シンポジウム「吉村順三の建築 ―アメリカと日本― 日本編」(期間限定配信)

シンポジウム「吉村順三の建築 ―アメリカと日本― 日本編」(期間限定配信)



建築家・吉村順三の眼(まなざし) ーアメリカと日本ー
シンポジウム「吉村順三の建築 ―アメリカと日本― 日本編」(期間限定配信)

0:08 ①基調報告「生活の芸術」としての空間を求めて 
    吉村順三とレーモンドが守り育てようとしたもの
    講師:松隈洋(神奈川大学教授、京都工芸繊維大学名誉教授)
51:20 ②余禄 本展覧会へ至るまでの経緯 さまざまな機縁が積み重なって 1980年~
    講師:松隈洋

1:14:35 シンポジウム収録映像 
     講師:益子義弘(建築家、東京藝術大学名誉教授)
        林寛治(建築家、吉村順三設計事務所元所員)
        藤井章(建築家、吉村順三設計事務所元所員)
        大澤悟郎(建築家、猪熊邸継承者)
        松隈洋(神奈川大学教授、京都工芸繊維大学名誉教授)

3:37:31 追加収録
     講師:林寛治(建築家、吉村順三設計事務所元所員)

配信期間:2024年3月11日(月)~5月7日(火)18:00まで

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展覧会情報:
建築家・吉村順三の眼(まなざし) ーアメリカと日本ー
2023.12.22 fri ー2024.3.28 thu
日曜・祝日
平日10時~18時(土曜・最終日17時まで)
会場 ギャラリーエークワッド(江東区新砂1-1-1)

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公益財団法人ギャラリーエークワッド/
https://www.a-quad.jp

えっとそれでは始めたいと思います見地 吉村純三の真しアメリカと日本店の基調 報告としてえ神奈川大学の松が発表させて いただきますまタイトルを生活のゲズとし ての空間を求めて吉島純三とレーモンドが 守り育てようとしたものということにし ました今回の展覧会を通してですねま吉村 がレモンと共にどんなことを考えて何を 気づこうとしたのかってことをお伝え できればと思い ますま吉村純三は1908年に生まれて 1997年に亡くなってい ますえ吉村にとって2人のまあの死となる 建築家がいたことがまず大変重要になり ます1人はあの私たちも あのほとんどの方がご存じないと思うん ですけど山本哲郎という人ですね山本哲郎 は早稲田大学を出てえアメリカ屋という ですねあ今でいう設計施工の公務典のよう なところで住宅の設計をやりながら編集者 としても活躍した人でえ実は早稲田大学で はあの1学年下にえっと村野東がいたりし てですねえ村野と山本は実はあの若いです ねえ先生として弱にした和次郎に支してた ようなあそういう間柄でしたそれで大変 興味深いんですけどもあの吉丸純三はです ねまだあの本学的に建築の設計を学ぶ前に ですねえ17歳の時にこの山本が編集して 出していた住宅というですねほぼあの住宅 雑誌の先駆けのような雑誌が出ていたん ですけどえこれのあの小住宅設計っていう もののあの応募の募集の記事を見てですね えこれに応募するんですねでこれもちろん あの紙の上だけでのコペですのでただ資格 も特になくてですねえ誰もが応募できる ようなそういう簡単なものだったものです からまだ建築を学んでいない吉村純三17 歳がですねこれを見てえ応募することに なるんですねあのこの時あの住宅記者と 書いてありますけどこの編集者として山本 もあの震災に加わっていまし たまあただこの17歳で応募するにはです ねあのものすごい数のあのオブ案が集まっ て6082って書いてあるんですけども なんとそこにですね2つを応して2つとも 入選する1つが入線ですしえもう1つが加 線外加速ですねその2つにあのいきなり 優先してしまうんですねでこれがあの左側 が優先案で右側が線外加速に選ばれたもの なんですねまあの入は平屋建てで家作の方 は2階建てなんです ねで建築を本格的な勉強していない旧制 中学の学生がいきなりこれで入線と加速を 果たすというのは驚くべきことなんです けど

もあの山本哲郎が審査表の中にですねです ね吉村純三のことについて触れていてで ここに書いたの面白いんですけど私が選ん だのは当選案した方ではなくてあの家作の 方だって言ってるんです ねまあの全体の設計が何とも言えず素直 ですまそんなことをあの評価していたわけ ですねであのどうしてこれ山本が600 以上の案の中からこの吉原案を選んだ かっていうことは実はこの住宅っていう 雑誌を見ていくと興味深いことに気がつく んですけど実はあのこのあの募集がされる 前にですね2年ほど前に山本郎が左側の 空想の住宅案っていうのをですねえ実は 市場で発表していたんです ねで右側が山本が自分を選んだって言って いる家作の2階建ての案でこれ左右見て いただくともう一目瞭然だと思うんです けど吉村はですねあの山本に支したような ものであの山本の書いてるそのスケッチの タッチそれから平面なんかもよく似てます しつまり吉村はこの住宅っていう雑誌を 通してですね山本からあの住宅の設計を 学んでいたような格好なんです ねですからあのこれ晩年ですけどもあの 山本郎のことを吉村が振り返っていまして 山本郎は私を建築に導た人であると たまたま市上コベがあるのを見つけて応募 したところ1つが入賞1つはカに選ばれた 彼はロマンチックな少女たの夢を語りかけ てくれた私はそれ見せられて建築の道へ足 を踏み入れることになった私の最初の恩師 であり私が最初に好きになった見地家で あるまあの同じ時期に吉村はあの山本こそ ですね住宅の設計の本道を歩いた人で少し も古びていないってことを語っている ぐらいですね生涯やっぱり山本の影響を 受け続けたんですねそれでやっぱり あのなんかあの最初的にはその山本に会う 機会がなかったと言ってるんです けどあの1番あの吉前にとってあみになっ たのは多分このことだと思いたんですけど あの関東大審査の直後にあここの住宅を 取り始めたって吉村が語ってるんですけど まこの震災直後の関東大震災の特集号って のが出ていて吉野はちょうど15歳なん ですけどねここにあの震災地震の経験から っていう山本の文章とさっきお話した 今和次郎のえバラックの話っていうですね あのバラックの写真が載ってますけどもえ こういう記事が乗るんですねで右側が山本 の文章で左側がまあ河和次郎があの バラックの話っていうこういうスケッチを 竹のスケッチを書きながらエッセを記し てるんですねこれあの関東大震災でもう

大変悲惨なことが起きてたわけですけども 河和次郎と山本がここでどんなこと言っ てるかって言うとですねあの何もなくなっ た時に人々が今まで抱えてたものを失って 始めてですねえあをしのぐあの住宅を セルフギルドで作らなきゃいけなくなって その時に実はあのあの家を作るってどう いうことなんだろうってことを考え始めた あのそのことをなんか書きとめよとして あのあの文章を書いてるんですよねまこれ を多分あの吉少年も追体験したっていう 印象が強い ですでそんなことであの建築っていうもの に憧れてですね1926年に東京美術学校 に入りますただ当時入ったあ東京美術学校 ってのは岡田慎一郎大沢さんのス北村孝蔵 が教えていましてま当たり前のことです けど西洋化を目指すあの形でヨーロッパの 洋式建築をですねまあの模写したりする形 で教えるそういう時代でもあったわけです ねですから山本から習ったことと随分こう 違ってたわけですこれは少し後ですけども ま今国の重要座になって今でも立っている この岡信長の面メカのような建物ですねま 一生懸命教えてたそういう学校だったわけ ですよ ね でそんなあのまミス国に入ったばっかりの あの吉村純三がもう1人の死として出会う のがレーモンドでえっとこの アーキテクチャ2バていうですねフランス の建築雑誌にこのレイモンドの時定の模型 写真が載ったんですねでこれを見て吉島 さんは大変なことですけど東京って書いて あるから東京のどっかに残ってるんだろ うっていうことで探し回ってそれでこれに 見つけてですねでまたまたま あのレモとの付き合いがあるですねあの おばさんかなんかの紹介でレモンドに会う 機会があってそれでレモ事務所にえ水学校 に通いながら通い始めることになるわけ です ねあこれも決定的な出会いそれも吉村さん 自身があの高動力を持って引き寄せたあの 出会いだと思うんです けどそれであの今回の展覧会もそうなん ですけどもあの吉村とかレーモンドが何を 見つめていたのかっていうことは1番 そもそもから言うとですねおそらく レーモンドが初めて日本の地を踏んだです ね1919年の12月31 日この発来にした時のレーモンドが見た ものが決定的だったっていう風に思えるん です ねでレモンドは繰り返しその時のことを

記しているんですけど代表的なものが 1940年に書かれた言葉に残ってるん ですが1919年12月31日の日本到着 の夜横浜から東京までの道法権寺ある 名残りをとめた狭い村を車で通ったことを 私は決して忘れることができないまこれ 当たり前ですけど12月31日ですから 進行当選もして正月を迎えるために非常に こう華やかなあ締め飾りや酒が並んでいて ま陽気で単純な喜びに包まれていたって いう風に言ってるわけですよね で当然の方は車もそんなに走ってないわけ ですしま商店は道に向かって離たりですね みんなひしぎに座っていたそれから若い人 たちは楽しそうな季節の遊びにふけりとま 横浜から東京まであの車で行ったらしいん ですけどほとんど進めないほだったとで この時にその初めてですね日本のあの木造 の集落を見た時にまこの黄色書いたとこ ですけども私はその現代建築と呼ぶものが 日本では無意識に実行され行き続け守られ ていた建築の原則であり我々はその失われ た原則の知識を意識的に解させようと努力 してるにすぎないと気づいたのであるこれ やはり決定的な目撃をしたわけですね現代 建築つまり自分たちが目指そうとしてる 建築が実は日本の木造の集落の中でごく 普通に生活を作り上げていたそこに無意識 に実行されていたなんだ自分たちのやろう としてるのは今目の前にあるこの風景を 意識的に回復させようとしてることに過ぎ ないんじゃないかってですねまそう気が ついたレモンのいたんです ねですからこのことによってレイモンドは 実はフランクロイドライトに伴われて帝国 ホテルを作る女子として来したにも関わら ず早々にレーモンドから離れていくんです よねでむしろ日本から学ぼうということで を設立しますでなかなか今当時のものを あの知るチャンスは少なくあの現物として 見るチャンスは少ないわけですけどもま あの全国の街並保存されてる集をれるとに タの感覚を味わえると思うんですがま 例えばこういう写真なんかも残ってるん ですけどおそらくこういう場所をレモンド はこう目撃したわけですよねそれからあの レーモンドが見たものをはレーモンド1人 じゃありませんもちろんですからこのあの 1昨年亡くなりた渡辺教師さんていう えま芸評論家の方が記した幸よのおかって いう本がですねレーモンドが見たものをと 同じですねこれあの爆発から明治初期に かけて来日外交官あの商人たちがえ日本に 来た時にやはりレモ驚いたと同じくですね あの江戸っていうのはものすごく人工密は

高いし決してあの豊かではないカスの 暮らしをしてるんだけどそれが貧相に陥ら ずですねなんて人々がこう喜び見してあの 本当にこう楽しそうに暮らしているん だろうでその時にあの日本の木造の集落が 持っているですね非常に穏やかな人々を こうあの温かく見守るようなですねそう いう光景に彼ら感動するんですよ ね当時あの産業革命以降のイギリスはでは ですね非常にま都市が列化していたんで電 都市ってことで効果にどんどん逃げ出そう としていたこが日本にやってきたら江戸は ものすごい高密と住んでにも関わらずなん だここは電としそのものが今で生きてる じゃないかこの江戸っていう場所にって いう風に思ったわけですまこういうものも 同じものをですねレーモンドはやっぱり あの日本に来てあの体感したんですねで実 は大事なのは吉純三も両国で生まれていて まさにレモが感激したその場所で 生まれ育った体感した人でもあったわけ ですよね でこの熱め教さがそのことをちょっと 書きとめ取られてまその外交官たちが認め た外国人たちが認めた日本人の表情に 浮かぶ幸福感っていうのは当時の日本が 自然環境との交わりや人々総互の交わりと いう点で自由と理事保障する社会だったん じゃないか人々が自殺性を共に生きるため の交わりの空間が貧しいものを含めて地域 の全ての人々にれていた とでま渡辺さんにとって重要なのはですね あの昔のこの国が人間の生存をできる限り 気持ちの良いものにしようとする合意と それに基づく夫に工夫によって成り立って いたまそういうことをまあの当時の文献が 教えてくれてるんだって渡さん書きとめ てるんですけどまおそらくこういうものと 同じ質のものをですねレモは実は体感した んだろうと思うんですねそれで吉村はその 中を生きていたで実は私たち今この日本 っていう国が木造の国であるっていう印象 ほとんど持たなくなってるわけですけどで もよくよくこういう統計士を見るとですね えこの前のオリンピックの時ぐらいまでは 日本に立てられる建築の下半はですね木造 で作られていたつまりわずか反世紀ぐらい 前まではですね日本っていうのは木造の 文化がずっと続いていたってことことが 分かるわけですまその木造の文化の エッセンスみたいなものをネモは学びとり 吉村その中を生きていたっていうことに なるわけです ねはいそれであの実はあのレモンドのま あの仕事に吉村が参加してくことになるん

ですが先ほど話したようにあの吉村はあの 学生時代からあ東急別学校時代からレモ 事務所に行がない時は通ってたあもう すでにレモンドの所員としてえデスクを 構えてたわけですよねでこれがあの戦前に レモンドが出したえ1920年の独立から 1935年までをまとめた作品集が日本で 出版されてるんですけどまこれが大変興味 深い事実を私たちに教えてくれるんですね で多分この発行の直前の1934年頃だと 思われるこのレモンドたちが並んでいる 東京銀座の聖書館の屋上で撮られた集合 写真があるんですがえここに全ての主人公 が揃ってるわけです真ん中に立ってるレモ が46歳それからあの手前に座ってる一番 右端にいるのが一の人26歳ですよねで あの1人おいてここにマカ九が29歳それ から同年の女児中島がここに立っています それから前川の左側にいるのがですね戦前 の万当閣だったえ杉山正典さんっていう人 なんですねあのこの辺りが今回お話する 主人公になってく人たち ですで実は彼らが立っていた建物ってのは レモンドが1933年に春行さした銀座に ある強文官聖書館えっとこれ前半分が強 分館後ろが聖書館で実は一体の建物なん ですがえこれはレモンド自身の設計で今で も現存していますちょうど手前が銀座通り でえちょうど松屋デパートのハ向に今でも あの現存してるんです ねでこれがあの毎回事務所に残っている そのレモの事務所内の写真で多分同じ時に 撮られた写真だと思いますけどえレモンド が行ってえ手前に吉村純三がいてマイカが いてジジ中島がいるっていう形です ねそれからまああの今回あの杉山さんが 急増してた資料をいくつか展示してるん ですけどもえその中にですねま非常に貴重 なことにこのまさに聖書館でえレモとが 仕事していたあその時にレーモンド自身が 使っていた名刺なんかも出てきましたここ に東京聖書が銀座っていう風にちゃんと 書いてあるんですけれどもでこれなんで こんなこと紹介してるかって言うとですね この聖書館でこの名所を使ってレモが仕事 できたのは数年に過ぎないんです ねで実はこの作品集で面白いことにですね あのきちんと あの担当者の名前がこの作品集に表記され てましてこの右下に担当吉原純三って入っ てるんですが1931年にえトレッドソン 氏の別荘ということでえ日光にできるん ですけどこれがですからあの吉村純三が 23歳え東京密学校卒業して正式で令住所 の所員になったその年にしているので

つまり学生時代に吉村がこれを説教して たってことが分かるわけですねで実はこれ 今でも現存してまし てまさにその吉村純三の第1作がですね あの日光の図書号のすぐ近くにあの今でも 残っています本当に春行当時と変わらない 姿として残ってい ますそれからこれも同じ年にできたあこれ は多分現存してないと思いますけどここで も建築担当吉村純三ってちゃんと明記され ていましてえレモンドかあの日本の木造 住宅から学ぼうっていうことだったわけ ですけど実際にそれをこう手を動かして 設計担当していたのは吉村であるですから あのかき屋根とですね木造のこの小組の 荒しになった室内が見えてますけれども 一方でまあのスチールパイプの椅子と机が 使われてるあたりがま日本人は多分やら ないな造であることが分かり ますそれからこれ興味深いんですけども あの実は1930年にあのコルビジェの元 から帰国したマイカ国男がレーモンド事務 所に入ってえグループに加わるわけです けどもえやはりレーモンドもあのそういう 白いモダニズムの建築を自分でもやろうと したんでしょうかこれで金コンクリト像 ですけどもあのなぜか担当は吉村純三なん ですねであの白いあの箱のような建物で あのコジの特徴である横連想の窓が付い てるんですけどもちろん当時はこうスチル の差してこういうあの横に繋がってるの 差しを作る技術がないもんですからあの 木造の差しがついてるんですねで面白い ことにその木造の差しが痛まないように あのここに切りけのちっちゃなひしが付い てることが分かりますでこれ2階の部屋だ と思うんですけど畳が引いてあってそこに スチューのパイプの机が並んでい るっていうちょっと不思議な造形になって ますそれであの実はレーモンドは1933 年にですね軽井沢に自分の別荘夏の家を 進行させるんですけどもえっとこの 1933年の夏の家がですねおそらく レモンドが1920年に独立してですね 10年ちょっとかかってえ日本から学んだ ことをあの初めて自分の別荘であるから こそゼロから作ろうとして作った仕事なん ですねでまあのここにも書きましたけど実 はこの別荘自体もわずか4年で売却されて しまいますでこれはあの一されてあの去年 ですねあのレモンドの仕事としては初めて え国の重要文化財に指定されるというです ねまある意味じゃ非常に節目になってる わけですけどなぜこれが十分なんだって いう風におかげなる方も多いと思うんです

けどやはりあのこの後話しますけどもに とってですねこの夏の家で体感したこと あるいはそこにいた吉村や舞川やえ杉山や あ常時の中島が感じたことはですねかなり 決定的だった印象が強いんですねでこれも 杉山さんの白の中にちっちゃな写真が残っ ていたんですがえマイカクを映した写真が ありました29歳のマイカがこの夏の家に いたことが分かるわけです ねでこれは あのレモンドが日本の建築木造の建築の良 さとして2つのこと言ってまして1つは ですね日本の木造建築っていうのは構造 部材が全て表されているどこにも隠隠して なくてですね構造体そのものが露出されて 仕上げをせずに露出されていてそれ自身 非常に構造的に美しく見えるっていうこと ですねそれからもう1つは日本の建築って いうのは開口部を開け放つとですねえ建物 の中室内と外の庭の部分それが一体1続き の空間になる素晴らしい解放性を持ってる んだまさにこの写真に現れてなことです ねでこのテーブルとか椅子とかも全てあの このために失えられたもので実はこの夏の 家の初めてのあの食事をした時のことを レモンドが興味深くあの綴ってる文章が 残されてるんですですねある日私たちは 自分がもし本当に機械を掴んだ時何が できるかを試そうとして自分の家を立てた 家は山の上に建てられた左目は近所の森 から来た軽石のコンクリートは火山から そして腕引きの大工が手に入った建物は 率直にまた単純に解決されていった何事も 実際の目的にかなないものは省かれた材料 の質は金物たり尊重されたが1つだけ大変 な贅沢があった空間で あるこの時にレブのがやっぱ体感したこと が重要だと思うんですけどね私たち自身 生活に直接必要なものを除いて何も持た ない喜びを身にしみて悟った大工は残った 残材や砂やわによって数子の椅子と テーブルを形作った私たちは隣村まで行き 期の蜂と皿数子の壺と鍋とを求めたその それから暖炉でえパくを綺麗に燃やし テーブルを置き食事のために座った多分 先ほどの写真がその時の写真だと思うん です けど私はこの最初の食事が忘れられない 新しい木の香り新しいひのき板で作られた 清潔なテーブルその上にはグレーと赤の 陶器戸が引き込まれると全面平原と遠くの 山山は重なり私たちの前に広がって自分の い場所の一部のようになったたちは1つの 空間の中に包まれていた空間は見事な構造 は仕切っていたおそらくこれを体感した

