聖書:ヨハネによる福音書21章17−19節
コリンとの信徒への手紙第一 15章56−58節
説教:北原葉子牧師
の [音楽] おですかね え211ページ21ページをお分けになっ てお待ち くださいおはようござい ます本日の御言葉はえヨハネによる手紙あ 福音書21章の15節から17節え並びに コリントの信徒への手紙第1の15章56 から58節 ですヨハネによる福音書21章15節から 21 節食事が終わるとイエスはシモンペトロに ヨハネの子シモこの人たち以上に私を愛し ているかと言われたペトロがはい主よ私が あなたを愛していることはあなたがご存知 ですと言うとイエスはわの子羊を買い なさいと言われた2度目にイエスは言われ たヨハネの子指紋私を愛しているかペトロ がはい主よ私があなたを愛していることは あなたがご存知ですと言うとイエスは私の 羊の世話をしなさいと言われた3度目に イエスは言われ たヨハネの子シモ私を愛しているかペトロ はイエスが3度目も私を愛しているかと 言われたので悲しくなったそして言った主 よあなたは何もかもご存知です私があなた を愛していることをあなたはよく知って おられますイエスは言われた私の羊を買い なさいコリントの信徒への手紙え第115 章56節から58節死のトは罪であり罪の 力は立法です私たちの主イエスキリストに よって私たちに勝利を賜る神に感謝し 私の愛する兄弟たちこういうわけですから 動かされないようにしっかり立ち主の技に 常に励みなさい主に結ばれているならば 自分たちの苦労が決して無駄にならない ことをあなた方は知っているはず ですこの春の季節にありますイースターは え春のお祭りだと思っておられる方も一般 では多いんではないでしょうかま卵や うさぎの飾りはそういう季節のおお祭りと 関係してると思われますが教会で祝うイス は一度限りの歴史上過去に確かに起こった イエスキリストの復活を記念する日ですま 季節の祭りでしたら毎年繰り返す出来事 ですがイエスキリストの復活というのは 歴史 上一点におけるま神様の起こされた出来事 でしたそのキリストの復活を伝えるために キリストを信じた人たちはあまつまり教会 はですね最初からあ主イエスが復活をした 日曜日に集会をした集まったのですま ユダヤでは安息日というのは金曜日の夜 から土曜日の夜ですので土曜日礼拝は
土曜日にしているんですがあこのキリスト 者たちは日曜日を主の日として集まってい たようなんですま当初はですね他の ユダヤ人たちと同じように街道にあの 土曜日とか神殿とか街道に土曜日に いわゆる安息日の日に集まっていたよう ですけれどもまそしてそれに加えて日曜日 にもイエス様を礼拝するために集まってい たというのです え何か定的なことがこの日曜日にえ起こっ ていたということはそういう習慣からも 分かりますでそれがこの復活することは どういう仕組みで起こったのかどうしたら 死人が蘇るなんてことがあり得るのかとえ それは分かりませんえそれは考えてみても 仕方のないことですしかし死から復活した としか異のない人間の理解をはかに超えた 不思議なことがあ起こった神が奇跡を 起こされたとしか言いよのない何事かが この日曜日の朝に起こったの ですこのキリストの復活を記念する イースターは私にとっても信仰の原点です え小学生の頃同じ学年の子が小児癌で 亡くなったことに衝撃を受けましたえ自分 のような子供でも病気で死ぬことがあるの だとま死を恐れるようになりましたえ ちょっとが悪いか悪いとですねえああもう 自分も死ぬのかとこうリンパが晴れたり するとああってこう眠れなくなったりする そんな子供でしたそのような中教会で 初めて死の問題に直接答える福音の メッセージに触れました今回のイースター の知らせのはがきにも書いたあ御言葉です シエスがこう宣言しておられます私は復活 であり命である私を信じるものは死んでも 生きる生きていて私を信じるものは決して 死ぬことはないえイエスキリストを信じつ そのイエス様につがるならば死は終わりで はないんだそのことを知って平安と希望を 与えられました