考えはさから 話している通り天辺地の原因は国や国民が 誤った仏教を信じているせい今すぐ念仏 信仰なんてやめさせ補教に基づいた政治を 行わなければ世の中は良くならないという かそれに気づかないなんて幕府は鞭だと まで言っているぜ無知って本当に 危なっかしい性格だわそしてこのままでは 次回本来なと他国親筆なんが起きると予言 し警告している簡単に言ってしまえば念仏 批判と幕府批判が書かれているぜまた一腹 ありそうな内容だけどそれより難しい言葉 でなんかを予言してたわねそれが現行の 予言だったのその通りだぜ次回本落なと いうのは国内で起こる争いつまりは内乱の ことだそして他国親筆なが他国からの侵略 後に起きる現行を予言していたとされて いるぜ内乱も予言してたのでもそんなこと いきなり言われて信じるかしらではこれを 受けて時よりはそして幕府がどのような 対応をしたのかというと無視だやっぱりね 日連のの発想は末法思想から来ているもの だ末法思想は仏の教えが廃れてしまった 時代を指し末法が続くことで災難が続くと 考えられていたぜ1052年に末法に入っ たと信じられているからこの時もまだ末法 なんだろうとはいえ他の仏教が謝ってる から補教だけを信じろなんて言われても それは無茶な話時よりは前週の信者だから 補教への消えはありえないしそれは鎌倉に 大勢いる武も同様だ補教だけを進行しろと いう日連の言うことに耳をかさなかったぜ お互いに自分が信じているものが間違って いるなんて普通は認めないもんね自分の 主張を無視された日連だったがめげること なく他の周波への批判と補強を解き続けた ぜ日連は弁が立ったようで彼の言葉に耳を 貸す人たちも多くいて幕府の反応とは逆に 指示者が増えていっただが一方で彼に 対する反発も大きくなっていったぞ批判し てれば普通はそうだろうしここまで事件が 起きてないのが不思議なくらいだわそれが 起きてしまうんだぜ日連がが立証暗黒論を 時よりに送った同じ年の夏の夜念仏派の 上土州の信者から襲撃を受けたんだこの時 は襲撃から免れたものの次いつ襲われるか わからない日連は鎌倉を離れ再び千葉へと 不教活動の拠点を移したぜいや千葉は千葉 で身の危険を感じていたわけだし危ない気 がするんだけど千葉では何事もなかった ようだなあくまでこの時はだがってことは 後で何か起きちゃうんだねその後およそ1 年間は千葉で補鏡を解いていた日連だった が1261年には鎌倉へ戻ったぜところが 待ち構えていたかのように幕府は日連を 捉えて伊の伊東への無罪を言い渡したんだ いきなりの展開だけど何の罪で幕府も正式 な調査を行っていないようだしその辺は 定かではないなだが日連が無罪になった 翌年に時よりは信言立中の栄村というお坊 さんを鎌倉に招いているんだだからその前 に鎌倉に帰ってきてしまった日連を追放 する必要があったのかもしれないな せっかくお招きしたのにうるさくされたら 困っちゃうもんね伊に流された日連は補鏡 を解くのをやめず念仏信者を消えさせる などして信者を増やしているぜルザを方面 されたのは2年後のことどうやら時よが 許しを与えたようで鎌倉に帰ってくること ができたぞもう用が済んだから帰ってきて いいよって感じかな幕府から方面されたと はいえ彼に対する他宗派からの避難は病ん だわけではなかった1264年に母の看病 のために故郷に帰った際にも以前怒らせて しまった自党から襲撃を受けているぜ後で 起きちゃうって言ってたのがもう来たこの 時に頭に傷を受けたり手を骨折するなどの 怪我で済んで命に別状はなかったものの 弟子は何人かなくなってしまっているぜ あららかわいそうにっていうかここまで いいことなくない補鏡に目覚めてから悪い こと続きな気がするから今からでも他に 乗り換えた方がいいんじゃところがだここ に来てようやく日連の信仰が正しかったと 証明され日が近づいていたんだぜもしかし てああ日連が立証暗黒論で予言した外国の 侵略が現実身を帯びてきたんだ1268年 に九州の打布に蒙古から国書が届いたその 内容はというと日本との通行関係を求め ながらも武力を用いることをほのめかす ものだったつまりは脅しだね自分の予言が 正しかったことをそして補教を世に広める 絶好のチャンスだそこで日連は失権の法条 時宗や幕府の用人さらに鎌倉仏教会のの 主要な僧侶に手紙を出して大の場での多種 派との対決を要求したぜまたまた大胆な手 を打ってきたわねで受け取った人はどうし たの時宗は日連の手紙も蒙古の国書も無視 したぜむしろ日連に至っては幕府の制作に 反する危険集団と見なし弾圧を検討した くらいだあらら逆効果だったのかだが庶民 や一部の武たちは違った反応を見せたぜ 予言が実現することが分かると不安を覚え 日連に救いを求めるべく次々と信者になっ ていったからな幕府としては予言が当たり つつあることよりも日連の信者が増えて いくことを恐れたかもしれないそうだね 日連に賛同して幕府批判する人が増えたら 氾濫が起きる可能性もあるわけだしだっ たらあまり増えすぎちゃうとまた捕まっ ちゃうんじゃないよくわかったな再び日連 はルザを言い渡されてしまったぜただし嘘 の密告を受けてだけどなもしかして日連を 適しする他の周波の人がその通りだ 1271年のことヒが続いていたせいで 鎌倉は大伐に見舞われていたんだただ雨が 降るのを待つわけにはいかない幕府は雨声 の人頭を極楽寺の住職認証に依頼したぞ 認証は関東における信言立中の中心人物で あり道路や橋の建設などの事業を行ってい た人物だ幕府から多大な信頼を寄せられて いたんだろうぜ日連からすると間違った 仏教を広める中心人物つまりはライバルだ ねなんとしてでもギャフンて言わせてやり たいって思ったでしょうねねああ強く思っ たようだ雨声の依頼がされたのを知った 日連は認証に対しこのような挑戦的な発言 をしたもし雨が降ったら私が認証の弟子に なろうただし降らなかったらお前が私の 弟子になれってな強気に出たわでどっちが 勝ったの認証は日連の挑発に乗らなかった が残念なことに雨も降らなかったぜ もちろん日連は人証になぜ雨が降らなかっ たのに弟子にならないんだとかやはり念仏 派は正しくないなどと攻撃を仕掛けたこと だろな言われた方はぐぬってなっちゃうわ ねってそんなこと言うから三国をああ認証 は悔しがるだけでは済まさなかった認証を 初めとする反日連の人々が幕府にこんな 告発をしたんだ日連の奴らが武装しとろを 組んで幕府の転覆を企んでいるってな普段 から幕府を批判してるし信者も増えたこと だしそんなこと言われたら信じちゃうわよ ねすぐに幕府から召喚された日連は刑事 裁判を管轄する侍どころの平のより綱から 人を受け逮捕されたぜこの時日連はより綱 にこう言ったそうだ私を失うのは国の柱を 倒すようなもの国は滅びるぞちょっと怖い くらいの自信だわだがその声も虚しく日連 にはサへの罪が言い渡されたと言われても どれほど思いバかわからないだろうがサに 流されるのは日本の敵と認定された従人だ ぜ日連はよほど幕府から適しされていたん だろうなそれでも処刑されちゃうよりは いいんじゃない生きていればワンチャン あるかもだしそのワンチも潰してやるそう 考えていたのは尋問し逮捕したより綱だ彼 は罪ではなく日連を斬死するつもりでいた ぜた周波の人からなら逃げようがあった けど幕府の役人に命を狙われたらさすがに 逃げられないわねああ絶対絶命のピンチだ よな日連は鎌倉中を引き回しにされタの口 の形状へ連行されたぜこの時には自分は罪 ではなく処刑されるのだと日連も悟った だろうってもしかしてここで解説が終わっ ちゃういやに斬死されるという時奇跡が 起きた謎の強烈な光が刺すと立ちを手にし ていた武は目がくみ場は混乱してしまった そしてそのまま処刑は中止になったんだぞ 何それ何の光だったのもしかして補教を 信じたおかげの何か隕石か水星かオーロラ かと考えられているぜちょうど処刑の瞬間 に現れて日連が救われるなんて奇跡以外 ないよなと言いつつも正直この話は怪しい けどなえなんでじゃなきゃ中止になない でしょちょうどこの時失権と胸の奥さんが 妊娠中だったんだそんな時にお坊さんの首 を跳ねるのは演技が悪いということで日連 は系を免れたって話があるぜああなるほど そっちの方が理由として納得かもまあ理由 はともあれ日連は斬死されずに当初の予定 通りサに流されることになったぞサでは墓 のあの腹に立てられた小屋を当てれたなん と言っても小屋がボロく冬には雪が 吹き込むほど食料は最初の1年は与えられ たがそれ行はなしこのように日連はかなり 厳しい環境で生活をするはめになったぜ 伊豆に流された時は2年で帰ってこれたっ けサドもそれくらいで返してもらえれば いいんだけどねここで日連は開目症という 書物の執筆を始めているサドに流されて から書き始めたのにはこんな理由があるん だ弟子たちもサに同行してきたのだが彼ら はある疑問を抱き始めていた補教が仏の 唯一で最大の教えだというのになぜそれを 信じる日連は迫害を受けているのだろうっ てな確かにそうだわ他の周波の人から攻撃 されて殺されかけたり2度も捕まって 島流しにされたりしてるしとてもじゃない けど仏様の加護を受けてるとは思えない もんこの人の弟子になったのは失敗じゃ ないかって思うのは当然だと思うその疑問 の答えは日連が信じる補教の中にあったぞ 補教に補教を不況すると迫害されるという 記述があるんだその通りで不興した結果 自分も迫害されているつまり今の自分が 置かれた状況は当たり前のことむしろ自分 こそが補教を広めるためにこの世に使わさ れた選ばれし行者だと確信するに至ったん だどんだけ前向きなのさらに日連の進行を 後押しするかのように開目賞が完成した時 に鎌倉と京都で内乱が発生したぜ法条時宗 の兄で六原短大の職についていた解すが無 本を起こした2月騒動だ事件は時宗が解す を育成することで終わったが日連の予言が 現実になったのは間違いないぜ蒙古が来る ことは私も知ってるし2つの予言が実現 するってこだねでもとりあえずは今の過酷 な状況を何とかしないとじゃないご飯だっ てまともに食べれないんでしょそうだな サドにいる間厳しい環境に何度も命を 落としそうになってるしなだが地元の多重 派のお坊さんから論争を挑まれた際ロパ できたおかげで信者が増えていたんだ彼 から移植獣の寄付を受けたから流されてき た時に比べればまともな生活が遅れるよう になっていたぜなんだそうだったんだ口が 達しで良かったわねでもずっとサにいない といけないのいや執行されてから2年と5 ヶ月経った1274年には時宗によって 方面され鎌倉に戻ったぜ1274年という と最初の蒙古従来分営の駅が起きる年だ からちょうど良かったよな自分の予言が 当たったって鎌倉で言えるもんね補鏡だ から当てたんだお前ら他の周波は予言でき なかっただろとかでもまたあんまり言うと また捕まっちゃうかしらいや今回ばかりは 幕府は日連に知恵を授かるとしたようだ そうなのってことは日連の予言が認められ たってことかしら蒙古から最後通帳を 受け取った幕府は平らのより綱に日連と 会見するよう命じているより綱はさに流さ れる前に日連を捕まえ処刑しようとした武 だぞ私がよりつなさんだったらどう接して いいのか分からなくてかなり気まずい空気 が流れそうで知恵って何を聞きたいの蒙古 襲撃を予言していた日連に襲撃がいつなの か聞くつもりだぜ質問に対し日連は今年中 に必ず来るとだけ答えたぜ具体的なひりを 聞きたかったけど年内だったら急いで兵を 配置しないと安心しろ幕府は何年も前から 打布にご家人を派遣するなどして準備を 進めていたぜ実際に刀を構えて戦う武も 重要だがこの当時同じくらい重要視されて いたのは気とだだからより綱は日連に対し 蒙古重複の気筒を命じたぜここは受けた方 がいいでしょだって補鏡の力を見せつける チャンスなんだし確かにそうだが日連は 多種派の進行を止め補教だけを進行すれば 祈とすると条件を出したぜ前にも書物で 日連が訴えた他の周波を否定しろ補鏡だけ を進行しろと言っていたのと同じことだ ならば今回も答えは同じでそのような条件 はよりにしても幕府にしても飲めるはずが ない日連への気筒の依頼は諦めていつもの ようにあらゆる周波に気筒を命じたぜまあ そうなるでしょうねここまで行ってきた旅 重なる幕府への訴えが通らず日連は幕府へ の働きかけは無駄だと察したのだろう鎌倉 を去ると現在の山梨県界の国にあるミさん に拠点を移したぜなおこの地に立てた音子 が日連集の総本山になるぞふむふむ日連が ミノさに移った後ついに蒙古が日本を出来 した分営の駅の始まりだ約3万物蒙古平月 島都駅の島に上陸し日本の武士たちが命を かけて戦っただが圧倒的な兵力さもあり 日本は苦しい戦いを強られかなりの被害を 受けてしまったぜ気筒も役に立たなかった のかしらああ今回の結果を受けて日連も 同じように考えたようだ補鏡以外の周波が 起動したのでは効果はなくむしバが当たっ たのだ他宗派の寺や大仏は焼き払いお坊 さんを処刑せよとまで言っているぞそして 何よりこのままでは日本は滅亡すると言い 始めたんだえ何その予言私が知ってる限り 日本は滅亡してないけどその予言が的中し たかどうかはとりあえず置いといて2度目 の蒙古従来までの間日連は不教活動と弟子 たちの育成に励んだ結果信者は拡大したの だが中でも天台州のお坊さんや信者が回収 し始めると天台州と日連集との間に争いが 始まってしまった海を渡って敵が来る時代 なんだから同じ仏教同士でやり合ってる 場合じゃないと思うんだけどなそれもそう だが彼らも自分らが信じる教えを守るため に必死なんだろうぜとはいえ天台シト日連 シュートでは戦いにならないけどな天台集 は法条家との結びつきがあるから幕府と いう強大な後ろ立てがあるからなうんだっ たら勝てないわね日連の信者だった農民 20名が武士にとらわれ鎌倉に連行される 事件も起きているなお彼らを尋問したのは 三たの登場となたのより綱だぜ ちょいちょい登場してくるわねより綱は 激しい取り調べを行ったそうだが信者たち は屈せず進行を貫いたそうだこれを知った 日連は自分の障害の目的を遂げたと話した そうだぜ自分を信じた人が苦しい目にあっ てるのになんでそうなるのかは理解でき ないわねその後も天台州と幕府による迫害 は続いたようだがそんな中2度目の蒙古 集合公案の駅が訪れるぞ2回戦目が始まっ ちゃうんだね1281年に2島と池への 攻撃を開始した蒙古は博多湾に到着すると 上陸作戦を開始したぞ日本の武士たちは 全力で戦い侵略を妨げたそして何より台風 の直撃があったおかげでもこの撃退に成功 しただやったわねさて他国からの侵略の 予言は当てた日連だったが結果は思わぬ ものだっただろう最初の現行では多数派に ついて散々文句を言えたが今回の襲撃は 見事気筒が成功してしまったからな当時当 を行った自社はこぞって当のおかげで日本 は救われたのだと小高に叫んだことだろう もちろん幕府は学習派に莫大な音象を与え たそうだぜ音私も巫女として参加したかっ たわ一方で日本が滅びビルトまで行ってい た日連の心情はいかがなものだったか記録 によればかなり困惑していたそうだぜこれ まで自信満々だったけどへこんじゃったか なああ2度とこの時の気持ちを思い出し たくなかったのかもしれない日連は弟子に 対して蒙古従来の話はするなと厳しく指示 したそうだその後公安の駅の翌年の 1282年以前から患っていた胃腸系の 病気が悪化しこの世去っている61歳だっ たぜ話を聞いてる限りでは意のない迫害 