ことに多分この夏の絵を作ったことの 大きなみがあってまあの先ほど話したよう にわずか4年で売却することになって しまうんですけどもこの夏のこそですね この後レモンドや 吉村中村中島それからマカがですね やっぱり求めていく1つの原点なんです ねですか面白いことにあの先ほどまでの あのこの夏のの前まではですねどこか なんかあのどこから持ってきたようなえ コジの真似をしたりですねそういうこと だったんですけどこの最後の吉な担当作品 があの34年にできるんですけどこれを 見るとですね今の夏の家のモチーフと 同じくですねかなりこう削ぎ落とされた 最小限のものでできてることがあの見て 取れるわけ ですところがあのねモンドはアメリカ人で 日米関係の悪化によってですねこうやって 始められたあの仕事がですね途中で中断さ れていくことになるんですねで戦争へ向う 時代の中でそれぞれのレモも含めて人たち が非常に大きな歴史的な転換点に巻き込ま れていくことになり ますでレモがの戦前に最後に手掛けた 大きな仕事が東京女子大学のリハの行動で これが現在の写真なんですけどもあの杉山 さんの資料の中にですねこれの春工時の あの写真が残っていましたま下見て いただくと分かる通りコンクリートの打ち それからあのちっちゃなあのえっと窓の あの飾り窓は全部プレイキャストの コンクリートで工場で作られたものなん ですけどまこういう状態で東京女子大学が 1つの感染を見るわけですねで共有会こと にあの1番上の写真なんですけど あのちょうど完成したにですねこの礼拝道 の屋上に上がって撮られた写真でえ左側に 吉村純三右側に杉山が釣ってるんですねま これ多分対策だったと思いますけどもあの 下の写真はあの広が立ってるの通りですね ちょうどコンクリートがあった上等式の時 の写真だと思いますで右側はその今でも 残っている螺旋階段ですねでこれが進行し た1937年なんですけど1938年に あの大きく当時の雑誌に発表されるんです けど実はこの2人がある思いを持って立っ てるよう僕に読めるんです があの実はレーモンドはこの時にもう日本 離れていたんですねそれからこれも興味 深い資料がレモンド事務所に残ってるん ですけどえっとレモンドがあの同じ時期に 手かけて最後に完成したのはこのえインド に作られた総員の宿舎でこれはあの太戦争 の42年に行してるんですけどこれの基本

設計をやってたのが実はマカクなんですね 独立の直前ですけど もちょっとあのコルビジェのあのピロティ あるいはあのルーバが使ったですね コルビジェ風のデザインがされてることが 分かるんですけどえ実際にこういう形で 進行してこれは僕は現地を確認してないん ですけど現存してるそう ですそれで実はこのあの現場に常駐したの がジジ中島なんですねでジジ中島1934 年にえっとレモンド事務所に参加しますで 志願をしてですねこの総員の現場に行き ますただあのこの時にあの日中戦争が 始まってですねえ一旦1939年に日本に 中島帰ってきてで独立した毎回国の仕事を 手伝った後にアメリカに帰国するんです ねで実はもう1つレーモンドが戦前に出し た図Discがあってこれはあの詳細図を まとめたものなんですけど1938年 え先ほどの作品集より3年後であのでこれ はあの吉村純増のあの森の中のの設計を 担当された平尾さんから僕が聞した話なん ですけどこの経済の図版ですねディテール 州のあの図面の作成をしていたのは吉村だ そうですですから吉村さんは実際にこう レーモンドの元で仕事をしながらですね こういう小細ズまで起こせるぐらいえ様々 な仕事をやられたことが分かり ますでそれがあのその表紙がこういう形に 乗っていてですね上にレーモンドと野の 名前があってそそのすぐ下にあのチーフ だった杉山さんの名前がありますでずっと 下折っていくとここに吉村純三がいてです ねでその下に天野さんと石川さんあの東京 美術学校の後輩としてこの2人が入ってる わけですけどえ実は35年にマカ国が独立 してのでマカ国は名前がありませんそれ から1931年に常智中島インド経由でえ あのインドに行っていたこともあったん でしょうかここにあの中島の名前がないん ですねでこの 1938年にはもうすでにえレムが アメリカに帰国していたんです ねでま日中戦争米のですね太陽戦争の前夜 で日本とアメリカの関係非常に悪化したの でレモ仕事を失うんですねで結果的にどう いう形であの所員たちを残したのか ちょっとあの非常に難しいものあったよう ですけど1937年の12月にあの日本 離れてですねインドの総員の現場から ヨーロッパのチェコに行ってあの家族に 会った後えアメリカ合手国に帰国します それで39年にですねニューヨークにも 事務所があるんですけどもどうもそこじゃ 仕事はうまくいかないつまりあの東京と

同じでですねニューヨークでは落ち着いて 仕事はできないということでえペンシル ベネ州のフィラデルフィアの郊外にニュー ホープって場所があるんですがえク川京都 経験なキスト教の信者たちがあの切り開い たですねそういう農場があってえそこを 買い取ってえレモのが事務所を作るんです ねでま あの今回の展覧会でえ田中敦子さんが調べ られて報告されてたようにまレーモンドは あの日本の関係の仕事を受け取ってですね その仕事のためにえ翌年1940年の5月 にですね吉村を呼ばないと仕事ができない ということで余名するわけです ねでその頃に常時中島はあの自分のあの 故郷のシアトルで家具の公募を設立します ところが1941年にま12月のあの現地 時で7日日本では12月8日ですけどもえ 太陽戦争に突入してしまうことになるわけ でえ吉村は結局ですね1941年7月にえ 最後の帰国戦で日本へ戻ることになります ですからわずか1年たら1年ほどでえ日本 に帰国することになるんですねで一方その 戦争が始まった後に1番大変だったのは 常時中島でええ2月にですね大統領によっ て日経時が強制収容所にえ収容されること になってしまいますでまあのレイモンドは ですねあのこの常時中島の一家が強制 収容所に入れられたことを知ってですね 働きかけをしてえ1943年にですねあの 自分が美本引き受けになるから彼らを救出 したいということでえそれが認められて ですねえ2ホプの農場に預かることになる んです ねで実はあのえっとレモンドの展覧会を あのフィラデルフィアとあの神奈川県金 美術館のま連携みたいな形でやろうとした 委員会があってえそれの下見も兼ねてです ね2003年の10月にえ鈴木裕幸先生と か三沢浩さんあるいはそのレモンドの秘 だった5代子さんとですねあの何人かで あの訪れた時に僕は撮った写真ですこれが 1728年の農場のオヤを改造したえ アトリにしてた建物の2003年時点の 現況です本当に綺麗な建物ですねでこれは あの僕も詳しく知らなかったんですけど あのこの あの石像のですね このどかの建物をですねかなり大胆に開口 部を開けてですねあの中と外をつげ るっていうの改築をして作作った建物たん ですねですから中はあのこの時はあの商事 の紙が全部剥がされて星だけになってまし たけどもえ症状を入れたりあとベニアの 内装っていう形のまレモのあの日本から

学んだ形がこうに残されていましたそれ からま あのみレーモンドさんがですねあのここに あるような道具類とかあるいは暖炉の中の ファイヤドクと言われるですね日ななんか 置く着物の犬の形をしたこういうものを デザインしたしそれからレモンの合遺族 から聞いた話ではまあの強制水から救出し た中島はあの仕事をしてはいけないって いう風に言われていたこともあってですね あのこの行の補習なんかの仕事をあの続け ていたっていう風に聞いてい ますで本当にあのこういうなとかですね やはりク川京都経験のク川京都たちがカス の暮らしの中で気付けあげたものっていう のはあの例も日本で見たの銀貨とあの おそらく共通のあのある種の美しさを持っ てたんだと思うしあのなんか僕の印象だと そのニホプって場所がカザのような印象が あったんですねですからやっぱ同じところ を求めていたんだろうと思うんですねで実 は吉村さんが長谷川孝さんの対談の中でえ あの向こうに行った時のことをあの喋って おられてま あのアメリカ行ってもも旅行好きだからま よく旅行していたで良い建築には人間的な スケがあるってことを知ったとでニホプテ とか奈良みたいなとこだったでそこにある 民間非常に美しいんだとそれからあのマ なんかを入れるなやパンがですねあの非常 に実用的で美しいんですっていう風に語っ ておられてこれ結局あの気がつくことは 同じなんですよね長いあの文化のあの建築 の文化がま建築のいない時代が長いわけ ですけど生活の中で本当に厳しい自然環境 の中で生活を営もうために作り上げてきた ものが先年堂を加えてできたものって やっぱり非常に実用的だし美しいんだって いうことをま吉村も見つけていくわけです ねで今回本当にあの吉村高子さんがあのお 持のスライドをたくさん展示しています けれどもあのこれが吉村純三が実はあの 外科のカメラとですねコダックのスライド フィルムを使って当時40年1940年 ですねも80年以上の前に当時撮った スライドの写真の一部なんですね本当に あの昨日撮ったと思われるぐらいですね 生き生きさ写真が残されていましたこれ あの食事をしてる風景ですけど手前の2人 がのみさんとレモンドとあとスタッフです よ ねまあの本当にあの上ですからあの設計 だけをやってたわけじゃなくてですね牛か ま あの多分成功毒と言われるような形であの

仕事をしてたんだと思うんですけどねま こんな写真がたくさん残されているんです ねまあのなんかホームシックにかかった ような吉村さんの写真が残っていたり あるいはあのレーモンドの夫妻があのこの 風景を眺めてるような写真を撮られてい たりですねそれからやはりあの今言葉を 紹介しましたけどこのバンと言われるです ねあのまを入れる倉庫ですねこれが美し いっていう風に語っておられた通りですね この苗の写真をたくさん吉村さんが撮られ ておられてあのどうもあの生前はあの語っ ておらえたんですけどあのこのナの写真集 を出したいねって言葉で考えとらえたよう でま今見てもあの吉村さんが何にあの感動 したのかが伝わってくるんですよね内部の 写真なの残っていてま本当にあの吉村さん は本当に中学の頃からあのスケッチをして いろんなところに民家やあの茶室を実測に 行ったりしてるわけですから同じ目を持っ てこのホプのものを見ていたでこれも今回 あの展示ケースの中に紹介されてます けれどもえいよいよ日本に帰らなきゃいけ なくなった時にあのスケッチブックにです ね吉村さんがいろんな人に寄せ書きをして もらってるんですがそのあるページにです ねレモの本人が1941年の従来って書い てありますけどニューホープでってことで 書いてあるんですがこれが非常にその指定 の関係をよく表してるスケッチでここに出 てくるのがまあの元々のきっかけになった 東京のレモのの時定ですねそれからこの 時定を作る直前まであのこの同じ場所に 立っていた霊夢の時定を早めにあの動かし て別荘に使ったんですけどそこ早山の別荘 ですねそれから夏の家それからニューホー プっていうところでまレモンとかが次々 こう移り住んだりベストとして使ってた わけですけどでそこに必ずまるで囲んでる ように順お前はここにもここにもここにも ずっといたよねて俺の住にずっと仕事して たよね遠くま入北まで来たよねで日本に 帰ってしまうけど今度いつ君と一緒に なれるんだみたいなですねまそういうこと を書いてる素晴らしいやっぱりあの スケッチですよ ねでこれは あの常時中島のあのご足場のミラさんが あの中島の物にですね出されたあの中島の 作品集にやはりやっぱりこの中島もですね えっと収容所からあの救出されてあの 工場工房をですね作って仕事を始めようと するんですけどどうもこれがそのニプの 農場の中に残ってるミルク小屋あここが まず出発点こんな小さなところから仕事が

始まったっていうことらしいんです ねそれで実は吉村純三が1941年の夏に 日本に帰国するわけですけどその太陽戦争 が始まった後にまレーモンドがあの実は その非常にまあの歴史の怖さというかあの 暗黒差だと思うんですけどもまあの戦争に 協力するような形をするあの取るわけです ねでそれが実は戦後になって アーキテクチャフォーラムという建築雑誌 の1月後でまスクープの記事としてあのえ 出されるんですねプレハブターゲットって いう名前の記事ですでこれは実はあの東京 大空種とあの全国各地に落とされた 小難日本は木造の町が支配的なんだからあ それを爆弾で破壊するよりはえっと焼いて しまえということでえ消団っていう爆弾が 特別に開発されるわけですけどえさすがに その日本の加国がですねあのどういう風な あの材料でどういう風に組み立てられてる かっていう知識がほとんど当時アメリカで 共有されていなかったのでえそれをあの 砂漠の中に原寸大のカオを再現してですね え団の実験を繰り返したわけですけどその 時にレモンドがえ日本に詳しいということ で協力するんですねですから当然その畳と か茶台とか襖とか処理とかってものはない わけですけれどもえ畳なんかはわざわざ ハワイの両手から運び込んでまでえ忠実に 再現したでその時にレモンドが日本の木造 に詳しいということで協力していたって いうですねま非常にそのダークサイドの話 が残されていてえこのことのま解明っての は実はミサさんなんかも手掛けておられた んですけどまだはっきりしたこと分かって なくてですねいずれやっぱり明らかにする 必要があるだろうと思ってますでそんな レモだったんですけどもあの戦争終わった 後はですねあの逆に日本の復興を助けたい ということでえマッカさんに手紙を書いて までえサイラを果たすわけですねで再した あレモンドは最初に手かけた大きな仕事の リーダスダイジェストでま当時日本では 資材もないし建築制限もあって近クリの 建物誰も立てていない中にいきなりえ竹橋 のですね端にこうリーダスダイジェストっ ていうえアメリカの雑誌者の死者ができ ますでこれのやっぱり影響力ってすごく 大きくてあの単元建造の広島の平和記念 資料間あるいはま あのまここで実際に口もあの庭の設計と 彫刻を出かけるわけでいろんな意味で アメリカの文化が初めて形になって目の前 に現れたでレモンドが日本で学んださっき お話したように構造体が表しで え建物の中と外が一体になるですからこれ

外壁はなくてですね全面から座りあの インサイドアウトっていう風に彼は言っ てるんですけど建物の室内で質するえ人 たちがこの目の前にある光景の緑をあの手 に入れるために壁を作りたくなかったって いうですねまそういう画期的なデザインを するんですねであの存命中の方で言えば マキ文子さんなんかもこのリダ ダイジェストに非常にびっくりしたって いう風にお話されていましたでこのレモは あのこのリダダイジェストの現場が終わっ た時にあぶに自宅と事務所を構えることに なるんですけどこれがおそらく今お話して きたあの2年ほど前のあの夏とから始まっ たですね木造の理解それによるレモの スタイルの1つの完成系を初めて形にした 建物だと思うんですね非常にシンプルな あの片流れの屋根をあの2つ組み合わせて え高窓も含めてあの全面表示を貼ってです ね非常にシンプルなあのま交代を作って 作ったオフィースですよねでこれは オフィスだけじゃなくて彼らの自宅が ウイングに開かれていてまあの海とあの レモが食事をしてる風景なんですけどこの 場所は非常に好んだっていう風に言われて ますねでこれ見るとあのやはり建物の中と 外を一体にする夏の家で味わったことを かなり洗練させた形でここで実現してる ことが分かり ますでこれができた頃にまあの1つの キワドになると思うんですけど私は日本 からたくさんのことを学んだその中で最大 のものは生活の芸であったということです ねまこういう風なあのレーモンドが1つの 形を作っていくでやはりあの夏の家を 過ごした経験ってのがあのやっぱりずっと あったんでしょうねちょうど夏の家の30 年後になりますけども同じ軽いザの場所を 変えてですねメモは新しいスタジオを作り ますしほぼ同じ頃に吉村吉村で森の中の家 地震と別荘を作るわけですね ですからあの本当に1933年の夏の上 から始まったま2人のまあの日本の伝統ま それはか世界共通と見えると思うんです けどそういうものをあのここで見つけて いったでこれも印象的な写真が残っていて あのこれはあの森の中にの担当された平尾 さんから教えていただいた話なんですけど 1975年あの実はレはえ最終的に やっぱりアメリカのニフ区に戻りたいって いうことで えこの前年ぐらいの時にもうあの東京の 事務所を閉めてですね日本に戻るわけです けどもそれで日保に戻った例どにですね 1975年にあのその仕事があって吉村

さんが平尾さんと一緒にえ日本部に行った 時にあのませっかくだからレモンドのえ 自宅を建て帰ろうっていうことでえ最後 あの寄ったらしいんですねで平尾さんの話 でばまあの何のアポイントも取らずに いきなり行ったのでえはやタクシーの運転 手にですねもしもレモがいれば挨拶する けどもいなければそのまま帰ろうっていう ことでタクシーの運転手にちょっと見てき てくれということでえ先きに行かせてです ねでタクシーの運転手がえっと大きな丸を 作ってレモがいますよっていうことが 分かったでま吉村さんがえ玄関の方に歩い ていったらですね向こうからあのレモンド が出てきて で大声で順々と叫んでですねま2人が 抱き合ったっていうのを平尾さんがあの 辺りしたでその時のこの段落の風景で後ろ に立っておらのは平尾さんなんですけども え実はこの翌年にレーモンドが亡くなるん ですねですからこれがあの指定の最後の 再開っていう形になるそういう印象的な 写真が残されてい ますでまあの吉村さんが何を求めたかって いうことなんですけどもあのいくつか やっぱり大事な言葉が残っていてですね これはやはりあの吉村さんが両国のまご服 屋さんで育って関東大震災の前の木造の 文化の中で育ったっていうこともそうだし それからニューホープで目撃した クエーカー京都たちのこともそうです けれどもなんか建築の原点ですよねそれは 最初にお話て山郎や河和次郎が見かけた 吉村少年も見かけた関東大震災の後に本当 にこうあのバラックを作ってアをしのぐ ところからもう1回やり直さなきゃいけ なくなったあの庶民の人たちの生活を見た 時に感じたことでもあったんでしょうけど ま建築の1つの使命は人間が縦穴住宅を 作る頃から1番少ない労力で1番少ない マテリアルでいかに1番楽しいスペースを 作るのかっていう哲学があっ たおそらくあのこういうことを面々と続け てきたことの先にレーモンドが感激した 日本の木造の文化があったんだと思うん ですよ ねでこれあの吉村さん万年に語られている 建築私との出会いと生の中なんですけど 自分の建築家としてのあの歩みは自分が 振り返る時にですね生まれ育った江戸の 伝統を引く東京の下町の空間体験を無意識 の核としながらその措置の上に京都なら 京都などことを中心とする日本の伝統建築 から学び得たことそれから世界の異文化と の交換の中で進化させその原点を大切にし

て今日まで歩んできたこれが今今日ご紹介 したま吉村さん自身のやっぱり歩みその ものを語ってる言葉だと思うんですよ ねそれでこれは実はあの昨年実は残念 ながら亡くなられた平尾さんからですねえ 2014年におにかかった時にあの渡され たメモなんですある公演のためにどうも 吉村が作ったメモ書が残ってるんでま参考 までにこれあのあのあなたに渡しますよて いいたコピーなんですけど どうもですねこの内容から言うとですね 78年に岐阜で講演されたでこれはあの 身長者の火と水と木の歌という本の中に 収録されてるんで是非それ読んでいただく といいんですけどあの内容的にそれにとも 繋がってるようなのであのまこれ確証は できないんですけどその公園の目もじゃ ないかと思うんですけどまここにあの建築 とは何かっていうのは人間とは何かって いうことを考えることでもあるとかですね えそれからその健康能率安全心理光風こう いうものがで最も大切なものは心理なんだ これが基本なんだ よつまり建築が人々にどういう感情をこう 与えてくれるものなのかってことですよね で自分の経験から言え ばまあの本当にあの建築家の仕事は 素晴らしい営利のことではないしま年を 重ねてもできる仕事だし人々のための仕事 であるでその代わりその社会的な責任 あるいは地球的な責任がある よだから本当にあの難しい職業でもある よって書いてあってま両親を守ろうそれ からまあ医者とかまそういうのに近いと いう風に書かれていてで建築家としての 生き方は役者に近い非常に不安定だけども でも自分で決められる仕事でもあるよねて いうことでまいかにこう建築の仕事がです ね社会性を持ちながら非常にやりがいの ある仕事だったかでなよもそのまあの人の ため人々を幸せにするための仕事であ るっていうことをま書かれているんですね まこれが多分吉村さんの根っこにあった 現示家としての姿勢だたんだと思います はいあの簡単ですけどもあの今回の天中に 向けてですねあの現時点で私が分かってる ことをお伝えしまし た えっとちょっとあの予としてですねあの本 展覧会に至るまでのちょっと個人的な経験 が多いんですけどもご報告だけしときたく てあのちょっと話しさせて くださいえっとそもそもはですね1980 年に私があのマカ国男という建築家の事務 所に入ったことが大きなきっかけにはなっ

