古代出雲文化フォーラムⅪ ~古代出雲と備後~
本学が開催する「古代出雲文化フォーラム」をYouTubeにて配信。
「古代出雲文化フォーラム」は古事記編纂1,300年を記念して平成24年度から始まり、東京、大阪、福岡など全国各地を回り、今回で11回目の開催となります。古代出雲文化フォーラムⅪは「古代出雲と備後」をテーマに、広島市にて開催いたしました。
遠方のためお越しになれなかった方や,当日の講演をもう一度ご覧になりたい方に向けて,当日の録画を配信いたします。
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■講演内容
【フル動画はこちら】
「古代出雲文化フォーラムⅪ ~古代出雲と備後~」
https://youtu.be/cal3J92IqPM
※各講演別動画もございます。こちらをご覧ください。
■第1部
・講演1.「弥生時代の備後・安芸と出雲・石見の交流」
会下和宏(島根大学総合博物館 館長・教授)
https://youtu.be/HkE9_043cJ0
・講演2.「国史跡寺町廃寺跡が語る備後と出雲」
藤川 翔(三次市教育委員会文化と学びの課 主任主事)
https://youtu.be/uOLP2AVS9SI
・講演3.「出雲と備後を結ぶ道」
橋本 剛(島根県教育庁文化財課古代文化センター 主任研究員)
https://youtu.be/OevLPqPEFWE
■第2部
〇島根大学の取組
・発表1.「石見銀山遺跡から広がる島根大学の取組」
平郡達哉(島根大学法文学部 准教授)
https://youtu.be/Z6ROkH8GCSk
・発表2.「地域社会に根ざした島根大学の取組み」
三原 毅(島根大学材料エネルギー学部長)
https://youtu.be/PeuP0ZstjQs
■島根大学HP
https://www.shimane-u.ac.jp/
■Facebook
https://www.facebook.com/ShimaneUniv
■X
Tweets by Shimane_Univ1
皆さん こんにちは昨日あたりからまた寒さが ぶり返してきましたねまそんな中え本日は 古代出雲文化フォーラムイレブにお越し いただきまして心から感謝を申し上げます ありがとうござい ますえ本フォーラムは平成24年の乞食変 31300年を期に開催が始まりまして 今回で11回目となり ます第1回目から東京都広島県大阪府福岡 県東京都愛知県岡山県大阪府と全国各地で 開催を重ねてまいりましたえ毎年おかげ様 で満席でご公表いただいておりますえ今回 は平成25年に第2回として開催して以来 10年ぶりに広島県での開催となりました 10年前の古代出雲文化フォーラムにお 越しいただいた方もこの中にいらっしゃる のではないでしょう かえ本日のフォーラムは古代出雲とビゴと いうテーマで進めてまいります申し遅れ ましたが私司会を務めさせていただきます 石原美と申しますどうぞよろしくお願い いたし ます [拍手] ではまず始めにフォラムの主催者島根大学 よりご挨拶させていただき ます島根大学学長はっと安直でござい ますえさんこんにちはあ島大学のハット ですえ本日はですねあのアニの空模様また ちょっと足元の悪い中あ島大学が主催 いたしましたえ出古代出雲文学フォーラム イレブンにご参加いただきまして誠に ありがとうございますえ私今日はあの朝9 時にえ松江市からですねバスで来たんです けどもえ途中 あの雪道になってきましてですねあのえ 山陰松江道ですかね松江堂を通って途中で え雪が降ってきててそれで結構中国道に 入っても残ってましたでまこれ広島に入る と天気なんかなと思ったら広島道になって もまだこう今度雨にちょっとなっててあ 今日はこれ雨なんかなと思って広島に着い てでちょっとしたら上がりましたですね今 あの私歩いてきましたけども非常に今いい 天気になってございますえ皆さんさんが ちょっとこれる時には足元悪かったとかと 思いますけどもこうしてお越しいただいた ことはありがたく思いますえっと今あの 石原さんの方からですねご紹介いただいた ようにえこれ第1回が東京都でえ平成24 年度にえ有明にある丸4方ですかね開催し てそれで え こう島根大学は島根県にある大学ですで
島根県にはじゃ何があるかと言うとまも あのもちろん出雲大社ございますし松江城 もありますしまた今足立美術館とかですね それから今世界遺産になってますえ岩見 銀山から世界ジパークになってる大きま 色々こうあるわけです で元々何があったかというと実はここが いつもがあのもう日本の発症の地だという 風に私は思ってますし多分出雲の人たちは そう思ってますまそういうですねあ歴史 ある伝統のある地域にある国立大学として え その文化自身が私たちの財産だと考えて ますえ島大学本文学部を中心にですね え歴史広告学研究しておりますまそういう 研究成果とあとはあ色々各でこの古代相 文化に関わることを研究されてる方々の 研究成果を発表するとともにそのような 内容を皆さんに知っていただくことでえ 島根県をよりよく知っていただきよりよく 興味を持っていただきできれば あ1度でなく何度でも島根県を訪れて いただければと思います私たちの取り組み がですね皆様方の自を分けたてそしてえ わずかでもですね皆様方の役に立てれば幸 だと思いますえこのようにですね多くの方 が集まっていただくこれ原因何かというと さっき言いましたようにやっぱり好奇心 ですね知りたいって気持ち知りたいって ことはまだやっぱり分かってないんですよ ね古代文化はっきりと分かってないだから 知りたいその好奇心 が我々ですかねこう人としての1番の活力 の源かなという風に考えてございますえ 本日はあ歴史それから高古 学出雲にえ好奇心の持っていただいてる方 がこれだけ多く集まっていただきました 皆様方のご期待にそういうような発表が できるかと思ってますえ本日はですね二部 構成になってまして第1部は先ほどあの ありました古代出雲とビゴということでえ 本学の博総合博物館館長のエそれからあ 島根県古代文化セネターの藤川様それから あ橋本様ですかねそれから美義の教育 センターの藤川様ということでご講演 いただき第2部はですねちっと島大学の 取り組みに絞ってご紹介したいと思います あのこちらも非常にあのえ興味深く聞いて いただけるように工夫申しておりますあ 申し上げておりますので是非あの第1部の 休憩の間にお帰りにならないようにです ね第2部もうそこで帰るとまた雨に降ら れるかもしれません が是非あの残って最後まで聞いて いただければ幸いでございますそれでは
本日の会が皆様のお役に立つことを記念 いたしまして私からの挨拶をさせて いただきます本日はよろしくお願いいたし [拍手] ます 主催者を代表いたしまして島根大学学長 はっと安直よりご挨拶申し上げまし たさてまずは第1部のプログラムから進め てまいります今回のフォーラムでは古代の 出雲とビンゴさらには秋や岩美も含めた 交流をテーマに講演を行います両地域は 戦士古代より人物情報の活発な交流が行わ れてきました画い時代の土鉄や分母の分布 奈良時代の国跡寺町ハジ跡の調査結果出雲 の国付の記述などがこうした歴史を裏付け てい ます最新の発掘調査や研究の成果に基づく 両地域の交流の歴史を様々な角度から一緒 に考えていき ましょうまず最初のプログラムはやい時代 のビンゴ秋斗出雲岩美の交流と題しまして 島根大学教授で総合博物館館長のエ和弘が 講演いたし ますあ こんにちはえっとただ今ご紹介に預かり ました島根大学総合博物館のエと申します えっと私の方からはあの1番古い時代と いうことでやい時代のえビンゴ秋と雲岩の 交流についてということでまあのちょっと 前座的なですねお話をさせていただき ますえっと最初にですねあの私があの務め させていただいていますあの島台総合博物 館の紹介をですねちょっとさせていただき ますえっと島台総合博物館アシカルという 風なあの相性がついておりましてえ 2018年にですね松江キャンパスのあの 生物資源科学部の校舎のところえにえ オープンしており ますえっとこのアシカルっていうのはこの 日本アシカから来ていましてあのつい先月 ですがあの県の指定の天然記念物に文化財 として指定されておりますあの日本最古の ですねあのもう絶滅したんですけれども 島根半島で取れたあの明治19年に捕獲さ れて白星になったですねえ日本アシカの 白星です えそれからあの島根県あの田製鉄があの盛 に古代から行われておりましてあの広島県 も田鉄あの盛だと思うんですけどもあの それで取れたあの鋼元にですね日本島 なんかも戦国時代作られておりまして こちらはあのえ16世紀のですねあの浜田 あの島根県の浜田市のえ長浜島というです ねあの朝鮮半島にも輸出されていたあの 日本島になりますまこういったあの
物づくりのですね金属加工のDNAがあの 現在まで伝わってま第2部であのご紹介が ありますけれどもあの材料エネルギー学部 とかですねそういったものにつがっている ということでございますえっと留学生とか 高校生とかですねあの誰でも気軽に島台に 来てあの島台の研究や教育の歴史とか内容 とかですねそういったことをご見学 いただきますあの入間無料ですので是非え お越しいただければ幸い ですえっとそれではですねあの本題に入 入らさせていただきますえっとまずあの 本日のテーマですが出雲とビンゴの交流と いうことでえま交流を考える際にですね あの中国地方の地形について確認しておき たいと思い ます えっとこちらがあの中国地方のあの地図な んですけれどもえ島根県の場合ですとえ 氷川あ氷川ですね氷川と 関川これがあの日本海側に注いでおります えま鳥取県ですと日川ですねそれから広島 県ですと 太田川大田川水計が広島湾に注いでおり ますそれからあ本日ちょっとあの付け加え たのは野川ですねこれは岩見地方の川なん ですけれどもあの水源地はあの北広島町の 方にありましてあの大南町のみずほ ハイランドというスキー場がありますが そのこっち側のところに水源地があってで 普通に行くと太田川の方にま流れていく ように思われるんですがここに少し分水例 があって三の方に流れていきますでそっ からあのえ日本海側にですねこう流れて いくとそういう風な流れですで見しという のはあのそれ以外のあの主流もですねここ で集まって合の川にこう流れていくとそう いう風な地形 ですえっとま私あのこの辺ゴカのこの辺に 実家がありましてあのノカの水で水をです ねに使っていつもこの辺で釣りとかして ですねあの育ったんですけども えっとこの川沿いにですね参考線という ローカル線が走っておりますえっと昭和 50年にですね前線開通して え子供会の遠足でですね三のあの小関山 公園の方に遠足に行った思い出があります ま今あのもう6年前に配線になってしまっ たんですがえっと私の思い出の中にですね 今も参考線が走っていてですねこの地図に はちょっと乗っけていますえっとまという 風にこのゴカっていうのは島根とこの ビンゴ北部を結ぶですねあの交通のま動脈 という風に考えることができますそれから えっと知り合いでですね広島県の熊野町
出身のあの島根大学出た方がいらっしゃい ましてあのま広島から松江に行く時は警備 線に乗ってで木線を通ってですねあの松江 まであの行っていたとえっと平成の初め ぐらいまではあの千鳥という急行があの 広島からあの米子の方に行くですね直通の 列車があったようでしてまあの広島と こっちの交流を考える際にですねこのえ 警備線とかキス線ですねそれからまあの えっと今松江道ができてルートが変わった んですが国道54号ですね三からあの こっちの方に走るえまカド川とかえヒカ この水計を利用したあのルートですねええ とまあのそういう風にえ河川のルートとか まそれに沿ったあの旧国鉄のローカル線の ルートっていうのがあの古代からのですね 交流を考える上で参考になり ますえっとそれ からえっとまここに中国重間道がえ走って いますけれども警備線っていうのはこの三 からですねえ白備線のええ新駅に繋がり ますでそっからあの寄進線というですね あのローカル線が津山の方に走って姫路 姫路の方にですね繋がっていくとこういう あの中国地方のこの中央を貫くですね東西 のルートですねそういうところもあの 見逃せないと思い ます えっとまあの地質学的な話をすると 1500万年前にですねえこの辺入江が こう入り込んでいまして小原の方だとクジ の化石なんかが見つかると思いますけれど もまクジが泳ぐような海だったわけですで そっからあの中国産地がえ流記していって ですねでえ残ったのがその野川とかあの そういった地形になわけ ですえっとでまそういうのを念頭に置いて いただいてあの出雲とえビンゴの交流です ねえ今日はあのまドキと鉄とお墓について あの交流について考えていきたいと思い ますえっとこのえっとやい時代は前期中期 後期とございざますがあの紀元前1世紀 ですねやい中期紅葉えこの頃あの身盆地を 中心に分布する特徴的な時としてえ塩待ち 式時というですね時がありますえっとこれ は塩町式の亀なんですがえこの亀の片部に こういう横方向の横線があってでま見え づらいですがあの斜めのですね刻みがこう 連続して施されるとそういう風な特徴を 持っていますえっとこれはあの三の塩町の ところですね塩町駅のところちょっと 上がったところえ昭和20年代に発見され た遺跡になりますこちらはあのあの不の丘 三吉不の丘に展示してある時になり ますえっとこのえ潮待ち色度の分布を見
ますと えまあの三盆地小原盆地を中心に分布して おりますでさらにですね最近の調査ですと あの島根県側からもあのポツポツと出場し ておりましてえ野川流域それからえ氷川 神川ですねそれから出雲平屋で結構 見つかっておりますこちらはあの島根大学 の出雲キャンパスであの発掘をしましてか ったえ潮待ち式時の片部の破片になり ます えまあのドキがですねあの勝手に歩いて 移動するわけではなくて人が携えてですね でま時の中に何かものが入っていてで人の 移動があってまドキも移動するわけですの でま潮待ち式時の分布からえこういった ですねあの交流があの読み取れるいうこと になり ますえっと続いてですねあの鉄の流通に ついて見ていき ますえっと日本ではあの製鉄というのは ですね古墳時代後期からえ始まるというの がまあの えっとま大きなあの定説になっていますえ えっと古墳時代のですね後期大体6世紀頃 ですねえっと生鉄というのはあの鉄鉱石や 砂鉄を溶かして鉄を作るということになり ますで中国地方ではあの結構古い時期の 製鉄遺跡が見つかっておりましてえっと こちらはですね今山遺跡という島根県 大南町のあの3幹部の遺跡になりますがえ えっと浜田道ですね浜田道のえみずほ インターチェンジのところですねそこで 見つかった遺跡になりますま遺跡からは こういったあのちょっと専門家じゃないと ですね分からないような感じで出てくるん ですがここにロアが検出されてこういった ですねあの鉄の塊が見つかっておりますま 復元するとこういうロ炉を作ってですねで え燃やして不純物がこっから流れてこの中 に鉄ができるということになり ますえっとこれはですね島台の教養授業で あの和工博物館というところであの古代の 鉄のあの実験がありましてま学生も参加し て一緒にですね砂鉄を入れたりして あの村さんがですね田野村さんの指導のも にあの行った授業なんですがえっと古墳 時代でですとあのこれよりもう少し小さい 炉になってま内のりが30cmとか 40cmぐらいのこの炉の中でですね鉄を 生産していたということ ですえっとまですがあのやい時代まで遡る とですね生鉄を確実に行っていたという風 なあの遺跡はま今のところあのそんなには 見つかってなくてですねま主にはあの朝鮮 半島南部から
え鉄をですねもうできた鉄の素材を日本 列島に持ち込んでであの加工していたと いう風に考えていますえっと朝鮮半島南部 ではこういった鉄のですねあの鉄板状の ものをが生産されてそれを和人がですね船 で日本列島に持って帰って持ってきていた いうことがまあの義子和神殿のですね え関電の弁NG神官のところにことが書い てあるとえところにあの記事が載ってい ますえ国は鉄を出すかさわは皆従いこれを 取るという風に書いてあり ますそれからこちらはですねあの出雲平野 で見つかったあの中三テップという井形の 中に鉄を流し込んでで中三で作ったあの 鉄粉ですねえ炭素料の多い鉄になります こちらはあの今の北朝鮮とか中国東北地方 で作られたんではないかと考えられてい ますえっとこの中三テップですが広島県 ですとあの北広島町のえっと千代田にある ですね京の遺跡というところからも 見つかっております それからあの広島市のですね後で出てくる え西岸寺分母群というところでもえ服装品 としてえ出動しており ますで今の素材を持ち込んでですねまこう いった縦穴住居であのこうこんな感じで 燃やしてですね赤くしてでそれを簡単に 加工していたという風に考えています こちらはあの小原のですね小原D地点遺跡 ですねえっと見えづらいですが床面が少し 焦げておりますでこちらはあの合津市の ですね島根県合津市の森原下原遺跡という ところなんですがこういう焦げたですね 石皿状のものが見つかっておりましてこう いう叩き石とかですね鉄なんかが一緒に 見つかっていますまこういうものをすると ですねこんな感じで簡単な鉄加工をしてい たとこういう小さいあの敵であれば弥時代 の日本でもあの加工ができたん だろうえっとこちらはですね大野川中流域 の島根県三里町の沖上遺跡というところ ですけれどもえさっきの鉄の板をこう切断 してですねこういう鉄を作ってい ますあるいはなんかこう何かを作ろうとし て折り曲げたですね鉄の破辺とかそういう ものが見つかってい ますえっとこの遺跡からは鉄属とか鉄粉 ですね鉄の斧とかあのこれは帰りがついて いるので安だと思われます魚を取るですね それから糖とかですねこういった小さい鉄 をあの生産していたよう ですえっと弥時代の鉄のですね湿度量を あのま遺跡から見つかっているものを全部 集めてですねグラフ化してみたものなん ですがえ北部九州ですねあの朝鮮半島と
ダイレクトにこうあの向い合った地域です のであの湿度量が 多くあの多くてですねえっとまえっと弥 中期公用と呼んでいる紀元前1世紀ですね ここで少し湿度量が増加し ますこれはですねあの紀元前108年に今 の平屋のところに楽浪軍というあの全艦 帝国のあの出先が設置されましてそれに 伴ってあの鉄球文化なんかもあの鍛造鉄器 が主なんですがあの半島に広がってですね それの影響が日本に及んできているんじゃ ないかと考えておりますそれから弥時代 後期公用2世紀後半ぐらいですがここで ガッと急増しますこれはあの朝鮮半島南部 でですね先ほどお見せしたようなあの鉄の 素材の生産がですね増加してでそれが日本 列島に及んできたんではないかと考えてい ますそれからこちらはサイ地域になります があのサイ地域も結構鉄が出動しており ましてあの北部九州に継ぐぐらいのですね 量が見つかっておりますこちらでも中期高 用と後期公用に急増しておりますえっとま 主にはあの槍とかですねトスなどの工具が たくさんあの使われていたということが 分かり ますそれから広島の秋なんですけれどもえ まあのちょっとあの時期差があるかもしれ ないんですが大雑把に見るとですねえっと 後期紅葉ぐらいに同じようにですね鉄が 増加するという風なことが伺い ます えっと分布を見ますとですねえやい中期 中央から紅葉にかけ てまこのような分布になりまし てあの出雲平野とか大仙の周りですね日川 狩駅多いんですけれどもそれから日ビ南部 ですねそれからあの中国産地内陸部もです ねあの小原の方とかそれから津山のも結構 ですね見つかっており ますこれはあのえっと船でこう日本海 瀬戸内海を北部九州からま半島からですね 持ってきた敵が え臨海部のですね水運で運ばれていって ですねであの内陸の方に河川ルートでこう もたらされたんだろうということが分かり ます えっとちょっと地図でははみ出してるん ですがハマとかセツもこの時期鉄があって ですねもしかしたらサイから津山を通って あのこう動いているという風なことも考え られるかなと思ってい ますえっと続いてやいの後期から週末期 ですね期限1世紀から3世紀前半なんです があのえ分布が増え3になりまし てでえっとこの内陸のですね