ばかり受けたくなんの人生を歩んでいたわ ね補鏡的にはそれでOKみたいだったけど でも一部だけでも予言が当たって良かった じゃないまあ予言ではなかった可能性が あるんだがなえ日連は当時の大陸の情勢を 知っていたそうなんだだからいつか蒙古が 襲撃すると予測はできた生まれる前年に 上級の乱が起きているから内乱がまた 起きるとかもと予測をしたのだろうぜなん だそんなことだったんだまあくまで可能性 だけどなさてこれにて日連の解説は以上だ 人の信じる気持ちって強いんだね色々と 大変なことがあってもめげないし最初は 全く広まっていなかった日練習も今では 全国に広まってるんだもんね人の信念って すごいなって思ったそうだな私たちも諦め ない気持ちを強く持たないとだなでも石を 投げられたら諦めるわ投げられるなら 投げ銭がいい私ゆっっくり霊夢とゆっくり 魔理沙だせ霊夢今日はいつも以上に眠そう だな昨日の夜芸能人のスキャンダル記事を 呼んでたらいつの間にか朝になっていたわ 朝までってさすがに夢中になりすぎだろ そういう下世話な話とかスキャンダルって なんか気になっちゃうじゃないまあ分から なくもないがなそれなら今日は江戸のよ 騒がせた最大のスキャンダル延明イ事件に ついて解説するぜそれじゃあゆっっくりし ていってねそれでまずは延明員事件って どんな事件なの結論から言うとイケメン 僧侶として有名な日動が様々な女性と スキャンダルを起こし最終的に資材になっ たって事件だな資材昔ってスキャンダルに 対してそんなに罪が重かったのしかもイケ メンってその日動って人はどんな人だった のよおいおい1回落ち着け本当に霊夢は イケメンに弱いな別にいいじゃない早く 教えなさいよはいはいまずは日動の説明 からだな日動は日練習の寺院である円明員 の住職に30代前半という若さで就任した うんうん歌舞伎役者と見間違えるほどの 整った容姿と血の高い肩書きさらにはト力 もあり美装としてまた琢磨に人気を集めた んだぜ顔だけじゃなくて中身も魅力的なん だね点から2物も3物も与えられてる そんな人が住職っって日動目当てで産経に 来る人が多そうね霊夢の言う通り江戸中の 女性たちが日動目当てで日産をしていた 日動はそれをいいことに隠し部屋に女性 たちを招き入れては毎日のように陰光に ふけっていたんだぜそれだけモテていれば そうなるよねそもそもエメは小宝に 恵まれることで有名だったんだだから将軍 の四木を待望する王から未所や即死に 変わって屋上中が 大産大付での祈願が頻繁に行われていたん だぜそれで隠し部屋に連れ込みやすかっ たってことねそういうことだでも住職と いう責任重要な肩書きがあるのにこれが 世間に広まったら大変なことになるんじゃ そうだぜリスク高すぎるよなしかもこの 時代僧侶になったものは女性と関係を持つ のはごハットだったんだあくまでも建前上 だけだったがルールを破った層に関しては 取り締まりがかなり厳しかったんだぜそう なんだそれを知ってても女性との関係を 切らない日動ってよっぽど女性が好きだっ たのねダメだと分かってるからこそやめ られないそういう禁断の恋愛に陥って しまう人がいるのは今も昔も変わらない ようねそうだな最終的に日動1人では相手 にできないほど多くの女性が延命員に通っ ていてその数59人と言われてるんだぜ そしてその中に王や初犯の屋上中が混ざっ ていることが発覚しこのことは一瞬で江戸 中に広まったんだそれで日動は始発になっ たってわけねいやいや始発になるまで様々 なドラマがあったんだそういえばさっき 日動は王とか屋上中とも関係を持って たって言ってたけど日動もすごい階級の 女性に手を出したねああさらに日動は多く 部屋の女性を妊娠させた挙句打倒させたり 大名屋敷に勤める複数の女中とも関係を 結んでたんだぜそこまで行くともはや一種 の病ではさすがにどこしてるよなところで この時代は誰がこういった事件を管理して たのああそれは自社不良という役職の人が 管理していたんだぜ自社不良自社不良は町 武良感情不良の3武良の中で不大大名から たった4から5人しか選ばれない役職だっ たんだいわゆる出世コースってやつねだ けど日動が手を出した相手が多くの女中な のもあって自社武良と言えどなかなか手を つけられずに長らく放置されていたんだの 女中は惑星をも動かす影響力大の地だもん ねそんな中初めて調査に踏みかかったのが 脇坂安田という1人の男性だちなみに安田 の先祖は秀吉と柴田克が刃を交えた静ヶ岳 の戦いで活躍した7本槍の1人脇坂安春だ 関ヶ原の戦い直前に東軍の徳川に寝り家康 政権家で生き延びた登山大名だから本来 なら自社不良になれる価格ではないんだぜ すごいわね安田だでもどういう経緯で自社 料になったのかしらそれは老中を排出した ほったからよママを迎えて反しとしたこと で不大名に格上げされていたんだこういう 格上げのことを願い不というぜ価格を使わ ずその立場に行ってるから中性心も圧倒的 に強そうねだなそれで安田はどんな調査を したの安田はどう幕府に踏み込むか考えた 挙句延明員に密偵を送り内場を探らせたん だ見て女スパイってやつだな家臣の娘で あるオナを屋上中に仕立てて員に何度も 通わせたんだおり作戦ってわけかでも行方 も相当な覚悟ねそうだな延明員に通い続け た後オナは日動に別室へ招かれついに関係 を持ったんだぜ作戦通りねオナの決しの 調査で王女中と日動の間でやり取りしてい た演奏を入手したんだ援ラブレター的な そうだその他にも金銭処理書や建物の 仕掛けなどたくさんの証拠を手に入れたん だやるじゃないナナから数々の証拠を手に 入れたヤタだは今日和3年5月26日自社 武良の部下を連れて延命員へと声をあげ ながら踏み込んだついに日動vs安ただの 始まりねしかし延明員に踏み込んだものの そこには日動の姿はなくいくら探しても 見つからなかったんだどこ行った逃げ足早 すぎでしょ焦った安たたちは僧侶の優先を 捕獲して尋問したうんうんそして僧侶たち から日動は玄関先の長持ちに隠れていると の情報を得たんだ長持ちってどんなものな の木でできた長方形の大きな2つき箱で 衣類や布団ちょうど品等を入れておくため の入れ物として使用されていたんだぜ蓋も ついてるなら隠れるのにぴったりねだな安 たたちが長持ちを取り囲んで蓋を開けよう としたが全然開かなかったんだ怪しい怪し すぎる数人がかりで蓋を開けると中には 震えながら隠れていた日動の姿があったん だ日動終了ね引きずり出された日動は色気 のいの字もなく縄をかけられ自社部へと 連行されたんだせっかくのイケメンが 台無しじゃないそして日動は江戸中に さらされた挙句資材となったんだそもそも 日本になったら資材一択なの遠投という 島流しが普通なんだけど日動が貸したこと はさすがに度が過ぎていたから資材という 結果になったんだ59人の女性と関係を 持って打たまでさせたもんね日動と関わっ た多くたちはその後どうなったの多くから は温中郎梅村の部屋方のコという女性を 押し込みにしただけで他のの20人近い 多くと大名家の屋上中は不問にしたそうだ そうなんだまあ人数も人数だし1人1人 事情調子していたら拉致が開かないものね でもどうしてその女性だけが罰を受けたの 頃が所属していた梅村は第11代将軍家 なりの着しで後の12代将軍家吉つきと いう貴重な養殖だったこともありさすがに 見逃すことはできなかったんだとかそう いう点に関してはやっぱ責任ある立場だと 何かしでかした時の罪は大きいねそうなん だけど見決着後に温中郎梅村は自害し さらに延明員が用意していた12人の屋上 中は王から追放され武方向禁止になったん だぜ結局頃以外の女性たちもばっせられた のねところで女スパイナギとヤタだはどう なったのオナはさきが出る前に自害したん だ正義を尽くしたことには変わりないのに 悲しすぎる結末一方のヤタは大屋女中の 山元で失脚しその後は達の半に正に専念し たそうだしかしそれから16年後に軍徳川 家なりによって再び自社武良に抜擢された んだやるじゃない安田安田は田島伊戦国家 の家相続問題や反省での過労の戦国作業と 戦国未が対立した戦国騒動という名の権力 争いでは徳川家なりからさきを命じられた んだ時々に命じられるなんてさすがだね 表情所にて戦国作業を極もとし伊班は3 万国の元風さらには加担した老中松ヤ党を 失脚させたんだぜ結果もしっかり残しって 本当に優秀な人なのねこのことが評価され て安田は西丸老中閣将軍精子である徳川 家里つきに抜擢され最終的には本丸老中に 昇進したんだヤタだ人生うなぎ登りね江戸 の知恵がと歌われたヤタだったが老中在職 中に死去になったそうだ死去が突然だった ため毒殺説の噂もあるけどな毒殺なんて 日動の軽率な行動により何人もの人生を 狂わせてしまったのが延明員事件ってわけ だ本当に胸が痛くなる事件ね余談だけど 日動はそうではなく歌舞伎役者2代目おえ 菊五郎だったとの噂が世間を賑わせていた そうだえどういうこと2代目菊五郎は休止 したんじゃさすが霊夢イケメン分野に 詳しいなだがそれは嘘で実は菊五郎が謝っ て人を殺してしまい行方をくらました らしいんだえもしかしてそれで日常に名を 変えて潜伏したのが遠員ってことま あくまでも噂だけどな異常なほどの女好き といい菊五郎疑惑といい本当に謎大き男ね そうだな思ったんだけど多く女中の人たっ て人数も多いしチがあるとはいえ管理監督 が雪届かなそうねそうだなそれについては 多くの風気について土台になった逸話が あるけど知りたくないか何何江戸幕府の 11代将軍徳川家なりは延明員事件発覚時 在17年目だったうんうんそして生涯に おいて16人の即死50人以上の子供を 設けた人的な人物なんだえ50人以上即 16人も記録に残っているものだけで実態 は40人以上いたとも言われているぜ もはやゼックレベル周りには夫性将軍とさ れていたそうだ何か理由があってそんなに 子供が多かったのかな最近の研究で言われ ていることは各地の大名との関係強化が 目的だったとの説もある各地の大名との 関係教化ああ即が生んだ男子を確に容姿に 出して娘たちは大名の性質として嫁がせ 幕府と大名家とのパイプを強くするそんな 意図があったそうだそれにしても体張り すぎでしょまあそれが事実であったにせよ 多くの即死と子供で規模が膨れ上がった 多くは管理監督が行き届くはずがない だろうなそれが多くの風気が乱れた原因の 1つなのねそういうことだところでその 風気の土台となった事件って何なのよああ それが江島島事件と呼ばれる事件だぜ江島 島事件もさっき話した円明員事件同様 歌舞伎俳優と王との間で起こった スキャンダル事件だうんうん主人公はエジ という女性エジは王の事実上のトップと 言われていてお年寄りにまで出世した最高 ある女性だったんだ階級生の世界でトップ になるなんてすごい人なのね江島は甲府反 の娘として生まれ7代将軍家を生んだ月光 員月の女中として王に入ったんだぜうん うん月光員は6代将軍家信の即だその屋上 中として重要されお年寄りで登り詰めたと 言われているそんなすごい人なのに何が きっかけでスキャンダルを起こしたの正徳 4年月光員の明大として徳川の母大寺で ある芝三城寺へ参拝に出向いたことでエジ の運命が大きく狂ってしまうんだそもそも 王女中って江戸上から出ていいの明大とは 代理のことでエジが母に変わって母大寺に 参拝に行くよう命じられるんだ月光員は7 代将軍の母だがボダ寺への参拝といえども 江戸上の外へ出ることを厳しく制限されて いたんだぜそこまでで厳しいんだ華やかに 見えて本当に窮屈な環境ねそれで明大とし て白葉の矢が立ったのがエジだったんだ 明大に選ばれる江島も月光員から相当な 信頼を得ていたのねそんな江島だったが 参拝を終えてもすぐに江戸上に戻らずご服 ご用達の証人と合流し歌舞伎干渉に出向い てしまったんださすがの江島も外の誘惑に は勝てなかったのかしら歌舞伎鑑賞は幕府 用人が切るご服を仕立てて下ろす御用商人 が多くの幹部女中と婚にするための場で エジをはめお中ろや荷物運びの男性役人ら 総勢100人長が揃って歌舞伎を見たと いう大掛かりな接待のようねまさにそうだ な感激後には茶屋で宴会も模されそこで エジはしこたま酒を飲んだそうエジはめを 外しすぎではその席には干渉したばかりの 芝居に出演していた島新五郎も呼び出され て参加したそうださっきまで舞台にいた 役者さんと宴会なんて夢のような状況ね 結果江島は多くの文言であるクレム56を 破ってしまったんだ文言もあったのねそれ で結局江島は白には帰ったのああ帰った ものの多くの玄関口は閉じられていてエジ は門番と通せいや通せませんと押し問答に なった挙げ句なんとか通してもらったでも これ江戸上10にバレるのも時間の問題よ ね江島から酒の匂いプンプンしていた だろうしそうだな男女の関係があったと 確証はないが江島は文言に遅刻したことに は変わりないそして江島と一緒にいた役者 が統制とっての人気者だったことが江島島 事件へと発展を遂げたんだなんだか そわそわしてきた数日後江島は生島新五郎 と密かしたという容疑で江島の義兄に 当たるごけ人し平門の屋敷にてあけとなっ たんだあけって今でいう後金状態的なそう だな重罪を犯したわけじゃないのに後金 状態ってさすがに厳しすぎな気がするわ その後2人はどうなったの調べの結果エジ と新五郎はルザに処されることが決まった んだエジは取調べで自白していないものの 幕府から資材にしろという意見もあった らしいぜいやいやさすがにやりすぎではだ がその罪十々に相老といえども誤慈悲に よって命助けおかれと主人である月光員 からの除名丸があったようだなんとか助け てあげてほしいわその結果資材は逃れたが エジは高藤犯にて幽閉となってしまうこと になるぜたった1度文言を破っただけなの に辛すぎるわよ一方エジの義兄に当たる 白雷平門はエジに対する督 と見なされ連帯責任で資材になったんだ 何それ連帯責任とはいえ罰が重すぎよ延命 員事件に続き残酷な結末ねそうだなでも 江島は自白していないんだし冤罪だった 可能性もあるよねそうだだが冤罪だっった としても関係者らが思い処分を受けたこと によって密回が事実だと認定されてしまっ た可能性も否めない冤罪だとしたらなぜ 江島や新五郎たちは罪を着せられたの かしらまそれには幕府ないの権力闘争が 深く関わっているんだがここで話すと長く なるからまたの機会にな幕府の権力闘争逆 に気になるじゃない興味があるなら調べて みるのも面白いと思うぜそうねエメイ事件 といい江島島事件といいすごく刺激的な 内容だったわ両方の事件を通して言える ことはいつの時代もスキャンダルは人々を 引きつけるってことかなまさにそれね霊夢 も人様に顔向けできないような スキャンダルには注意だぞどういう意味よ 以上で江戸サがた1代スキャンダルの解説 は終わりだぜゆっくり霊夢とゆっくり魔 理沙だぜ古代師で最も反映した藤原氏の石 を築いた藤原の不今回解説するのはその娘 である藤原の都子についてだぜ文部天皇の 夫人であり商務天皇の母でもあるがゆえに 天皇氏には決して乗せられないある秘密が あるんだどんな秘密なんだろ一方で夫人で 母なのに載せていいのかよという スキャンダラスな資料もあるんだぜ都子の 人生と共に秘密とスキャンダル療法を紹介 してくぜよろしくそれじゃあゆっくりして いってね藤原の都子は藤原のふとの実の娘 として職に本木に登場しているぜふとは ついさっきも話した通り明鳥時代に藤原市 の繁栄の石を築いた人物だ具体的に何した 人だっけ主な功績は大砲率量の制定だろう 大砲立量は中国の制度を習って作られた