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■管長日記「無の一字」
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最後に一日のはじまりを整える、呼吸瞑想がございます。
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一月末に円覚寺で行われた鎌倉禅研究会は、趙州和尚の無字についての学びの場となりました。
趙州和尚の無字というのは、『無門関』の第一則にある公案であります。
趙州和尚にある僧が、犬にも仏性がありますかと質問しました。
趙州和尚は無と答えたという話しであります。
「仏性」というのは何かというと、岩波書店の『仏教辞典』には、
「衆生が本来有しているところの、仏の本性にして、かつまた仏となる可能性の意。」と解説されています。
大乗の『涅槃経』には「一切衆生悉有仏性」という有名な言葉がございます。
これはどういう意味かというと、これも『仏教辞典』には、
「すべての衆生に仏となる本性がある、という教説」であります。
更に「仏性は仏の因の意で、衆生の中にある仏と同じ徳性で、それが成仏を可能にする。
しかもそのような可能性がすべての衆生に例外なく平等にあると説くところに、この教説の特色があり、中国・日本の仏教に大きな影響を与えた。」
と解説されています。
衆生というのは生きとし生けるもののことです。
生きとし生けるものに皆仏性があると『涅槃経』にも書かれているのです。
それなのに趙州和尚は、なぜ犬には無いと言ったのか、僧が更に問うと、
趙州和尚は犬には業識性があるからだと答えました。
ところが、この「無」の一字が、特別な意味をもって、坐禅修行の課題となっていったのです。
平野宗浄老師の「狗子無仏性の話をめぐって」(『禅学研究』六二、一九八三年)という論文には、
「そこでこの公案の目指すところは、学人をして無に一切の手係りをもたせないことである。無を思惟の対象とさせないことである。既にこれを思惟の対象とせず、しかも只麼に挙せよというからには学人の前に残された一途は、世間でよくいう「無に成りきる」ことしかない。
学人は「無ーつ」「無ーつ」とこの無の一念について精神を集中させる。無字はいわば精神統一の方法となった。」
という言葉がありますが、まさにその通りで、ただ「無になりきる」という修行になっていったのです。
そのようになるのには、五祖法演禅師が大きな役割を果たされています。
今回も小川先生は、五祖法演禅師の言葉を紹介なさっていました。
五祖禅師の語録のことばですが、これは小川先生の『語録の思想史』(岩波書店)に現代語訳が載っていますので、そちらを引用させてもらいます。
「法演禅師は上堂し、まず次の公案を提起したー僧が趙州に問う、「イヌに仏性が有りましょうか」。趙州、「無」。
「一切衆生にあまねく仏性あるはず。それが何ゆえ、イヌには無いのでございましょう」。趙州いわく、「やつに業識あるがゆえだ」。
これについて法演は言うー諸君、汝らはみなひごろ、これを如何に解しておるか。
わしはひごろ、ただこの「無」の字を提起して、それで止める。
汝らもこの一字を突き抜ければ、天下のすべての人も、汝を如何にもしえぬであろう。
では、汝らはこれを如何に突き抜けるか。
これを徹底的に突き抜けうる者は、おるか。
おらばここへ出てまいって、一言申せ! だが「有り」と言うても「無し」と言うても「不有不無」と言うてもならぬ。さあ、そこで汝らは何と言うか。以上。」
という五祖禅師のお説法なのであります。
もうここでは、一切の衆生に仏性があると説かれているのに、どうして犬にないのですかという、後半の問いは切り捨てられています。
更に五祖禅師のお弟子のそのまたお弟子にあたる大慧禅師は、『大慧書』の中で次のように説かれています。
こちらは小川先生の『中国禅宗史』に現代語訳がありますので、そちらから一部を引用します。
「ともかく、妄想顛倒の心・思量分別の心・生を好み死を悪む心・知見解会の心・静寂を願い喧騒を厭う心、それらを一気に押さえ込むのだ。
そして、その押さえつけたところで、一箇の話頭を看よ。
「僧、趙州ニ問フ、狗子ニ還夕仏性有リヤ。州云ク、無!」と。
この「無」の一字こそは、あれこれの悪しき知識・分別を打ち砕く、強力な武器にほかならない。」
というのであります。
無の一字は、知識分別を打ち砕く武器となっているのです。
