あやこのバイブルトーク ぶどうの木国際教会ハワイチャペル 加藤あやこ伝道師「懲らしめを受けよ」エレミヤ書6章6〜15節

あやこのバイブルトーク ぶどうの木国際教会ハワイチャペル 加藤あやこ伝道師「懲らしめを受けよ」エレミヤ書6章6〜15節

えそれではえメッセージ入りたいと思い ます今日は今聖書箇所長い箇所お読み いただきましたえエレミア書6章6節から 15節ですそして今日のキーバースが エレミア書6章16節の前半です主はこう 押せられる四つ辻に立って見渡し昔からの 通り道幸いの道はどこにあるかを尋ねそれ を歩んであなた方の意を 見出せそして今日のメッセージタイトル はこらしめを受けよですこらしめを 受けさて2024年の最初のエレミア書の メッセージになります今回は6章に入り ます6章を今回と次回と2回に分けて見て いきたいと思いますまですからま去年から 続いているエレミア賞全体で見ますとこれ で10回目のメッセージになりますま6章 にはいよいよ迫りくる戦争の予言とそれが 行わなければならなかった背景を巡る言葉 が再び1つにまとめられています 今日の聖書箇所につながる1節から8節に はエルサレムを取り囲む北からの敵のこと が語られ6章から15節にはエレミアと神 との対話が記されていますそれでは簡単に 前回前先々月になります去年の11月に いたしましたメッセージの復習をま少し だけして先に進みたいと思います イスラエルの民は神を恐れず配信を 繰り返しま最3の警告にも関わらず食い 改めることをしませんでし たそんな民へエレミアはバビロニアによる 裁きが来ると語りましたしかし民もその 指導者も祭祀もエレミアの予言を風のよう だそんなことは怒らないと言って聞き流し たんですそれでも神はなんとか救いたい 許したいとお考えになりあなた方はどう するつもりだと迫られました実は父なる神 がこう言われたのにはまなんとか民を救い たく思われたからです神は民からのごめん なさいというこう悔い改めの言葉を期待さ れましたつまりまだその時には食い改める チャンスが与えられていたということです もしここで食い改めていたらきっとさきは 怒らなかったでしょうしかし民はそれでも 食い改めることをしなかったんですその ような民にさきが差し迫っていることが 語られていましたこのように神を恐れず神 を敬わない心を父なる神は必ずさくと言わ れましたさきは必ず起ると語られています エレミアの時代はバビロニアによってその さきが行われエルサレムは廃墟となりまし たがでは今の時代はどうでしょう目視力に さきの予言が記されてい ます主はこの時と同じように今の私たち 1人1人にも選書を通して語られています 神は私たちをお許しになりたくて聖書を

与えてくださり罪人である私たちにあなた はどうするつもりだと問いかけてくださっ ています神の見は悔い改めて生きよ ですどうするつもりだというこの創造主 なる神の言葉を真摯に受け取り私たちも 日々食いめつつさらにそのことを伝える 使命を全頭したいと思います福音をまだ 知らない方々へ神のさきと恵みを伝える 使命が私たちにはあるのだということでし たそれでは今日の箇所へ入りたいと思い ます今日のポイントも3つあります1つ 目湧き出る悪1つ目は脇出る 悪2つ目は閉じたままの 耳閉じたままの耳3つ目が平安だ平安だ ですそして今日の結論はその平安とはどこ にあるのかということです私たちの誠の 平安は主イエスキリストのみにあるという こと ですでは1つ目のポイント湧き出る悪 です今日聖書朗読していただかなかった 部分の1節から5節までをお読みします エレミア章6章1節から5 節ベニヤミンのこらよエルサレムの中から 逃れよテコアでつぶを吹きベテケレでのし をあげよ災いと大いなら滅が北から 見下ろしているからだ私はシオンの娘を うしい場になぞらえる羊飼は自分の群を 連れてそこに行きその周りに天幕を張り その群れは各々自分の草を食べるシオに 向かって生鮮を触れよう たて我々は真昼に登ろうああ残念だ日が 傾いた夕べの影も伸びるたて我々は夜の間 にに登ってその宮殿を 滅ぼそうイスラエルの民は妻に例えられて います妻が夫を裏切るように主に背いて 自分勝手な道を歩んでいましたそんな イスラエルの民ま特にここでは南王国ユダ に対して主は北から災いを起こすと宣言さ れています1節にはベニヤミンのこらよ エルサレムから逃れよとありますが ベニヤミンとはエルサレムつまり南王国 ユダの人々のことを指していますというの はエルサレムは元々ベニヤミン部族の土地 だったんですね実際エルサレムは ベニヤミン部族の土地の南の端の方にあり ますえちょっと今日はあのズムの都合があ 見えましたありがとうございますこの地図 をお見せいたしますがご覧の地図の ベニヤミンの領土がお分かりいただける でしょうかそのベニヤミンの領土の下の端 にエルサレムとありますよねわずかもう千 に重なるようにエルサレムありますそれが 後にユダ部族がダビデによってエ イスラエルトイツ王国の首都となったので いつしかユダ部族の領土であるかのように