てるんですねまあの毎回に言うと吉村純三 は先ほどお話したようにあのレモンド事務 所の同僚でもありましたしあの非常に交流 があったようですねでそれから今回すごく 興味深いんですけどもあの先ほどあの東京 密学校時代にですねあの吉村純三が大沢 さんの助っていう先生からえ学んだという ことが言われてたわけですけどあの今回 吉村貴子さんご遺族のところから見つかっ た面白い資料があってあの大沢さんの好さ がですね実はあのイギリスに留学していて え家具の歴史とかですねあるいはその田園 住宅について学生たちに話していたんです けどその家具の講義の講義ノートをですね え吉村純三があの撮っていてそのノートが 見つかったんですねですごく驚いたのは 大沢さんののですねあのご四則の大沢三 さんていう方今この写真に出てるんです けどマの隣に映ってるんですけどもえっと この大沢さんはですねね実は前川国王事務 所のあの1936年のえ所員第1号あの 1935年に独りする時はレモ事務所から え3人の部下を引き連れて前川さん事務所 を設立するんですがえ事務所を設立した後 半年後にですねえ36年の4月にあの 初めてその新新人を取るんですけどその第 1号がこの大沢さんなんですねで実はこの 大沢さんは僕が入賞したあの1980年 まだ仕事をされておられて実は戦前戦後の ですね舞川さんのデザインの万当閣だった 方なんです僕も色々教えていただいた方な んですけどまさかそのお父様が東京美術 学校で吉村住と教えていたで電住宅とか 家具のこと教えていたっていうことで非常 にびっくりしましたまあのこれ若手の所員 とたまたま1県チの新庄の出版記念 パーティーの時の写真が残っていてですね このあの後ろ髪で写ってんのが私です それでまわずかこのあの4年後にですね 毎回クがなくなってしまうんですけどこの 時に非常に思い出深いことがあってこの3 日後にあの自宅目黒の自宅でおつがあの 営まれたんですけどもその玄関先で私が 誘導係りで待っていたらですねそこにあの 吉村純三が現れてあのやはり国はすごく経 されておられたのかま致して涙をこえてい たんですねあやっぱりマカさんと本当に 親しかったんだなっていうことが分かり ましたでその後にですね僕は吉村さんに 1度だけインタビューに行ったことがあっ てまそこからあの吉村さんのことを少し ずつやり始めたことになりますそれから やはりマイカが亡くなった後に非常に 大きくな動きとしてあったのがこの神奈川 県とか音楽道のあの周辺一体を全部整備し

てえオペラハウスを作ろうっていうですね まバブル経済の勢に乗った大規模な開発 計画が突然浮上したんですねでこの時に あの本当にあの戦後の建築が危機的な状況 を迎えててであの神奈県都館音楽道だけ じゃなくてですね神奈川県金ビ館あるいは 春見のアパートにつ会館東洋英和の小学部 法制大学大阪の新座ですねま本当に 1950年代は実は日本の近代建築にとっ てゴールデンエイジと言われるぐらいです ね華々しくあの戦後の復興機にあの建築家 たちが初めて手にしたま新しい考え方で 建築をどんどん作り始めた時代なんです けどま50年あたってですねあのどんどん 取り壊されるって話が浮上しましてご覧の ようにえ上の2つは残ってますけど下の ものは全部取り壊してあの姿を消して しまうんですねでこういう風にあの題危機 が非常に叫ばれる中であのやはりその戦後 の建築についてちゃんと検証しなきゃいけ ないんじゃないかって動きがあってですね で実はあの建築文化っていう雑誌でです ね上谷の坊さっていう編集長が企画を立て てくださってですねえっとモリズミ ジャパンていう連載をしようってことに なってでそのあの企画委員会にあの誘って いただいてえ内田さんと藤岡先生と3人で あの初年度の企画を立ててですねで最初に やっぱりどうしても気になっていたので えっとリーダースダイジェストもちろん 現像しませんけど先ほどごしたご紹介した ま最初の出発点と見えるようなこの リーダスダイジェストについて僕が担当 執筆する機会をいいたんですねままだ毎回 国の事務所にいた時代なんですけどでこの 時に初めてですね僕は実はそのレモンド 事務所にお邪魔してそれで先ほどご紹介し た戦前のディテール州に吉村純三の後に 入られた天野正さんと川さんがまだ両方 ともあのお元気で事務所におられてですね でま僕もあの毎回事務所にいたっていう こともあって非常にこう歓迎してくださっ てですね色々お話聞かせてくださいました しこの時に初めてあのレモンド事務所の あの図面類を見せていただいたんですねで ここからまあなんかレモンドのことを書き 始めることになっちゃでそれで実はリダ大 の文章をあの三浩さん非常に高く評価して くださってですねえこれもあの戦後50年 で同じ話なんですけどどんどんどんどん その戦後の建築が失われる中で弟の見た 巨匠の世界っていうあのあのシリーズで あのたまたまあの三沢さんの軽井沢の ところで呼んでいただいてですねえっと 対談する機会をいいたんですねでこれ以降

その三沢さんにはいろんなところで対談の 機会をいいていてで実はこの時に軽井沢で あのお話する機会の時にですね初めて あの止まった翌日にですねあの俺が案内し てあげるからついてこいって言われて レンタサイクルを借りてですね軽井沢走っ て吉村さんの森の中の絵も外だけ見ようっ て言って初めて見たのが吉村順道の ま始まりですねそれから大学に入る直前な んですけど99年にえま今みたいな話で レモンドの展覧会にたまたま協力する機会 があってですねギャラリー体制でえ林三 さん企画されたんですけどそれに企画協力 してまレイモンドのあの展覧会初めてやっ たんですでこの時に実はあのどもで一緒に 活動始めていた中原まさんが非常に尽力し てくださって先ほどご紹介したニホプの 戦前のアレで一緒に吉村と仕事をしてた人 たちにわざわざインタビューに行ってあの ビデオ撮影してくださったりですねそう いうことをしてくださったんです ねそれでま一方でちょうどドコモの活動が ちょうど始まったばかりで98年にあの ドコモの初めの20戦とで選んでこの委員 会でも中原さんとご一緒していたんです けどえそれの展覧会を神奈川県立近代ビ館 あの危機的だっていうことで神奈川県近代 術館えであの ミス友さんとかですね大田スさんたちのご 人力で神奈川県金館の別館でどの20戦 初めて2000年にやったんですけども その20生に選ばれた群馬音楽センターを 選ば選んでいたのでその巡回を高崎市の 美術館に持ってってですねまその時にこの 群馬音楽センターをあのポスターチラシの あの写真として使ったんですねでこの時に 実は現地であのシンポジウムやったんです けどそれに登壇したのががま健太し大島 さんなんですねで三沢さんとはあの 2005年の生誕100年のバカ入店に 合わせたえ青森でえモウさんて方が作られ たあの雑誌の総看号でえレーモンドの話 コロジの話えマイク悪の話をするそういう 機会もいただきまし たそれからあのドコモでは100戦って いうのもあの選んでいくんですけどま20 戦も100戦もですね縁があって私があの キュレーター選定員でもあったんですけど キュレーターをやらせていただいてでこの 100戦の中にですねあの初めて吉村純三 の作品としてま坂倉マカと共同した国際 文化会館とそれからえトノにあるncr ビルそれから吉村さんの別荘の森の中の家 を100000に選んだんですねで実は この100000の展覧会の時に1番苦労

したのは実は東京芸術大学にご遺族が偽造 して修造されていた設計の原頭なんです けどえなかなかあのまあの貸し出しが 難しい状況ではあったんですけどたまたま 当時え吉村純三の工程で今回でもシポお 話しくださってるマスコ義浩先生がえ副 学長されておられたので えマスコ先生ご本人がですねわざわざその 元子を貸し出しを自分でやってくださって でそれであの現もあの展示することができ たんです ねでその後あの先ほどご紹介したあのニ ホープのえあごめんなさい フィラデルフィアのペンシル大学の博物館 で行われていたアントニア&ノイ レーモンドの展覧会を日本に巡回させる ことになってえ鈴木先生を中心にまこう いう実行委員会が結成されてですね金県立 退密館で開催したんですねでこの時に実は えせっかくだからということ であの追加の選定として選ばれたジジ中 さんは唯一日本に残した勝らのカトリック 協会を消化しようっていうことを提案して え私の当時の大学院の学生のご子と谷森 智子がですねま偶然ですけどこの直前にえ 常子中島の日部のアトリエを中原さんが ツアーしてるツに参加して来たばっかり だったのでえ彼女たちにあの無理をして 作ってもらいましたこれがその模型で今は この勝らのカトリック教会にあのえ修造さ れているんですねでまそんなことをやって いたら皆さんがあのこの場所を再訪するん だっていうことを聞いてその時にあの撮っ た写真ですミラさん5歳とそれからま弟 さんのケビンさんが映ってますしそれから あの上司中島の家具をずっと制作されて おられた桜制作の長さんご夫妻それから この教会の信者でこの建物をあの守ること に自力されてる東京京都市立芸術大学のウ 作家の栗本さんと一緒に移った写真です ねそれからあのこの吉さんの建物で やっぱり愛知家っていうのも今回紹介し きれなかったです非常に重要な建築なん ですけどもこれはたまたまその記念 ギャラリーでですね2007年にえ展覧会 が開かれていてえ奥村明夫さんあの西村と 一緒に組んでえ東京芸の教授としてえ月 大学の設計に携わった奥村さんはたまたま このいらっしゃってこの愛知県学の文型の 前でご説明してくださった時の写真ですで まこれ実はあのこの2009年にですね 10年にかけてえここの立替えの問題が 起きてきまして奥村先生はその検討委員会 にわたにも関わらずですねえどうもその あの

大学の計画が吉村の建築を大事にしてない あの自分たちの言っていることを聞いて もらえないってことでまその検討委員会を ま辞任されるようなことも起きましたで 一方でどこでこの愛知県大学を選んでいた ので私もあの大学とのあの委員会にあの 代理で出席するようなことで議論をした こともあってあの非常にこの愛財について もあの本当にあのOBの方々がされてる姿 を見ておいまし たでこれもま偶然なんですけどもたまたま あの2011年にですねあの京都でも やはり金地がどんどんどんどん壊されて いくのでえ京都に中に残るですねモ建築を 紹介すしよという展覧会をまあの当時の 教員総出でえ私がちょっと責任者を務めて ですねえこういう展覧会を開いたんですね でその時にえ吉村の建物として同者大学の モスト間のゲストハスとそれからホテル 藤田京都を取り上げまし たでこれもあの印象深いんですけどあの 展覧会の翌年に取り壊しになってしまう わけですけど実はそのことの計画あった もんですからこのホテル藤田の取材ができ なくてですねえあのもしかしたら展示でき ないっていうことを平尾さんにお伝えし たら平尾さんがですねあの吉村事務所の あのあの最長論の上田さんにお話をして くださって上田さんは藤田観光の会長に 会いに行ってくださってえあのそんなこと 言わないでちゃんと取材をして展示をさせ てやってくれということでそれでいきなり オッケーが出てですねでこのホテル藤田の 取り下ろしとかあの模型政策それから図面 展示ができたっていう経緯がありますでま 残念ながらこういう形で閉管されて今あの カルトのホテルに建て替えられてるわけ ですけどもまそういう記録はできたんです ねそれからまあ同車大学にこヤマスとかの ゲストハウスが残っていてえこれも大変 素的な建物であの今回ちょっと紹介しきれ なかったんですけどあの本当にあのそれ 自身もあの非常に貴重な経験でしたでそれ から今回紹介してるその高弘の手について もですねあのそそさんが亡くなった後に [音楽] あの宇がですねこの建物どうしようかって いう風に随分悩んでおられた時にえ今の あの住宅資産トラストのもあのきっかけに なったあのこの建物何とか残して次の 住まい手を探そうっていう活動が始まり ましてまあの吉村純のシガの1人で大高 事務所から独立された野沢さんが非常に 尽力されてですねそこにあの地元であの そういうことに関心あった吉見明さんそれ

からまあの同じきした俊子さんがですね あの関わって えっとここで あのそのさんのあの作られた空間でですね 音楽と建築の響合を集いっていうシリーズ は始められて私も3回目にちょっとだけお 話する機会があったんですけどまそういう ことで最終的にはこの住宅遺産トラストが 発足することになるその手の保存っていう ことですよねそのこともまあの自は吉村の 建築に関わった人の流れでしたでそれから あの今回あのギャラリーエクアドさんでが されてるわけですけど今から11年前の 2013年にですねあの実は隠れたえ木造 の教会があ成田空港のすぐ近くに残ってる んだっていう情報が平尾さんと一村高君が 届けられてですねまそれにフューチャーし た展覧会やろうということでえ三立協会と 吉順道の展覧会が開かれてで あの軽にある吉村さんの走を気に入って 譲り受けた下明子さんと対談する機会まで いただいたんですけどでこの時に実はこの 展覧会ですねえ私のいた美術工芸資料官 京都工芸戦に巡回拡大点をしたんです6年 にでこの時に実はえ東京店含めてですね あの吉島とのその三立科協会について現地 実測して模型を作ったのが私たちの大学の 私の研究室の2人の田さんと久さんなん ですけどまこれもあの今三里塚協会その ものに偽造されて修造されてるんです ねでこの拡大点の時にあの吉村高子さんと 平尾さんの協力を得てですねせっかくだ からっていうことでえ少者の住宅の模型を え学生たちがいくつも作ってですね展示し てあの子さんにも来ていたいたにを見て いただいたんですねこれがちょうど今から 10年前のことですでそれから今回あの 今回の展覧会直接繋がることとしては えっと吉村が残した湧田数のあの三相 アトリエですねえそこで脇田美術館のあの 岩田さんがですね学園の岩田さんがずっと 企画を立ててくださってえ建築ワーク ショップっていうシリーズの中でですね あの平尾さんとご一緒する機会を2013 年にいだいてそれから続いてこれも印象 深いんですけど今回のタイトルに近い形 ですが吉村純ずとアメリカというですね あのワークショップをえ留学経験のある僕 とマカ事務所で同僚横さんあ横さんは東京 代の出身でもあるわけですけどそれから実 は大変重要な吉村純三のインタビューをさ れていた長谷川孝志さんと3人でえやられ やらせていただいたのはこのアメリカと いうシンポジウム ですでまあ岩さんが撮ってくださった

こんな写真がこないだ出てきてあの平尾 さんと長谷川さんと脇田美館で まシンポジウムの後に話してる写真ですね まお2人が今いない中でお2人から やっぱりあの教えていただいたことをなん か伝えていかなきゃいけないなって改めて 思ったわけですそれから直接今回に つながる話としてはまあ あのカザーとニューホープっていうものを こう繋げることでたくさんのことが見えて くるんじゃないかっていうことでご提案し てですね岩さんと2人でこういう企画を 2019年にちょうどコロナの直前です けどもでこの時にあの今あのニューホップ のレーモンドのアリエを守っておられるお さんのシャーロットさんとそれから中島の 除のミさんとそれからケさんとそれからま 当時あのフィラデルフィアのえのところで あの活用されてた横山武香さんをまおして ですねカザとニホをつぐようなあそういう シンポジウムもやったんです ねでやっぱりすごい繋がりは続くもんだな と思ったんですけどそしたら彼らもこの時 にやはりあの小風層の問題ニホとあるいは フィラデルフィアと日本っていう問題も彼 らがずっと大事にされていて翌年の 2020年に横山さんとえペシ大学のえ レモンアーカイブの あのキュレーターであるウィリアムイカ さんそれからケさんが執筆したですねえ こういう立派なカタログ展覧会とカタログ が出てるわけですねでこの表紙に小風層に 運ばれた えまなんてですか材のあの箱のとろに立っ ている吉村てるというですねまこういう風 にずっと繋がってきたわけですでこれあは 参考なんですけど あのクカ京っていうことをあのはあんまり 伝ってなくてむしろシェーカーデザインて いうことの方があの生存の美術感でこう いう大きな天中があってあの聞いておら れることも多いと思うんですけどクカから さらに進化してシェーカっていうあの グループが作られていくわけですけどま こうい点段階で私もあのクかせかってこと に興味持ってたもんですからたまたまあの 2004年にあのどものあの世界大会が コロンビア大学で開かれた時に立ち寄って えマサチューセッツのハンコクってとこに あるシェイカービレッジこれが実は 1960年まであの本当に普通に暮らしが 成り立ってたってことで実はここに吉村 さんも行かれていたようなんですねまだ あの今はまあのいわゆる美術館みたいな形 なんですけど当時ここで生活られた時に吉

さんを見に行ってるみたいでまこれは僕は 撮った写真なんですけどま本当にあのここ にもですねあの吉村さんが感激したような 風がま非常に綺麗な形でえ残されていて ですねこういうもの見ると吉島さんあの見 たものが僕たちが今こう確認できるような あのこういう道具類なんかもう非常に 美しいです しまこういうものを見る中であの彼らが見 ていたもので今の私たちの暮らしの中から 見えにくくなったなんかすごく大きな歴史 の高みたいなものがですね見えてくるん じゃないかなって印象をあの改めて強くし てますでこのカの中にシカの言葉として あのレモンで吉村が言ってることと ほとんど同質のようなことが書かれていた のでそれをご紹介して終わりにしたいん ですが美は有用性に宿る高い利用性を持つ ものは同時に偉大な美を有している有用性 に支えられていない全ての美はやがてけ ないものになりいつも何か目新しい仮の ものが必要になってくる1つの場は全ての もののためにあり全てがその場の中にある 私たちは皆言葉と行いにおいて簡素でかつ 平明でなければなら ないまあのこういうことをですねやっぱり 吉村さんがすごく大切にされ てそしてなおかつやっぱり楽しく あの作り続けてきたんじゃないかなって いうことをあの今回の展覧会通じてですね あの皆さんと再確認できたらいいなって いう風に思っており ますはいあの私の発表は以上です ありがとうございまし たはいそれではお時間になりましたので あの今日のシンポジウムを始めたいと思い ます あの今日はですね本当にあの満席の満員 でしてあの本当に皆さんお越しください ましてありがとうございますちょっと今日 はあのミスであり少しあの見えにくいとか 色々あるかもしれませんけれどもどうぞ2 時間あの楽しんでいただければなと思い ますで今日はあの大変あの講師の皆様の あの人気も去ることながらこの吉村純三 さんのこの人気の高さをあの改めて感じる ような学ば学ぶものがいかに多いかという お話があの森沢さんになるかと思いますで 今日はですね本来ですとあの松浩さんのえ ちょっと貴重講演というか プレゼンテーションがあってからあの対談 っていう流れを予定してたんですけれども 先生の方からあのこのこんな貴重な機会 この先生方の今日ご登壇のマスコ先生 そしてさんじさんそして大沢さんのお話を