このもうあの湿度量が増えており ますそれから太田川の狩域もですねこの 結構湿度量が増えてい ます私があのあの1番小さい頃ですね身近 な都会と言ったらこの広島の方になるん ですけど休みの日とかに家族で遊びに来る とですねあの太田川の この両脇の山の上とか団地がいっぱいでき てですねあの結構母親なんかが山山の上 まであんな家がいっぱいできとるわ言うて ですねなんかそういう会話をしたように 思い出があるんですけどもあのその時代 まあ70年代から80年代ですね あの発掘調査そういう団地造成に伴って 発掘調査がされてでその頃の報告書を見る とあの大体弥時代後期のですね縦穴住居が あの辺見つかっていてで鉄がこんな風に たくさんあの出動しており ますえっとこれもですねあの臨海部から あの内陸に向かって鉄が運ばれてさらに この中国重道のルートでこう動いていたん じゃないかという風に考えており ますはいえっと続いてですねえお墓の交流 についてえ見ていき ますえっとまずあのやい時代前期の廃石簿 というお墓がございましてえそれについて え見ていき ますえっとこの廃石簿というのは後で写真 が出ますがあのお墓の上にま破壊しという か標石石をですねたくさん置いてあの作っ た遺跡になりあのお墓になりますえ分布を 見ますとですねこの5 野川流域ですねそれからえ島根半島とか このこの辺りですね出雲の臨海部になり ますえっとこちらはあの先ほども出てきた 合の川中流域のあの沖上遺跡というところ なんですがえこういう風にこう塊上にえ 分布しておりまして えこの穴を掘ってここに人を埋葬してで 地表にはこういう石をですねあのたくさん 置いたという風なお墓になり ますえっとこういった排斥規模なんですが 縄文時代後期のものもあの見つかっており ますのでま縄文文化系の えやり方という説もありますしあるいは あのちあえっとやい時代になってからです ねちえ朝鮮半島から入ってきたあの要素な んではないかという風に考える あの説もあり ますえっとこんな感じでえま標石として こう石をたくさん置いたというものになり ますただあの服装品としてはですねこう いった 管玉あの首飾りとか腕飾りに使ったと思わ れるですね管玉がえ服装されていたようで
こういった形態の管玉というのはですね やい時代になってから えっと縄文時代にも管玉はありますがあの 形や大きさから見るとやよいえ朝鮮半島 から入ってきた文化要素になるんだろうと え考えており ますそれからこちらですがえ松江市にある 堀部第一遺跡というですねえ遺跡になり ましてえっとこういう風に今度は上にです ね排斥簿がこう作られておりますでこの 排斥の下はこういった木管ですね木管を 設置して人を埋葬したという風なものに なりますえっとここからも壁玉製の管玉が 見つかっておりましてこれはあの携帯など から え半島系のです ね半島で作られた製品ではないかというに 考えられてい ますえっとそれからえっと合の川水計に 戻りますがあのこちらのですね広島県のえ 北広島町のえ岡野段市地点遺跡ですね えっと浜田道ですね浜田道の大朝 インターチェンジのところから見つかった あの遺跡なりまして えっとこちらはですね下の方まで石が こうえま落ち込んで入り込んだ部分と元々 あの備えられたです ねものとがあると思いますけどもえここ からもですね半島形の壁玉性管玉いうもの が見つかっており ますえっとですのでこういった管玉って いうのは豪の川を訴して あのもたらされたかあるいはまこちらの ですね広島市の方から入っていったま両方 の可能性があると思い ますえ続いてですねえやい時代中期中央 から公用にかけての方形張志望四隅都出型 分球房ですねえそれの分布について見て いき ますえっとまずあの型球簿あの野時代の ことあのお詳しいことはあのご存知だと 思いますけれど もえっとこういう風にですね四角い墓の 四隅が飛び出た変わった計上したですねえ 分球簿になりますえそれから張1が施さ れるというのが特徴 ですまこの四隅がです ねこれ何の意味があるんだと言われると ちょっと答えられなくてですねまお墓に 上がる歩道が発達した有説あるいはあの 悪霊ですねが入ってこないようにする意味 があるんじゃないかとかまいろんな解釈が されてい ます えでま
あのよみがないですね方形針脂肪それがあ あの発達してこういうお墓ができたいう風 に考えられていますえそれから発生の地は ですね見し盆地と考えるのが有力ですそれ から時期はあの四隅俊坪は中期紅葉からシ マッキーですね紀元前1世紀からえ3世紀 前半紀元3世紀前半までのあの古墳時代に なる前のですね弥時代で築造を終えます え分布を見ます とあのよが出ない方形張脂はですね単子 半島から島根県西武の増田までですね点々 と分布しておりまし てでえ5のは三盆地にもありましてですね で四隅とはそっからあの見しでいくつか ありますのでここで発生したんじゃないか と考えられ ますで拡大します とま最近最近ま20年前ですね出雲平野で も一期見つかっておりますがえまこちらに 分布の中心があってですねえまこちらで 発生したものが あの出雲平野に伝わったんだろうあの日川 かを通ってですね伝わったんではないかと 考えており ますでえっと四隅が出ないですね突出し ない方形針志の事例を見ますとこちらは あの合津市ですね島根県合津市え奈良は 遺跡というあの海岸部のですね砂浜に作ら れた遺跡なんですがえこういうをしてです ねでそっから見つかったあの土になります えこれがやい時代中期中頃ですねこれは県 島根県の古代相歴史博物館に定説展示して あるあの資料になり ますそれからあの島根県西武のですね増田 市それから出雲平野でもこの部分ですね あの中期中央の え針脂が見つかっており ますえこちらがですね三盆地で見つかった え人山分母群というものでして1号whe から5号棒までですね並んでこのように 築造されてい ますえこういう部分ですとかこういう部分 これは35房ですがあの四隅がちょっと ですね突出そして不眠場の列石がですね こういう風に作られておりますまこういう ところからこう分球の中に入っていたんで はないかという風に言われていますえ こちらの一号簿ですがあのまちょっと乱れ ていますがあの四隅がこういう風に ちょっと突出していましてこの噴気の周り にあのさらにテラス上の空間があってです ね犬走上の空間があって列石がこういう風 に巡っておりますですので1つの分母群で あのまいろんなタイプのですねあの四隅 都市ツがあの見
られるでまだあのこの段階中期公用の段階 はえ突出部が未発達であるということが 言え ます でこちらは出雲平屋で見つかった青木4号 房というところなんですがえこの部分が 四隅の突出部になりましてこういう風に 列席がですねえ両線に沿って並んでおり ますえこれなんかは先ほどのこの人山の ですね35房などによく似ていてえま三 から出雲平屋に伝わったのではないかと今 のところは考えてい ますえ続いてですねえやい後期から週末期 の四隅都出型分球簿なりまし てえっとまず後期の初頭から中央ですね 後期の前半状況を見ますとえ三盆地野川 水計流域 に分布しておりましてえ出雲部はですね この時期のは ちょっとあんまり見られなくてですね逆に 鳥取県の西部の大線のですね 周りであの四隅都ツが分布しており ますえっと拡大します とま出雲部ま今使ってないだけかもしれ ないんですが現状で言うとですねえこの 大仙の周りあの法規の地域それからえ5水 中流域上流域です ね えっとこの三吉盆地小原盆地から日川を 通ってですねこっちに伝わったんではない かというこういうルートもあるのかなと 考えていますそれからあの野川水計ですね あの秋の北部北広島町とか島根県の大南町 のありですねこの辺からも見つかっており ますえっとこちらはですねえ島根県大南町 の十南原1号部というあの え伊川というですね野の由なんですけれど もえそこから昭和43年にですね見つかっ たあの最初に見つかった四隅都型分球簿に なり ますえっと分球所には死体部と呼んでいる 埋葬施設が複数機見つかっていてでこっ からこう出入りしたんではないかとま分球 の中は神聖な場所なのでこの辺から好き かってあの相撲でもですねあの土俵に入る のルートがあるようにですね噴気まこう いうところから決まったところからこう 出入りするというのがあったのかもしれ ないです ねそれからこういう箱式石貫簿と呼んで いるですねあの石で石の板石で作った棺桶 系こういうのがあの広島県とか えこの岩美のですねこの中国産地分布して おりますえっと出雲ではですね出雲の臨海 部はこういったこの時期の箱式石貫簿箱式
石間っていうのはあんまり採用されてい ないです ねえ湿度品はこちらはあの大南町の共同感 というところに展示してある時になります えこういうガラスのこだま玉ですね先ほど の前期のものは壁玉性ででたけれども こちらはガラス製になりますガラスもです ねあの当時の日本列島では作れなかったの でえ海外からあの運んできた材料を えこちらで加工したかですねあるいは製品 になったものをあの持ってきたという風に 考えられてい ますえあえその他ですねこの時期のものと しては え田山一号ですね小原市の田山一号房それ からえ北平北広島町ですねえ西上文保軍 こういったところ四隅があの突出していて え噴気の中はですね複数の埋葬施設が存在 してい ますえ続いてえ弥時代後期用から末期2 世紀後半から3世紀前半頃え今度はまた ですね出雲平野などあのたくさん四隅がえ 作られるようになりますで沖ノ島とか北陸 にも広がっていき ますえこのようにですねえたくさん分布し ております逆にこっちのあの見しの方は ですねあのほとんど見られなくなるという 状況がございます えっと代表的なこの時期のものとして国 主席の西谷分母群ですねこちらはあのえ 島台の島根大学のあの法文学部の考古学 研究室があの発掘調査をして有名になった 遺跡ですこれだけの大きいですね分球簿が こう並んでこう作られてですねこれは西谷 3号部なんですがえ4030m高さが 4.5mもあるですねあの巨大な分球部 えこれえっとま当時の北東アジアで見ても ですねあの最大級の分球部分になり ますであの都市部がこのように発達して おりますだんだんあの都部がですね大きく なっていっ た えで死体部はですね大きい主体部がが2つ 並んで作られてまそれ以外にもちっちゃい のが存在しており ますであの島台が発掘調査して えっとこの主体部の上にですね大量のドキ があの捨てられているのが見つかってこれ はま早々ギレでですねあのま歌あのお酒を 飲んでたり食べたりして使った時をま持っ て帰らずにこの場所にこう置いてですね そういうあの痕跡ではないかとまこういう ギレをですね盛大なギレを次の後々の首長 が行うことでですね あの今度え地位を引き継ぐ引き継いだと
いうことにつがる二次的に考えると2的に はですねそういうことが言えるのかもしれ ないです ねえで死体部の中はこういう種が棺桶家の 中に種がたくさん敷き詰められてえガラス 製の管玉とかですね剣 がえ見つかっており ますそれからその次の段階3世紀前半の やい週末期になりますともうあの次の古墳 時代が間近に迫っていてですねその直前 ぐらいの時期なんですがあの島根県の安木 市の宮山4号保というところえここここは です ね え噴気上に下部が1期だけあの絞られて いくともう個人のためにこういうお墓を 作ってでさらに都部がこういう風に車文字 上に 発達したという風なあのものになり ますえっとこの時期ですねあえっとこの 時期ですねあの三吉市ではえや分球簿と いうのが作られておりますこれもですね2 つの四隅をひっつけたようなこれが四隅の 部分でさらにこれにちっちゃいのを ひっつけたようなあのもの が見つかっておりまして え同じようにですね都出部がこう発達した 形状をしており ますえっとここからは日々南部のこういう 葬式用のですね特殊な土器が見つかって おりましてえそれ以外にサイ系の時期など も見つかっておりますのでま出雲の臨海部 とも交流を持ちつつキビの南部とも交流を 持っていた集団がいたということが分かり ますそれからこの辺の墓から見つかった ですねガラス製のこだまなんですが分析し たらナトロンガラスというですねあの古代 ローマ帝国のあっちの地中海の方で作って いたガラスがハバあの日本列島までですね もたらされていたということが分かってい ます えっとこれはまさっきの西谷3号保からも そういったガラス玉が見つかっていてあの ますごく壮大なですね交流があった ということが伺い ます えっとま発掘すると西谷35部と同じよう にこんな感じであの葬式で使った時とか ですね歴が見つかっており ますええまそれ以外にもですね他の地域の 首長と呼ばれるあの分球簿からも同じよう な似たような状況があってですねま出雲と 身だけじゃなくて単子とかえ日々とかです ねキビ南部とかいろんな地域とあの ネットワーク首長官のネットワークがあっ
たんだろういうことが伺い ますあとあのこの広島市太田川狩行ですが 岸房群というですねあの大きい噴気は作ら ないんですがこういう縦穴式石角と呼ば れるですねあの当時としてはあの特殊な あのものを作っていて大量のですね多量の 鉄なんかが服装されていたとこれは見し不 の丘に展示してあり ますえまとめですけれどもま最初にお話し したえこういう水計を通ってですねん各 地域があのこうネットワークで結ばれて 一物情報が流通していたと美はその中でも このターミナルになるですね場所だったと えどうしてもですね日本海交流とか瀬戸内 の交流だけに目が行きがちですがこういう 内陸部との有機的なネットワークができて それが次の古墳時代奈良時代にですね 繋がっていくとこういうあのネットがです ね野時代に成立していたということがあの ま今日のお話のまとめになりますえっと しつこいようですけど博物館アカですね また是非見に来ていただければと思います 以上で終わらせていただきますご清聴 ありがとうございまし [拍手] たエ先生ありがとうございまし たえ現在のケトまた異なる地形がえ それぞれの地域の交流を盛にしていたと いうこともあるかもしれませんね はい続きまして国席寺町廃跡が語るビゴと 出雲と題しまして明子市教育委員会文化と 学びの家藤川小主人主が講演いたし ます あ皆さんこんにちは三義市教育委員会の 藤川と申します本日はどうぞよろしくお 願いいたし ますあの本当に今すごく緊張しておりまし てあのこういったような300人の方の前 でお話をさせていただくのが今回私として は本当に初めての経験でしてで職場でも 口べたな方で有名でしてもう本当に緊張し てるところでございますであのあとそれに おをかけるようにですね実は今日完を準備 してきたんですけどもそれも忘れてしまっ ておりましてもうちょっと頭が真っ白に なってしまっているんですけどもあの私は ですね広島県美市の出身であの高校生まで 美で過ごしておりましたでその後4年間 島根大学の方で高古学を学ばせていただい て今本当にありがたいことにですね地元の 身に戻って文化財の方を担当あ文化罪の 担当をさせていただいてるところになって おりますでまこうしてですねあの母校で ある島根大学の方でこういった講演にあの 呼んでいただいたということは本当に私と
しては大変光栄なことだと思っております この場を借りして礼申し上げますであの私 はですねあの他の先生と比べてまあの研究 を普段しているわけではなくてただあの 今日の私なりの目標としてはですね40 分間しっかりとあのしっかりと話をすると いうのを目標としておりますのでどうぞ皆 さん温かく見守っていただけたらと思って おりますはいあのこういったことを言うと です時間がありがとうございますすいませ んあの時間がなくなってしまいますのでま 本日の流れといたしましてはあの私の方 からはこういった流れでお話の方させて いただこうと思っておりますあの題名にも ございます通り国遺跡寺町ハジから見た ビゴと出雲ということですのであのまず国 席寺町ハジとはどういった遺跡なのかと いうところをご説明をさせていただこうと 思っておりますその後寺町ハイジャッと 日本領域という少し古い書物のお話の関係 についておをさせていだいた後に最後に 本日のテーマでもありますビゴと出雲の 関係について寺町ハから見た場合どういっ たことがいるのかといったところをですね あの最新の研究に基づきながらお話をさせ ていただけたらと思っておりますまず区席 寺チイジとはということであのその前に ですね三市の文化財ということであの三市 はですねあの先ほどもエ先生の方からお話 がありましたけども小道松江線と中国自動 車道道がちょうど交差をする中国地方の ほぼど真ん中に位置をしておりますこちら の方が三市の席をあ文化剤をマップ上に 落としたものなんですけども北から南に かけて文化剤が位置をしております現在の 身市の指定文化財の件数ですけども合計で 242件ほどございますあのあの広島県 だけではなくてですね中国地方の中でも 非常にたくさんの指定文化財を持っている 市なんですけどもまやはり中国地方のほぼ ど真ん中に位置をするというですね歴史的 な背景からこういったように指定文化罪が 多くある心理になっておりますでこの中で も テラマチベース から撮った写真なんですけども時代として はアカから平安時代の古代の地方人跡とさ れております今赤丸で囲った部分が実際の 遺跡の位置なんですけども見ていただき ますと市街市から少し山奥に入ったところ に遺跡は位置をしておりますで実際に遺跡 に行っていただきますとこういったような いくつかの石を積み上げたものも実際に見 ていただくこともできますもう少しだけ 遺跡の位置を確認をしてみますとテマ