えま子供心にも学校や社会ではなぜ人間が 結局は死ぬのにえなぜ苦しんでまで頑張っ て生きなきゃいけないんだろうかとまその 答えは誰も教えてくれないしまた教えたと してもですね色々ま流行によって社会状況 によってえ大人が言うことはこう変わって いくといううことえしかしえお作りになっ た世界をお作りになった神様がこのいう ことなのだからこれが確かな道だとそう 信じました中学3年生のイースターの時に 洗礼を受けましたえちなみにえその洗礼を 授けてくださった角田清先生をこの5月に お招きすることになっています えその後単にえ肉体の死が問題ではないと いうことに大人になるに連れえそして色々
なあ社会的な責任人との関りの中での責任 をを追っていくにつれ気づくようになり ました本当に私たちを滅ぼすのはそして 絶望と虚無に落とし入れのはえ病気とか 事故によって肉体が失われるということで はなく関係による関係の死だ と神との関係そして人との関係に死が 訪れるまここで罪が問題になってるという ことに えおになってから直面させられました主 エスが復活したということは単になんか すごい奇跡であってイエス様が特別の前脳 の力を持っているんだとすごいぞだから イエス様を信じたら同じように死んでも 生き返って未来英語を生きれるようなま 超人になれるんだぞとえそういうことを 言ってるんではないのですもちろんそれは あ死というのは人間にとって脅威で えありますあえ復活というのは人間にとっ てま驚くべきことですし え理解を超えた不思議な出来事がましかの 復活ということです神秘でしかない出来事 ですしかしただ驚かせるために主は復活さ れたんではない死んだ人が蘇ったことが すごいというんではなく何よりもそれは まず十字の罪人の 最もどい罪である極悪人の死刑囚として ナザレのイエスという人物がさかれて殺さ れたそしてそのことが神のご計画であった 人間を救いなるための出来事であったと もっと言うならば私たちを罪から許すため のことだったということそれを表している からこそ復活は意味があるのですイエス様 の死後日曜日の朝にご遺体に行を乗ろうと 思って女性の弟子たちが墓に行きましたえ 今日のお読みしたところのもう少し前の ところですねえヨハネの20章のところ からあ書かれていますま岩墓を蓋している 岩が動いて中にご遺体がないとえペテロも 行きましたけれども遺体が見えないとえ そしてしばらくマグダラのマリアこの墓を 覗いて泣いているとすぐ後ろにイエス様が 立っておられたそして他の弟子たちに私が 復活したことを知らせようとマリアにお 命じになりますしかし弟子たちは信じませ んえ弟子たちはイエス様と同じように殺さ れるのが怖いと恐れてえ隠れていますその 弟子たちの真ん中にシエスは現れましたえ そしてその時にはいなかったトマスがえま 他の弟子から先生が蘇ったってことを聞い ても絶対に信じないと言っていましたその トマスにもイエス様はえ現れてください ましたそして今日の箇所の主人公である ペテロはえこの直前にえガリア湖で両をし ていましたその時にまにイエス様が再び
現れたとおま昔経験した一晩寿量をしてい ても取れなかったえけれどもイエス様 のこのアドバイスに従ってですね網を 投げ入れると太陽の魚が釣れたとその 出来事を再び経験しえそしてえ最初はま 気づか気づかなかったんですけどもシュラ と気づいた人がいてペテロがあその時に裸 だったので服を着てドボンと湖に飛び込ん でイエス様が会いに行ったとその後弟たち はイエス様と職事をします弟たちが復活の イエス様に出会ったということがその風に 書かれいますけれどもしかしえこのイエス 様に出会ったということはあ弟子たちに とっては尊敬する方は生きててよかったね とそういう話ではないのです多くの弟子は 主エスがゲッセマネのそで祈りその後捉え られた後自分たちも捕まっては怖いと 恐ろしいということで散り散りに逃げて しまいましたま勇気を持って逃げないで イエス様の後をそっとついてきたペテも大 祭祀の庭でえ主が裁判をお受けになってる 時にま隠れて見ていたんですけどもそこに