聞く機会はもうほとんどあのもしかして ないかもしれないとなのですいませんあの こんな全員が集まることがべたないという ことでこれはこの4人のこのでも皆さん とっても仲良しであのしち個人的には 集まってらっしゃるそうなんですけども こんなところまで来てくださることは滅多 にないということであの今日はこの4人の 方々のお話を存分に聞こうということに なりましてあの松さんのえ基調講演は ZOOMで私の方が収録してますしますの でそれがあの後日公開映像に追加されて あの皆さんにお届けするということを考え ておりますのでどうぞこそれをお許し いただければと思いますじゃ早速ですが 今日はあの松先生があの司会をなさって くださるのであのマイクをつなぎしたいと 思いますよろしくお願いします松です よろしくお願いし ますいただきましたけどあのおじけづいて 僕がやめただけなんですけれど もあの今日あの会場に来られてる方方も 本当に関係者ばっかりで僕みたいな本当に 文外官がお前吉村何が分かってんだって すぐ怒られちゃいそうな話になっちゃうの であの僕の話するよりも皆さんの話を聞き たいなっていうことにしましたで実はあの 今回の展覧会自体がかなりよく間に合った なという展覧会なんですけどあの岡部さん とそれから田中麻子さんとそれからあの 本当にお世話になったですけど和田美術館 の岩田さんがですね僕の大学に来て くださったの5月の18日ですそこから7 ヶ月で今回の展覧会を全部組み立てました それからあのたまたま僕が縁あった神川 大学に来たもんですから神奈川大学の 先生方と学生たちを騒動にして10月から 2ヶ月で模型を作りましたで最後の八ヶ岳 の見学会が11月の20日なのでよく模型 作れたなっていうスケジュールですで実は あの吉村店っていうのはあの皆さんご存知 のように2005年に東京芸術大学で天南 科開いて以来あのまとまった形ではやって ないんですねで竹中公務店さんのエクトの ギャラリーでは2013年に三里塚協会 っていう実は隠れざる作品としてあの吉村 が生前あの唯一手掛けた木造の協会があの 成田空港のすぐ近くにあるんですがそれを 紹介する点なんかをやりましたまあとあの 今回直接繋がるところで言えば秋田美術館 で あの建築近内建築デザイン講義という形で ですねえっと最後に2019年に実は えっと今回の展覧会で協力していただいた あのレモのロマさんのシャーロットさんと

それから健正大島さんとそれからあの常時 中島のお嬢さんの皆さんをお招きして 軽井沢であの軽井沢とニューホープの交流 のことについてあのシンポジウムやった それがま今回に繋がってますまあのそんな ことであの吉村店本当に久しぶりですし あの本当に正直こんなにあの反響を言うと はていうかごめんなさいあの本当にあの実 は装備会含め東京芸大のあの本当にあの 吉村の関係者に全く事前にあのおりもせず にあの吉村高子さんとそれから吉村純三 記念ギャラリーの近藤さんと松島さんに 本当に尽力していただいてなんとか青で あの初日を迎えたっていうのは正直な ところですですから今日のシンポジウムも 実は内容がよく分かってなくてです ね今日何が出てくるか分からないっていう ことでただあのこないだ実はあの井熊で あの沢さんのオタでこないお話した時に あの実は吉さんについては意外と結果は 知られてるんですけどその設計のの途中 段階なりにえスタッフとどういうやり取り をして製図姿勢どういう風に考えながら 吉村が設を進めたのかとかですねそういう 意外とプロセスの話はほとんど今まであの 出てこなかったんですけどま本当にその話 をしようよっってことになりましてあの 今日は最初に口を切っていただくの松子 先生なんですけど本当に貴重な話で あのご自身があの吉純三と設計を手掛け られた2つのことについてまずあのマスコ 先生に口を切っていただきますそれから あの順番ですか林さん藤井さん大沢さんの 順にあのそれぞれが吉村純三とどういう 関係でどういう仕事をどういう風にやられ てで吉村さんが一体どういうことをあの 考えながら設計を進めておられたのかに ついてあのお話ししていただこうと思って ますのであの是非あの僕も今日初めて聞く 話で楽しみにしてるんですけどよろしくお 願いし ますてなこと で 松子先生からよろしくお願いし ますああの松子でございます今あの松さん がざとお話になってえさっきえここに来 ましたら あの最初の約束ではね松さんが歴史的歴史 家のあの目線から吉村純三の時代的な 位置付けややその辺りを脈付けてえ一通り お話をしてくださるとそういうあの約束で いたんですあじゃあ松さんがそこまで整理 して向かってくださるんであればあ僕は僕 で本当にさやかなあの建築に向かう 駆け出しの頃に先生の元で経験したことを

もう正直にあの昔の資料を引っ張り出し ながらあ皆さんにお見せするそんなあの 役割でいいなっていうことであの今日参り ましたえところが今松さおっしゃったよう に前段からもっと振られちゃったものです からあ皆さんちょっとこんな幼いことをお 見せしていいのか今もなお迷っております けれどももうあの資料はそれだけしかあり ませんのであのお話をさせていただこうと 思いますどうぞよろしくお願いいたし ますであの今言いましたようにあの えっと吉村先生の元では私あの芸大に東京 芸大に1960年に入学しましてねあの 66年に大学院の収支を終えてえ助手に なったあのしばらく芸大の中にあの身を 置いたんですえそんなあのここに芸大吉村 県を仕掛け女子の頃なんていうことを書い てますけれどもえ先生のあのお部屋にあの 無理にえ机を運び込んでまちょっと事情 違うんですけれどもあのそんなことから あの先生の元でえここに書きました観音崎 の戦没員の人それから今回の展覧会の吉村 人道とアメリカという関係でさやかに関係 のあるロックフェラーテの最初のあの構想 作りですねそんなことを本当に本当に 駆け出しの未経験の若造の時にえ先生のも で経験させていただいたまそのあの経緯を ざとお話をしてみようと思いますどうぞ よろしくお願いいたし ますあのえ吉村県お仕掛け女子のコロナて あの書きましたちょっと遠くの方はもう 見えないので私が覚えのメモとしてあの 書ああそうですか あのえ僕があの芸大の学生からあのえ終え てえ助手として残っていた頃のお話なん ですねでその頃あの 多分私と同世代の近い方であれば経験され てると思いますけれども芸大に限らず色々 な大学であの研究の一環として学内で設計 をするという設計活動をするというそう いう場面があのありましたえ僕もあの大学 の学部を終える頃に え吉村先生と奥村京先生が中心になって あの愛知芸大のキャンパス計画をあの教室 の中でえ取り組んでまそれがメインの1つ でありましたけれども他にも他の先生方も あの教室の中であの設計をの活動もされて いたんですねであのそんなことが1つあっ たのとそれから私があの大学を終えた頃に えちょうどの大学のあの制度として女子と して残れるというあの制度ができましてね えあじゃあ学校にいてもうしばらく実際の 設計活動を見ることもできるしええ過ごす ことができるまそんなんで死亡してえ大変 こうお給料安いあの立場でしたけれども

あの女子としてえ残ることにしましたその 大きな大きな要因はここにも書きました ようにやっぱりあの吉村先生がおられると いうそれがあの軸になっていたと思います でその頃のあの教室の中の教授人先生方は あのそれぞれお部屋を持っておられたの ですけれどもまだその頃は学生を含めた あの研究室活動という形は取れておりませ んで先生方が芸大に見えた時に え時々そのお部屋におられるというそんな ようなあの形のあの研究室だったんですね であの吉村先生は大変こうお忙しい立場で 1週間に1回 え見えるであの大学の会議とかそれから 学生のエスキスにえ1週間に1回ぐらい 見えるということであはお部屋空っぽだっ たんですえそれでねあの先生にお願いして あ先生その方あのお部屋の片隅に付けおか せてくださいということで あの入り込んでしまっそれが先生の音でえ しばらく時を過ごすきっかけにあのなり まし たあの時代的に時期的なことで言いますと これがあのその頃の年表ですけれども左側 に吉村先生の作品を作る設計活動の作品群 があのありますそれから右側の方があの 芸大の方で取り組んでいと状態を示してい ますけれどもあご覧のようにncrビール それから軽井沢のあの三相それから新宮殿 とか湘南の茅ヶ崎の家とか青山タビとかま 早々たるそ後のあの代表策になるものが あ次々とと取り組まれていたそんなあの時 だったんですねまそんなことも含めて先生 は大学の方には1週間に1回ぐらいしか 見えないでそんな頃のあの青山タワービル とかえ全府の家とかこういうものができ てる辺りでえ私がそのえ女子として先その お部屋にあの入り込んで取り組んだのが 1968年69年あたりのあの2つのあの 事例でしたんですあもう1つちょっとその トピックス的なこと言いますとやっぱり これも私と同じぐらいの世代であれの方で あれば覚えてらっしゃるかもしれません けれども 今もあの新建地区の住宅コペっての続いて ますねえその頃最初の頃のコペだったと 思います けど先生が審査員になられて無効3元領土 なりっていうテーマで あのコペをされたんですねまそこに いろんな方が応募されてあのアメリカに おられたえその頃内藤さんとかがえ向こう のお仲間と一緒になって応してするとかま そのコンペの提出作品をちょっと先生の脇 で整理をしたりとかそんなことをしたこと

があるまそんなようなあの時期でありまし たであのお仕掛け助手なんてあのえ書き 言いましたけれどもえちょっと思い返すと 事情が少し違ってましてねえちょうどその 女子として残った頃に芸大の方にある団体 からあの今次の対戦で亡くなられたあの民 幹線の船員のあの市を記念するあの日の 計画への相談がえあったんですであの学内 で検討の上でこの計画にえ全体のその環境 計画を吉村純三先生がえそれからまたあの 祈りの像長国家の菊和夫先生がえ関わると いうことになりましたでそれが教室の建築 家教室の中でどう検討されたのかその辺り の経緯ちょっと省きますけれどもえま女子 でいるマスコにかからせてみるかとでも いうお話になったんだと思ある日先生から 君やってみるかなんていうお話があります まあの全くその未経験ではありました けれども あの大変喜んでええかかわることになり ましたえそんなきっかけでじゃあ先生の そのあの元でえあの取り組みをさせて くださいまそんなことも含めて吉村先生の お部屋のお仕掛けに女子と書きました けれどもえお部屋で所属して先生の元で しばらくえその設計や計画の経験をする ことになったんですねでこの崎のの船員の 日というのがきっかけになってえ先生の元 でのこう計画に関わるわけですけれどもえ この日に関してあのえ 1968年の6月頃だったと思いますあの 観音崎の候補市の年を見に行く機会があり ましたでその時先生はもうあのその日先に 疲れていてええ海をこう丘から見晴らして おられたですねでこその時の印象が非常に 今もあの記憶に鮮やかに残っておりまして え吉村純三先生おしゃれな方でしたけれど もグレーのあのセビにもうあの本当に 鮮やかな眩しいネクタイを閉めて尿の上に すっと立って周りを見渡していたんですね かっこよかったんですねああですあの思 先生にあ綺麗ですね言ったらあ吉村先生が ちょっと照れたような顔をしましたけれど もあ僕はね敷地を見届ける時はいつもとは 全然違うこう新鮮な気分で向かいたいんだ よっていうようなことをつぶやかれえそれ がとってもの印象的でまた後々いろんな 所員の方たちに聞く吉村純三の土地や環境 の見据え方のあの強さというかそんな場面 の1つを見届けたような感じがしましたで その他の上でえしばら先生と一緒にえ周り を見渡してとってもあの丘の上から あのえ浦和水道の水平線がとても綺麗に 見えたんですねあのそんな印象を僕も受け てで先生にあのその時だったかその後だっ

たかあこれははあの向こうに見える水平線 が日でしょうかっていうようなお話を あ思うままに先生にお話しし ましま先生もそんな風なことを感じておら れたんだろうと思いますけれどもえそんな ことで え遠くの水平線がえモニュメントの中心に なるという課題があの生まれまし たえこれはあの先生がその海の方からえ丘 を見ているあの状態ですなかなか絵になり ますよね吉村純三っていうのは本当に なんか鬼川とか言って主人の人たちが からかってたりしたことがあるけれどもま 本当にあのえ様になるというかこの時も 遠くから見てあかっこいいなと思ってまし たまそんな風にあのつぶさに環境を こう見届けられてでえ右にあるのがその時 にスターに え作ったエスキスモデルですあの僕が作っ たんですねあの学生っぽいですよねなんか あの吉村先生っていうような関係が全然 こう関係なくてないないぐらいのまただ あの遠くにある水平線をどうやってえ人の 印象にこう結びつけるかということが先生 と一緒のあのお話の中のテーマになってた ものですからそんなことをあのきっかけに してこんな模型を作りましたあその時先生 はあんまりあの君ね演出的になりすぎては いけないんだよというようなことをえ 痛めるようにというか静かにお話し くださったことがあの覚えておりますで いくつかいろんなエスキをしましたあの他 の上に立つヨットの方みたいなそういう こう造形えその間を抜けて遠くの水平線と 出会うというようなえ素案が最初に浮かび ましたただ崎の丘の上ですから大変な強風 も来るえそういう中で構造のこの時はぬ 先生でてしてたけれどもからとてもとても こういう構成は難しいんだっていう話でで そんなことをあの先生と色々 ディスカッションしながら作れる間にえ 浮かんできたのがこの決定案でしたあご覧 のようにあの高い三角のお壁モニュメント になるあの壁ですねそれを あの折り紙のように折ってそれで構造的な 強度を持たせるあのそれをあの構造のの口 先生から大変褒められましてねあ君これ だったらば随分薄いこう壁が立てられるよ というなことででそれで吉村先生もあ じゃあそれならば行けるかもしれないねと いうことであのこんなあの決定案になり ました え他に向かう階段でゲート的なものをぐっ と絞ってで他のプラザから遠くの裏が水道 を眺めるというそういうこう出会うという

そんな構成でし たで話をちょっともう急ぎますけれどもえ そんな素案で970年の6月に着してえ 71年の3月に進行しますえ下の写真は 先生とその遠くにあるえ水平線が記念費だ というお話を繰り返し繰り返ししており ましたけれどもそんな遠くの水平線とこう 応答するあの日のあの分の席です石ですね それをあの丘の上にえ来まし たで繰り返しになりますけれども吉村先生 がこの時にお話になったのは君そういう 無形のものを人のこう感性に結びつけるに は何らかのこう有恵なものが必要なんだ ものが必要なんだまそれがここの大使的な 日の発想にえなったように思い ますでえこれが信行した時のあの姿です ご覧のように あの私ももっと経験があれば色々な ディテールをきちっと考えて先生にも提案 して向かったんだろうと思いますけれども え非常にこうなんて言うかな素朴なあの ことで吉村先生もあんまりその時にあの ディテールについてはお話をあのされませ んでしたけれどもまあんまりあの小用にえ なディテールを あので立体化するよりはあ原型に基づいた 形を置けばいいのかなということでえその まんまえ認めてくださったのかと思います けれども あのこちらになりますように え三角の壁をえ折り紙のように折ったこと でかなりこう薄い あの姿のえ日を立てることができました まこの時 あのいろんなことを先生とのわずかな時間 でしたけれども あ印象を受けましたのはまあの1番最初に 言いましたようにあの吉村純三の環境を 見定めるとても鋭い非常に国名なあの目 ですね その環境やや地形をきちっと見見届ける中 からあ空間像をこうきたせていくっていう そういうあの姿勢それをえその時僕も大変 強く印象を受けまし たそれからもう1つ印象に残ってるのは これはあの仕上げがこんな風にあのタイル が張ってありますえ僕は最初観念的に もっとこうシャープなあの鋭い素材でええ 仕上げるということを先生にもお話をし たりあのイメージを浮かべていたんです けれども先生はその時に君ねもう少しね ドメスティックな優しい素材であの向かっ た方がいいんだよっていうことを言われた のはとても印象的でした確かドメスティッ クっていう言葉を使われたと思います

けれどもそういうこう人を跳ねるようなえ 素材というのはあまり使うべきじゃない むしろここに人を引き寄せて誘ってそして 遠くの水平線に人を結ぶまそんなことの 意味も含めて あの素材のことを言われたんだろうと思い ますあとあと色々吉村作品を考える時に そういうこう素材判断というのを思うこと がありますけれどもあ1つのこ側面が そんな時のお話に現れてるようにうん思い ます からもう1つこの時にあの先生との設計の 過程で会話でえ記憶に残っているのはこれ 全体が三角形でのモチーフで構成されてい ますあのちらっとその時先生があ君三角 って悲しい形だよねっていうようなことを 言われたえそういう形造形に対してそう いうこう感性を添えたなんかことを言われ るっていうことについてでもちょっと びっくりをしまして うそんなことも含めてここはあのさっきも ありましたように え全部え三角をモチーフにしてえ平面も 立体も構成をするというそれは吉村先生の ヒントの元にしてえ構成に向かいまし たまこんなようにこれは現在の あのまさに現在の写真ですえ丘の上で空気 が綺麗なこともあるんでしょうけれどもま あのとても あ綺麗に え保たれていますえっといいですかもう こんなこと でどんどん話していただくそうですかあ ちょっともっと早くにせなきゃいけないん ですけれどもさてこっからがあの今回回の 展覧会にもちらっと関係のある石村人造と アメリカというテーマとちょっと触れる あのロックフェラー艇の初期の高層 スケッチを先生のもであのやらせて いただいた時のあ記録記憶ですえちょうど あの観音崎の日今お見せした観音崎の日を やっていたその中でここに1968年から 69年の11月と書い言いますけれども ちょうどその時 にある日先生がたくさんの写真を持って 芸大に見えたんですねで鞄の中からばさっ とこう数十枚のあの写真を取り出して あの机の上に並べて え見せられましたお話を聞いたらロック 三世から住宅の設計を頼まれてその 敷地の写真だっていうんですねまあだって その頃そんなそのロックフェラー三世と いう存在やそれからその時に見せられた まるでゴルフ場みたいな あ写真まその後あのアメリカに行って

アメリカのフードの大きさの中であの ライトのタリア線イストだとかああいう こう大きなフィールドの中で生活が存在し てるってことを見届けることがありました けれども この時は全くそんな経験もありませんし びっくりしまし たでその中の1枚を取り出して えこの日本の大きな楓とニの大北のある この辺りをロケーションにしようと考え てるんだっていうよなこと先生おっしゃる でもそんなこと言われたて全然リアリティ がないわけですよね だってその頃そのヨーロッパやそれから アメリカのモダンな生活を僕らは一生懸命 になって覚えさせられたりわれたりした ところですからねそこにこれだけのこう ゴルフ場みたいな環境 と邸宅を 考えるま なちょっと先に進めますけど本当にねあの 実際の場所が見届けられどんなに素敵だっ ただろうと思いますけれども西の方に ずっとこう ああの肌ソガが流れてるんですね その両西に遠くに遠望するゆるいこう勾配 のあのロケーションでえそんなことを想像 しながらあのちょっと君もやってこらん みたいなこと言われたものですからえ一生 懸命あの想像想像して絵を書いてその ロケーションを掴もうとあの努力した時の これは作業です全体にあの1.7寸の勾配 のえロケーションでまあまああの結構な あの勾配のだったんですねそこにあるこう ニと楓での大木に沿うようにして えお家を作ろうというあの計画でした あでそんなことであの多分先生があの事務 所にあの自分の案を持っていくための ちょっとその前の段階のえスケッチを考え ておられたんだろうと思いますけどもえお 部屋の片隅に机をこう置いて僕にあま君も ちょっと考えてこらんていうようなことで ええお話になって えそれなりに僕なりのこう想像をこ めぐらしながら取り組みを始めたこの時の それがスケッチですまいくつももちろん あの案がありましたけれども えこの時 は あのげにこう中庭を囲んでえプライベート なゾーンとパブリックな部分とがこう結ば れていくっていうようなまその辺りがあの 吉村先生がこアイデアとしてお話になった のを受けたんだと思いますまでもそれにし てもあの向こうのその富豪の邸宅なんて

いうのはあ想像を超えてるわけですよねえ ライト風がいいかとかノイトラフがいいか とか僕なりに僕らなりにえ学校で勉強した モダンデザインをこう頭に浮かべてえ スケッチをしたりっていうことがこの段階 ですえだってねこれがあの ロックフェラー底の本手ですよねこういう 館に住んでいるあの富豪そういう生活が どういう風にこう解けるんだっていう ことまそんなことであの基本的なベースを こう固めながらえ先生と共にえ図面化して それに吉村先生があの今研究室に見える時 にちらっと見ながらさっとこう思うところ を赤鉛筆でえトレスしていくそんなような あの取り組みがしばらく続きましたでも あの後から思思うんですけれどもあの 観音崎の日の時もそうだったんですけれど もえこちらは本当に経験ない若造駆け出し の若造ですねでもそれをあのそういうえ キャリアとか若造だというような迎え方と いうよりも今でもよく覚えてるんですけど 吉村先生はまさにその時の課題の課題に 夢中になって相手がそれに対してどういう ことをプラス側で行ってくるかそれは経験 とかそのキャリアでの問題じゃなくてえ そういう課題に対してどう向き合うていう 辺りを非常にこうストレートに受け止め ながら向かわれるあの方だっていう印象が ありましたでこれがあのその最初の段階の え骨格が大体こう固まってきた時のもので えプライベートなゾーンとそれから リビングやダイニングやそのパーティーや なんかをやる時のいやこうパブリックな 部分ですねそれをソフトにこう中庭で 結びつけて1つの住まいにするという そんなあのイメージがこの段階でえ出てき ますでそんなことやってる間にうちにある 時先生があ見えてあの会議と会議の合に 23時間時間があったんですね えでその時に先生がねあの親指の爪を かみかみしながらあのなんかねあの必死 なってあのスケッチを始められたああ なんか集中されてるなっていうその特のね あの部屋の片隅からチラチラとこう見てた んですけれどもえかなりこのの時間こう 集中してあの先生書かれてであの会議の 時間が来ましてねでそのスケッチをそこに パッと残してあの会議に向かわれたこれが その時の芸大のあの便箋の裏側にえ書かれ た吉村純三先生のえスケッチですほぼ スケールとして1/00でとてもの スケールが正確だしそれからこうきっぱり としたシンプルなさっきの あのこの図形 から非常にこうシンプルなあの構成の