チャイジャートの周辺には古代の遺跡が いくつか確認をされておりますまず北側 1.5km離れた場所には大東ガ跡という ですねテラマチ跡の河を焼いていたカマー が発見をされております次に南側 1.2km離れた場所には テラマジカハイジャートというお寺の跡が 発見をされており ますもう少し地図上で寺町ハイジャートの 位置を見てみますと赤い丸で囲ったテラ マチハイジャートの周辺は非常に黒い丸で 囲った部分が多いことが見ていただけるか と思いますこれが何を示してるのかと言い ますと古墳の位置を示しておりましてこう いったようにテマハイジャートの周辺には 非常にたくさんの古墳があるといった特徴 がございますまなぜこの山奥にテマハジが 立てられたのかといったところを考える上 でも非常に注目をされるところでもござい ますこのテラマチダにつきましてこれまで 見式保育委員会では8時にわたって発掘 調査を実施をしておりましてまずはこの 発掘調査の成果に基づきながらテラマチ アジトの概要についてご説明をさせて いただき ますまずですねお寺の調査をしますとこう いったような形で遺跡の跡は発見をされ ますではこれがどこが発見をされているの かと言いますとま実際立っていたのであれ ばこういったような建物が立っていた可能 性というところが考えられるんですけども 建物の本体の部分は木で作られております ので長い年月を立つ中で腐ってなくなって しまっておりますですので実際を実際に 発見をされますのは今赤色で塗りつぶしを させていただいてる部分建物土台の部分な んですけどもいわゆる段といったところが 発見をされます実際にテラマチャでも古内 の建物の跡が発見をされておりましてまず 近藤跡という仏像を保管をするお寺の中で も非常に重要な建物跡が発見をされており ます建物土台の部分の大きさなんですけど も東西腸が15.74m南北町が13. 40mでま全国的にもほぼ標準的なキラが 確認をされております これが実際の白調査時の写真なんですけど もま当時の気団というのは土で作られて おりますので雨などが降った時にこれが 壊れてしまう可能性がございますですので その段の外側にはこういったようにですね 河や石などを置くことによってその階段を 守るんですけどもこれを気団化粧あるいは 機内外装とも言うんですがテラチャージ跡 の場合はこのようにですね大きく真四角の 今で言うとレガのようなものを立て並べる
ことによって遺跡をあキラを守っている 状況が確認をされておりますこの線という ものを使ってるんですけども実は テラマジカれておりましてただ全国的に 見るとこういったような使われ方をして おります見比べていただきますと全国的な 標準がこちらなんですけども横で使われる 場合がほとんどですこれに関これに対して テラマチハジアは横組みではなく立て 並べるといった特徴がございまして私が 確認した限りではこういった事例というの は現在日本ではこの寺町ハイジと唯一と いう特徴がございますただその一方で朝鮮 半島南泉部にあったクダラという国で作ら れていた軍種理ハイジでは部分的ですけど もこういったような気団外装が確認をされ ておりましてま両地域の会計を考える上で も非常に注目をされるところでございます 次に南側と北側の方で階段跡が発見をされ ております南側の階段跡は残念ながら厚生 の水田開発によってかなり壊されてしまっ ていたんですけどもこれに対して北階段は こういったように当時の形を残すような 非常に立派な階段跡が発見をされており ます東西幅が2.622.4 の方で塔という建物の後が発見をされて おりますやはり建物の土台の部分が発見を されておりまして東西庁南北町ともに 11.14Mの気団が確認をされており ますこちらが気団の写真ですけどもやはり 気団の外側には線を立て並べるといった 特徴がござい ます北階段が等でも発見をされております がこういったような形で発見をされており ますこのようにですね規模としては東西幅 が2.33M奥が1.95Mでま近藤跡に も負けないような非常に立派な階段跡が 発見をされております次に近藤と塔という 建物の背面に行道という当時のお坊さんが 実際に協定を読んだり勉強したりする建物 跡なんですけどもこういったような建物跡 も発見をされており ます段の大きさが2.10M南北書が 14.7Mで南側の3箇所でやはりの跡が 発見をされている状況になっており ます以上が テラマチベース 当時のお寺というのは各建物がどこにどの ような位置で立っていたのかによってこの ようにいくつかの種類に分かれるんです けども テラマチベースその後ろに高度が位置を するというですねいわゆる奈良県にあり ます法喜地というお寺と全く同じガラ配置 を取っておりますので法規自式ガラ配置を
持つ人員とも呼ばれておりますこういった ような発掘調査の成果を踏まえまして現在 広島県立歴史博物館さの方で実際に展示さ れていますけどもまもし立っていたので あればこういったような寺が立っていた 可能性というところが考えられている ところになっておりますこのようにまま 非常に立派なお手なとが発見をされてるん ですけどもこういったようなですね白調査 の結果ま中国地方では非常に珍しくガラ 配置の残りが非常に良好な人跡が発見をさ れましてま仏教文化を考える上で欠かす ことのできない地方人跡ということで昭和 59年5月25日に国の指跡に指定をされ ておりますこれが実際の文化庁が書いて いる指定名称なんですけども実は文化庁の 指定名所の中にはこういった一部を書かれ ておりますそれが日本領域に所載の三谷 デラに否定される人跡と書かれております 今日はですねこれの文章が非常にビゴと 出雲の関係を考えていく上で非常に重要 ですのでこの文語に注目をしてもう少し 詳しく見ていこうと思い ます次に テラマチベース日本領域どういったものな のかと言いますと正式名を日本国原法善悪 領域と言います作った人は奈良県の薬指示 でお坊さをしていた警戒さんという人で 平安時代に作られた日本最古の仏教切話集 とされますま仏教切話集を簡単に私なりに ご説明をしますとま簡単に言いますとま 仏教を信じたらこういったようないいこと がありますよということを面白かしく物語 として書いたものなんですけども ま 当時昔はですねやはり物語ということで あの非常に書いた人の空想が入ってしまう のではないかということであまり注目をさ れてこなかった歴史資料なんですが近年 よく読んでみると当時の状況というのを 非常に表してるのではないかということで 注目をされているものでもございますその 中に実は古代の身の地に関わる文書も登場 をしますそれの原文がこちらなですがこの ストーリーを話をしてしまうと40分が 終わってしまうので今日はですね簡単に私 なりにあのこのストーリーの方をご説明を させていただこうと思いますまず ストーリーの中には白の戦いという歴史的 な事象が登場しますこの白式の戦いどう いったものなのかと言いますと663年に 起きた日本初の大外戦争なんですけども 当時日本は和国と呼ばれておりましたで 日本はですね朝鮮半島南西部にあったこの クダラという国と非常に有効的な関係を
結んでいたんですが660年代ぐらいに 隣国の白木という国が党という国と手を 結んでこのクダラという国を滅ぼそうとし ますで日本はですあ和国はですねこの クダラを助けるためにたくさんの軍隊を 派遣をするんですけどもどうもその中に 古代の身の地で力を持っていた権力者も 戦いに参加をしたということが書かれて おりますでその中で権力者はですねまもし 無事に私がこの戦いから三吉の地に帰って くることができたのであれば私はこの地に お寺を建てましょうといった誓いを立てて 戦いに参加をしておりますで最終的にこの 戦いどうなったのかと言いますと日本と くだ連合軍の大敗に終わってしまうんです がなんと奇跡的にですね身の地から行った 人は帰ってくることができましてその時に くだという国でお坊さんをしていたグサ さんという人と帰ってきてその地に ミタデラというお寺を立てたということが 書かれておりますでこの後ストーリーは ですねグサさんが仏像の材料会に都に 出かけて生目で亀を助けて海で盗賊に襲わ れ てあの襲われるんですけど神に助けられて ビチでと言たような形でストーリーは続い ていてまどっかで聞いたことあるような 物語へとストーリーは進んでいくんですが あのこのストーリーも大事なんですが特に 注目したいのはこのグサさんという人が 交流したミタニというお寺が実はテラ マチャとなのではないのかま言い換えるの であれば三市の寺町という地区にあるお寺 の跡が実はグサさんというお坊さんが立て た幻の三谷デラではないのかということで 古くから注目をされており ますでこのテマチイとミタデラの関係は ですねもう古くは明治時代から注目をされ ていてま200年近い研究士がすでにある んですが私はあの令和3年度にこの テラマジカ報告書という報告書を観行し ましたで本当に苦労しながら書いたんです けどもその時にですねやはりこの2つの 関係というところは最後に触れざるを得 なかったものでま私なりにその時に考えた ことを今日はご紹介をさせていただけたら と思うんですがま私ははこの2つの考関係 を考えるにあたって テラマチベース には設計図が必要となりますこの設計図に ついては先ほどもお話したように大和の放 基地というお寺との関係が捉えられており ますこの後設計図に基づいて建物の土台の 部分が作られていくんですがこの土台の 部分はクダという地域との関係が捉えられ
ております残念ながら建物の本体の部分は あの腐ってなくなってしまっておりますの で分かりませんが河という観点から見てみ ます と テラマジカといった地域との関係が捉え られており ますこういったように テラマチベースと テラマチベース problさんは仏像の材料を買いに大和 へ買い物に出かけておりますその後グサは 亀に助けられてビにたどり着くといった問 が書かれておりますでこの日本領域の ストーリーで出てくる地域に注目をして みるとくだ大和ビチということで実は 先ほどお話しした発掘調査で捉えられた 地域と全くほぼ一緒の地域が登場すると いう現象が起きておりますまこういった ようなことからやはりマジ跡がま限りなく 三谷に近いということで最終的に報告書で は書いているんですが実はこれまだ イコールに非常に近い符合なんですけど実 はま限りなく近いということでまだ確定に は至っておりませんであのまいろんな問題 がまだまだあるんですけどもあの私として はですね美市の職員として働いていて やっぱりこのテマイジをよく広めていき たいと思った時にあのま幻の三谷デラとか ですねま放流寺に匹敵する放三谷デラで あるテマハイジーといったようなちょっと 面白おかしいキャッチコピーが考えれたら いいなと思うんですがまだそこにまで至れ ないという現状がございますただこういっ た私の悩みもですね解決してくれそうな 一分が日本領域の中ではまだ隠されてい ますその一分が造立ガラ他所字という言葉 ですこれは実際に日本領域の物語の出て 物語の中で出てくる言葉なんですがま何か の先生によってすでにあの好中がなされて おりますけどもこの言葉どういった意味を 持つのかと言いますと実はですね見で力を 持っていた権力者は私がこの地に帰って くることができたのであればミタデラと共 にたくさんのお寺を立てたいという願いを 立てているのではないかといったことが 近年分かってきます で実はこの願いに基づいてくだ層のグサ さんもミタデラの他にも実はまだたくさん のお寺を作っているのではないかといった ようなことが近年言われ始めておりますで この内容に基づくこの内容に注目した研究 というのはすでに行われておりましてその 際に注目をされているのが水切り河といっ た河が注目をされておりますこの水切り河
カの中でどこの河かと言いますとのまガと 言われるですね屋根のの先に使われる河の 別名なんですけど も実際ケラマチャージャで見つかった今 水切りガの方お示しさせていただいたん ですが見ていただきますとここの部分赤い 丸で囲った部分を見ていただくと三角形上 に尖っていることがお分かりいただけるか と思います大きいものですとこういった ような形で尖っているものが発見をされる んですけどもこれが何かと申し上げますと 雨が降った時などにこの三角形の頂点で水 が切れるようにも見えることからいわゆる 水切り河と言われるカになっておりますで このカラはですねテラマチからたくさん 見つかっておりまして古いものから並べて いるんですがこういったようにですね やはりガト部の下半は三角形上に尖って おります若干あの明瞭ではももあるんです がこのように紋様が変わったとしても やはりガト部の下半には三角形上の突起が ついておりますま中にはちょっと非常に 大きなものもあるんですけどもこういった ようにテラマジカを古いものからべってみ たタコがこちらなんですがやはりガト部の 下半が三角形上に尖るといった特徴が ございますまこういった特徴を踏まえ ながら今3つのカラをお示しさせて いただきましたこのカラもやはりガト部の 下半を見ていただきますと三角形上に尖っ ていることが分かるかと思いますですので やはりこれも水切り河になっております ただその一方でこの3つの河はテラマジカ は出動をしていませんではどこで発見をさ れているのかというと出雲で発見をされて おりますこういったように水切りガという のは実は寺町排除跡以外にもですですね 地上で落としてみますとこういったように お隣当然広島県内でも発見されております しお隣のビチ岡山でも発見をされており ますそして今日特に注目をする出雲でも 水切河は発見をされており ます出雲地域の水切り河に関する研究と いうのはですね実は古くから行われており まして1番初めがですね1950年代に 京都大学の梅原誠治先生という先生が注目 をされておりますその後近藤先生や江先生 松下先生によって総合的な研究が行われ まして近年では瀬尾先生や花谷先生小林 先生や日浦先生などによってより総裁な 研究が行われておりますま梅原先生の指摘 から考えてみますと約70年近い研究士が すでにあるところでござい ますこういったようなところを踏まえまし てでは出雲のどこで発見をされているのか
と言いますと大きくは4つの遺跡で発見を されておりますまず1つ目が間寺経大廃除 2つ目が民遺跡3つ目がイの遺跡で4つ目 が一田遺跡というところで発見をされて おります単に出雲と言っても地域としては 広いですのでじゃどこでさらに発見をされ てるのかと言います と出雲軍や感度軍といったようにまとまっ た地域で出雲地域の水切り柄は発見をされ ておりますこういったを踏まえながら今日 はですね特に残りのいい感度寺経大廃除と ミニ遺跡の河に注目してもう少し見ていき たいと思いますまず感度寺形大廃除ですが こちらの方は出雲市の方で発掘調査が行わ れておりましてテマハジ跡とほぼ同じ時代 ぐらいの地方人跡が発見をされております これが実際に水切りガと思われる河の破片 なんですが残りの良いものの脚本もお示し させていただいておりますけどもやはり ガト部の下半は三角形上に尖るといった 特徴がございますまこのカーラも大変 面白いんですが1番面白いのはこのカーラ になっており ますなぜ面白いのかと言いますと今テマ チャイジャットで確認をされている水切り ガラをお示しさせていただいております この2枚のカラよく見ていただくと非常に 紋様がよく似ておりますほぼ売り2つと 言ってもいいぐらい紋様がよく似ており ます まこういったような事例というのは実は この感度寺経大廃除以外でも確認をされて おりまして次に民遺跡といったところで 確認をされておりますこちらの遺跡はカラ を焼いていたカ跡なんですけども実際に 発見をされた河がこちら側の河になって おりますでこちら側がテマハジーから確認 された河になっておりますこの2つを 見比べていただくとほぼ全く同じ紋様の カラということが分かるかと思い ますではなぜこういった現象が起きるのか と言いますと少し水切りガの制作という ところに注目をしてみていただきます と水切り河にはまず1枚の木の板を準備を してその中に鼻の紋様を掘ってこういった ような半型といったようなものを作ります でこの半型を使ってその中に粘土を 押し込んでそれを乾燥さして焼いて1の 水切り河といったものが作られますでこう いった点を踏まえて改めてこの河を見てみ ますとこの出雲地域の水切りガと寺町ハジ 跡の水切りガは実は全く同じ道具で全く 同じ半型で作られた同半河であるという ことが分かっておりますではなぜこの出雲 と三というのは直線距離で70kmも離れ
ている場所で見つかってる河が同伴河と 言えるのかといったところなんですけども その点の鍵を握るのがやはりこの半型に なっております半型をこういったように横 から見てみますとこういったような横断面 がけるんですがこの半型にま粘土を 押し付けて河を作っていきますで徐々に ですね何回も何回もこういったように粘土 を押し当てていくと今度はこの半型の木目 に沿って徐々に亀裂が入っていきますで 最終的に反の方に傷がついてまいわゆる半 傷といったものが尽きていきますこの半期 というのは徐々に徐々に大きくなっていき まして最終的にどうなってくるのかと言い ますと今度はカーラの方にもこの半球が 転写をされていくようになりますこれが 実際の半があのテラマチのカラなんですが 特に古いカラの方をお示させていただいた んですがこの中のレンジのところを見て いただくとつぶつぶの中にこういったよう な鼻水のような縦線が入ってることが 分かりいただけるかと思いますこれ実は 紋様ではなくてこれが半傷と言われるもの ですでさらに金型で撮った写真がこちらな んですが少し見にくいんですが見て いただくとこう横の筋がこう入っていっ てるという状況が見ていただけるかと思い ますでこの半傷の位置をテラマチハジ跡の 河とミニ遺跡の河で調べてみますとこう いったように全く同じ場所に全く同じ半期 が確認をされておりますこういった点を 踏まえて同伴ガであるということが骨学的 に証明されているんですけどもさらにこの 反傷の量をこの2つの遺跡で比べてみます とテラマチハイジーよりもミニ遺跡の方が 半期の量が増えるという状況が起きており ますでこういったようなことから最終的に テラマチハジからミニ遺跡へと半半型と いうものが移動してるということが実証さ れてるところになっておりますでもう1度 図面上で整理をしてみますとこういった ように現象としては寺町ハジからこういっ たように出雲地域へと半型が移動してると いう現象が確認をされておりますでこの半 型は木で作られておりますのでま自分で 歩いて行くことはまずありえないですので ではなぜ半型がいたいたのかといった ところを考えると考えられることとしては テラマチハイジーでカを作っていた職人が テラマチハイジーのカを作り終えた後に 最終的に半型を持って出雲へと移動して いるということが広学的に解明されてる ところになっておりますこういったように ですねカラ工人の国を超えた移動というの がビンゴと出雲ではまず捉えられる繋がり
