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太田幸雄とハミングバード – メランコリーの好きなひとに 万里村ゆき子 東海林修 和ジャズ 和ボサ

by ANNAPOST



Cool Hand Records BGM Digital Archive Project
昭和鹿鳴館 Midnight music in Showa vo.3
ボサ・フリーボサ・サンバ・ラテン・ジャズ・スキャット・ラウンジ歌謡
昭和歌謡におけるモダニズムとその考察。
http://www.coolhand-records.com/Hip-on-Showakayo-vol.3.html

太田幸雄とハミングバード –
メランコリーの好きなひとに = To Your Melancholy Smile
LP : 夜を盗む男たち
Crown GW 6012
1970年6月リリース。

作詩 : 万里村ゆき子
作曲 : 太田幸雄
編曲、指揮 : 東海林修
Chorus : 太田幸雄とハミング・バード
演奏 : フローラルポップス ‘70
Voice, Bass : 有田京示
Voice, Drums : 藤本晃
Voice, Guitar : 伊藤弘章
Voice, Piano : 太田幸雄

シックなボサバラードをユニゾンで歌うのだが
途中で何故かレターメンになりたがっている。
太田幸雄とハミングバードはピアニストの太田幸雄を中心に
1957年に結成された4人組ジャズバンドで、ダンスブームで
盛り上がっていた福岡市の繁華街・中洲で活躍した。

太田幸雄は1925年8月14日、日本統治時代の朝鮮釜山府で生れた。
1944年に釜山公立第一商業学校を卒業し、愛知県立工業専門学校
(現・名古屋工業大学) に入学するため愛知県名古屋市へ単身移住。
電気科に進学したが戦時中であり、軍需工場での勤労動員に励んだ。
終戦後、音楽への情熱冷めぬ太田幸雄は戦前からピアノの指導者として
有名だった井口基成に師事し、クラシックの基礎を学んだ。
1946年に九州配電株式会社 (現・九州電力) に就職し、釜山から
引き揚げていた両親と共に福岡県福岡市へと移り住んだ。
戦後再び大衆音楽として広がりを見せたビッグバンドによる
スウィングジャズだが、演奏の場の殆どが進駐軍クラブか
日本人向けの小さなダンスホールだった。当時娯楽の少なかった時代、
ビッグバンドジャズによるダンスパーティーは格好の社交場であり、
需要の高まりと共にピアノを弾くことができた太田幸雄は、演奏へ
駆り出されるようになる。占領統治の時代、各地の米軍キャンプや
焼け残った日本の接収施設に作られた進駐軍クラブで多くの日本人
ミュージシャン達が演奏していた。しかし基本的に進駐軍クラブでは
日本人の立ち入りが禁止されていた、所謂オフリミットである。
進駐軍クラブのダンスに必要不可欠なのは、バンド演奏やレコードなどの
音楽だった。中でも大きな需要だったジャズバンドは、1947年に開始された
演奏の格付け審査によって優劣を判定され、そのランクで出演料が
決められるという格式の高いものだった。

当時の福岡には約12組のジャズバンドが存在しミュージシャンの数は
150名を越えていた。大名町米空軍将校クラブで演奏していた
山田竜太郎バンドは特に高い格付けで人気を博していた。巨大な日本家屋を
改築したこの将校クラブにはダンスフロアやバーが作られており、
庭には大銀杏の傍の野外ステージもあった。戦前に満州でトランペット奏者
として名を馳せた山田竜太郎が自身のバンドに引き抜いたミュージシャンは、
引揚げ者や陸海軍軍楽隊の復員者が多かった。このバンドのピアニストには
満州生れで当時18歳の穐吉敏子 (あきよし としこ) が在籍しており、
その日本人離れしたピアノの腕前はミュージシャン達の間でも有名だった。
しかし1948年8月、穐吉敏子は更に腕を磨くために上京してしまった。
同じ時期に大名将校クラブの演奏も山田竜太郎バンドから深見俊次と
ホット・ショット・スウィング・バンドに引き継がれた。このバンドは
リーダーの深見俊次を始め、山田竜太郎バンドから移籍したメンバーを
中心に結成されており、ヴァイオリン4本のストリングスが特徴だった。
深見俊次は海軍軍楽隊出身のサックス奏者で、彼が穐吉敏子の抜けた
ピアニストの後釜としてスカウトした人物が太田幸雄だった。
1953年1月、大名将校クラブで火災が発生し、クラブは焼失してしまう。
その後、バンドは芦屋基地を経て1960年にキャバレー月世界の
専属楽団となる。また深見俊次が渡辺プロダクション九州支社長を
務めた頃は、ザ・ピーナッツや布施明、森進一ら渡辺プロ所属の
歌手が九州公演をする際の演奏を担当した。

作詞を担当した万里村ゆき子は以下の作品が有名。
ザ・カーナビーツ「恋をしようよジェニー」(作詞)
ザ・ワイルドワンズ「昨日に逢いたい」(作詞)
鹿内孝「情熱」(作詞)
酒井和歌子&江夏圭介「大都会の恋人たち」(作詞)
ジャッキー吉川とブルーコメッツ
「何処へ」(作詞・作曲)
「マリアの泉」(作詞)
「すみれ色の涙」(作詞) ※後に岩崎宏美がカバー
ジュディ・オング「ふたりの季節」(補作詞・作曲)
高田恭子「あじさいいろの日々」(作詞)
まがじん「愛の伝説」(作詞)
前野曜子・リッキー&960ポンド「告白・アイ・ラブ・ユー」(作詞)
松原智恵子「ブルー・レディー」(作詞)
森山良子「さよならの夏」(作詞)

編曲指揮を手掛けたのは村井邦彦のパートナーでもある東海林 修。
東海林 修 (しょうじ おさむ、1932年9月6日 – 2018年4月30日)
日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー奏者。静岡県出身。
幼少より教会音楽に親しむ。中学生の頃、仲間とハワイアン・バンド
を結成。手製のハワイアン・ギターで、当時の蒲郡ホテルの演奏バンド
にアルバイトとして採用され、外国人観光客のため演奏する。
口伝えで「可愛いフラの手」を習い、即演奏するなどした。
学生時代から米軍施設のジャズピアニストとして演奏活動に入る。
東京の代々木・渋谷・赤坂・六本木界隈の「Meiji Club(明治クラブ)」
「クラブ88」「松涛クラブ」などでクインテットやトリオを主宰。
またこの頃、ジャズ・シンガーのヘレン・メリルの指名で
専属ピアニストとしてキャンプを巡った。

その後、平岡精二とクインテットにテスト無しで招かれ、来日した
モダン・ジャズ・カルテットとの共演などで活躍していたところ、
渡辺プロダクション社長の渡辺晋自らのスカウトにより、ブレインと
して同プロダクションに参入することになった。
ザ・タイガース、ザ・ワイルド・ワンズ、アダムスなどの
グループ・サウンズ作品を多数編曲。また、トワ・エ・モワの
デビュー・アルバム『或る日突然』(1969年)などの作品への
編曲により、村井邦彦の絶大な敬意と信頼を得る。
1970年、大阪万国博覧会水上ステージ「エキスポ・メイツ・ショー」
(スクール・メイツ)の音楽を担当。欧米のヒット曲や童謡メドレー
の編曲、書き下ろし「愛・花・太陽」を作曲。
演奏は宮間利之とニュー・ハードが担当した。1972年4月に
NHK総合テレビの音楽番組『ステージ101』の音楽監督に就任し、
1973年9月まで務めた。

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