イメージがここに現れてきますで多分この 辺りをあの事務所に持っていく相安とさ れようとしてたのだろうと思います あーでその時のあの脇にあったスケッチの これもあ1つですねええそれぞれお部屋の 場所での居場所のこう重心をこう据えて いく目線がこの家具のスケッチの中に現れ てま読めば読むほどそのフリーハンドでい ながらあ場所やスペースをこ見定める吉村 純三の向い方がこういう図面にスケッチに 現れていると思いますあそれからここに あの三角の図形がありますますねさっき 言いましたようにあの金崎の日 を設計してる途中でこのロックフェラーの お話も聞かされたものですからえこんな風 に金崎の日も一緒にスケッチをされたりし てい ます えそんなあのきっぱりとした非常に シンプルなえ中型のこうからえそれを ベースにしてえ何度も何度もお図面を書き その都度先生が赤を入れるまよ事務所の方 ではどんな風なプロセスを取られたのか 分かりませんけれども僕は僕で勝手ながら その女子として自分 の思いで図面化をしてそれを先生が直して いくというようなそんなあの繰り返しが 続きましたえこの赤で書かれたのがえその 都度先生がこう修正されていくスケッチ ですでここに見えますようにあのさっきの えフリーハンドのスケッチにとあるような あの非常にこうシンプルなあの骨格があ 先生のイメージの中の中心になったの だろうと思うんですね えこれもその時え合わせてえ吉村先生が 作られた書かれたスケッチですで大体あの あの素案がベースになってえ構成が まとまりが見えてきますえさっき言いまし たようにプライベートなゾーンそして リビングやダイニングやフォーマルなそう いうあの生活の場のパブリックな パーティーやなんかを行って海部の方が 見えるパブリックな部分がこの中庭をえ 中立ちとしながら え個性が組まれている えおそらく先生はまこの全体のあの住まい を1つのものユニティですねあの1つの 生活の場ということをとても強く意識して え構成をされていったんだろうと思います あまこのロックフェラーからのあのこの 住まいのあの希望も日本のあのあいうこう 簡潔な空間性をベースとしながらえ ファミリータイプのあコンパクトな住まい を作って欲しいというそういうあの注文が あったという風にあの聞きましたま

コンパクトなと言っても結局はえ1200 平米あああの スケールが分かりませんよねでこれもあの その時に え立体を想像しながら夢中になってあの え模型化したあの作業の あのモデルワークですでもねあのスケール が多分あのもう覚えてないんですけれども 多分平面と立体のスケールの宿しを僕はま 間違えてわかんなかったんだろうと思うん ですね薄薄たいですもんねあのまほぼ後 から完成したものを見るとそれに近い プロポーションですけれどもまこの時はあ 先生から言われて想像想像を重ねてプラン を中心に取り組んでいたあの時だったと 思い ますでそんな挙人あの事務所にも持ってか れてある程度こチェックもされたんだろう と思いますけれどもあ6869年かの9月 でしたかあの先生がえニューヨークに ジャパンハウスの設計の打ち合わせにえ 行く予定があるでその時にロックフェラー にあってえこの邸宅のえ住まいの話もして くるじゃあだからちょっとプレゼをすし とけよっていうようなことでえ書いたあの あのこれが図面ですまほぼあの試案と近い 構成になった段階で え一通りの図面化をしまし たでもこの時びっくりしたのは先生が その向こうの富豪だって日常の生活そんな に変わることないんだよっていうような ことを言われたその地震がどどういう ところから来るのかちょっと想像超えてい ましたけれどもでも実際にこの構成を あの見ますとねとてもあのスケールは スケールで大きいながら あの生活場として非常に分かりやすいあの 分かるあの構成まさっきやったあの ロックフェラーの本手のようなああいう館 ではないえ1つのこう お生活場の像としてとてもこうシンプルな 解き方ができてることそれを何度もこれを 見返しながらあの今もよく思いますえこれ が地下の部分のあの構成ですねまこの辺り あの林さんや藤井さんにから後で補足して 教えていただければいいと思いますけれど もえそんなことでえロックに見せる プレゼをしとけよっていうようなことで 書いたこれはあのパースでした え大変勝手な思いであのいわゆるこう パースペクティブなパースではなくて日本 のこう掛け軸みたいなえそんなプレゼをし ちゃっていいんじゃないいいんじゃないか なていうことを自分で考えてえこんなあの プレゼを

え先生にお渡ししたことがありますまそれ をロックフェラーに見せられたかどうかは あのきっとは聞いてあのおりませ んまその結果さっきのあの清書した プラントほぼここの辺りがこうこちらに 綺麗な森があるんですね最初のスケッチで はこの辺りが中庭と結ばれて抜けていく ロケーション作りをしてたと思います けれどもこれが えあの ロックフェラーにプレゼンテーションして から5年後に完成した あの 最終的なあの姿ですね えまあの [音楽] お実際のこう区間とかそういう構成はあの 後からえ写真を見ながらああこういうこ 想像力の中で作られたんだなとかいうこと を僕は僕なりにこう想像の中でしか繋がり を持てては言いませんけれどもあの大変 大きないい経験をさせていただきましたで さっき言いましたようにこの時の取り組み でも思ったのは あの本当にこあの僕はその頃まだ実際の 建築経験もない駆け出しの頃でしたでもも 先生がそういうのをこう見下ろしてえ愛た するというよりももうあのさっきも言い ましたように吉村人造はその時の課題に なって課題に対して夢中になるそれに対し て相手がどういうこあのえ対応するかそう いうこうあの反応というか向い方で決して こう見下ろしたあの若道相手の えあの迎え方ではなくてその都度とっても とってもあの真剣だったそんなあの思いが ありますこの辺りも事務所なんかではどう だったのかなっていう風に思いますけれど もすいません長くなりましたこのような ことがあ私今日お話 できる1つですありがとうございました あの皆さんいやこれ初公開 か初めて多分披露された話実のところ初 公開です先生に怒られるかもしれないと 思いながらもうオープンにすることはもう 今後もないだろうと思って今回の機会です から え僕が持ってたあの資料から引っ張り出し て あのご披露しましたでもあれですね両方 とも結局その人工物を置くことによって その周囲の風景を手に入れるっていかあ まさにそうだと思いますこれは先生のね あのその後の他の取り組み屋なんかでも あの思うんですけれども建築の働きという ものをそういうこう環境やえフードやその

ロケーションと人のとどういう風にこうう 素直に結ぶかあるいは新しいこうそのこと ものによってえ視界が開けていくかって いうそういうねあの媒体として建築を考え ておられたっていう風に僕はあの想像する るところがありましてあの自分なりにその 後ものに取り組む時にそういう教えを大事 にしておりますけれどもあと印象的なのは あの豪邸だから大きな人が住んでるわけ じゃなくて同じ人間なんだからっていう そこですよねいや本当にねそういう地震 ってどこから来るんでしょうねあのニュー ホープでのレーモンドの元でねあの実際の え向こうでの生活を経験するとかもちろん そんなことがあるんでしょうけれどもそれ にしても大変な自信だなと今も思います けどねあのトイレとかね風呂って出かけ りゃいいって話じゃないのと共通してる話 だと思うんですけどやっぱりこう適性な スケールをきちんとやっぱり分かってれば どんなにちっちゃくてもどんなに大きくて も作れるんだよってそういう風になんか 言われてる感じしますどうでしょうその 辺りそれこそ事務所でもう散々2人は苦労 されてねあのねこの後だから林さんに話し ていただきたいんですけど事務所じゃどう だったあどうぞどうぞ藤さんどうぞどうぞ まこさんあの親方あの親しが載ってる写真 に戻せますかすいませんえっと本手が載っ てるええあとねちょっと待って ねち操作 できる あのとても ロペラ毛があ持っておりますこの ポカンティコヒルという大きな敷地は広代 でしてその中に先ほど 子さんが 見このこの右上の本本手と言うんでしょう か本幹がありましてあうんロックフェラー 賛成のお嫁さんになられた方があの いわゆるセレブとかいう家庭の人ではあり ませんで非常に平民の家庭のお嫁さんを もらったんですねでその方が非常にアート とかそれこそ日本の古いビーツ品などに 造形の深い方でしてお嫁に来てこの豪邸に 住む時にですねこんな豪邸に住むのは私は できないと言ったんですね でご主人の賛成さんにもっと小さい家を 設計して欲しいと頼んだのが結果的に このロックフェラー底でありまして小さい 家小さい家では決してないんですけども彼 らにとってはこれが小さい家だったよう です一応補足しますあとこのスケッチで あれですねあのマコ先生これ見てるとあの この状態だと多分分島案みたいな感じです

よね1つ1つ屋根の下にはなってなくて この状態では少しこうL型にこうあの輪が 開いてる形になってるんですけどこの時は ねで最終案が1つ屋根の下にしたっていう のもすごくやっぱり吉村さんの住まいって いうものっていうかなすいませんあの林 さんちょっと家庭家庭というかね話ホーム の持つ一体性っていうかそれをとても大事 にされたのかなという風にこのあのプラン 構成なんか だからそれがあの中庭がそれを プライベートとパブリックをこう分けて また中庭がそれを繋いでいるでも全体が とても1つのこう住まであるという一体性 がねなんかとても大事にされた1つじゃ ないかという風に思います ねあの後でお話ししようと思ったんですが ちょっとロペラテが出てますので今言っ ちゃった方がいいかと思いお話します私は 1970年に吉村所のに入所しましてこの 作品は74年に完成しておりますから私の 事務所の初期の時代に完成したわけです けども私が入った年はですねあの第1 オイルショックというような時代でして 非常にあの狂乱物価というんでしょうか あのいわゆる主が主婦がですねトイレット ペパーを買うためにスーパーに行列をした という時代だったんですねで私が担当させ ていただいたいろんな仕事が全部その中止 またはえ延期とかいう形になりまして ちょっとこのお特亭のお手伝いをさせて いただいたんですで最後もう工事も進んで 春行直間だったと思いますけど非常に部分 的なものとして1階の玄関からですね2階 に上がってくこう階段あの直道の脇に登っ てくる階段なんですがそれちょっとこの 平面には階段が書かれておりませんけども その出来上がった出来上がった平面ああの こ食堂の左上にありますねそれを担当させ ていただきまして私が吉村事務所に入って 書いた図面 でえ現実的に形になったのはこの階段が 初めてでしたかつこの階段の下にですね あの食堂に入るちょっと広くなった廊下 部分がありますけどもそれの天井にですね あのレダ房のエアコン用のリターングリル があったんですねそのリターンの穴を階段 の設計と一緒にさせてもらいまして階段と リターンの穴10個ぐらいが空いたのを 非常に嬉しく思ったことを記憶しており ますあの出来上がったもののねあの作品集 で写真を見るととてもシンプルな内装でま あの派手なところのない感想がって言って もいいと思うんですけれどもあれはあの 向こうの職人職方はどうやってえっとです

ね後で時間がありましたら階段とか リターングリーンがちらっと見えてるよう な写真もお見せしようと思ってますが えっとやっぱり肝心の表の部分はですね やっぱり京都におられました中村 中村というでうあの宮さんのあの材料と 職人があちらに参りまして作り上げたん ですねですから私が書いた図面とか私は そうですね今思い出しましたけども外部の アプローチのこの建物の敷地に入るとこに 和風のも和風のゲートがありましてその ゲートも私が図面を書いてもらって中村 さんに工事をしていただきまし たこれあのお2人とも現地には1度も行っ てないですかえあ僕は行って言ってません 私も言ってませんあ私はあのそれから何十 年か下ってこの建物とこの脇にあります 吉村先生がこれ以前に設計したお茶室です ね本格的なお茶室がありますそれを見学に は行ってまりましたけど階段とか設計する 時には全く現地を見てないでに設計して おりましたそれもすごい話です ねはいえっとどうしましょうかちょっと あの林さんに少しお話をしていただき ましょうかすいませんあの 少しあそっか休憩5分しましょうか確かに すいませんじゃあここで5分休憩これだけ についてちょっと喋ってあどうぞ どうぞあのこの設計中は私は 1967年から70年まで7年ちょっとい たわけなんですけど もさっきのあのマコさんの話で5年ぐらい 経って大体これが出来上がったということ はです ねほとんどのスケッチを先生はうちで なさったんだと思うんですねそれ でエスキスとして出てきたものに対しては 事務所ではあの1人担当の松本さんていう 方がうんあの面を引いてまして実際の現場 に行く段階でちょっと行っただけですけど も出来上がった時にさっきのそのお嫁さん の話を聞いて納得今初めて納得したのは 最初の設計のお風呂がですね浴Going があの唐原の代理席の浴Goingだった んですよ大理席ええ大理石のままあ日本で は11個の塊から掘るとうんそれに対して クレームがつきましてひのきの風呂に変え てくれとその意味が今先ほどのその松子 さんの聞いた嫁さんのその感覚ですねと いうことが今分かりました事務所ではただ いや贅沢だよね大席どうしたとかねそれを 猪木に帰るなんていうのが話題になりまし ただいぶあれあったと思いますねそ先生は そのエスキースするというのは大体その 大体1/ぐらいのものなんですけども

後ほどまあのちょっと話しますけどもこう 所員を振り分けてうんえ白紙からスケッチ させるのとそういうスケッチ小さい スケッチを固めていくのとうんまもう1つ あるんですけどもうんそういうタイプのま 所員の育て方っていうかそういうのがあり ましたそその大理席のフローもうできた ものですね完成後にクレームがつい てそれどこ行っちゃったどこ行っちゃった んですかねその大席の風呂はどこ行僕も それは気になっ たそんなことがありましたありがとう ございました初めて聞かされ話もう1 うるさいのはですねロックフェラーのうち では羊がいましてこういうその置かれたあ そのなんて言うんですかねあの基物に触っ ちゃいけないんですよとにかく花瓶はここ とかそういうものが全部決まった位置に おか置いておかないとダメなので外部の人 には見せないというのがあって所員も ほとんど見れない見た人は現場に先生に ついて行った人だけだと思いますねはい あの後ほど時間があればお話したいとと思 今ちょっと予告編ですけど もおそらく吉村先生は完成したこの ロックフェラー に私の思い出は90%ぐらい止まったこと があるらしいんです ね完成して から違うセレブの家だったかもしれません が私はこの家だと思いたいんですがこの アメリカで言う 豪邸そのセレブの家に泊まった時の失敗談 がありますのでお時間がありましたら 後ほど おいただきます休憩ですね はいなんかすごいまた来週みたいになっ ちゃいすいませんじゃ5分だけ休憩を取り ます7時5分に再開したいと思います よろしくお願いし ますはいそれではあの第2部を後半を始め たいと思うんです けどえっと林さんの画像になりますよ ねいやでもこれ僕見たかったやつで初めて 見ますあなた説明してくださいいやいや いやいや ちょっと待ってあの吉村純三は1940年 にあのニプに行って41年の7月に帰って きますそれ で争のにあるけどあのこのさの生園って いう建物の仕事が唯一の仕事であったって ことは語っておられていや僕もあのこの 構成園すごく気になっていてあのかなり 大きな建物だったようででかなり後の時期 まで残ってたみたいで僕まだ全然今さの

構成がどうなってのか調べてないんです けどまさかこんな図をいきなり林さが持っ てくると思わなかのでこなあの下落の雑談 の時その話してさせていただいたらき今く さんおっしゃったのはあの先生が独立され てその後の仕事としてこれがはいはいせ 先日中ですねああうあ僕も知りません ちょっと林さ説明していただけます かあの えっとどうも皆さんあ私はこういうとこで 話すんのは非常に苦手でした ねけ ない聞こえます かあの苦手でしてちょっとどんな話にし たらいいかということで一応 あの こないだ松さんかその桜厚生園の話を伺っ たのでじゃあ桜厚生園の図面は課題として 出たから今日持ってきましたということで 帰ってきたわけですはい課題大学の課題 大学の課題ですあのこれは私はですね え昭和じゃないな 190057年に入学して61年に卒業し たんですけども57年にやっと3度目の 受験で入ることができたんですが最初の 課題があの設計の課題が入って4月の課題 が国際文化会館の パースですそれはあの青津ですね当時は 青写真でしたから青写真を受け取ってそれ をパースに起こすとでその前にま見には 行ったんですけどねそういう課題の次に あの学校で渡された そのAさぐらいの図面が桜厚生園と生園の 図面と金ばかりのこれそれをあのみんなが レイアウトして1人1人があその出すわけ ですでそれのそれは私が書いた課題のこれ 図面なんです林さんが書かれた です青津からですねあのこれで勉強させる ために要するに最初の何も知らない 建築の最初 の2ヶ月目ですね芸大の2ヶ月目の課題が これをあのトレスすることリンキングする ことですトレーすることこれあれですか カラス口ですか口ですあ口えまだカラス口 しかありませんでしたね ええそれでこのエレベーションに僕は色を 塗ったんですけどもその色を塗る塗った時 に山本先生が図面に色なんか塗るなて言っ たら先生はいや色塗った方が漢字が出て いいよとかそういうそういうま雰囲気だっ たんですけどこの次 のあのあれに回してくああこのこの2枚が 課題なんです1年生の最初の建築の第1 歩でこれはおそらく吉村先生の事務所の 戦後のですね1番始まった時の設計だと

思うんですよだから松さんにこれこれをね これだからあれですね吉さんが直出した ものだったんでしょうね多分他に所員い ない多分そうだと思いますねあの事務所 戦後先中戦後を挟んでます からそうだと思いますねこれあの オリジナルは青焼きで青きでしたあそれは 今お持ちですかと思ってません青きはあの 見せて返すのかななんかどうしたか覚えて ないんですけどあでもきちあの僕らの頃も ねあの先生が設計した住宅があのトレース するのが最初の課題でしたけれどもその後 あのあれですよねあの例のカザの三相が 出来上がってからは他の大学でもそうだ けれどもあれがずっとあのトレースをね する課題になってきました僕も京都で ずっと中数でそれを1年生に課題で出して 雷を落としてましたけど桶も作らせてした そしたらいつもあの模型が変な模型作るん でお前吉村を舐めとんのかとかつって怒っ てましたけど あああのこういう図面の場合はですね図面 の課題とそれから我々の学年から椅子を 作らせる課題がありましてそれは今未だに 続いてますけどもこういう課題とか椅子と かは全員同じ点数をくれるんですあのこれ に差をつけないで前がいっぱいあります けども80点ぐらいを出してくるんですね これあの現場を見に行ったりはしなかった んですか構成まだええ ああそっかこの後にこう例えばあの次は 自分の部屋とかそれからそういうものに 移っていくんですけど もこれ あの1年生だと線の意味全く分かりません よね分かりません 全然図面を読んでですねこの太さなんかも やっぱりその時にこうあの言われるわけ ですよねあの見たものに対してでガス口で 書くからまそれでその墨入れを覚え るっていうかそういう剣都市にかかる都市 ですああで水張りをしないと学校に来ない からっていうんで次次の年からあのあ机を を新しく作ってくれてそういう風な事業 でした ね一応1つつまんないこと添えるとそれ こそその今健都市にインキングって言って カラス口で墨入れをしますよねでそれ失敗 すると薄い紙処理でケリングという手法で 僕もやってましたねでそういうね術がね 上級性と火九性で明らかにこうできてくる わけですねそれが上級生の偉さになってっ てね凄まじいそういうこう術の差を 競い合うようなあのちょっと余計なこと ですけれども時代でもありましたねだから