になっており ますで最後にですねまとめに入っていこう と思うんですけどもではなぜカラ工人は ビンゴから出雲に動く必要があったのかと いったところに注目していきたいと思い ますで実はですねこの研究についてはもう すでに出雲弥の森博物館の原谷館長さんの 方の研究が戦区的な研究がございまして 私自身もですね今回のこの発表にあたって ビゴと出雲の河を確認したんですけども やはりこの花谷先生の研究が優れていると 思いましたのであの最後にこののご紹介と いう形で大変恐縮なんですけどもビゴと 出雲の繋がりについてまとめていきたいと 思います花谷先生はあの水切河が出雲で 出動する背景について機内の事例当時の都 である機内の事例に注目をされております その中で花谷先生は同省さんというお坊 さんに注目をされておりますこの同省さん どういった人なのかと言いますと三蔵方士 左右期などで有名な三蔵士玄上さんで中国 で使えまして仏教を学んだ後に日本に帰っ てきて今度はアスカデラ全員などのお寺の 建設に携わっておりますでこの同省さんは アスカデラの建設の他にも京都府の山崎橋 などのある意味公共事業の建設にも携わっ ておりましてまお坊さんであるとともに ある意味技術者としても活躍をしたことが 分かっておりますで機内の地域の遺跡で 特徴的で面白いところとしては実はこの 同省さんに関わる遺跡では同省さんが1番 初めて1番初めに使ったアスカデラ全員の 河が必ず同省さんに関わる遺跡では発見さ れるという現象が起きておりますでこの 現象 を違う目線で見てみると非常に水切りガの 指導状況ともよくにいるという状況が確認 されておりということも考えることができ ますで結論的に言いますとまテラチャイ ジャとを仮にもミタデラと確定すればです ねま考えればまこのグサさんというのは やはり三谷軍の大量の先ま身で力を持って いた人の願いに基づいて実は三谷ネラの他 にもたくさんのお寺を作っていた結果こう いったような形で水切り河が出雲でも出動 するという現が起きてるのではないかと 考えられるところですで最後まとめなん ですけどもままず事実として現在病後地域 から出雲への国境を超えた河工事の移動と いうところまでは確実に証明をされている ところになっておりますではなぜこの河 工人がビンゴから出雲に移動する必要が あったのかといったところについては日本 領域の造立ガラ多事という言葉に注目を すればやはりくだら層の具さんが三谷軍
大量の先祖権力者の願いに基づいてビタ ニラの他にもたくさんの寺を作った結果と してこういった現象というのが起きてる 可能性というのは考えられるところですで こういった背景には都のお坊さんも同じ ような活動をしているといったところも 考えられるんですけどもこういった点を 踏まえると最後にまとめになりますけども 古代のビゴと出雲あテマアジトから見た 古代のビゴと出雲の繋がりというのはま 単に繋がりというだけではなくてですね 当時の古代と古代のビゴと出雲の間の関係 は言い換えるのであれば都のお坊さんが やっていたような宗教活動が地方のお坊 さんの宗教活動でも同じようなことが行わ れていたというのが考えられましてま あまり明らかにされてきてない地方人が 各地で作られていったといったようなです ね歴史をさらに解明していくいく上でま 非常に注目をされる繋がりなんだという ところをあの最後まいろんな先生の研究の ご紹介には終わってしまったんですけども 私としても改めて強調させていただきまし て私からのご説明にさせていただきたいと 思いますすいませんあまり上手な説明では なくて大変申し訳ありませんでしたご清聴 ありがとうございまし [拍手] たえ日本領域のストーリーえそして河原の 分布からなる考察などえとても分かり やすくお話をいただきまして緊張してる なんて全然感じませんでしたよねとても 楽しいお話興味深くあの拝聴させて いただきました内川様どうもありがとう ございまし た続きまして第1部最後のプログラムです 出雲ビゴを結ぶ道と題しまして島根県教育 長文 古代文化センター橋本号主任研究員が講演 いたし ます皆さん こんにちは島根県古代文化センターという ところから参りました橋本号と申します私 の方からはですね出ビゴを結ぶ道出雲の国 から見たというタイトルでお話をさせて いただきたい思いますあの私の前の藤川 さんがですね緊張してると言いながら大変 悠長にお話されておりまして途中から すごく緊張しいてきましてですね プレッシャーがすごいんですけれども私 島根県に就職してえっと出身は埼玉県の 本上市というところなんですが3年前に 島根県に就職しまして3年目の建職員とし て働いております私もですねこのような 大勢の皆さんの前でお話しするの初めて
ですね大変緊張しておりますあのふりじゃ ないですので私の本当に緊張しておりまし てえっと私の前の2人の先生は主に高古学 ですねえ遺跡ですとかそこから出てきた ものを中心にお話をしておりましたけれど も私の方からは出雲の国不という文字資料 ですね私は文献市学を専門としております ので書かれた文字から出雲とビンゴの交流 について迫ってみたいと思い ますで本日の構成を最初にお話ししておき ますと まず出雲の国付に記されたビゴへのビゴの 国への交通路これをまず簡単にどういう風 に書かれているのかということも含めてお 話をしていき ますそれからですね出雲の国付な単に交通 路が書かれているだけで実際にそこで交通 が行われたかどうかいまいよく分からない ところもあるのでそれ以外の文献資料も 使いながらですね出雲とビゴの交通を示す 資料をいくつか取り上げて両者の交通に ついてお話をしてまり ますで最後に単に出雲とビゴとの交流だけ ではなくてそこに大和王権中央の機内に いる大和園を介在させてその3者の関係 から出雲とビゴの交通大和園を入れること によってどういうことが分かるのかって ことについてお話をしていきたいと思い ますでここに簡単に地図を載せているん ですけれど もここがピンクのところがいわゆる山陰道 と言われるところそれから黄色が三陽 山陽道という地域ですで赤い線がこう通っ ていると思うんですけどもこれがいわゆる 感動ですね当時の山陰道という感動それ から山陽動という感動で皆さん5期七道と いう言葉を聞いたことがありますかね5期 というのは機内のことなんですけれども そこから七道というのは機内からこう四方 に広がっていく大きな道を指していますで 山陰道とか山陽道っていうのもその1つ 七道のうちの1つでありましても交通を 考える時にはやはりこういう大動脈という か感染道路である山陰道とか山陽道が メインになってくるんですねどうしても ただし付には出雲とビンゴつまりサイと山 用をつぐような道が書かれているま今回は こういう南北の道に注目していきたいと 思いますそれから先ほども少し述べました が山刀との関係ですねそういうことが雲と ビゴを結ぶ道の歴史的背景に関わってくる んじゃないかなという風に私は考えており ますのでそういったことを今回はお話しし たいと思い ますで皆さんの中には出雲の国布はもう
すでによくご存知の方も多いと思います けれども改めてここで本日のメインテーマ であります出雲の国付についてお話をして おきます簡単に申しますと713年に付 先進命令つまり全国に対して付を作り なさいよという命令が出されます実際の 内容はまこういうことが報告しなさい よっってことなんですけどもその土地で どういったものが取れるのかあるいは山と か川の地名の由来ですねそういうものを 報告しなさいよあるいは子老その土地に昔 から住んでいる人が伝えている伝承なんか を報告しなさいという風に命令が出され ます71年に大砲実量が成立し力量国家が 本格的にスタートする段階において地方が どういうものになっていたのかということ を把握することが急務だったんですねです から713年度の段階でこういう命令を 出しますそれに対して諸国がそれぞれ各国 で付機というものを作り中央に報告します 出雲の付は実はこれ出雲の国付だけの特徴 なんですが完成した年が明確に分かります 733年票5年つまり偏3の命令が出され てからちょうど20年後に完成して完成し た年が唯一正確に分かる不ということで 大変注目をされているところです他はなん となくの年代は分かるんですがこの年って ことがわかんないんですねそういう意味で 出雲の国付は大変貴重な資料と言っていい と思い ますで当時大体国が60カ国ぐらいあって 実は現在残されているのは5つの国の付 しかありませんそれがここに地図も示し ましたけども東から日立張出雲文子肥と いうここの5つしか残っていないんですね その中でもこれも出雲の国不の特徴ですが ほぼ完全な形で残る唯一の付です他は少し かけている部分があったりするんですが 出雲の国付は大体1万7000文字ぐらい 地名にすると700とか800ぐらいの 地名が出てくるということで奈良時代の 出雲の国を考えるでは欠かすことのでき ないしという風に言って良いと思い ますで当然の国も付が提出されたはずなん ですが先ほど言った5つの国には入ってい ませんということでほぼ内容が分からない んですねしかしながらい分つまり別の資料 具体的には社日本議という資料に引用さ れる形で伝わっていますそれが例えばこう いうところにビゴの国不に曰と言って引用 されてるんですねそういう形で内容が 分かっています具体的には いわゆる庶民将来伝承という風に言われて いる物語皆さんご存知の方も多いかと思い ますけれども内容としては旅の宿を求めた
神を貧しかった庶民が将来がもてなして あげるとまそのことによって庶民将来の 子孫は疫病を免れることができたっていう お話なんですねおそらくビゴの不時には こういう話がたくさんあってまそれが一部 伝わっているということなんですけれども 出雲の国はほぼ全部が残ってますので たくさんの神様が出てきて多くのことが 分かるということでえ大変貴重な書物と いうことになり ますでは前置きはこれぐらいにして出雲の 国付の中の出雲とビゴを結ぶ道についてお 話を進めてまりたいと思います出雲の国付 というのは交通路の記載がとても詳細であ るっていう点も大きな特徴です先ほどあげ た不先進の命令の中に交通路を書きなさい よってことは実は書いてないですねにも 関わらず出雲の国付には大変詳しく交通路 が記されていますちょっと見にくいんです が文字はちょっと小さくて申し訳ありませ んが赤で記したものが不に実際に書かれて いる交通路です一際太くなっているこの 出雲の国を東から西に貫く道これが いわゆる山陰道です ね山イド東に行けば平常教都に通じており まして西に行けば隣の岩の国に通じている という感動になります出雲の国付には ビンゴの国へ向かう道が5つです ね5つも書かれていますそれを少し具体的 に見ていきたいんですがまこういった道は あくまで国家国が管理する道であるという ことですもちろんその他にも当然道はあっ たと思います日常生活で使ったりするよう な細い道というのはあったと思いますが あくまでで国家が管理するような道がこう いう風に記されているということに注意を しておきたいと思いますでは実際どういう 風に書かれているのかというと簡単に1つ ずつ確認していきますがまずAですねAB BCDEというのは出雲の国付に出てくる 順番なんです がまずイシ軍ここがイシ軍ですねイシ軍の 宮家からその道が書かれてます宮家から ビゴの国江軍との境になる荒の坂に行く こと39り200部え200部なりとあっ て大体定型化しているんですがそのある軍 の宮家からビゴの国との 境のある場所に向けてどれくらいの距離が あるかということは書かれていますその後 にこのKというのが道小道ですね道に常に 席ありとなって国境に席があるという風に 書かれていますこの席については改めて 触れたいと思いますけれどもこういった 記述がずっと続いていくんです ねBではイシ同じくイシ宮家から三義軍と
の 境である三坂というところに行くこと81 になり道に常に席ありという風にあっ てCを飛ばしてDに行きますけども今度は 二田軍というイ軍の東にある軍にはビゴの 国江軍との境なる豊山に行くこと307 なり常に席ありこれも常に席ありとあり ます ねそれからいニタ宮家 から同じ江軍との境なるこの一山に行く こと53里なりここはちょっとここからは 異なるんですが常には席なしただし政治の 生と書いて祭りごと祭り事ある時に当たり て仮に置くこと王子とあってそこに常に席 はないんだけれども祭り事がある時に あたって仮に席が置いてますよってことが 書いてあります最後 にCなんですけれどもCについては少し 研究が分かれておりましてどういった経路 をたっているのかってことがいろんな見解 があってよく分かりません具体的にどう いうことが書いてあるかと言とはた系須系 質系これ全て道という文字が使われてい ますけども以上の3つの道に常には席なし ただし祭り事ある時に当たりて仮によく 並びにビゴの国に通うとあって一子軍から ビゴの国に通っているってことはほぼ 間違いないんですがどういったルートを 取っているのかってことはよくわかりませ んここで示しているのは最新の中村大治 さんという方の復元によっております けれども1度岩の国をに入って最終的に ビゴの国へ行てたんじゃないかっていう説 がありましてまこれに基づいて付言をして いるところ です簡単に5つの道を確認してまいりまし たでは問題となる記述がいくつかありまし たよくわからないところ1つは席席って何 なんでしょうかということそれからこれも 純粋に思うんですけれどもなんで両国を 結ぶ複数の道があるのかっていうことです ね例えば二田軍からこう2つの道が出てる と思うんですが国を国が道路を管理するの も大変なわけです維持とかですねなんで そういう道をわざわざ2つ作ったのかって いうことも問題になりますそれから祭り事 って何なんでしょうかっていうことですね ま分かんないところもあるんですけれども こういうことについてお話をしていきたい と思い ますまず席ですね席道路にある席と言っ たらやはり皆さん思いつくのが積書では ないかと思いますおそらくこの席も積書だ という風に考えて良いと思いますただし 一般的にはこの席ですよね下関とかの席だ
と思いますで これも使うしこういう不動のある席って いう字も使われるんですね実はでいずれも 国の境に国と国との間の境に置かれて交通 を観察する施設だという風に考えて考え られていますただしこの席と席実は明確な 違いもございまして一般的な席は罰則規定 があります法律にここを勝手に通ったら どれだけの経を貸しますよっていうことで 罰則規定があるのが一般的な席の方 一方で出雲の国付に出てくるこの席は罰則 規定がないけれどもそこの交通を観察して いるということになりますで席古代の席に はいくつかいろんなものがあってそれも ランクに分かれていますで1番トップの ランクですね国家にとって重要な積書と いうのが3元と言われている3つの席に なります場所は大体このような場所にあっ て都がある平常教と獄との連絡を断する ような場所に席最も重要な席が設けられ ましたその次がですねセツとか長に置かれ た席でおそらく瀬戸内会の会場交通とか そういうものを観察するために置かれ たっていう風に考えられていますそれから この席の文字を使ったものが地図には示し ていませんがいくつか置かれたってことが 分かっていてそれから1つランクを隔てて 罰則規定がない席というものが出雲の国と ビンゴの国の国は境に置かれたという風に 言えると思いますで注目したいのはですね 先ほどあげた5つの水雲国付の資料の中に いずれも交通路全てに席について言及が ありましたここには席があるとか常には ないけど仮にあるとかです ね全て席について言及がありますこういう ことを考えていくとおそらく国が管理する 交通路には本来そこに席を設置しなけいけ ないんじゃないかという風に考えられる わけですね単純に別に席がななくていいの であれば席があったかどうかなんて関係 ないんですねそれにわざわざ全ての道に 言及しているということはおそらく国の境 には本来積書勝手に人が出入りできない ように席を設ける必要があったいう風に 考えられますのでまそういうことで出雲と ビゴを結ぶ道にもしっかりと席が設けられ たという風に考えて良いと思いますただ 問題なのはじゃなんで常の席と常に置か れると席と仮に置く席があったのかという ことですこれもなかなか難しい問題ですね 地図で言えばABDが常に席ありでCとE が席がないという風に書いてあるこれどう いう風に考えれば良いのでしょうか私は これちょっといくつかグループ分けが できると思ってましてこういう風に見て
いくといいんじゃないかと思いますまずA 赤で四角で囲んだものは出雲の国の一子軍 とビゴの国の江軍を結ぶ道これが赤で囲ん でいます 次が緑で囲ったものでして出雲の国のイシ 軍とビンゴの国の美義軍を結ぶ道Cについ てはちょっとはてながついてますけども 可能性としてはビゴの国の身軍に通じてい た可能性が高いそれから青で囲んだDとE が出雲の国の二田軍とビンゴの国の江軍を 結ぶ道まこういう3つのえ累計化できると 思うんですけどもこれに席のあるなしを ちょっと並べてみるとこういう風になって よく見てもらうと全てのこうカテゴリーの 中で1つは必ず席があるという風にえ捉え られるんじゃないかなと思いますすなわち ある軍とある軍これは出雲の国のある軍と ビンゴの国のある軍を結ぶ複数の道のうち 1つ必ず1つには席があるっていう状況が まこういう分類するしたことによって 明らかになるという風に思いますで複数の 道のうち常に席があるというに書かれて いるのはおそらくメインルートある軍と ある軍を結ぶメインルートでそうではない ものはこう迂回するようなルートがあった んじゃないかなという風に考えてはどうか という風に私は考えており ますで2つ目の疑問としてなんで そもそも国を隔てたところを生きするのに 複数の道が必要だったのかっていうことな んですけれどもこれをそんなに難しく 考える必要はなくて例えば付の中には出雲 の国付ではないんですけれども交通を妨害 する神様って非常に多く出てくるんですね 例えばここに多くの人が通っているけれど もここで神様が暴れたから多くの人が死ん でしまいましたなんて記述がたくさん出て きますつまりこれをどう考えるかと言うと おそらくこういう神様が交通障害当時の 交通障害みたいなものをおそらく象徴し てるんじゃないかなという風に考えてい ます今より交通が発達してない時代です から 例えば気候の問題ですとかですねあるいは そこで川がして通れないよとかそういう ことを付ではおそらく妨害する神様として 描いているそういう風に考えれば古代って いうのはやはり今とは違ってですね新幹線 でビュっといくような時代ではありません から様々な交通の障害があったということ がおそらく隣国へ向かう複数の道があっ たってことのま答えというか可能性として 考えられるんじゃないかなと思いますで これをちょっと島根を対象に見ていきたい んですけれども10世紀前半の法令こう
いうことが書かれているんですね都子から 岩見の国に派遣する死者について雪解けを 待っていると遅くなってしまうので山陰道 以外のルートを取ることを許すという風に 書いています一般的には都から岩の国に 行くのにこの赤で示した山陰道と言われて いる感染道路を通るのが基本的なんですが 雪が降っていて通れないとだから別の道を 通っていいですよっていう法令が出されて います実際にどう言ったか分かりません こうビゴの国から行ったのかもしれないし こういうルートを通ったのかもしれません が言えることはですね交通の障害があって それを避けるような道がえ存在してそこを 通って目的地まで行くことができたという ことですつまり古代の厳しい交通環境そう いうものを考慮して例えばそこが土砂崩れ で通れないだから迂回するルートを取ると かですねあるいは目的によって使う道を 使い分けるですとか例えば荷物をたくさん 持っていたらこのルートは通れないから ちょっと迂回してもいいからこういう ルートを取ろうよねであったりとかこう いう当時の交通環境を考慮した上で複数の 道が設置されていたという風に考えれば いいのではないかと思っております最後に 祭り事ですねこれもはっきり言ってよく 分かりませんこの祭り事とは何なのかです ね祭り事ある時に当たりて積書を借りに置 くっていう状況はどういう状況なのかよく わかりませんですのでこれまでいろんな人 がいろんなこと言ってるんですね例えば 出雲国出雲の国の国造さんは特別な儀式を します就任する時とか天皇が変わる時に宮 に行って乗りとを相場するって儀式を行う んですがまそういうことと関係あるんじゃ ないのかっていう人あるいは出雲大社当時 はきつ大社と言いますけれどもそういう とこの造影造影を行ってる時が祭り事に 当たるんじゃないかなっていう説もあり ますあるいは出雲の国付ができた733年 というのは切戸市と呼ばれる軍事的的な 施設が派遣されていたんですねつまり 733年というのは軍事体制化だったわけ ですですので交通を遮断するような積書が 設けられたという風な説もありますま私と しましてはですねどういう風に考えたら いいかというとま先ほどあの本来は国境に 設置するべきだったということを申し上げ ましたただしその付機が提出する段階では 本当は積書がなかったんじゃないかなと いう風に思うわけです仮にその段階で積書 があればですねもう積書がありって書けば いいわけなんですよそれをえない場合も あるという風に書いてあるのはおそらく