いる人にあなたもあの人の弟子ですねと そう言われるとはっきりと違うと否定して しまいますそれを3回も否定してしまうの ですそのように弟子たちにとっては1度 自分の命をさに見捨てて逃げた人との再会 が復活のイエ様との出会いです異常に 後ろめたいこと でしょうある意味恐ろしいのではない でしょうかイエス様はその時はっきり十字 架で釘さされた手と足の傷脇腹の傷をお 示しになりましたつまり自分の裏切りが 暴露されるということですイエス様が死ん だままでしたらある意味そのままそしらぬ 顔でですね えあの選挙伝動したのはま若の至りだった とかって言いながらですねまその後の人生 え全然イエス様と関係なくたどることも できましたでそのように漁師だった弟子は 元の職場で領をして日常生活を送っていた しかし自分が見捨てたシエスが目の前に 現れ た3度までえ否定したその主です呪いの 言葉さえ吐きながらしかもイエス様が 聞こえるだろう傍で知らないそんな人知ら ないとペテロは言ってしまっ たしかし復活のイエス様は決してこは おっしゃらなかったよくも私を裏切ったな とか聞いてたぞとかそういうことは おっしゃらないのです平和があるように シャロームと彼らを祝福しまし たその今日の箇所の直前ではあ弟子たちの ために朝ご飯さえ用意してそしてえパンを 分かち合って食事を共にしています食事を
共にするというのは親密な関係の証拠です 異邦人など自分の仲間と見なさない人とは まユダヤ人は決して食事しなかったのです えましかも一晩中量をして釣れなかったあ その疲労コパになっていた弟子たちのため に焼魚を焼いてイエス様ご自身が朝食まで 用意しておられる非常に温かな配慮を持っ て励まし養ないえ一緒に命の手を分け合っ ている とここでもイエス様は既にご自身を捨てて 逃げた弟子たちを許してくださっているの ですヨハネ福音書ではえ最後の晩餐の時ま 103章の36節にその場面がありますが ユダの裏切りの後ペテロはあなたのため なら命も捨てますと言いましたけれども主 は答えられました私のために命を捨てると いうのかはっきり言っておく鶏が泣くまで にあなたは3度私を知らないというだろう とその予告通りになったわけ ですシエスはしかしペテロの熱い思いえ けれども自分の命が危なてればいも簡単に イエス様を知らないと言ってしまうそう いうま弱さも お自己中心な思いも全てをご存じ で分かった上でペテロを愛しておられたと いうことがわかり ます十字に書かられたのはこのようなご 自分を愛し通せなかった従い通せなかった 弟子をも許ししその罪をあうためでした主 エスが復活されたのは弟子たちの前に現れ たのは人間じゃないよ私は神なんだ前脳の 力を持っていたんだ持っているんだと帯び 驚かすことではなくあなたの罪はあわれた よあなたは許されているん だそしてあなたがどんなに弱く汚れていて 愚かであって も愛しているんだよというメッセージなの ですま主は3回ペテロにあなたは私を 愛するかと尋ねておられますこれは明らか にペテロが3回シエスを知らない違う弟子 ではないと否定したことにえ対応している でしょうヨハネの子指紋この人たち以上に 私を愛しているかえそれに対してはい愛し ていますと答えればいいのにペトロは微妙 な言い方をしていますはい主要私があなた を愛していることはあなたがご存知ですと えしかも主エスの問のこの愛しているかと いうのはま完全な愛え神様の愛を表す アガペという言葉で通ってますがペトロは 自分がアガペの愛でえー愛してるなどと いうのはまおこがましいと感じたん でしょうかフィレオま由愛とか人間同士の 通常のの愛情を友情などを表すそういう 言葉を使って答えています3度目に私を 愛しているいるかと問われると悲しくなっ