この辺りで林神治さんもその辺り後輩に 対して 色々先ほどあのれたんだここにも いらっしゃると思うんですけど相川一さ んって私の1年上 の竹中に入った方が見えて何年ぶりにあっ たんですけどそういう図面のは同じこと ケリングも含めてやったと思いますけど あの私がいた1957年から61年という のはまだ芸大の建築家というのはレガ建て のあの今の本館のある前にあったあの建築 家だけが独立した校舎でしてそれはあの子 先生が入った年にもまだ事業あったんです かでそこが最後ぐらいなんですね2年まで であは壊されて あの高い高層の彫刻灯ができて全部あの なくなったんですけどもあれが残ってれば ね やっぱり保存建築としてはだいぶ価値が あったと思うんですねうん小さな部屋でも 階段教室なんかあったりしてそこにまああ そこで黒板に課題がチクで書かれるだけ だったんですけど今の学生たちはなんか 印刷物渡されてきちっとした資料まで渡さ れるっていう 全く進歩したっていうかなそういう便利に なったということです ねそれであの私が大体学校に入った時に ですねあの日本っていうか東京は ちょうど1年の時に東京とか長者とか 有楽町相合とかそれからあまそういうもの ができまして今の東京都文化会館のある ところ は上台高校のグランドだったんですそこで あの芸大では芸術祭ってのはあの駅前で やってそこでまみんながあの踊ったり騒い たりしたんですけどもま芸術のあのお祭り とかそういうことに対してはむしろ展覧会 とかそういうものの方が多かったですね ええそれで2年から西洋美術官と東京都 文化会館の工事が始まりまして工事中の 見学とかそういうことを我々はよく見せて もらいましたあじゃ藤木先生が現場におら れたからあ西洋美術館の場合にはあまり あの藤木さんのことなく知らなかったん ですけどあそうですかええそれで卒業した 年に東京都文化会館1961年に文化会館 ができてえあのそのコケ落はあの行って 見せてもらいましたしえただ西洋美術館は できてても1年ぐらいはなんか試験運転 っていうことであの藤木さんが立派なあの 国際建築の赤い表紙でまとめた本を見てあ こういう先輩がいるとかっていうの初めて 知ったんですねあです かはいそれでま

あのマスコさんの学年まであの芸大には あの生徒が溜まるんで居心地がいいために 溜まっちゃうんでその学校には残4年以上 は残さないっていう原則がありまし てデザイナーと家は学校に残残さなかった んですなぜかと言うと早く外に出て現場を 覚えろと現場を覚えなきゃ建築は覚えられ ないからていう風潮は結局はあの大正時代 に卒業した 吉田伊勢八先生とか岡田翔先生とかいらし てあの島先生はまだ助教事でしたから じりじりしてたと思うんですけどもそう いう雰囲気でしでしたそれで あのそのレガ立ての校舎の中にま10畳 ぐらいの木造の部屋があの木で囲まれた 部屋があってそこがあの職員室なんです けど職員室っていうか先生たちの部屋なん ですけども1週間に1度ぐらいしか集まん ないんですよそれでそのその一度が要する に エスキースの番でその課題をお15人 ぐらいのま前年までは15人ぐらいの店員 だったんで学生たちが取り囲んで4人の 先生たちがその机に座ってですね1つ1つ こう図面を出すと言いたい放題言われまし てそれであの大体そん中で1番やっぱり 面白くないのはまあいいねって言ってすっ と終わりっていうまあいいねていうのは 1番ダメなん ですまそういうそういう事業でしたその いうまあの先生たちの公表っていうのが 一番やはり見てくれま図面に関しては吉田 先生と吉村先生が1番言ってくださるん ですけども吉田先生の場合はあの入り口と か便所とかそういうものの位置がだめとか そういう話ぐらいでむしろその展開に空間 の展開に関してとかそういうことについて はやはり吉村先生のは非常に細かくうん あの見るという感じでした ねま あの芸大での事業というのは あのあまりみんな真面目に勉強したかどう かっていうのはちょ課題に追われる方が 多かったんですけども課題と専門科目と 一般教養が同時にスタートしたんで実を 言うとその全ての単位を取るためにはあの ほとんど暇がないっていう時間がありまし たそういうことで あの3年にななるとですねやはりその3年 になるまでにあの専門科目を一応取るべき ものが決まってるものがあればそれを取っ ておかないと真untilできないそれで 課題についてはあの年に12回1210代 から12回ぐらい出るんですけども その平均点が60点以下の場合はま落大

ですねで落大したい人は2回ぐらい課題を 出さなければ平均点大体まあ良くても75 点ぐらいを取ってても60点にならないん で留年できるわけですですから留年したく てする人とできなくてする人とましたくて する人の方が多かったと思うんですけども 結局あの他の家はですねあの先行化って 言ってま大学院に相当するうん2年学校に 残れるわけですよそうするとちゃんとで 仕事ができるわけですねですけどまあの 留年した人たちは同じ下の学年と一緒に 友達になってというのがあってまそういう 意味ではあの数が少ないんであんまりえ みんなが気にならなかったですけども彼ら はあ1年多く1年または2年多くですね あの暮らし会があってその分は 楽しんでると思い ますそれで2年以上留年すると方向退学 ですね強制の退学でしたですからそういう 意味で言うと ま課題はちゃんと点数を稼がないとダめて いうちゃんとっていうんだからま適当にて いうか先生の主観ですからね点数は 全てそういう意味でまそういう あの教育方法だったので我々は先生が見て 何を言うかということが非常にやっぱり あの勉強になったわけですけどもあの途中 で先生がいいないいないわけなんで今だと 学校に先生はいつもいるからあの エスキースなんかを合同のエスキース なんかじゃなくてもあの意見を聞いたり できたんですけども先生が出てこないん ですから生徒学生もま あ授業以外にはあの課題を見てもらうって のはその教会室でみんなあの先生が集まっ た時だけ あああの普段は製図室っていうのは皆さん あって製図室はあるんですけどね電気が ないんですよ部屋 に冬なんかね寒くてストーブなんか炊け ませんからねしかも汚く てまメスメス状態ですからああそうだった んですかあのま我々の時には汚いよりも 広くて間抜けててとにかく寒いんですよね うんじゃ製図室数が皆さんのネジになって たわけじゃないんですねないですねネジに はならないですねああ今の学生のが恵まれ てるかもしれない今の学生はやっぱり エレベーターもついてますし 暖房もついてますし照明も自由だしねそれ は全然違うと思います ねただあの事業料が安かったから ええまその辺が ちょっとで私はあのやっぱり4年っていう のはあっという間に過ぎちゃうんで

え3年ぐらいになった時にこのまま卒業し てどうしようっていうことをちょっと気に なってその吉村先生にえどっかに行きたい ということを聞いたんですけども吉田教授 が吉田伊教授が外務省のその文化施設とし て初めてローマに日本文化会館っっていう のを作るっていんでじゃあそこの現場 見習いていう公実であのパスポートをを 出してもらえないかなという運動しまして それもやっとま後から出たんですけども それで行くことになったのでその就職運動 っていうのはしなかったんです ねそれでまあの我々のそあ最終学年って いうのは1960年であの安保闘争が1番 激しかったかカバさんが亡くなったあの 安保闘争で あのとっても学内でも少し落ち着かなかっ たんですけどもその時に あのま話は前後しますけども4年のその 卒業政策っていうのは火九生に手伝って もらうために あの早めに予約しておいて図面のかけるえ うまい生徒をですねいかにと少ないとこ から約束を取るかということなんですけど もあの大体は自分の住まいの方向に近い人 ですねそういう風にま取るんですけども その今でもまそのその頃の運動からあ曲げ ないで一生あのしっかりえぶれないで岩崎 君というのが 同じあの池上線に住んでましたねそれで彼 にも頼みましたしあの他にも3人ぐらい 頼んでディプロマをやったんですけど もやっぱり我々の学年はちょっとそういう 運動にあんまり行かなかったので尊敬され ませんでした ねまそういうま芸大の場合は大体行って デモに行くとあの逃げ遅れて捕まった人と かねそういうのが多いんですよ だそれが あの聞いてるからまそういう運動ってこと が ちょっとしませんでした けど政治の話というのは芸大の場合は むしろ あの 建築が1番やっぱり建築と芸術学科という 学問の学科の方が1番やっぱりねうんうん あったと思い ますそれでえ新宮殿の話とかそういう話は 我々が3年か4年の時に あの先生に決まったんですけども僕は学生 の身分で先生に先生なんで1番若いのに 先生が示されてんですかってこういう質問 こういう質問をすること自身がもう ちょっと

あのしけがなってないわけでねまそういう ね本当フランクな関係が作れてうんそう いう関係がちょっとあったもんだから先生 にそういう風に聞いたらですねいや若いさ わかんないけども僕はあのかなりあの考え たことを1番長く喋ったんじゃないかなと いうことでそれならということで当時の 区内長の高尾造営部を部長が要するに おそらく会議をの上ですいません あの吉村神子は科目な男と言われますけど も区内長のインタビューの際には2時間に わってこういう宮殿を作るべきだという話 を等々と喋ったらしいんですねそれは事務 所当時の事務所員の方にとっても非常に ショッキングだったと先生がこんなに喋る のかと驚たらしいですただ先生は相当よい 頭に何を喋るかというのを準備してその インタビューに望んだよう ですでも先生あの文章はあまりかから なかったけど座談はとても上手な方でした ねいろんなことはねあの座談の中で学生 たちも含めてだけど伝わってきたっていう ケースがすごく多かったように思いますね うんまそんなことで あのなんだか知らないけども僕はかなり長 だ喋ったんでそういうことからじゃあ吉村 君君がいいんじゃないというのはその呼ば れたあの各大学の教えてた先生たちとか 建築家がそういう風なふこう雰囲気が 生まれてたみたいですうんそれでまあ高尾 さんが高田さんももちろん あの建築を出られてるんでまそういうで あれば吉村先生ということで決まったん ですけどもうん先般101歳で亡くなった チーフの上田さんから聞いたことによれば あの やはりその先生はなんかそういう今藤井 さんが言ったように先生はなんかこう自分 がこうだと思った時には行動というか発言 をするとでそういう結果として例えば あの思い切ってていうことだけじゃなくて 中学生の時にあのコンペに応募したとか それからそのイタリアからあのあの対象の 末ですね本条み小学校の6年生の時にその 書いた絵があのそれそれを現状の代表の絵 を書いたりそういうことに関してはあの とても意欲的に行動をちゃんと起こす 起こす人だったと思います うん で こう例えばその私が辞める時にも要するに えなんかが作ったものがあれば店に来いと かそれ からできれば雑誌なんかには乗せるべきだ とかそういうことを意見その意見を添えて

言ってくれましたねうんそれはどういう ことかと言うとですね雑誌に乗る とああれおかしいよって自分のが一番 やっぱりね感じ るってわけそういう風になるから雑誌には 載せれば 自己批判がちゃんとできるようになるよと うんいう意味で載せろよとうんそれ で僕のま尊敬する大野さんていう 先輩のはお前雑誌なんか乗せたって乗せる ために設計してんのかって言われて ちょっと困ったんだけど乗せるためじゃ ないし先生に言われたなんても言いたく ないしねそういうこともありましたけど あのやっぱりあの背中を押すタイプだった んですよね押す押すタイプですねが頑張れ っていうかチャンスを与えるっていうそれ からあのちょっとメモしたんですけども あの学生に 対するうん教え方というのは結局学生も あの所員も同じですけども1人1人の性格 とかそれから感覚的なもんですね感覚的な 要素を掴むのがすごく早かったですねうん ですからあの例えば先ほどの松子さんが 女子としてあの学校に残った時にも スケッチをさせたていうのはそういうあ彼 にはやらせなきゃというとこがあってあの ただいるただいいいるということはし なかったちゃんとそういう教育とそれから 引っ張り出す力というのが非常にうんあの 誠実 にしかも強かったからうん学生たちも所員 もそれが分かったということです ねはいありがとうございましたちょっと もう時間がなくなってきちゃったからふ 藤井さんにちょっとはいはいどうぞ僕あの 吉村事務所の所員20人ぐらいいたんです けど仕事の与え方がですね はい33種類あるんですよそれはですね 白紙から君やってこらんっていうタイプと それからちょっとし た1/ぐらいのスケッチ本当にあのさっき のスケッチみたいなものが渡されてそれを まとめてごらんというのともう1つは 1/0ぐらいの金ばかりに近いものを書い て 渡す3つの種類の所員に渡すタイプがなっ て僕はまあ1と2の大体1と2なんです けどね3はですねあの脇立とかかの三層と かあれは3のグループですねというのは 個性の強い人にはやっぱり自分のデザイン を先にちゃんと言っとかない と傷つかないそういう個性の強い人ほど 傷つく場合があるあるわけだ からそういう風に振り分けてんですよです

から僕はあの事務省にあのまイタリアに7 年6年ぐらい卒業して行ってたで6年ちょ ま着ですけども帰ってきた時は30歳で その全くイタリアボケでですね図面なんか 書けないわけなんで向こうで書いたものは いっぱいあるんですけどもそういう中で その どういう風に仕事が進むのかなというのは 非常にちょっと面白かったんですが結局 時間がかかっても何回でもですねあの 小さなあのホテルのうんなんか宝石屋さん もやらされたことあるんですけど1年 ぐらいそのエスキースをやってそれでその 結果できたものっていうのはやっぱりカの とかそういうデザインが全部作られるわけ ですしそれからロゴなんかもじゃあこれ 亀倉君に頼みたい から君行って頼んできてよとかっていう 言い方するんですねそうする とこっちはそういうのは恐恐ろしいわけな んでその神倉さんとこに行って吉村から来 ましたとそれで 先生あの こうこれこれれこういう宝石屋のお店なん ですけどもロゴをお願いしたい とあの先生から神倉先生のところにという 風に伝えますとですね吉村さんか困るよね とかつってねそれでやってくれるんですよ でお金のこともですねその神倉さんにあの 行って聞いてこいとかて言われるん でよ嫌な役回りですねそうそういうねそう いうそういうことはやれるやる人も 見分けるわけです ねだから僕は怒られ役だったそっかその 怒りやすい痛まないていうことでねそう いうのも一てに引き受けてたんですけども ま あの仕事というよりはどっちかとそういう 部分が多かったと思いますただ プライベートにその設計でもかなり厳しく 叱られることが多くてそうすると そのやっぱりチームプレイもあるんでその チーフが隣に座ってる時 に僕は永遠と怒られるわけですねそ ちょっと先生に怒られたからなんで言って くんないのったんて言うとですねそうんと かって言って後ろに立ってたりしてその後 そういう風なことは分かって私を叱るわけ ですよそうする とこっちに伝わるようになってそういう なかなかその維新伝心をちゃんと使い分け て所員があの集まるまとまるということが ありましたあとその新宮殿については私 あのやっぱり吉田研究室の おなんてのかな見習いとしてあの当時の神

所からパスポート取ったんですけども あのあのローマオリンピックの後で東京 オリンピックの3年前ですからあの一般 とこが許されれない時代だったんですね 1ドル360NHっていう時代でで帰って きた時にに吉田研究室の先輩で野村金夫 さんっていう人を通じてですね あの新宮殿見 たいてたであのただ美さんが あ照明金のデザインをしてるとしてるので たさんの女子としてえ女子に化けて見て こいということでですね引き渡し前の やっぱり運転中に見に行ったん ですで全部ぐるっと回ったんですけども あのたさんがあま彫刻家の田さんがですね 吉村先生にお会いしたくて何度もお願いし たけどもお会いできなかったと要するに 吉村事務所の基本設計のスケッチはある けども果たしてこれでいいのか基本設計の スケッチの証明メイキングとそのスタンド とかそういうものを全部任されても私とし てはねやっぱり先生のチェックを受けたい という気持ちがあったんだけど先生には何 度もお会いしたお会いしたかったけどでき なかったということでそれのなんてうん ですかねあのチェック のために内長に行くんでついていったん ですよずっと件は後で時間があればおする ことがございますまそんなそんな具合が あります時間が ないありがとうございましたでもこの貴重 な話 をあのじゃ藤井 さん時間がありますすいません井熊の住人 でいらっしゃる大沢さんもう少しお待ち ください申し訳あの最初にお詫びします 先ほど前代で私お話した京都の宮大工さん 中村外さんを外事さんと呼びまして先ほど 休憩中にトイレで後輩の所員からお叱りを 受けましたあの事務所に来らいた時は外事 さん外事さんと言ってたような記憶があっ たもんですから失礼しました中村外さん ごめんなさいえっと時間がないので非常に あの駆け足に説明させていただきますが 今回 の吉村純三とアメリカ店ということで展示 会場に展示されてますそれぞれの作品に ついて私は知っていること要するにあの こぼれ話ですねそういうことをちょっと 駆け足でご説明させていただきたいと思い ます私は1971年に島村事務所に入り ましてそれから14年間85年間所員を やっていたもんなですが要するにあの戦後 の先生の仕事でも私は先生のその 後半の所員だったということになります

そういう意味で私は先生にとって私と先生 が仕事をした時先生は大体70歳でした私 は30歳でしたので40歳の差があります 要するに父親と孫みたいな関係なんですね でこちらにいらっしゃる方は父親と息子 という関係に近い吉村先生との 設計事務所生活を送られた方で私は孫です から直接先生とこうシビアな設計バトルは したことがありませんが出来上がった先生 の作品についてその後先生と来まで出張し たり1回はアメリカまでカ持ちで出かけて いったんですがその時に先生が教えてくれ たことそれから先生以外の風の寄りに聞い た吉村作品についてちょっとご説明させて いただけた深沢さんお願いしますえっと 1941年のモントホクの家ですねこれは 仕事はアントニ師匠吉村純三の恩師 アントニンレーモンドの仕事になりますが 実際に担当したのは吉村純三です先生は 1940年ですね40年にレモンドに呼ば れてニューヨーク郊外あの西武の西の方に 車まで今だったら1時間ぐらいでしょうか 以前だったら2時間ぐらいかったあのボク 場地帯田園地帯の中にあるレーモンドの アトリエに先生は仕事でレモンドから直接 呼ばれていったんですねその時呼ばれた 目標はこの設計を担当すること以外にです ねもう1つニューヨークのロックフェラー センターの中にジャパンセンターというの があったらしくその中に日本のお茶室を 具体的にあの展示するという仕事を レモンドは受けていたわけですそれから もう1つ斎藤 博元大使ですねアメリカでアメリカと日本 の間にある諸本題要するに戦前の日米関係 の改善に非常に熱心にされたなんかもう 働きづめ休みを絶対取らないような人た 斎藤さんを記念する図書館をワシントンの 図書館ワシントン国会図書館の中に部屋を 設けて記念する展示をするというあのその 2つの仕事とプラスこの仕事のために レーモンドに呼ばれたわけですでこの設計 はですね先生らしいま失礼あのレモンド らしくないレモンドらしくないって言っ たららいますけどもらし こうシンプルな空間がここですでに作られ ているんですね3つの屋根寄せ屋根の 柔らかい構成ができておりますし微妙に こう触れた角度を持つ平面構成になって おりますそれから室内はシトな仕上げ大体 あの写真で一生懸めこしないとわかんない んですが大体ラベ的なシナベニヤ的なもで 壁も天井も払れておりますそれから リビング食堂のあるかから階段でちょっと 下がった会の寝室ゾに行く階段を降りた