本来は設置するべきであった席が付の当時 はまだ完成していないか設けられていなく てえそういう風に書かなかった祭り事ある 時には置いてますよっていう風に書いた だけなんじゃないかなという風に思ってい ますそういう風に考えるとまこれまで 祭り事を巡っていろんな説があったわけな んですが私としては特別そこに意味を 認めることは必要じゃなくてま エクスキューズと言いますかですね今は ないけれども祭り事ある時には起きます よっていうことで単純に書いてあるだけな んじゃないかなという風に今は考えており ますで今日はあまりお時間がないので実際 にその交通路が今のどこを通ったのかって いうことはお話ししませんでしたそういう ことを考える上でぴったりの研究成果が ありまして出雲の国不の地図社本編という 本がありますどこが出してるかというと 島根県古代文化センターですね私のが出し ている私が作った本なんですけれどもあり ますでこれはどういう本かって言いますと 出雲の国をこういくつかに分けてで例えば この70っていうところですねこれを見る とこういう風に地図が載っていますで下に 使っていうのはこれ現代の地図なんですが 現代の地図で実際この交通路がどこを通っ てたかっていうことを示してるんですねで その山は実際この山だよっていうことで この山の場所も書いてあるということで これまでの地図の多くは白い白地図という ものに地図を載せることが多かったんです けどこの地図社本編というのは現代の地図 の上にどういうルートを通ってたのかって いうことを示しているので大変参考になる 大変良い本だと思いますそれから最近 ちょうど1年前に出た皇帝注釈本というの はありましてこれもこれまでの研究を まとめて私たちはどう考えるかっていう ことを最新の研究成果に基づいて記してい ますでは付を離れてとのを裏付けるような 資は他にあるのでしょうかないのでしょう か私は出雲の国警戒長という不の翌年に できた資料に注目したいと思いますこれ実 は社本とかじゃなくて現物が残ってるん ですね東大臣の層員に1300年前の現物 が残っています簡単にどういうものかと言 と出雲の国が都子ですとか隣の国と文字の やり取りをしてるんですその目録ですね何 月何日にど文が出雲に来ましたよっていう ことがこんなに細かく書かれている資料が あります例えばこういうところを見ると 宮子の民部省っていうところで働いてる人 が逃げてしまいました出雲の国出身の人が 逃げてしまいましたってことを連絡してき
てたりですねあるいは4月16日ではその 地震上という所場が出雲の国に到着し たってことがわかっています到着したじゃ ないですね4月16日に出されたってこと が分かっています実際特に本義という当時 の資料を見ると自信があったってことが 書かれていてまそういう地震の状況を正確 に把握するために中央が地震上という門上 出雲の国にもたらしたってことが分かって いますこの中にですね注目すべきものが ありまし てこれなんですけれどもビチの国から出雲 の国に文字が出されたよってことが分かっ ていますというのはビゴではないん ですけれどもその隣の国ですねそこから 出雲の国にが出されたってことが分かって いますどういったルートを通ったのかと 言うと隣の法規の国から出雲の国に来 たってことは分かってますここまではいい ただしの国からどうやって法規の国 に行ったかよく分かってないんですね厳密 に言うとただしやはり私はこのから 直接法規の国に入った可能性があるんじゃ ないかなという風に思っていますまそう するとビチと法規を結ぶような南北の 山陰道と山陽道をつなぐような道これが あったという風に考えてよと思っており ます出雲とビンゴを結ぶ道先ほど付を紹介 しましたけれどもそういった道もおそらく こういう公文章を伝達する際に利用された んじゃないかなという風に思い ますそれから今度は張間の国不の中の伝承 に注目したいと思います大変著名なものな んですけれども鹿の宮宅まここが鹿の宮宅 という場所なんですけどもこの鹿の三宅 三宅というのは大和大家の直轄なような 場所ですけれどもそこがどういう風にでき たかてことを述べてるんですね簡単に言う とこういった産院地域の国造その地域を 納めるような人たちが今日に召喚される ためにこういうとこにやってくるで最終的 にこういった場所で他を開発してそこが山 保険の直轄量になったっていう話なんです つまり山陰地域とこのハマの国の鹿間の 見分けこういうところを結ぶような南北の 交通路が実際に機能していてそれが奈良 時代以前からそういう道が存在してい たってことがこういった資料から分かると いうこと です繰り返しますけれども山陰と山用本来 は別の交通路が通ってるような地域に対し て南北そこを結ぶような道というのが奈良 時代以前から機能していたということが 言えると思い ますそれでは今度は交通路ではなくて種族
名まるまるべと言われてるような部民性 から出雲とビゴ出雲とキビの交流について お話をしてまいりたいと思います部民性と いうのは大変難しい制度でしてこれを説明 するには大変難しいんですがごくごく簡単 に説明すると物資の高能ですとかま労働力 の拠出とかそういうことを通じて一定の 政治集団が大王とか都の豪族たちに奉仕を するという体制ですこれもかなり難しい 説明になってしまいますがある地域の人間 集団が天皇とか豪族とかそういうとこに 奉仕するんですね労働力とかある物を向上 したりだとかそういう集団をままべという 風な名前になります今でもままべていう方 いらっしゃるかもしれませんがそれは6 世紀ぐらいにできたベミ星に軽風があると いうことになります有名なところで言えば ぬとかですね蘇部とか馬かなんてものが あってぬたはぬたの工女という天皇の娘に 対して労働力を拠出したりあるいは物資を 納したりしてそういう手段がぬたえという 風になっていくんですねでこういう部民性 が設定されるある地域の集団がまるまるべ という風になるのは急にポンとベ部民に なるわけじゃなくて何らかの繋がりですね 部民同士のネットワークだったりあるいは 中央の天皇とか豪族とその地域の人々に何 らかの繋がりがあってまるまるべという 集団ができてきますつまりそのべという人 たちの分布を考えることが列島内のどこと どこの地域が結ばれていたかってことを 考える際の1つのヒントになるということ ですで注目したいのはキビ部とかですね 出雲部という部民の分布です実際にこの キベとか出はどういった静かっていうこと はなかなか難しいことがあって限られた ところにしか出てこないんですなので実態 はよくわからないんですが書きられた地域 に出てくるっていうことがその両者の結ぶ ネットワークを考える上でヒントになると いうことですまずキベの分布について見て いきたいんですが実は出雲の国不の中に キベというのが登場し ます感度軍出雲の国の西部の感度軍という ところの軍事ですね在地有力者の中にキビ ベの臣という人物が見えています地方の 有力者ですからこの人が単体でこう1人 ポンとやってきたわけじゃなくて昔から その地域にいてある程度有力な豪族となっ ていたっていうわけなんですけれども出雲 の中にベがいるということが確定できます さらにこれも別の帳簿なんですけども出雲 の国大勢信号歴KA長と いうこれは高年の人とか貧しい人に穀物を 支給した際の名簿なんですけれどもその中
に出雲軍とか感度軍という出雲の国西武 地域の人の中にキベという人物が見えてい ますここから出雲の国の雲軍ですとか感度 軍にキビを名乗るキビべという部民が存在 したことが確定できるんですねさらにこれ だけではなくて青木遺跡という遺跡 がこの辺り出雲群ですねありますでここ から木must木の札に文字を書いたもの が見つかっておりましてこういった木管が 見つかっていますキベですね売電権という 風に書いてあってここにキベという風に 見えますつまりこの周辺にですねキベがえ 存在したってことがここからも裏付け られるわけですで先ほどの帳簿と青木遺跡 の場所をこうやって示すとまこの辺りに キベが分布していたということが分かり ますやはり雲西部ですねどうも出雲西武と ビンゴあるいはキビとの関係が強固だっ たってことが分かります先ほどの藤川さん のご報告をちょっと思い出して欲しいん ですけれどもそのビンゴと出雲西部の 繋がりみたいなことが 触れていたかと思いますけれどもそういう こととどうもオーバーラップしてくるよう なこういう日々べの分布がここから伺える ということです一方 でこれもビンゴではないんですけど の国に出部という部民がいたってことが 分かっています票11年のこれも帳簿に よるとビチの国の加軍ですとか久屋軍と いうところに出部という部民がいたという ことが分かっています日々に部がいて出雲 にキベがいるという状況こういった状況は 大変珍しくてですねこういった出雲部とか キベの分布っていうのはおそらく出雲と キビキビは美前ビンゴを含めたキビ 地域と出雲との交流を端的に示す事例なん じゃないかなという風に考えてい ますで最後にです ね雲との単なる地域官交流だけではなくて そこに王中央の大和王を絡めた時にどう いったことが言えるのかということを乞食 の伝承を手がかりにして見ていきたいと 思います乞食の水人天皇団だいぶ昔の天皇 になってしまいますがホムわけ王という 王子が出てくるんですがその説話に注目し てみたいと思いますで水人天皇の巫女で あったホムわけをという王は成人しても 言葉を発することができないんですねで白 を見たりしてちょっと言葉を発するんで それを捕獲したりするんですがなぜ言葉を 話せないのかっていうことを天皇が占うと それは出雲狼の祟りであるとい結果が出 ますそういうこともあってホム慶王は出雲 に向かうんですね出雲に向かって出雲狼を
廃すると王が言葉を発するというなんとも 不思議な切が残されていますそれを経に 水人天皇はホムは慶王ですからそれにちん だホムべというベビを設置するっていう話 なんです が注目したいのは彼がどういう風に出雲に 行ってどういう風に帰ったかっていうこと なんです ねでホムわ王の大和への期間ルートを考え てみたいと思いますで先ほどの大筋とは ちょっと離れてしまうんですが鬼月大社今 の出雲大社ですねを廃した後ほわ王は火の 川今で言うひ川ですね日川でモテなしを 受けます共を受けた後ひ姫という姫あかも ヒカをあの擬人化したような名前なんです がひ姫と一夜を共にしますでそうすると実 は姫が蛇であったということに気づいて 驚いたホム王は急いで帰るで王は船で逃走 したという風に書いてあるんですね実際に どういうルートを通ったのか考えてみたい と思うんですがこれがヒカです現代のヒカ というのは実はの部屋を東に折れて新事故 に注いでいますただし不ができた奈良時代 というのは西に向かっていってまきつ大社 のすぐ近くまで流れていましたまこういう ルートを考えていく上で今をモなしを フーカーの近くで受けてそこから船で 逃げ帰ったわけですからおそらくフーカー を船で上流まで進んでいったに違いないと いう風に思うわけです ねでフーカーというのは本当に大きい河川 でですしていろんな河川がこう流れ込んで いて複雑な要素を呈しているわけですが その原料をたどると二軍に着くわけです 氷川から氷川を遡って二田軍に行きますで 二田軍のすぐ南はもうビゴの国ですよね あるいはヒカをこう支流を行ってイシ軍 などに行ってそっからビンゴに向かうと いうルートも考えられると思い ます つまりヒカをこう船で遡ったとすると二田 軍とかあるいはイ軍に通じているわけで さらにそっから日々ビゴを通って都子へと 帰還したんじゃないかっていうことがこの 説話からなんとなく分かってくるわけ ですで先ほどホム王にちんでホムべを設置 したっていうことを述べたんですがこれも ベミですねでこれの分布にも注目したいん ですが出雲の国付の中にはホムも実は出て きています先ほど言ったまさに二田軍です ねホムが通ったんじゃないかと推定した 二田軍の軍事の中にホムベという人物が 見えていますしさらにこれも出雲の国大勢 信号歴町という帳簿には出雲軍とか感度軍 これも出雲の国西武の軍ですけれどもそこ
にホムがいたということが分かっています さらにホムは実はビゴの国もいましてビゴ の国にはなんとホム軍ホム号というのが 存在してるんですねこの辺りなんです けれど もでもちろんホム分伝承というのは事実で はありません切話ですのでただそういう切 ができる背景として出雲西武とビゴと王建 このルートていうのが何らかの歴史的前提 になっていたという風に考えられますほわ 伝承は出雲の中の特に西武とビンゴで最終 的には大和この3者をつぐような交通 ルートを前提として作られた説話だったの ではないかという風に考えい ますつまり出雲とビゴの単なる地域間交通 だけではなくて出雲と大和の中継点ですね それをつぐ道としてのビンゴの役割こう いうことも先ほどの話から言えるんじゃ ないかということですねビンゴを中継点と して出雲と大和健が結びつくという関係 ですで皆さんの中にはなぜ都から出雲に 行く際にを通過するんだよっていう風に 思う方がおられるかもしれません本来は サイドをずっと進めばいいじゃないかと いうことを考えられる方がいるんですが これは古代については実は当てはまらなく て古代には山陰でに向かう際に山用側を 通ったってことが確実なことがあります 例えば有名な資料ですがだいぶ後の時代 ですね平安時代の後半今のタイガドラマ やってますけどもその大体100年後 ぐらいの時代なんですが稲葉の国士であっ た平の時のっていう人物が稲葉の国の国士 に任命されて都から不妊していきます彼は 日記をつけておりますのでどういった ルートを通ったかってことが詳細に分かる んですが都子から通常であればこう山陰道 をこうタバとか田島を伝って稲葉に行くん ですが彼はそうではなくて南側の山陽土を 通って北上していくというルートを通って います特に丹波とか田島っていうのは山が 急な山が多くてでですねストレートに行く のは大変難しいんですねなのでそういう アップダウンが少なくて済む多少遠回りを してもサイ側ではなくて山陽側を取 るっていうルートが実際に機能してい たっていうことが分かりますで今でもそう なんですが機内えっと機内から私松江に 住んでますけど松江に行く際にはサイドを 進まないで岡山まで行ってそっから南に 行くルートを使っているんですけども古代 についてもおそらくそういうルートがあっ たつまり特に出雲西部に行くにはビの国を 経由してそっから北上して入るっていう ルートが実際に用いられたんじゃないか
つまりそういう道が出雲の国付に書かれて いる出雲とビンゴを結ぶ道の一部になって いるそういう歴史的前提があって両者を 結ぶ道が作られたという風に考えて4では ないかという風に思っており ます最後にまとめを述べますけれども出雲 つまり山陰です ね山陰の出雲と山陽のビゴ両者を結ぶ複数 の交通路があったってことをお話ししまし た両地域を結ぶ道は複数あって1つは メインルートであったかもしれないけれも 交通の状況とか当時の苦しい環境を考慮し て迂回するルートなどが設けられたって ことがありますそしてその前提には奈地代 以前からあった両地域をつぐ交通交流これ は私の前の二の先生の話にもありました けれども昔から両地域っていうのは大変 非常に活発な交通と交流が行われれていた そういういう歴史的な前提があった上で不 の道が作られたということで最後に出雲と ビゴとの交流の背景には単なる両者の交通 だけではなくて大和王家と出雲を結ぶ中継 点交通の金めとしてビゴの国が機能してい たこういう歴史的な前提があって不に記さ れた交通路というのが機能しているという ことがなんとなく分かっていただけたかな という風に思いますだいぶ雑な話で恐縮 ですけれども私の話は以上とさせていたき ますご清聴ありがとうございまし [拍手] たえビンゴが出雲と大和を結ぶ重要な地点 だったんですねはいたも興味深いお話橋本 様ありがとうございましたま今日は交通を 妨害する神様が雪を振らせたかもしれませ んがま学長は無事に出雲の国からビゴの国 に入られてよかったです はい第2部では島根大学の取り組みを皆様 にご紹介いたしますまずは岩見銀山遺跡 から広がる島根大学の取り組みと題しまし て島根大学法文学部準教授の平達也が発表 いたし ますはいえ こんにちはえ先ほどご紹介いただきました 島大学法文学部の平郡と言います本日は どうぞよろしくお願いいたしますえ今日 ですね私の方の発表ですけどもこちら今日 お配りした資料集の えっと78ページですかね77ページ8 ページに記載されておりますその内容に 沿ってお話ししたいと思いますえまずです ねえ第1部に続いて第2部もご参席 いただいてどうもありがとうございました あの大変人がいなくなってたどうしようか なと思ったですが安心しました安心して 発表できそうですはいえでですねえ私の方
からの話なんですけどもま第1部のような 学術研究の成果といったいうお話よりも ですね島根大学が行っているえ地域社会と の取り組みについてのお話をさせて いただきたいと思いますで私の専門なん ですけどもま広告学を専門にしております でその航空学の視点からの地域社会とのま 取り組み具体的にはこれから申し上げます 銀山を中心としたまそこから広がる島根 大学の取り組みといった点についてお話 いたし ますえまこの島根大学での広枠なんです けども お山本清という先生がいらっしゃってです ねえま参院の広学のま海の親とも言える 非常にえ偉い先生がいらっしゃいました その山本先生がま当時の分離学部の教員と しして不妊されたま1951年なんです けどもまそこから始まっていますまですの で約73年ですね70年以上の歴史がある わけなんですけどもまこの間ま山陰地域の 地にねざしたですね調査研究を続けてき ましたでその山本先生先生がご体感された 後しばらくしてですね1981年にえ島根 大学法文学部にま広学研究室が設置され ましたえ設置以後これまでですねえここに え我々の工学研究室が携わった3位の移籍 を上げていますえたくさんあるんですけど もま代表的なものとしてはですねえここに あげています通り先ほどエ先生のご発表で もありましたようにえ今から1900年 ぐらい前のやい時代の終わりぐらいのお墓 になるんですけどもえま当時の東北アジア でも非常に規模の大きいお墓と言えます ですねえこの地域の出雲のま王のお墓とも 呼ばれている西谷3号母の発掘であります とかです ねえま古墳時代前期のまよく知られている 三角新住教と呼ばれる鏡が出動したえこれ 普段事故墳ですかね鳥取の南部長の普段 事故墳ですねえさらにはま古墳時代の 終わりぐらいの終わり頃のこの地域のま 代表的なお墓である松江市のの原1号分ま こういった あ遺跡を重要な遺跡を発掘してきましたま この他にもあの沖沖諸島の黒曜石の原産地 移籍の調査もしてきていますまこのように 山陰地域の歴史文化を語る上で非常に重要 な遺跡を発掘調査してきましたでこのよう に歴史であるとかですね文化遺産をテーマ にえキーワードに参院地域における戦士 古代文化の調査研究そして学生教育をえ これまで進めてきましたで今回の発表では でですねえこの岩見銀山をキーワードにえ 島根大学が広学の調査研究を通して