また今回は道元禅師のお師匠様である天童如淨禅師の語録のことばも学びました。
如淨禅師のお説法に心に念が湧いてどうしようも無いときには、この趙州の無字が鉄の箒であって、この無字の箒で念を払って、払ってもなお念が起きれば更に鉄の箒で払うのだと説かれています。
仏光国師は十七歳で発心して、この趙州の無字に参じました。
はじめは一年で仕上げるつもりでしたが、見解を得ることができず、また一年工夫しましたが、得るところはありませんでした。
さらに三年続けましたが、手がかりは得られなかったと語録には述べられています。
しかし、五年六年めになると、手がかりは得られなかったけれども、この無字の公案の取り組みが熟して、夢の中にも無字が現われ、世界全体がただ一箇の無字となったというのです。
そこである老僧から無字を手放すように指示されました。
ところが無字を手放しはしましたが、この無字はいつまでもわたしについてまわり、そんな状態が一年ほど続いて、もはや無字が坐禅中にも見えなくなり、わが身も見えなくなったというのです。
空蕩蕩地という世界になったのです。
この空蕩蕩地というのは、広々とした心の世界であって、修行の入り口でもあります。
さて、私などは『無門関』の第一則に趙州の無字が取り上げられて、無門慧開禅師がその評唱を書かれて、それが無字の工夫として定着したと思っていましたが、『無門関』が刊行されたのが、紹定二年、一二二九年なのです。
仏光国師は、一二二六年のお生まれで、無字の修行を始めた頃が、一二四三年頃なので、その頃にどれほど『無門関』が読まれていたのかどうかは分かりません。
今回は、ディディエ ダヴァン先生もお見えになってくれていました。
ダヴァン先生には『『無門関』の出世双六―帰化した禅の聖典』(平凡社、2020)という著書もございます。
『無門関』は中国においてはそれほど読まれてはいなかったとおうかがいしました。
大慧禅師以来の無字の工夫が受け継がれて、仏光国師も径山で無字の修行をなさったのだと分かりました。
無になりきるのもたいへんですが、いろいろ学ぶことのある無の一字なのです。
横田南嶺
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[音楽] [音楽] おはようございます1月末に遠隔寺で行わ れた鎌倉全研究会は上州王将の無事につい ての学びの場となりました上州将の無事と いうのは無門官の第1則にある公案であり ます上州王将にあるそうが犬にも物性が ありますかと質問しました上州王将は無と 答えたという話であります仏性というのは 何かというと岩波書店の仏教時点には主上 が本来有しているところの仏の本性にして かつまた仏となる可能性の胃と解説されて います大場の反業には一切主上シ仏性と いう有名な言葉がありますこれはどういう 意味かと言うとこれも仏教時点には全ての 主上に仏となる本性があるという教説で ありますさらに仏性は仏の因で主上の中に ある仏と同じ特性でそれが成仏を可能に するしかもそのような可能性が全ての主上 に例外なく平等にあると解くところにこの 教説の特色があり中国日本の仏教に大きな 影響を与えたと解説されています主上と いうのは生きとし行けるもののことです 生きとし行けるものにみな物書があると反 業にも書かれているの ですそれなのにに上州王将はなぜ犬には ないと言ったのかそうがさらに問うと上州 王将は犬にはご式症があるからだと答え ましたところがこの無の一次が特別な意味 を持って座禅修行の課題となっていったの です平野宗城老師の楠仏書の和を巡って 全額研究 62という論文にはそこでこの公案の 目指すところは学人をして無に一切の 手がかりを持たせないことである無をCの 対象とさせないことであるすでにこれをC の対象とせずしかも下にこよというからに は学人の前に残された一とは世間でよく 言う無になりきることしかない学人は む あとこの無の一年について精神を集中さ せる無事はいわば精神統一の方法となった という言葉がありますがまさにその通りで ただ無になりきるという修行になっていっ たの ですそのようになるには五法前人が大きな 役割を果たされています今回も川は五法 前時の言葉を紹介なさっていましたごそ 前時の五6の言葉ですがこれは小川先生の 五6の思想市岩波書店に現代御役が載って いますのでそちらを引用させてもらい ます法前時は常同しまずの次の公案を提起 した総が上州に問う犬に物がありましょう か ジシ一切主に物があるはずそれが何故犬に
