【第6回:臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年12月19日(火)

【第6回:臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年12月19日(火)



「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。

なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。

禅とこころ 臨済録に学ぶ 第六回 令和五年十二月十九日 
臨済禅師の説法―示衆―            花園大学総長 横田南嶺

活潑潑地=極めて勢いのよいさま。気力がみちみちて活動してやまぬさま。

諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。(岩波文庫『臨済録』41ページ)

君たちが、衣服を脱いだり着たりするように、自由に生死に出入したいと思ったら、今そこで説法を聴いている(君たち)その人が、実は形もなく姿もなく、根もなく本もなく、場所も持たずに、ぴちぴちと躍動していることを見て取ることだ。その人が発動するさまざまの方便はすべて、はたらきとしての跡かたを一切とどめぬ。だから追いかければ追いかけるほど遠ざかり求めれば求めるほど逸れていく。ここが摩訶不思議というものだ。
諸君、君たちの幻のような連れを実在と思ってはならぬ。そんなものは遅かれ早かれするりと死んでしまうのだ。君たちはこの世で一体何を求めて解脱としようとするのか。ひとくちの飯にありつき、衣のつくろいをして時を過ごすよりは、良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。大にしてはこの身を作る地水火風(の変調)に、小にしては一瞬一瞬が生住異滅の転変に追い立てられているのだ。諸君、即今ただいま、これら四種の変化が相なき世界であると見て取って、外境に振りまわされぬようにせねばならぬ。(『臨済録』62~63ページ)

皆の衆、衣に目をくれてはいけない。衣は自分では動けない。 人がその衣を着るのだ。衣には清浄衣や無生衣や、菩提衣や涅槃衣や、祖衣や仏衣などがある。しかし皆の衆、こうした名前や文句はすべて、対象に応じて着せかけた衣だ。下っ腹から空気を振動させ、歯をかち合わせて言葉となったもので、こんなものに実体のないのは明らかだ。諸君、こうして外に音声言語が発せられるのは、内なる心のはたらきの表われであり、意思が動いて想念を起こすのだ。
だからそれらはみな衣である。ところが、君たちはそれが着ている衣だけに目を注いで、それを真実だと考えている。そんなことでは、たとえ無限の年月修行しても、衣についての通になるだけの話だ。迷いの世界を堂々めぐりして、生死輪廻することになる。それよりも、のほほんとしているのが一番だ。『出会うても相手は分からず、話し合うても名も知らぬ』だ。(『臨済録』120ページ)

法性の仏身とか、法性の仏国土と言っても、それは明らかにちらつきなのだ。諸君、君たちはそれをちらつかせている当体を見て取らねばならない。それこそが諸仏の出どころであり、あらゆる修行者の終着点なのだ。君たちの生ま身の肉体は説法も聴法もできない。君たちの五臓六腑は説法も聴法もできない。また虚空も説法も聴法もできない。では、いったい何が説法聴法できるのか。
今わしの面前にはっきりと在り、肉身の形体なしに独自の輝きを発している君たちそのもの、それこそが説法聴法できるのだ。こう見て取ったならば、君たちは祖仏と同じで、朝から晩までとぎれることなく、見るものすべてがピタリと決まる。ただ想念が起こると知慧は遠ざかり、思念が変移すれば本体は様がわりするから、迷いの世界に輪廻して、さまざまの苦を受けることになる。しかし、わしの見地に立ったなら、〔このままで〕極まりなく深遠、どこででもスパリと解脱だ。(『臨済録』39ぺーじ)

皆の衆、君たちは、頭陀袋と糞袋を担いで脇みちへ走りまわり、仏を求めたり法を求めたりしているが、現に今そのように求めまわっている当体を君たちは知っているのか。それはぴちぴちと躍動していながら、実は存在の根拠をもたぬ。手で掻き集めることもできず、払い散らすこともできない。求めようとすれば却って遠ざかり、求めなければちゃんと目の前にあって、その霊妙な声は耳いっぱいに聞こえてくる。もしこれが信じきれないならば、一生の修行も無駄骨折りだ。(『臨済録』115ページ)

[音楽] じゃあ皆様どうぞ今日もよろしくお願いを いたしますえまあ12月となりまして12 月ももう後半でございますもうまもなく この令和5年という年も終わりそうになっ てまいりましたええ色々と今年はどういう 年であったか皆様方も振り返ることも多い のではないかなとこう思いますまどう でしょうかしらねこの令和5年という年を 今こう振り返ってみますとまなんと言い ましてもうんここ3年少々にわって色々と 我々このの新たな変化にこう遭遇して まいりましたあ新型コロナウイルス感染症 もうコロナかという言葉がすっかり定着し ておりましたがまそれが1つこのマスクも 自由になりそれから感染症の指定もこう 大きく変化してえ様々な行動の規制も なくなりましてこういうかなりえー元の 暮らしにえ戻る戻ることができているって まこれやっぱ1番大きなことではなかった かなとこ思いますまあしかし最もそのそう は言ってもこの感染症っていうのは なくなるわけではございませんですねま つい先日もあるうん親しい方とま久しぶり にこうおにかかっていや長日はねもうこう こないだもう3ヶ月も入院してもう精子の 境を彷徨っていたんだともう三途の川を 渡りかけておりましたといやどうしたん ですかと聞くといやあのコロナコロナに 感染したんですとあの皆様方の周りでも もう感染したっていう方は結構 いらっしゃるのではないかと思いますま この頃は誰が感染したって言ってもそんな に驚かない大体それそれほど重症にはなら ずにえ熱が出て少し自宅でお休みすると元 に復帰されるとう方が多いんですけれども まその方は私より8つここのつかなあです からまだ60代えなんでこございますが やはりこの肺炎になってもうコロナの語類 になってから感染したらしいんですがま あの集中治療室に入ってえ意識不明が1 週間ええリハビルも含めて3ヶ月入院した んだってな話をま伺いましてねまですから ねあんまりこの油断をしてもいけないのか なっていうのをうんつい数日前に改めて こう思いましたま思いましたものの本当に こういう色々の催しものはあ今までのより ほ今までのようにほぼ開催することができ てこおりますあまた来年になるとねより 一層今までの暮らしに戻っていくんで あろうとこう思いますでさてそんな中で この臨在6に学ぶという勉強をこの今年 ずっと続けてまいりまして今回でこ第6回 目え最後でこうございますもこれも毎回 申し上げていることでございますがまこの