取り組んでいる教育と地域との関わりに ついてお話ししたいと思い ます え1位ですね議員がたどった道の風景と いうことでいわゆるえ銀山街道中心にと いうタイトルをつけましたま皆様よくご 存知の通りえ岩銀山遺跡は日本に20か所 ある世界文化遺産のうちの1つなんです けどもま今からえ17年前え2007年に 世界文化遺産に登録されていますでその 登録名としてはですねまここにあります 通りええ岩銀山遺跡とその文化的景観です ねえという風に非常に大きい括りになって いますえこれがその世界遺産に指定反指定 されてる範囲を示してるものなんですけど もま大きく3つのカテゴリーに分けられて いますま1つはここにあります通り銀山跡 と鉱山町ですねえま鉱山え銀行山後はこれ 発掘調査の我々が参加させていただいて いる岩銀座の発掘調査の様子ですけどもま これは何かというとま銀を含む鉱石ですね えこれを掘り出すためのま横穴といか行動 であるこれマブと言いますけども約 1000箇所あるという風に聞いており ますそういったマブであったりえそこから 取れた良質の銀鉱え室の鉱石を運ぶえ鉱石 の中からですねより良いものを選ぶ先行場 であったりで今写真でご覧いただいてる ように え鉱石から銀を取り出す精錬の場ですね 精錬上の痕跡の施設あるいはそこで働いて いた人々のま住居やお寺え神社そしてえ 軍事施設施設としての山白まこういった ものも含まれる含めたものをま銀鉱山跡と 呼んでいますえそしてもう1つは鉱山町と して現在の大森の街中ですね大森の集落に あたるんですけどもえそこがま銀鉱山町に なりますでこの写真でご覧いただいてるの は皆さんも行かれたことがあると思います けども芋官ミュージアムまかつてえ岩銀山 資料官と呼んでいたところですここは本来 えこの銀山を管理する江戸幕府の役人武行 ですねえその仕事場であるこの大鑑賞跡に なりますえそういった大観賞跡であったり えそこと関連するおテラあるいは町人の 住宅軍からなっている皆さんが今岩銀座に 行かれるとえ見れる集落の後です集落の 場所がま鉱山町と呼ばれることになってい ます でもう1つのカテゴリーであります港と 港町ということでえこの岩銀山で算出され た銀ですね銀鉱石あるいはそこから作られ た銀そのものなんですけども配布銀と呼ぶ んですけどもそういった銀を博多や大阪の 方へ搬出するための港があるんですねえ
それのことま友浦ですねえ沖止まりという 呼んでいますえ友がこちらの写真になり ますま現在も漁港として使われていいる わけなんですけどもえこの両サイドには ですねこういったがえ岩壁にですね穴が 開け穴が上げてあってま船を停泊させる ための縄をかけるための穴が残っています でこちらは湯町の方ですね現在門川街とえ がある湯町のすぐ隣にある沖泊という港に なりますここにもですねえこれ発掘実習で 行った時に皆学生の皆さんと撮った写真な んですですがえここですねこの辺りかな ここにえこうやはりここもわざとですね岩 の周りをくり抜いて水を作ってここに船に 船を停泊させるための縄をかけるものです ま鼻栗はと言いますけどもまこういった ものが残っておりまかつてここにここでえ 港としと港として機能していてなおかつ ここでこう船を停泊させていたんだえそう いった様子を彷彿とさせてくれ ます でそして3つ目の要素なんですけどももう 街道となっていますでこの街道なんですが あ岩銀山でえ出た銀の鉱石あるいは銀 を時期を疑いながらですね先ほど見た港町 まで送るわけなんですけども3つの陸路で 送っています先ほど申し上げた港の方です ね友神とか沖止まりですねえそちらに行く ルートがありますでもう1つ今日後でお 話ししますけども え日本海側ではなくて瀬戸内側に議を送る 街道っていうものがありますえそれについ て後でお話ししようと思いますまいずれに せよですねえ岩銀山で作られた銀を港まで 送ってそこからさらに船に乗せて博多や 大阪へと搬出するでさらに朝鮮半島 あるいは中国へと輸出されしたりですねえ 銀座での貨幣中三にり用られたということ がよく知られていますえそれぞれの街道が 使われた時期についてはですねここに書い てある通りまレジメにも書いてあるんです がえ友浦街道の方が16世紀前半ですね こちらの方ですねえこちらのルートでえ 使っていたで大森の街中から約7kmの方 街道がありますでもう1つの方の沖泊の方 は時期が新もう少し新しくて16世紀の 後半になとえ使われるようになるという ことが知られていますま距離的には約 12kmっていうほどになりますですので ま約3え3里ほどの距離になるということ が知られてい ますまこのようにですねえま銀の銀鉱石の 算出からその銀の生産そして流通商品に 至るまいわゆる江戸時代版のサプライ チェーンと言いますかまそういったような
表現ができるなシステムがま当時から存在 しているわけなんですけどもそれらの痕跡 は先ほどお見せしたようにえ遺跡移行異物 まこういった形でえ高校資料としてま島根 県だけではなくてですねえここ広島県内に もえ残されてい ますでえその岩銀山に関するこれまでの 広学的な研究成果文献史学的な研究性格の 内容というのをま簡潔にまとめるというの はま私の能力の及ぶところではありません ののでえ今回の発表ではえその先ほど 申し上げた3つの街道特にですね広島県に 所在してる回答についてえ写真え等をえ 画像資料を元にご紹介したいと思いますえ 先ほど申し上げたえっと あの沖止まりにえ友神の方に行くルートと 沖止まりに行くルートでもう1つ3つ目の ルートがここにあります通り小道道という ことでえこれはえ先ほどの2つとよりも さらに新しくてですねえ17世紀の初め ぐらいから使われるようになりましたえ 大森の町から出発してえ小道までの約 130kmですねまほぼもうこう中国産地 ををえ日本海側から瀬戸内まで行くような 距離になるわけなんですけども130km を3泊4日かけてえその銀を運搬していく ことになりますでえここからはですねこの 大森のから大道までの銀山街道についてま 要所要所を巡ってえいきたいと思いますえ ルートとしてはですね大森の町から出発し て南の方にグっと行くわけですねえ それぞれえま代表的な場所についてお話し ていきたいと思い ますえまずはですねこの銀山海道の スタート地点になりますえそれはこの島根 県大田市の大森町になりますまここはあの 時代はですねえ江戸幕府のま直轄地となっ ておりまして先ほど見ましたこの大感所 ですねえここから出発することになります これ大森の街中ですえ大監所があってえ この奥の方に行くと先ほど見たあの発掘し ているような場所ですねえまがあったりえ 精錬場があったりするところになり ますで毎年旧暦の10月下旬から11月 初め頃にこの銀の輸送を行ったという風に されていますこイ銀山で作られた銀なん ですけどもあのどういう風にして運搬して いたのかっていうとあの木で作った箱が あるんですねえそこにま銀10巻目入 りっていう風に書いてある書かれた木の箱 に10巻目え37.5kmですね相当な重 さですけどもえ37.5kmの銀を入れた 箱木箱を木箱の中に銀を入れるでさらに それをクッションとしてむでくるんでえ それを1等馬に2つずつですねえ吸わせ
ますえでえその銀を運ぶ馬にはそれぞれ 一等ごとに青いのちっちゃい旗をつつける んですねえまそういうことが知られてい ますその旗はですねえここのあの芋大館 ミュージアムに所蔵されているということ ですでこの輸送談の規模なんですけども え5等とか10等とかそういうちっちゃい ものではなくてですねえま多少の数の違い はあると思うんですけども270等からが 300等の馬ですねでそれをこう引いて いく人も当然必要なのでやっぱり300人 から400人ぐらい非常に希望の大きいま 輸送談という言いますかえそういったもの で構成されていたという風にされています でえこの大森の町を出発してですね え朝6時ぐらいにえ出発したという風に 言われていますで約16kmほど進みます とま現在の三里町にある小原宿にいります でここであの河の河でですね荷物を別の馬 にけ付け替えるわけなんですけどもま一緒 に昼食も取って休んでいきますで現在の こう三里町の街中にいくつか痕跡が残って てですねえまこれはあの本人のこれ ちょっと本人のこの石垣しか残ってない ですね上の建物はやっぱり残っていません おそらくここにあったという場所にま現在 も看板が立っているところです江戸時代は この場所にあったんですがもう少し江戸え 明治になると別のえ場所に移動して現在も 旅館として使われてるということにが知ら れていますでえその後さらに一休みした後 また出発するんですがえっとですねここ 画面のこの写真のえ下からの方から入って きてここで一休みでさらにこのこっちの道 に沿ってえ南下していくわけなんですねで その途中に 半田半田半田海っていうちょっと言い にくい崖道があるんですねえその崖道今 この崖道に上がろうとしたんですが ちょっとあの道が悪くて上がれませんでし たのでその崖道の下から撮った写真です この写真の背中側にですねが崖面があって その崖面の真ん中にですね非常に幅の細い 道があってそこをこう馬がおそらくま1列 ぐらいしか出ないと通れないの非常に細い 道なんですけどもえそういった崖道を通え 次の場所に行っていきますで同じく三里町 の9市塾になりますでここが最初の宿泊地 になるんですねえ現在は特に何か残ってる というわけじゃなくてですねやはりこの 石垣の先ほどあの藤川さんの話にありまし たように建物は残ってなくて建物の基礎に なるこういった石垣ですねえが残っている ということですでえ本来はですねじゃあ その
休んでる間は銀はどうしていたのかという とですねこの本人の近くにあった倉に入れ てたそうなんですがえそれを民近所の農民 の方々がですねネの番をして守っていたと いう風に言われてい ますでえ翌日の朝になるとですね一向は ですねさらにえ先ほどの三蔵町の三町が ここでえっとここ9日一がこの辺りですで さらにこう峠を超えて赤の方に出ていく わけなんですけどもえこの赤に向けて出発 しますでここがちょうど岩岩の国と出雲の 国の境にある峠になっていますその峠に ありますのがここに示したえ坂酒谷ですね 竹口谷の番所になります大盛大森からの 距離で言いますと約25kmほど南東に 移動したところなんですがえま当時はです ね先も言いましたけども岩銀山ですね江戸 幕府の直轄量です直轄地でしたそれを天領 と言うんですけどもその天領でしたその 天領の入り口が出入り口がこの竹口台の 番所になり ますですのでま非常に重要な場所という ことでここには幕府の役人がま常駐してい ますま銀の銀とか同のま流出がないのかと かですね銀の作り方のそういった作り方の 技術とか留出しないのかとかですねまそう いった銀にまつる製品技術そして人材の 管理も行っていたとされていますでここで また新たに別の馬に荷物を お付け替えるわけですねでやはりここも 建物そのものは残っていないんですが建物 の基礎部分にあたるこういった石垣が残っ ていますえっとですねこのど本当にこう 確かにあの9位置から車で横着して車に 行ったんですがやっぱりそうあ峠てはこう いうとこなんだなっていう感じのこう坂道 を上がっていたところにえこういった 小さいこう番所があるんですね現在も少し 建物がありますがこういった感じで建物が あってさらにやっぱりこう斜面にえ建物が 立ち並んでますのでここに1段その上に2 段3段っていう感じで階段上に建物があっ たということがえ分かり ますえ非常にこう立派な石垣でえ感動し ましたけどもでさらにここから あ4kmほど南東に進むとま飯南町の赤名 宿に至りますえここは岩美の国出雲の国 そしてビゴの国の3つの国境に当たる ところになりますま当時の一行はですねお 昼頃にここ赤名に到着してその川川の河で ですねまた荷物の付け替えを行うわけです え現在はですねここにこう赤宿のおここに ありましたよと標識がこの街中の真ん中 ですねえそして町の北側にはこういった道 しべが残っていますえ右には右は戸原松江
大八一端に至る道ですよ左は石州酒田 先ほど見た番所に行く道ですねえ大谷大森 5百ら間え大森の街中に銀座まで行く ルートにになりますよという道しべが残っ てい ますえもこの赤をと赤の峠を超えるとです ねいよいよビゴの国になっていきますなり なりますまここからは広島班のま領域に なるわけなんですけどもおその先ほど見た 赤の宿赤名宿から17kmほど行った ところにあるのがこの布野塾になります ここでまた一服するわけですねえここも やはりその痕跡建物の痕跡ここにありまし たよって痕跡だけが残っているとこになり ます現在もこの国道が通ってるんですけど もその国道の横に明治の道があって元々の 道はこのもう少し集落の外側をえ巡ってい たという風に言われてい ますはいえでえ さらに進むと先ほどの府野塾からま 12km進むと三義市に至ります三塾に 至るわけですねでここで一泊することに なります え今もですねこの道しべあるんですがこれ 元々の位置ではなくて別の位置に移動さし たところだという風に言われていますえ これ現在の街並ですねえ本人跡ということ になっていますまここで1泊するしてえ 翌日ですね えこちらは先ほどの三吉からさらに翌日の 朝出発してえ20kmほど進みますえ喫茶 町になりますけどもここでもうお昼休憩を 取るわけなんですねえここにはですね文献 記録にはですね銀の輸送の一向が食べた そのお昼ご飯のメニューってのが記録され ててですねえ1の前2の前本前点3つの前 がお前があってえ結構鯛の刺身があったり とかですねえカモのなんかこう焼いたもの とかですねえ虫浜とかですねお酒もついて ましたえおチョもついてましたでさらには デザートのお菓子までついているまこう なかなか立派なコースメニューがメニュー を食べていたということが分かって知られ ていますで数年前にですねえそのメニュー を復元して実際に食べてみようという イベントがあったようですえこの記の歴史 資料館にですねえ復元されたお前が展示さ れていますので是非ご覧いただければと 思いますおだんだん時間なくなってきまし たねえ次様でさらに記を出発して20km ほど進むとセラ町の鉱山塾に至ってそこ です3日目の宿を取ってえ翌朝さらに 24km進むとこの小道に至りますで小道 に到着した一向はですね本人にこれ本人の 後の写真ですけどもやはりここも特に何が
残ってるわけじゃなくてその石積ですね礎 建物の基礎となる石積が残っています必の 細い道ですけども今現在商店街があるその 一歩入ったところにこの本陣の跡が残って おりますでこの本陣に銀山あ銀を預けてい たんですねえその本人の後になりますで さらに本人から200mほど南にえ進むと ようやくこう瀬戸内海に至りますえ僕も1 泊2日で行ってきたんですがやっぱりこの 山を超えて海が見えた瞬やっぱり嬉しい もんですねえやっぱ一仕事あったという 感じがするところですけどもでここでです ねえ広島班の船にこう馬を馬に乗せてきた 銀をさらに乗せてえ さらに西え東へ向かいます現在の兵庫県の 立野市にある光町っていうところがあるん ですがそこまで運んでさらに別の船に乗せ て大阪まで送ったという風に言われてい ますまいずれにせよですね瀬戸内閣が 見えるまで3白4日の両手はここで一旦 終わりを迎え ますえでですね今のがえ銀山街道の話でし たけどもえ2つ目の話としてはですね岩 銀山遺跡と島根大学ということでえ島根 大学と大田市はですね2013年にここに あります 包括連携に関する協定書を結んでまお互い にですね地域社会の発展と人材育成に起用 するということを目的にま様々な活動を 行っておりますまその一環としてですね 広学研究室では2016年から大田市教育 委員会の岩銀山科の協力得てま世界遺産岩 銀山移籍の発掘調査に参加ししていますま その時の様子ですね え屋外での作業雨が降った日はこういった 湿度物を説明してもらって勉強しています えコロナ以前はですね大森の街中にある 江戸時代からあるお寺の中でお寺を借りて こういった合宿生活をしていたんですが ちょっとコロナ以降それができてない状態 ではあるんですがま非常に卒業生からも ですねあまり高空学のことは覚えてない けどこの発掘現場の夜中のミーティングの こと覚えてるって子はたくさんいるわ ですで毎年夏の休暇中ですね9月上旬の2 週間ほどですねえま十数人の攻殻の専門 構成と共に泊まりがけで発掘実施を行って おりますまこれまで岩銀山遺跡内のま様々 な非常に幅広いあ空間的に広い地域なんで まいくつかの地点に分けて発掘をしている んですがまそういった調査に参加しまして 江戸時代の後期からですね明治時代を中心 とした闇銀山遺跡のまどういう風に土地 利用がなされているのかとかですね銀の 精錬以降の痕跡に触れることができました
でこういった経験はですねまこれから広学 をば学ぼうという学生さんにとってその 攻殻という学問において1番重要なと言い ますかま研究資料の獲得のま難しさととも にですねその面白さを実感できるま非常に 重要な機会になったのではないかと思って いますで発掘だけで終わるのではなくて ですねえ出動した異物の整理作業とかです ねえ図面作成まこういった発掘調査報告書 の作成にも参加することでまそのえ調査の 成果を大きにするまこういうことの大変さ と重要さも実感できたんだと思いますま その中にはですね卒業論文を発掘調査の 報告書のま考察部分に載せてえもらった 学生さんもおり ますでまこのような大学での学びを通して その専門性を生かしてですね日本各地の 自治体で埋蔵文化財の専門職員あるいは 博物館の学原因として検討しているえ卒業 性もたくさん出することができましたえ 今日お話していただいた藤川さんがまさに そういった卒業性のになろうかと思い ますでえま今年度ですねこの夏去年の夏 ですねイ銀座の発掘調査にですねえ韓国の 木歩大学という国立大学のがあるですけど もそこの高古人類学科の学生さん教員と 学生さんいずれも広学専門の学生さんです けどもま発掘調査に参加してもらいました 2日間という非常に短い期間だったんです がまそれしてもらってですね発掘を通した ま日本と韓国の学生の交流っていうのも 始まったところですま当初学生さん本当に 交流できるんかなと思ってたんですけども 今もでもスマホでこうスマホのアプリです ねあの言葉の問題は全く解決したみたいな のででま意外にこううまいこと交流ができ たので非常に良かったかなと思いますま 今後も続けていければなと思っていますえ でちょっと駆け足になりましたが終わりに というところであのレジメにも書いたん ですが航空枠は地域に勇気を与えるという モ浩一先生のま言葉最初聞いた時非常に こう顔面を受けて自分が勉強してる学問で まそういった地域に何か役立ってるんだな ということを思った次第なんですがま島根 大学のある島根にはえ島根県にはまここに 写真にいる通りま有名なま高神断遺跡とか ですねまそこでの出物えさらにこういった イ銀山というようにま この広学で得られたあ知見とかをま 活かせるこう材料と言いますかですね素材 は非常にたくさんありますのでま今後それ をどういう風にして生かしていくのかって いうことがま問題え課題なのかと思ってい ますでえ現在え我々が取り組んでいる岩