たこれは明らかにあ3回否定したからだと 気づいて自分のしてしまったことを悲しん だということだと思い ますまたその自分をこし愛してくださる主 の哀れみに答えられなた自分の情けなさに 改めてえ悲しんだのかもしれません私たち もペテロのように私を愛すかと言われて はいと素直に言えない痛みを持ってるんで はないでしょうかシエスを神様を愛すると いうことは聖書によればそれは隣人を 愛するということと同じですからあなたは あなたの隣人を共に生きている人出会いを 与え人を愛しますかと問われていることと 考えて良いでしょうはい私は隣人を愛して いますとそう言えないんじゃないかあの ペテロが3回問われて悲しくなったような 悲しみを私たちも持ってるんではない でしょうかペテロは自分の命が惜しくて シスを否定しましたが実際肉体の命がこの 失われる殺されるというそういう目に目に 合わないまでも隣人を愛しそして自分の 持てるものを使い与え続けていくことでま 自分の時間が労力が財産が失われる健康が 失われるんではないかと心配してま自分を 守るために人を愛し抜くことができなく なってしまう ことこれ以上は無理と相手から離れてえ 頼っている人を裏切ってしまうことあるん ではないでしょうかまた相手ののためにと 関わっていきながらこれ以上はできないと 疲れ自分の愛のなさを嫌というほど知らさ れることがあるんではないでしょうかまた は愛をよって相手の間違っていること問題 を抱えていることに対して管用にえ面倒 観葉をまたよって面倒を避けてえその相手 をですねあの向き合うことせずに結局相手 を滅ぼしてしまうということがどれほど あるでしょうかえ後輩とか家族とか特に 自分が責任のある子供たちに向き合うべき 時に向き合わずにどれほどその相手の人生 をダメにしてきたか逆にえこれは相手の ためだと愛情だと言って厳しくすることが 実は自分の自己実現だったり自分の価値観 を押し付けていたそして相手の個性をその 人らしさをすすようなことだったという こと後になって気づかされてえしまうと いうこともありますあの時子供にまた共に 行ってしまったことは今だったらどれほど 自分があ何か偏見とか思い込みだったにえ 思ってですね言ったことあった方今だっ たら分かるんだけどなとそのように知らさ れることはあるんじゃないでしょうか 私たちは生きれば生きるほどま多少は感謝 されたり貢献できることはても同時に自分 を恨んでいる人裏切られたと思わてた人
傷つけたえと思ってる人の数も傷つけられ たと思ってる人の数も多くなるのです そして最後はあなんか多くは残らないなと 全てが過ぎ去ることだとふと思う時があり ますま虚無という毒にやられることが 起こってくるんではないでしょうか 今日お読みしたもう1つの聖書の箇所は 首都パウロが書いた手紙からの言葉です パウロはえ地上を人間として歩まれた イエス様には会っていませんそれどころか キリスト教とを迫害して教会のリーダーの 殺害現場にも立ち合っていた人ですその人 が復活されたシエスに出会いその言葉を 受けそして洗礼を受けキリストの福音を 伝える人に変えられましたそのパウロが死 と復活について書いています死のトは罪で あり罪の力は立法ですとえつまりま死その ものに この力がある毒があるというよりもお死が ですねトとなって人を指してえその毒を 放つのは罪があるからだ人間に罪がある からだということなんですそして大学観を 持たせてえ苦しめるのは立法があるからだ とま本来良いものとして与えられた神の掟 て立法がこれをしてはならないこれをす べきだというその掟があるんだけれども それが実行できないことが一方によって 実感されそして罪悪感がトのようにえ心を 苦しめるのですプロテスタントのキリスト 者で哲学者である森有正という人がいます えま母校のICUで客員教授をしていた ことがありえま私が逃が来た時にはもう 亡くなっていたんですけども多くの先輩 たちがあ当時この注目されていた哲学者で ある森有正の影響を受けていましたえ森氏 はあるキリスト教主義の女子代で講演をし て公演の後にある女子学生に認められまし た先生はなぜ生きてるのですかと彼は思わ ず答えました私は死ぬために生きているん ですよとえそしてえま公あの本でですね その意味を説明して書いていますえ私は 死ぬことができるんだったらい問題ないん だと私はつまりやすらかに後悔なく死ねる ならいいんだ問題はないことだととか 痛み不安で死ぬにないということが 問題なんだ とえまこれは肉体の死というんでなくても 夜寝る時のことを考えてみるといい平安で に眠りにつつけるならばそれは幸いだ としかしいろんな後悔が湧いてきて心 苦しめられて眠れないことがあるんじゃ ないかえそこでこの死において罪という ことが最後に残る問題なんだといい今の この第1コリントの復活の体について パウロが解いた箇所を引用します死のトは