事業がこの講座がもし教学やあるいは全学 全の学問をこう学ぶ人のこの授業であれば それはやはり何と言っても勘文の原点を 出してそしてそのま私どもはその勘文を 直接読むのではなくして訓読というですね 昔のお尚様方老師様方がつけていた帰り点 とかレ点とかていうのがこうございまして そういうのにも基づいて訓読をするとで そこから意味をこう考えていくてことを するんでこございますがなかなかそういう 専門の方が極めて少ないようでこござい ますのでもう切り替えましてやはりえ現代 の言葉で臨在録を学ぼうとまそこで底本と いたしましたのが岩波文庫にありますこの イア義孝先生のえ現代誤訳を元にしながら まそれが今1番このうん岩波文庫であり ますので手に入りやすいのでこうござい ましてでえ前後と言いましょうか看聞と いうものは毎回極めてもうほんの1つ2つ 多くて3つぐらいをま皆様方にご紹介して それぐらいはちょっとね心に止めて もらおうと思ってえ講義を続けてきたので ありました今日はもう1つにしました活発 パッチという言葉でこうございますなんか これはちょっと難しい字でこうございます ねえ普通まずこんなまなんて言うですかね こう山水編に え発射の発発足の発という字をこう書くん ですけれどももうこの言葉だけを今日は 学んでいこうと思うんでこうございます これは一般のあの工事園え私なんかも工事 園っていうのにまず意味をよく調べるん ですがあの工事園にもちゃんと載っている 言葉ですからあ前後ではありますけれども 一般の社会においても使われる言葉なんで こうございます公事園を見ますと極めて 勢いの良い様気力が満満て活動して山ぬ様 ってえ大変いいあの解釈が書かれており ます極めて強いが良いとまあのこの初と いう字を魚編を書くという場合もこう ございましてそこでよくあの新鮮なお魚が こうピチピチと跳ねている様子なんだと いうな説明の仕方をする場合もあります 極めて勢いよく気力が満ち満ちて活動して 止まないとまこの言葉を臨在善治という方 は何箇所かに渡って使っておられますので 今日はこれは一体どういうことを言ってる のかなとこの1つを学んでいこうと思い ますえ今日に至るまでざ復習しておきます と あこの心に止めておいて欲しいこの臨在力 の言葉本当はもっとこうたくさんあるん ですけれどもそんなたくさん出しますと 混乱いたしますからあ最初覚えて いらっしゃいますでしょうか栄光変更です

ねもうこれは何と言っても本学の新しく できました校舎が変更官でございますね どうぞ皆様方もえ変更官でご講義がある時 変更官にお入りになる時にはこれは臨在6 にある言葉だと行変更自らの光をうちに 差し向ける私たちのこの目も耳も皆外に 向かってこうついておりますこれ当たり前 ですねえ目とな外のものを見るためにこう できております耳っていうのは外の音を 聞くためにこうできております全部この 方向は自分から外に向けてこう矢印の方向 がついているんでこうございますがその外 に向かっている矢印の方向を180°転換 させて自分自身に差し向けてみなさいと いうこういう意味の言葉でこうございまし た学校での勉強ってのはほとんど自分の外 のことを勉強しているでこあろうと思い ますでも時に はその勉強しているものは何であろうかと 何が勉強してるのであろうかというような ことをこう考えてみるあそんな時間って いうのも私は必要であろうと思います自分 自身を帰りみる自分自身を照らしてみると いうこういう意味のエコ変更でこうござい ました光を外に向かっている光を180° 転換させて自分自身に差し向けてみるそう しますと無事本当に尊いもの本当に求める べき ものそれは仏教の場合ですと仏様あ完成さ れた人格理想の人間っていうものは外に いるのではないとえ外に向かって求める ことをやめるというのが無事という言葉の この意味でこございましたこれ臨在力に おいて使われる無事っていうのはそういう 意味でこございますただ単にえ今日も無事 で今日も何事もなくああ良かったと一般に はそういう風に使われますがもう外に 向かって求めることははもう何もないんだ とでどうしてないのかと言と私自身が 素晴らしい自分であるとこの私がですこれ はあのこれから努力して立派な私にな るっていうそういう話ではこうなかったん でありますこの今の私自身が実は 素晴らしい自分であったということを臨在 善治は無のという言葉で表現をされました 新人官の新人でこございますでそういう私 自身を自覚をする素晴らしい自分であると いうことを自覚をして随所に主となれば 立証みしになりとまこれが前回学んだ ところでございましたどんな場所において もどんな状況においてもその場その場で 自らが主人公となる主性を持って生きて いくと自立性自立性というようなことを 前回学んだところでありましたそうすると あなたのいる場所は皆真実の場であるとだ

真実の場っていうのはどこか別のところに あるのではないどっかに行って求めなけれ ばいけないというのではなくしてあなたが 今いるその場所であなた自身が主体性を 持って出力して精一ぱい生きていくことを すればそこが真実の場なのだというえこれ 全回色々とま本来臨在力ではどういう意味 合いで使われてきたのかとまそして今お話 をいたしましたようにその場その場で主体 性を保っていくというような意味合いにも 使われるようになってきたとあ前回の復習 であり ますそして今日最後にお伝えしたいのがが 生き生きと働くということですね生き生き とえもうしれていてはいけないと青なに しよなんていうなことを言うことがこう ありますがもう何かこう正規がなくなって あもうしれているようなことでは仏道は こうダメだともう生き生きとしていなけれ ばいけないってですねえこの言葉これ一体 どういうことであるのかていうのを今日は あ深めて学んでいこうと思います本当は皆 さん生き生きと今もこう働いている様子が こうあるんですけれどもただどうもその ことにこの気がついていないのでは なかろうかとこう思い ます今日は初めにこの12月の講義でこ ございますからえねこういう仏教の関係の 大学ですと皆様方もどこかでこう老発と いう言葉を耳になさるのではなかろうかな と思いますいやまひょっとしてあの他の いろんな学部がございますからいやなんか 聞いたような聞いたことのないようなって いう方はですねえ12月の8日12月の ことを古い言い方で 朗月堂regardの8日とそれで老発と かあるいは老八という表現をしてでは特別 の日としております今日におきましては 12月8日というと一般の世間におきます とやはりなんと言ってもあの新珠湾攻撃の 日でこございますからえそちらの方が やはり今の日本にとっては有名よく知られ ているんでしょうけれどもあそれ以前から 我々仏教におきましては12月8日お釈迦 様が上土お悟りを開いたとでこの私どもの 臨在善人の教えもうん大場仏教の中の1つ 大場仏教の中の善という教えの1つですが あお釈迦様の教えお釈迦様の時の教えから は随分何百年も経って発達をしたものなん でございますがしかし私ども善を学んで いるものからいたしますとこれはお釈迦様 のお心を受け継いいるのだというこういう 風に受け止めているのでこございます じゃあお釈迦様のご修行とそしてお釈迦様 がお悟りになったこととその我々がこうし