思われていますが元々はベニヤミンの領土 でしたですから一説のベニヤミンのコラよ とは南王国ユダの住民のことを指してる わけですそのベニヤミンのコにエルサレム の中から逃れ出よと言われていますまた テコアで角笛を吹きベテはケレでのしを あげよとありますテコはとはエルサレム から約20km南にある町です今示して くださってい ますテコとあるのお分かりいただける でしょうかそのテコで角笛を吹きなさいと 命じられていますエルサレムよりももっと 南に行きそこに逃れるように呼びかけ なさいと命じているんですなぜなら エルサレムがバビロニアにイされるから です城壁で守られているはずのエルサレム ですが放された後の悲惨を思うと エルサレムの中にいるよりも外にいた方が まだ良いというわけ ですそれほど破滅はひどいものになると いう要言がはっきりとされていますまた ベテはケレの場所ははっきりとは分から ないんですがエルサレムとあのテコの間に あっ街ではないかと考えられていますのし は10kmから20km先からも見えたと 言われていますこののしによって北から 災いが迫ってることを瞬時に知らせさらに 南の方のこちらの方まで逃げておいでと 角笛を吹いたということですまた3節に羊 会とありますが一般に聖書では羊会という とイスラエルの王家予言者といった霊的 リーダーたちのことを指すんですがここで はバビロニアの王様であるネブカドネザル のことを言っていますこのその執事会へ羊 であるバビロニア軍を牧場であるシオンへ 導きなさいと言われていますシオンとは イスラエルの民のことですよ ね4節そのシオに向かってを触れよと言わ れてるんです執事会に例えられるネカで ネル王は自分の羊であるバビロニア軍を シオンの牧場にふさせるって言うんです うしい牧場に例えられるシオンは イスラエルのことです神の民イスラエルに 対して生鮮を告するって言ん ですそれを命じているのはイスラエルの神 主です生鮮とは神の戦いのことですここで あれて思いませんか本来本来生鮮とは神の 民が他国に対して行うもののはずですよね でもここではこう逆になってるんです バビロニアが神の民に対してする戦いを 生鮮と呼んでいるんです神の民である イスラエルをこらしめるために神が他国の バビロニアを用いられるんです生鮮とは神 が司る戦いということであってま必ずしも イスラエルのたに味方する戦いのことを

指すのではないということがわかり ますさらに4節5節にはバビロニアがどれ だけの力を持っているかが記されています 4節に我々は真昼に登ろうとあります そして5節には我々は夜の間に登ってと ありますこの時代の夜は真っ暗闇ですから 戦闘は夜明けと共に始まり夕暮れには 終わるものでしたまた日中はとても暑く なるので休んだりするわけですが バビロニアはそうではないそうですつまり 真昼に登ろうとは真昼の暑い中でも休まず に攻撃するっていうことであり夜の間に 登ってとは暗闇で戦えないはずでも夜も 登っていくっていうこと ですそれは普通ではありえないことです ですからここではバビロニア軍がそんな ありえない力を持っているっていうことを 表してるんですこれものすごいパワーです 神が戦えと言われていた青線であることが ここからもよくわかると思います次に6節 をご覧くださいここで万軍の主がこう言わ れます木を切ってエルサレムに向かって類 を 築けこれは罰せられる町その中にはした だけが ある万軍の主がバビロニアに対して木を 切ってエルサレムに向かって類を築けって 言うんですねエルサレムは上さ都市でした から絶安く責めることはできませんでした それで木を切って城壁よりも高い宮のよう なものを作ってそこから侵入を試みよと 言われてるんです万軍の主である神様がご 自分の民を攻撃するためにその戦術を バビロニアに教えじているんです主は敵で ある他国を用いてイスラエルの民を罰 しようとされましたなぜならイスラエルの 民は罪と悪によって腐敗していたからです 7節にあるのがその罪と悪の状態ですお 読みし ます井戸が水を湧き出させるように エルサレムは自分の悪を湧きせた暴虐と 暴行がそのの中に聞こえる私の前にはいつ も病と打ち傷が ある井戸の水が湧き出るようにエルサレム は自分の悪を浮き出させていました神が彼 らをさかれるのは彼らの中に井水のように 悪がコンコンと湧き出ていたからです表面 的だけではなく根っこの部分が草いたと いうわけです ね彼らの内側は暴虐と暴行で満ちていたと あります悪は外側からではなく内側から 出るものであることを語っていますま全 前回だったかのメッセージで申し上げまし たマルコの福音書7章15節をお読みし ます外側から人に入って人を怪我すことの