右側にですね日系あの風避けのすごく地上 さそうなテラスがあのられてありまして いかにも先生らしいこう居心地のいい感を いい空間をここに作ってるなということを 私は感じますちなみにこの建物の現在の オーナはラルフローレンです ラルフローレンと言いますとビテ高価な ヴィンテージカーとかビクトリアン町のお 城みたいなおいもいくつもお持ちですが こういうシンプルな家も彼のお好みなん です ね次の写真お願いはいどうぞ次はい次はい 次これですがあのちょっと1個戻って くださいこれはラルフローレ 最近のホームページに載っていたリビング の写真です同じようにあの天井ちょっと 斜めの壁から斜めになって天井に繋がった このベニアは変わっておりませんけども なんか塗装がこう光沢があるものに変わっ ておりましてちょっと残念だなという印象 がありますはい次お願いし ます次はあの1954年ニューヨークの モマの中庭に先生が え滋賀県の大津市にありますえ 右寺の中の所員作りの建工場員客電を移し て設計して現地に建てた小風相と言われた 書人作りの建物ですこの建設にあたって 先生はあの輸送料を減らすできだけ減らし たくですね名古屋の大工さんに名古屋で 仮組みを行いましてをコンパクト化して 現地まで運んで建設しますで工事に際して は2人の日本人大工が行ったんですねで その大工はのみのこぎり 金槌などを持って超国家ビザ でアーティストとして入国しております 当時既にアメリカは労働組合組織が非常に しっかりと出来上がっておりまして大と カーペンターという職業はは入国でき なかったんですねで先生はやっぱアイデア ワンですから彫刻家にしいとアーティスト として唯一2人だけ現地にあのアメリカに 入国できた仕事をできたわけですねで2人 だけでは作りませんからあと8人ぐらいの 大工さが当然必要だったんですがその大工 さは全員ハワイにその当時住んでらした 日経アメリカ人の大工さでしたあのビザを こう代理申請したのも先生が自分でやられ たと聞いており ます えっとえっとですねこれで あのここの消層で1番ま注目されるのが こう庭に面して広がる大きなテラスですが 大きく 長い次行ってくださいはいこれですねね あのテラスが手前から奥のに行きまして奥

のでテラスがちょっと広がっておるんです ねでその広がるとこまで手前からあの 大きな上の屋根をさせる支える針が飛んで おり向こうの方に飛んでおりますももう1 枚行ってくださいはいこの針ですねでその 先に行った針を受けてるさらにこう受けが あるんですが普通は この長い針を受けてる受けの下に柱が立っ ているもんですねでそれはあの神学員とか いう同じような商品建築で柱が確かに立っ ておりますただこの建物はここに柱が立っ ていないということが先生は非常に気に 入ったんですねその匠の技というか誰が 設計したのかわかんないけどこんなことを やっちゃう人がこの時代にいたんだよねと ということでこの工場をの移しを ニューヨークのマの中庭に立てたわけ次お 願いし ますこれはそあのテラスから見た中にあの 日本的要するに緑水滝小川灯ろがあるよう なまあの実際あの滋賀県にある右田の工場 にあります庭と非常に似た庭を作っており ますはい次でこは先生の吉先生が人書基本 設計の図面なんですがあごめんなさいこれ は出来上がった図面ですねこれが島先生が 設計事務所として書いた図面でこの図面で は庭がですね実にカ山水になってるんです ねあの上の方右側この辺ですねこの辺は 普通の似を作ろうとしておりますが左側は あの両暗の石のような石を置いてええこの 手前だけですねここに1本大きな木を 植えようじゃないかとでここにツジ兵が こう走っておるんですが途中ここだけツジ 兵が切れるんですねでこのアプローチして 時この切れたとからこの建物庭が見れるん ですねで手前に大きな木が見えてその奥に 彼さつをするそういう庭をやりたかった らしいんですがちょっと1個戻って ください結果はこうなりましたこれは当時 モマのキュレーター建築部門の キュレーターだったアーサードレクスラー ていう人が日本建築というのは水緑滝とろ ありと理解していたのかドレクスラー自身 はこのカ産水がいいもんだて非常に精神性 の高い日本の庭だというのは分かっていて も一般のアメリカ人には理解が難しいん じゃないかと それで普通の庭にしたのかその理由は私は 分かりませんはい次お願いしますはいこれ は出来上がった書いの中で今お話した トレクスラート吉村純三がここはうまく いったねとかここはもうちょっとだったね とか話してるシーンだと思いますはい次 これは当時の吉田茂首長が見学に行ってん ですね展覧会会場にで右側にいるのがあの

ロックフラ賛成ですで左側の方はこの イベントのなんか会長さんとか小風層関係 の偉い方だと2人とも巨人です吉田は ですしかしですねこの靴を履いているん ですねでこれ実際の展示になりますと アメリカ人大勢を仕掛けたんですがみんな 入り口でスリッパーに履き替えて室内畳の 部屋とかこのテラスを歩いてして吉は川口 を履いたまま畳の部屋も歩て見学したん ですねですから日本のマナーを当時の師匠 は守らなかったとこの巨人の2人は吉田が 靴を脱がないので自分たちはどうしよう かっていうことを非常に悩んだと私は思い ますはい次でこれはあのこの小風シリーズ はアメリカがの戦後アメリカ人が住宅自分 の住宅を立て多く立て出すだろうという ことを読んでですねもうあのドレクスラー 中心に住宅を建てるんだったらこういう 住宅もありますよという展示をですね 1950年155年後からですね1つの 建物を2年間実物展示したんですねその 最初の展示例がこれはブロイヤー あのブロイヤーとアメリカの建築家が設計 した住宅ですこれが2年間って2番目は ちょっと忘れましたが3番目が消層だった わけですねで先生の消層は非常にアメリカ 人にとって人気がありましてこのえ ブロイヤーの住宅の入場者の3倍を超え 同じ期間で3倍を超えた来場者があった そうですはい次これは今この建物はあの もまでの展示が終わりましてその側 フィラデルフィア郊外の公演に一されまし たそれで一後非常に管理が悪いじあの時代 がありましてかなり痛んだんですねでさ 最近まもう10年以上前になると最近 手直しがされまして元通りされたんですが 当初の小層そのニューヨークのイベントで やった小のこのふまそれからこのの奥の壁 には先生の芸大の包有明雄友達あり東山海 さんが絵を書いておりますでヒラデルフに 移して管理機関が悪い時になんか盗賊と いうか防寒が入ってその襖を全部壊して しまったんですねでそれを知った日本の ある有名な画家が 現在ご生存の方ですけど名前は言わない ようにしますがこういうあの水爆 フォーリングウォーター滝の絵のすまを 全部あの偽造したというか絵は送ったんだ けど表層は将軍層管理の会で自分でやれ みたいな送り方をしたとも聞いております がこういう不になっておるわけですこれは ですね私の個人的に異常なあい印象なん です が和室という静寂を胸とする空間にこの 水爆の音が

年中耳に聞こえてくるような非常に合わ ない絵だと思い ます極端に言うと建物住が天盛りをしてる と言った方もいらっしゃいますこれはあの 作家の名前は言いませんはい次これは吉村 純が万年あのあの非常に作りことにくを 申しためイスの写真ですけどもこの建物 この畳めるスあの畳めるためのカとかか何 か所あるんですがその辺の金具を改善し きればアーサードレクスラーは ニューヨークのモマの売店で売ってもいい と思っていたようですが実現はしません でしたはい次はいモテルンザマンテこれは モテルロンザマンテえごめんなさい え 1900あ56書いてありに進行した ニューヨーク郊外ニューヨークから車で1 時間も西方に走れば行ける場所ですがその 敷地に行ってどういう建物にしようかと 先生が敷地のま中央部にあるこう岩を 見つけてそこにたたずんでなんかこう放送 を練っている瞑想をしているというのは 有名なシーの写真ですはい次で私はこれ 幸いです10年ぐらい前にやっぱり見たく て行ってきたんですねその行っててきた 10年前ぐらいの写真がこれ ですはい次はい 次あの先生が作ったオリジナルのモテルざ マテが分かるのはこの手すりだけですあと は今のオーナーが 日本文化ということを激しく勘違いして おられるようでしてとんでもない建物に なっておりましたもう先生のこう原型を 思い出せるものはこの手すりだけという 状態で多分この状態を先生がこのよに 生き返って見たとすれば先生はすぐこんな ものは壊してしまい全部壊してしまえと 激しく言ったと思いますちょっと1枚戻っ ていただけますかはいこの奥の方にあの 石造が乗った岩がありますがあの岩の上で 先生は瞑想したんです ね多分そうだと私が現地に行って岩を一緒 に一生懸命探しましてあこれだなと思った んですが現在はたぬきがおしっこをして いるというとんでもないことになっており ましたはい 次はいこの右上の右の方に右端の方にあの 岩の上に先生が乗っているこう先ほどの 写真の記事でこのボテロンザマンテができ たというのをその分かってもらうような 看板が未だにあるんですけども本当に私も この建物あの吉村先生の瞑想してる写真 などは決して欲しいと強烈に思いました次 これ山1960はい次 これはです

ね会場に今回も神奈川大学の学生さんが 頑張って模型を作っていただきましたが 模型を見て私が見つけた模型のですね ちょっとエラーがありますので大事な点な もんですからちょっと皆さんにお話しさせ ていただきたいと思い ますこのですねこの立面のこの番上にこう 差し場のこう水平 のこれ深沢さんちょっとこの辺だけ拡大 することはできますかできません かはいはいあいいですねこの水平の久が ですねここで水平でなくこう斜めに ちょっとこう上がっているのはお若かりに なると思うんですが多分私の山間では多分 50cmぐらいは上がっているんじゃない かと30cmよりは50cmぐらい上がっ ているんじゃないかと思いますでこれは ですねこのここが上がっているという形が 会場に展示されおます模型にはあのそう いう風に作られておりませんこの手前と 同じように水平に回っておりますこれは ですね何のためかなんですがはい 次はいこう見た時ですねこの部分がこっち の先端よりも50cmぐらい多多が上がっ てるんですねでこれは水平に回ってくると その部分が水平よりも垂れて見える とそれで50cmぐらいここを上げた方が 水平に回ってるように見えるんだとこれは とっても吉村先生独特の繊細な感覚なん ですね模型はそうなっておりませ ん松ささんすいませんちょっと学生さんに は失礼なこと言いますけど大事なことなん だはい次はい次行って くださいでこれは同じ年にビルから1km ほど離れた場所に立ちましたなんとか フィルム本社当時の本社ビル ですこの建物と同じ年にできた今の青山 タビを見比べて私は建築家のセンスという のはやっぱり相当違うもんだなとこれ私が あの1971年に吉に入りましてすぐ雑誌 に発表になったんですねで両方発表になり ましたから見比べて現物も見に行ってああ 建築家というデザインでこんなに違うんだ このビルの方があの青山ビルより34回 高いビルですけど もはい設計者の名前は言いませんはい次お 願いしますこれは イタリアに作ったジオポンティという人が 作ったあのタイヤのピレリメーカーの本社 ですねま山本よりずっと前にできたたと 思うんですが多分先生はこれの実物を見た か雑誌で見たか相当影響をされたんだと 思います次これはニューヨークにあります イロサーリネンという方が設計したCBS ビルディングの写真ですこれは

ニューヨークマガタの中にある超高層ビル の中で1番シンプルで美しいと未だに言わ れているビですシンプルで非常に与える 印象が渋いこう派手さがない素晴らしい これも先生は度々アメリカ行って ニューヨークに言ってますからこれができ ているのを実際に見ているんだとこれも 先生に影響を与えたんじゃないかと私は 思い次はいこれ入り口ですねこの入り口 あの柱の間に狭い入り口が並んでいいの ですが実にこう吸吸い込まれるように入っ ていける入り口です東京の新宿とかえと あの銀座とかにあるようなビルの入り口と はまく印象をこにしますはい次これはあの このタホルの裏の方にあったあの音楽 ホールで青山タワーホールという名前は このホールのことを言った名前ですねで これは青山タホビル自体も非常にロー コストだったんですね当時作られるオフス ビルの半分ぐらいしか予算が半分以下とか なんかおせさんがすごくケチな方でして 非常にローコストだっで残ったお金で ホールを作るもんですからホールはさらに ローコストだったらしいんですで内装の その両側の壁のデザインとかはですね全く もう何かやるお金が残っていないという ところであの先生と所員はある知恵を絞っ たんですねはい 次でこれ断面ですね上の方の写真右上見 ますととあの奥の上の方からあの左側ま席 から言いました右側の壁が少しずつこう上 の方で割れ目になってその割れ目のとこに 照明が入ってるようなデザインになってる んですねはい次あ戻ってくださいももう1 つ戻ってくださいもう1つはいもう1つ 先ほどの青山タの図面に戻ってくださいで これ でこの辺この辺をちょっと拡大してもらえ ます かこのホールの断面ですねももっと大きく なりませんかこれで限界です かはいこのホールの断面この両脇にこう柱 が登っていて針になってこっちに柱で降り てくるというあの柱の位置が何箇所かある んですねでこの柱がこの床から上にくに従 て少しずつこう太くなっていくんですこの 柱の柱製と言んでしょうかこっち方向が ですね少しずつこう斜めに太くなっていっ て針になりましてまたこっち太い柱が細く なりながら床まで降りるんですねこういう 構造の柱が何本か立っておりましてお金が ないもんですから当時の担当者から聞いた んですがまずこの柱のあの柱の内側壁の ところにボードを建て増してずっと垂直に 進んでいくとこの柱大きくなった柱に

ぶつかりますからその大きくなった柱に ぶつからないようにこの辺でちょっと斜め に倒したんですねそれで柱の外側にボード を貼ってで次はまたあの普通の垂直の柱 からあの壁に張った壁からまた次の柱に 向かっていく時にまた柱がが現れないよう に斜めに倒して針を柱を隠したとそういう のを繰り返しだけなんですねあの結局垂直 に建物あの壁のボドこのぐらいの高さを 立てることよりもこのぐらいちょっと カーブさててたあの下地の鉄骨を組む方が 楽ですから垂直にまったいらに組む方が よっぽど難しいわけですねですからこの カーブを作ることであの難しさが上がった んじゃなくてそういう柱を隠すということ を繰り返した壁が ハツ 次次あはいこれはい次はいこのこのこの 繰り返しになってるんですねもう先生は あのその所員がこういうことを考えたのは 非常に褒めたそうです君ナイスアイデアだ ねてこんな安くてこんな綺麗な壁はでき ないねとちなみにここに天井にぶら下がっ てる照明もその担当者が考えまして先生は また面白いこと言ったんですね天井にコモ が止まってるようで面白いねと言った らしいですはい 次はいはいジャパン1971年はい 次えっと話が飛びますけどもこれは 1949年か1950年にできました ニューヨークマンハタンの中にあります ロックウェラさん家のゲストハウスですで フィリップジョンソンというあの有名な 建築家がデザインしたもんで次次あ ちょっと戻ってもらえますかここ にえこっちが玄関でここの小さいところが 入口ですがリビングあダイニングがあり ましてここに中庭があるんですねこれ外部 ですね外部をあここがこれが中庭ですね 外部です外部の向こうに寝室があるんです ねはい次これが入り口はい次これはその リビングから見た奥の寝室まで外部の中庭 を通って生きするという写真ですはい次で これ吉丸先生がやられた1971年 ジャパンアウスレがはい次先生はこの光の 庭をやいたかったんですねでこの光の庭は 先生もやりたかったんですが ロックフェラーの奥様先ほど言いました奥 様ががあのゲストハウスのような中庭 みたいなところが是非欲しいと吉村先生に お願いしたそうですで先生はその君でこう いう中庭のあるジャパンハスをつめはい次 で先生は先ほど言いました小風層のもまの 展示会でツジベで囲われた小層の外外側 チケットを受け付けばまではフィリップ

ジョンソンにデザインをさせてるんですね でフィリップジョンソンに当時やっぱり 呼ばれてこのフィリップジョンソンの名作 ガラスの家に見学に行っておりましその話 を聞いて先生こういうプライバシーはどう なんですかて聞いたんですが広大な敷地 広い敷地体が守られててこの建物のなその そのプライバシーを犯すようなものは全く 接近できないんだとだからこれでカーテン もなくて平気なんだよと先生がおっしゃっ てましたはい次これはみさご存知の 日本建築安藤なんとかさんのなんとかの 長屋のこの建物はえフィリップジョンソン のゲストハウスロックフェラー帝の ゲストハウスから市販世紀後の作品で ございますアンドアンド言っちゃいけない な彼が見たのか知っていたのかは分かり ません 次えっとこれは えその なんとかさんのなんとかの長屋の中庭です ねはい 次それはそこのその平面です先ほどの ロラーさんのとまかなり似てるか似てない かみたいな作品ですはい次オリーブのこれ はあのこれからあのすて大沢さんの家の ことですがはい次この家はこの写真が有名 ですこの右側に大きく育ったオリーブの木 がありまして先生はこれをこのオリーブの 木を非常に大切にしようと思ってこういう プランを考えたと聞いておりまし た向こう側にリビングそのリビングの 向こうにはちょっと天井まで届いてない パネルで仕切った寝室もあるんですがで リビングの左側に一直線のアイランド キッチンですねで手前に食卓があります はい次でその今の写真を説明するとこう いう平面図になりますで私はこれはですね これもあの入所した時にすぐ雑誌に発表 なりまして仕事前に毎晩赤鳥人に事務所の 先輩と飲んで通っていたもんですからそこ で先輩がですねこの作品日中事務所で雑誌 に発表されたのを見てこれはね吉村先生の ホねと言ったんですね先生ヒットは いっぱい打ってるけどこれはホームランだ この一直線のアイランドのキッチンを置く だけでこういう匠に空間を分けていると これはすごいねっていう私もそうだねと 思って2人で通院した記憶があり ますしかしですね随分後になってから皆 さんご存知です奥村誠さんという愛すべき 女性建築家吉村事務所の先輩が いらっしゃったんですが亡くなる前の時に 質問したんですねこれは吉丸先生のホーム ランだねって僕は先輩と酒飲みながらした

んですよたらね藤井君ねちょっと違うんだ よって言うんですね で 次はい これがですね基本設計にさ最初にまとめた 図面らしいんですそれはあの奥村誠さん から聞いた話を私が今回のこの シンポジウムのために下手なあのパソコン 操作で作ったもんこの実に食堂になってた 場所がですね和室だったんです ねなんかたまたま時々来る来客用の部屋を ここに作って来客用のための便所をこのに あったらしいん ですで3階の和室はあのなかったんですね 2階建てだったんですねでこの和室でこと が足りると思ってたんですでこの建物は 実際基本設計終わってから実際に公実には 45年遅れましていざ着港の時状況が 変わったんですねこの来客は結構長く相老 しそうだという風に変わりまして長くいる んじゃこの食堂の位置に和室でいられたん じゃ自分たちもやだし本人もやだろうなと いうことでこの和室を3階のこの上に上げ たんですねでここが開いたん ですそれで1個戻ってください写真をここ を食堂にしたんです ね実に先生はやっぱりホームランバッター ではなかったということなんですねこの話 を先日松雲さんに松堀米さんかいや話をし ましたら堀米さん曰これは先生の巨匠の ランニングホームなんだと言いました確か にあのいろんな設計条件が変わっていく 段階で先生の作品っていうのはガラっと 変わる時がありますでそのチャンスを 見逃さないっていうかそのチャンスを もぎ取る転生のその能力のすさを感じた例 のお話をさせていただきましたありがとう ございます ちょっともう1個戻ってもらですかはいあ 先に行ってくださいもうもう1つこの図は ですねですからこのアイランドキッチンが この和室ができてもこう一直線だったかと いうのは分かりませんこれは私が適当に アイランドキッチンを短くしただけの図面 で実際にはどういうキッチンなっていたの か判明しませんはい 次はいよろしいでしょうかあの大さんにて いただきたいあとあとあと5分駆け足で もういいです皆さんなんか時間がないよう なんでいやもう延長しちゃってますこれで あそうですかはいじゃあすいませんじゃ あと3分はい次はいはい次これ6フラ 先ほど真子さんからごはい次これリビング ですね 次これが中庭なんですが担当者松本さん曰