て学んでいる臨在の教えというものがどう この通じ合うのかていうなことを最初に 少しお話をしたいと思い ますでこの釈迦様が12月8日お悟りを 開かれたというその恩徳にゆるために恩徳 に報いるたってそれとてもじゃないが少々 の努力で恩徳にゆることが豪に向いること ができるわけではございませんがこれは 前額大時点の中に書いている解説でござい ます前デラにおいて12月1日から12月 8日の朝まで中夜を分かたずまた横逃がし て眠ることなくひたすら座禅春することん でまねいろんな全集に関わるお寺はこう いう修行を続けているのでこうございます あの私のおります遠隔寺におきましてもま ずっとね先輩から言われてまいりましたあ 1日から8日の朝まででこれで1日なんだ とまですから全ではあの朝の夜明けをしめ 朝の夜明けを知らせあ合図の鳴らしもが こうあります半と板をカンカンカンと言っ てえ朝の夜を鳴らすんでこうございます そしてから1日の終わりの小頭にはまた 今日でこれ1日の仕事が終わりましたと 言ってこう板を叩くんでこことざますねえ ところが12月になりますと1日の朝朝の この世が開けたことを知らせる合図を叩き ましたならばこの12月8日の未名までは 打たないんでございます1日からその8日 の明け方までが1日なんだとま誰がこんな ことを言い出したのか私もよくは分から ないんですがまそう言われるんでござい ますでありますからその間はあ1日であり ますからあ1日の朝朝が来てで8日の未名 にようやくあの就寝の時間になる小頭の 時間になるわけですからその間は日中と 心得て1日と心得てえ布団は片付けて しまってえ座禅するですね誰が決めたのか ね本当によくわかんないですけどもそんな ことをですねまあ何年もうんやってまり ましてあんまりそんなこと言ってるから このこの頃修行道場に来る人がだんだん 減るんじゃなかろうかなと思うんです けれどもましかしそういう風にこも全額大 時点にこう書いてくれてますからえまあ今 もいいか悪いかは分かりませんが私なんか 何十年の習慣でこうございますからもう こういう季節になるともう自然と体がそう なって皆さんと一緒にえ座禅をさせて もらうでますねだ最も人間っとは完全に寝 ないってのはこう森でこうございますから あの修行層なんかはあの夜中のほの2時間 間少々ぐらいです23時間ぐらいま座った ままこううとうとしていていいという時間 がこうあるですねまま私なんかもほんの わずか少しだけ仮眠を取らせてえもらうの

ではこございますがあ朝の座禅というのは 午前2時から始まるんでこうございますえ 皆さがった午前2時って朝ですか夜ですか ええどっちかなってだんだん分からなく なってきます今朝座ってるのかな夜座っ てるのかな まそういう感覚にこうなるんですねでも あのいいものですよ年に1度ね私も午前2 時午前2時に起きて座禅するなんて なかなかないと思うんですけどもあ草も 眠る牛時というですかねもう心身とのして も物と1つしないような中でありがたい ことにね修行道場に置いていただいている おかげでやて座禅をさせてもらっおります で少しお釈迦様の話をさせてもらいます これはまあ仏教を学んでいる人はもう十分 ご承知のことでありますがあんまり仏教の ことに詳しくなていう学生さんのために お釈迦様という方はあ紀元前まこれも5 世紀という説もあれば6世紀という説も あってま100年以上の説の隔たりがある のでありますがましかし そのインドのの北の方ま今で言うと ネパールの国に当たるんでこうございます でも生まれた場所のカビラバスという ところも果たしてそれが本当かどうかは まだ確証しないっていう面もあるんですが 概ねインドの北の方ネパールとネパールの 国との境当たりで社家族というえ王様 小さな国の王様の子供王子様でありました ですから小さな国でありますけれどもお 出血するまでは極めて裕福な暮らしを なさっていたことがこれはマサ先生の役分 から引用させていただきますが分かるので ありますまだ出血しない頃は苦しみという ものをこう知らなかった極めて幸せな 暮らしをしていたとえ私の父の屋敷には池 があったとあ青いハや赤いハや白い花が 美しい花をこうハの花が花を咲かせていた でそうしてカシさんの仙thes校って いうんでしょうから大変に良い香りの広木 がこう炊かれていたとええそして私の衣服 は上から下までこれまた川井さんの布で 作られていたと今風に申し上げればあ当時 で言えばこうブランド品のようなもので あろうと想像いたします本当にいいものを こう着ていたいい香りを炊いてい たそしてお釈迦様のために3つの宮殿が 用意されていた大変これは何と言うん でしょうか贅沢と言うんでしょうか冬を 過ごすところ夏を過ごすところそして春の ためのもので浮の間雨が降っている間は こうカにえ歌い踊りですね綺麗な女性たち がそういうのをこう見せてくださる一歩も 外に出るようなことはもう必要がこう