できるもは何もありません人から出てくる ものが人をけすものなの です人を怪我すものは外から入ってくる ものではなく人の内側から出るのだという ことを聖書ははっきり伝えています私たち は罪を犯すから罪人なんではなく罪人なの で罪を犯すんです悪は私たちのの心から 内側から湧き出てきます外側の見た目は いくらでもごまかすことができても神は心 を見られるお方です私たちの心は悪が井水 のようにコンコンと湧き出ているような ものだと言われてい ますしかし神はこんな私たちでも諦める ことはなさいませんそんなものでも許し 癒してくださると約束してくださるんです です人は自分の努力でその心を洗うことは できませんそれができるのはイエス様のみ ですイエスキリストによってのみ私たちの 内側の心は洗い清められるんです神は聖治 を通してそれを約束してくださってい ます次に8節をご覧くださいエルサレムよ 戒めを受けよそうでないと私私の心はお前 から離れお前を人もすまない荒れはてた地 とするとあり ます私の使っている聖書は深解約第2範で 戒めを受けよと訳されていますが第7班で はこらしめを受けよと訳されています皆 さんの聖書はいかがでしょう今日は新しい 役の方からメッセージタイトルこらしめを 受けよとさせていただきまし た北からの災いは神のこらしめだと言われ ますここには親が子供をしけるという ニュアンスがあります愛する子にその子が ダメにならないようにしる親のように神様 はご自分の子にこらしめを与えられるん です神は私たち子供に向かって心を洗って 悪を取りけと言われどうするつもりだと 迫られその次に今回のこらしめを受けよと 言われていますその後聖書はサモないとと 続きます8節後半ですサモないと私の心は お前から離れお前を人も少ない荒れはてた 地とするとあり ますモないと何をされるのかまここで注目 していただきたい言葉は離れという言葉 ですこれは脱eachするという意味が ありますさもないと骨と骨が脱eachに よって離れるのと同じように私の心はお前 から離れると言われますですから神様が民 をさくということは神様の側もそれほど つく苦しいことであることが分かりますよ ね本当はそんなことはしたくないけれど も話さなければならないって言われるん ですなぜなら彼らが汚れたままであること を選ぶからです自分の悪を食い改めること を拒むからですその心に湧き出る悪がある