もので日本発の民法と行政法そして警報が 揃った法典だこのような本格的な法律が 制定されたことで天皇を中心に屋立量国家 が誕生したんだぜなるほどでもなんだか 地味だねそれじゃこれはどうだ日本発の 本格的な途上平常教これもフヒが計画し 主導したものだそれに古代日本を解説する 時には資料として欠かせない日本初期この 政策にも不が関わっている藤原市の繁栄の 基盤だけでなく日本の基盤を作ったと言っ ていい人物だぜうちのチャンネルでも日本 初期には大変お世話になってるもんね地味 とか言っちゃってごめんなさいそんな すごい人と結婚したお母さんはどんな人 だったのみの母はふの第3婦人か姫だと 言われているぜ第3婦人まさかそっちの方 もすごい人だと思わなかったわ一体何人の 奥さんがいたのひには4人の妻がいたぜ4 人もお盛んだこと彼女たちとの間に生まれ た都のイボマは歴史に名を残した有名人 ばかりだ4人の妻と一緒にケマも紹介 しようまず最初の妻がそ野子だ彼女との間 にはむ二崎馬のさなが誕生しているぜそも よく名前が登場するお偉いさんだよね権力 者同士の結婚ってことはいわゆる戦略結婚 ってやつ確かにかつてはそは長底で最大の 権力を握っていたなだが645年の一の編 で中富のかたりと中野大の王子によりそが は打ち倒されているその後権力はそがから 中富しに行こう中富氏は藤原氏とせを改め 不に続くわけだだったらそがにとっては 藤原は憎むべき的な気がするけどいいのか なそれに藤原は倒した相手なのに親戚に なっておいしいことあるのかての権力者の 血筋を家計に取り込むことで新たに権力者 になった自分の血を確保アピールできる 藤原氏にとってはかなりおいしいぜそっか 自分たちが権力を引き継ぎましたアピール ができるってことか続いての第2夫人は 現代ではありえない話だが不の妹井えの イラつめだケマでって何その禁じられた 関係ウトでしょそれが当時は母が違って いれば結婚もOKだったんだぜOkだとし てもよよくもまあそういう気持ちになれる よねなれるんだろうなげにちゃんと2人の 間にはマロが誕生しているしなこのマロと 第一夫人との間にできた3人の息子とで 藤原の4兄弟と呼ばれている父のふが 亡くなった後権力を握ったのが彼らだぜ だったらみにとっては頼もしいお兄ちゃん たちだねそして宮子の母だとされている第 3婦人の鴨の姫だカ氏は当の有力な豪族で 鴨川や神が神社などゆかりある地名が今も 京都に存在しているぜうん鴨川って書かな いっけ京都に住んでる人ならご存知だろう が同じ川でも上流は鴨川火龍では鴨川と 表記が変わるそうだぜなお以前は鴨川の 表記もあったそうだややこしいけど勉強に なったわ鴨の姫は長女都の他に次女の長子 も産んでいるぜがしかし都子は本当に鴨の 姫が産んだのかどうかが問題でありそこが 都の秘密でもあるんだえどういうこと お母さんが違うってこと母だけじゃなく父 もだぜどっちの子供でもないってことは その話はまた後にして第4夫人の紹介もし ておこう第4夫人はあの犬かの道代だ彼女 の家に関しては正確なことは分かってい ないが中堅豪族のでだろうと考えられて いるぜひが出世できたのは彼女がいたから こそだと言ってもいいだろうなるほど いわゆるあげマンってやつなんだねそう いうことではないのだぜ道は天から現象 まで5台に渡って天皇に使え旅館の中で トップに登り詰めた女性なんだ歴代の天皇 から信頼されていたが特に玄明天皇からの 信頼が熱かったとされているなそんな彼女 がいたからこそ藤原氏は皇室との関係を 深め失せできたんだぜそういうことなんだ ねしかも彼女と不との間には公明師が誕生 している公明師は商務天皇の工合だぜあれ 宮子は商務天皇のお母さんって最初に言っ てなかったっけああ行ったぜそれじゃイボ 姉妹で義の親子ってことふは妹と結婚する し家計図の線がごちゃごちゃしてそうさて ここまでがふとの妻たちそして都のケマだ では今回の主役の都について話していこう 誕生年が不明なため何歳の時かは分から ないが697年に第42代文部天皇の武人 になっているぜ武人皇后とは違うのどっち も天皇の嫁を表す言葉ではあるんだよね 使い分けることになんか意味があるのある ぜ天皇の先は羊によって格付けされている んだ格下から紹介すると品武人非工合の 順番だぞ都に与えられた武人は苦行クラス の娘が慣れる地なんだそれじゃ1番偉い 工合はどんな人が慣れるのトップの工合や 日の地につくには皇族であることが必須 条件だぜそれだけ工合が特別なのは時代の 天皇のつなぎとして天皇に即位することが あるからだなそうなるとますますわけが 分からないんだけど明師は商務天皇のって 紹介したじゃない公明師のお母さんは皇族 って言ってたっけいや中堅豪族の出だぜ それなのに合になれるなら都子だって武人 じゃなくて工合になれるんじゃないのいや みは合にはなれないんだその理由がさっき も話した都子の生まれに関係しているんだ ぜふとお母さんの娘じゃないみたいなこと を匂わせる言い方してたよねああ実はみは ふと鴨姫との間に生まれた子ではない幼女 だという話があるんだぜ本当のお父さんと 母さんは苦でも豪族でももちろん皇族でも ないぜ和歌山県にある道場寺というお寺に 都子の首相に関する伝承が残っているんだ その伝承で聞いてもらえば分かるぜ現在の 和山県のご防子肉天野里という地域があり はたと天野長という夫婦が住んでいた彼ら は子に恵まれなかったため八幡宮に日々お 祈りをしていたんだすると願いが届いたの か2人の間に女の子が誕生した娘は八幡宮 にちなんでみと名付けられたぜそれが宮子 なのかなまだ子がついてないみたいだけど 2人はようやく授かった娘を大事に育てた だがみやには問題があったどんな問題 赤ん坊の頃ならまだしも成長しても髪の毛 が生えてこなかったんだううそれは かわいそうね神は女の命とも言うのに そんなある年里は不良に見舞われ住人は 苦しい生活を強いられていたどうやら不良 の原因は海底から発せられている不思議な 光のようだ海底で何が光ってるんだろう 潜って確かめるしかないよねその通りだ 不良から救うため海に飛び込んだのは宮の 母親ナだった彼女は娘の髪の毛が生えない のは親である自分の前世の報いだと信じて いたようだそこで不良に苦しむ住人を助け 罪滅ぼししようと考えたんだぜそんな 罪滅ぼしだなんて海に潜った長は海底で 光輝く何かを発見した沈んでいたのはなん と小金色の観音像だったあらま不思議ナは 観音像を持ち帰ると大切に待たぜすると 海底から照らす光が消えたおかげで大量 続きとなり里は救われたんだついでに宮の 問題も解決すればいいんだけど残念だが 一向に宮の髪の毛は生えてこなかった そんないいことしたんだから報われても いいじゃないの里の救生士となった長は里 の人間から尊敬されたが娘のために謙虚に ひたすら祈る日々を送っていたぜそんな ある夜ナの夢に観音様が現れたんだ海底 から拾ってあげたんだから助けてよねああ は夢の中でも観音様に娘の髪の毛が生える よう必死にお願いしたぜすると彼女の願い がようやく届いたらしいみやに髪の毛が 生え始めたんだ親も本人も喜んだだろうね それはもちろんだろうしかもだ年頃にも なると神長姫と呼ばれるほど美しい黒髪が 自慢の美人に成長したんだぜある時宮が髪 を空いているとスズメが飛んできて髪の毛 を1本加えて飛んでいったスズメが飛んで 行った先は奈良のみしかもふとの屋敷だっ たぜおて偶然スズメは屋敷ののに巣を作る とすから美しい黒髪が垂れ下がっていた それを見つけたふとは黒髪のあを探すよう 明治宮の髪の毛だと分かると幼女に 迎え入れたんだどうやって探したなんて 聞くのはやぼかしらこうしてふとの幼女に なった宮は宮子という名を与えられた そして文部天皇に認められ武人となり2人 の間には後の商務天皇が誕生したわけだ なんかシンデレラみたいなお話だね シンデレラだったら王子と結婚してお しまいだがこのの話にはまだ続きがあるぜ 天皇家に嫁いだ都だったが故郷のクの里を 忘れられなかったんだホームシックか里と 高居とじゃ全く環境違うだろうし恋しく なっちゃうよねそれもそうだが何より きっかけとなった観音様を置いてきたこと が心の残りだったぜ文部天皇はそんな都の 思いを知ると局名を出した都に美しい黒髪 を授けた観音様を祭る寺を作れってなこう してできたのが道場寺というお話だぜいい 旦那さんじゃないのハッピーエンドで 終わったしめでたしめでたしだね今の話は 道場時に伝わるもう1つの伝承案ち清姫 伝説と共に伝わった話だそうだそれって どんな話なの今回のテーマとは外れるから 一言で紹介すると愛が憎しみへと変わり 大蛇に変身した女が相手の男を殺して しまう話だ歌舞伎や上りの遠目として有名 なんだぜ1度見てみたいかもでは都の伝承 に戻ろうこの話にはいくつもパターンが 存在している失点によってはスズメが つばめだったり髪の毛が1本ではなく束 だったりと細かい部分にさはあるものの 大筋は同じ都子は天の生まれでふとの幼女 だと伝わっているんだぜお寺の演技みたい だし本当のお話かもしれないわねでもなん でふとはわざわざ髪の毛のアジを探したの に都を幼女にしたんだろ探し出すほど髪が 綺麗な人が好きなら5番目の奥さんにすれ ばいいのにひも好きなのかもしれないが 幼女にしたのには理由があるそれはモム 天皇に取り入るためつまりは出世の道具と して利用するためだぜそっか文部天皇と 結婚させて自分が義理の父親として皇室に 近づくためにってことかずりそういうこと だ娘と天皇2個が誕生すれば天皇の外祖父 の血も手に入るからなでも天皇だったら 武人より上の工合はいなかったの皇后がい て子供もいたなら意味なくないそれが文部 天皇には工合も日のくらいの女性もい なかったんだぜ天皇には武人の都子とひが 2人いるだけだったんだなんでまた皇族 から嫌われてたわけじゃないよね何か原因 があるようで最初からいなかったのか もしくは記録から抹消されたと考えられて いるぜいたけど記録にかけないようなこと して抹消されたってことか公式な記録に 残せないのは宮の執事も同じだ天の娘と 結婚しましてや2人の間には時代の天皇が 誕生しているんだ天皇家の権威に関わる ことだから絶対に秘密にしなくてはなら ない話だよなそういうもんなんだね記録に は残せないが周知の事実だったのだろうイ 姉妹の公明師は工合になれたが最初は武人 だったんだぜなのに都子は武人のままだ この2人の扱いの違いは都子の出が影響し ていたと考えられているぜ逆に公明師が どうして工合になれたのかが分からないん だけどどれだけ頑張っても羊は変わらない でしょその無理を押し通すのが藤原しなん だぜ反対するものを抹殺してでもな抹殺 ってそんな物騒な707年に文部天皇が 25歳で包有し商務天皇が即位するはず だったが病弱だったこともあり先延ばしに されていたんだ商務天皇に代わり中継とし て文部天皇の母と姉が原名天皇現象天皇と いう女帝が連続で即位その後商務天皇が 即位したのだが即位してすぐに事件が起き たぜ事件どんな724年に商務天皇が母の 都子を大部人と呼ぶ要職を出したが撤回し た紳士事件と呼ばれる事件だおそらくは 藤原氏が自身の権威を高めるために天皇に 出させたのだろうなお720年にふとは 天然島で亡くなっていて息子の藤原4兄弟 が後を継いだ頃の話だぜ撤回したってこと は誰かが反対したってことでも天皇に モノモウスなんてできる人いたのかなそれ が長野王という名の皇族が反対したんだ彼 はまだ若かった藤原4兄弟に変わり政治を 行っていた人物だぜ天皇に対する彼の言文 はこんな感じだ大部人なんて尊号は法律で ある立業には存在しないあるとしたら立業 に定められた天皇の母の孫交代武人のみだ もし高の字が失われた大無人と呼ぶのなら 法律に反するかと言って交代部人と呼ん だら今度は天皇の命令直に反する一体私は どうしたらいいのでしょうかとな遠回しに お前ふざけんなって言ってるように 聞こえるわ本来ならば天皇の直は絶対だ から長屋王の言文は通らなかったろうだが 商務天皇は直を撤回し立業に従うことにし たんだぜだったら夫人それとも交代部人 都子文章で示す時には交代部人ややこしい ことに後頭では大親と呼ぶことになったぜ 大親も天皇の母という意味だな書く時と声 で呼ぶ時とで別の名前になるのめんどくさ 事件はこれで決着したが藤原氏は思惑通り に行かず面白くない藤原氏にとって邪魔を した長屋王は好ましくない人物になったぜ つまりは抹殺する対象になっちゃったって ことだねこの事件が前ぶれとなりおきたの が729年の長屋王の編だ4兄弟は長屋王 を抹殺をしようと長野王が無本を企んでる と嘘の密告をした結か長屋王と祭祀を自害 に追い込んだんだぜそんな嘘のちくり 入れるなんて小学生みたいなことされて 自害しちゃうなんてしかも子供も一緒にっ てひどい話だわなお長屋王にはめかけもい たんだそのめかけというのがふの娘長子だ ぜ宮子と同じ母親から生まれた妹だえ まさか長子も字を長子と長屋のには子供が いたが母ともども特別に除名されたぜ不の 血を引いているってことでなさすがに妹の 命まで取らなかったかさて邪魔者がいなく なればあとは藤原氏の 思い通りに立てたんだこれが公明師が工合 になるまでの流れだぜ思うのはそこまでし て偉くなりたいもんなんだねってことなん だけどでもなんで宮の時には工合に 建てようとしてくれなかったんだろ名前を 変ようとしたのも夫の文部天皇が亡くなっ た後なんだよね生きてる時に交合にして くれても良かったんじゃないその理由が宮 が天でだって証拠なんだろう身分の低い ものを工合に仕立てようなんてさすがの 藤原氏も恐れ多かったのかもしれないぜ ううそういうことなのかとまあここまで都 の隠された羊の話と交合になれなかった話 を結びつけて話してきたわけだが本当の ところはどうかわからないぜそうなの確か に公明師が合になったのだから慣れなかっ たのは都子の執事に原因がありそうだだが 都子が皇室に突その息子である商務天皇に 公明師が突と続けて藤原氏が天皇の外積に なり権力が増したから公明師を交合に ごり押しできたとも言えるつまり宮子と いう下準備があっての巧妙師の工合なん じゃないかだったら天さんだからってのは 関係ないああ宮子が工合になれなかったの は執事が原因だったんじゃない藤原氏の ゴリ押し力が足らなかっただけ公明師と 順番が逆だたら彼女も合になれたかもしれ ないぜあくまで可能性の話だけどなそう だったのでも呼び方はどうあれ奥さんの ために観音様を祭るお寺を作ってくれたり するし生まれに関係なく優しくしてくれる 旦那さんで良かったよねさて天皇市に絶対 に乗せられない都の羊について話してきた ぜここからは逆にこれは載せていいのかと いう話を紹介しようこっちも事実であれば かなりスキャンダラスな内容だどんな話な んだろう日本後期にこのよな記述がある 民間の噂によると棒と藤原の都は密通し 前受奉仕はその息子である3通ってつまり は不倫たった今優しい旦那さんで良かっ たって言ったのに妻の都が不倫っていうか 日本後期って何日本初期とは違って公式な 記録ではないんだよねだからそんなこと 書いてるんだよね日本後期は第52代佐賀 天皇が変3を命じた歴史書だから公式な 記録だただ特徴として天皇や官人を批判 するようなが多く見られる天皇の武人の都 の密通について書かれていてもおかしくは ないなちなみに不倫というが密通があった とされるのはモム天皇が亡くなった後の話 だからなそうなんだだったらセーフかな