銀山遺跡の発掘なんですけどもま銀行石の 採掘から銀政令のプロセスさらには日々の 暮らしの様子さらにはえ銀の流通から見た 世界の経財士等々ですねこの歪銀山って いうことを起点にですねえ非常に多くの 歴史的論点にアプローチすることが可能だ ということはよく知られています私先ほど 航空学が専門だと言いましたけども航空学 でも日本の航空学でなくですね韓国の航空 学を専門にしていますのでま私の関心時 から言うとですねこの岩銀山で作られた議 がえ朝鮮ですね朝鮮王朝にえこの人参とか 金の代金として行くわけですねでさらに 朝鮮からえ中国にこれもあの金を購入する ためのここに抱いてないんですが長時中国 の決裁の あの材料は銀でしたのでやはりここの日本 の銀が朝鮮そして中国に行くという風な 流れがあるわけなんですねそしてそれは あのこの韓国の国立中央博物館の定説線に もまこういう風に展示されてところですま 岩銀山の調査が調査研究がさらに進めば ですねこの韓国の定説園のパネルにも岩 銀山のお話っていうのがあコミットできる んじゃないかなと思ってい ますえでえ最後にですねえ遺跡の保存活用 といった発掘する発掘して終わりではなく てですねそれを残してどういう風にして 活用していくのかということがえま広学 関係者だけではなくてですねえ現地にでえ 進んでらっしゃる方にも多分大きなえお話 になるんじゃないかなと思いますまそう いった現代社会的な論点にも お人類が共有すべき文化的財産という角度 から我々はまコミットする必要があると 思っていますでその一端をですね島根大学 の広告学が担っていくことのま重要性と 責任感えこういったものを非常に強く感じ ているところです現時点ではですね なかなかそういったこう現え大盛の人々と の一緒に何かやってると言たまそういった ことはまだあほとんどできてない状態です しま不足している点もあろうかと思います まこの点についてはですねえ今後調査への 参加あるいはより積極的な情報発信を通し て皆さんに我々の活動をしっていただくで そして多くの関心を持っていただけるよう 努力していきたいと考えていますちょっと 長くなりましたけども以上で発表を終わり ますご清聴ありがとうございまし [拍手] た 平郡島あの昨年直省受賞した千早あさんの 小説あの白金の派の舞台ということもあっ てま去年からあのいらっしゃる方も増えた
ようでございますあのガイドさんによるね あの銀山街道を歩くコースというのも観光 にあるようでございますのでえ皆さんも姉 に はさんにも足を伸ばしていただきたいと 思い ますでは続きまして地域社会に指した島根 大学の取り組み材料エネルギー学部新設と 題しまして島根大学材料エネルギー学部長 三原が発表いたし ますえご紹介いただきましたでございます よろしくお願いいしますえっと今日はあの このえちでですねあの私たちのところで あの今年度作りました材料エネルギー学部 を新設いたしました材料エネルギー学部に ついてお話しさせていただこうと思って おります突然古代のところからこの話の 1番あの新しいところになってきて紹介を するって言ってちょっと戸惑われるかも しれませんがえっと実はその学術のところ の分野でもですね地域の歴史産業を組む ようなケース例えば岩田大学の南部中鉄 ですとか新州大学の船員キトあるいは京都 工芸船員大学が芸の歴史を背負ってそう いうのが立ってるわけでございましてこう いうのは非常に重要だという風に我々はま そういうところが強いという風に考えて おりますで振り返ってあの島根県を見ます と先ほどからお話がありますようにまト 大臣というかそこの中から鉱山夜勤技術が やってきてでそこの中であまいろんな金属 材料があのもうあの産業として精錬されて きたということが歴史がございますそれで えっと先ほどまこの話はですね高校学では ないもんですから歴史があって産業としで どのぐらいそのえっとここの地域が生産し てきたかというようなお話だけに限って いくんですけれどもまず最初がどでござい まして銅についてはえっとも日本全国に 色々あるあの銅山あるんですけどもその 銅山のところにはこの須野のミの神社が 必ずセットになっているというちょっと 不思議な現象があるですとかいろんな話は あるんですが少なくとも分かってることは えっと7時代ですね7時代には精錬法が 完全に確立されて日本各地にいろんな エンジニア集団がいたでなおかつどういう ことだったかていうと奈良の大仏っていう のはま制動性のものすごく大きいものなん ですがあれが7時代に作れるぐらいの技術 者がもう日本中にいたということはもう 間違いないことでして1920年までは 日本のえっと輸出量の第2位というのが どうだったというま今から考えると ちょっと信じられないような話ですけれど
もそういう位置付けだったということに なりますでま同の精錬技術を作る エンジニアがま少なくともこの辺には絶対 ま間違いなくいてま特に言えばえっとこの あの出雲大社の裏庭浦山がですね道山なん ですねでそこが道を作っていたということ はあのもう歴史的に知られているところで ございますで次に銀に関しましてはもう 先ほどお話があった通りでしてえっとこの 岩見銀山というのは17世紀にはボリビア のセロリコと同時あの共にですね2大銀山 として世界中に有名でしたで当時の世界の ですね31の生産量を日本が誇ってい たっていうのが銀でございますでえっと 私たちも実はあの去年まあの個人的に言う とえっと あのえっとイギリスの先生とですねあの 金属学の先生とここにあの夏に行ってみた んですけれどもその時にえっとやはり 先ほど言いました廃部機法っていうのが 展示されているんですねほでその先生金属 学ですから私も金属なのであの材料のその 学生の時に学生実験で配法っていうのを 経験してるんですが非常にハテ法だとある 程度思ってたんですがこれが17世紀にも こ使われてるのかっていう風にびっくりし たあの2人しか分からなかったんですけど もそこそういうこうエンジニア集団が 少なくとも17世紀にここにいたという ことです鉄に関しましてももうどこまで 遡るか分かりませんが少なくとも例えば あの時代劇見ますとあの大体鍋かは鉄です しクアとかはもうすでに使われているわけ ですけれどもそれらのあの鉄鉄気ですね 普通のまそんなにいい鉄ではないんです けどもその撤去のえっと80%から90% は中国産地のところで生産されていたもの であることははっきりしています特にこの えっと出雲地方っていうのがま非常に 大きなそういう産地であったってことが 知られておりましてでここはあの砂鉄と えっと良質のも木端が出るということで ここが産地になるわけですが砂鉄に関して は神流しという非重線候補今の名前で言う ということで川に流して重たい鉄が残ると いう方向でやってたもんですから上を ものすごく崩してでいらなくなった土砂が どんどんどんどん川下にえっと流れていく ということで今の新事故があの先ほどから 出てますえっと古代の地図は今よりも 1.5倍ぐらい大きいんですけども ちっちゃくなっていってるのはこの産業に よってですねまあのこのしその湖のサイズ がちっちゃくなるぐらいそのすごい産業を あの上でやっていたということになります
ま言いたいことはいずれにしてもああとは ですねま祟ら生鉄っていうのもあるんです けどもこれも日本島を作るための直接生鉄 層の1つなんあの1つというかすごい有名 なものでしてダラスシエルメイキングプロ セスって今でも英語でもええっと国際的に もそういう風にあの有名なものですで えっと現代の鋼でもあのこれを作ろうと 思うと現代の鋼で作った日本島はボキッと 折れてしまうということであのうまくいっ てないんですねであのそのぐらいのものが いつから作られたかっていうと古く遡ると 野時代ぐらいからトライがあってで最終的 にここに向かったという話がありましてで この辺りでも今もこの奥泉の方では作られ ているものということでまそういう エンジニア集団がどうやって作ったのか 我々もよくわからないですけどもそういう ものがまずっとこの辺りでは脈々とえっと あってで明らかに適な技術でなおかつ重要 なことは系統的に生産して長期に渡って おそらく莫大な利益を生んでいた場所 だろうということだけは間違いないという 風に考えられますまそれをベースにして ですね今でもこの多生鉄の原料とするよう な今の産業になるんですけどもここの辺り にはですねあのプロテリアさんとかまスノ グループっていうところがあってま特殊校 ですとか着物を中心とするようなあのそう いうえっと鋼のグループあるいはここには えっとイモムラタとかパナソニック インダストリーというよようなと電子部品 だとか科学産業あるいはここの辺りは木質 系の素材とかていうそういう産業がえっと 出雲にはあの分散しているところでござい ますでこれらが製造業の4割は素材産業で ございますでこれをベースにしてですね えっと島根大学もしくはあのと一緒にです ね島根県も一緒なんですけども一体となっ てここのこれらの産業をえっとまあの遠隔 率するようなえっと産業改革の先導拠点を 作ろうというのが我々の学部を作るところ の1番のモチベーションになったわけです ですからま産業がこういうところで素材 産業にありますので必然的に島根大学圧の 工学部として特に材料系としてこの学部を 作るということで2023年の4月に スタートしたのが我々の学部ということに なりますでこれがあの国使になるんです けどもえっと新しくえっと今年度の4月に 開校いたしまして入学店員が80名でうち 40名が純増ですでこれは普通には分から ないかもしれない我々私あのあの大学に 50年ぐらい勤務してるんですけども こんなあのとにかく店員が像になって新設
が認められるなんてことは聞いたことが ないことでございましてでこれは一得に ですねこの令和5年の魅力ある地方大学の 実現に思する地方国立大学の店員像という この公募がありましてこの公募にトライし て採択された結果これが実現したという ことになりますで今現在えっと入学者1年 生しかよりませんが86人入学しまして うち女子学院あの生徒が工学部系は大体 少ないんですけども我々のところは女子枠 を作ったこともあって4人に1人は女性と いう形でスタートしていますでさらに仙人 教員がま10月現在では24名であとその 他大学の先生方もクロスアポイントメント ということで我々のところのあの教育研究 にあの協力していただいてましてさらに プラスして著名な研究者を客員教員として 処平するということでまここにあげてある 先生方後でもちょっと色々出てきます けれども教育とか研究に協力いただくと いう体制でま非常に強力な体制でえっと 授業あるいはえ研究をできるようにあの 作っているところですでさらにこの新しい 学部ができてもあのそれはいくつかあるん ですけどもその時でも建物まで整備でき るっていうことは普通はないんですけれど もえっと我々の学部はラッキーにもという か幸運にも島根県があの全面的に バックアップしていただくあるいは文科省 もこの新しく作ったということで色々 バックアップしていただけるということで こういう今えっと学部党が建設されている ところですで令バあと7年の2月に進行 予定なんですけどもえっとこここういう 建物が作れるということでございまして 特に誤解のフロアについてはえっと大学 教員と企業をつぐような連携をする あるいはプロジェクト型の研究チームを ここに置くとかいうことができるような フラオとして今作ってるところですで さらにえっと今年の1月ですねこれは先端 マテリアル研究え競争機構というこのあの これは研究所なんですですけども材料系の 研究所までさらに作っていくということで 島根大学は今まであんまりご存知じゃない かとは思うんですけども材料系の大学とし て非常に大きくあの全国に向けてアピール していくということを決めておりますで えっとま次はこの材料エネルギー学部と 名前なんですけどもエネルギーっていう 名前がついてるのでえっとエネルギーを なんか研究する大学ですか原子力研究する んですかみたいなことをよく聞かれたん ですけども我々のところはですね今 エネルギー問題カーボンニュートラルです
とかエネルギーが不足してるようなところ こういう問題を解決しなければいけないと いうことでこれを素材とか材料の視点から 理解して解決するこれ非常に重要なももん ですからそういう学部としてこの エネルギーて名前をつけて材料エネルギー ていう学術的な用語はないんですけども えっと作った学部でございますでじゃあ えっと材料がえっと人類にそのあ エネルギーモデどう貢献するのかっていう ことが分からないというところの例として ま3つほどこの40年ぐらいでえっと日本 人があのエンジニアが作った材料がえっと 世界のあのエネルギー問題に貢献したって いうものをあげておりますま特にこのあ 分かりにくいかもしれませんがネオジム鉄 暴論という永久磁石をこの佐川先生っと いうのは作りましたこのモーターこのEV シレのとかに使われてますパーツの モーターなんですがモーターの最大の パーツはこの永久磁石ですで永久磁石が 性能を決めるわけですけどもこれが ものすごくいい性能であることがこの今の えっと電気自動車のベースになっており ましこの磁石がなければあの電気自動車は 多分あのえっと実用されていないという風 に考えられますまたこのバッテリーの ところと間を切ってタヤを回すと電気が 発生しましてモーターの反対は発電機です のでえっと火力原子力風力何でもいいん ですけどもこのとここで起こるところの 電気を起こす発電機の能力がものすごく 上がったのはこのえっと永久磁石による ところが大きいこれだけ考えますとこの 材料が永久磁石っていうもの磁石だけなん ですけども非常にこういういうあのモチベ あのイノベーションを起こしたということ はお分かりいただけるかと思いますあと リチウムイオ電子はもうモスまでもあり ません皆さんのスマホの中にも入ってい ますしEVの中でも使われておりますが今 トヨタが盛に作ろうとしておりますえっと 全固体電池もこれの一種でございますので 当分まこれは非常に重要なところこれは 吉野先生が作ったものあと今ここの照明も 多分LEDなんでしょうけども皆さんの うちでももう急速に皆さんLEDにしたん だと思いますが20年ぐらい前まではこの 青色だけが光の3元色のうち出なくてあの 白色エネルギー実現できなかったんです けどもこれができるようになったのはこの 先生の発明によるところがえになりますで これらの発明はですねあの物理とか科学の 基礎とか知識をベースにはしております けれども基本的には共通点はそれらの先生
方はみんなえっと企業のエンジニアの時に これを開発していて材料プロセス エンジニアリングとにかくこの材料を作っ て見せたというところが一番評価されてる というところでございますですからま我々 の学部もまこういうものを作るといところ も1つの目標あのさらにエネルギー問題 っていうのはですねこのエネルギー庁が あの3E+Sというま要するにあの新しい エネルギーを作るでそれの効率をどんどん 上げていくそれらのところの過程で研究の 過程でえっと環境問題を考えてくださいね あるいは原子力も含めて安全性も出して くださいこれ全部エネルギーに関係します という話を出しましたでそれによってえ 工学部であの関係するようなそのものは ほとんど80%から90%はエネルギーに 関係するということになりましたので我々 の分野の対象とすべき分野というのは非常 に広いということがお分かりいただけるか と思いますでそういう広い分野のエリアを 対象にしますのでこの広い分野で特に電池 とかをやろうとすると材料系ってのはあの これが元々のえっと今まである工学部のま 割あてになりますこれ大体工学部非常に 大きいですから1000人規模ぐらいの 例えば大学もありますその中でえっと何十 人とかの材料系があるんだけども独立に これを運営してるわけですが我々のところ はたった80人の1番日本で1番ちっちゃ な工学部ではあるんですけどもえっとその エネルギー問題を解決しようという風に 言いましたのであの電池とかをやろうと 思うとどうしても応用科学の人が必要なの で金属材料を応用化学を一緒に入れてで 科学を入れることによって例えば対象とし てはあのえっと複合材料とか金属材料の他 にですね生体材料とか化粧品とか薬までも 材料として一応扱いましょうという非常に 後半な材料を対象にしようということに なりますでさらにここにええっと情報と いうのが入れてあるんですけどもえっと 我々金属ま僕らは僕はあの金属材料であの え教育を受けた人間なんですけれども今で も金属材料を開発しようとしますとそう すると例えばあのえアルミの中に銅を どんどんどんどん入れていってそれででき たのがえっと朝長ジュラルビンっていう あのゼロ線がものすごく性能が発揮できた のはその朝長ジュラルミンを日本が当時 秘密に開発したからなんですけどもそう いうこうパーセンテージを少しずつ変えて いくことにて実験的に作ったという作ると いうのが金属材料の開発のメインの ストーリーですがえっとそれをですね20
年ぐらい前からコンピューターの中でこう いう設計ができないかなかなかもう新しい あの開発ができなくなってきてるので コンピューターで置き換えられるんじゃ ないかていう話がトライが始まっていまし たで10年ほど前にえっと国プ国の プロジェクトが始まりましてえっとつばの あのニムスっていう研究所のところに今 300人ぐらいの研究者が5年のやつを 10年え2回2期を走ってえっと300人 ぐらいの研究者が研究してるんですけども 2期終わった段階もうすぐ終わるんです けども2期終わった段階では金属材料は 残念ながらまだ開発できていませんそれで もまだ第3期をやろうという計画があり まして我々もここについては今いる学生が 世の中に出て活躍する頃には間違いなく これが実用化されるという風に信じており ますのでこれをやるためにここに情報系の 先生方を入れてこの科学応用科学情報材料 まここ金属額と言って言ってもいいんです ですがこの人たちは入れたような非常に 後半なあの学部を作ろうという風に考えて いますこうなるとここの融合をどうする かっていうことは非常に重要なんですけど もま今例えば燃料電池ですとかえっと計算 力学とかをやってる先生方では例えばあの 情報理論とかモデル化をどうするかみたい な話がとても重要であのしぎを削ってる とこなんですがそこに例えば情報系のAI の機械学習ですとかあるいはビッグデータ の使い方だとか数学モデルとかを入れ込ん で全く新しい提案をできるのではないかと いう風に今期待してまあのスタートはです ね今これそれぞれの人たちが毎日お茶飲み をしながらいろんな議論をしているという ところから始まってましてま我々非常に あのなんつうんですかねあのどうなるか 分からないけども楽しみにしながらまこう いうことを始めているまそういうあの投資 もしているというところでございますで次 があの今度は教育についてなんですけども 新しい学部作りましたので文科省からもう 新しい教育をするんでしょうねって いろんな話がされていますまず最初にお話 するのはあの先きお話ししましたように 金属応用科学を入れた非常に広いところに 情報まで入れてそれでえっと新しい計算機 を使って材料開発を目指していくま マテリアルズインフォマティクスて言って たんですがこういう教育をするということ になりますでこれはまだ先ほど言いました ように実現もできていないものを教育する というのは教育って大体できた後のものを テキスト作って教育に当たるのでできて