罪でありとえしかしパウロはここですぐに ひって言います私たちの主イエスキリスト によって私たちに勝利を賜る神に感謝 しようえつまりスが十字架にかかりこの死 のトである私たち の罪を許すために死んでくださってそして 私たち を罪から救うために復活してくださった このキリストの復活というのは初歩として の復活なんだキリストを信じ結ばれるなら ば私たちも復活させられるのだとこの コリントの第15章でがあ述べています ですから死んで終わりではないんだとだ から勝利が与えられるのだというのですえ 森氏はあ朝重い心でこの目覚めた時え しかしその時にキリストが十字架の上で罪 はあってくださったということを心に思う と心は晴れて元気になるとも語ってい ますこの復活というのはただあ肉体が知ら ないとか私たちが未来英語生きるという ことではありませんもしこの罪人のまま 汚れた罪がない自己中心の英語の塊りよの ような存在が永遠に未来英語に存在すると それは意味がないどころかあそれこそ害悪 でしょうしまたそれこそ地獄でしょうこの 苦しいですね人をねたりだりえするそう いう心が未来英語を続くなんて本当にえ 地獄じゃないでしょうか英語がいつまでも 続くえそうではなくてキリストと同じ完全 な神の語として復活するのですキリストと 同じ神様に喜ばれる神と隣人とアガペの愛 で無償の完全な愛で愛することができる ものとして復活するのです地上でキリスト を信じキリストに結れるものは今は完全で はないとしてもこのような完全な存在とさ れて復活しすることができるそしてえこの 地上で生きる間もキリストのような愛に 生きるその方向に向かって1歩でも2歩で も進んでいけるようになります希望を持っ て生きることができるようになるだから その人たちの行った技は無駄にならないの だというのですキリストの働きが無駄で ないようにキリストの愛を持ってえ関わる 働きというのは無駄に終わりません実り 豊かな人生を生きることが できる愛することができずに自己中心な 思いでなされた技は後には何も残りませ んどんなに一時的に栄えているように思え ても時が過ぎればも過ぎ去って何も残ら ないのです愛のものから生まれたものは 虚無ですしかしキリストの愛に基づく技は 永遠の永遠に残る愛の絆を生み出していき ます無駄には終わらないの です復活のシエとペテロの記事に戻ります えイエス様は3回ご自身への愛を表明させ
てそしてある意味ま挽回のチャンスを作っ てくださっていますまたこれは完全に ペテロがその3回の否定を乗り越えられる よという励ましのためでしょう主は3回私 の羊を買いなさいとペテロに新しい使命を 与えていますつまり福音を伝え主を信じる 巨大姉妹たちを励ます木介ま魂の羊会とし てイエス様のお手伝いをする役割を与えて くださいましたまあの弟子としてやり直す だけでなくもっと尊いこのとしての務めを 与えてくださったわけ ですこれは別に教会の牧師とか伝動者のみ に言われてることではありませんえ皆さん それぞれ同じです教会の兄弟姉妹妻や夫 また子供また親に対して親族に対してえ 友人や出会う人自分が責任与れた人そ それぞれの場でそういう人たちと愛し合う 関係に生きよと 羊を買いなさいと皆さんそれぞれイエス様 はおっしゃってくださっているんです つまり愛すことができなかったものに再び 愛するチャンスを与えてくださったのです 3度私を愛するかと尋ねられたペテロは 答えます主よあなたは何もかもご存知です と何もかもご存知 です自分が本当にを愛してるのかそして これからも信仰を持ち続けることができる のか信仰絶対に捨てないかどうか自分では 自分のことは分かりませ ん以前のように死んでもあなたについて