なかったとでもし外に出るとなればチリや 梅や日差しを避けるためにこう白い傘を 後ろの方からこうかかざされていたという もうなんとも裕福な暮らしをしていたって いうことがまこれだけでもよくわかると 思いますでお釈迦様はこう語って いらっしゃいますビたちを私はそのような 不な裕福な家に生まれそのように幸福で あったとま普通であればその幸せのまま 王子様ですから次王様になってえ幸せな 生害を全頭するんでしょうけれどもお釈迦 様はこういうことを考えたとまず人は おいるものである愚かなるものは自ら おいるみでありながらかつ未だおいよ 免れることを知らないのに他人の至るを見 ては己れのことは打ち忘れていときらうと え年寄りえ年寄りを見ますと自分も必ず 年寄りになるとあね学生さんたちはまだ ピント来ないかもしれませんけどもうもう 私謎はですねもうひたひたとこのおいと いうものがあしまってこう参りますねえ 来年60歳でございます昔の歌がありまし たね村の私の先祖さんは今年60のおじい さんという歌が古い歌ですいませんござい ましてね昔は60歳でおじいさんって言っ てたですねえおいることはまかれないで 自分もおいる身であるとおいることをまか れることはできないしかしあ皆さん方も どうでございましょうか人が年を取ってる のを見るとああはなりたくないなとこう思 んでこうございますましかしそれは ふさわしいことではないのではないかと 自分も必ずあのように置いていくのでは ないかとそう考えてみるとお釈迦様は青春 の誇りと自分は今青春のまただ中にあると いうそんな誇りはことごとく立たれて しまっ たでさらに今度は病いです病気ですね病気 というものも人間避けることはこうでき ません一生涯の間何の病気もしないいと いう人はおそらく多分いらっしゃらないん じゃないかと思います何らかの病気という ものに見舞われますあ自らやみであり病い をまかれることはできないでも人が病気に なっているのを見る苦しんでいる様子を 見る時にあのインドの国なんかですと道端 で今のように病院に入院なんかできずに 道端でですね哀れにこの苦しんでいる病人 なんかもいらっしゃったいた時代でござい ますああんな風にはなりたくないものだと こう思うとしかし考えてみれば自分もまた その病気にななることは避けられないと それなのに他人が病気になってるのを見る と意図を嫌うとはあこれでいいのであろう かとそう考えた時に健康の誇りえ健康で

いいっていうのはそういう奢った気持ちは ことごとくなくなってしまっ たでまた最後は死でこうございます最後は もうこの死を迎えます自ら死ぬ身であり 死ぬことはれないでもやはり皆死という ものを意味嫌うんでこうございますえまあ それでまあ今でも葬式なんてたあの演技が 良くないものだていうに思われたりこうし ておりますでもお互い皆死ぬことは避ける ことはできないそれなのに他人がの死を見 ては意味嫌うというですねこれは ふさわしいことではないそう思った時に 生存の教育生きているということに対する りの心がことごとくこ立たれてしまったと 釈迦様はそう解かれておりますまこういう 思いが後にこの物語として形成されていっ てお釈迦様は4つのもからこの町に出てみ たとで最初の門から出た時に老人を見て 愕然とするでその次の門を出た時に病人を 見て愕然とするで最後に次の門から出ると 死人なくなった人のお葬儀の列を見て愕然 とするで1番最後にえ北の門から出た時に 出家修行者の姿を見て出家心ざしたという 風にま後にはってそのそういう話に作られ て形成されていったのでございましょうで そうして考えた時に釈迦様はこう世の中に 人に人の求めるものには2種類のものが あると聖なるものを求めていく生き方と聖 ならぬものを求めていくその2つの生き方 というものがあるとこう思ったとで聖なら ぬものてのはちょっとねごちゃごちゃ ごちゃごちゃこ書いておりますけれども 自らおいる病いになるやがて死ぬという そういう中にありながらそれらが災いで あるということを知らずにこの私という もの私のものというもの自分のものに執着 をしてそこから 出れよう逃れようとはしないとこの現世の 欲望だけを求めていこうというような人は それは聖ならぬ求めというものであると しかしもう1つ聖なる求めというものが こうあるとそれはこの世の中は生まれた ものは追いる病気になるやがて死ぬとそう いう中にいてそれらに執着をすることそう いう中でいつまでもこの自分というものに こだわる自分のものというものに執着を するそれは愚かな苦しみをもたらすだけで あるということに気がついてそこから出離 しようそこから離れていこうと願うと そしてそのこれは聖なる求めというもので あるとこの2つの求め方でお釈迦様もまだ 悟らない前出血する前なんかはもちろんの ことこの生まれや年を取りになり死ぬと いうそういう中にありながら自分のもの 自分の暮らしえ自分というものにこだわり

執着していつまでも楽しんでいたいという 欲望を求めていたとでそこで新しい考えが あ目覚めたと病むものでありおいるもので あり死ぬものでありうれい大きものであり 汚に満ちたものであるとああこういうこと にお釈迦様はに感じられたとなのにどうし てそういう中にあって自分のものや自分の 暮らしやあ自分の考ええ自分の理想そう いうものに執着するのであろうかそれらは 全ておいややや死のために奪われていく ものでありますから執着をすることは災い であると思ってそこから出立しようと思っ たとそそうしてお釈迦様はまだ29歳え年 若く漆黒の神をいだき幸福と血気とに満ち て人生の春にあったとそんな中で出血を 願ったのでこうございますお父さん お母さんは当然嘘心地よくは思わなかった んでありましょうが出血をしたと神おり 今朝ゴええ粗末なお今朝子を守って在家の 生活を捨てて出家の修行者となったえあの 社格行像っていうのはご覧になったことの ある人いらっしゃいますでしょうかしらあ パキスタンのラフールビジ館というところ にえございますえまこれは別のお釈迦様 直接ご覧になって作ったものでありません なくなってから何百年も経ってからこの点 に書かれているようなことを元にしてこう 作ったものでこうございますがお釈迦様が どのような何業区議をされたのかという ことがよく書かれております大法輪郭の 仏教線晴天にはこういう風に書かれてい ます大使お釈迦様はわずかの豆やあきの類 を取るそれだけであって体がみるみる痩せ てきたと足というのは足って足ですねこれ はもう枯れた足のようにあのすすきや足と あの細い草のことを言います細くなってい たお尻は落の背のようですからお尻っての は普通はぷくんでいるものですがそれが逆 にここんでしまっていると背骨は編んだ縄 のようにくっきりと現れてるか肋骨ですね 腐った古い家のたきのように突き出ていた 頭の皮膚は熟しきらない瓢が火にさらされ たようにしんできたそれでもただ瞳のみは 落ちんで深い井戸に宿った星のように輝い ているとあ意識がもろうとしているわけで はこうないんでございます腹の川をさすれ ば背骨を掴むことができた背骨をさすれば 腹の川が掴めるとまあこんにちですね メタボとかなんとかっていうのと全く逆で こうございますねえー立とうとすればよい て倒れるあ髪の毛なんかは胸の腐った毛は ハラハラと抜け落ちるとそんな中杉しの いかなる出家も行者もまた今のよ来るべき よ世のいかなる出家ももこんなに激しい 苦行をしたものはないというほどの苦行に