のに です私たちはどうでしょう かだ発していないでしょうか神様とどれ ほど強い力で繋がっているでしょうかもし 私たちの体の関節という関節が全部外れて しまったらどうなるでしょうか体があって もそれは全く役に立たないでしょうね 立ち上がることもできませんもし神様が おっしゃるように神と私たちが離れて しまって霊的に脱steしてしまったら 信仰者として立ち上がれないっていうこと ですしかしそれでも身は残っています肉は 繋がっていますこれは神の哀れみです どんなに神と離れてしまってもつまり どんな罪人の上にも恵みの雨は降りますし 呼吸はできますよねこれは哀れみですこの 神の思いを受け止めて私たちは骨と骨の ように神としっかりつながり心を洗って いただき霊的に深く交わるものでありたい と願い ますそれでは2つ目の ポイント閉じたままの耳ですさてここでは 彼らがなぜ神から離れてしまったのか理由 が書かれていますそれは彼らの耳が閉じて いたからとあります10節をお読みします 私は誰に 語りかけ誰をさして聞かせようかみよ彼ら の耳は閉じたままで聞くこともできない 見よ主の言葉は彼らにとってそしりとなる 彼らはそれを喜ば ない彼らには聞く耳がなかったんです彼ら の耳は閉じたままでしたまた主の言葉は彼 らにとってとなっていたわけですから彼ら はそれを喜ぶどころか馬鹿にして欺笑って いたんですここで注目していただきたいの は耳は閉じたままでという言葉ですここは 直訳では耳に割礼がなくと訳されています 耳が無割礼だっていうことですねま活 Deathのことについてはエレミア書4 章4節にも出てきましたよね 主のために割礼を受け心の放棄を取り除け とあったのを覚えてらっしゃるでしょうか そこで語られていたのは大切なのは肉体の 割礼ではなく心に割礼を受けることだと いうことでしたいくら肉体に割礼を受けて いても心が肉で覆われていたら神の言葉が 心に響かないからです何を言ってるのか さっぱりわからない理解できないっていう ことになり ますここでも同じことが言われてるんです 耳が閉じていて聞こえないんですし正確に は聞こえていますがそれを理解しようとし ていないっていうことです聞く耳を持って いない聞こうとしないそれが耳に活がない ということです耳というのはまさに従順さ

とか不従順さが現れる場所だと言えますね 聞いたら従うことが求められていますが 聞いても従っていないっていうことはそれ は聞いていないっていうことですつまり 聞こえていないんです私たちの耳はどう でしょうか私たちの耳は神様の見越がよく 聞こえているでしょう かイエス様は種まきの例えの中でこう言わ れましたマタイの福音書13章22節 マタイの福音書13章22 節居の中に巻かれたものとは御言葉を聞く がこの世の思いわいと富の惑わしが御言葉 を塞ぐため身を結ばない人のことですと ありますここに御言葉を聞くがそれを塞ぐ ため身を結ばないとあり ます聞いても聞いていないんです塞がって いるからですでは御言葉を塞ぐものとは 一体何でしょうここではこの世の思い煩い とか富の惑わしとありますよねこれらは 恵みをストップしてしまう2大耳線と言え ます皆さんもこの耳線持ってるでしょうか 自慢ではないですが私は持っています 私たちにはどうしても色々な思いわづら いっていう耳線ありますよ ねまた目に見えるものを欲しがるまわしと いう耳線もありますよ ね仕事のことや家庭のこと自分の健康の ことや人間関係の問題ま最近では戦争の ことで不安を抱えているっていう人もおら れると思います私たちがこの世の心配に 囚われていると御言葉が聞こえなくなって しまうということ ですこの世の思いわらいがみせとなって 御言葉を支えでしまうからですそんな 私たちへ聖書はこう言っています第1 ペテロの手紙5章7節第1ペテロ5章7 節あなた方の思いわらいを一切神に委ね なさい神があなたがたのことを心配して くださるから ですとあります私たちは問題に対して きちんと考えて備えなければならないこと は確かにありますが生きすぎて思いわいに 振り回されることの方が多いような気もし ます私たちは必要以上に心配するのでは なく神様に祈り信頼し ましょうこれは簡単なことでありませんが 私たちの心配を信頼へと方向転換すること が私たちの耳を開くということになるん です私たちは耳線を捨てるべき です私たちが神にお委ねすれば神が私たち のことを心配してくださると約束されてい ますそうする時様の見越は聞こえてくるん ではないでしょう かでは3つ目のポイント平安だ平安だ です節をお読みし