ないものをあのやるということなのでま 間違いなく日本発の系統的な教育をする 初めての学部ということになります大学と いうことになりますで2番目がえっと材料 エネルギーという名前もありますので エネルギーの教育をするで特に材料工学と いうのはえっと作る時にですものすごい 大きなエネルギーを使いますのでこれが大 問題ですですからここに関してですね えっと今国際的あるいは国内的な状況も 含んで系統的なエネルギーってどういう風 に考えなければいけなという教育を始めて いますこの教育に当たっていただくのは 電力研究所でえっとえ今日本のえっと第6 次の5年計画のエネルギーあの政策が作ら れたんですけどもそのあの1番あの基本の ところを作ったその人にえっとこれをお 願いしていますで今3つの授業を担当して いただいてるんですがその人と話をしたら その人は今えっと例えば現象工学化とか そういう本当のエネルギーの問題のところ とかでも授業してるんですけどもこんなに あのすごいいっぱい抗議させれたのは 初めてだって言われて系統的な事業っての はそんなにやってないのってつったらいや うちオタクだけですよって言われましたの でこれも日本初めてでそのエネルギー教育 としては本格的なエネルギー事業をやっ てるんだという風に認識していますでもう 1つがこれ米国流のアントレプレナー シップ教育って書いてあんですけども アントレプレナーシップ教育というのは えっとベンチャーの学生を育てようとして あの文科省が今どこの大学にも必ずやり なさいていう風に求めているところです それでえっと我々のところもそれをやろう と思ったんですけども国立大学の中で ベンチャーの数が1番多いのが東大でした ので東大のこのアントレ取引っておられる 宮脇先生という先生にえっとまあの学長が お知り合いだったもんですから特にお願い をしてえっとやっていただけませんかと いうお話をしましたらそしたら東大を含め 今やっているアントレプレナーシップって いうのはあのその先生がアメリカの大学で アントレをやられてきてそれでヘッド ハンティングされて東大に来られた先生 だったのでアメリカでやってるような アントレが全くできていなくて不満に思っ てるせっかく新しい学部を作るのであれば 我私のやりたいようにや一緒にやりません かっていう支えを受けましたで私も分から なかったのでどういうことでかて言ったら ま学生のあるいはこれ教員のと置き換えて もいいんですが持っている技術とか知識を
いかに社会実装するかを考え続ける能力を 見つけることがアントレプレナーシップで あってベンチャーを作るための教育では ないんだという風におっしゃいましたま ベンチャを作るのに直結もするんですけど もですからそういうことをやるための授業 をやりましょうって言われたのでまじゃあ それをやりましょうという話をしています でその先生もいろんな大学あるいはその 日本だけじゃなくていろんなところでこの アントレの教育されてるんですがこんな ことをやるのは初めてだとおっしゃいます のでま我々としては非常にユニークなもの をやってるというそうそういう認識でおり ますまそれでえっとその話をですね実は あのこの秋にえっとちょっと大手の企業を 回ってですねまあの学生がそのうち就職を するもんですから新しく作ったえっと学部 で認識していてもらわなければいけない まだあまりえっとその大きなあの見解企業 とかにはあの連絡をしてないなということ で回ってみましたそうしましたら意外な ことでまこういう授業をやってそういう 学生を育てますのであの就職の際は よろしくお願いしますねてお願いをした わけですけどもで担当したのは人事の方な んですけども人事の方からもう予想外の エールをいただきましたどういうこと かって言いますと えっとどういうことかって言いますと えっと今ですねあの企業はですね多くの 企業がAIだデジタルツインだDX4.0 だって色々言われるもんですからそれを 使ってその新しい産業を起こさなければ いけないってことをものすごく考えてい まして投資もすごい意欲が高いんだけども やってみるとあまりうまくいかなという 状況が片方にあるで人事の方にには有力 大学の情報系の学生をど必ず取れという 命令が来てでま有力な大学もありましたの で相当取ったみたいなんですねで取ってみ たら何が分かったかと言とこれらのその 情報系の学生さんはそのこういう技術に 関してはものすごく高いしプログラミング 技術もあるビッグデータの扱い方もえては いるんだけどもえでこれ取った会社は製造 の会社なのでじゃあその製造のラインの ところにこれをどう使うか考えてく れっていう風に言ったらですねそんなこと やったことがないという風に皆さん言われ てで何をするか教えてくれればやるぞって いう風に言われたとでつまり工学応用の 経験がま他の学部に比べ学科に比べても ないということがはっきりしてきたので 人事としてはどうこういう人を増やすん
じゃなくて情報の工学応用を捉えしたよう な人を欲しいそういう人どっかにいないか と思ってたんだけどもこのこういう インフォマティクスというのは情報の工学 応用という演習ですかていう風に言われた んで私もそういう風に思ったことはないん ですがまあそうですねって言ったらそれは 是非欲しいですねというそれはすごくいい 教育をされてますよっていう風に言われて ははあなるほどなってちょっと変な話です けども思ったところです2番目の エネルギー教育につきましてはま特にあの えっと材料制御の像のところはエネルギー がそのすごく使うので製造ができなくなる かもしれないというそういう器具を皆さん 持ってますのでまこれについては予想した 通りなんですがエンジニアとして不可欠な のでえっとエネルギーの専門家を育てて くれとそうするとあの我々も在歓迎だと いう話はしていただきましたさらに アントレプレナーについてあの色々ご説明 をしたらですねやはりあのえっとこの多く の企業でもう実際に新規の事業のあの探査 の中でまこういうことはやってるわけです ね日常的にであとはあの新しいえっと企業 内でベチャを起こすような省令も色々やっ てるんだけどもなかなかうまくいかないと いう話をされた後でこの事業のとこでなん か問題起こってますかって言われたいや 学生がこういうところでいるの悩んでる ですねって話をしたらばえっとそしたらば 全く同じことがこの最初にやらせる時と 必ずことが起こるとでそれを学生の時に 経験した人っていうのはこれはすごくいい ねというようなお話をしていただきました まこれがあの複数の会社がみんな同じよう なこと言われたのでま我々としては ちょっと僕はちょっと驚いたんですけども まそれでこの授業の持ち方というのは大学 の目線で全部考えただけなんですけども 企業回ってみて本当にあの教育方針のま あの方向性っていうのは世の中が求めてる 方向で正しいなという風に認識したところ ですでえっとこの7月にですね岸田首相が 然あのえっとえっと島根大学に来られる ことになりまして何に来られるのかと思い ましたらこのアントレを見たいという話で 来られましたでアントレは先ほど申しまし たように文科省が全ての大学に対して求め てるところなのでまこれを文科省が非常に 興味持っていただいてるっていうことはま 非常にこれも心強いなと思いながらえっと 進めているところですでえっとじゃあ アントレて何をやってるかって話なんです けどもちょっとだけお話するとこれ今1年
生しかおりませんので1年時必死あこれを あの取らないと卒業できないで通年です から前期と後期と1年間かけてやる授業 ですでえっとこの全教員の半分ぐらいの 先生がやつのテーマ今やってる研究の8つ のテーマをここにあげてでこれを今86人 定員いますので5人ずの17チームに分け てそれぞれのチームがえっと1つずつあの ま2つずつなんですけども取ってあのあ えっと2チームずつがここを担当するん ですが1年間をかけてえっと企業事業化を 提案していきますでま最初にどういうあの アドバンテージを持ってるかこの先生方が 持っているでどういう対象に向けて事業を するか最終的に収支決算どうかみたいな ことまでやって最後にここで発表会をやっ たんですけどもその発表会を県の方 あるいはそのえ関連のある社長さん会社の 社長さんとか呼んで評価していただくと いうような事業をやりましたで2年生3年 生になりますと今度は必死ではなくて選択 になるんですけども今度は企業の一緒に あの興味持っていただいてる企業の方から えっとお話を聞いてでそれをこうあのえ フィードバックするような事業とかって いうのを考えておりますしてまあのこう いう話で進めていきたいなという風に考え ているところですで次は研究についてなん ですけども研究で求められていますのは 一言で言うと産業進行しなさいという ミッションでして大学にはちょっと身のい 実は仕事になりますでただ我々としては ですね従来の工学部でも一歩進んだ もちろんあの基礎の研究とかはやるんです けどもそれに加えて共同研究をベースにし てえこういうこう社会に貢献しましょうと いう話をま知っていますえこれは普通通常 のところがやるとこなんですがそれに加え てでえっと意欲ある企業を対象にしてもう 少しこのえ産業進行に至るような話ができ ないかという捉えを今しているところです 具体的に言いますとま意欲ある企業来ませ んかというえっと大学教員と共に新事業 あの模索しませんかという呼びかけを一応 今えしてもらっていますえっと基本的には あのあの島根県の企業中心に島なきの方で 声かけをしていただいてるんですけどもま 例えばえっとモデルケースとしてはA社と いうのがあってえっと今までは例えば委託 生産中心で開発とかあんまりしてなくて ちっちゃな会社でで会社の強みはあるんだ けどもえっとなかなかその次の開発がない ので新しいビジョンが描けないという ところにプラスアルファなんかをして イノベーションを起こしませんかという
不要な話でこのプラスアルファについては 例えば大学の先生の何かをここにプラス するとうまくいく可能性があるかないか ないところもあるかもしれませんでそこで 例えばビジネスプランを提案していただい てまここでやり理をするんですがその モデルについて正しいかどうかってのは 大学先生不得意なとこですからあの県の方 とかと色々こう算してコンサルティングの 企業に入っていただいてブラッシュアップ していこうあるいはデータが取る必要が あれば若手の社員に大学に来てもらって そこで実験をしてデータを取ってみようと いうようなことである程度マッチングが つけば審議授業の確実に向けて活動に 入ろうとで場合によったら外部資金を取ら なきゃいけないんだけども例えばネトの 申請みたいなものをこんなちっちゃな会が できるかというとそんなハードルがあった できませんというのであれば大学の先生 あるえば県がこの申請書を書いてあげる もしくはその申請書を書く時にデータが 必要なんだったらば大学の教員がこれ 取ろうとでそれで書いてもしもこれがあの うまくいけばですねま迅速にあの事業が 立ち上がるかもしれないもし事業が 立ち上がればちっちゃい事業でもいいと 思うんですけども若手の社員が開発を経験 し会社も事業の立ち上げを経験すると結局 あの開発ができて成長があのあの持てる ようなそういう企業にま生まれ変われるの ではないかそうすれば若手の モチベーションも上がって求人も今困っ てるかもしれないけどもそういう企業だっ たら入ってくるあの人がいるのではないか まうちの卒業政も含めてなんですけども そういうことをま考えたわけですでそれで ますぐ1回ではそういうことできないかも しれませんが何回かこれを回せば間違い なくその企業返の体質が変わるようになる のではないかというのがま期待でござい ましてま大学でもですねどのぐらいできる か分かりませんけどもこういう産業の火星 化にえっと起用できるのではないかという 風にま今ちょっと考えているところで ございますまいずれにしましてもえっと 歴史を今背景にいたしまして新しい挑戦が スタートしていますで大学が地域の進行に いかに貢献できるかまこれ産業に直接って いうのはなかなか難しいんですけどもそう いうことが1つは問われていますしもう1 つは島根大学が先ほど申しましたように 材料研究に特化していきますのでその拠点 と本当になっていけるのかっていうところ は学術の面で言うと求められてるでこれに
対してま我々はまちょっと楽しみながらと いうか私のの立場はそうなんですけども あのうまくいけるようになんかあの頑張っ ていきたいなという風に思ってるところで ございましてま皆さも温かい目でですねご 協力とご注目えっとあるいはもう1つ言う ともし周りに受験生の方がおられましたら この情報を伝えていただけるととても ありがたいなと思ってるところでござい ますあのすいません以上でござい ます三原先生ありがとうございまし た地域に世界に貢献できる学島根大学の 新たな取り組みをご紹介いたしまし たさて皆様いかがでしたでしょうかえ古代 出雲文化フォーラムえイレブ本日は古代 出雲とビゴと題しまして様々な角度からご 紹介をさせていただきましたえそれでは 閉会のご挨拶を島根大学総務ローム担当 理事藤田達郎が申し上げ ます え皆さんこんにちはえ藤田でございますえ 今日え小沢出雲文化フォーラムイレブと いうことでえ最後までご清聴いただき ありがとうございまし た え私この投資ですからあの300人以上 相手にお話をした経験はもちろんあるん ですけどもあの最初のお二方え非常に話が え上手で えそれを受けて色々あと話をするのが大変 だなとえ趣味を思っておりますえましかし あの主催する私の方立場でございますが あのお話え改めてこの場で聞いてですね 私自身も大変ま刺激になってというか 楽しい時間でございました皆様にとっては いかがだだったでしょう かでえま私どもとしてはその島根の地域と かあるいは島根大学にえ関心を持って いただくま機会としてこの時間ですね是非 えしっかりえ届けるべきものを届けたいと いう取り組みにしているつもりですまそれ も含めてえこの取り組みの趣旨については 冒頭学長の方からえお話をさせていただき ましたえ私の方はあの少しそれを補うと いう形にえなればと思いますがええこの間 のえ本学島根大学の取り組みま置かれた 状況を踏まえたえ皆さんにえご理解 いただきたいことをえ話をさせていただき たいと思いますでまずですねあの今年度 ですがえ島根大学とえ旧島根医科大学統合 して20年という年を迎えておりますで そうしたえ取り組みえそうしたこともあっ てですね新たなその島大学をこれから 気づいていくえこの時点でですねえ皆さん のお手元にえこのえクリアファイルをえお
配りできてるかと思いますでこの1番下に ですね島大学で新しいロゴをえつけており ますえ少し控えめに えつけているところですがえ実はこのロゴ マークの趣旨はですねえ合わせてあの ボルペもけしてると思いますがこの島根の 市平の市ですねこれをモチーフにしてえ3 ボのラインをえ学生教職員 ステークホルダーのま共同に見立ててえ その上で人と自然え教育と研究あるいは 地域と世界というあるいはまその他様々な 要素をですねま組み込んででいくという そういう趣旨ですね組み合わせて編み込ん でいくということでえこうしたものを しっかりえ大学としてえ受け止めて皆さん と一緒にえ前へ進んでいくという趣旨でえ このロゴマークを作ったものですまそうし た思いをですね是非皆さんにえ一緒にです ねえ考えて受け止めていただければ ありがたいなという風に思ってますで 合わせて え先ほど紹介のあったえ材料エネルギー学 部ですね今年度スタートということでま 我々としてはえ次の10年20年という ことを踏まえてですねあ見通してですねえ さらに前へ進みたいという風に考えている ところでございますでそうしたあのま 取り組みについてはこれも皆さんにお届け しておりますがえ島大学統合報告書 2023という資料ですねここにえ今大学 としてえ取り組んでいることあるいは是非 えこの島根大学の取り組みでえ理解して 欲しいポイントになるところえこれをえ まとめてできるだけ読みやすいようにと いうことで準備したつもりですがえ察しに まとめてお届けをしているところですので え是非おめとしをいただければと思い ます合わせてえ島大学支援金 というのもえ用意してお配りをしており ますこれはま学生への支援ということでえ ま是非皆様にですね大学とで過ごす学生 たちに様々な手を差し伸べたいという我々 の思いをですね支えていただくということ でご寄付をお願いしたいと思います ちょっと長くなってしまいますがちなみに えこの間の特徴ある取り組みでマスコミ なんかに報道されたものとしてはあの園 弁当という取り組みをしましたえコロナの 後まコロナも影響まだ残ってる時期から ですがえま物非常に上がって電気代なんか も大変な状況になって学生が食事を削ると いうことをやらざる得ない状況があちこち から聞こえてきましたでせえ政教で弁当を え作ってもらって400円分をえこの寄付 でえ負担してですねえ学生に100円で
売るという そういう取り組みですでこれについては あのマスコミ含めて非常に大きく報道 いただきましたし学生も非常に喜んでくれ た取り組みでえこれを継続して続けていく という風なこともやっておりますまこうし た形で使いたいということこれだけでは もちろんないんですがえ是非協力をお願い できればという風に思っておりますえ最後 になりましたがえ改めてえ今日ご参加 いただい最後までご清聴いただいた皆様に えお礼を申し上げますえまたあの今回大変 また政協でございましたえこの取り組みに ついては え島根県広島事務所の皆さんに大変お世話 になりましたあるいはえ島根大学の同窓会 広島の同窓会の皆様にも えチラを配っていただくというようなこと を含めてえご協力をいただいたということ でございますでまたあのご隣席いただき ました来賓の皆様にもえ最後までお 付き合いいただきましたえそれから講師の 皆様にも大変あの興味深い楽しい面白いお 話を聞かしていただきましたえ皆様にえ心 から感謝のえ意をま表しましてですねお礼 を申し上げまして私の方からの挨拶をさせ ていただきます本日はどうもありがとう ございまし た [音楽] ありがとうございましたお渡せいたしまし た資料の中にアンケートおよしがござい ますえ是非ご記入いただきましてお帰りの 際出口におります受付スタッフにお渡し いただければ幸いでございますそれでは どうぞお忘れ物などございませんようお気 をつけてお帰りくださいませ本日は誠に ありがとうございまし た H