耐えておられたとまそんなこと思いますと 高々私どもが1週間やそこら1日と見なし て座禅するなんて大したことではこうない んであります日に焼かれ寒さにこえ 恐ろしく森にただ1人頃もなく日もなく 理想の光にを目指して聖者は座っていた ある時にはこの墓場え墓場と言っても今の ようなこの綺麗なあの霊園ではなくして屍 や骨が散りばめ積まれたそういう遺体が 捨てられているようなところにあの夜眠っ ておられた羊会の子供たちがお釈迦様を 見つけて唾を吐きかける泥を投げつけるま はたまた木の枝を取って耳に差し込むこれ はずも痛いと思いますけれどもそれでも この心を同じことなく業していたしかし 苦行では悟れないということに気がつくん でこうございますそこで自ら肉体を 苦しめるより食を取って体を養い心の上 から悟りを求めようとそこで2連前がと いうところで沐浴をしてえ騎士に登って軽 じて村の中に入るそこでこのスジャーター という娘さんが出てまいりましてここに この乳びとこありますがあ牛乳であり ましょうか動物の父で作ったこう乳製品の お美というのはおかゆという意味でこう ございますそういうですから需用のあるお 料理でございますその食事を差し上げてえ くださってでそれを頂いてお釈迦様は体力 を回復して林の中に入ってピッパラジュと でこの木の下で悟りを開いたものですから この木が後に母樹と言われるようになった のでこございますでそこにいた草刈りの 子供が買った草をこの食用してくださった のでそれを座布団のようにしてお尻の下に 敷いて自分は悟を開かなかった開けない ならこの座を立たないという決意を持って 座ったとま慌ててこのお釈迦様のここまで に至るまで話をいたしましたまここからも またあのこ悪魔との戦いというのが淵源と こう続くのでありますがあもう時間の都合 上割愛いたしまして最後の結論ですね お釈迦様は何をお悟りになったのかとま これは玉木孝郎先生の仏教の根底にある ものという書籍から引用をさせていただき ますえこんな死の形でお釈迦様がお悟りを 開いたことの様子を書かれております実に ダマがダマという言葉を玉木先生は普通は 法と訳したり理法と訳したりいたしますが 法律の法ですえパーリー語のダマっての そのまま表現しております熱心に瞑想し つつある修行者に荒になる時その時彼の 一切の疑惑は消滅するとというのは彼は 演技の方を知っているからである同じよう な言葉がこう続いていきますダが熱心にし つつある修行者に現になる時一切の疑惑は

消滅する諸々の縁の消滅を知ったからで 夜明けまこれが最後の死になります熱心に 瞑想しつつある修行者にダマが荒になる時 悪魔の軍隊を粉砕して安立している あたかも太陽が虚空を輝かすごとである とこ3つの死であり ます3つの死がこのお釈迦様が目覚めて ブッダになったということをよく表してる とじゃその何に目覚めたのかというとこの 3つの死に共通していることはダマが瞑想 している修行者に現になるとこのことで あるとではダマが主体者に瞑想している ものに荒になった時に一切の疑惑は消滅し たとこう書かれてるんですねで問題がこの ラまでこうございますだるま普通には 先ほど申しましたように法とか訳します法 法律の法元々は他物というインドの古い 言葉から派生したものでございますえ法 心理とかあるいは教えとかあるいはこの 一般の社会の秩序を保っているものという 意味で法律という意味で使われることも ありますでもここで解かれているダマと いうのは何であろうかとまこれは忠実に この経の原点を読みますとやはり演技の方 特に12二市演技が解かれておりますから 12因縁という12市演技の法が荒になっ たと見るのがあの文献を素直に読むとそう 読めるのでございますがしかし玉木光郎 先生という方は独自の見解を示されており ますでそしてその見解っっていうのが私 なこして 前後を学んできたものにとりましては 極めて このなるほどと思わせるような解釈でこう ございますのでまあ今の学会でこの玉木 先生の説というのはどのように受け止め られているか私はちょっと今最近の仏教学 のことは存じ上げないのですがご紹介し たいと思いますでダマというの はどんなものかなとかこういうもので あろうかなというのは資料分別を超えた ものであるとで言葉では簡単に表現できる ようなものではない微妙なものこれは前で は微妙と読むんでありますが微妙なもので あるとで玉木先生はこう言いますダマとは 全く形のない命の中の命言わば純粋生命と も言うべきものがあこのダマであるとそれ がこの私の体に現になったのだといかなる 形態姿形を超えた純粋な生命がこの私自身 の上においてはっきり表になるとはっきり 現れている時その時こそが目覚めの実現で あるとまむしろこのダマがこの自身に荒に なっていると目覚める自覚をしたという風 にも読み取れることができるのではないか と思っておりますも少しえまとめてみます