ところで天皇の未亡人と密通しちゃうその 棒って何者なの棒は検討士に炊飯死党に 渡り最新の仏教や学問を日本に持ち帰った お坊さんだ帰国後は定に使えブレインとし て活躍していたぜなんでそんな人が見こと まずは当時の都子の状況を話さないといけ ない都子は商務天皇を産んですぐどうやら 3号になったようで引きこもってしまった んだ当時の彼女の様子は長らく常人らしい 行動を取っていなかったと記されているぜ 子供の頃は髪の毛で悩まされるし今度は 精神的な問題だしかわいそうだよねもっと かわいそうなことに病気のせいで商務天皇 を出産して以来36年間も我が子に会え なかったんだぜそんな当時は母親だろうと 皇室をはめとする女優権力者では育児は 任せないことが多々あったんだ赤ん坊の時 から馬が育てるわけだから宮子も我がこと 引き離されるのも分かるが36年間1回も 合わないのは異常なことだぜよっぽど重症 だったんだろうねそれか病気の症状に関係 なく藤原氏が合わせたくなかったのかも しれないな常人らしくない母親を見せたく ないってこといやそうじゃない藤原氏に とって宮子は文部天皇の気にするために 幼女にした女でしかないんだ思惑通り先に なり商務天皇を産んだのだからあはもう用 なしだだが天皇の母なのだから権力を握る こともできるそうならないために商務天皇 に合わせないようにしたとも考えられるぜ それはそれで余計にうつな気分になっ ちゃいそうだよねていうかそのせいで病気 になっちゃったのかもそうだな故郷から 離れ寂しい思いをしていたのにことも 引き離されて病気になった可能性もあるぜ 何にしても当時は精神会とか カウンセリングとかもないだろうし直す 方法ははないのかなそれがあったようだぜ あったのなんせ現Wordが都を看病し たらすぐさま回復したんだからなその おかげで36年ぶりに我がこと対面を 果たすことができたぜこのニュースが 広まり国民は大喜びしたそうだきっと感動 の再開だったでしょうねでも看病って一体 何をしたんだろうお坊さんらしく祈とをし たのかもしれないが原稿は東で医学も習得 してきたようだ投薬といった治療を施した 可能性もあると考えられているな西洋学 じゃないだろうから漢方とかかなもしくは 他に都の気持ちを晴れさせる何かがあった のかもしれない何かって何藤原氏からの 解放だ解放宮子と商務天皇とが再開したの が737年ちょうど藤原4兄弟が揃って この世去った年なんだ揃って事故かなんか 当時大流行した天然刀が原因だったぜ世間 では彼らが死に追いやった長野王の祟りだ と騒がれたけどな祟り4兄弟が亡くなった が彼らの子はまだ若く後を告げなかった そこで玄道がブレインを務めている立花の もえが政権を握ることになったんだ都子は 現法から藤原4兄弟が亡くなったこと そして時代が変わったことを知らされ気が 晴れた可能性もあるよなそっか子供と会う のを邪魔する人たちがいなくなったのか おかげで子供と会えるって分かっただけで もかなり気持ちが違ったかもしれないもん ね実際看病したことしか分からないから 具体的にどんな治療を施したのかは分から ないけどなともかく棒のおかげで宮子は 正常な状態に戻ったようだそしてこのこと がきっかけとなり2人は接近ただならぬ 関係になり密通をするようになり子も 生まれたんだぜ子供は前住放しっていう くらいだからお坊さんになったのその通り だしかもかなり偉くなってるぜまだ交代使 だった第51代平成天皇が病気になった時 には病気併有祈願の役目を任され成功し 総合というそうやアを統括する層の感触の 中でも最高の相場に任じられているんだぞ よっぽど有能だったんだろうねいやそれは 亡くなる直前の話でそれまではかなり苦労 したようだぜ都の密通の噂が記されている 本行期によれば前住は地動で学問を身に つつけることができなかったんだそれでも 無数に反復して習得し晩年ではあが大出世 しているまさに待機万正と称されているぞ 努力が実ったんだねだったら都子も花が 高いかもとまあ噂を鵜呑みにしてここまで 解説してきたがどうやらこの噂は出のよう だえ前住が誕生したのは723年だとされ ているこの時父親だと噂されている現場は 日本におらず剣闘士と一緒に党に渡ってい たんだぜおそらく宮子と面識すらなかった だろうから2人の間に生まれようもないな でもその人が子供じゃないにしても密通は あったかもなんじゃないそれもそうだな 原稿という男性が現れ精神的な病気を患っ ていた都が治ったんだ2人の間に何かが 起きたと考えるのはおかしないただそれも 噂にすぎないと思うぜ本当におそらくは彼 らの後に起きた別のスキャンダルの影響だ と思われるぜ別のって都の子商務天皇と 公明師の間に生まれた娘が小徳天皇として 即位したんだ彼女はそうの同とただならぬ 関係にあったとされているまそれも出な 可能性があるんだけどなこのカップルの イメージが重なったのと成功した原稿への 妬みもあり密通していたという噂が広まっ たと考えられているぜそうだっのてっきり 洋の不とも4桂マもいなくなって羽を外し たくなったのかと思ったのにさて隠された 首相の秘密や隠されなかった相との スキャンダルがあった都子孫にあたる第 46代貢献天皇が即位した際彼女に対高代 合の損傷が与えられたぜそれって前に揉め たやつとは違うんだよねああ対抗対合と いうのは天皇の祖母に対し持ちいる損傷だ この損傷が与えられたのは都が史上発だし 工合や高対合になっていないのに対合に なったのは彼女以外いないんだぜへえ すごいじゃないの武人のままだったけど 工合として認められたと同じだよねただ 都子が対抗対合になった5年後放している 70歳前後だと考えられているぜ彼女の 葬儀は盛大に行われ命日は国旗とされたん だよほど彼女は国にとって大切にされてい たのが分かるよな親子の再会の時もみんな 喜んだんだもんなくなったらみんな悲しむ よねなお対抗対合になったのも史上発だが 一周期が行われたのも都子が初のようだぜ 国旗で亡くなってからもこの商務天皇が 混流した党大事で最前のための盆も上が 長く行われたそうだ36年間会うことが なかったが亡くなった後も母をしたっての ことだろうなそうだね都子のお墓は奈良県 の黒神山の西にあったさ山西料だ黒神山の 名前から都子の自慢の美しい黒神を 思い出させるが関係ないらしいないんだ しかも西にあったって今はないのああ遊園 地の開発で破壊されたそうで今ではどこが 量なのか分からなくなっているなそうなん だなんだか残念でもいつか判明する日が 来るかもだよねそうだゆっくり霊夢と ゆっくり魔理沙だぜ今回は日本市場最大 規模で行われた一期島原の欄に隠された 秘密について解説していくぜ島原の欄って 言うと天草しろかはついに解き明かされる のね天草史郎の財宝の謎がどこにあるの 教えていやそれは自分で勝手に探してくれ でももしも見つけたら分けてくれではなく て島原の乱は一気に参加した農民が女子供 とわ爆府軍によって斬殺されるという あまりに残酷な戦だったんだなぜそこまで 徹底的に殲滅する必要があったのか実は 天草史郎がとある有名武将の孫だったと いう説があるんだぜ有名武将って誰では 一期が起きた経緯と共に天草史郎に隠され た驚きの秘密を解説するぜよろしくそれ じゃあゆっっくりしていってね 1637年江戸幕府が開かれ34年たった 3大将軍家光の知性だ長崎県の島原で 38000人もの多くの農民が怒りと共に 立ち上がり一期を起こしたこれを島原の ランと呼ぶぜそんなにたくさんの人が一期 を起こしたんだもんよっぽどのことがあっ たのよねもちろんだぜでは一期が発生した 経緯を見ていこう1549年に フランシスコザビエルが日本に持ち込んだ キリスト教が全国に広まると多くの人々が キリスト教へと回収し特に西日本に京都が 急増したぜ大名たちも海外貿易を活発に 行うためにキリスト教を保護し中には自ら もキリシタンになった大名がいたぞ キリシタン大名ってやつだねだが1612 年に江戸幕府がキリスト禁止令を発令する と不況は禁止されすでに信者になったもの へ境を求める施策が始まったんだ今回の 解説の舞台島原の反だった有も領内の キリスト教と駅教を求めたぜその人はキリ したんじゃなかったのなも切りしたんだっ たし父親で前阪春信も切りしたんだったぜ 実はこの春信が切りしたんだったことが 今回のキリスト禁止令に関係しているんだ なんかやらかしちゃったのかしら武将の 岡本第8が春信を欺くため家康の主演上を 偽造し集合した事件が発生したんだこれは 岡本第8事件と呼ばれているぜだったら第 8が犯人で春信は被害者ってことああだ から普通に行けば第8が投獄され処刑され て事件は終わりだだが第8が牢獄からこう 叫んだことで春信がただの被害者ではない ことが判明した春信は長崎武良を殺そうと しているってな何それ嘘ついて巻き添えに しようとしたの嘘だったら良かったが春信 がこの件について釈明できなかったもんだ から説服を命じられたぜだったらなんか 後ろめたいことでもあったのかしらねかも しれないな結果第8は火炙りの系に春信は 切publicを命じられただが春信がり したんだったために自らの命を立てず家臣 に首を切らせたそうだこれまたここで事件 が終わればよかったが春信は切りしたんだ し実は第8も切りしたんだったんだその せいで家康はキリスト京都を危険しし始め たそこで当時全国に37万人いた キリシタンが半期を響す前に近況霊を発令 したわけだぜなるほどなんか詐欺にあった 人が巻き込まれた感じでかわいそうだった わねでもお父さんが関わった事件で禁止霊 が出たなら自分も従わないとだめよねああ 春信の息子直積も切りしたんで見るという 洗礼名がつけられていたが近況霊が出た ことで卑怯したぞだがそう簡単に進行を 捨てることはできない人たちが大勢いる 島原の良民だけでなく家臣ですら秘境を 拒んだぜうんでも上から言われてるし容子 として従ってもらわないと困っちゃうわよ ねどうすればいいのかしらそうだな父親の 件があるしキリシタンを放置したら幕府 から荒らぬ疑いをかけられる心配もある そこでなは心を鬼にし徹底的にキリシタン を取り締まることにしたぜ徹底的って嫌な 予感するわね予感は当たりだ貴重を拒む 家臣が3人いたんだが家族もとも日ぶりに したぜさらには父と5歳の間に生まれた キリシタンの幼いケマにまで手をかけたん だは徹底っっていうか行き過ぎじゃない もちろん家臣や良民からも反発を受けてい たぜおかげで反省に支障をきたすように なりな済は幕府に天方を丸現在の宮崎県ヒ がのべ去っていったぜなおこれまであり 負けに使えていた家臣たちの多くが名済に ついていかずに島原に残ったそうだ家臣の 仲間を火炙りにするなんてひどい主君の下 にはいられないって思ったんだろうぜ怖い 人がいなくなったんだもんみんなほっとし たでしょうねああ特に信者は安心した だろうなだがそれもつの間のこと良民には 想像を絶する苦難が待ち受けていたんだ何 が起きちゃうのその後反になったのは松倉 しまという武将だ島原に違法する前は現在 の奈良けで前世を行っていたから良民に 慕われていたそうだぜなんだだったらいい 人なんじゃない心配する必要はないわ島原 に移ってきた当初はなしマサ自身南蛮貿易 で甘い汁を吸っていたから近況霊が出てい ても黙認していたぜどんな理由があろうと 島原のキリシタンは進行を捨てずに住んだ とアドしただろうだが将軍家道にちょっと 甘いんじゃないと指摘されると態度 180°一変させた木人はやめて定的に キリシタンを弾圧し始めたぜ家光さん なんて余計なことをそれからのしまが行っ たキリシタンへの弾圧は残額の一言に 尽きる教しないキリシタンの顔に キリシタンの文字を焼きしたり指を 切り落としたりするなど教師から悪魔と 呼ばれるくらい卑怯させるために過激な 拷問を繰り返したそうだしマサのみならず 2代目反になったしマサの息子かいも父に 輪をかけた厳しい弾圧を行っていたんだぜ 前の領もひどかったがまだマだったのか もしないだったら親子揃ってキリシタン からかなり恨まれたでしょうねだろうなだ が彼らを恨んでいたのはキリシタンだけ じゃないキリシタン以外の良民からも相当 な恨みを買っていたんだぞなんでまた キリシタンじゃなかったら何もされないん じゃないのそれがそうもいかなかったしマ が島原に来てから元々あった原条を廃城に し新たに島原城の地上を開始したんだこれ がまた立派な城でかなりの費用が必要なん だそこで予算を確保するため良民の年を倍 にしあらゆるものに課税したんだぜおかげ で農民はかなり苦しい生活を強いられる ことになってしまったぞあらゆるもって 冗談でも徒歩勢とかはやめてねさすがに 当時でもそこまではしなかったと思うけど なただでさえ年が倍増したのにさらに農民 を苦しめる事態が発生したよりによって 凶作による基金が彼らを襲ったんだ年を 収めることも自分らの食事すらままなら ないぜなのにかいは良民をおんばかって税 を軽くするなんてしなかったし年を収め られない人に対しキリシタンにしたような 過激な拷問にかけたんだぜそんなないもは 払えないんだから勘弁してくださいよ なんて言っても現代でも通じないから無駄 かこのように松倉親子によって島原の人々 は切りしたんであろうがなかろうが苦しめ られていたいや島原だけでなく天草の人々 も領主に苦しめられていたな天草の反し てらは片がキリシタンを厳しく弾圧してい たんだ島原と天草両方の守に対し良民の 怒りゲージは極限まで高まっていたぜ我慢 せずに爆発させてもいいわよっていうか するのよねああ農民たちは密かに氾濫計画 を立て実行の時を待っていたぜこの氾濫 計画の総代賞に祭り上げられたのが天草郎 なんだ確かまだ子供だったはずよねそうだ ぜこの時若干16歳だっただが若いからと 言って侮ったらいけない史郎には多くの人 を引きつけるカリスマ性があったと言われ ているぜしかも不思議な術も使えたそうな んだ多くの人の心を掴んだだろうぜ不思議 なって帽子から鳩を出したり残念鳩を出し たのは手からだ冗談のつもりで行ったんだ けど手から鳩ってどんなトリックかしら 確かに今なら手品の類いとしか見てもらえ ないけどなだが盲目の症状を直したりして 奇跡とも呼べる術を使ったと言われている ぜカリスマというより神格化されていたと 言っても過言ではないよなその少女が込 みっていうトリックっぽいけどそういえば 最初に誰かの孫って言ってなかったそうな んだだが今は史郎の父親は関ヶ原の戦いで 破れ山手された小西幸永の家臣増田よし つぐだとだけ言っておこう小しが滅亡して からアジを失った父と共に浪人や百姓をし て暮らしていたようだだが生活は苦しい ものではなく意外と裕福な生活を送ってい たと言われているぞしかも幼い頃から学問 に接し高い教養を持っていたそうだ普通の 100勝ではなかったみたいだな裕福な 生活ってどこからお金が入ってたのかしら ね是非私にも分けてもらいたいわさて奇跡 を起こすカリスマ天草史郎を総代賞に島原 の地で一期を起こす計画を立てていた農民 たちそんな彼らについにその時が訪れた 1637年キリシタンを中心とした村人 たちが大感女に直談判に赴いた際堪忍袋の 尾が切れたのかその場で大感を殺害したん だこの事件をきっかけに各地で一斉に農民 が放棄し始めると島原の乱が勃発したぜ これまで領主のキリシタンの弾圧と行き 過ぎた年の取り立てに我慢してたんだもん 思いっきり暴れてもいい気がするわね島原 の乱は3万8617ドル [音楽] 呼ぶんだぜ倍以上いたのだったら速攻で 終わっちゃうんじゃないいやかなり苦戦し