いくなどとペテロはここで豪語できません でしたしかし主エスは全部を知っていて くださるそのことに委ねましたその事実が ペテロを生かしました私たちも同じです この私の罪を許すためにに死んで復活され た主エスに私たちは全て知られています 自分を守りたくて愛し抜くことができない 弱さもそれでも神と隣人と愛していきたい という願いも汚れもまた心出しも全てを主 は知っていてくださる知っていて愛し抜い てくださってい ます主は人の心の中にあるものがどれほど 病んで腐っているかを知りながら愛し抜か れましたこの愛し抜かれたということは ヨハネの13章の1節にあります最後の 晩餐の場面ですシエスはこの世から父の元 に移る時が移るご自分の時が来たことを 悟り世にいる弟子たちを愛してこの上なく 愛し抜かれたとえそこにはあその裏切り3 回知らないというペテロもいればご自身を 売り渡すユダもいました その弟子たちの育成を知りながら愛し抜か れ たまたイエス様の十字架の場面を見るとお 非常な肉体の苦しみの中でえシエスは地上
に残される母マリアを心にかけておられる ことがわかります愛している弟子にえ世話 をするようにと促したとま母マリアも安心 させそして弟子にも新しい使命を大切な 使命をくした残されるの絵の細やかな背も しておられますまた自分たちも捕まるんだ と恐れて隠れてる弟子たちに現れて平和が あるようにと励まされましたその時にい なかったトマスはイエス様の復活を疑いえ イエス様のその傷のある手に足に脇腹に指 を差しなければ絶対に信じないとそういう 風に固くに信じることを拒んでいました そのトマスのためにもイエス様は現れて トマスの言葉を引用してその指を私の手に 足に脇腹に入れなさいと言いましたそして 確かに蘇られたことを示されたのです そして今日の箇所ではさ3度ですねご自身 を選んだ裏切ったペテロに 3度もう1度愛を告白させそして使命を 与えまし たエスはただ罪許すというだけでなく それぞれの弱さそれぞれの痛みまた それぞれ個別の問題え心配事それを知って いてくださってそれぞれにふさわしく愛の 配慮をしてくださっています私たちも自分 の人生の中で自分の誤ちであったりえ心配 にふさわしくまた自分の課題に ふさわしくいろんな出来事を通して主が 教えてくださった こと出会ってきたでしょうまたあの時にあ ああいう助けてをまた教育者を送って くださったなていう出来事をある経験して きたんではないでしょうかイエス様は神様 私たちの全てを知っておられるの です主エスはこの私たちがどれほど罪を 犯しても全てが無駄になってしまうような 全てが自分の愚かさによって無駄になって しまうような無技しかできなくても何度で もあなたの罪は許され たあなたの全てを 知り私は愛しているよあなたを諦めてい ないよと励まし続けてくださってい ますですから私たちも挫折を乗り越えて何 度でもやり直すことができるの です十字で上ですでに主はあなの死を遂げ てくださっ 今すでに私たちはその主に知られて愛され て生かされている様々な愛の出来事を経験 させられてい ます死を超えた復活の時というのはこの今 すでに始まっていること経験していること おそれがその救いがですね完成されること ですだから こそキリストのてくださる復活というのは 確かな希望なのですお祈りいたしまする神
様イエス様はすでに私たちの罪を許し そして私たちを愛し抜いてくださいました 感謝いたしますこの愛に今私たちは包まれ 今この時生かされています未だ私たち人間 の罪がよを覆っていますけれども この神様のくださる愛がそして愛し合う命 がやがて完全な復活の体という形で私たち 再び新しいものに作り替えられて経験する ことができること約束されています感謝 いたしますどうぞ希望を持って私たちまた 福を伝えるものとしてあませてください またまだあイエス様を心で信じ口で告白し ていない方々はどうぞこの主の素晴らしい 恵みをご自分の救いとして受け入れること ができるようになおなおお導きください この祈りを主イエスキリストの皆を通して 見舞にを捧げいたします