とダマというものは目に見えない命その ものであるとそれは目に見えないわけで ありますから姿形はありませんのでえこれ これれこういう形のものだこれぐらいの 大きさだと目に見えませんからもうどれ ぐらいの大きさであるかはこれは計りしれ ませんでもそのそれがこの身体の上にこの 体の上に荒になっていると自覚をした とまこういう風に読み取れるのではないか と思いますでそうしますとここでまこう いうことあの学者の方はやらずに私なんか こういう修行者修行する立場からあこう いう風に無理やり話をこうつなげるんで ございましてこういうことをえ44児熟語 で謙虚不快とですね強引に説を結びつける ことだとこういう風にああの先生方から 言われるんでしょうけど我々はですね我々 はそういうのが信仰でこうございますから で私なんかは太く思うんですこれは前々回 えこの講座で紹介した言葉であります心と いうものこれをこのダマと見たらどうで ありましょうかいや実際に臨在力では心の 下に法律の法ダマと法と書いて神法とこう 書いております神法まさにダマなるものは 形がなくて形がないものですから実方世界 要ついてその形のない姿形のない純粋生命 というべきものがこの私の目に働いてもの を見てると耳に働いて聞いてると鼻に働い てこう匂いを嗅いでる口に働いてこの話を する手に働けば物を捕まえる足に働いてえ 歩いたり走ったりしてるともうこれは まさしくそのお釈迦様の目覚めえ姿形の ない純粋生命というようなものがは目に 見えない命なるものがこの体に荒になって しかもその荒になって働いている様子を 臨在伝授は目でものを見ている耳で耳で 聞いている鼻で匂いを嗅いでいる下で 味わっているあ喋ることもできるあ手にえ 手で物を掴むこともできるあ足でこの歩く ことも走ることもこうできるというこう いう様子が実はピチピチとこう生きて働い ているこう様子なんだという風にまこれは ね謙虚不快と言われるんでしょうけれども こう味わ痛いのでこうございますこ何気 なしにですねこれこないだもある人から話 を聞きましたが何気なしにねこうやって こう髪を持ちますけどこれはね大変なこと なんですねまあのえ濃梗塞でね濃梗塞で 随分体が不になって苦労してようやく リハビリをしてま日常の生活に復帰する ことができたという方の話をお伺いいたし ましたま普通にあることはできるでも何に 不ないですねていう伺うとですね新聞は 読めないと新聞ってのはこう大体こう手に 持ちますよねこの1枚の神をこう持って

いるということはこれは微妙なこう力加減 なんだとそうしてそれで体のバランスを取 るっていうのは実にこの不可思議な働きな んだとそれが大変なことなるんだとその濃 梗塞を体験してこれがいかに大変なことで あるか分かったんだて話を伺いいたしまし てですねえこの目で物を見る耳で聞く鼻で 匂いを嗅ぐ手でこして取るそれはま確かに こうしてこう一杯の水が入った器を持つ この器を潰さないようにそして中の飲み水 がこぼれないように実に精妙なバランスを 保ながら飲んでそうしてこれが耳に行っ たり目に行ったりせずにちゃんと口元に 運んでそうしてごくっと飲むというよな ことはこれはまさしくダマ目に見えない命 がこの体に現になって今もこうして働いて いる様子であるとその様子が生き生きと ピチピチと働いているというま臨在力の 解かれているのはそういうところなんで こうございますまこの文章はですね先ほど 申し上げたとりえっと前々回であったと 思いましたでそこからさらにじゃあその ダマなるもの姿形のない命そのものいや今 こうして物を見たり耳を耳で音を聞いたり この下で味わったりしているそれは一体 何者であるのかと最初に申し上げた私たち は皆外のものを見ますけれどもその見て いるのは何なのかとというとそれはまこの 先ほどのお釈迦様の言葉で言えばダマその ものがこうこの体に働いて見ているとでえ 今日の臨在6の言葉イリア先生の役分を 読みながらそんなところからこのダマなる ものこれは一体どういうものか何が見たり 聞いたりしているのかという様子を少し このイリア先生の現代第5役を見ながら 学んでいきたいのであり ます君たちが衣服を脱いだり来たりする ように自由に正直に出入をしたいと思っ たらとこれもさりげない言葉であります けれどもこれはまあ何と言いましょうか こういうのが理想でしょうねえ生まれて 死ぬ死ぬということは大変なこう覚悟が こういると思いますいや最も覚悟しなくて も死ぬものは死ぬんでこありましょう けれどもでも死というものをどう受け止め ていくかもうそれを私たちがあ今日は昨日 はこの服を着たえでその昨日着た服をさっ と脱いで今日この服を着ようとあるいは1 日の仕事が終わってパっとこの服を脱いで うんシャワービルなりお風呂に入るなり するそのようにパっと服を脱いだりする ようにこの世さっとこの離れることが できるとこういうのを正 を解脱してるとこ言うんでしょうねそう いうことができるようになりたいと思うの

であれば今そこで説法を聞いている今です ね今この場で言えば今この私の拙い話を 聞いているあなた自身が一体何なのかと何 が話を聞いてるのかとそれは命があるから 聞いているわけでありましてえお釈迦様が おっしゃった姿形のないダマそのものが 働いてこの話を聞いてるわけですそのダマ そのもの命そのものというものは形もなく 姿もなくどこかにじっと留まっているよう な根が生えてどっかにじっと留まっている いうわけでもない変わることのない本体が あるというわけでもない場所も持たずに もうピチピチとこの体のこの体を通して 躍動しているとま何もですねピチピチと 躍動しているということ が何もあの外のグラウンドに出てですです ね一生懸命もピチピチ活動するんじゃなく して今こうして話を聞いているということ 今こうして椅子の上に座っているという こと椅子の上に座るたってこれも大変な ことでこ皆様方体が崩れるにそこから ずり落ちずに座ってるということは足や腰 やいろんなところの筋肉が微妙にバランス を保ちながらその姿勢をこう保ってるわけ でございますよねそのいう様子がもう生生 と動しているわけなんでこございますその 人が躍動する様々な方便は全て働きとして の後方を一切とめない素晴らしい働きをし ながら今自分はこんな素晴らしい働き方を したんだてなことを位いですねえ後を残し たりはしないでもその命なるものお釈迦様 が目覚めた断そのもの純粋になる命という のはじゃあ 一体どこにあるんだろうかといやこの体の 中を切り刻んでもこう出てこないでどこに あるか追いかければ追いかけるほど 遠ざかり求めれば求めるほどそれていき ますでも求めようとしているその人のその 営みにその一挙種一等則にもうダマという ものはありありと現れているでもこれだと 言って捕まえることはできないでもないっ ていうことは絶対言えないちゃんと聞い てるじゃないですかここが魔不思議という ものだと なのに私たちは幻のような連れを実在と 思ってはいけないと何かですねこう仏なる ものがあるいは純粋なる心理というような ものがどこかにあるとまそれを物心とか 物性とか保証とかあ仏教学においては色々 の言葉をつけてそれがどこかに実在して いるように思うとしかし遅かれ早かれ するりと死んでしまうのだと君たちはこの ようで言った体何を求めて解脱しようと するのであろうか何を求めているのかと 一口の飯にありつき子供のくいをして時を