たようだぜ幕府は一期を制圧するために4 回の総攻撃を仕掛けているんだそのうち3 回までは幕府が負けて一期勢が老上海 Bareになっていた原条を落とすのに4 ヶ月もかかっているんだぜ農民の団結力に 手こずったのかしらああ団結力もあっ たろうが彼らを指揮していたのは元だった 人たち島原領主のあまの元家臣が農民を 指揮していたんだぜそれに農民の中には 天草史郎の父と同じく元小西の家臣で浪人 になった者たちも含まれているただの農民 集団じゃないんだ徳川軍が手を焼くのは 当然だろうぜそういうことだったのかさて 天草城を引きいる農民たちの戦いは4ヶ月 に渡る攻防の末最終的に幕府軍の勝利と なった幕府軍の被害は支障者合わせて1万 数000人だったそうだなお一期の責任を 問う形で島原阪松倉しは鎮圧後に斬子系に 処されているぞざまあって感じがするわね 一気には負けちゃったけどここから新しい 生活が始められるのかしら何を言っている んだ冒頭で話しただろ一気に参加した農民 は幕府の名により女子供関わらず斬殺され たんだぜおかげで島原と天草には良民が ほとんどいなくなってしまい各地から強制 移民させられた人々がそこで生活を始める はめになったんだぜそうだったわねでも 苦戦したからってそこまでしなくてもいい と思うんだけどそうなんだ数が多いとは いえ農民の放棄に関ヶ原の戦い回る兵を 動員ししかも1人も生きて残さない勢いで 殲滅しているんだキリシタンの反落を危惧 しているからとはいえやりすぎ感が否め ないよなもちろん何か裏があるのよねああ 幕府が一期勢を殲滅したかった理由それは 彼らのリーダー天草史郎の正体にその謎が 隠されているんだぜ正体ってやっと誰の孫 か教えてくれるんだね誰の孫なの誰のじっ ちゃんの何かけてなの実は天草史郎は豊富 秀吉の孫だという説があるんだぜ秀吉の それじゃ一緒に百勝をしていたお父さんは 本当のお父さんじゃないのよねああ説が 本当なら親子をよっていたことになるし ジップは秀吉の子秀よのはずだだったら 本当のお父さんはどこ行っちゃったの秀よ は1615年に起きた大阪夏の人で命を 落としたということになっているぜって ことはひよが亡くなる前に生まれたのが 甘草史郎なのかもってことかいや天草史郎 は1637年の島原の乱の時16歳だった と言われているつまり誕生したのは 1621年秀よが亡くなった6年後だぜ だったら秀よの子供じゃないんじゃない 精子が冷凍保存されていない限り絶対に 無理でしょ本当は生きていたってならない 限りはてまさかそう実はひよが生きてい たって説があるんだぜ出た歴史上の有名人 によくある生存説ってやつではどうして ひよが生きていたと言われているのか時を 遡ってひよの最後そして豊の終焉を見て いこう秀吉なきと関ヶ原の戦いに勝利した 徳川家康が天下を取り江戸幕府が開かれた ぜこれから徳川の知性が始まるにあたり 家康に1つきがかりなことがあったそれが 豊臣の人間だどうして秀吉はもういないん だから誰も家康の邪魔はしないでしょ秀吉 本人はいないが豊臣を指示するものがまだ 多かったんだ家康としては彼が一眼となっ て徳川を引きずり下ろそうとする前に 息の根を止めておきたいところそこで方向 時証明事件で言いがかりをつけ大阪攻めを 開始したぜいいがりって笑お前が出した茶 に虫が入ってたぞとかお前がくれた土産の 賞味機嫌切れてるぞとかざっくり言うと秀 よがお寺に収めた金に国家暗行渾身暴落と 刻まれていたんだこれを見た家康が私の 名前が分断されている豊富を君として 楽しむとは何事だってクレームを入れたん だぜ言われてみればそうだけど私の 言いがかりとあんまり大佐ないわねまあ 家康はひよを攻める理由があれば何でも 良かったんだろうけどな結果1614年 10月家康は20万の軍を率いて豊富方が 老上海野人の始まりだなんだっけ真田虫 だっけなんでいきなり寄生虫の名前を出す んだ真田丸だろそうそうそれそれでもなん だっけ真田雪村として知られている信が 気づいた壁のデジのことだぜ徳川の大軍に よる攻撃から本性を守り家康も簡単に 落とすことができず攻めあねたそうだだが 家康が白を全法意した方で威嚇を始めると 豊臣方は戦意を失ってしまったんだ家康は 大阪場の堀を埋めるという条件を提示し 一旦は戦いは終わったぞいやいや埋め ちゃったらダメじゃない絶対にまた攻撃 仕掛けてくるでしょその通りだ翌年家康の 耳に大阪場の周りを掘り返しているという 情報が入り再び戦を仕掛けたからな今度は 大阪夏の陣の始まりだ実際は大阪城の堀は 埋め立てられたままだから 老上海の本人九州により家康ののど元まで 歯が届いたことはあったがそれでも多勢に 無勢だ大阪城は陥落し豊富秀よりも母の 淀殿も自害したこれで豊家は滅亡をしたぜ ふむふむその後亡くなったひよをとうため にお墓も建てられていると言っても複数 あってどれが本物か分からないんだけどな 有名なのは京都の要言員にあるお墓だ秀よ と淀殿の親子が眠っているとされていて 淀殿の妹号の方が2人の母体をとったとし て有名だぜだったらそこに眠っているのは 間違いないんじゃだが問題なのは数多くお 墓はあれ戸大阪上での日よりの最後を見た 人物がいないんださらに言うと死体も発見 されていないんだぜだからからひよりは 自害などせず大阪場をこっそり抜け出した んじゃないかという説が生まれたんだぜで も大軍に囲まれていたのよねこっそり城 から脱出しても速攻で見つからないそりゃ 普通に敵の前を通っていけば見つかるのは 当然だだが見つからずに外に出る方法が あればどうだ分かったお城に抜け穴があっ たんでしょずばりそうだぜひよりは抜け穴 を通って大阪場から出したと考えられて いるその証拠に大阪冬の陣の最中こんな 出来事がしているぜ徳川の死者が大阪場に 使わされた時彼らの前になんと新鮮な体の 刺身が並べられたんだ新鮮なってことはお 城で魚が釣れたのかなそれとも養殖どちら でもないよな見つからず2場外から取れ たての魚を調達してきた日がいないぜ もちろん城を法意する徳川軍に見つからず にだぜ実際ひよりの性質千姫やこの国松は 戦いの最中に大阪場から脱出しているんだ ひよりだって同じ抜け穴を通って逃げてい たとしてもおかしな話ではないぜだったら 今もある大阪城を探せば抜け穴が見つかる んじゃないそれとももう見つかってたり する残念だが減損する大阪城は当時の大阪 城ではないから見つかることはないだろう そうだったのああ大阪城は大阪夏の陣で ほとんどが消失してしまったし徳川が城跡 に盛りとして埋めたその上に大阪城を築い たんだ当時の大阪場の構造は今となっては 分からないんだぜそうなんだなんだか残念 だねでももし本当に抜け穴があったとして 脱出した後に九州まで逃げたってことって いうかなんで九州にさまハの島津義ひが秀 よの逃亡を手助けしたからだぜなんで いきなりしずがというのもさまハの資料に 残っているんだ家臣移住院の大酒が抜け穴 から場内に入りひより矢田雪村を脱出させ さま連れ出したってなしかもこの救出は第 108代ゴミの天皇の局名によって行われ たものだという話もあるぜ天皇の命令だっ たたのとにかくよもばれずに脱出できたわ ね死体が見つかっていないなら徳川の人 だって逃げたって考えたはずだから必死で 探したと思うしいやもしかしてバレていた のかもしれないぜ京都でこんな同様が有効 していたんだ花のようなるひよ様を鬼の ようなる真田が連れてのきもいたよ児島へ もばれてるじゃないの笑さて大阪場から 抜け出したひよや雪村たちは大阪から四国 を経て大分県北部上陸そこから現在の 鹿児島さに行ったぜちなみに大分県では ひよと雪村が昼食を取ったという伝承が 残っているぜなんだろ今と違って顔が知ら れることってあんまりないと思うんだけど ご飯食べながら普通に名前で呼び合ってた のかなそれともわし有名人だからサイン 買いたるわ的な感じで自分から名乗ったの かな笑さあどうやってバレたんだろうな まあ逃亡中だからと言ってあまり大人しく していなかったのは間違いないぜさまでは 移住員にかまわれながら生活をしていたが ひよりののことはかなり有名になっていた んだひよりは大酒飲みだし無線飲食を 繰り返すしで村人から嫌われていたという 話が残っているんだぜちょっとは立場を 考えて控えなさいよなおさ現在の鹿児島に はひよと雪村のお墓とされているものが いくつも残っている本当に秀よがさの血に 逃げを押せたのであればこっちのお墓が 本物なのかもしれないななるほどねところ で天草史郎が豊秀よの子供だとしてもその 辺はどうやってばたの自分で私は豊のしん だとでも名乗ったってこと根拠となる点は いくつもあるがまず史郎の父親が増田よつ だということよつは小西幸永の家臣だと いうことは話したがそもそも幸永は秀吉に 使えていたんだということは吉に使えてい たことになるぜもしかすると秀よから光沢 されたのかもしれないぞそういえば百姓で も裕福だったって話してたわね養育日とし て秀よから大金をもらっていたのかしら父 親以外にもトヨとミケとの繋がりを示す ものがある島原の乱の際史郎は馬印として 千なり秒端を使っていたんだぜ馬印象印 なら知ってるんだけど馬印というのは戦国 時代に武将が自分の所在を示すために使う 旗のことだ例えば武田信玄は風林火山の旗 を織田信長川金塗りのからかの旗を使って いたぞああそれなら分かるわ上杉剣身わ びって書かれた旗を使ったよねでもその瓢 が何だっていうの実はこの馬印はトヨトミ が使っていたものなんだぜそれってかっこ いいからとか瓢が好きだからとかじゃなく てそんな理由で使用が許されるものでは ないぜトヨトミの何者か出ない限り使用し ないだろうな普通は使わないし旗で堂々と アピールするって隠す気はなかったん だろうねもう1つトヨとミケとの繋がりを 示すものがあるさに残る資料によると城が 豊秀という名前を名乗っていたというんだ 自分でそう言ったんだったら確定じゃない だって同じ旗だって普通は使わないのに トトを名乗るなんてそれ以上にやらないん じゃないだよな今のはさまに残る資料だが 江戸幕府が保管していた島原の欄に関する 資料の中にも史がひよりの子だという記述 が見られるんだぜ幕府の資料にも書かれて いるのならばかなり信頼できる情報なん じゃないかと思うぜうん敵もそう認めてる なら間違いないわねそうなのか天草史郎は 秀吉の孫だったのかもしも天草史郎が豊秀 よの子であるならば将軍家光が一気に 加わった農民を女子供問わず殲滅した理由 も想像できるずばりトヨの息がかかった 人々を殲滅することで完全に豊臣の息の根 を止めようとしたんじゃないかそれにして もひどいと思うけどねもしも説が本当なら ば史郎の目的は豊臣の復興にあったかそれ とも周りの人間がそれを企んでいたのかも しれないよなふむなるほどそんな裏があっ たのかもちろんとととは全く関係ないとも 考えられる武から農民になった人たちが 史郎の元へ集まるよう周りがそう嘘をつい ただけなのかもしれないにしても家康より も前に豊富秀吉もキリスト禁止霊を発して いるんだぜその豊臣の旗の元にキリシタン が集まるってのもおかしな話だと思うけど なまあ昔は敵だったけど今は仲間って そんなに珍しい話ではないしジャンプ コミックでしか見ないけどなまあ今回の 解説は数ある歴史ロマンの1つだと思って 楽しんでくれれば幸いだちなみにこの説の 前提としてひよりの生存が条件になって いるのは間違いないだが1980年に行わ れた大阪城3の丸跡の調査でひよりのもの と思われる頭蓋骨が発見されているんだぜ はあだったら死んでるんじゃないのと言っ ても頭蓋骨に名前が書いてあるわけでは ないから発掘状況から推定するしかないん だけどな一応ひよりの頭蓋骨だと思われた 根拠を紹介しておこうまず頭蓋骨は ちゃんと埋葬されていたこと墓には墓標が 立てられ盛り土もされていたんだぜそれと 服装品と思われるシナジも発掘されていて オリベ焼きの角皿や空焼きの大皿なども あったぞ当時焼き物は貴重なものだった から一般人が所有できるものではないんだ よほどの地位にある人が埋葬されたと考え られるぜなるほどちゃんとした人のお墓 って感じだったのねあと大型の馬も一緒に 埋葬されていたぜひよの相場は太平楽と 言って秀吉の相場でもあったそうだこのは アラビア馬系で対抗170cmと非常に 大きな馬だったんだぜ発掘された馬の骨の サイズからしてこの太平落なんじゃない かって推測がされているふむふむひよりの ものと思われる骨は成人男性であって 歯並びがよくすり減っていなかったそうだ 極めて健康状態がいいのが分かるが首元は 断ち切られた後があるんだぜそれって首を 切った後ってことかなこのことから発見さ れた骨は豊富秀よりのものかもしれないと 推測されているんだぜでも死体は発見され なかったって言ってなかったっけ言ったな 発見されなかったからひよが生存してい たって話につがるんだが抜け穴から脱出し た時秀よが生きていたとは限らないぜ つまり大阪場内で秀よは自害し誰かが死体 を持ち出したのかもしれないよななるほど ね家臣の誰かが持ち出して埋葬したのか ああそんな風にも考えられるよなこっちが 本当だとしたら天草史郎は少なくともひ よりの子供ではないってことだろう大阪の 夏の人で亡くなっているはずなんだからな だとしたらどうして豊富と関係あるかの ように見せたり名乗ったりしたのかは さっきも言ったが周りのイジがあったから なのかもしれないまあ徳川が兵を動員して 農民を殲滅させたんださすがにやりすぎ たって思って敵が豊富の人間だったから やったんだって徳川側が後付けしたのかも しれないけどな何にせよ謎は謎のままて 感じだねその方がロマンあっていいんだ けどね実際にあった歴史も面白いけど天草 史郎が秀吉の孫だったなんてロマンでしか ないもんなこれも日本史の楽しみ方の1つ ゆっくり霊夢とゆっっくり魔理沙だぜ今回 解説するのは歴史に詳しくなくとも名前は 知っている人が多い超有名人佐々木小次郎 だうん漫画とかドラマとかゲームとかにも 出てるものすごく有名な剣士だよね必殺技 つばめ返しを使って岩流寺まで宮本武蔵と 戦ったりそれと刀が長いってのも知ってる そうその辺は知ってる人は多いよなだが実 は謎だらけの存在であることはあまり知ら れていない謎だらけああ佐々木小次郎の 名前も本当の名前かどうかも謎なんだぜ そうだったのそれじゃ佐々木小次郎の謎を 紹介していこうよろしくそれじゃあ ゆっくりしていってねでは早速佐々木 小次郎という名前についてだ佐々木小次郎 と呼ばれているが実は彼が生きていた時代 の資料には一切名前は記されておらず 佐々木と小次郎という生命が揃うのは 小次郎が亡くなってから約130年も経過 してからなんだソうってどういうことでは 佐々木小次郎の名前の変遷を見ていくぜ まず1612年に宮本武蔵と小次郎が対決 した眼友島の戦いから約40年後武蔵の 陽子織が武蔵の母台をとうために現在の 福岡県無前の国に小倉碑文という石碑を 混入したそこに武蔵の実績が刻まれていて もちろん岩流寺までの対決についても触れ られているぜだからそこに武蔵と佐々木 小次郎が戦いましたって書かれているん じゃないのいや小次郎の名前は登場しない 名前どころか武蔵は岩流という剣士と戦い 勝利したと刻まれていて佐々木も小次郎も 名前らしい名前は登場していないんだぜ 岩流って名前ってより剣の夕波っぽく 聞こえるけどその通り小次郎が総子の剣術 の優波でありそう小次郎が名乗っていたと も言われているぜだったら決闘した時に