ます彼らは私の民の傷を手軽に癒し平安が ないのに平安だ平安だと言って いる御言葉を聞こうとしないイスラエルの 民にに対してエレミアの心は主の行りで 満たされまし たもうそれを自分の心に収めておくことが できなくなってしまいましたなぜなら誰も 聞いてくれないからですエレミアは完全に 疲れはててしまったとあります私たちも そういうことってありますよ ね虚しいことを繰り返していて疲れ果てて しまうということってありますよねその ように疲れ果てているエレミアに主の言葉 がありました11節ですそれを道端にいる 幼子の上にも若い男の集まりの上にも ぶちまけよとそれとは何のことでしょうか それは主の一通りのことです道端にいるお のが幼子の上にも若い男の集まりの上にも ぶちまけよというんですね幼い子供という のはこう当時1番低いな価値の人間を象徴 するものであり若い男の集まりというのは 大事な議会みたいなところのことを指し ますまたもし天国に神様の茶台みたいな ものがあったとしたらまそれを ひっくり返すような怒りかもしれませんよ ねぶちまけよとしかもそれは幼子や若い男 たちだけでありませんや妻も年よりも弱い の満ちたものにもとありますかなりのご 高齢の人にもということですとにかく人と 呼ばれる存在全部にということですそして 皆捉えられることになりますさらに彼らの 家と畑は妻もとも奪われ他人の手に渡ると ありますまとにかく 悲惨ですどうしてでしょうか13節にその 理由が述べられていますなぜなら身分の 低いものから高いものまで皆利得をさぼり 予言者から祭祀に至るまで皆偽りを行って いるからだとはっきり理由が書かれてい ます身分の高い人から低い人までみんな 自己中止になっていたんだっていうこと ですその腐敗は宗教的なリーダーたちに まで及んでいました彼らは皆偽りを行って いたって言うんですそして人々は平安が ないのに平安だ平安だと言っていたとあり ます偽予言者にマインドコントロールされ ていたと考えられ ますこれは5章で学びました5章31節 前半をお読みし ます予言者は偽りの予言をし祭祀は自分 勝手に納め私のはそれを愛しているとあり ます偽りを愛してい た当時の人々は偽予言者の言うことを聞い ていたんですそしてそれを喜んでいたん ですなぜ人々がそれを喜んでいたかと言と 偽予言者は彼らの肉の思いをそれでいいん

だよと肯定してくれていたからです肉の 思いを肯定し本当は平安がないのに平安だ 平安だと思い込まされていたということ です偽予言者は語るべきことを語らず人々 の希望することだけを語っていたんです つまり何を語っていなかったかというと神 の義とか清さとかさき怒りまたいましめ こらしめを語っていなかったんですなぜか と言とそれは単純ですそれらを人々が嫌 がるからですそして偽予言者は何を語るか というと神の愛を語りますま神の愛と一口 に言ってもいろんな愛がありますよね第2 コリントびへの手紙13章に書かれている 愛を考慮するとたくさんの愛があります それらは神の愛の側面を言葉にして表現し ているものですというのも本来神は愛なり と言われてるんですから神の義も愛ですし 清さも愛ですさきも愛なんです神の怒り さえも愛なんですでもここで今私が 申し上げたいのは偽予言者の語る愛という のは完用や優しさといった人間に都合の いい愛のことです偽予言者はそのような愛 だけを強調しましたつまり神の義と清さ さき怒りなどを語らないで都合のいい愛 だけを語ったん ですこれはとても注意が必要ですこれは 私たちが気をつつけるべきことだと言え ます繰り返しますが神様は愛の方です しかしそこから神の義とか清さを抜いて しまったら骨抜きの愛になってしまうん です先ほど申し上げました脱している状態 ですそれは本当の愛ではなくなってしまう ということです当時の偽予言者はそのよう な愛だけを強調し特に人間の弱さに焦点を 当てて語りました人々が罪を犯してしまう のは私たちが弱いからだと語ったんです 確かに私たちは弱さを持っていますそれも 罪ですまたその弱ささえも自分でどうする こともできませんしかし大事なのはその弱 さを含めた罪全体の厳選であるここで言う 悪です私たちには湧でる湧き出る悪がある んだということを1つ目のポイントで学び ましたしかし偽予言者はそのことを語ら ないんです人には根本的な罪があることを 現在を語らないんですそして表面的な弱さ ばかりを強調しそれをなんとか人間同士の 共感力によって理解し慰めいいんだよそれ でもいいんだよ受け入れましょう大丈夫 大丈夫っって語ったんです当時の イスラエルの民の神への配信の罪という 根本的な罪は全く語らないん ですここで神が伝えたいことは配信の罪を さくということですよね悔い改めよと 厳しく迫られているんですよねしかし偽 予言者はそれを語らず人々の罪を傷をいい