過ごすよりはまこういうお坊さんの人も 大勢いたんでこございましょううんどうに かお坊さんになれば食事だけは確保できる というなそういう気持ちの人も泣きにしも あらずだったんでございましょうそんな ところに安住しているよりも良い死を尋ね て教えをこうが良いとま外に向かって 求めるなと言いながら良い死を尋ねなさい と矛盾してるように思うかもしれませんが 外に向かって求めるのではないということ を明らかに示してくださるような良き師匠 を求めなさいとまこういうことでござい ましょうずるずると強欲の楽しみを負って いてはならないだ御目で見るもの耳で 心地よいものを聞き それから下というもの口え下で美味しい ものは味わいたいえもう体で心地よいもの にこう触れていたいあ外の寒さはたえん ですこういう心地よい室内でねえ寒さ暑さ を感じることなく心地よく言たいとそれで は皆御欲の楽しみですでもそれを追いかけ ていてもこれは必ずおいるものであり病に かかるものであり死ぬものであり皆失われ ていくものでこうございます時は過ぎて いく1年1年の間間も支援の一寸刻みだと 国と市に近づいてく大にしてはこの体を 作っている小いカーフえ小いカーフと4つ の構成要素あ肉や骨っていうのは地の要素 であるあ血液や体液は水の要素であると 生きている時は熱がありますからそれは火 の要素であるとでこうして生きて活動する 呼吸したりするていうな活動は風の要素で あるとこういうものがこの不調になって くると病気になるのでこうございます書 小さく見れば一瞬一瞬が成獣滅え生まれて しばらくその間の状態そのままの状態で とまっていてやがて変化して消えてしまう ということを繰り返していると諸君即今 ただいまこれら4種の変化がそう世界で あると見てとって外教に振り回されるよう にせねばならぬという風に臨在善治はこの 親切に解いてくださっており ますそれからもう1ついきましょう衣に目 をくれてはいけないこれ何にも着ている 衣装ではこうなないこ例えでこうござい ます確かに衣っというのはどんな立派な 衣装があってもそう衣だけではあの動き ません本当の値打ちというのはやっぱその 衣を来ている人そのものでござい ましょうしかしその衣というのは単なる 私たちがこういう来ている子や洋服のこと 言うんじゃありません私たちが様々なこと を学んだり修行したりこれは清らかだと いうような子をまってみたりえまあ今の さきの老廃の話なんかもそんなもんでこな

そんなね1週間寝ずに修行したんだなんて 偉そうな話をするなんて自分は清らかな 修行しただって飾っているにこう過ぎない んで中身はしたことはこうないんであり ますもえ何も生まれることもない死ぬこと もないというような子を着て見せたり悟り という子衣や根々という子やあ阻という子 や仏という子などいろんなものを着飾る しかしそうした名前や文句は全て着せかけ た子供であるその中身は何なんだと今こう して喋っているものは何か今聞いている ものは何か臨在前住はこう表現されました 下っぱから空気を振動させてま歯を勝ち あわせてね歯をカチカチというのは ちょっと難しいございますがああの具体的 に言えばこの生体を振るわせて言葉にし てるんでございましょうそそうしてこ空気 に振動させてこういう音を音を出してそれ が言語として皆さんの耳が認識をしてあ あんな話をしてるとうに理解するんであり ましょうでもそんなものに実態はないこう して外に音声言語に発するのは内なる心の 働きの現れであり意思が動いて少年を 起こすのだとええだからそれらはみんな 子供にしか過ぎ ないところが私たちはその来ている子供 だけに目を注いでそれを真実だとこう 思い込んでしまうと自分は修行しました 悟りを開きましたというのは心もきている とそれが真実だと思い込んでしまうでも そんなものよりもあなた自身が素晴らしい んですよということを臨在前時は言いたい んでございますそういうものを見ている もの聞いているものそこに素晴らしいもの がある例え無限の年月修行しても子につい て詳しくなるだけだっねまそれもちろん こういう修行努力もこれもま必要でござい ます仏教学を学んでた様々な言葉を学んで いくこともこれも必要でありますがしかし それでは内容中身がこうかけていると迷い の世界を堂々巡りをしてしまう正直輪廻を くり返すことになるとそれよりもの本とし てるとこの本というこイリア先生訳して いらっしゃいますがこれ無事ということ です外に求めることをやめて自らが自覚を することである 出会っても相手は分からず話しをてもなも 知らぬという風にこれを先ほどのダマと いうこと純粋なる命を全の立場からこう いう風に表現をしており ます保証の物心とか保証の仏国土とそう いう仏教の言葉を使いますでもそれは 明らかにチラチラチラチラこう光え煌めい ているようなものだえ原文には光栄とあり ます曰くあげにそういう綺麗な言葉を使っ

てチラチラチラチラ何か概念をちらちら ちらつかせているとしかしそんなものに 振り回されてはいけないとああなた方が今 聞いてるものは何かというところを臨在 善治はこう表現されました生身の肉体この 肉体があってもこれ話を聞くことはでき ませんだ内臓内臓もこれ内臓と心というの は大きな関係がありますが内臓が話を聞く わけでもありませんじゃあこの国を空間が 話を聞いてるかとそうでもありません一体 何が話を聞いているのかとそれらは君たち はそれをちらつかせている当体今聞いて いるものは何かそれは先ほど繰り返し今日 お話をしてまいりました純粋なる命がダ なるものがこの体に現になて初めて聞いて いるのであるとそのダなるものそれはいつ 生まれたというわけでもなくいつなくなる というわけでもなくそれが諸物の出所で あるあらゆる修行者の1番求めるべき執着 点なのだと今私の面前ではっきりとあり 肉体の肉身の形態なしに独自の輝きを発し ている君たちとのまああなた あなた方自身の形なき命そのものがこうし て話をしたり話を聞いたりすることがこう できるのであると素晴らしいなんというの かなんともこの名付けようのないものが 働いてこうして音を聞いている声を聞いて いるそのそこに素晴らしさがあるとそれが 生々と今働いているんだというわけなんで ございますそう見て取ることができたなら ば皆さん方は阻や仏と同じであるとで朝 から晩まで途切れることなくもう働き同士 に働いているわけでありますいや寝る時は 休んでいるっていうそうじゃない寝ると いう素晴らしい働きをこうしてるんであり ます寝るっていうのは素晴らしいですね あの間に私たちは記憶というものを整理 するんだそうですねえ寝なていうと人間は このどんなにうん頑張ってもうまくはいき ますませ睡眠をしている間に頭の中で不要 なものと残すべきものはちゃんと分けて そそうして整理してくれて立派にこの体を 回復ささせると素晴らしい働きを純粋なる 命そのものがこしているとただ少年が 起きるとあれこれ頭でいろんなことを 考えるとその本来の知恵がますます 遠ざかってしまう思念が変異するから本体 は様変わりする迷いの世界に輪廻して様々 な苦しみにを受けることになってしまうと だから外に向かって求めることをやめ なさいこの私の検地に立ったならばこの ままでこのままなこのままでこうして聞い ているということ自体が実に信言なる働き であって何の妨げもなく聞いているとは 働きそのものがしりと下立なのだと