やっぱり設計時間は結構期間的にタイト だったとで工事が終わって自分はこう思っ たっていうんですねここにあのこの有壁床 から15cmぐらい有壁がこう回ってるん ですがこれ風と開けると風通しができる とこがなってんですねでこれはやっぱり 天井はあのガラスに対してゾロなんですね ですからこれはね逆の方が良かったって 言うんですよ出来上がったの見てで吉先生 にもそれ言た先生もそうだったかもしれ ないなとおっしゃったらしいですはい次 これは食堂です次これが私が設計した面 できた書あんです次これがそう階段ですね はい次で私が下手なパソコン操作でこの下 にある有壁を下手な操作で上に上げてみ ましたはい次こうなるんですねでこう床 からこう庭がちょっとかぶりつきになれる 違いがあり ますあんまり違いはないような相当違う ようなという違いがはい次はい住そ客これ は今回のあの展示のさ入り口入った奥最初 のこになりますワシントンのこう擬似道 ですねのこ巨大なモールがありますその 周りに立ってるのはこれスミソニアン 学術教会の建物が並んでいるんですねで ここに本本部がありますはい次これが本部 ですで本部これモールは南北にえ南北これ あのこの部分はこの本部のあの前庭と言わ れてる庭ですねでこの庭に先生は え 1978年に2つの美術感を設計しろと いう仕事をあの依頼されておりますでこれ はあの事情があって途中で設計を辞退して 実先生の案は実現しましたたんですが やはりここに2 つここに2つ建物が他の設計事務所によっ てできているのが分かります 次でこれはあのプレゼ担当を判明した私な が書いたあのスミソニアン協会に提出した あ基本設計所のパースですはい 次これ模型と写真です はい はいこれはレーモンドさレーモンドさ アメリカに吉村を呼んだレーモンド アントニンとのみレーモンドの写真次で リモドの事務所にいた時の吉村純三がこれ ですいつもこの辺にタバコを指に挟んで ますねこれがのみレモンドレモンドさんは この方の向こう側にで写真は写っており ませんはいこれがそのアリエ同僚とた写真 はい次これが先生が レモンドに呼ばれて日本からパナマ運河を 経由してニューヨークまで行った ええ竜丸じゃなくて山陽丸の中で書いた スケッチすごく上場ですね402時間

かかってニューヨークまでてはい次でこの 帰りはこの竜丸という船に サンフランシスコから乗って横浜港まで2 週間重家の旅をしております次これは会員 の立たで書いたスケッチですやっぱり スケッチ大上ですねあの井熊原二郎先生が 吉村先生君は建築官7に絵描きになったら 僕なんかよりもずっと有名になったよと おっしゃったそうですはいこれは サンフランシスコからあの竜玉に乗るため に先生は船の出航を待ってたんですが当時 のアメリカと日本は新珠安攻撃の半年前 ぐらいでして非常に見学の関係だったん ですねで外交交渉が すごくあの困っておりましてスムーズに 立たは入行してからあの乗員を乗客を乗せ てあの物資食料などを載せて出行でき なかったんです1週間ぐらい定約させられ たんですねあのアメリカ政府の出行局が出 なかったんでその時に出行待って先生が野 レーモンドに大和ホテルというホテルの 便箋で手紙をやり取りしておりますます ここにここに大和ホテルだ当時の大和 ホテルの写真ですねこれは現在の写真で 大和ホテルの看板はありませんけども建物 はそっくりのサンフランシスコの中華のど 真ん中にありますここで1週間ぐらい先生 はハハイライラしてたんだと思いますはい 次これも現状これが現在のそっくり建物は 残ってますこれが当時の大和はい次これは 軽井沢の別荘で先生がなんかスケッチされ ているようなシーンでなんか先生のこの 設計姿勢ってのは非常にこう伝わってくる 写真だと思います以上 ですはいありがとうございまし たいや大沢さんぜひえっと一言喋らないと 僕の名前が出てたので大沢と申します えっと本日はですね えっとおさっきあの藤井さんからあの出て きたあの井熊ての1つだけ写真僕1枚しか 写真持ってきてませんえっと井熊現一郎の うですこれ僕今事務所にしておりまして 12年前からここにいるんですけどもこの 写真は吉村純三の作品集お持ちの方はご 存知かもしんないですけど えっと接種があそこに映ってます井熊文子 あ片岡文子っていうんですけどこれ珍しい この写真しかないですこのぐらい井熊さん と吉村さんっていうのはニューヨーク時代 からずっと本にんつってたんですから すごいもう大人ですよねで特にアメリカの から吉村さんが持ってきたものはまこの家 にもしかすると凝縮されてるかもしれない すいませんすいません先生の作品集で先生 の建物の中にあのおせさんが登場する例は

これが唯一です唯一ですだからそのぐらい 先生とんとんのが の1956年の小風っていうあの56年4 年か5年でその時に吉村先生がえ井さんを 呼ぶわけですねあのあの現さ絶対ここが今 ニューヨークが1番面白いていうことで それで結局井熊はフランスに行かなくてま 全然フランスにいたんですけどフランスに 行かないで20年切符を破って20年住む ことになっちゃったそれだけやっぱ吉村 先生は1番いい時のニューヨークに吉村 あの井を連れてきてくれたま僕は恩人だと 思いますけど最高に時代でしたから 5055年から60年っていうのは アメリカの美術がヨーロッパよりも上に なった時代ですその時に井熊さんはなんと 52歳だったんですよ52歳その時に1番 親友になったのがジャスパージョーンズと かラウシェンバーグとかみんな20歳だっ たんですよ25歳とか30歳井熊さんその ぐらいやっぱり新しいものに対してのあ 若い人にすごく好きだったっていうか次の 時代はあるそれはやっぱり吉村先生はそれ 分かった分かってたんですねだから井熊 さん絶対来た方がいいまそういう関係から できたもんで今回の展覧会でだから住宅で 井って出てますけどあのアメリカから吉村 先生が持ってきたのやっぱ井に凝縮され てるなっていうその一言であとはあの僕の あのあれが出てますので今日まだ見てない 方はあの1番奥の部屋にビデオがあります それとあと住宅建築ですか建築に松さんと 村さんとのえね座談会がありますでもしお 時間のある方されてます今日は色々話が あるんですけど も名前が出てるのね松さんすいません最後 に1分 だけ先ほど予告したのの1つをお見せし なきゃいけないさん私の最後の送った データをていはいん存じ田川竜之助 ですこれ吉村とアメリカ店に関係ないじゃ ないかと皆さん当然思われると思うんです が吉村純三は中学高校を当時の府中第3中 学校に通いまして現在の両国高校ですね そこの生徒だったわけですその同窓制で 16歳上に川竜之助がいます 次これは をやったも両国高校出身ですはい次これは 何でしたっけ えなんとか英治郎経済自由経済主義を唱え た学者です次これはえ堀を風立を書いて 軽井沢の風立の次これ立原 道非常に美しい日本語の書い方です次これ は木秀ですか建築家ですこの方の1年下が 探建造だったか違いますかはい次これは

もう1つ戻ってくださいこれは実に浅沼 稲次郎です日本社会党の初期長委員長には ならなかった初期長ですあの防寒に襲われ てあの命をなくした悲劇的な事件の主人公 です次それからこれは今 内藤領っていう作家ですか今売れてるえ内 医療じゃなくてなんだっけ名前で忘れし ました現在も大勢存はい次吉島ですから 両国高校というのは非常に日本のその戦前 戦後その文化アートを切り開いた文芸作品 小説建築そういう方がいっぱい排出された 学校なんですねそこで先生はったわけです 学校に通ったわけですはい次で田雄之助が ですね大川を褒めている文章です大川って いうのは現在のスミ側のことです大川が 好きで大川がなければ東京はないよと大川 が好きだから東京に住んでいるというよな 文章を書いております東京東京あがゆに 生活を愛するのであると田川竜之介が書い てます次でこれはその頃の住田川付近の 風景ですはい次これもそうですね花火大会 のハガですね次もう花火大会境の頃はい次 でこれはえっとその当時その洋学高校の 校長先生だった名前ちょっと失礼しました けど非常に学校教育に熱心でであの 素晴らしい校長先生だったらしいです次で この学校では英語会話教育というのを非常 に重視しましてはい次ないですかあの先生 は戦前戦術でアメリカに行って仕事をした んですが英語が喋ったわけんですねで先生 の絵がどういう英語ですかて私はちょっと 関係の人に聞いた先生の英語は余計なこと 要点だけ喋って余計なことを言わないから アメリカ人にも非常に 納得してもらった縁を喋っていたとその 英語は先生はこの両語高校で1920年代 に 英語会話教室で学んだんですねですから今 から100年前 にあの本条の近くの両語両国高校でそんな 英語教育をしていたんだと今は何なんだて いうな感じがすごくします以上 ですちょっとねはいありがとうございまし たちょっと 訂正はい先ほどあのロックフェラーのはい えあマイクを近づけて喋っ てああの先ほどロックフェラーのあのお 風呂をひのきと申し上げましたけどもあの 休みの時間にですね上田君が私のとこに来 てくれてえいや牧の木たということ訂正 いたし ますすいませんあの本当に司会が至らませ んであののびのびと話していただいたら あのすいません寄手の時間を超過して しまいましたあの本当に申し訳ないと思っ

てるんですけどただま今日本当に貴重な初 公開の話がたくさん出てきましたので是非 あのこの続きをですねあの村さんのファン がこれだけいらっしゃるっってこともよく 分かったしあの大事なのは今の時期に きちんと次の世代に伝えないといけないと 僕は本当に思ってるのであの本当に今の 若い人たちにやっぱ知ってもらいたいし あの是非あのすいませんあの前座だけやり ましたけどあの芸大のあの関係者の方々 是非発信を始めていただければありがたい ですあのついスかで失礼いましあの最後に あのパレラの皆さんに拍手していただいて 終わりたいと思いますありがとうござい ました ありがとうございましたあの皆様もあの遅 までのお残りいただきまして本当に ありがとございました感謝申し上げます じゃあもう一度じゃあ先生方に拍で終わり たいと思い [拍手] ますあの私はまあの30で帰ってきて先生 のところにま務めたもんですから やっぱり0からのスタートだったので特に イタリアボケで帰ってきたもんだ からかなり自由に あの好きなことをやれよという感じ の扱いでしたそれで吉村事務所は20人 ぐらいおりまして私の席を開けるために 室内の向きを全部変え並べたということが ありまして所員たちの後でなんかもたい もったいぶってそのお前が入ったから全部 移動させられたというようなことをやり ましたけども先生自身はあのそういうこと であのまずは様子を見ろという言い方でし たねその様子というのは長くと半年ぐい何 もあさせないんです よそれでまあの先輩の間に挟まった先輩と 僕の同級生の平尾君の間に挟まって あの雑用の手伝いみたいなもの ちょこちょこっとやるのがスタートでした あの当時出来上がりかけていた現場があり ますねそうすると誰々さんがこれから現場 に見に行くというと私はじゃあ私も一緒 にって言ったまそういうそれが自由だった わけですそれでかなりあのその当時のでき つつあるものとかできたものの見直しとか そういう現場をしょっちゅう 一緒にくっついていったあのあのこの間も ちょっと話しましたけどもあの先生は こう条件を要するに敷地とかそれ からずあの敷地の面積とか を示した上であとはやってごらんなさいて いう形で まずその人を試すというかその人に考え

てることをやらせるわけですねこれ彼は こうかと言うとあ少しずつ修正していく わけです それから2番目がですね一応目安となる スケッチを渡してこないだのマツ子先生の 例ですけどねスケッチを渡してこれを ベースに考えなさいと言って悩むわけです よそういうのが1つ2番目のタイプそれ から3番目はですねあのもうすでに こう自分の性格としてですですね個性的に なかなか買いにくそうな 男に対してはやっぱりあの1/0ぐらい までのあのま金ばかりまでも含めて渡して ですねうでこうフリーハンドで見みって いう薄い髪に書いてきてそれを渡すわけ ですそうするとその人は1番なんかあの 大事なものを指示されたということで非常 に頑張ってそれを図面として聖書しすると いうかあの作ってきわけですねですから その3種類がありましたあの厳しいのは 厳しくても痛まないの だけま僕がいた時代はあの長さていう台湾 から来たあの方と私が怒られ役でした もっぱら怒られ役でそれが周りに聞こえる ように起こって 私の上司が怒られてるように伝わるように 怒ってくれるわけですね怒られると我々 やっぱり閉めたと思うわけですよ自分に だけ怒ってくれるということがね みんなだけど怒り方によってはそのすごい やっぱりもうなんか信者みたいにいる所員 はですね痛んじゃってじゃなったりされる と困るからそういう人もちゃんと見分け ちゃういますよねそういう社会はあります よねその辺は先生はすごくねあの デリケートに 深くちゃんとキャッチしました ねこれはねすごく当たりなんですけども 先生はねこう言ったんですよ あの最初にヨーロッパ見ちゃう とアメリカの良さが見えにくくなると ヨーロッパの古いものの蓄積を見た後に 行くとあアメリカの街がねちょうど今の 東京みたいなもんですけどそういうような 見方しかできないんじゃないかとま学生 分際であればそれをちょっと私に言い たかったんだと思うんですねでその時には ちょっとまああの英語もできない しやっぱヨーロッパの方が面白そうだと いう のがありましたそれでま行ってみたら やっぱり先生の あ言われてることがなんとなく分かりまし たねというの はえヨーロッパに行きたかった理由は

やっぱりドムスとかカサベラとかオジDと とか見てオジDは写真が少ないんだそれ ほどじゃないんですけどドムスは非常に その意識的にやっぱりそのイタリア人に 対してもね戦後のイタリア人に対しても モダな美しさを示すための雑誌でしたから 日本もやの原になってそのモダていうもの に対してすごく新鮮に感じてたんでだけど 言ってみるとですねやっぱり圧倒的に古い ものには負けるわけですねあその時にあ そうかこの調子でアメリカに行ってたら そのえあのヨーロッパから行っちゃうと どうも ちょっと理解が遅くなるんじゃないかと いうことを先生は直感的に分かったんだと 思うんですねそれで行くならアメリカが先 だということを言ったんだと思いますそれ はあの井熊さんに対しても吉村先生が協力 にあパリよりはニューヨークだよて言った のは同じことだったと思うんです よま同じ時期にあのの絵描きでは岡田健造 が言ってますしねそのユニズムで言って ますけどもおそらくその辺の直感っていう のは先生の直感というのはすごい鋭かった と思うんです ねやっぱりあれですね同時に考えろという ことですね要するにプラン と立面 と中身とどよく質問の中で エレベーションは後からですかみたいな 言い方をしますけど先生の場合はもう同時 に考えるの当たり前というのが自分 の身についてたわけですからね我々があの エレベーションはなんてちょっとこう 戸惑ったりしたらもうだいぶやっぱり まずいわけですねだこういう感じでていう ぐらいのことまでは用意しておかなきゃ だめだ吉村先生の デザインで1番あの面白いのはあの対面し てですね あの打ち合わせする時に打ち合わせの途中 で目をつるんです 時々こう目をつって23分ぐらい積って ですねこうあの打ち合せ のものをか図面に対して考えるわけですね その時先生はですね何を考えてるかという と そのこ構成だけではなくそこに住む人とか 老人か大人か男か女か子供かそういう人が じゃあ立ち上がってどういう風な同線で 動くかとかそれから今度その人たちがその もうちょっと年を取ってこの階段で いちいち登ってご飯を食べに行かなきゃ ダメなのかとか色々なこういうところまで をこうイメージしてですね打ち合わせの

段階でも彼は考えちゃうみたいでその今で 言うその仮想現実バーチャルレアリティを 頭の中でやってみせるわけです よそれはね我々はねじっと3分ぐらい待っ ててでその後にその先生がそこでもしこの 人がこういう風にすると君はどう考えると かこのプランだったらどう行くとかそう いう風 な 突然2次元から3次元に移ったりするわけ ですねでそういうあの打ち合わせっていう のはその先生の個室で打ち合わせる時にえ だいぶまあ実信がか固まる時ですね固まる 前はその付の上でそれで我々はその手を 使って何枚でも消しゴム使って書いてると いかにも仕事をしてるけどもそこまで回っ てないわけですよねまそのうちに今度は プランニングをしながらここにこう窓が あるとかここにこうあるとかっていうのは いつの間にか身につくというのがその先生 のやり方で今になってみるとバーチャル レアリティを先取りしてたんですねその中 でそのベースとなるのは同線とそれから 同線の前にあれですよねファンクション ですよね機能機能同線それから展開ですね それと美しい プロポーション美しくなきゃだめですね それで快適で快適に住んで快適に働くと いうそういうようなものを全部こう満たす ことは先生 のなんていうかな あの追求する先ですからやっぱり白日中 風呂の中でも考えたんじゃないかと思い ます ねプロジェクトはですね先ほど話したつい ていったどなたが担当だったかわかんない んですけども青山にあった今国さんという 方の小さな住宅でこれにはびっくりしまし たもう今はないんですけどね要する に全てを例えば あ小さな家であり ながらお客様が見えた時にちゃんと持て なしながらも自分たちの生活にそれが ちゃんとあ伝わるような和室だったりそれ からちょっとその隣に またジコーナーというか畳半ぐらいの 茶の間があってですねそれが非常に勇気的 にこう あのま勇気的というか自然にですね スポンタネにこう連続してるもんですから こんな小さな空間の中でこれが表現できる のかということにちょっとびっくりしまし た ね僕はね先生 はやっぱり新年の人だとうんです

よ新年の人というのは要するに やっぱり日本のあるべき建築ということと それからもう1つはその やっぱりこれを選ばれたっていうかそのま 古上員の移しを自分なりに少し変えてです ねそれ以上にシンプルにその美しさをこう まとめた点でですねやっぱりあの敗戦国 日本の我々はこういうものを持ってるんだ よというちょっと高度な意味で のしかもシンプルで ね豊なそういうものを先生はアメリカに 見せたと思うんですね普通の建築家であれ ばこれ は単に古い建物の映しじゃないかみたいな 捉え方をしてそういうものを持たないで もっと頑張りすぎちゃっ てこれビチ風だったりなんかするような ものを持って生きかねないわけだけども やはりその日本の伝統にある大事なものま 民家も先生 大好きだったけども民家よりはやはりその 所員の方がもっと説得力があるという風に ちゃんとま分かってたんでょねそれ若い時 に学生時代に国内を旅行してるし古いもの は見回ってるしまその足はま中国もずっと 回ったりしてるので その国と国とのこう感じ方 をやはり自分なりに持ってたんだと思うん ですねその信念っていうのはやっぱり明治 の末の生れだからかなと思うんですけども 我々昭和二桁はその辺の新年にはちょっと 弱いとこありますけどねあの先生がですね あの公共がほぼ実施が始まってる頃あ違う 基本が終わる頃に基本と言ってもほとんど 実施ですからね終わる頃にその区内長から あの見てこいと言われた長の形で1ヶ月 ぐらいの旅行で回った回られたんですね アメリカの次にヨーロッパと大体あのチフ の担当のチフの上田さんが付き添って回ら れたんですけども あその時ま最終地がローマだったんで ローマには私がいたもんだから あ先生たちが行くので案内しろということ で え宿まで取っ てパンテオンの隣に取ったんですけども うるさくてならんないとかて言われて翌日 じゃあうちの近くのますぐ100mぐらい しか離れたんですけど あのパントンからう映してですね移って もらってあのホテル に泊まってま3日ほど滞在されたんで 先生はあの要するに宮殿を見る見てという なんか仕事のうちどうですかて言ったら もうパレスはいいやともうパレスはたくさ

んっていうのは先生の意見で要するに日本 のパレスを作ってんだってヨーロッパの パレスやアメリカのパレスなんか見たって 内長の おしまには分かるけど自分にとってはね 分かりきったことだということだったと 思うんですよパリスがいいからあに連れて 行ってくれとやっぱりね あの気候と かそれがあそのフードの問題ですよね フードの問題と人間の問題が違うわけだ から日本には日本だというやっぱり確信が あるわけで あのそれはた要するにすぐ取り入れるか 取り入れないかというのはちょっと別で ですねその植民地みたいなものであっても あの取り入れない国と取り入れる国だけど 日本は戦後全部取り入れましたよ ねだからそういう違いに対してはちょっと やっぱり違和感を持ってたんじゃないかな と思います ねそれから十分にその欧米に対して日本の 建築が通用するというなんか自信が我々 なんかよりずっと強くあったんじゃないか と思い ますま あの今になってみると おやっぱり先生にもうちょっとね僕は ちょっと距離を置いてえ遠慮してたんです けど1人占め従がる男がいましたねそう いう部分は分かってるけども あのやっぱりもったいない部分もありまし たけどねだ けどとにかく 吉村事務所っていうのはすごくパストラル な田園的な雰囲気の中です ね I

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