はないのでございましょう上司弱くやに ごしあるがゆえだこれについて法は言う 諸君なじらは皆日頃これをいかに返して おるかわしは日頃ただこの無の字を提起し てそれでやめるなじらもこの一を突き抜け ば天下の全ての人も何をいかにもしで あろうではナギラはこれをいかに 突き抜けるかこれを徹底的に突き抜けうる ものはおるかこばここへ出てまって一言 申せだがありというてもなしというても ふうふむというてもならぬさあここで何 ジラは何というか以上というごそ前寺のお 説法なのでありますもうここでは一切主上 に物性があると解かれているのににどうし て犬にないのですかという後半の問は 切り捨てられていますさらにごそ前時のお 弟子のそのまたお弟子にあたるダエ善治は ダエ所の中で次のように書かれています こちらは小川先生の中国全集士に現代誤訳 がありますのでそちらから一部を引用し ますともか造天道の心資料分別の心せをを 憎む心知見芸の心静寂を願い謙を厭う心 それらを一気に抑え込むのだそしてその 押さえつけたところで1個の和見を総上州 にとくすには仏性あや主曰く無とこの無の 一時こそはあれこれの悪知識分別を 打ち砕く強力な武器に他ならないというの であります無の一時は知識分別を打ち砕く 武器となっているのですまた今回は同元 前時の師匠様である天堂二条前寺の五6の 言葉も学びました二条前寺の説法に心に念 が湧いてどうしようもない時はこの上州の 無事が鉄の放棄であってこの無事の放棄で 念を払って払ってもなお念を年がを切れば さらに鉄の放棄で払うのだと解かれてい ます仏国士は17歳で発信してこの上州の 無事にさじました初めは1年で仕上げる つもりでしたが権を得るところができず また1年工夫しましたが得るところはあり ませんでしたさらに3年続けましたが 手がかりは得られなかったと五には述べ られていますしかし5年6年目になると 手がかりは得られなかったけれどもこの 無事の考案の取り組みが熟して夢の中にも 無事が現れ世界全体がただ1個の無事と なったというのですそこであるロソから 無事を手放すように指示されましたところ が無事を手放しはしましたがこの無事は いつまでも私についてもりそんな状態が1 年ほど続いてもはやが座禅中にも見えなく なり我がも見えなくなったというのです空 東地という世界になったの ですこの空東頭地というのは広々とした心 の世界であって修行の入り口でもあります さて私などは無門間の第1速に上州の無事
が取り上げられて無門へ海善寺がその表彰 を書かれてそれが無事の工夫として定着し たと思っていましたが無門官が観光された のが上帝2年1229年なのであります仏 広告士は1226年のお生まれで無事の 修行を始めた頃は 1243年頃なのでその頃にどれほど無門 感が読まれていたのかどうかは分かりませ ん今回はディディエダバ先生もお見えに なってくれていましたダバ先生には無門官 の出世五聞かした善の晴天という著書も ございます無門官は中国においてはそれ ほど読まれてはいなかったとお伺いしまし たダエ前時以来の無事の工夫が受け継がれ て仏光国島金山で無事の修行なさったのだ と分かりました無になりきるのも大変です が色々学ぶことのある無の一時なのであり ますそれでは姿勢と呼吸と整えてまり ましょうまず両方の足で床顔しっかりと 踏みしめますこの第一に支えられている ことを感じて足に力を入れてよし 立ち上がるぞという気持ちでお尻を5cm ないし10cmをどすと持ち上げていって ストンと下ろし ます息を吸いながら肩をゆと持ち上げて いって吐くと同時にストンと下ろし ますもう一度息を吸いながら肩をぎっと 持ち上げていって吐くと同時にストンと 下ろし ます最初1息息を強く吐き出しますこの時 にはお腹のお腹の底に溜まっている空気も 全部吐き出してしまうつもりで胸に抱えて いる思いや煩いも全部吐き出してしまう つもりで口を開いて一息 強く と吐き出して口を閉じますと鼻から新鮮な 空気がいっぱい入ってまいりますおへその 下下腹いっぱいに新しい空気が満ちて さらに体の隅々まで新しい空気が雪渡って いくのを感じながらああありがたいな 嬉しいなとこの思わず微笑みがこぼれてま 参りますそんな気持ちでその後は口を閉じ てただ鼻から息が出たり入ったりする様子 を静かに見つめて座り ましょう はいありがとうございますどうぞ今日も いい1日でありますようにお祈りしており ます H