ところが皆さん方はこれ臨在電磁は修行層 たちに子袋とクソ袋を勝つことクソ袋って のは別にそういうものを担群じゃなくして この体のことですクソ袋を担いで脇道へと 走り回り仏を求めたりそうを法を求めたり しているとしかしその求め回っている当体 あなた自身は何者であるのかとこれがその 求め回っているという様子自体がもっと 言えば今こうしても繰り返しになりますが 話を聞いているというその活動自体が ピチピチと躍動しているとそれどこかに とまっているもので存在の根拠を持たない とこれ悪い意味ではありません停点を持た ないもう固まったものではないもう自由に 自在に働いて根石を残さない手で かき集めることもできないその純粋のある 命がどこにあるのかと言って一生懸命手で かき集めて捕まえるってことはできないだ 純粋になる命なんていらないと思って払い 散らすこともできないいや払い散らそと すればもう払い散らそというその働きに実 はもうピチピチと躍動しているわけなんで こござい ますですから外に向かって求めようとすれ ば帰って遠ざかる求めなければ ちゃんと今も目の前にここにあって働い てる素晴らしい霊妙な声が耳いっぱいに 聞こえてくるとそ何も特別な音楽が聞こえ てくるわけじゃない今こうして話を聞いて いること鳥の声を聞いてるということ風の 音を聞くということもうそこに素晴らしい 働きがダマが自由に分に荒になって ピチピチと働いているんだとこのことが 信じきれないならば一生外修行しても 無駄骨おりだとこうこういう風に臨在前時 は解いてくださっているのでこございます ねえ活発発というのが少しこのご理解 いただけたでありましょうかまこれ最後に 1つこの問題だけを語って終わりたいと 思います臨在前時がおなくなりになる時の 様子がまこれも後からつけたのではないか といろんな説もこございますが一応臨在6 にございます最初に申しましたように臨在 前時はお亡くなりになった年は分かって いるんですがおれになった年がはっきり いたしませんのでいくつぐらいであった かていうのはよくはこう分かっていないん でこうございますえでもお亡くなりになる 時意義を正して座禅して言われたとわしが 亡くなった後我が消防現像を滅ぼしては ならないとこいたま消防現像ってのは今同 寺の主張の名前でよく知られておりますが あそれは固有名詞ではなくして元々は普通 名詞お釈迦様から伝えられた仏法の神髄 今日お釈迦様のお悟りから臨在善治のお

説法へとをつなげてお話をいたしました お釈迦様から伝えられた仏法の心髄これを 滅ぼしてはならぬだ とそうしますと臨在善治のお弟子の中でま 1番でしと言んでありましょうか3章念他 にも後家村章とか色々いらっしゃいました が三章永年前時が進み出てどうして和菓子 の消防現像を滅ぼしたりいたしましょうか と滅ぼすようなことはいたしませんと自信 持っていましたで臨在善治はもしこの後誰 かがあなたに臨在善治の消防現像は何で あったかと問われたならばどう答えるの かって言ってそこで三章念はかついかした か あでその後臨在善治はこう言ったので ございます兄計や我が消防現像はこのめく のロバのところで滅びてしまおうとはと 言い終わると断然として亡くなられたと こう書かれているんでありますでこれであ この目の見えないロバということであまり こんにちはですねなかなかこう一般には 使えれない言葉ですけれどもこんな愚物と いうのは下げんだ言葉でありますで来私 どもは善というものはこの褒けなすような 表現をしておいて内心は大いに称えている のだというような読み方をこの習っており ますですからあよくこのところはこう表面 上は随分3章念をけなしているようである けれども内心は臨在前時はああ これよくぞ我が消防現像神髄を伝えたと いうこういう思いなんだという風にえこの 解かれることがこうございますいやしかし そうではないとこれはやはり臨在善治は ああこんなあね臨在の勝をあ真似をする ようなことではこんなことではもう我が 教えは終わりだて失望を落胆したんでは ないかと いういうと見るべきだという方も いらっしゃいますえまあどれが本当である かこれはあ臨在善治にお伺いしないとも 知るよしもこありませんがしかし言いうる ことはこう言われて臨在善治の消防現像 この愚かなもののところで滅びてしまおう とはと言われてこれはどういう意味を言っ てるのであろうか臨在善治の石はどこに あるのであろうかという風に求め回ったり あ臨在のおはこれで滅びたのではなかろう かとの不安に思ったりしたならばこれは もうまさしくこうお消防現像はそこにこう ないのでこうございまして臨在善治がどの ように言おうとどういう表現をなされよう と目に見える目に見えない純粋なる命その もの無の森人というもののは今ここでこの 私の体の上において実に生き生きと働いて おりますと人材善治が何と言おうと私の

知ったことではございませんとそういい うるぐらいのものがあこう自覚があります とですねこういう言葉について回る 振り回されることがないんだとこう味わい たいのでこうございますこれが私のこう 意見と申しましょうかあこの言葉について の私のこう見ているところでございますえ というわけでありましてえルルお話をして まいりました編章という外に求めるのでは ない自分自身を見るのだと無事え外に 求めるのではないと無心に皆さんの 素晴らしい事故それが至るところで活発発 にもう今も生きて働いてるともう生きて 働いている様子を少しでもうん感じ取って くれたならばあ誠にありがたいことでこう ございますどうも1年間にわりましてご 成長いただきましたこと改めてえ感謝 いたしますまこれから年末ねまたあの年末 年始を迎えますので皆様方どうぞお体をお 大事に良いお年を迎えくださいませ ありがとうございまし た

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