どうも佐々木小次郎ですってフルネームで 名乗らなかったのかな決闘の時に名乗ら なくとも武蔵は小次郎の名前を知っていた と思うがのいりは知らなかっただけなのか もしれないぜ小次郎の名始めて世の中に 登場するのは岩流島の戦いから60年経っ た672年のことだそれはどんな形で登場 するの細川ハカ沼田信本の一大沼二眼友島 の戦いについて書かれているんだその中で は岩流ではなくちゃんと名前で小次郎と 記されているんだぜ名前を知って るってことは書いた人は小次郎の知り合い なのそれとも武蔵どちらかというと武蔵だ ぜ島の戦いで勝利した武蔵は訳あって 小次郎の弟子たちに追われる身になったん だそして助けを求めてきた武蔵を保護した のが沼信本だぜもしかすると武蔵から 岩龍寺までの話を聞いた時に名前を知った のかもしれないななおなぜ武蔵が追われて いたのかも沼た気に記されているが後で 紹介するぜこの時はまだ小次郎しか出て ないんだよね佐々木ってせはいつ判明した の沼たからかなり後の話になるぜまず岩島 の戦いから140年もたった1755年に 書かれた武行電という武蔵の電気があるん だここにも佐々木のせは登場せず含有 小次郎と記されているまだ岩流がせなんだ ね佐々木が登場するのは1766年に書か れた2天機というこれまた武蔵の電気だ2 天機も武幸殿も武蔵が総子者の剣術2点 一流平法市販の親子が著者だぜ親子揃って 武蔵の電気をかってどんだけ武蔵好きなの よ好きというか尊敬していたからもっと 武蔵のことをよに広めようと考えたじゃ ないか父は武行殿を書いたがそれを息子が 読みやすいように添削したものが2天気だ そこで父の著書には登場しなかった佐々木 というせを小次郎に関したんだぜお父さん は佐々木だって知らなかったのかなでも 100年以上もせが登場してないせを息子 は知ることができたんだろ実は2天気が 書かれた40年前も佐々木のせは世の中に 登場していたんだこれまでの電気などでは なく上るの敵討ち岩流島という作品にだぜ タイトルから岩流島の対決を描いた作品な んだよねあくまでベースにしただけなんだ けどな当時は実在の人物を実名で作品に 登場させることが禁止されていたんだだ から武蔵は月本武之助という名前に変更さ れ物語も親を殺された武之助の復讐団に なっているぜ一応聞くけど本当は復讐の ために戦ったわけじゃないんだよねああ 違うぜ2人が戦った理由はこれも後で紹介 しようこの作品に武蔵の対決相手として 佐々木岩流という剣士が登場しているんだ 岩流という名前から小次郎をモチーフにし たのは間違いないよなここから小次郎のせ は佐々木に定着し佐々木小次郎が世に 広まったと言われているぜ佐々木は フィクションから生まれたってことただし 常の作者が調べ尽くして佐々木に行きつい た可能性もなくはないけどなただ名前もせ も岩流島の戦いからかなり立ってから バラバラに登場してるんだ佐々木小次郎が 本当に正しいのかどうかかなり疑わしいよ なうんかなりちなみに佐々木以外のせいで されいる書物はたくさんある1727年に 書かれた武蔵の電気事放日記では佐々では なく津田黒田班の重心小川の文書には渡辺 それ以外にも上田挿入だったりただ一郎 だったり佐々木でも小次郎でもない名前も 登場しているんだぜ一体どこからそのよう な名前が出てきたのか気になるところでは あるよな全然別人っぽい名前だけどそっち が本当の名前の可能性もあるのかな佐々木 小次郎が定着しているのに今更名前が違っ ていますたとか言われても困惑しちゃう けどなさて名前も去ることながら小次郎の いつどこで生まれたのかも謎に包まれて いるぜやっぱり名前みたいに色々な青年 月日が存在するのああ資料によって生まれ たとされる年がバラバラだぜそれでも およそ1560から1590年の間に 生まれたとは考えられているぜ30年も幅 があればだいぶ年齢も違うけどねそうなん だ岩流島の戦いに登場する小次郎像は青年 でしかも美成年として描かれることが多い 実際戦いが行われた1612年で若くとも 22歳だから青年でもおかしくはないだが 推定単定年の幅を考えれば最大で52歳と とてもじゃないが青年とは言えないだろう うん52歳は中年かななお武蔵と対決した 時には小次郎が78歳だったと記されて いるものもあるそこまで行くと老年と言っ ていいだろう逆に剣術を極めていて強そう だけどね笑生まれた場所も分かってないっ て言ったけど大体のもついてないのああ どこで生まれたのかも数多く説があって 定かではないぜここでは有力な2つの説を 取り上げて紹介しようまず2天気によれば 現在の福井県越前の国羽の少上教示村だと されているこの説によれば小次郎はお坊 さんの子だったようだふむふむ一方で現在 の福岡県無前の国田川軍添田の生姜誕生地 だという説もあるこの地には佐々木氏と いう豪族がいて岩石場を挙上としていたん だ小次郎が総子者となる眼はこの城の名前 から取ったと考えられているぜなるほどね もしもこの説が正しいのなら佐々木は上る で生まれたものではないということになる ぜそっかそうなるのか異常が有力な誕生地 ではあるがどちらが正しいのかは分かって いないさらに言えば小次郎が誰から剣を 学んだかも謎に包まれている剣の達人に なるために誰かに指し腕を磨いたはずだ なるほどそうだよね小次郎がどこで剣を 学んだのかも様々な説があるから紹介 しよう一般的には中条流の戸田制限だと 言われているぜだがその弟子の金巻自裁や さらにその弟子の一等流の伊藤一等祭だと いう説もあるんだただ一般的に言われて いる戸田制限の全盛紀が1558年から 1570年くらいなんだその時期に小次郎 が出入りしたのであれば1612年の岩流 島の戦いでは青年でなくなっているなそっ か1570年20代で出し入りしてもそれ から40年たった1612年じゃ50代に 突入してねだったらそのお弟子さんから剣 を学んだってことなのかなどちらにせよ 小次郎の剣術は中条流をベースとしたもの だったんだろうそれってどういう剣術なの 中条流というのは200およそ60cmの 立ちで戦う剣術だぜ刀としては長いの短い の立ちの長さは200以上と定義されて いるからギリギリの短さだぜあれでも 小次郎って長い刀を使うんじゃなかったっ けその通り小次郎の愛はかの有名な物干座 だとされている物干竿はあくまで通称で 美前船長光が正式名称だ刃渡りが3尺だ から90cm以上ある立ちだな思ったより 長くない気がするんだけどそれも歯渡りの 話で取り付けられている40cmを超える 絵を含めれば130cm以上になるんだぜ 減損していないのが残念ではあるが刀の長 さは武蔵の容子織りによる小碑文や武蔵の 電気に天気に記されていることから判明し ているんだなんで教えてもらった短い立ち じゃなかったんだろそれが短い刀を使う 師匠を相手に振っているうちに長頭の方が 手に馴染むようになったという話があるぜ そういうことなのねそれにしたって 130cmの刀を持ち歩くのって大変そう ああ小次郎の背が高くないと腰にぶら下げ て歩く時に地面に引きずってしまうしなだ から背中に背負っていたのかもしれないが 何にせよ手が長くないとさやから抜くのも 大変そうだうんいざって時に剣を抜くのに もたついてその間に切られちゃいそう実際 郎がどんな背格好だったのか分からないが それだけ長い立ちを扱えるような体格だっ たのだろうそしてこの長い立ちを用いた 必殺技がみんなご存じな危険つばめ返しだ でも実際はどんな必殺技なのか知らないか もどんな技なのかと言うとまず立を 振り下ろして自分の頭をガラ空きにしその 隙を狙う敵をおびき寄せるんだいわゆる フェイントってやつだなそれじゃ敵は頭を えいやって狙うよねそこから振り下ろして ある刀を一気に敵の股から顎までで 切り上げるのがつばめ返しだ下からの攻撃 は見えづらいし油断もあってまず避けられ ないだろうそれにあまりの剣筋の素早さに つめをも切ったとされているぜうう とりあえずおまたは痛いですただし つばめ返しは吉川英二の小説宮本武蔵で 捜索された名前だとされている フィクションだったの名前はだぜ実際に 小次郎が使っていた技は中条流の虎切の ようでつめを切ったというのも フィクションだろうま繰り出す技は変わら ないのかもしれないけどななんだそうだっ たのかなお小説宮本武蔵によれば山口県に ある近貸橋でつばめ返しを編み出したとさ れているが近体教は岩流島の戦いの60年 後に作られたものだからこれも フィクションのようだぜその金貸教って いうのは知らなかったけどだったらどこで 編み出したのかな福井県にある一条抱きで 編み出したという話もあるぜこの近くに 戸田制限の道場があったようだ年齢の話は さておきここで修了していたとしても おかしくはないななお現在は一だは剣の 狩行ではなく空手の狩猟や多量に使われて いるそうだぜうう寒そうさて道場で剣の腕 を磨き必殺技も編み出した小次郎のその後 を見ていこうその後は現在の福岡県小倉班 の細川たに県術市販として徴用されたとさ れているさっきも登場した沼たの沼田信本 が使えていた班だぜああなるほどね2天気 によれば反の誰にも負けることなく地元の ヒーローになり取り巻きが増えたというぜ とはいえ小倉班に小次郎が使えた記録が ないからこれまた確実な話ではないのだ けどなないんかいさてここまで謎ばかりな 小次郎だが唯一確実に起きたと言える 出来事があるそれが武蔵と血闘を行った 岩流島の戦いだなんかここまで謎だらけだ と本当に血闘があったのかちょっと 疑わしいんだけどとにかく小次郎は負け ちゃうんだよねああ武蔵に破れ結果命を 落としたぜ勝敗は確かなのだが戦いの内容 はこれまた資料によってバラバラなんだぜ 例えば武蔵が遅刻してきたという有名な話 があるだろううんうん血闘に遅れてやって きてそのせいで小次郎が冷静さを書いて 負けちゃったって話だよね確かに武蔵の 電気に天気によれば遅刻してやってきたと されているなこれを元に書かれた吉川は エジの小説宮本武蔵ではわざと遅れてきた という描写になっているぜ霊夢が知って いるのはこの物語が定着している結果 だろうもしかして実際は違うのさっきも 話したが2天気は岩流島の戦いから100 年以上経ってから書かれたものなんだ正直 疑わしいぜだったとしたらなんで遅刻し たって書いたんだろそれより前の資料には 武蔵の遅刻については書いてないんだよね ああこら碑文には領有同時に愛返しと刻ま れているから武蔵は遅刻しなかったとされ ているとはいえ小倉碑文は武蔵の容姿が 作ったものだし洋の名誉を傷つけないため かもしれないがなそれにわざわざ同時に来 たなんて書くこと自体不自然な気がするが 実際はどうなんだろうなていうかそもそも 2人はどうして戦うことになったのそうだ よな血闘の理由も気になるところだよな こら碑文では岩流から血闘の申し出があっ たとされているぜ理由は分からないが 小次郎が武蔵に戦いを挑んだってことだ 一方沼たによればかなり物語が違っている どう違うの小次郎が小倉班の細川に使えた という話はしたが実は武蔵も剣術至難役と して使えていたんだ同僚だったのそれで 揉めたとか彼らに居酒がだったか分から ないがどちらが強いのか彼らの弟子が揉め 始めたようだ2人とも負けなしの最強剣士 だからな弟子としては師匠こそが最強だと 言い張ったのだろうそこで師匠の2人が 決着をつつけるべく戦うことになったと 記されているぜ本人同士が揉めたんじゃ ないのかただその裏には小倉反の思惑が あったという説も存在しているそれも 小次郎を抹殺するためだぜ小次郎が殺され ないといけないようなことをしたっていう の小次郎が無前の国の岩石場を拠点とする 佐々木という豪族の出身だとしたらの話に なるのだがそもそも佐々木氏は豊秀義が 九州平定をした際に幸福し細川市の支配下 に入ったんだだから細川氏にとって佐々木 氏は氾濫を起こされたら困る警戒すべき 相手だった小次郎を剣術市販に任命したの も佐々木市の怪獣の意味もあったと思わ れるぜそんな忖度があったわけねだが 小次郎の類いまれな剣術の才能に惹かれ 取巻きが増えていきモテはやすものも増え てきたそうなるとわしは面白くない武蔵は ハが呼んだのかそれとも自分で来たのか 定かではないが武蔵という最強の駒を使い 血闘という形で小次郎を消そうと反の誰か が考えたのかもしれないぜそんな陰謀が あったなんてあくまで説であって本当の ところは分からないがなはっきり言って 弟子がどちらの師匠が強いのかで揉める なんて普通にありそうな話だしそんなこと で命をかけて血闘するなら何者かの思惑が あったんじゃないかって考えたのだろうぜ とにかく無敗の剣士が剣を交えることに なったのは事実のようだ1612年4月 13日武蔵と小次郎の決闘が行われたぜ いよいよ岩流島の戦いが起きるんだね決戦 の舞台となった岩流党の名前は当時から あったわけではなくこの頃も今も正式名称 は船島だ岩流島と呼ばれるようになるのは 決戦の後の話で亡くなった小次郎を忍んで 呼ぶようになったそうだ勝った武蔵じゃ なくて負けた小次郎が由来なんてなんか 不思議な感じするけど決闘は倉半々士の 立ち会いの元行われたとする資料もある沼 た木によれば小次郎は1人で訪れ武蔵弟子 を引き連れていたと記されているな師匠の 戦いを見学に来たのかなここで有名な エピソードはさっきも話した武蔵の遅刻だ そして武蔵が船の階を削って作った木刀で 戦ったという話も有名だよな知ってるし なんかその絵も想像できるからドラマとか ではそうやって戦ったのかな確かに木刀を 2本持って構える武蔵がイメージしやすい なこのエピソードは1716年に熊沢 伊太郎が描いた武将勘定機に登場するぜ 武将勘定機は戦国時代から江戸時代にかけ ての武士について書かれた行場機だここで は買を2つに割って1つを205寸の長い 木頭にしてもう1つは一尺発寸と短く こらえたと記されているぜうんうん武蔵と いえば二刀流だもんねただし小倉碑文には 海から作成したとは記されていないただ 木刀で戦ったと記されているから普通に木 から作っただったのだろうな船の階で木刀 を作成したのはおそらくは高成に捜索され たお話なのだろうなんだそうなのかそれと もう1つ有名なエピソードがあるのだが 霊夢は知ってるかなどんなの両者が体した 時小次郎が刀を抜いた際にさやを投げ捨て たこれに武蔵が小次郎破れたりと言い放っ たとされているぜその話は初めて聞いた けどどうしてさやを捨てたら負けなのそう いうルールがあるんだっけ買って帰る つもりならさやは捨てないだろうという 意味なんじゃないかなるほどそういうこと か言われてみればそうだねただ小次郎の愛 物干竿はご存知の通り長くもちろんその分 さも長いんだ戦いに邪魔だから捨てたと しか思えないんだけどな武蔵も分かっては いたが小次郎を動揺させるために行ったの かもしれないというよりこれも フィクションなんだろうけどなもしも本当 のお話だったらわざと遅刻したり言葉で 動揺させたり小いよね武蔵では2人の戦い はどうなったのかというともちろん勝者は 武蔵小次郎は岩流島の戦いで命を落とした とされているぜそこは覆えらない事実なん だねだが問題なのは誰が小次郎の命を奪っ たのかだだから勝った武蔵じゃないのこら 碑文によれば武蔵の電光石果の一撃で 小次郎を仕留めたとしているこれが沼たで はかなり様子が変わってるんだぜ一撃じゃ なかったってことそうではなくて武蔵が 小次郎を打ちまかしたわしたもの仕留める には至らなかったしばらくして小次郎はを 