加減に扱いいい加減に癒していましたそれ で平安だ平安だって言っていたんです しかもそのような平安を人々は求めていた とあり ます5章31節に民はそれを愛していたと あり ますしかしそのようなことでは本当の平安 には至りませんこのことは本当に大事です ですよねこれもエレミアの事態だけでは なく現在の私たちに語られていると言え ます偽代原者は神の厳しさや神のギア清さ を語らず都合のいい心地のいい愛だけを 語っていましたが今の時代もそうですそれ はもっとひどいです代表的なのは ヒューマニズム ですヒューマニズムは道徳や哲学の仮面を かぶっていますが創造種に逆らう宗教だと 言えますヒューマニズムというのは創造主 の素晴らしさから厳しさやさき神の怒り神 の清さを取り除いて心地のいい愛だけを 強調するものですそのような愛を強調する ので一見素晴らしい理論に感じてしまうん ですでもどうでしょうこのヒューマニズ ムって知らぬ間に今全世界にはびこって ますよねそして教会にも入り込んできてい ます個人の自由を おじよう尊重しようそういうものですその ようなヒューマニズムから来る愛だけを 強調するあまりみんな自由だから自分の 性別も自由で決めるあ自分で決める自分の 性別も自分で決める自由があるのだとか それを認めるのが愛なのだという風潮がが ありますよね最近の問題とされている lgbtqなどの思想の根底にはこの ヒューマニズムがあるんです心地の良い愛 だけを強調してるんですそれを人々はそう だそうだと言い平安だ平安だと言ってい ないでしょう か教会では愛を強調するあまり罪を語ら ないで大丈夫だよ神様はあなたをありの ままで愛しているからとかまさにいい加減 に癒しているんです神様は確かに私たちは ありのまま愛されるお方ですが私たちの 内側にある罪は愛されませんだからそれら の罪を取り除けと言われ 悔い改めよどうするつもりだと言われてる んですよ ね神は悪は悪罪は罪としてはっきりとと さかれるお方ですですから神の愛とは厳し さを含む本当の愛のことです骨と骨が つがったしっかりと結びついた愛のこと です生優しい骨抜きの愛だけを強調するの は間違っていますそこに誠の平安はあり ませ んではそのまま結論に行きたいと思います

まず申し上げたいのは偽予言者とは何 でしょう本当の偽予言者との違い本当の 予言者との違いを考えてみたいと思います 偽予言者の特徴とはこうです偽予言者とは 先ほど申し上げました人にとって都合の 悪いものは省いて語るんですすると残る ものは何でしょう神は愛だていうことに なりますその愛を吐きなえて語るんです つまり人の視点で 考える都合の良い神様ということになり ますしかし本物の予言者というのは神の 視点で人間について語りますだから エレミアは言いましたあなたがたは表面的 には神を礼拝してるけどそれは偽りである と空っぽであると内側から悪が湧き出て いるあなた方の罪を神は絶対に許すことは なさらないとそうエレミアは語ったんです 神は骨と骨がつがっているように人との 強固の交わりを求めているからこそ イスラエルの民の悔い改めを望んでいるん だとエレミアは厳しく語りましたエレミア は6章8節にあるようにこらしめを受けよ と神の視点から語ったんですだから エレミアは嫌われてしまいました一方愛 だけを語り簡単に平安だと言っていた偽 予言者が喜ばれたんですこらしめとはどう いうものでしょうか当然痛みが伴います 楽しいこらしめとか喜び溢れるこらしめ ってないですよねまた悲しみも伴いますだ から人はそれを嫌がるんです拒むんです 人間関係のトラブルや痛みや苦しみ病気 などを私たちは受けたくありません私たち は神のこらしめを極力受けないようにと 願います私たちは意大使平安を望みます辺 の23遍で誠の執事会であられる主は 私たちを憩いの右に伴われるとありますが その憩いとは平安のことですよねでは憩い はどこにあると聖書は言ってるでしょうか エレミア書6章の16節前半今日のキー バスですお読みします主はこう押せられる 四つ辻に立ってみ私昔からの通り道幸いの 道はどこにあるかを尋ねそれを歩んで あなた方の意を見い出せとあり ます聖書は意つまり私たちの平安は昔から の通り道にあると言っています昔からの 通り道にその幸いの道があると教えてくれ ているんですでは昔からの通り道とは何 でしょうどこにあるんでしょうか それはつまり昔歩んだ道のことですよね それは聖書を見れば分かります昔の人々 から学べそして考えてみよと言われてるん ですどんな時が幸いだったでしょうか イスラエルの民から学ぶことができます それはまさにエジプトから脱出したその時 公海がまたに別れた時食べ物も飲み水も

なかった荒野での40年間その時が だったんではないかと言われてるんです そのような時主が共にいてくださったこと を民は実感していまし た昼は雲の柱夜は火の柱で主が共にいて くださった時イスラエルの民には魂に 安らぎがあったんですそれこそが幸いな道 を歩んでいた時なんですしかし時が過ぎて 人々は平を別のものから得ようとしました 人間的な考えから目に見える状況から平安 を得ようとしましたつまりあれがうまく いっているとかこれがうまくいったとか 健康だとか物質的に満たされたなどその ようなことによって平安を得ようとしたの ですでもそれが私たち人間なんですね しかし聖書の歴史を見るならばそのような ことで人は 意を与えられていないんですなぜなら 私たちは平安を求めて状況を整えようと 努力しますが実際状況が整うといつも神様 から離れてしまうからです神から離れ配信 の罪を犯し結果誠の安らぎを失ってしまう んです人が平安を与えられる方法はたった 1つですそれは天地万物をお作りになった 神様と共にいる時ですたえそこがどのよう な状況でも私たちは誠の安らぎ魂の平安を 得ることができるん です四辺23遍4節をお読みしますたえ死 の影の谷を歩くことがあっても私は災いを 恐れませんあなたが私と共におられます からあなたの鞭とあなたの杖それが私の 慰めです 私たちが求めるものというのはいつでも 状況による平安ではないでしょうかもし 私たちが誠の平安が欲しいのであるならば それは状況からは与えられないんだと言わ れてるんですイスラエルの歴史がそれを 教えてくれていますそのようなわけで イスラエルの民に神はこらしめを受けよと 言われているんです神は愛するものを こらしめ鞭打たれるお方です当時の イスラエルの民はバビロニアによって人々 の肉の欲求を砕かれましたしかしそれは誠 の平安をもたらすためでした今の時代の 私たちへも主は同じようにして私たちが 本当に神に立ち返り主と共に生きるように と導いてくださるんですですから時々神は 私たちの肉の求める平安を打ち壊すとされ ますイエス様の十字架がそれを物語ってい ます人の計画や肉の欲に挫折を与えるもの が十字架なんです十字架は人の考えを人の 考えと計画を虚しくするものでした当時の 弟子たちはイエス様が王となって イスラエルを統治してくださるという考え を持っていましたがそのような計画を

虚しいものとされましたしかしその十字架 こそが本当の愛なんですそのこらしめを 用いて私たち人間に誠の平安をもたらして くださったんですですが私たちが受ける はずのそのこらしめさえもイエス様が 代わりに受けてくださいましたそのイエス 様の苦しみ痛みが私たちを誠の平安に導い てくださるん ですアーメンでしょうか私たちの歩みには 時々主からのこらしめがありますがそれを 受け痛み苦しみの中で主と共に歩む時 私たちは誠の平安を見出すことができるん ですキーバースを読んでお祈りします エレミア賞6章16節 前半主はこう押せられる四つ辻に立って 見渡し昔からの通り道幸いの道はどこに あるかを尋ねそれを歩んであなたがたのの 意を 見出せお祈りいたし ます愛する天の父なる神様あなたの皆を 賛美いたします2024年という新しい年 を始めることができ感謝いたします今年も エレミア書からの学びを続けられる恵みを ありがとうございます遠い昔にイスラエル の民に語られた御言葉は決して古くなる ことがないっていうことを今日も改めて 学ぶことがができましたそれは人間がいつ の時代も同じように罪の中にいるからだと いうことも同時に実感いたします私たちに はどうすることもできない罪がありまた 都合が悪いことは聞きたくないという自己 中心の思いがありますその罪を許して くださると約束して くださり見捨てることなく何度も何度も 私たちへ語られてることを感謝いたします 終わりの時代と言われている今ですが神の 厳しさ清さを含めた誠の愛をいつも私たち へ聖書を通して教えてください御言葉に より私たちの思いづらい心配をあなたへの 信頼へとしていくことができますように 導いてくださいこれから始まる目視力の 世界のさきについても私たちが今の時代の 方々へ伝えていけるように強め導いて ください用であり厳しさとを兼ね備えて おられる誠の愛の方主イエスキリストの皆 を通してお祈りいたします メン

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