吹き返したんだえまさかの生存説そうでも なくて生きていた小次郎を武蔵の弟子たち が古 ぼっこぼこもあるけどなとにかく小次郎の 弟子はやられたらやり返せと武蔵を殺す べく追い回したようだ困った武蔵は権力者 に助けを求めることにしたそれが沼田の元 だ彼が武蔵を保護したのにはこういった 経緯があったんだぜああ最初に話してた やつだね小次郎の年齢を思い出してもらい たいがもしもこ次郎が血闘の時に70を 過ぎた老人だったのであればフルぼこり 鬼畜だと思うのは私だけだろうかうん最低 だねだがこの血闘が小倉班の何者かによる 小次郎抹殺を狙ってのことだったら嘘なの かもしれないもしかすると小次郎にとどめ をさしたのは武蔵の弟子ではなく立ち合っ た阪かもしれないよなあそうかその可能性 もあるのかもしそうだとしたらなんで武蔵 が助けを求めたのか話がつながらなくなる が天下無双の武蔵を助けたという手柄を 作るために弟子が小次郎を殺したという話 を捜索したかもしれない無論武蔵と弟子 一同で小次郎をやった可能性もあるんだ けどな可能性を考えれば切りがないけど 宮本武蔵なら生生堂々と戦って買って ほしいよねそれが現代の武蔵像だもんな なお武蔵は亡くなる直前に報書でアル ゴリンの書を完成させているが小次郎に ついては全く触れられていないぜ武蔵に とっては大した出来事ではなかったのか それとも隠したい戦いだったのか理由は 分からないまさか岩流島の戦いなんて なかったってことはないよね容子の伊織が こら碑文で残しているしさすがにあったん じゃないかそういえば武蔵には容姿がいた が小次郎には実施や妻がいたのか気になら ないかそうだよね奥さんの話ってあまり 聞かないけど結婚はしてたの実は小次郎に は妻がいたんだぜ夫の小次郎よりも資料が 少なく詳しいことは分かっていないが雪と いう妻がいたようだ彼女はキリシタンの 信者でしかも小次郎が血闘に破れ命を 落とした時怪人中だったぜそれじゃ子供も いたんだそのようだまあガ島の戦いの時点 で小次郎が70過ぎの老人だったとしたら ちょっとありえない話だがな下の物干竿も 現役だったってこともありえない話では ないがてこら夫をなくした雪田が山口県に ある小方寺に身を寄せることにし偵察して 甘になったぜそして小次郎の母体をとう ため墓を立てここで一生を過ごしたそうだ 小次郎の墓の近くにはバテレン墓と呼ば れる墓も立ててある6面の観音様が掘られ ている石頭でここで雪がのりを捧げたと 言われているぜで子供はどうなったの やっぱり剣士になったのかな小次郎と雪の 子供についてだが詳しいことは分かってい ないただ古賀武蔵と弟たちへ復讐をさせ ないために小次郎の墓にははこじらと記し たとのことだ父が佐々木小次郎だと知らせ ないためだろう復讐の連鎖を断ち切ったん だねなお小方寺がある地区には佐々木星の 家が数剣あるようなんだもしかすると 小次郎の子孫なのかもしれないぜ今でも 血脈が続いてるんだねさて謎しかない 佐々木小次郎の人生はここまでだもはや これだけ謎で溢れていると実在したのか すら疑われるレベルだぜそうだよね本当に いたのかなって思っちゃったし私が知っ てる小次郎はほとんどフィクションなんだ なって知ったわっていうか色々資料が登場 してどれがどれだかわけわかんなくなっ ちゃったならば今回紹介した資料ごとに 佐々木小次郎がどう描かれているかを成立 時期が古い方から紹介しようもしかすると 成立時期が古い方が服しョが盛り込まれず 真の小次郎に近いかもしれないとは言え ないが参考にしてみてくれまずは小次郎と 岩流島の戦いで血闘した武蔵が描いた五輪 の書これには子供の頃から60回以上戦っ たが誰誰にも負けなかったと記されている だが岩流島の戦いには一言も触れられて おらず無論小次郎についての情報はない なんで何も書かなかったんだろ小次郎の 情報が初めて登場するのが1654年に 武蔵の用し織りが残した小倉分だここでは 武蔵が3弱の刀をフルー岩流という剣士と 1対1で対決し木刀で勝利したと刻まれて いる武蔵が遅刻してやってきたという情報 はないぜでも身内が作ったものだから身内 ひきの可能性もあるもんねああやしいこと は省略して書かれている可能性はあるぜ 1672年に細川半カロ沼田信本が書いた 沼たここで初めて小次郎という名前が登場 しているぜこら碑文には見られない武蔵が 弟子を連れて戦いに挑んでいたと記されて いたなその弟子がとどをさしたんだもんね ああ武蔵が血闘に勝利したが仕留め損なっ た小次郎は息を吹き返したところ弟子たち が集団でフ ぼっこぼこが復讐のために武蔵れまた集団 で襲おうとした遅刻に動揺して負けたのは また違う資料だっけああ遅刻したという話 はここでは登場しないぜ武蔵が船の階で 木刀を作ったという話が登場するのが 1716年に書かれた熊沢太郎の武将勘定 機さっき言わなかったがここでは小次郎は 岩流という剣士として登場しているぜ漢字 が違うんだ1727年に書かれた事方金 日記では小次郎は小次郎だが津田小次郎と いう士で登場するしかも血闘を挑まれたの は武蔵の洋らし宮本無であって彼が血闘を 辞退したため宮本弁のという剣士が船の海 の木頭で勝利したことになっているぜふむ ふむ佐々木という星が初めて登場するのが 1737年に上演された常敵内岩流島だ これも武蔵対小次郎ではなく月本武之助対 佐々万遊という対決になっているしかも 復讐担だから完全なフィクションと捉えて いいだろうだがここで登場する佐々木と いう後定着することとなるうん今では 佐々木以外考えられないもんねようやく 佐々木と小次郎のフルネームが揃うのが 1776年に2点一流市販のトヨタ影秀が 描いた2点機だ2天機博秀の父が描いた 武蔵の電気武公電を元に作成されたもの 武行電で武蔵が遅刻してきたのと小次郎が さやを捨てたというエピソードが初めて 語られているんだこの武行殿とに天気が 吉川英二の宮本武蔵に登場する小次郎像の 元になり現代の小次郎が完成したぜ改めて 話を聞いた結果どれも本当のことが書かれ てない気すらしてきたんだけど佐々木 小次郎って本当にいたのかななんだか宮本 武蔵の強さを引き立てるために生まれてき たようにも感じてきたということで今回の 解説はここまでだぜ次回も是非見てくれよ なチャンネル登録高評価もよろしくねご 視聴ありがとうございましたゆっっくり 霊夢とゆっっくり魔理沙だぜよく日本史の 話を聞いてるとルイスフロイスの日本って よく出てくるじゃないそうだな当時の戦国 部将の様子とかで参考にされることが多い な教師なのよねでもなんだかよくわから ない人物だなって思ってなんで日本に来た のかとは分かるけどどうして日本について こんなに書き残してたりするのかは不思議 だよなそうそう日本のことが好きだった からとかなのかしらどうだろうなそれ じゃあ今日はルイスフロイスの謎について 紹介していこうそれじゃあゆっくりして いってねルイスフロイスの障害まずは ルイスフロイスの人生について探って いこうルイスフロイスは1532年に ポルトガル王国の都市リスボンで生まれた 家は貴族の階級であったと伝わっている 貴族の坊っちゃんだったのか当時の ポルトガルはお隣スペイン王国とは ライバル関係だった15世紀後半に アフリカ大陸南端経由でインド洋に出る 航路を開拓しアジア県への進出においては スペインを一歩も2本もリードしていた弱 まさに大公開時代だったわけね国家を上げ て長い公開に耐える巨大戦を作り珍しい シジを求めて概要に繰り出す船乗りたちが いたインドやアメリカ大陸といった地域が 少しずつ身近なものになりつつあった頃に ルイスフロイスは生まれ育ったどんどん 世界のことが明らかになっていくんだもん ね社会全体が変わったんだろうな1548 年ルイスフロイスは16歳の時にイエズ スカイに入会したイエズスカイとは 1534年に創設されたキリスト教 カトリックの修道会のことだカソリックの 集団だったのか製品締結同士的結合をじ 不況に注力することを念頭に勢力的な活動 を行う組織でカトリックを4に広めるため なら身の危険を帰り水どこへでも出かけて いく強い信念を持った修道会として知られ ている創設メンバーの1人があの フランシスコザビエルだザビエルって そんなに有名な人物だったのねルイス フロイスはイエズスカイに入会後間もなく ポルトガル王国の貿易の拠点の1つとなっ ていたインドの西側にあるゴアという年へ 向かうゴアではルイスフロイスに運命とも 言える出会いが待っていた日本へ向かおう としていたフランシスコザビエルがいたん だおルイスフロイスも フランシスコザビエルに会ってるんだ ルイスフロイスには分泌と語学の才能が あったどちらも異国の不況には欠かせない もののためイエズ海の中でも高い評価を 受け様々な地域に出向いては重要な仕事を 任されていたようだそれが後の執筆に つがったのかしらそして1563年天気が 訪れる金手より希望していた日本での今 活動のチャンスが巡ってきた日本に憧れを 抱いていたのか日本への渡航の許しを得た ルイスフロイスはまず横瀬浦に常陸する 日本発来日の時ルイスフロイスは31歳に なっていた31歳で当時の長旅は大変だっ たでしょうね長旅の疲れが出たのか体調を 崩すことも多かったようだがそれでも不屈 の精神で困難に立ち向かい日本での不興を 続けた1年ほどの間横瀬や平戸などに統領 して日本語を学び日本での活動に必要な 知識を身につけていく日本語以外にも日本 の文化とかを学ばないとね1565年 ルイスフロイスは京都へ向かう日本の政治 経済の中心地での不況を許されすでに都子 入りしていた教師たちと共に不況活動を 続けることとなるついに当時の政治の中心 にまで食い込むことができたわけねこの頃 日本の政治のトップに君臨していたのが 室町幕府13代将軍足がよしてだった武勇 に優れた将軍で新しいものに森があり イエズス会の教にも理解を示していたと 伝わっているよしてるかすごい剣豪だった のよね悲しい最後を迎えているけど将軍の 後ろ立てを得たルイスフロイスは語学力を 生かし勢力的に活動を続けていった ヨーロッパ人たちにとって日本語という ものは大変難解でルイスフロイスよりも前 に日本に来ていたメンバーの中にも日本語 ができる人はほとんどいなかったそうだ 日本語は習得するのが難しいっていうわよ ね確かにヨーロッパのどの国の言葉とも 日本語は共通点が少ないしかしルイス フロイスは諦めずに日本語を学び続けた今 までも異国の様々な地域で不況活動を重ね てきた経験から日本後もいつか必ず習得 できるはずという確信を持っていたのかも な元々語学で優秀だったんだものね諦めず 勉強し続けるのが大事だわ不興活動は順調 かと思われたが時は戦乱の時代だ多くの 武士たちが攻め合っていた京都でも日々 争いが耐えない状況だった足がよしてるが 対立する武将たちに襲撃され命を落とすと いう英6の辺まで起きるそうそう将軍が 殺されちゃうってすごい話よねルイス フロイスたちはあれる京都から一時的に 避難し大阪堺にしばらく身を潜めていたが 翌年再び京都に戻り不況活動を再開する イエズスカイのポリシーにあるように本当 に不況を諦めないのね足がヨシテルの死後 代々的な活動は難しくなったかと思われた が再び戻った京都では運命の人との出会い が待っていたその人物こそ天下取りに動い ていた織田信長だそうか次の日本の支配者 は戦国武将たちに移っていくものね当時は 終わりの一大名に過ぎなかった織田信長だ がこの頃すでに他者を圧倒しめきめきと角 を表して乗りに乗っていた1569年 ルイスフロイスは初めて織田信長と対面 する信長将軍足が吉明と共に2城城改築の 建築現場に来ておりそこでの対面となった ようだ二条か意外なところで会うことに なったのねこの頃の織田の川というと武力 で周囲を制圧することはできても肩書きや 異言はまだまだで天下鳥のために京都に 入りたくてもそううまくいかない状況だっ た武力だけじゃ政権に近づけないのよね そこで足が将軍の権力を借りて京都入りを 果たそうと画策し当時越前で身を潜めてい た足が吉明を引っ張り出し15代将軍にし てやるから俺を京都に入れろとお願いまあ 脅したいかにも信長らしいやり方ね足が 吉明を担いで堂々と京都入りを果たした 織田信長だがそこでキリスト教なるもの 不況をしている教師の存在を知る信長は 新しい物好きってイメージがあるから選挙 師にも興味を持ちそうね実は信長はそれ までの仏教のあり方に不満を抱いていた 当時の寺院は強い権力を持っており全国 各地で一向一期を起こしたり何かと政治に 口出しをしてきたり勝手に年を巻き上げ たりと好き放題だったからだそうなのよね お寺が兵とか武力を持っていて1つの勢力 になってたのよね信長自身は徹底した無神 論者だったと言われているから仏教や進行 に対して敵意を持っていたのではなくそれ を重に来てのさやかが横行する現状に迫撃 していただから信長ルスフロイスと対面し キリスト教の存在が仏教のガス抜きに 役立つのではと考えたのかもしれない なるほど新しい宗教が入ることで何か ブレイクスルーできるんじゃないかと思っ たのかもねこうしてルイスフロイは織田 信長のつきを得て京都中心とした機内地域 での不興活動に取りかかったそしてルイス フロイスにとって信長との関係は良好だっ たようだどんな感じだったの彼は後の著書 で地球が丸いことを理解したなどと残し 信長について引象だったことを書き残して いるルイスフロイスは後に豊秀吉にも会っ ているが秀吉のことはあまり好きになれ なかったようでいいことは書いていない 信長は賢かったのねでも秀吉を嫌うと ちょっとひきしてるわねこの相手の印象に ついて詳しく記した文章を多く残している 点が日本史におけるルイスフロイスの評価 につがっているようだそうね個人的な 好き嫌いがあるとその人の評価って変わっ ちゃうものねしかしこの有効な状態も長く は続かなかった1582年本能寺の編で 織田信長が襲撃されルイスフロイスは再び 後ろ立てを失なってしまうまさに晴天の歴 ね1583年ルイスフロイスは不教活動 から一旦身を引き日本で見聞きしてきた ことを書物にまとめる作業に着手する そして日本各地を巡り日本について詳しく 記した書物日本史の変3に審決を注いだ不 教活動が行えない時に執筆したのが日本市 だったのか次の権力者となった豊秀義も 最初はキリスト教の不況を推奨していた しかし秀吉は信長とは一味違い自分の野望 の邪魔になりそうなものには花が効く人物 だった日本でのキリスト教の広がりと信者 たちの強い信仰心を当たりにし危機感を 覚えた信長とは逆にキリスト教に危機感を 持ったのか1587年秀吉はバテレン追報 令を発布したそのことにより選挙師たちは 京都を追われることとなるルイスフロイス も京都を離れ長崎へ向かう厳しい時代と なったがそれでもルイスフロイスは長崎で の不興活動を続けながら生活していた日本 での不興活動は難しくなるかもしれないの にポルトガルに帰ろうとは思わなかったの かしら実は1592年ルイスフロイスは 1度マカオに渡っているマカオといえば 当時ポルトガル王国の貿易拠点の1つだっ たじゃあこのままポルトガル行きの船を 待てば帰国できるのねと思いや1595年 に長崎に戻ってくるこの時すでにルイス フロイスは60歳を超えていたから ポルトガルへの長い船旅は体力的に難しい と思ったのかもしれない帰国することも できないのか1597年秀吉の命令で京都 にいたキリスト教選挙したち24人が捕獲 され2人の日本人信者と共に長崎で処刑さ れるという悲劇的な事件が勃発したルイス フロイスはこの出来事を26成人の准教 記録に記しこの後間もなく長崎の修道員で 駅を引き取るえじゃあルイスフロイスって 日本で亡くなったのそれは初耳だったわ実 は長崎で亡くなったことは確かなんだが ルイスフロイスのお墓がどこにあるのか 分かっていない日本での活動を見れば 大きなお墓があってもおかしくないんだが なえじゃあどこに埋葬されたのかしらお墓 がないのでルイスフロイスは死の間際に 真顔に行ったのではないかポルトガルに 帰ったのかなど様々な憶測が飛び交って いる長崎にはキリシタンのお墓がたくさん あるからもしかしたらルイスフロイスのお 墓もその中にあるのかもしれない自性的に もキリスト教に厳しい時代だったからどこ かにひっそりと埋葬されたのかもしれない わね日本市について次はフロイスの残した 日本史について見ていこう不興のために やってきたフロイスだが1583年にイズ スカイ本部から思いがけない司令が下され たそれは不興の第1戦から外れて1549 年のザビエル上陸から現在にイタル30数 年間の日本不教師を文章にまとめよという ものだ日本での不況が厳しい時期でもあっ たしイエズス会からの名もあったのね以降 執筆を開始したフロイスは早くも翌年に 日本総論を長崎で書き終えたこれは日本市 の第一巻で日本の期限気候自然風習習慣 建築食事文化宗教など全37勝をかけて 日本に関する基本的なことを詳しく説明し たものだ当時の外国人から見た日本か どんなことが載ってるの実はこの日本総論 の現行は現在に至るまで見つかっていない なぜ内容が分かるのかというと目次の社本 が残っていたからだえじゃあ目次だけで 内容を推理してるだけなのか1586年 までにはザビエルが鹿児島に上陸した 15409年から1578年までの不教師 をまとめた第2巻を1593年まで278 年から1589年までの不教師をまとめた 第3巻を書き上げ日本史は完成したそっか 1巻も読みたかったわね完成した日本史を チェックしてもらうためにマカオでインド 関空巡査師のアレッサンドロバリにャーの に現行を渡したOkが出ればローマに送っ て出版されヨーロッパの多くの人に日本で の不況を知ってもらうことができる少数 300強ページ数2500強実に20年 かけて書いた長対策だったすごいわね日本 大百貨じゃないところがこの蝶なところが 仇になったようでバリミーナはもっと短く まとめるようにと言ってローマに送ること を許さなかったこんな長いの読めるかって ことフロイスもせっかく書いたのにな すでに60歳を超えていたフロイスは自分 には書き直す時間もないと悲観しイスカ 早朝宛てに原型のままでローマに送付 できるよう懇願の手紙を出したと言われ しかしバリにャーのにも言分があった フロイスに対しては大いに慎重さにかけ調 癖もあり中庸を保てないという厳しい評価 をしていたんだ要は内容は多いけど自分の 意見とかがめちゃくちゃ入ってるから報告 としての内容はいまいちってことか結局 フロイスの願いは叶わず1595年に日本 史の現行は長崎に持ち帰ったようだその後 も日本年方という形で執筆を続け26成人 准事件の報告書最後に京15977年に 長崎で亡くなったじゃあ日本市はその後 どうなったのフロイスが亡くなった翌年 秀吉が亡くなる徳川時代に入りキリシタン 弾圧はさらに強まってきたこともあり在日 のイエズス会員は重要文章を真顔に移した その中にあったフロイス日本市もマカの 文書官に収められそのまま保管されること になったあじゃあ日本市は日の目を見る こともなく保管されていたのね日本史が 久しぶりに日の光を見たのは18世紀の 中期フロイスが亡くなって約100に10 年後のことだイエズスカインのジョゼフ モンタナによって書きされ社本が作られた しかもこれが幸いした幸い社本を作った ことがというのも19世紀になってマカオ の文書官は火事になり日本史のオリジナル 版は牌になってしまったからだモンタナの 社本がなければフロイスの鉱石は永遠に 失われるところだった本当に永久に失わ れる可能性もあったのね奇跡的に残った 社本だったが今度はポルトガルスペイン 両国がイエズスカイを弾圧するとという 事態が起こり混乱の中で現行は行方不明に なってしまう今度はヨーロッパでか イエズスカも色々大変だったのねその後 明治27年になってポルトガルのアジュダ 図書館で社本の一部が見つかりその後 フランスの個人の所蔵ポルトガルの海外士 文書官リスボン国立図書館から残りの部分 が続々と発見された結果として第一間日本 総論を除いた社本現行が全て揃ったわけだ いろんな人の手を渡ってきたのねそう聞く とますます日本市が読みたくなっちゃった わ文庫本とかでないの日本市の日本語役は これまでいろんな出版社で試みられたが 何しろ現象で2500ページもある長対策 だから最週間までたどり着かなかった翻訳 するだけでもとんでもない量になっちゃう わねそんな中初めて観客を成し遂げたのが フロイス日本自然12巻だ箱入りハード カバーの立派な単行本だぜ他の出版社の 日本史が1度ドイツ語訳されたものを日本 語訳し直していたのに対しそれでは ポルトガル語で書かれた社本を直接訳して いるより原本に近いわけねって全12巻の ハードカバー昔の訪問販売で売られた ブリタニカ百貨時点じゃないんだから第1 巻が昭和52年10月に発行最終の第12 巻が出版されたのは昭和55年10月だ から折3年の医療だなさらに平成12年に は全て文庫化されているぜこれなら霊夢も 読めるな文庫になっても量は変わらない けどねフロイスが日本史を書き上げてから 404年ようやく今やポケットに入れて 持ち歩けるくらい身近な本になったと思う とフロイスも報われるんじゃないかそれは 確かにそうねフロイスも自分の作品が発表 されて嬉しいんじゃないかしらフロイスの 逸話次はフロイスの逸話について見て いこうまずはフロイスは若い頃から優秀 だっただそれはなんとなく分かる気がする わねでも幼い頃からだったの彼は9歳で艇 に務め16歳でイスカ員としてインドの ゴアに向かった早くから才のが認められ 30歳頃にはインド監長秘書になっている 9歳すごい振動だったのね1559年の 名簿による人物評価はあらゆる分泌の仕事 にさえあり判断力もいい語彙力豊かで優れ た説教師となりうるというものだった ベタ褒めじゃないマカオの次に日本に来 なかったらまた違う人生だったのかもね次 は日本に来てからマラリアにかかったと いうものだ1563年に長崎の横瀬浦に 着いたフロイスだがその1年後には横瀬浦 が焼き払われたため宅島へ向かうそこで彼 はマラリアを発病し療養しながら暮らした この時代は日本でもマラリアが一般的な 病気だったのねこの間熱の発作がない時は 日本語を習ったり日本語の文法書や辞書の 変3もし始めたりと意欲的に活動している そんな時でも勉学は欠かさないのか努力の 人でもあったのね次はフロイスは日練習の 層と修論をしたというものだ彼は信長 立ち会いの元日練習の層である朝山日常と 異なる周波官の論争である修論を行って いる日常は一貫して選挙師排斥を訴えてき たそうだったどんな論争だったの論争は 白熱し霊魂についての話になったフロイス が永遠不滅の霊魂の存在を解くと日常は それほど霊魂が存在するというならここで 見せてもらいたいとフロイスと共に参加し ていたロレンソの首を切ろうとするこれに 対し信長がすぐに立ち上がり日常を取りえ て修論は終了したうん上の言いたいことも 分かる気もするけどちょっと論争のルール としては卑怯よねどっちが勝ったとも言い がいしフロイスはイエズスカ側の勝利と 記録しているがその後日常の反キリスト教 の勢いは強まっているから議論は並行戦 だったのではないかという見方もあるまあ 両者が分かり合ったことはなさそうね次は 秀吉とフロイスは冗談を言い合ったことが あるだバテレン追放例を出すなど キリシタンを追い詰めた秀吉はフロイスラ と対立関係にあったが時には冗談を 言い合う中ででもあったようだへえどんな 冗談ある時秀吉が4に多くの即死を持つの を許すならキリシタンになろうと言ったの に対しフロイスが電荷そうなさいませ電荷 1人が地獄に行っても日本人全部が助かり ますからと答えたのを聞いて大笑いしたと いう記録が残っているうまい返しじゃない さすが語学が堪能なだけあるわね最後は フロイスは日本で大地震を経験しただ 1586年坂と宮子周辺にかけて桁外れに 大きい地震があったと記している日本は 地震大国だからね大江の国では大地が割れ 家の半ばと多数の人が飲み込まれてしまい 若さの国では海が荒れたち大波が町に 襲いかかって痕跡もなく破壊してしまった と残されているこれは後に言う転生地震で あると言われているぜ知らない国で災害に 会うっていうのもすごく怖いでしょうねで もこうやってみるとルイスフロイスは日本 を好きだったんじゃないかしら日本を個人 的に好んでいたかもしれないが実は日本の 教には別の思惑があたようだ別の思惑 ルイスフロイスはアジアを征服しに来た実 はポルトガル系イエズス海の教師たちが 残したアジア制服に関する所管がある アジアを征服するなんで選挙師が ポルトガル領インドとされた地域インド民 東南アジア日本の特別職についていた アレッサンドロバリミーナと日本不教区の 責任者であるガスパルコエルが主に日本の ことを記録しているどんな内容日本の国民 は非常に勇敢でしかも絶えず軍事訓練を 積んでいるので制服はんだとあるそして 日本制服については慎重に進めなければ ならないと残しているえ選挙師がそんな 手紙を送るなんてさらに積極的な構成を かけることを主張したのはイエズス海日本 準環長ガスパルコエリだった彼は1585 年にイエ海のフィリピン府教長に日本に 作宮に兵隊弾薬大砲数席のフラガ打線を 派遣してほしいキリスト教都の大名を支援 し復習しようとしない敵に脅威を与える ためであるこれで初行たちの回収が進む だろうと書いた実際に戦力を送るように 指示までしているのか教師たちは回収した 大名たちがスペインの他国への侵略に手を かしてくれると信じており実際に所管が 残されている不教と他国侵略が一体だった ことが伺えるなキリスト教不教が公実だっ たのか征服したい思惑にキリスト教が 乗っかったのか信長と秀吉がイエズス海に よる日本侵略を話題にしていたとイエズス 会しが書いた所管に残されているその際 日本侵略について懸念していたのは秀吉の 方で信長は落観視していたようだ信長は そのような遠方から兵が来るわけがないと 言っていた当時の世界感を考えたら信長 みたいに考えちゃうわよね1586年 ガスパルコエは大阪場で秀吉に謁見した その際に秀吉は民国出兵の計画を語った ことが記録されておりポルトガルには大型 反戦に隻と優秀な公開士を依頼し提供の 合意を得ていた秀吉に武力提供もしてたの なんかよくわからないわね会見の際に小は 九州のキリシタン大名を全て秀吉側に立た せることも約束したらしいそして大砲を 積んだ軍船を秀吉に見せたその軍船は ポルトガル人とイエズス海が日本で作らせ たものでこれは秀吉にイズカの力を証明 することとなってしまったそりゃただの教 師がこんなもの持ってたら秀吉もびっくり でしょうね小と秀吉の会見の6年前 キリシタン大名である大村住田は領地を イスカに寄進していた1584年には有馬 春のも領地の裏を言えずスに寄進していた その間領内の社地が破壊される事件が起き ていた自社を破壊それはやりすぎよ 1587年に大村住田が亡くなりその1 ヶ月後に豊秀吉はバテレ追報令を発令し家 スカの量となっていた長崎模擬裏を 取り上げ直轄量としたバテレン追報例に 関する18日覚えでは日本人奴隷の売買を 厳しく批判し禁止を命じている選挙師なの に日本人を奴隷にしてさらに売買してたの イエズスカ選挙師が奴隷貿易に関与してい たことは研究でも明らかにされている秀吉 のバテレ追放令は宗教と一体化した奴隷 貿易を批判したものではないかと考察して いる研究もあるんだじゃあルイスフロイス が秀吉を恨むのは違いじゃないちなみに 秀吉はバテレ追報例を発令したがこれは 庶民の進行の自由を縛るものではなくて教 師の追放と権力を持つ量子層の進行を抑制 しただけだ江戸時代の近況例とは違って ことねちなみにコエルやルイスフロイスは 1589年1590年に援軍派遣を国王や 司教などに要請していたが実際に派兵さ れることはなかったフロイスもバチバチの 武闘派じゃない全然イメージが違っちゃう わ当時の世界状況やイエズス界を取り巻い ていた環境もあるし当時の人権意識は今と 全然違うっていうのもあるけどなそれは そうなんだけどルイスフロイスに関する 味方は変わっちゃうわねこうなってくると 日本史もヨーロッパに侵略させるために 情報提供したんじゃないかと思えてくるわ イエズスカイとしてはそういう目的もあっ たのかもなそれにフロイスが秀吉を嫌った のも侵略を邪魔されたからっていのもある かもしれないわねそれは考えられるよな フロイスにとって秀吉は人間的にも政治的 にも許せない人物だったのかもしれない 秀吉がいなかったら中世の日本はどうなっ てたのかしらねそれはフロイスでも言える ぜフロイスがいたから今の日本があると いうことでもある確かにそうねフロイスが 日本語が苦手だったら日本市も大きく 変わったかもね色々言われるが日本市が 重要な書物なのは間違いないしなそれは 功績として認めたいなということで今回の 解説はここまでだぜ次回も是非見てくれよ なチャンネル登録高評価もよろしくねご 視聴ありがとうございました

14 comments
  1. すんごい失礼だけど、霊夢ちゃんが知識豊富だとなんか違和感というかなんというか、、、笑

  2. 創○○会も日蓮宗系新興宗教団体だから、国民から嫌われているよね🤔池田大作会長が亡くなったら🙌🙌🙌🙌されたそうな‼️たぶん嫌われているのが分かる。

  3. 日蓮本人が、『他の仏教は偽物、私が本物』スタイルだから、今ある日蓮系カルト達も同じスタイルなんだな。信者以外を批判してばかりで自分を省みない。
    私の母もそう、隣人はまた別な日蓮系。迷惑かけやがって石投げるだけじゃ済まない。

  4. アレ?「日蓮」回最後の僧侶の写真画像は「日蓮正宗」僧侶?日蓮宗側からのお話を掲載しているのなら「日蓮宗」のお坊さん画像載せたら?「日蓮正宗」と「日蓮宗」は宗祖は同じでも袈裟衣を見ただけでも解る通り、残念ながらイマは天地くらい違う宗派になってるので。

  5. まぁ、慶次って2次創作(主に一夢庵風流記〜花の慶次)で有名なだけで、別に歴史上で何かやったタイプではないからなぁ
    ましてや、本流の前田家を出奔してるんだから当然っちゃ当然なんよ😅

    しかも、前田利家も漫画にあるような人物とは真逆の人物なら余計に風当たりは強い

  6. デコトラを運転する佐々木小次郎……
    母性が多いロリおかん茶々……
    怪盗衣装を着てテンシャン上がる天草

  7. 日蓮が存在しなかった場合、某学会や某政党も存在しなかった訳で
    これからも何百何千年も続く日本の歴史の中では影響度合いは小さいかもだが
    いま現在だと影響が大きいと感じるなぁw

  8. 小次郎の物干し竿は背の高い人なら腰にさして抜刀できる。昔、物干し竿の模造刀を店の人に売り付けられた時に試したから(笑)。

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